2018年1月 4日 (木)

『世界一のクリスマスツリーPROJECT』について僕が考えていたこと

 僕がこのイベントを知ったのは少し遅くて、Twitterのリツイートで流れてきた例の「冷笑」ツイートを見て、なんか嫌な感じのことをつぶやいているなあ、何があった、と少し不可解かつ不愉快な気持ちになって、それから2、3日後のことでした。リツイートでおぼろげながら例のツイートの理由みたいなものが分かってきて、少し時を遡って調べてみると、通常のしくじりや、Twitterで起こりがちな派手で面白そうなものごとに対する異論反論、嫌儲をベースとした批判等とは違う問題の複雑さが次第に浮かび上がってくるように僕には感じられました。

 僕が調べ始めた時には既に所謂「炎上」になっていて、大勢の方々がそれぞれの思いで批判の言葉を投げかけていました。マスコミ等で今も引用され、イベント運営側が批判に対する反論として使われる「木がかわいそう」という言葉は、この初期のツイートを指しているのだと思います。この言葉は「生活のために木の命を消費しながら木がかわいそうと思うのは」という文脈で動物や植物の命を消費することで成り立つ生活者の欺瞞を指摘するキーワードとして使われているようです。しかし、その指摘は間違っていると思います。「木がかわいそう」という感情は、このイベントのシナリオから考えると人の初期反応としては当然であり、そう思うように仕組まれた物語に対する正常な反応に過ぎず、何ら責められるものではありません。

 このイベントの主催者と共感する人たちの心の中には「木がかわいそう」という感情を憎む気持ちがあるように思います。そういう感情を抱く多くの大衆の心を変えたいという意図を強く抱いていると同時に、大衆をそういう誤った感情を抱く劣った存在として設定していて、その大衆を目覚めさせること、つまり主催者の言葉を借りれば「世界を変える」ことがこのイベントの主題の一つでもありました。

 なぜ憎むのか。いくつかの理由は考えられるでしょう。希少植物を植物の生い立ちを含む物語を付随させた高付加価値商材として成り立たせるためには、ともに生きていくという前提を長い時間をかけて獲得してきた愛玩動物と違い、どうしても商材として生まれ変わるための必然として起きる植物の死を欺瞞として退ける必要があったのかもしれません。既存の盆栽や生花は、生命を消費するという原罪を引き受けた、あるいは前提とした文化ですが、生い立ちを含めた物語を付随させることでその前提は崩れてしまいます。よって「木がかわいそう」という感情を欺瞞とし、木は商材となっても消費者の心のなかで生き続けるものとしなければなりません。

 その彼らの動機が象徴的であったのは、批判により中止となったアクセサリー『継ぐ実(つぐみ)』でしょう。このイベントにまつわる広告コピーワークは概ね稚拙なものでしたが、この『継ぐ実』というネーミングだけは秀逸でした。このイベントの真のコンセプトを正確かつ印象的に表現しています。いくら批判者側が本質は「木がかわいそう」ではないと否定しようとも、反論はそこに引き戻され決してその枠から出ることはないのだろうと思います。

  僕はTwitterではこの件に触れませんでした。その理由は、多くの本質的な批判の言葉がTwitterに溢れていて僕がオンタイムで語る必然はないだろうと思ったこと、そして、既に槇原敬之さんのコンサートが始まっていて、神戸の大きなクリスマスツリーを素朴な気持ちで楽しみにしている人たちがいるということがあります。比較的ウェブに親和性がある僕でさえ、この物語ブランディングのシナリオの欺瞞を数日間知り得なかったわけで、多くの人たちが単なる賑やかなイベントとして消費するのは当たり前のことです。一般論として発信者側が知らせないことの罪はありますが、受け手である消費者が深く知ろうとしないことに罪はありません。

 同時に、多くの批判によって主催者側の狙いを達成することはできない状態になっていました。つまり、契機は完全に失われていて、あくまで僕の判断ですが、批判をするならばイベント終了後に、あの時点においては、マスコミを巻き込んだ集客力の高いこのイベントをツメの甘い素人イベントとして事故なく終了させることが課題であると考えました。

 それは多分に東京糸井重里事務所(現ほぼ日)の元社員でもある僕の個人的な事情も含まれていたと思います。多く人たちが沈黙し静観していたのと同じように、僕もまた沈黙、静観していました。強い批判を展開している田中康夫さんの元に主催者側の弁護士から警告文が届けられたとのことですが、あまり面倒なことに巻き込まれたくないなあという思いも正直ありました。その態度が卑怯であるという批判は受け入れます。

 今回のイベントに対する批判では、被災地神戸という場所で行われたことに焦点が当てられています。当然のことです。これを鎮魂と言われると、被災された方がその傷を逆なでされる気持ちになる。それが人と言うものでしょう。このイベントに対して鎮魂という軸で不快感を表明することは正当であり、そこに疑問の余地はありません。ただ、遅れてきた批判者として、そこにこだわると批判の論点がブレてしまうのではないか、というのがこの原稿を書いている僕の考え方でもあります。

