2015年9月 7日 (月)

「ラジオってどうやって聴くんですか?」

 嘘みたいな話ではあるけれど、人気アイドルがラジオ番組をはじめるというようなニュースが出たときなんかに、ラジオ局や家電量販店で若い人から「ラジオってどうやって聴くんですか?」という質問が寄せられるらしい。また、若い人に「ラジオって聴いてる?」と質問すると「聴いてる、聴いてる」と答えるので「ラジオで?それともradikoで?」と尋ねると「うんん、YouTubeで」。まあ、どちらの話も笑い話ではあるけれど、あながち嘘ではないんだろうなあ、とも思ったりします。

 これは前に書きましたが、現在のラジオの聴取率は関東広域圏で6%前後。曜日や時間帯によって変わりますが、大雑把に言えば、100人いれば6人くらいラジオを聴いている計算になります。ちなみに、ラジオの聴取率調査が始まった2002年の聴取率は関東広域圏で8.3%でした。現状をどう評価するかは、数字の読み方を知る知らないによって違うでしょうし、立場によっても異なるのだろうと思います。

 よくラジオの聴取率はradikoらじる★らじるを含まないよね、という話がでるんですが、それは間違い。受信機に機械を取付けるテレビと違って、ラジオは個人に質問する形式なので、家で聴いても、お店で聴いても、歩きながら小型ラジオで聴いても、radikoで聴いてもラジオを聴いたことになります。なので、radikoやらじる★らじるができてラジオ復活、みたいな話は、まあ、かなり盛った話で実際とは違います。それは、あえて言えば、これからの話。個人的には大いに期待はしていますが、今のメディア環境の中でのラジオメディアの地位低下は、複層的な問題がからみあっていますから、これはいろいろ時間がかかりそうな気がしています。

 現象として言えば、聴取率が3%から4%下がると、冒頭のような「ラジオってどうやって聴くんですか?」というようなことが起きる、ということなんですね。こういうことが起きるということは、かつてラジオを聴いていたのに今は聴かなくなってしまった人の中にも、潜在的にあるインサイトだということで、「ラジオってどうやって聴くんですか?」という質問に答えることは、それなりに意味があることだと思います。

 では、どう答えるか。考えてみると、これはほんといろいろあるんです。多種多様。しかも、どの聴き方も一長一短。それは、ラジオのメディアとしての短所であると同時に、後述しますが、ラジオメディアが放送メディアとして、テレビと比較してもかなり先を行った先進メディアであることの証拠でもあります。そして、メディアとして見た場合に、それこそがラジオメディアの面白さでもあると思ったりします。個人メディアであるブログの特性を活かして、自分のわかる範囲で、かつ、かなり独断と偏見を交えながら、いろんなラジオの聴き方を書いてみたいと思います。

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 ラジオで聴く。

 これは定番中の定番で、今年、日本でラジオ放送がはじまって90年ですが、これまでもずっと行われてきたラジオの聴き方です。

 しかしながら、今、この聴き方が、とりわけ都心部においてかなりきつい聴き方になってきています。いわゆる難聴取問題です。特にAMに顕著で、コンクリートのビル内ではちゃんと聴けないこともかなり多く、その一方で、手頃な値段で買える、いわゆる安いラジオ受信機の電波受信性能は下がってきている傾向にありますので、ラジオを買ったはいいけど、こんなんじゃまともに聴けないじゃないか、ということが十分あり得ます。

 じつは、ラジオ各局は、この電波受信をめぐる環境の悪化に苦しめられてきました。以前ならうまく聴けたラジオが今、うまく聴けなくなってきている。そのことは、経営的な観点からも、防災的な観点からも、かなり問題でした。

 そこで、以前はラジオもテレビと同様に地デジ化しようという動きがありました。デジタル化によって、難聴取はある程度解消はされますが、今度は別の問題が出てきます。テレビと同じで、地デジ化で今までのラジオではラジオが聴けなくなってしまうんですね。それはあまりにもリスクがあり過ぎる、ということで、この動きはなくなりました。その代替として、今、進められているのがAM放送のFM波での同時放送です。FM補完放送と呼ばれ、地デジ化で空いた1chから3chの周波数を使います。AMはこれまで通りです。首都圏、関西圏などは、この秋以降となりますが、鹿児島の南日本放送を皮切りに、続々とスタートしています。

 どんなラジオでラジオを聴くか、ということを考える際には、このFM補完放送を考慮に入れなければ損をしてしまいます。旧テレビ地上波アナログの1chから3chの音声が聴ける古いタイプのラジオなら、このFM補完放送は聴けますが、テレビの地デジ化以降に生産され、かつ、FM補完放送対応のラジオが出るまでの期間に生産された多くのラジオでは残念ながらFM補完放送は聴くことができません。また、このタイプのラジオは今も数多く流通しています。また、海外製の高級機も、まだ未対応のものが多いです。購入の際は、FMの受信周波数が76MHz〜108MHzになっているかどうかの確認をおすすめします。

 そのあたりを考慮しながら、どんなラジオを選べばよいかを考えてみます。僕は、今のラジオ電波受信環境を考えると、ラジオは多少値が張っても基本性能が高いもののほうがよいと考えています。音質にこだわる、インテリア性を求める、など様々なニーズはあるかと思いますが、ここでは個別ニーズは考えないこととします。また、震災でラジオの重要性がクローズアップされ、できればラジオは備えておきたいという防災的観点も、せっかくラジオを買うのですから考えてみたいと思います。いつも聴く用に1台、防災用に1台というのが理想ではありますが、ちょっともったいないですし。

 基本性能が高い。持ち運べる。いざというとき電池で動く。この3点を考えておすすめは、これ。

 少々デザインが古いですが、AM、FMともに受信性能がかなり高く、スピーカーも大きく音質もいい。いわゆる普及帯価格の中ではかなりおすすめ。もっと受信性能が高い高級機はありますが、普通に使う分には、これ以上はないのではないでしょうか。もちろん、ワイドFM(FM補完放送)対応。電池でも動きます。えっ、今どきステレオではないの、と思う方もいるかもしれませんが、屋外FMアンテナを設置しないでラジオのロッドアンテナを立てて聴く場合、より雑音のない音で受信できるモノラルのほうが、日常使いではよい選択かと思います。

