2019年8月21日 (水)

本を書きました。『超広告批評 広告がこれからも生き延びるために』池本孝慈(財界展望新社刊・9月1日発売)

 私ごとで恐縮ですが、本を書きました。かつて書籍の編集に関わったことがあったり、他の方の書籍に自分の文章が載ることは何度かありましたが、自分が著者の書籍を作るのは初めてだったので、ほんの少し緊張しています。出版社は財界展望新社です。

 発売日は9月1日で、今は印刷所で製本されているところですのでまだ現物は手にしていないので実感はありませんが、書籍名は『超広告批評 広告がこれからも生き延びるために』で表紙はこんな感じです。

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  カバーの文字部分や帯は特色の銀(DIC621)とのことです。

 と、側のことばかり書きましたが、内容はざっくり言うと、2016年9月から財界展望社の月刊経済情報誌『ZAITEN』で連載している広告批評のコラム、寄稿したレポートを収録し、新たな論考を大幅に加えた、といったところでしょうか。連載を収録したと言っても月刊誌3年分ですので、大部分が書き起こしの原稿で、自分が書いてきた3年間の現代広告の記録を素材に、今、広告にとって何が問題で何が課題なのかを再構成したという表現があっているのかな、と著者としては思ったりしています。同じく9月1日に発売される『ZAITEN』10月号に掲載されるレポートの最後に短い書籍の紹介をしましたので、その文章も引用します。

 過去の小誌での連載に、新たな論考を大幅に加えた書籍『超広告批評 広告がこれからも生き延びるために』(財界展望新社刊)が発売されました。

 これまで常態化していた〝褒める批評〟を封印し、あえて問題広告を対象とすることで、現代日本の広告や社会が持つ課題を根 源的かつ鋭角的に提起することが出来たと自負しています。

 連載している広告批評は所謂〝褒める批評〟ではありません。広告業界のサロン的な馴れ合いとは距離を置いて広告を論じています。書籍にも理由は書きましたが、ざっくり言えば「そんなことは誰でもやりたがるし、僕がやる意味はないかな」といったところです。帯の広告文に〈現役クリエイティブ・ディレクターが〝身内褒め〟が横行する広告業界に一石を投じる〉という刺激的な一文がありますが、さらに言えば、僕にとっては、業界を含めた社会が広告のことをもっとよく知るために、広告が作られるプロセスを熟知するこの職能でなければ書けないことを書きたい、という意味合いもあります。そして、今、そのことが必要であると考えています。それは「僕くらいしかやらないこと」であり、「僕くらいにしかできないこと」だと思っています。こういうふうに書き進めていくと、すべてを語ってしまいたくなる衝動に駆られてしまいますので、目次を引用することにします。こんな本です。

序章 僕が問題広告を批評する理由
広告とは何か/広告的に働く広告ではない何か/問題広告を批評するということ/平成の広告史を記録しておきたい
◉批判精神がなく〝身内褒め〟が横行する広告業界の現状

第一章 バブル崩壊と下部構造としてのインターネット
広告とバブル/インターネットの衝撃 /インターネットは下部構造である ウェブ動画広告が炎上する理由/SNSの功罪とセルフブランディング
◉小林製薬の〝許されざる〟脱法ウェブ広告 ◉東京都「結婚しようCM」は税金の無駄◉ZOZO 前澤友作社長「多弁マーケ」の副作用 ◉味の素 視聴者のクレームで修正された「いただきます省略」CM◉ドワンゴ「幼稚なゲーム業界」の象徴 高須院長〝お蔵入り〟CM

第二章 あの頃に戻りたい症候群
オレに指示をするな/東京の自意識/破壊衝動を見せられても困る/ユニクロのクリエイティブ
◉日清食品「カップヌードルCM」サムい〝あの頃に戻りたい感〟◉東京都〈&TOKYO〉過剰すぎる東京礼賛感覚が〝時代遅れ〟◉日清とソフトバンクの破壊CMが〝イタすぎる〟◉ユニクロ 若い女性ナレーションの本質は胸糞悪い説教だ ◉日産 虚しく響く「NISSAN PRIDE」CM

第三章 倫理なき広告とプロパガンダ
震災、広告、消費/消費は万能なのか/プロパガンダと広告/その後のトライ/アイフルのチワワCMの教訓/サブリミナルの危険/コンプライアンスの意味
◉TBSの握手拒否映像は「訂正」では済まない◉トライ おもろければOK? いや、ダメなもんはやっぱりダメやろ ◉「ZOZO TOWN」〝ツケ払い〟CMは明らかにアウトやろ ◉P&G「ボールド」広告の信用を毀損しかねない〝言い間違い〟CM ◉小林製薬〝悪目立ち広告〟 超えてはいけない一線を超えた ◉「かぼちゃの馬車」CM スルガ銀行の倫理なきマーケティング手法