  今回のイベントが被災地神戸ではない場所で行われていなければ問題がなかったのか。そうではないと僕は思います。富山県氷見の山火事を逃れたとする奇跡の木を“いのちの樹”と名付け、遠方への輸送を“生命の大輸送”と呼び、期間中に木を持たせるための植木を“植樹”と言い換えただけで、エンディングで用意されている死の物語に向けて準備されるセットアップとしては物語構成上、必要十分であるからです。つまり、今回の物語ブランディングにとっては震災の鎮魂は補強としてしか機能していません。また、“落ちこぼれのアスナロが神戸で輝く樹になる”という意味付けも物語の補強であり、その本質ではありません。

 その悪趣味な補強こそ、批判者の感情の起点であるというのは間違いではないのですが、その批判に対しては「そんなに深い意味はないですよ」や「うまく感情移入してもらってうれしい」「震災の鎮魂は自分にもやる権利がある」といった反論で堂々巡りに追い込まれてしまいがちです。昨年の12月半ばに僕が書いた批判(月刊経済情報誌『ZAITEN』2月号に掲載)においても、そこは意識していますが、イベントが終了した今、その思いは強くなっています。遅れてきた批判者としては、その策に乗せられることでこの問題を矮小化もしくは風化させるわけにはいかないと思います。

 第一には、このイベントの問題点は「物語ブランディング」と呼ばれる広告手法によってつくられた広告にあると僕は考えています。個人が資金を持ち出し、神戸市という地方公共団体や様々な企業が支援するという有志のボランディアっぽい雰囲気を装っていますが、純粋にその衣を剥ぎ取り、ひとつの広告として見た場合、もはや虚偽広告と言っていいくらい嘘ばかり、嘘という表現が強すぎるならば、真偽が確かではない情報を元に広告がつくられています。批判が大きく、かつ広範囲に広がり過ぎたためこのことを些細なこととして見られていますが、社会に対する広告の信用を考えるとき、決して小さな問題であるとは言えないでしょう。これを大目に見ることは広告の破壊行為であると僕は思っています。

 この物語ブランディングは、構成として、まず初めに崇高な生の物語を示し、木の生命に過剰な意味付けを与え、十分に感情移入させた後、その筋書きを反転させるようにして死の物語が示されます。つまり、死の物語に相当なカタルシスを持たせたドラマタイズがされています。その物語に対して「アスナロを殺さないで」という感情反応がウェブで示されたわけですが、その反応に対しては「そう思った人は、その植物を思う気持ちを大切に生きていってほしい」という答えが用意されています。

 この悪趣味な物語構成に対しては、様々な角度からいくらでも批評できそうな気がしますが、記述が難解になればなるほど現実的には為の論議になりがちですので、ここは例え話で論をすすめます。

 この物語の類型としては、小学校や中学校などでも稀に行われている「いのちの授業」に当てはまります。生徒に後に食用とすると伝えずに鶏を育てさせて、育った後にシメて食べさせるというような教育です。これは現状では教育者が生徒の心を注意深くケアすることでかろうじて許容される教育法ではあるでしょう。このイベントを全面的に応援するとして特集を組んでいた『ほぼ日刊イトイ新聞』は“みなさんがこのツリーを見て、なにを考え、なにを思うか、それこそが清順さんの本当のねらい”と表現し、ウェブで起きた中止運動から神戸市に出された質問に対してイベント終了後に提出された回答でも、主催者の言葉を引用するように“学校では教えてくれないような植物のことを感じてもらう”と示されていました。

 ここで「いのちの授業」が許容されるのであれば、このイベントの物語ブランディングも許されるのではないか、批判者は過剰反応なのではないかという疑問が生まれるでしょう。僕は許されないと考えています。「いのちの授業」が成り立つ条件は、その場が教育の場であることです。教育の場とは、先生と生徒、教える側と教わる側という非対称な関係が成り立つ場です。被災地神戸のクリスマスという高度に公共的な祝祭空間に、その関係が成り立つでしょうか。答えは否です。やるなら、教祖と信者という非対称関係が明確な宗教行事に類するものとして閉じる形でやればよい、そして、公共空間にその関係を成り立たせようとする試みに僕は市民として抵抗を示したいと考えています。

 たぶん、これだけ批判が高まった今なお、主催者とその支援者は、そういう非対称な関係が公共で成り立つと考えているのだろうと思います。今回はしくじったけれども次はうまくいくはずだとも考えているような気さえします。その動機を支えるものは、我々前衛、つまりより深く物事を考え、知り、未来を見据えている者が、愚かなる大衆を導くべきであるという信念であるのでしょう。この信念に対する批判は、かつて吉本隆明が前衛党派、前衛知識人批判の文脈で行った大衆の原像についての論考を振り返れば足りるでしょう。あなた方は大衆の原像を見誤っている。大衆の原像を見誤った思想は、大衆によって唾棄される。僕が言いたいことは、それ以上はありません。