 でも、デザインが好きではないとか、もっと大きいもの、あるいは小さいものがいいと思う方は、実売5000円から10000円くらいのソニー、またはパナソニック(どちらもラジオ作りに熱心)のものであれば、あまり問題は出ないように思います。

 防災用には、こちらがおすすめ。

 Amazon.co.jpでもラジオでベストセラー1位になっていますね。これがいいところは、同種の防災ラジオと比較しての受信性能の高さ。ラジオは多少値段が高くても、受信性能。これはラジオ選びの鉄則です。ただし、現在のところ注意が必要なのは、現行機はワイドFM対応ではないということ。つまり、これでFM補完放送は聴けません。ちなみに、この機種は手回し発電でスマートフォンを充電できます。こういう気配りは、さすがソニーだと思います。

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 ケーブルテレビで聴く。

 うちはケーブルテレビではないから、どうでもいいや、と思った方もぜひ読んでみてください。ラジオのデジタル化というかつての動きの中で、実現すれば、かなり面白いことになったのではないか、と個人的に思っているのが、このテレビで聴くというラジオの聴き方です。古い地デジ対応テレビのリモコンに、Dラジオというボタンがあるのは、その頃の名残。Dラジオ、つまりデジタルラジオのことです。このテレビでラジオを聴くという方法、インターフェイス的にはまだまだ課題はあるものの、首都圏、関西圏、福岡圏のJ:COMで実現しています。

 利用方法は、リモコンでJ:COMテレビを選曲し、dボタン(データ放送)を押し、そこからラジオ局を選択。少しめんどくさいですが、テレビに飽きたらラジオ、という選択肢ができることは、今後のラジオメディアを考える際に、とても重要だと僕は考えています。仕組みとしては、FM補完放送やradikoと同様、同時再送信です。

 参加局は、首都圏はTBSラジオ、ニッポン放送、文化放送、関西圏は毎日放送、福岡圏はRKB、KBC。いろいろ課題はあるかと思いますが、こういう流れができたことはラジオメディアにとっては未来に向けての大きな一歩だと思っています。ラジオ、ケーブルテレビともに他局も追随してほしいです。

 また、あまり知られていないのは、FM局に関しては、多くのケーブルテレビ局は同時再送信を行っています。残念ながらSTBからテレビ受信機への出力はできないのですが、アンテナ端子(ケーブルテレビ出力端子)とシステムコンポなどのFMチューナーを同軸ケーブルで接続することで、通常のFMアンテナ端子とつなぐ場合と同じように高音質出力ができます。屋外にFMアンテナがなくてもクリアな音質でFMの音楽放送が聴けるのは、かなりのメリットではないでしょうか。

 ※上記AMラジオの同時再送信に関しては、デジタルテレビの難聴取対象地区の集合住宅でアンテナではなくJ:COMのケーブルテレビ回線でテレビを受信している該当地区の世帯であれば、J:COMと有料チャンネルの契約しなくても利用できます。FM放送に関しても同様で、こちらは周波数変換パススルーという技術だそうで、これまでの屋外FMアンテナと同じように同軸ケーブルで接続するだけでクリアな音声で受信できます。配信されている放送局であれば、これまで距離が遠いなどの理由で雑音が入っていた放送局もクリアな音質で受信できるので、FMアンテナからの移行にもメリットはあります。(2015年9月9日追記)

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 radiko(民放ラジオ)とらじる★らじる(NHKラジオ)で聴く。

 ネットの常時接続環境が安定していれば、IPラジオ同時再送信という方法は、もともと難聴取問題の解消のためにできたものですので、都心部に難聴取環境が多い現在、もっともラジオを安定して聴くことができる方法です。スマートフォンでは、各サービスともアプリをダウンロード。PCではサイトにアクセスすることで簡単に聴取できます。

 物理的な制限がある電波ではなく、ウェブを利用したデータ通信を利用していますので、原理的にはどこにいてもネット環境であれば受信可能ですが、民間放送ラジオ局が参加しているradikoの場合は、放送免許における放送エリアに近づけるために、受信側のIPアドレスで都道府県を判定しエリアを決定しています。大阪にいれば大阪府と判定されます。放送免許による放送エリアにしたがって受信可能ラジオ局をリストアップしているので、大阪府でエリアによっては電波の受信が可能で普通に聴くことができるKBS京都や京都のα—STATION、和歌山放送などはリストには出てきません。地域によっては、地元局1局、放送大学、短波のため放送エリアが全国であるラジオ日経の3局4チャンネル、もしくは地元局がradiko不参加の場合は、地元局がなく放送大学とラジオ日経の2局3チャンネルしか選択できないこともあります。一方、東京の場合は、12局13チャンネル、大阪の場合は、10局11チャンネルの選択肢があります。

 ※後に調べると違っているようです。例えば、放送免許ではラジオ関西は兵庫県県域、アール・エフ・ラジオ日本は神奈川県県域ですが(参照)、大阪府、東京都でリストアップされます。また放送サービスエリアで厳密に区切られているようでもなさそうです。各局の方針や調整などもあるのかもしれません。(2015年9月9日追記)

 上記の理由により、一言でradikoと言っても、地域で温度差があることは否定できません。この情報の地域格差は、広告モデルの限界といっていいだろうと思います。一人あたりの放送局数は、自分の住む地域の広告市場の大きさに比例してしまいます。一方、広告市場に依存しない公共放送であるNHKが聴取できるらじる★らじるは、全国どこにいても仙台、東京、名古屋、大阪の放送局を選ぶことができます。

 また、radikoのIPアドレスを利用した地域判定はWiMAXなどのWiFiを使った移動通信系ウェブ接続サービスではうまく機能しません。接続した際に任意で選ばれる基地局で地域が判定されてしまい、東京都にいても大阪府や山口県で判定されてしまったりすることがよくあります。これは技術的には回避不可能とのことで、希望の地域判定が出るまで根気よく接続し直す以外手がありません。地域判定のあるradikoの大きな弱点のひとつとなっています。