特別講義 「広告表現理論」その歴史と現在
広告の基礎は不変/Promise、Benefit、RTB/分かりにくいInsight/インサイトにも質が問われる /インサイトと広告規制/古典的な広告表現手法/ロートレックから始まった欧米の広告/商品としての欧米広告理論 /平賀源内をルーツにしたがる日本の広告界/電通=Google説/フェアネスが足りない /Concept
◉日本郵政のテレビCMが気持ち悪い ◉PCデポ 高齢者の恐怖心を煽る「フィア・アピール」の功罪 ◉電通株主総会が映す「世界の非常識」 ◉外国人は理解不能「広告電通賞」はやめてしまえば? ◉日清食品の広告がダメになった理由

第四章 タレント広告という文化的病理
タレント広告はなぜなくならないのか/広告に出るということ/芸能界と広告/タレント広告のリスク/広末涼子とSMAP
◉ハズキルーペ ハリウッド俳優・渡辺謙が示す日本広告の特殊性◉宝島社「ベッキー広告」広告の姿を借りた残酷な芸能界そのもの◉各社横並び〝玉石混交〟「ピコ太郎CM」が示す広告業界の変わり目◉創味食品 明石家さんまを毀損するテレビCM◉ソフトバンク「 年間ありがとうCM」は作り手側の都合◉コインチェック タレント広告の危険性が改めて剥き出しになった◉西武・そごう 芸能界に飲み込まれた決意不在の「キムタク広告」

第五章 戦略PRとネイティブアドの欺瞞
混迷する広告と戦争の影/PRの役割とは/広告とコンテンツの分離/ネイティブアドの限界
◉モスバーガー「貧すれば鈍す」痛々しい期間限定バーガー広告◉「企業ブランド」の再考で広報は何をすべきか◉〝誰も喜ばない〟企画でフジテレビの犯した広告の大原則◉日本大学アメフト部 広告化した学生スポーツが引き起こした悲劇◉神社本庁ポスター「クレジットなし」は広告のルール違反

第六章 広告炎上のメカニズムと責任
炎上という社会現象/CGMという拡散装置/ソーシャルの代償 /防げた炎上/炎上は使いこなせない/物語ブランディングと脱広告 /炎上は悪か 炎上に対して何ができるか
◉日清食品 とても残念な「大坂なおみ炎上広告」の本質◉西武・そごう 企業理念が感じられない「新春炎上広告」 ◉世界一のクリスマスツリー 反社会的物語を拡散する側の責任◉銀座ソニーパーク「買える公園?」バカも休み休みに言え

終章 これからも広告が生き延びるために
広告は終焉しない/広告のこれから/広告を理解するということ/普通ということの意味とは

1年1行で振り返る平成広告31年史

 現在の広告が抱える課題や問題はわりとカバーしきれたのではないかと思っています。僕としては、広告実務を担当されている方だけでなく、広く一般の方々にも読んでいただきたいという思いもあり、広告の専門的知識がなくても専門的領域の概要を理解できるような記述をするように心がけました。まだどういう評価があるのかは分りませんが、専門書であり一般書でもある、という難しい課題にチャレンジしたつもりです。広告の問題は、広告業界関係者だけの問題ではなく、広く社会に関わるものです。今ではメディアが細分化されて手法も多種多様になってきたので分かりにくくなってはいますが、その幾重にも重なったベールを取れば、国際関係から身近な出来事に至るまで、あらゆることが「広告」という大きな構造と関わっています。

 広告批評集であるだけでなく、これからの時代、広告をどう考えていったらいいのかを手引する広告入門書、また、表層的には一変してしまったように見える広告をもう一度再構成し、新たに大きな「広告」という概念として扱い直すための現代広告論としても役立ってくれればと思います。

 発売日は2019年9月1日ですが、Amazonを始めとするウェブ通販サイトでは予約の受付が始まっています。興味のある方はぜひ手にとってください。よろしくお願いします。

 

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2019年4月11日 (木)

大大阪時代について

 大阪ダブル選の結果についての言及を眺めていて、「ああ、大大阪時代と呼ばれる時代が大阪にあったということがあまり知られていないんだなあ」と思った。大阪人にとってどうかというと、そこはそこで微妙ではあるのだけど、それでも大阪の本屋さんには、大大阪時代の名建築を歩く的な散歩本が平積みされていたりもするし、関連の専門書もたくさん置いてある。それに歴史的な事実を知らなくても、大阪、特に大阪市は大大阪時代がありきで様々な文化や制度がつくられてきたので、肌感覚としては、まあ体感的に理解はしているとは言えそうな気がしないでもない。