 ここまで論考をすすめてもなお残ることがあります。それは、批判者の心に残り拭い去ることができない、グロテスクなものを見てしまったという忌避感です。この核心に迫るには、日本の社会思想史をたどる必要が出てくるだろうと僕は思っています。少なくとも僕には、この象徴化された死をモチーフとした物語に、死による魂の救済という思想の片鱗が見えます。それは宮沢賢治の『よだかの星』等にも見られるものですが、読むための自発性が求められる小説として書かれた物語に対して、実際のモノや人が動くコト消費として公共空間で示したことに、現代性を見ることができます。主催者の「嫌なら見るな」は反論としては成り立ちません。

 ここ十数年の思想的な流れを見ると、「新しい公共」論が隆盛し、その後、東日本大震災が起きました。表面的には政府が機能不全になり、ある種の人々に無政府状態のような高揚感が生まれました。本来は公共が担うはずのことも個人が担う、担えるという空気が生まれました。それは、あの危機に対して一定の貢献はあったとは思います。しかし、それは危機で生まれた欠乏を緊急避難的に埋め合わせるものであって、あのときに際立った個人の力はある時点で公共に還元されなければなりません。あの頃の空気が永続的なもの、つまり、未来のあるべき形ではないと僕は考えています。

 熊本の震災では、東日本大震災の経験を生かしてボランティアの仕組みが徐々に整備され、所謂「野良ボラ」が減り、スピリチュアリズムや自己啓発、自分探しをベースとした個人の信条が暴力的に公共に持ち込まれることが少なくなりました。危機に瀕した人が公共あるいは社会の使命として、その助けを受けるのに、あなたが信じるのは俺かあいつか、と属人的に問いただされ、地域社会が分断される状況をいつまでも続けるわけにはいきません。経験を生かして次の時代へとつなげていく。歩みは遅くとも、一歩ずつ前に進んでいく。それが未来というものの実相だと思います。今回のイベントに批判が集まり、その物語ブランディングが無化されたのも、その経験を経た社会の成熟であるだろうと僕は考えています。

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2015年9月 7日 (月)

「ラジオってどうやって聴くんですか?」

 嘘みたいな話ではあるけれど、人気アイドルがラジオ番組をはじめるというようなニュースが出たときなんかに、ラジオ局や家電量販店で若い人から「ラジオってどうやって聴くんですか?」という質問が寄せられるらしい。また、若い人に「ラジオって聴いてる?」と質問すると「聴いてる、聴いてる」と答えるので「ラジオで?それともradikoで?」と尋ねると「うんん、YouTubeで」。まあ、どちらの話も笑い話ではあるけれど、あながち嘘ではないんだろうなあ、とも思ったりします。

 これは前に書きましたが、現在のラジオの聴取率は関東広域圏で6%前後。曜日や時間帯によって変わりますが、大雑把に言えば、100人いれば6人くらいラジオを聴いている計算になります。ちなみに、ラジオの聴取率調査が始まった2002年の聴取率は関東広域圏で8.3%でした。現状をどう評価するかは、数字の読み方を知る知らないによって違うでしょうし、立場によっても異なるのだろうと思います。

 よくラジオの聴取率はradikoらじる★らじるを含まないよね、という話がでるんですが、それは間違い。受信機に機械を取付けるテレビと違って、ラジオは個人に質問する形式なので、家で聴いても、お店で聴いても、歩きながら小型ラジオで聴いても、radikoで聴いてもラジオを聴いたことになります。なので、radikoやらじる★らじるができてラジオ復活、みたいな話は、まあ、かなり盛った話で実際とは違います。それは、あえて言えば、これからの話。個人的には大いに期待はしていますが、今のメディア環境の中でのラジオメディアの地位低下は、複層的な問題がからみあっていますから、これはいろいろ時間がかかりそうな気がしています。

 現象として言えば、聴取率が3%から4%下がると、冒頭のような「ラジオってどうやって聴くんですか?」というようなことが起きる、ということなんですね。こういうことが起きるということは、かつてラジオを聴いていたのに今は聴かなくなってしまった人の中にも、潜在的にあるインサイトだということで、「ラジオってどうやって聴くんですか?」という質問に答えることは、それなりに意味があることだと思います。

 では、どう答えるか。考えてみると、これはほんといろいろあるんです。多種多様。しかも、どの聴き方も一長一短。それは、ラジオのメディアとしての短所であると同時に、後述しますが、ラジオメディアが放送メディアとして、テレビと比較してもかなり先を行った先進メディアであることの証拠でもあります。そして、メディアとして見た場合に、それこそがラジオメディアの面白さでもあると思ったりします。個人メディアであるブログの特性を活かして、自分のわかる範囲で、かつ、かなり独断と偏見を交えながら、いろんなラジオの聴き方を書いてみたいと思います。