 大きな利便がありつつも弱点もあるradikoですが、昨年4月から画期的なサービスが始まっています。月額税別350円がかかりますが、エリアフリーで全国のラジオ放送局が聴けるradikoプレミアムです。全国どこにいてもプレミアム参加局が聴取可能で、2015年9月現在、75局76チャンネルが選択可能です。このサービスが画期的なところは、地域における情報格差の拡大という広告モデル固有の問題について、有料サービスではあるけれど、ひとつの解決に向かう道を示せたということです。これは、BSやCSなどの多チャンネル化が進んだテレビもまだできていないことです。テレビが進んだ方向は、コンテンツのニッチ化により課金モデルとさらなる広告市場の拡大という道でした。これは、放送メディアにおけるラジオメディアの先進性としてもっと誇ってよい、と僕は思っています。

 個人的な意見として聞いていただきたいのですが、もしあなたがラジオをあまり聴いたことがなく、これからラジオを聴いてみたいと思っているならば、初月無料ということもありますので、一度、radikoプレミアムに加入してみてはどうかと思っています。何でもそうだと思いますが、ラジオが好きになるかどうかは、面白いラジオ番組を聴くかどうかで決まります。キー局、準キー局はもちろん、地方にも人気番組はたくさんあります。地域メディアとして育ち、これからも地域を支えていくラジオには、まだまだ知らない楽しさが詰まっています。

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 コミュティFMのIPラジオ同時再送信で聴く。

 コミュニティFMは、県域放送より狭い市町村を放送対象エリアとするFM放送です。当然、放送エリアでしか電波受信はできませんが、ウェブではradikoやらじる★らじる同様、PC、スマートフォンでIPラジオ同時再送信を聴くことができます。CSRA(コミュニティ・サイマルラジオ・アライアンス)のウェブサイトにあるSTATION LISTから地域を選び、聴きたい放送局のオレンジ色の[放送局を聞く]ボタンをクリックすれば再生がはじまります。

 ただ、この公式のサイトはサイト設計が少し古く複雑で使いにくいかもしれません。その場合はサイマルラジオというウェブサイトの方がシンプルで便利。たぶん、こちらもCSRAが制作しているサイトだと思うのですが詳細はわかりません。各局のウェブサイトからのリンクはこちらになっていることも多いようです。使ってみたところ、これまで不具合はありませんでした。

 Windowsでは問題なく使用できるのですが、MacではWindows Mediaメタファイル(拡張子は.asx)を開くためのソフトウェアをインストールする必要があります。代表的なものはVLC media playerで、無料で使用できます。(2015年9月11日追記)

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 radikoとらじる★らじる、コミュニティFMなどのIPラジオをどう聴くか。

 もちろん、PCやスマーフォンにイヤホンを挿して聴くのは王道です。ここでは、それ以外の方法を書きたいと思います。具体的には、自宅の居間や個室、ベッドルームなどでテレビを観るように、くつろぎながらラジオを聴く方法です。

 最も簡単なのは、アンプ内蔵のスピーカーにPCやスマーフォンを接続して聴く方法です。僕はこの方法でラジオを聴くことが多いです。スピーカーはある程度音質のいいものを選んだほうがいいように思います。群を抜く音質でなくてもいいかと思いますが、長時間ゆったりと聴くとなるとそれなりの音質が求められます。これは、いろんなアンプ内蔵PCスピーカーで聴いてきた経験から、そう思います。

 小さなスピーカーは、低音が弱く、高音がシャリシャリしたものが多いようです。音楽を聴くためなら、くっきりと聴けることもあって、それでよいのですが、ラジオの場合は人のしゃべり声が主ですので、どちらかというと中低音がしっかりしたものを選ぶといいようです。あと、USB接続はノイズを拾いやすく、ブルートゥースはまだ不安定な気がしますので、電源付きの接続はイヤホン端子からのアナログ接続がいいように思います。でもまあ、これは好みの部分もありますね。

 BOSEは、低音が強くて音楽を聴くには好みが分かれそうですが、ラジオには相性はいいのではないかと思っています。僕は、この前モデルのCompanion IIを使用していますが、音量は小さな部屋なら十分過ぎるほどあります。僕は、もうひとつ大阪用に上記右のスピーカーを所有していますが、値段に差があるということもありますが、低音が弱く、高音が強く、はっきり明瞭な音なので、ラジオを長く聴くには聴き疲れするような気がしました。あと、やはりUSB給電はノイズを拾います。手軽に音楽を聴くにはとてもいいスピーカーなんですけどね。

 また、こういうタイプのオーディオシステムであれば生活とラジオが溶け込みそうな気もします。ちなみに、これはラジオチューナー付きでワイドFM(FM補完放送)対応です。ラジオとカセットテープがメインだった頃と違って、今はスマートフォンありきなので、こういうタイプのパーソナルオーディオに力を入れているみたいです。せっかく買うのであれば、音楽データだけでなく、radikoやらじる★らじるでラジオを聴くとより生活に活かせるようになるのではないでしょうか。

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 最後に電波でラジオを聴くか、IPでラジオを聴くか、という問題について。

 僕個人の意見としては、それはどっちでもいいと思っています。どっちで聴いたからといって、コンテンツの内容が変わるわけではありませんし。リスナーから見れば、ラジオはどう聴こうがラジオです。この話は、ラジオ界隈とウェブ界隈で起こった大きな出来事があって、これまで放送と通信の文脈で色がついて話されることが多かったけれど、時代がそういう文脈を追い越していったような気がしています。

 ただ、こういう時代になっても変わらないことは、電波、IP双方の特性です。電波は距離や地理的な影響は受けるけれど、受信に関しては無限。一方のIPは距離や地理的な影響は受けないけれど、受信に関しては有限。IPで震災などで一度に大勢の人がアクセスするとサーバがパンクする可能性が高いのです。つまり、防災には電波受信の従来のラジオが今も有効なんですね。実際に、radikoが開始されたとき、TBSラジオの人気深夜番組「伊集院光JUNK」が始まったと同時に、一時的にradikoがつながりにくくなってしまいました。

