2019年10月 7日 (月)

「同和」という言葉をめぐって

 本当は専門家が語るべきだろうと思うが、今回の騒動で問題となった同和という言葉を中心に少しだけ。僕らの世代では当たり前でも、今の若い人たちはあまり知らないことなのかもと思うし、極めて党派的対立が強い分野なので、専門家ではない一般人がアウトラインを語る意味は少しはあるだろうと思う。

 もともとこの言葉は被差別部落の環境改善と差別解消を目的とした事業を、差別によって立ち遅れていた生活インフラや都市環境を他の地域と同じような水準にすることで差別を解消しようという意味で同和事業と呼んだことから来ている(追記あり)。地方で個別に行われていたものが、69年、同和対策事業特別措置法として正式に立法化され国策事業になった。10年の時限立法だった。

 多額な予算を投入する国策事業なので、どうしても利権ができる。で、その利権を巡るいくつかの騒動が事件となり同和利権という言葉ができた。一方で、部落解放運動の中で、大きく3つある団体の中でも最大の組織である部落解放同盟は、同和事業利権への傾斜を深めるとともに、過激な糾弾闘争を繰り広げていた。それは、差別的発言をした人を糾弾会に呼び出して一人に対して集団で徹底的に反省と自己批判を迫るというものだった。精神を破壊される者も多かった。この闘争で部落差別にまつわる様々な言葉がタブー化することになる。集落を示す部落という言葉さえ、公では使えない状況になる。やがて、同和という言葉が代替語となる。そして、同和という言葉さえもタブー化するようになっていく。

 映画評論家の町山智浩さんがジャーナリストの佐々木俊尚さんの「高浜町と関西電力の話は同和がらみなのですか…。本当ならこれはまたマスメディアで報じにくい案件に。」という発言に対して「差別的な風評拡散で通報しました。佐々木俊尚はもうジャーナリストを名乗ってはいけないと思います。」というツイートを行った背景には、同和という言葉が、被差別部落の言い換え、もしくは差別的なニュアンスを含む隠語であり、差別性が感じられるようになったという事情がある。一方で、佐々木さんが用いた「同和がらみ」という言葉は、単に同和事業に関わる利権がらみという意味でしかない。(現段階としては、故・森山元助役は後述する部落解放同盟朝田派の方法論を個人で引き継ぎ、部落解放運動を利用して自身の権力を保持してきたのだろうと思う。現在、朝田派は失脚している。その意味では、森山氏が原発立地である高浜町と関わった当初はともかく、今回は同和事業との関わりも薄く、ここ数年においては部落解放同盟と関係がない可能性が高いと思う。)

 10年の時限立法であった同和対策事業特別措置法はその後、3年延長され終了したが、まだ被差別部落の環境改善と差別解消が達成されたわけではなく、地域によっては事業を進める必要があった。そこで、82年、地域改善対策特別措置法(地対法)が施行される。同和という言葉がここで公式には消えることになる。これは同和利権に関係する不祥事や事件、また、前述の同和が部落差別を意味する隠語として機能してしまっている現状なども反映しているのだろうと思う。また、この法律が検討される協議会では、部落解放同盟の糾弾会や同和事業を巡る騒動が議題にあげられ協議会に対して批判を強めていた部落解放同盟にとっても、この時点で同和という言葉がネガティブなイメージを持つようになってきて、同和という名前を冠することを望まなくなっていたのかもしれない。そのあたりの空気感は、当時、活動家として内部から部落解放同盟の運動方針を批判をしていた藤田敬一さんの著書「同和こわい考―地対協を批判する (あうん双書)」に詳しい。本は絶版で入手は古本の出品を待つか図書館で読むしかないが、このサイトに当時の様々な方の論考の貴重な記録が残されている。興味のある方は一読を薦める。)

 ここで、部落解放運動の団体について整理しておきたい。

 今では部落解放運動の団体としては部落解放同盟しか報道されなくなってしまったが、部落解放同盟がその過激な活動によって社会問題を起こしていく中で、その強力な批判者だったのが日本共産党だった。糾弾闘争や積極的な行政への介入による利権獲得は、部落解放同盟の当時の指導者である朝田善之助が提唱した朝田理論によるものだった。団体内の権力闘争で朝田派は主流派から失脚し、以前より穏健にはなったが、部落解放同盟は現在でも糾弾闘争を肯定的に位置づけ、糾弾を否定する言論こそが差別と偏見のあらわれと主張している。この朝田の指導体制に反旗を翻す者たちを日本共産党が吸収する形で、全国部落解放運動連合会が誕生する。一方で、保守系では全日本同和会が存在したが、部落解放同盟同様に暴力による同和利権獲得運動に批判が集まり、同和利権に関わる事件に関与した者を除名、排除する形で新たに自由同和会が誕生。ほぼ自民党系と言っていいだろうと思う。自由同和会は、部落解放運動から階級闘争と天皇制否定を排除する運動方針をとっている。