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 ラジオで聴く。

 これは定番中の定番で、今年、日本でラジオ放送がはじまって90年ですが、これまでもずっと行われてきたラジオの聴き方です。

 しかしながら、今、この聴き方が、とりわけ都心部においてかなりきつい聴き方になってきています。いわゆる難聴取問題です。特にAMに顕著で、コンクリートのビル内ではちゃんと聴けないこともかなり多く、その一方で、手頃な値段で買える、いわゆる安いラジオ受信機の電波受信性能は下がってきている傾向にありますので、ラジオを買ったはいいけど、こんなんじゃまともに聴けないじゃないか、ということが十分あり得ます。

 じつは、ラジオ各局は、この電波受信をめぐる環境の悪化に苦しめられてきました。以前ならうまく聴けたラジオが今、うまく聴けなくなってきている。そのことは、経営的な観点からも、防災的な観点からも、かなり問題でした。

 そこで、以前はラジオもテレビと同様に地デジ化しようという動きがありました。デジタル化によって、難聴取はある程度解消はされますが、今度は別の問題が出てきます。テレビと同じで、地デジ化で今までのラジオではラジオが聴けなくなってしまうんですね。それはあまりにもリスクがあり過ぎる、ということで、この動きはなくなりました。その代替として、今、進められているのがAM放送のFM波での同時放送です。FM補完放送と呼ばれ、地デジ化で空いた1chから3chの周波数を使います。AMはこれまで通りです。首都圏、関西圏などは、この秋以降となりますが、鹿児島の南日本放送を皮切りに、続々とスタートしています。

 どんなラジオでラジオを聴くか、ということを考える際には、このFM補完放送を考慮に入れなければ損をしてしまいます。旧テレビ地上波アナログの1chから3chの音声が聴ける古いタイプのラジオなら、このFM補完放送は聴けますが、テレビの地デジ化以降に生産され、かつ、FM補完放送対応のラジオが出るまでの期間に生産された多くのラジオでは残念ながらFM補完放送は聴くことができません。また、このタイプのラジオは今も数多く流通しています。また、海外製の高級機も、まだ未対応のものが多いです。購入の際は、FMの受信周波数が76MHz〜108MHzになっているかどうかの確認をおすすめします。

 そのあたりを考慮しながら、どんなラジオを選べばよいかを考えてみます。僕は、今のラジオ電波受信環境を考えると、ラジオは多少値が張っても基本性能が高いもののほうがよいと考えています。音質にこだわる、インテリア性を求める、など様々なニーズはあるかと思いますが、ここでは個別ニーズは考えないこととします。また、震災でラジオの重要性がクローズアップされ、できればラジオは備えておきたいという防災的観点も、せっかくラジオを買うのですから考えてみたいと思います。いつも聴く用に1台、防災用に1台というのが理想ではありますが、ちょっともったいないですし。

 基本性能が高い。持ち運べる。いざというとき電池で動く。この3点を考えておすすめは、これ。

 少々デザインが古いですが、AM、FMともに受信性能がかなり高く、スピーカーも大きく音質もいい。いわゆる普及帯価格の中ではかなりおすすめ。もっと受信性能が高い高級機はありますが、普通に使う分には、これ以上はないのではないでしょうか。もちろん、ワイドFM(FM補完放送)対応。電池でも動きます。えっ、今どきステレオではないの、と思う方もいるかもしれませんが、屋外FMアンテナを設置しないでラジオのロッドアンテナを立てて聴く場合、より雑音のない音で受信できるモノラルのほうが、日常使いではよい選択かと思います。

 でも、デザインが好きではないとか、もっと大きいもの、あるいは小さいものがいいと思う方は、実売5000円から10000円くらいのソニー、またはパナソニック(どちらもラジオ作りに熱心)のものであれば、あまり問題は出ないように思います。

 防災用には、こちらがおすすめ。

 Amazon.co.jpでもラジオでベストセラー1位になっていますね。これがいいところは、同種の防災ラジオと比較しての受信性能の高さ。ラジオは多少値段が高くても、受信性能。これはラジオ選びの鉄則です。ただし、現在のところ注意が必要なのは、現行機はワイドFM対応ではないということ。つまり、これでFM補完放送は聴けません。ちなみに、この機種は手回し発電でスマートフォンを充電できます。こういう気配りは、さすがソニーだと思います。

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 ケーブルテレビで聴く。

 うちはケーブルテレビではないから、どうでもいいや、と思った方もぜひ読んでみてください。ラジオのデジタル化というかつての動きの中で、実現すれば、かなり面白いことになったのではないか、と個人的に思っているのが、このテレビで聴くというラジオの聴き方です。古い地デジ対応テレビのリモコンに、Dラジオというボタンがあるのは、その頃の名残。Dラジオ、つまりデジタルラジオのことです。このテレビでラジオを聴くという方法、インターフェイス的にはまだまだ課題はあるものの、首都圏、関西圏、福岡圏のJ:COMで実現しています。