 これはラジオに興味がなくても、同じように言えることです。電源が使えない。電話やネットがつながらない。そういうときに、電池で長時間使えるラジオは貴重な情報源になります。もしものために電池で動くラジオは持っていたほうがいいし、radikoでラジオを聴いている人も持っていたほうがいいです。

 震災後、ラジオ界隈では、これでラジオの重要性が再認識された、これでラジオは上向きになる、と言われていました。実際、聴取率は一時上がったけれど、すぐに下りました。当たり前ですよね。人々の意識が変わって、ラジオが重要と思ってくれたわけでもなく、そのとき、単純にラジオには聴くものがあった、聴く必要があった、ということなんです。僕はそう思っています。

 防災にラジオが有効。万が一のとき、ラジオメディアは大きな役割を担う。これは本当。電池付きのラジオを持っていたほうがいい。これも本当。でも、だからこそ、ラジオを日頃からたくさんの人が聴いていて、万が一のときにたくさんの役割が果たせるためにも、豊かでないといけないと思っています。だから、電池付きのラジオは持ったほうがいいとは言うけれど、防災に必要で社会にラジオが必要だからラジオを聴け、とは言いません。

 言いたいのは、ラジオは面白いよ、ということ。聴く機会が減ってきたけど、聴いてみると、ラジオはまだまだ面白い。テレビではあまり面白くないなあと思っていたタレントさんがラジオだと味があるなあと思うこともあるし、テレビではかわいいだけのアイドルが、ラジオでは考え方が真面目だったり、少し影が感じられたりすることもあるし。映像がなくて、スタジオにマイクがあればできてしまうラジオでは、今もやっぱり、ものが自由に話せるように思うし。それになによりも、文書にするというフィルターを通さない生な言葉が聴けるメディアだし。

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 僕は単なるラジオリスナーですが、ひとつだけラジオと関わりがあることがあります。それは、NPO法人の放送批評懇談会のラジオ委員として活動していることです。月1回の合評とギャラクシー賞の審査で、相当な数のラジオ番組を聴いています。そういう意味では、比較的、全国くまなくさまざまなラジオ番組を聴いているので、radikoプレミアムもできたことですし、面白い番組はこれからも紹介していきたいと思っています。また、昔は当たり前だった番組の録音についても書きたいと思います。今は、相当敷居が高くなりました。

 放送批評懇談会から告知です。ひとつは、セミナー「ラジオの可能性を考える すべてを語る120分」が9月11(金)に東京の明治記念館であります。ラジオメディアであり、地域メディアでありながら好調なCBC南海放送の両代表が語る攻めの戦略。有料セミナーです。メディア関係者なら応用できることはたくさんあるのではないでしょうか。すでに申し込みの締切日は過ぎていますし、定員を超えているかどうかはわかりませんが、念のために告知します。興味のある方は問い合わせてみてください。定員を超えていたら、ごめんなさい。詳しくはこちらを。

http://www.houkon.jp/symposium/seminar2015.html

 もうひとつは、恒例のラジオ番組を聴く会<ギャラクシー賞入賞作品を聴いて、語り合う会Vol.20>です。今回は大阪でやります。要申込、参加無料です。日時は9月27日(日)で、梅田茶屋町のMBS毎日放送本社です。聴取作品はMBS「ネットワーク1・17」と琉球放送「いちゃりば結スペシャル」となります。こちらは、たぶんまだ席に余裕があると思います。この2つの番組は、この記事の後半に書いたことと関係する番組です。関西の方はぜひ参加してくださいませ。

http://www.houkon.jp/galaxy/news.html

 というわけで、良いラジオライフを。

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2015年7月23日 (木)

感覚的に言えば、ラジオの人気番組の影響力は地上波テレビの不人気番組の影響力とほぼ同じである

 興味深い記事がネットに出ていた。当該記事はフジテレビの不調を揶揄するゴシップ記事ではあるけれど、別の見方をすれば今のラジオのメディアパワーを感覚的に把握する上で、非常に示唆的な記事として読むことができる。

 打開策が見えないまま夏休みシーズンに突入するフジテレビだが、苦戦の影響に『ミヤネ屋』だけでなく、ある番組の名前が上がっているという。

「それが、大竹まことさんの『ゴールデンラジオ!』(文化放送)です。毎週、平日の13時から15時半まで放送しています。放送時間がほとんど同じこの番組は、同時間帯の関東のラジオ局で一番聴取率がいいんです。テレビとラジオで簡単に比較はできませんが、少なからず影響があると上層部は判断しているようです」(番組スタッフ)

視聴率1.1%の『グッディ!』ライバルは『ミヤネ屋』ではなく『ゴールデンラジオ!』だった!? -  日刊サイゾー(2015.07.21)

 本文には「テレビとラジオで簡単に比較はできませんが」とあるが、じつはテレビの視聴率の母数はテレビを見ている世帯ではなく調査対象世帯全体であり、ラジオの聴取率の母数は調査エリアに在住の男女12~69才の個人総数であり、その誤差を捨象して考えれば、テレビの視聴率とラジオの聴取率は比較可能。むしろ、ラジオの母数が個人総数であることから、母数がより大きい分、同じ1%でも人数は多いとも考えられる。ただ、ラジオの場合は、年6回の聴取率調査の時期と合わせて各局がスペシャルウィークと称して特別企画を実施するので、ラジオの数字は実際は少し盛られているとは言える。また、テレビは世帯なので、1カウントでも複数人が観ている可能性も高い。なので、いろいろ総合的に判断して、ざっくりと考えれば、テレビの1%とラジオの1%はほぼ同じと考えていいと思う。

 日刊サイゾーの記事にあるフジテレビ『グッデイ!』の1.1%は、関東広域圏で聴取率首位のTBSラジオの聴取率とほぼ同じ。関東広域圏のラジオ全体が約6%で、その中でラジオの第2のプライムタイム(第1のプライムタイムは朝時間帯)である昼時間帯で最も聴取率がいい番組である文化放送『ゴールデンラジオ』は、軽くフジテレビ『グッデイ!』を超えていると考えられる。これは、別に時代の変化ではなく、一般的に朝や昼時間はテレビよりラジオの方が強い傾向にあって、この記事が煽るようなことでもない。