 全国部落解放運動連合会が共産党系、自由同和会が自民党系という流れで、部落解放同盟が社会党系と見る向きもあるが、厳密に言えば、前者2団体と違い、主体は部落解放同盟であり、社会党は団体が支持している政党に過ぎない。ちなみに、現在、部落解放同盟中央本部が支持を表明している国政政党は立憲民主党である。また、地域によっては自民党を支持するなど、まちまちである。

 共産党系の全国部落解放運動連合会は、日本共産党との結びつきが強く、ほぼ日本共産党であると言っていい。部落解放同盟が引き起こした事件としては、代表的なものはオールロマンス事件八高事件などいくつもあるが、佐々木さんが「マスメディアで報じにくい案件」と触れられているように、マスコミが差別問題として報道に及び腰になる中、事件の真相に迫る批判的な報道をしてきのは「赤旗」を始めとする日本共産党の機関紙だった。週刊誌でさえ、大きな刑事事件になるまでは報道できない状況だった。今回の関電の騒動で、森山元助役の関電や部落解放同盟とのつながりとを報じていたのが日本共産党の理論政治誌「前衛」だったのはそういう背景がある。

 部落差別問題についての日本共産党の見解はどういうものだったのか。

 それは文字通り「同和」である。10年の時限立法としての同和対策事業特別措置法に対して、最も国策の考え方に近かったのは、じつは日本共産党なのではないかと思う。被差別地区と他の地区が同和されたとき部落差別問題は解決されるという考え方で、糾弾闘争、同和利権について徹底した批判を展開した。日本社会でも批判的な空気はあったが、直接言論で批判していたのは日本共産党しかなかったと言ってもいいかもしれない。同時に、その主張は国や世論に近く、そこがまた、急進的な解放運動側からは批判される点でもある。これは、今となってはあまり知られていないことだろうと思う。04年、全国部落解放運動連合会は「部落問題は基本的に解決した」と終結宣言をし解散。発展的に全国地域人権運動総連合と名を変えた。

 82年に施行された地域改善対策特別措置法(地対法)は、02年に期限が切れ、国策としての同和対策事業は終焉。今は地域の状況により、地方公共団体が主体の事業となっている。部落解放同盟は地対法に代わるものとして人権救済法の成立を主張した。自由同和会も同様の主張をした一方で、日本共産党はかつての糾弾闘争に法的根拠を与え、新たな利権になる懸念が大きく、国家による言論統制につながるとして一貫して反対の立場をとっていた。

 今回の騒動で気になったのは、同和利権との関連は大阪ではすぐに想像がつくが、同和問題に馴染みのない東京ではいまいち想像がつきにくいという意見が多かったことだ。それには理由がある。それは東京には歴史的に差別がなかったからではない。多くの都市が差別解消のために同和事業を進めてきた中で、東京都は一貫して「東京には部落差別問題は存在しない」という立場だったからだ。革新系の美濃部都政になって差別問題に取り組むようになるが、その頃には急速な都市化によって流動化し、ある程度の同和がなされてきたという事情がある。また、各団体が他地域ほどの影響力が持てなかったことも影響はしているだろう。

 同和という言葉を巡る騒動で思うことは、同和という、本来はニュートラルなはずの言葉に無限の含みを持たせて差別認定することで、その領域をアンタッチャブルにしてはいけないということだ。一般の人々が語ることが禁忌となれば、その禁忌を破り語る権利が自分たちには特権的に与えられていると主張する党派による一方的かつ啓蒙的な歴史しか知ることができなくなる。それは誰もが望まないだろう。

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 追記:

 同和という言葉の起源をさらに辿ると、2つの言葉に行きつく。和衷協同(人々が心を同じくして共に力を合わせ、仕事や作業に当たること)の略と同胞一和もしくは同胞融和(昭和天皇即位の勅語「人心惟レ同シク民風惟レ和シ」の意をとって熟語化したもので、民心の和合の願いが込められている)の略としての同和だ。企業名によくある同和の多くは前者で、同和事業の同和は後者である。