 利用方法は、リモコンでJ:COMテレビを選曲し、dボタン(データ放送)を押し、そこからラジオ局を選択。少しめんどくさいですが、テレビに飽きたらラジオ、という選択肢ができることは、今後のラジオメディアを考える際に、とても重要だと僕は考えています。仕組みとしては、FM補完放送やradikoと同様、同時再送信です。

 参加局は、首都圏はTBSラジオ、ニッポン放送、文化放送、関西圏は毎日放送、福岡圏はRKB、KBC。いろいろ課題はあるかと思いますが、こういう流れができたことはラジオメディアにとっては未来に向けての大きな一歩だと思っています。ラジオ、ケーブルテレビともに他局も追随してほしいです。

 また、あまり知られていないのは、FM局に関しては、多くのケーブルテレビ局は同時再送信を行っています。残念ながらSTBからテレビ受信機への出力はできないのですが、アンテナ端子(ケーブルテレビ出力端子)とシステムコンポなどのFMチューナーを同軸ケーブルで接続することで、通常のFMアンテナ端子とつなぐ場合と同じように高音質出力ができます。屋外にFMアンテナがなくてもクリアな音質でFMの音楽放送が聴けるのは、かなりのメリットではないでしょうか。

 ※上記AMラジオの同時再送信に関しては、デジタルテレビの難聴取対象地区の集合住宅でアンテナではなくJ:COMのケーブルテレビ回線でテレビを受信している該当地区の世帯であれば、J:COMと有料チャンネルの契約しなくても利用できます。FM放送に関しても同様で、こちらは周波数変換パススルーという技術だそうで、これまでの屋外FMアンテナと同じように同軸ケーブルで接続するだけでクリアな音声で受信できます。配信されている放送局であれば、これまで距離が遠いなどの理由で雑音が入っていた放送局もクリアな音質で受信できるので、FMアンテナからの移行にもメリットはあります。(2015年9月9日追記)

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 radiko(民放ラジオ)とらじる★らじる(NHKラジオ)で聴く。

 ネットの常時接続環境が安定していれば、IPラジオ同時再送信という方法は、もともと難聴取問題の解消のためにできたものですので、都心部に難聴取環境が多い現在、もっともラジオを安定して聴くことができる方法です。スマートフォンでは、各サービスともアプリをダウンロード。PCではサイトにアクセスすることで簡単に聴取できます。

 物理的な制限がある電波ではなく、ウェブを利用したデータ通信を利用していますので、原理的にはどこにいてもネット環境であれば受信可能ですが、民間放送ラジオ局が参加しているradikoの場合は、放送免許における放送エリアに近づけるために、受信側のIPアドレスで都道府県を判定しエリアを決定しています。大阪にいれば大阪府と判定されます。放送免許による放送エリアにしたがって受信可能ラジオ局をリストアップしているので、大阪府でエリアによっては電波の受信が可能で普通に聴くことができるKBS京都や京都のα—STATION、和歌山放送などはリストには出てきません。地域によっては、地元局1局、放送大学、短波のため放送エリアが全国であるラジオ日経の3局4チャンネル、もしくは地元局がradiko不参加の場合は、地元局がなく放送大学とラジオ日経の2局3チャンネルしか選択できないこともあります。一方、東京の場合は、12局13チャンネル、大阪の場合は、10局11チャンネルの選択肢があります。

 ※後に調べると違っているようです。例えば、放送免許ではラジオ関西は兵庫県県域、アール・エフ・ラジオ日本は神奈川県県域ですが(参照)、大阪府、東京都でリストアップされます。また放送サービスエリアで厳密に区切られているようでもなさそうです。各局の方針や調整などもあるのかもしれません。(2015年9月9日追記)

 上記の理由により、一言でradikoと言っても、地域で温度差があることは否定できません。この情報の地域格差は、広告モデルの限界といっていいだろうと思います。一人あたりの放送局数は、自分の住む地域の広告市場の大きさに比例してしまいます。一方、広告市場に依存しない公共放送であるNHKが聴取できるらじる★らじるは、全国どこにいても仙台、東京、名古屋、大阪の放送局を選ぶことができます。

 また、radikoのIPアドレスを利用した地域判定はWiMAXなどのWiFiを使った移動通信系ウェブ接続サービスではうまく機能しません。接続した際に任意で選ばれる基地局で地域が判定されてしまい、東京都にいても大阪府や山口県で判定されてしまったりすることがよくあります。これは技術的には回避不可能とのことで、希望の地域判定が出るまで根気よく接続し直す以外手がありません。地域判定のあるradikoの大きな弱点のひとつとなっています。

 大きな利便がありつつも弱点もあるradikoですが、昨年4月から画期的なサービスが始まっています。月額税別350円がかかりますが、エリアフリーで全国のラジオ放送局が聴けるradikoプレミアムです。全国どこにいてもプレミアム参加局が聴取可能で、2015年9月現在、75局76チャンネルが選択可能です。このサービスが画期的なところは、地域における情報格差の拡大という広告モデル固有の問題について、有料サービスではあるけれど、ひとつの解決に向かう道を示せたということです。これは、BSやCSなどの多チャンネル化が進んだテレビもまだできていないことです。テレビが進んだ方向は、コンテンツのニッチ化により課金モデルとさらなる広告市場の拡大という道でした。これは、放送メディアにおけるラジオメディアの先進性としてもっと誇ってよい、と僕は思っています。