 ここから見えてくるのは、今、ラジオのメディアパワーは、感覚的に言えば、時間帯を含めてあまり見られていない地上波テレビの低視聴率番組くらいはあるということだ。もっとわかりやすく言えば、ラジオの聴取率1%は、関東広域圏で言えば単純計算でおおよそ36万人であり、ラジオの人気番組は、この1%、つまり36万人をベースに前後した数字と考えるのが妥当。この数字から、ながら聴取や飲食店やタクシーでの聴き流しを考慮して、熱心に聴取しているリスナーを3分の1とかなり低く見積もっても10万人であり、しかも放送メディアであるラジオは、この数字は瞬間の数字ではあるので、ウェブメディアを含めたあらゆるメディアの中で、ラジオ離れが叫ばれる現状においてもなお、このくらいの影響力を持つメディアである、ということは実感できると思う。

 メディアは、自分が接しているメディアが世界のすべてだと考えてしまいがちであり、その中での好き嫌いや希望的観測で未来を語りがちになる。メディアに限らず、現実は現実として理解しておくことは大切。ラジオにかぎらず、メディアを考える際には、こういう実際の力を感覚的に知っておくことは大切だと思う。

 ちなみに、このエントリでは関東広域圏のローカル番組をベースにしていて、全国ネット番組では影響力はさらに上がる。また、地域によってラジオの影響力は若干違う。例えば、聴取率調査を実施している関西圏や北海道圏では、関東広域圏より少しラジオの聴取率は高い。つまり、少しだけラジオ人気が高い。

 さらにラジオメディアを考える際に重要なのは、地域によって市場がまったく異なるという点だ。地上波テレビも同様ではあるが、その地域格差はテレビ以上であり、例を挙げると、東京都がAM、FMの民放ラジオ局が約10局に対して、広島県は2局と、聴取できる放送局の数にはかなりの開きがある。また、地理的条件による違いもある、関東近辺の地方だと東京キー局が聴こえるので地元局はかなり厳しい競争を強いられていたりするが、先に挙げた広島県のように地理的条件により巨大都市圏の影響を受けない地方では、民放がAM、FMそれぞれ1局しかリスナーに選択肢がないケースもあり、そういう地域では独占に近い市場の中で日々の放送が行われている。

 ここでは触れなかったコミュニティFMでも、J-WAVEなどの在京局番組の再送信の割合が多い局は、地域の選択可能なラジオ局の中でもそれなりの存在感を示していて、各地域の市場はもっと複雑になる。メディアとしてのラジオを語るとき、このような地域差があり、一言で「ラジオとは」と語れない難しさがあると思う。

 そういう地域差がある一方で、ラジオメディア全体を見ると、IPストリーミング技術を使ったradikoの有料版であるradikoプレミアムの登場で、月々350円で全国のほぼすべての地上波ラジオが全国どこでもリアルタイムで聴ける環境ができている。これは、テレビ放送がこういうメディア環境になっても実現できないことをラジオが一足先に実現してしまっているということであり、ここにじつは放送メディアとしてのラジオの先進性があったりもする。このあたりのことは、また別の機会に。

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 告知です。私も所属している放送批評懇談会のラジオ委員からイベントのお知らせがあります。ラジオ部門<ギャラクシー賞入賞作品を聴いて、語り合う会Vol.19>が、2015年7月26日(日)午後1時~午後5時、赤坂TBSセミナー室で行われます。今回は「花は咲けども~ある農村フォークグループの40年~」山形放送(大賞)と「風の男 BUZAEMON」南海放送(優秀賞)の2作品です。下記リンクのページにある申し込みの締め切りは過ぎていますが、事務局によると、申し込み多数で席数を増やしたのでまだ若干の余裕があるので申し込みは大丈夫とのことです。有料イベントですが、興味のある方はどうぞ。

 http://www.houkon.jp/galaxy/news.html

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2015年5月30日 (土)

大大阪と大阪都

 即時性が求められるブログ記事としては出遅れた感もあるし、あまり政治に詳しいわけでもないのでたいしたことは書けないだろうと思っていたのでtwitterでつぶやくだけにしていたけれど、時間が経つにつれ、こういう切り口でならまとまった考察としてブログに書いてもいいかなと思ったし、まわりを見渡すと、こういう切り口で論じているものはあまりないような気もしたので、遅まきながら書くことにした。

 率直に言うと、タイミングは逸したけれど、こういう考えがあるということをネットの片隅に記録しておくこともいいかもしれない、何かしらの意義があるのではないか、と思った。明快な意見では決してない。けれども、これまで大阪都構想について言及してきたことや考えてきたことの断片をつなげながら、順を追って、余談を含めて丁寧に記録することで、ひとつの考え方の輪郭を示せるのではないかと考えている。

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 僕が大阪都構想を考えるときの切り口はこう。まずはじめに「大阪都」という言葉はレトリックではないか。そのレトリックは、政令指定都市である大阪市が持つ特殊性に大きく関係しているのではないか、ということ。大阪市の特殊性とは何か。それは、関東大震災後の「大大阪時代」を原点とし、その後、大阪市民の中に残り続ける大大阪幻想を要因とする関係の特殊性のこと。つまり、大阪市の特殊性は、他の政令指定都市にもあてはまるとは言えず、このことが大阪都構想と先の住民投票の結果について語ることの困難さの、ひとつ原因となっていると思う。

 大大阪時代における大阪とは、実質的には大阪市のことだった。大大阪の礎を築いた偉人は二人挙げられる。池上四郎、そして、シティプランニングという英語を都市計画と翻訳し、日本ではじめてその語を使用したことで知られる關一。どちらも当時の大阪市長だ。府知事ではない。当時、大阪市は東京都東京市を上回る日本で最も人口の多い都市であり、世界でも6番目の大都市でもあった。当時の内務大臣から「都市計画の範を大阪に求める」と言わしめ、二人の大阪市長は、大阪城天守閣の再建。御堂筋、地下鉄御堂筋線の建設など、大大阪の発展に力を尽くした。その隆盛の名残りは、今も市内に多く残る美しい近代建築に見ることができる。