 同和事業の文脈における同和はもともと融和と呼ばれていたが、社会事業団体である中央融和事業協会が昭和16年6月に 同和奉公会と名称を改めてから広く同和と呼ばれるようになった。ちなみに、中央融和事業協会は勢力を拡大していた水平社運動の弾圧のために「同胞相愛の趣旨に則り旧来の陋習を改め国民親和の実を挙」げるという目的で内務省社会局によって設立。融和から、より人々を団結されるという意味合い、つまり、今風な言葉で表現すれば同調圧力の強い同和を使用した同和奉公会への名称変更は、戦時下で"一億総進軍の急需"にこたえる必要性が出てきたことによる。名称変更により、水平社運動の弾圧とその対抗運動から、より多くの国民を戦争遂行に動員するため団体の色合いを強めていく。終戦後、同和奉公会は解散した。

 戦後、同和対策特別措置法ができたことで水平社運動を起源とする部落解放運動は同和という言葉を同和事業とともに、他の地域と同水準の社会インフラと都市機能の実現を示す言葉としてニュートラルかつ運動の根幹として肯定的に受容していく。しかし、同和という言葉には歴史的経緯から戦争の影が見えるし、その根源において融和もしくは同和という言葉が、とりわけ弾圧の対象となった水平社運動を受け継ぐ部落解放同盟にとって初めから否定的な意味合いを帯びていたことは指摘しておきたい。

 幸いこの原稿は多くの方に読まれ、読まれた方の中には同和は同胞融和の略であることの説明がないことに疑問を持たれた方もいた。確かにその説明はあっていいと思った。ただ、説明するとなるとある程度の詳しさも必要になる。同和奉公会の解散から同和対策特別措置法の施行には時間的な切断があり、もともとの同和という言葉の由来と経緯にまで踏み込んだ考察は、水平社の流れを持つ部落解放同盟の歴史的なインサイトに触れることになる。それは、日本の部落解放運動を語る上で重要にはなるが、本稿はある党派性を持った啓蒙的歴史ではなく(それはそれぞれの党派が語るべきこと)、戦後の部落解放運動全体を視野に入れてアウトラインをドライな視点で語ることで、同和という言葉を知らない人に向けて、主に戦後における意味合いと文脈の理解の手助けとするという目的があり、その目的から逸脱するので、あくまで補足として追記した。

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2019年9月14日 (土)

オムレツの謎

 ウェブで『「今残さないと、調理文化が消える」 食研究家たちが支持するレシピ本、危機感から制作』という記事を読み、その関連で、なんとなく食べ物のことを考えていて、ふと、昔、母がつくってくれたオムレツのことを思い出し、

僕の母は甘く煮た牛肉そぼろが中に入ったオムレツをよく作ってくれて、20歳くらいまではオムレツは中に肉そぼろが入ったものと思い込んでいたけど、それは国が進めていた栄養運動の中の推奨レシピだったということを最近知った。

 と、Twitterでつぶやいた。すると、珍しくいいねやリツイートが付き始めて、ああ、みんなもこの牛肉そぼろオムレツを食べていたんだよなあ、思い出でつながるTwitterっていいよなあ、なんて思っていたけど、徐々に、さて、どこで知ったんだろうと気になりだして、検索したりしてみるも手がかりが見つからず、まあええか、寝るか、と布団に入った瞬間に「あっ、朝の料理番組で土井善晴先生が言うてはったわ」と記憶のカケラが見つかって、さっそくググってみたら、あった。

 土井先生は「昭和オムレツ」と名付けておられた。テレビ朝日『おかずのクッキング』2018年3月第5週放送回で、土井先生が「昔ね、みんなに栄養のあるもんを食べさそうと、フライパン運動というのがあったんですわ。洋食とか中華とかイタリアンとか。そういうもんを子供のためにつくりなさいよというわけです。その中のレシピにこれがあってね、流行ったんでしょうね。僕らにとっては懐かしい味やね」的なことを語っておられたと思う。動画は見つからなかったけど、記憶ではそんな感じ。

 で、その運動はいかなるものなのか、とさらに調べてみると、

1956年に厚生省の指導のもと日本食生活協会は「栄養指導車」8台を導入。10月10日日比谷公園で盛大な出発式を挙げる。世の言うフライパン運動の始まりである

日本人の粉モン好きの陰に潜むフライパン運動とは?/パンケーキ総研』より引用 

 1954年7月にアメリカで成立したPL480法に関連した運動だったとのこと。この法律は正式名称は農業貿易促進援助法ではあるけれど、余剰農産物処理法とも呼ばれ、最も有望な市場と見られた日本がその標的にされた。つまり、半ば押し付けられた米国産の余剰農産物の解決と米国農産物輸出拡大のためのマーケティング戦略の一環でもあったということだった。