 個人的な意見として聞いていただきたいのですが、もしあなたがラジオをあまり聴いたことがなく、これからラジオを聴いてみたいと思っているならば、初月無料ということもありますので、一度、radikoプレミアムに加入してみてはどうかと思っています。何でもそうだと思いますが、ラジオが好きになるかどうかは、面白いラジオ番組を聴くかどうかで決まります。キー局、準キー局はもちろん、地方にも人気番組はたくさんあります。地域メディアとして育ち、これからも地域を支えていくラジオには、まだまだ知らない楽しさが詰まっています。

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 コミュティFMのIPラジオ同時再送信で聴く。

 コミュニティFMは、県域放送より狭い市町村を放送対象エリアとするFM放送です。当然、放送エリアでしか電波受信はできませんが、ウェブではradikoやらじる★らじる同様、PC、スマートフォンでIPラジオ同時再送信を聴くことができます。CSRA(コミュニティ・サイマルラジオ・アライアンス)のウェブサイトにあるSTATION LISTから地域を選び、聴きたい放送局のオレンジ色の[放送局を聞く]ボタンをクリックすれば再生がはじまります。

 ただ、この公式のサイトはサイト設計が少し古く複雑で使いにくいかもしれません。その場合はサイマルラジオというウェブサイトの方がシンプルで便利。たぶん、こちらもCSRAが制作しているサイトだと思うのですが詳細はわかりません。各局のウェブサイトからのリンクはこちらになっていることも多いようです。使ってみたところ、これまで不具合はありませんでした。

 Windowsでは問題なく使用できるのですが、MacではWindows Mediaメタファイル(拡張子は.asx)を開くためのソフトウェアをインストールする必要があります。代表的なものはVLC media playerで、無料で使用できます。(2015年9月11日追記)

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 radikoとらじる★らじる、コミュニティFMなどのIPラジオをどう聴くか。

 もちろん、PCやスマーフォンにイヤホンを挿して聴くのは王道です。ここでは、それ以外の方法を書きたいと思います。具体的には、自宅の居間や個室、ベッドルームなどでテレビを観るように、くつろぎながらラジオを聴く方法です。

 最も簡単なのは、アンプ内蔵のスピーカーにPCやスマーフォンを接続して聴く方法です。僕はこの方法でラジオを聴くことが多いです。スピーカーはある程度音質のいいものを選んだほうがいいように思います。群を抜く音質でなくてもいいかと思いますが、長時間ゆったりと聴くとなるとそれなりの音質が求められます。これは、いろんなアンプ内蔵PCスピーカーで聴いてきた経験から、そう思います。

 小さなスピーカーは、低音が弱く、高音がシャリシャリしたものが多いようです。音楽を聴くためなら、くっきりと聴けることもあって、それでよいのですが、ラジオの場合は人のしゃべり声が主ですので、どちらかというと中低音がしっかりしたものを選ぶといいようです。あと、USB接続はノイズを拾いやすく、ブルートゥースはまだ不安定な気がしますので、電源付きの接続はイヤホン端子からのアナログ接続がいいように思います。でもまあ、これは好みの部分もありますね。

 BOSEは、低音が強くて音楽を聴くには好みが分かれそうですが、ラジオには相性はいいのではないかと思っています。僕は、この前モデルのCompanion IIを使用していますが、音量は小さな部屋なら十分過ぎるほどあります。僕は、もうひとつ大阪用に上記右のスピーカーを所有していますが、値段に差があるということもありますが、低音が弱く、高音が強く、はっきり明瞭な音なので、ラジオを長く聴くには聴き疲れするような気がしました。あと、やはりUSB給電はノイズを拾います。手軽に音楽を聴くにはとてもいいスピーカーなんですけどね。

 また、こういうタイプのオーディオシステムであれば生活とラジオが溶け込みそうな気もします。ちなみに、これはラジオチューナー付きでワイドFM(FM補完放送)対応です。ラジオとカセットテープがメインだった頃と違って、今はスマートフォンありきなので、こういうタイプのパーソナルオーディオに力を入れているみたいです。せっかく買うのであれば、音楽データだけでなく、radikoやらじる★らじるでラジオを聴くとより生活に活かせるようになるのではないでしょうか。

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 最後に電波でラジオを聴くか、IPでラジオを聴くか、という問題について。

 僕個人の意見としては、それはどっちでもいいと思っています。どっちで聴いたからといって、コンテンツの内容が変わるわけではありませんし。リスナーから見れば、ラジオはどう聴こうがラジオです。この話は、ラジオ界隈とウェブ界隈で起こった大きな出来事があって、これまで放送と通信の文脈で色がついて話されることが多かったけれど、時代がそういう文脈を追い越していったような気がしています。