 大大阪を主導したのは大阪府庁ではなく大阪市役所だった。つまり、大大阪とは実質的には大阪市のことであり、大阪府のことではなかったという事実、そして、その事実から生まれるメンタリティが、大阪市の特殊性の起点となった。

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 僕は大阪市で生まれ育った。だから、大阪市以外の街、とりわけ大阪府下の他の市町村の人にとってみれば鼻持ちならない大大阪幻想、つまり、大阪とは大阪市のことであるという幻想が市民の体の中に染み付いてしまっていることが痛いほどわかる。余談として一例を示すと、大阪市民、とりわけ古くからの大阪市民にとって、大阪市立大学は他大学と比較できない特別な存在だった。国立の大阪大学に受かっても「あの子は京大には行かれへんかったんやね」と皮肉を言われてしまうけれど、大阪市立大学は素直に「あの子、偉いねえ」と言われる。そんな空気があった。

 それは、古くからの名古屋市民が、東大より名大のほうが値打ちがあるというのと似ているが、大阪市の場合、どちらも大阪という名を冠する大学で単に国立か市立かの差だけである。古くからの大阪市民は、大阪府立大学には強いイメージは持っていない。もちろん、言うまでもないが、この特別意識は、大阪市民以外では通用しない。

 それは、大阪市民の大阪市は特別という根深い意識を示すものだと思う。と同時に、大阪市大に対する特別な意識は、商業、都市開発、行政、法曹、医療などで、大阪市大卒業生たちが活躍しているという事実が担保していることも影響していると思う。例えば、町医者の先生には市大出身の方が多い。他の地方都市、例えば広島大学を出て広島県で活躍するというような構造が、大阪の場合は、市大を出て大阪市で活躍するという構造として、教育機関と社会人としての活躍の場の双方が市を単位にして成り立ってしまっている。

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 数年前、大阪に久しぶりに帰ってきたとき、大阪市に住む仕事の先輩と会ったときのこと。

 「東京はどうや。こっちはさっぱりやなあ。大阪はもうおまえが考えているような街とちゃうで。単なる地方都市や。」

 つまり、とりあえず今までは、大阪は単なる地方都市ではなかったという認識があったということであり、 僕自身もこの奇妙な自負心を共有している。と同時に、こういう自負心を持つ世代は私の世代が最後のような気もしている。原風景としては、東京制作、大阪制作を各日交互に放送していた全国放送のナイトショー、11PM。大阪よみうりテレビ制作の司会を務めていた藤本義一は、大阪都構想とも関わりが深い堺屋太一と並ぶ、大大阪の象徴的存在だった。

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 大阪市民には、大阪は単なる日本の地方都市でないという意識、つまり大大阪幻想がある。そして、大大阪における大阪とは大阪市のことである。これが、大阪市民が持つメンタリティの特殊性だ。名古屋市、神戸市、仙台市などの政令指定都市にも、先の住民投票における重要なテーマである二重行政の弊害はあるとは思うが、その強度においては、事実としても、その心情的な側面においても、大阪とは比較にならないだろうと思う。

 その意味では、大阪都構想が投げかけてきたものは、今後の日本の地方行政について応用しにくいものだとも言えて、そのことが大阪都構想や住民投票について語ることの難しさをつくっていると僕は考えているし、大阪市の住民投票やその結果についての意味を日本の地方行政の話しとして一般化したときに、大大阪幻想という地域独特の特殊性を捨象してしまうことになるだろうと思う。程度の差はあれ、あらゆる地方の話は構造的に同じだと思うが、大阪の住民投票は、まず第一には、大阪という地域の問題であり、その特殊性を考慮に入れて考えたときに、はじめて日本の地方行政の問題としての普遍的な意味を持つ。

 続いて、大阪におけるもうひとつの大きな自治体、大阪府についてはどうなのだろうかということを見ていきたいと思う。ここにも大阪独特の特殊性がある。経済、都市開発といった都市力に力を発揮してきた大阪市。その一方で、大阪府はどういう役割を果たしてきたのか。その視点で大阪で過ごしていた頃の記憶を交えながら考察してみたい。

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 大阪市役所と大阪府庁は、昔から「府市合わせ」と揶揄されてきたような二重行政を続けてきたのか。その答えは、たぶん否だろう。その理由は、大阪府市ともに革新系が首長だった時代に求めることができると思う。大阪府知事が黒田了一、大阪市長が大島靖の時代だ。

 大阪市長である大島靖は、なんば地下街や大阪駅前再開発、大阪市役所新庁舎を推し進めた。大阪市の伝統である都市開発路線。その時、大阪府知事である黒田了一は福祉と文化に力を入れた。つまり、大阪市は産業振興と都市開発、大阪府は福祉と文化という住み分けがあった。ここにも大阪の特殊性が見られる。地方行政を考えるとき、普通は逆だろうと思う。しかし、大阪はそこが逆転していた。大阪府の福祉、文化路線は、当時の記憶を辿っても、大阪市の都市開発同様に、かなり強度の高いものだったように思える。桂米朝、藤本義一、木津川計といった大阪を代表する文化人たちは、大阪市よりも大阪府に縁が深かった。

 余談になるが、大阪府の文化路線で個人的に記憶に残っているのは、大阪府立情報文化センターという存在だ。今はもうないが、小さいながらも、当時としては生涯学習の拠点という役割を超えた存在だった。伝統文化からサブカルチャーまで見据えるやわらかい発想と、大阪を拠点とする文化人たちとのつながり。文化は府の役割、というイメージは、こうした活動からも醸成されていったと思う。その業績の一部は、大阪のブレーンセンターが発行する「新なにわ塾叢書」で見ることができる。

 都市開発の大阪市、文化の大阪府。より広域の自治体が都市開発を担い、住民に寄り添った福祉、文化は小さな行政区が担うという普通の考え方からは逆転した大阪独特の地方行政の住み分けは、豊かな財源がある限りにおいては、独自の文化として上手く機能するし、事実として機能してきた。