 知識としての大大阪時代はウィキペディアに出ているし、それなりにしっかりした記述になっている。僕は僕で「大大阪と大阪都」という文章も書いたりもした。ただ、この文章は「大阪都」という名付けがかつての豊かな大大阪時代を喚起する「大阪よ甦れ」的なレトリックとして機能しているという着眼点で大阪市住民投票の結果について考察したもので、直接的には大大阪時代がテーマではない。

 詳しいことはウィキペディアや関連書に譲るとして、ここでは簡単に言えば大大阪時代とは何か、ということに触れてみたい。

 戦前の一時期、大阪市が東京市の人口を抜いて日本一の大都市となり、ニューヨーク、ロンドン、ベルリン、シカゴ、パリに次ぐ世界第6位の大都市だった頃があった。なぜそうなったのか。理由は二つ。

 一つは、1923年(大正12年)に起こった関東南部を震源地とした関東大震災の影響である。人口が密集する当時の東京市も壊滅的な被害にあった。日本第二の大都市だった大阪市は、特に経済的な領域において東京市の代替を担うことになる。何ともやりきれない気分にもなるが、東京の不幸によって大阪が豊かになった。

 もう一つは1925年(大正14年)の第二次市域拡張。関東大震災の影響で大阪市が勢いを増す絶好のタイミングで、当時の大阪市長だった関一は、周辺町村を取り込みその市勢を拡大していく。なぜ大阪府ではなく大阪市なのか。今の感覚ではわかりにくいが、国家ではなく都市を軸にしてみると市町村がその陣地を示す単位で、府県は廃藩置県で国が勝手に決めたものという意識があった。国の決めごとなにするもの、と勢いのある都市は市域を拡大していく機運も存在した。特に中央に対する反発意識が強い大阪はその傾向は強かったのだろうと思う。

 『大大阪の時代を歩く』(橋爪紳也著)からの孫引きではあるが、大阪毎日新聞に掲載された関の言葉を引用したい。

 「大阪市の町村編入も本物になって、今日からいよいよ輝かしい『大大阪』が実現されるわけである。思ってみると全く夢のような話だ。大阪市民は自彊自治の民で、これまでに出来た市の大事業は、皆いずれも根強い市民の力に成ったものばかりである。今回の町村編入も全く市民の持つ金の力と、その溢れ切った愛市精神の結晶に外ならない」

 金の力と愛市精神。まさに、この大大阪時代を象徴する言葉だと思う。関は都市経営の専門家でもあった。御堂筋をはじめとする現在の大都市としての大阪市の都市基盤の多くは、この時期に整備された。今では「市民の血税をつぎ込んで箱物行政に邁進する大阪市役所」という感じだろうが、そうとも言い切れない部分も存在する。関が言う「自彊自治の民」の言葉通り、今も大大阪時代を偲ばせる近代建築として市民や来訪者から親しまれる名橋や公共施設は、住友などの在阪大財閥や有力者による寄付事業でもあった。

 これが大大阪時代のあらましである。

 主役は大阪市役所と在阪財界人であり、言うなれば大阪の都市基盤をつくる“広域事業”はこの両者によって行われてきた。在阪財界は東京一極集中によりその伝統を失いつつあるが、住民と企業から入る税金と国からの地方交付税によって財源を保ち続ける大阪市には、まだその伝統と名門意識は根強く息づいている。大阪の“広域事業”の担い手を自負する大阪市にとって、大きすぎる自負心を揺るがす契機になったものは大阪湾岸事業と関西国際空港だろう。それは、“広域事業”の新しい担い手としての大阪府の台頭と、大阪市の狭すぎる面積から起因する限界、そして、大阪市から周辺市への大阪都市機能の拡大を意味する。

 この視点から見れば、大阪都構想とは、大阪という大都市の“広域行政”を担ってきた大阪市に、その歴史的な役割の終わりを宣告し、より広い行政区である大阪府に移行するということであり、反大阪都構想にとっては、これまで大阪を発展させてきた大阪市という大阪の“広域行政”の名門ブランドとその伝統を何としてでも守るべきだ、そして、これからも大阪にとって大阪市が大阪府と切磋琢磨し、その専門性が生かされるはずだとの主張であると言えるだろう。少なくとも大阪人でもある僕は、この課題を「大阪人はよくわからない」と言うことはできない。そして、大阪という一地方の地方政治から投げかけられた課題はこれからの地域社会運営のあるべき姿とは何かという大きな問いの一つだと考えている。

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2019年4月 8日 (月)

大阪ダブル選雑感

 2015年の大阪市住民投票後に「大大阪と大阪都」という記事を書いたこともあるので、今回の大阪府知事、大阪市長のダブル選挙の結果について僕が感じたことをこのブログに残しておきたいと思った。