 ま、それだけでなく、当時の厚生省にも、このPL480法を契機にして、和食中心から洋食の普及により栄養に偏りのある食生活を変えたいということもあったのだろうし、そのおかげで今の多様で豊かな食生活もあるわけだから、マーケティング戦略は大成功と言えるだろうけど、でもまあ引用のブログにあるように「米主食では栄養不良になる」という根拠の薄いネガティブキャンペーンもあったらしく、関連書を見ると日本固有の食文化の破壊という観点からの批判が多いようだ。

 僕の母が、このフライパン運動のキッチンカーで学んだのか、それともこの運動によって普及したレシピを見てつくったのかは、もう知るすべはないけれど、土井先生が「昭和オムレツ」と名付けた牛そぼろ入オムレツは、僕らの世代の多くの人にとって懐かしい味になった。

 2014年に父が亡くなり、続いて2015年に入院していた母も亡くなった。そう言えばと、大阪滞在中に見様見真似で作ってみたら美味しかった。大阪に住む妹は「いっしょの味やん。おいしいわ。なんで作れるの?お母さんに教えてもうたん?」と言っていたけど、誰でも作ることができる簡単なレシピだから、まあ、誰が作ってもこんな味にはなるのではないかな。米主食の習慣を変えようというキャンペーンから生まれたメニューだけど、このオムレツはごはんによく合う。

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2019年9月12日 (木)

「多弁マーケ」の副作用

 9月12日の朝、ヤフーがZOZOを買収するというニュースがあった。この買収については、ヤフーのEコマース事業の強化という発表があったものの、憶測記事も含めてほとんどノーマークだったので驚きを持って迎えられた。前澤友作氏は社長を辞任することになった。現在(午後6時過ぎ)、会見が開かれている。Tシャツ姿で吹っ切れた表情が印象的だ。AbemaTVの生中継を観ているが、前澤氏からは沢田宏太朗新社長の紹介に終始し、当然ながら今後の経営に影響を与える重要な発言はなかった。二部で個人的な話をするとのことだが、ここでは前澤氏の個人的な事柄は直接関係しないので、このエントリーを投稿することにする。

 同社のカリスマ経営者が経営から離れることがZOZOにとってどう影響するのかは今後を見守るしかないが、ZOZOの広告・マーケティングを注意深く追ってきた者として、ここまでの流れは必然だったという思いがある。新刊『超広告批評 広告がこれからも生き延びるために』池本孝慈著(財界展望新社)に収録されているZOZOについての論考を一部引用してみたいと思う。

 この論考で〈前澤前社長には企業が持つべき倫理観と、広告戦略の再考が求められていることは間違いない〉と書いたが、ヤフーによるTOBでのZOZO買収と、前澤社長の辞任及び個人所有株式35%分の30%分(現在の時価換算で約2400億とのこと)を手放し、ほぼ完全に経営から離れることでそのことが果たされるとは思いもしなかった。

 個人的には、ベンチャー企業だったZOZOの成長に破天荒な前澤社長の経営手法が果たした役割は大きいと思うが、一部上場の代表的企業となり、巨大な組織になった今、その手法に限界が来たのではないかと思っている。そういう意味では、今回の決断はさらなる拡大と成長を目指すZOZOにとっても前澤氏個人の新たなチャレンジにとっても最適解なのではないかと考えている。なお、以下引用の文章の執筆は2019年3月であることを予めお断りしておく。

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 2018年10 月1日、日経新聞に〝妙〟な広告が掲載された。文化祭のような軽いノリのスナップ写真に映る若い社員たち。そのいくつかに笑顔で映る男性こそ、ZOZOの前澤友作社長である。

 広告のコピーは〈拝啓、前澤社長。〉ファッション系ECサイト「ZOZOTOWN」を運営するスタートトゥデイが現社名に変更する際に出稿したものだ。

 広告の長い文章を要約すると、〈社長が次々と巻き起こす話題や騒動〉に呆れ果てていたが、〈宇宙へ羽ばたこうと〉〈興奮しながら夢を語る〉前澤社長を見て、自分たち社員も頑張ろうと思った、という内容だ。前澤社長への崇拝が恥ずかしげもなく描かれた、徹底的なまでの内向き思考。当時は単に幼稚で気持ち悪い広告だという印象だったが、今となっては現在のZOZOが置かれた状況を予言しているように思える―。