 しかし、革新系自治体固有の問題点として、その活発な地方自治体の活動によって、大阪府、大阪市ともに大きな負債を次の世代に残すことになった。それは美濃部亮吉という革新知事を擁した東京都も同じではあったが、大阪の場合は、財政が悪化していったとき、これまで上手く機能していた特殊性が、負の特殊性として表に現れるようになったということが東京都の大きな違いだ。

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 大きな負債を抱え、少ない財源をやり繰りすることが行政の課題のひとつとして加わった。にもかかわらず、東京都のように、その負の遺産を払拭できなかったのか。大阪府と大阪市は、ひとつの大阪として効率的な自治体運営ができなかったのか。外的要因としては、東京一極集中と大阪の地位低下が原因だろうとは思う。でも、もうひとつの原因のとして確実に言えることは、やはり大阪の特殊性が生み出した二重行政であっただろうと思う。大阪共産党は、テレビの討論会で大阪に二重行政は存在しないと主張していたが、ひいき目に見てもやはり無理筋だろう。

 契機は、象徴的にはたぶん大阪府の泉佐野市沖に建設されることになった関西国際空港だと僕は考える。革新政権が終わりを迎え、新しい大阪の行政が動き出したときに生まれた国家レベルの大型開発とそれを契機とした周辺開発の機運。あの頃、僕は大阪の広告会社でなんばシティという大規模商業施設の広告をつくっていた。「関空効果。」というバーゲンの広告をつくって、ニュースに取り上げられたりした。なんばは大阪市のミナミに位置し、大阪市と和歌山市を結び、大阪府の南を縦断する南海電鉄の始発駅だ。その熱気は、大阪府の堺市以南の広域な地域の発展に直結するものだった。それは、大阪府主導の都市計画の重要性を象徴する出来事だったとも言える。

 財政悪化によって文化への支援を縮小せざるを得ない状況の一方で、将来の利益への投資として、大阪府と大阪市が大型開発を競い合うようになっていった。大阪の特殊性としての、府は文化、市は都市計画という住み分けは完全に壊れ、都市計画を担う大きな行政府が大阪に二つ存在することになった。記憶違いもあるかもしれないが、大阪府民、市民から「府市合わせ」と揶揄され始めたのはこの頃からだったと思う。

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 大大阪幻想と、その幻想が生み出した「府市合わせ」という二重行政の弊害。本来であれば、大きな行政区が主に都市計画を担い、より小さな行政区が福祉や文化を担うという地方行政における通常の役割分担を、大阪府、大阪市が担うようになれば、財政の問題はともかくとして二重行政の財政的無駄は解消されるはずだ。話し合えばいいじゃないか。簡単なことじゃないか。それで解決するじゃないか。少なくとも理屈では正しい。

 しかし、これだけの歴史的、文化的バックボーンを持ち、その強固な幻想に従って組織編成し、人材を育成してきた組織が、そう簡単に変われるものだろうか。普通に考えれば、なかなか難しいだろうというのが正直なところだと思う。こういう問題が、僕は大阪の根が深い特殊性だと考える。この特殊性を考えに入れない限り、なかなか先の住民投票の意味を捉えられないのではないかという気がする。シルバーデモクラシー、新自由主義という普遍的な文脈では語りきれないのが、大阪都構想であり、今回の大阪市民を対象に行われた法的拘束力を持つ住民投票だと思ってきた。素朴な理想論では語りきれない根の深さゆえに、歴代の大阪府知事や大阪市長が手をつけようとしなかった問題。それが、大阪の二つの大きな行政府の二重行政だと思う。

 先の住民投票で賛否を問われたのは、大阪市の解体と大阪府下特別区への再編成だった。これは当然ながら大阪維新の会が主導してきた「大阪都構想」の一環でもあった。だから、報道でも「これまで大阪維新の会が推し進めてきた大阪都構想の賛否を問う住民投票」とアナウンスされてきた。大阪都構想とは何なのか。その政治的な意味は、これまで賛成派、反対派ともに多く語ってきたし、僕がこれ以上語ってもあまり意味がないだろう。意味があるとすれば、当時の大阪府知事、現大阪市長である橋下徹が、作家の堺屋太一との共著で発表した『体制維新ーー大阪都』の頃にまで遡った時点では、相当な違和感を持って響く言葉だった「大阪都」という言葉を中心にて見たときに現れる大阪都構想の意味だろうと思う。

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 大阪都構想は、簡単に言ってしまえば、大阪府を東京都のような行政システムに変えるということだ。これまで僕が語ってきた文脈で言えば、意味合い的には大阪市と大阪府という二つの大規模自治体を統合し、大阪を再編成することだろう。それは先の住民投票で反対派から盛んに主張されていたように、この大阪都構想と「大阪都」は関係がない。今回の住民投票が象徴しているように、賛成多数で大阪市が解体され特別区に再編成されても、当面は大阪府下の特別区になるだけのことだ。少なくとも二重行政の弊害の解消という点で言えば「大阪都」はまったく関係しない。

 では、一体、この「大阪都」という言葉は何なのだろうか。

 大阪都構想において「大阪都」という言葉は、その構想の本質に関係しない、もしくは、法的な担保を持たないイメージの言葉だ。しかし、大阪の未来の姿を喚起させる。つまり「大阪都」という言葉は、まさしくレトリックだったのだと思う。そのレトリックは、大阪人が、とりわけ大阪市民が持ち続けてきた大大阪幻想と大きく関係している。一頃の熱狂は、そのレトリックがその機能として発生させてしまう高揚感だったのだろうとも思う。そこに、大大阪時代の復活を夢見る市民も多かったのだろうと思う。

 大阪都構想は、大大阪幻想がもたらした二重行政を払拭するものであることと同時に、低迷に苦しんでいた大阪人に大大阪幻想の夢を与えるものでもあるという二重性を持ち合わせていた。