 結果は大阪維新の圧勝、大阪自民、立憲民主、共産などが共闘を組んだ反維新陣営は惨敗だった。

 僕は大阪都構想については大大阪幻想を喚起する「大阪都」というレトリックを軸に、そのレトリックが大阪府民、大阪市民にどう受容されてきたかという切り口で見てきた。住民投票の際には大阪にいたので各陣営の街頭演説を回ったり、在阪民放各局の報道のされ方をチェックしたり、かなりその空気感については理解をしていたつもりではある。一方で、今回、選挙期間中はずっと東京にいて、その空気感がいまいちわからない部分があり、結果を見て、「ああなるほど、そういうことだったのだな」と事後的に理解した部分が大きい。

 「大阪都」というレトリックについては、今回のダブル選ではほぼその賞味期限が切れている状態だったと言っていいと思う。便宜上、大阪都構想という名称で語られているが、現状、大阪府が大阪都、つまり国家の承認付きの副首都を目指す構想であると理解する有権者は少ないだろう。つまり、住民投票とダブル選の大きな違いは、大阪都というレトリックの有無にある。

 今回のダブル選については大阪市を大阪府の特別区に移行させることで二重行政を解消し、都市成長のための意思決定のプロセスをシンプルにするという大阪都構想の内実が問われたと言っていい。その内実に関しては、有権者はとりあえず現段階ではGOという意思を示した。今回はレトリックが喚起する大大阪幻想ではなく、内実が問われたという意味において、この圧倒的な結果は大きな意味を持つだろうと思う。

 反都構想陣営の転機は大阪自民が辰巳琢郎氏の擁立を計画し頓挫した時だっただろうと思う。もし出馬していたなら結果は変わっていたかもしれない。その場合、未知なもの、つまりまだ何かはわからないが何か新しいものにとりあえずは賭けてみるという投票行動になったはずだ。東京の小池フィーバーのようなものであるが、このシナリオはあまり良くないものだと考えている。

 それは、「大阪都」同様、何かわからないが何か新しいものが起こるという、ありもしない幻想を生み出す「辰巳琢郎」というレトリックに大都市の命運をまかせることになってしまうからだ。辰巳琢郎氏が出馬を見合わせるという判断をしたことは、結果として大阪にとっては幸運だったと思う。

 大阪自民は市長選に柳本氏を擁立した時点で、何か新しいものを喚起する「辰巳琢郎」というレトリックの内実を急ごしらえでもなんでもとにかく固めるこということができなかった。柳本氏も在阪テレビ局も「大阪都構想の中身が府民、市民の方にまだよく知られていない」という言い方をしていたが、そんなわけないだろうと個人的には思っていた。テレビカメラを向けられたら「ようわかりませんわ」と答える人は多いだろう。これは、市場調査でよく言われるインスタントラーメンパラドクスに近いものだと思う。低カロリーを売りにした新商品ラーメンについて尋ねると多くの人は「ヘルシーでいいですね」と言うが、実際はさっぱり売れない。人は人前では良い格好をしたいものなのだ。逆説的ではあるが「ようわかりませんわ」というのは自身の知識不足を外にさらさない究極の良い格好と言える。

 大阪自民が柳本氏を擁立した時点で、柳本氏には「大阪市がなくなっていいんですか」という住民投票でアピールした賞味期限切れの煽りしか残されていなかった。これはたぶん本人も自覚していたはずだ。国政に進出しようと目論んでいたとのことだが、その進路を断って大阪自民のために出馬を決断したことについては大人として立派だと思うが、その分、今回の結果は不憫だなとも思う。会見で「政治生命が息絶えた」と述べていた。精一杯戦って敗れたという無念さとは別の意味で無念だろう。

 大阪維新については、本来は批判されがちな知事・市長入れ替えという奇策が、逆に、大阪都構想の内実の一つである二重行政の解消という戦略と強く結びついているために、奇抜な行為そのものが二重行政解消に賭ける強固な意志を示すメッセージとして機能した。

 最後に、このあたりの話は大阪に関係がない他の都道府県の人には理解しにくいだろうと思う。どうしても国政の構図を反映させたミニチュア国政として理解しがちだし、その政治党派の構図で理解しがちだろうと思う。実際、東京はイメージや内実ともに日本の第二政府的な展開になりがちではあるし。でも、大阪も他の都道府県もそうではない。そこには、その土地に住む人だけが感じる別の構図が存在している。そこがウェブでどこにいても情報は手に入れられる時代になってもなお残る難しさだと思う。

 東京にいながら在阪テレビ局の選挙特番(朝日放送+朝日新聞大阪本社「徹底解説! 大阪ダブル選~開票ライブやりまっせ!」)の生放送をネットで観ていて、その思いをより強くした。ノーカット版がYouTubeにある。大阪ダブル選に興味のある方は視聴をお薦めする。

追記:重要なキーワードになる大大阪について書きました。「大大阪について

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