 ただ、こういう時代になっても変わらないことは、電波、IP双方の特性です。電波は距離や地理的な影響は受けるけれど、受信に関しては無限。一方のIPは距離や地理的な影響は受けないけれど、受信に関しては有限。IPで震災などで一度に大勢の人がアクセスするとサーバがパンクする可能性が高いのです。つまり、防災には電波受信の従来のラジオが今も有効なんですね。実際に、radikoが開始されたとき、TBSラジオの人気深夜番組「伊集院光JUNK」が始まったと同時に、一時的にradikoがつながりにくくなってしまいました。

 これはラジオに興味がなくても、同じように言えることです。電源が使えない。電話やネットがつながらない。そういうときに、電池で長時間使えるラジオは貴重な情報源になります。もしものために電池で動くラジオは持っていたほうがいいし、radikoでラジオを聴いている人も持っていたほうがいいです。

 震災後、ラジオ界隈では、これでラジオの重要性が再認識された、これでラジオは上向きになる、と言われていました。実際、聴取率は一時上がったけれど、すぐに下りました。当たり前ですよね。人々の意識が変わって、ラジオが重要と思ってくれたわけでもなく、そのとき、単純にラジオには聴くものがあった、聴く必要があった、ということなんです。僕はそう思っています。

 防災にラジオが有効。万が一のとき、ラジオメディアは大きな役割を担う。これは本当。電池付きのラジオを持っていたほうがいい。これも本当。でも、だからこそ、ラジオを日頃からたくさんの人が聴いていて、万が一のときにたくさんの役割が果たせるためにも、豊かでないといけないと思っています。だから、電池付きのラジオは持ったほうがいいとは言うけれど、防災に必要で社会にラジオが必要だからラジオを聴け、とは言いません。

 言いたいのは、ラジオは面白いよ、ということ。聴く機会が減ってきたけど、聴いてみると、ラジオはまだまだ面白い。テレビではあまり面白くないなあと思っていたタレントさんがラジオだと味があるなあと思うこともあるし、テレビではかわいいだけのアイドルが、ラジオでは考え方が真面目だったり、少し影が感じられたりすることもあるし。映像がなくて、スタジオにマイクがあればできてしまうラジオでは、今もやっぱり、ものが自由に話せるように思うし。それになによりも、文書にするというフィルターを通さない生な言葉が聴けるメディアだし。

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 僕は単なるラジオリスナーですが、ひとつだけラジオと関わりがあることがあります。それは、NPO法人の放送批評懇談会のラジオ委員として活動していることです。月1回の合評とギャラクシー賞の審査で、相当な数のラジオ番組を聴いています。そういう意味では、比較的、全国くまなくさまざまなラジオ番組を聴いているので、radikoプレミアムもできたことですし、面白い番組はこれからも紹介していきたいと思っています。また、昔は当たり前だった番組の録音についても書きたいと思います。今は、相当敷居が高くなりました。

 放送批評懇談会から告知です。ひとつは、セミナー「ラジオの可能性を考える すべてを語る120分」が9月11(金)に東京の明治記念館であります。ラジオメディアであり、地域メディアでありながら好調なCBC南海放送の両代表が語る攻めの戦略。有料セミナーです。メディア関係者なら応用できることはたくさんあるのではないでしょうか。すでに申し込みの締切日は過ぎていますし、定員を超えているかどうかはわかりませんが、念のために告知します。興味のある方は問い合わせてみてください。定員を超えていたら、ごめんなさい。詳しくはこちらを。

http://www.houkon.jp/symposium/seminar2015.html

 もうひとつは、恒例のラジオ番組を聴く会<ギャラクシー賞入賞作品を聴いて、語り合う会Vol.20>です。今回は大阪でやります。要申込、参加無料です。日時は9月27日(日)で、梅田茶屋町のMBS毎日放送本社です。聴取作品はMBS「ネットワーク1・17」と琉球放送「いちゃりば結スペシャル」となります。こちらは、たぶんまだ席に余裕があると思います。この2つの番組は、この記事の後半に書いたことと関係する番組です。関西の方はぜひ参加してくださいませ。

http://www.houkon.jp/galaxy/news.html

 というわけで、良いラジオライフを。

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2015年7月23日 (木)

感覚的に言えば、ラジオの人気番組の影響力は地上波テレビの不人気番組の影響力とほぼ同じである

 興味深い記事がネットに出ていた。当該記事はフジテレビの不調を揶揄するゴシップ記事ではあるけれど、別の見方をすれば今のラジオのメディアパワーを感覚的に把握する上で、非常に示唆的な記事として読むことができる。

 打開策が見えないまま夏休みシーズンに突入するフジテレビだが、苦戦の影響に『ミヤネ屋』だけでなく、ある番組の名前が上がっているという。

「それが、大竹まことさんの『ゴールデンラジオ!』(文化放送)です。毎週、平日の13時から15時半まで放送しています。放送時間がほとんど同じこの番組は、同時間帯の関東のラジオ局で一番聴取率がいいんです。テレビとラジオで簡単に比較はできませんが、少なからず影響があると上層部は判断しているようです」(番組スタッフ)