 1月末、ZOZOは3月期経常利益を19 %減益に下方修正することを発表した。しかしそれよりも耳目をひいたのは、前澤社長が〈本業〉への集中を理由に、しばらくツイッター投稿の休止を宣言したことかも知れない。

 前澤社長と言えば、女優・剛力彩芽との交際を公言したり、ツイッターでプロ野球球団を経営したいと唐突に呟いたり、月旅行計画をぶち上げるなど〝やりたい放題〟の人物として、メディアで取り上げられるのが常だった。

 しかし広告視点で見れば、その奔放さは経営目的を達成するために綿密に設計された広告戦略、広く言えば、前澤社長によるコミュニケーション戦略に従って忠実に振る舞われてきたように見える。

 なぜか。ここ数年、ZOZOはファッション分野において一気に覇権を握る、その一点にあらゆる経営資源を注ぎ込み、拡大路線をひた走ってきた。その目的を達成するために設計された広告戦略、コミュニケーション戦略こそ、前澤自身の「メディア化」だった。

 当然ながら急速な拡大路線の前では、企業に求められる倫理や十全な準備は足枷となる。しかし、時代の挑戦者たる前澤社長ならば、多少の倫理的逸脱や不備があっても許され、応援されることになる。結果、企業が考慮すべき倫理や責任が特別に免罪されるという現象が起きる。それが、「前澤メディア化戦略」の果実である。

 象徴的なのが、17 年にテレビCM等で主に若者向けに大々的に広告を打った「ツケ払い」だ。商品購入の2カ月後に代金を支払えばいいというもので、つまりはローンサービスだが、当然、安易な利用が社会問題を引き起こし兼ねない性質のものだ。実際、多くのECサイトも同様のローンを採用、提供しているが、そんな懸念からか大々的な広告は行っていない。

 しかしZOZOは「ツケ払い」という品のない言葉で煽り、積極的な広告戦略に舵を切った。悪影響があろうが自分たちの知ったことではないということだろう。

 今年の正月、前澤社長は自身のツイッターで〈総額1億円のお年玉〉と題し、100名に100万円を現金でプレゼントするキャンペーンを行った。〈(ZOZOの)新春セールが史上最速で取引高100億円を先ほど突破〉したことの〈感謝を込めて〉としたが、あくまで前澤社長の個人資格という名目だった。

 しかし、これも「ツケ払い」を行った心理と構造は同じである。

 本来なら、企業がこうしたキャンペーンを行う場合、様々な広告規制を受けることになる。公正取引委員会の制約や株主や消費者の目もある。だから「個人で」なのだろうが、ツイッターで同様の例がないから止められる理由がなかっただけで、その行為は極めて〝グレー〟である。

 つまり〝脱法的〟なのだが、メディアでは称賛の声が目立った。つまり、脱法性への疑念を英断という評価に変えたのが、この場合のメディア化戦略だったのである。同キャンペーンはテレビで盛んに報道され、前澤社長はリツイート世界記録を樹立するに至った。

 これを企業のキャンペーン=広告と見た場合、その費用対効果は絶大である。現状、これほどコスパが高い広告は真っ当な手法では不可能だろう。こうしたコミュニケーション戦略は、急成長中のZOZOの最大の武器であった。社会的責任のために考慮すべき、あらゆることを免罪する禁断の〝打ち出の小槌〟だったと言える。

 しかし、そこには副作用がある。前澤社長が一度呟けば、社会に影響を与えられるが、当然、その即効性はマイナスの部分をも露呈させる。そして、その副作用の影響は社内においても現れる。社長と、それを崇拝する社員をベースとした甘い関係は熟慮の育成を阻み、前澤社長以外の外部社会への配慮を消し去ってしまうことだ。

 典型例が「ZOZOスーツ」の失敗と3月期経常利益の下方修正の主たる要因となった「ZOZO ARIGATO」と名付けられた有料会員制度だろう。

 ZOZOスーツは無料配布された白い水玉模様のついた全身タイツを着用し、スマホで撮影することで身体のサイズが読み取れ、各人にぴったり合う「オリジナルアイテム」が手に入るという触れ込みだったが、ビジネススーツの不具合とその修正に伴う出荷遅れが問題となり、前澤社長自身「将来的に廃止予定」とツイートするなど、散々な代物であった。失敗の理由は単純明快で、テクノロジーが未熟なため、まだ世に出せる代物ではなかったからだ。