 一方で、大阪都構想の本来的な意味である二重行政の解消と、健全な地方自治体の運営という点では後退を余儀なくされてきた。特別区運営には東京都の特別区に近い規模が本来必要なはずではあるが、当初の大阪市周辺の市を巻き込んだスケール感のある特別区再編は、堺市長選の敗北によって挫折した。ここで論じる文脈に沿って言えば、大大阪幻想を根深く持つ大阪市民にとって強く喚起させる「大阪都」というレトリックは、大阪市以外の堺市の人たちには、その訴求力は弱くなるのは当然で、結果的に、堺市民は大阪都構想に乗らないことを選択した。

 また、言葉の力を中心に見たとき、レトリックはそれがレトリックである限りにおいて、宿命的に賞味期限を持つ。時間経過に従ってレトリックの力が弱まっていくのは当然の帰結で、それは、民意を問うとして市議会を解散し行われた2014年の大阪市長選の投票率にも現れていた(2011年は60.92%、2014年は23.59%)。

 また、住民投票は、大阪市議会における大阪維新の会と公明党の政治的な駆け引きによって生まれた、言ってしまえば大阪維新の会にとっては、棚からぼた餅のように巡ってきた最後のチャンスでもあった。こうした住民投票へと至る経緯は、先の住民投票の結果についての意味を考えるときに重要な意味を持ってくるだろうと思う。

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 大阪市の住民投票が告示された時期、僕は大阪市に滞在していた。かつて橋下市長からよく聞かれた「この大阪をひとつにして、東京に負けない、豊かで活気あふれる大阪をつくっていこうじゃありませんか」という力強い言葉は影を潜め、大阪都構想の本来の趣旨に忠実に「より広域な行政区を担う大阪都が都市計画を担い、これまでの大阪市みたいな大きな行政区ではなく、みなさんの意見を聞ける小さな行政区である特別区が、みなさんやみなさんの子どもたちのための福祉とか教育とかを担うんです。大阪都構想はこういうことなんです」という煽りのない言葉に変わっていた。反対派は逆に、どちらか言えば大大阪幻想に寄り添った「この歴史と伝統のある大阪市をなくしていいんですか」という煽り気味の主張が目立っていた。

 特に印象的だったのは、大阪維新の会のCMが「大阪都構想で大阪の問題を解決して、子どもたちや孫たちにすばらしい大阪を引き渡していきたい」という、どちらかというと煽りが控えめで理に訴えるものだったのに対して、大阪自民のCMは「知ってましたか。みなさんの税金が、みなさんのためだけに使われなくなってしまうというひとつの事実」というCM考査のぎりぎりを狙った、徹底した庶民目線の表現だったということ。橋下徹大阪市長が直接登壇に上ったタウンミーティングでも、世間で言われるほどの橋下節は聞かれなかった。僕は、逆にそのことで好感を持ったけれど、かつてのような熱狂はなかった。ここには、もはや「大阪都」というレトリックがもたらす高揚感や、かつてあったあの熱気はどこにもなかった。

 ただ、そこには、もうひとつの光景があった。炎天下の中、集まった人たちは、その主張をじっくりと聞きいっていた。その当時は、大阪市立の都島屋内プールをなくすなという署名運動が行われる時期だった。そのことについての質疑応答もあったが、そのやり取りも冷静だった。橋下徹大阪市長は、それがデマであると否定しつつも、絶対になくなりませんとも言わなかった。それは、新しい特別区である北区のみなさんが議会を通して決めることです、と答えていた。

 大阪市で生まれ育ち、今は東京から前より客観的に大阪を見てきた者として、大阪都構想については比較的熱心に考えてきた。大阪の二重行政については、ここに書いているようにかなり根深い特殊性と、その特殊性から来る地方自治行政の弊害を大阪は持っていると考えている。しかし、周辺市を巻き込むことができなかったことで、現状、後退を余儀なくされた大阪都構想、そして、広告稼業を長くやっていた者として、あの「大阪都」というレトリックが賞味期限を迎えた今、たぶん大差で否決だろうと考えていた。大大阪幻想を抱きながら後退していく大阪は変わらない。そう思っていた。しかし、私のこの認識は、私が大阪市民を甘く考えていたことを証明するものとなった。

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 投票率は66.83%。結果は否決、総得票率中で0.8%という僅差だった。

 この意味は、これからの大阪を考える上で、とても大きい出来事だと思う。これは、他ならぬ大阪市民がこれまで持ち続けてきた大大阪幻想を喚起させる「大阪都」というレトリックがほぼ排除された状況で、これからの大阪という都市の行政をどうするかを大阪市民に問うた結果だからだ。大阪都構想は終焉した。けれど、少なくとも、ここからは、今までのままでいいはずはない、というくらいの市民の意志を読み取ることはできると思う。もっと言えば、大阪都構想は否定するにしても、これ以上ダメになるのはもう御免だ、という大阪市民の意志なのだろう。

 YESかNO かの二者択一を迫ることについてのデメリットもあった。その集大成が、この住民投票でもあった。今回の大阪都構想の場合、行政の機構を抜本的に変革することを含んでいたから、最終的に住民投票という手段に頼らざるを得なかったけれども、やはりこういう二項対立の問題設定は分断を煽る。住民投票という手段は安易に使わないほうがいいと思った。それに、あらためて思ったのは、本質的言えば、多数決がそのままイコール民主主義ではないということ。多数決は、民主主義的な意思決定の最終的な手段だ。であるならば、やはりこの結果の意味は、出来る限り正しく把握して、次代に引き継ぐことが必要だろうと思う。

 橋下大阪市長は、任期終了を持って政治家からの引退を示した。反対派の中には、いつもの虚言だと見る向きもある。しかし、橋下市長とほぼ同世代の者として、あの時点では本当の気持ちだったのだろうと僕は考えている。先の住民投票の結果は、大大阪幻想を持つ最後の世代かもしれない僕らの世代にとっては、世代交代を意味するだろうと思う。これからは、大大阪時代を知らない世代が大阪を動かしていくだろう。と同時に、僕の問題意識の中心領域で言えば、レトリックの時代の終焉を意味しているかもしれない。それは、僕自身、相当な痛みを伴う認識ではあるけれど、あの住民投票を経て、これから大阪は必ず変わるはずだと同じ意味合いにおいて、それは希望だろうと思っている。

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