 また、ZOZOARIGATOは全ブランドが割引になる会員セールがブランド価値の低下につながると、オンワードをはじめとする大手ブランドの離反を引き起こした。

 前澤社長がツイッター休止宣言をした直後、下がり続けていた株価は急騰したが、そこで示されたメッセージは〈チャレンジは続きます。必ず結果を出します〉という、相も変わらず何の具体性もない掛け声だった。これが何らかのアクションを期待していた株主の失望を呼び、再び株価は下げに転じた。当然だろう。反省と対策がそこには微塵もなかったからだ。

 前澤社長には企業が持つべき倫理観と、広告戦略の再考が求められていることは間違いない。

(初出『ZAITEN』2019年4月号)

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 月刊経済情報誌『ZAITEN』での過去の連載を収録し、新たな論考を大幅に加えた書籍『超広告批評 広告がこれからも生き延びるために』池本孝慈著(財界展望新社)が発売になりました(書籍の詳しい紹介はこちら)。
 褒める批評を封印し、あえて問題広告を対象とすることで、現代日本の広告や社会が持つ課題を根源的かつ鋭角的に提起することが出来たと自負しています。

※このエントリは財界展望新社の承諾を得て、発売中の新刊『超広告批評 広告がこれからも生き延びるために』池本孝慈著(財界展望新社)から転載しました。

(9月13日追記)

 その後の会見は前澤氏の独壇場だった。さすが風雲児と思った。社長の退任をこんなエンターテインメントにしてしまえるのは前澤氏だけだ。このエントリーは、スタートトゥデイ、ZOZOへと規模が大きくなるにつれて独自の広告・マーケティングがどのように機能し、その限界が見えてきたのかを考察するもので、見出しにもある〈多弁マーケ〉(ちなみにこの〈多弁マーケ〉という言葉はZAITEN編集部が作った)の副作用、今となってはその限界を示すものだった。会見を生放送で見た印象で、これ以上、このエントリーに関係する発言は見られないだろうという予感は当たっていた。しかし、個人的には非常に興味深いものだった。こう言っても信じてもらえないだろうけど、前澤氏は人間的で好きだ。人間的にどうであろうと、そのことをなるべく考慮せずに批評する。それが僕の広告批評についての矜持でもある。

 時代の記録として、ここにその後の会見を簡単に記しておきたい。huffingtonpostの記事から引用。

涙を浮かべて「21年間、本当に、至らぬ僕についてきてくれて、時には泣き、笑い……」と社員への思いを語る場面も

「ああやばい」と涙で言葉を詰まらせ、「あとで社員に伝えることにします」と苦笑。「21年間本当にありがとうございました」と挨拶を締めくくった

ZOZO社長を退任した理由について「宇宙にどうしても行きたい、ということで、準備や宇宙に行くためトレーニングに時間を割くことが多い関係で、今回、すっきり辞任させていただくことになりました」と明かした

もう一つの活動として、「自宅の6畳一間で事業をはじめ、自分の手で事業を作り上げた感動があって、あの感動をもう一度ということで、もう一度事業を作ってみたい」と新たな事業への意欲を述べた

  前澤氏は〈ヤフー側から続投を求められたが「成長するための経営体制は何かを考えた結果、僕が退く」と退任を決意〉とも語っている。そう自らが納得し決断させた孫正義氏の影響の大きさを再認識させられた。〈Let's Start Today〉という手書き文字にピースシンボルが添えられた孫氏は黒、前澤氏は白の揃いのTシャツを来て肩を組む姿が印象に強く残った。

 (9月13日追記2)

 前澤氏が孫氏、川邊氏に向けて〈孫さん、川邊さん。やんちゃでいたずら好きなZOZOを、実は素直で繊細なZOZOを、そして可愛い可愛いZOZOを、これからどうぞよろしくお願いします。〉とツイートしていた。それは経済界はZOZOを子供のままでいさせてくれなかったという意味でもあるのだろう。僕には大人が“子供のずるさ”を戦略的に使いこなしていたようにも見えた。冷たいようだけど。その限界が来た、ということ。それは日本経済の健全さを示すものでもあったのだろうと思う。限界を知りつつ見放さなかった孫氏の凄みを感じた。孫氏は前澤氏にかつての自分を重ね合わせているのかもしれない。と同時に、変わった自分と変われなかった前澤氏についての複雑な思いもあるのだろうと思った。

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