視聴率1.1%の『グッディ!』ライバルは『ミヤネ屋』ではなく『ゴールデンラジオ!』だった!? -  日刊サイゾー(2015.07.21)

 本文には「テレビとラジオで簡単に比較はできませんが」とあるが、じつはテレビの視聴率の母数はテレビを見ている世帯ではなく調査対象世帯全体であり、ラジオの聴取率の母数は調査エリアに在住の男女12~69才の個人総数であり、その誤差を捨象して考えれば、テレビの視聴率とラジオの聴取率は比較可能。むしろ、ラジオの母数が個人総数であることから、母数がより大きい分、同じ1%でも人数は多いとも考えられる。ただ、ラジオの場合は、年6回の聴取率調査の時期と合わせて各局がスペシャルウィークと称して特別企画を実施するので、ラジオの数字は実際は少し盛られているとは言える。また、テレビは世帯なので、1カウントでも複数人が観ている可能性も高い。なので、いろいろ総合的に判断して、ざっくりと考えれば、テレビの1%とラジオの1%はほぼ同じと考えていいと思う。

 日刊サイゾーの記事にあるフジテレビ『グッデイ!』の1.1%は、関東広域圏で聴取率首位のTBSラジオの聴取率とほぼ同じ。関東広域圏のラジオ全体が約6%で、その中でラジオの第2のプライムタイム(第1のプライムタイムは朝時間帯)である昼時間帯で最も聴取率がいい番組である文化放送『ゴールデンラジオ』は、軽くフジテレビ『グッデイ!』を超えていると考えられる。これは、別に時代の変化ではなく、一般的に朝や昼時間はテレビよりラジオの方が強い傾向にあって、この記事が煽るようなことでもない。

 ここから見えてくるのは、今、ラジオのメディアパワーは、感覚的に言えば、時間帯を含めてあまり見られていない地上波テレビの低視聴率番組くらいはあるということだ。もっとわかりやすく言えば、ラジオの聴取率1%は、関東広域圏で言えば単純計算でおおよそ36万人であり、ラジオの人気番組は、この1%、つまり36万人をベースに前後した数字と考えるのが妥当。この数字から、ながら聴取や飲食店やタクシーでの聴き流しを考慮して、熱心に聴取しているリスナーを3分の1とかなり低く見積もっても10万人であり、しかも放送メディアであるラジオは、この数字は瞬間の数字ではあるので、ウェブメディアを含めたあらゆるメディアの中で、ラジオ離れが叫ばれる現状においてもなお、このくらいの影響力を持つメディアである、ということは実感できると思う。

 メディアは、自分が接しているメディアが世界のすべてだと考えてしまいがちであり、その中での好き嫌いや希望的観測で未来を語りがちになる。メディアに限らず、現実は現実として理解しておくことは大切。ラジオにかぎらず、メディアを考える際には、こういう実際の力を感覚的に知っておくことは大切だと思う。

 ちなみに、このエントリでは関東広域圏のローカル番組をベースにしていて、全国ネット番組では影響力はさらに上がる。また、地域によってラジオの影響力は若干違う。例えば、聴取率調査を実施している関西圏や北海道圏では、関東広域圏より少しラジオの聴取率は高い。つまり、少しだけラジオ人気が高い。

 さらにラジオメディアを考える際に重要なのは、地域によって市場がまったく異なるという点だ。地上波テレビも同様ではあるが、その地域格差はテレビ以上であり、例を挙げると、東京都がAM、FMの民放ラジオ局が約10局に対して、広島県は2局と、聴取できる放送局の数にはかなりの開きがある。また、地理的条件による違いもある、関東近辺の地方だと東京キー局が聴こえるので地元局はかなり厳しい競争を強いられていたりするが、先に挙げた広島県のように地理的条件により巨大都市圏の影響を受けない地方では、民放がAM、FMそれぞれ1局しかリスナーに選択肢がないケースもあり、そういう地域では独占に近い市場の中で日々の放送が行われている。

 ここでは触れなかったコミュニティFMでも、J-WAVEなどの在京局番組の再送信の割合が多い局は、地域の選択可能なラジオ局の中でもそれなりの存在感を示していて、各地域の市場はもっと複雑になる。メディアとしてのラジオを語るとき、このような地域差があり、一言で「ラジオとは」と語れない難しさがあると思う。

 そういう地域差がある一方で、ラジオメディア全体を見ると、IPストリーミング技術を使ったradikoの有料版であるradikoプレミアムの登場で、月々350円で全国のほぼすべての地上波ラジオが全国どこでもリアルタイムで聴ける環境ができている。これは、テレビ放送がこういうメディア環境になっても実現できないことをラジオが一足先に実現してしまっているということであり、ここにじつは放送メディアとしてのラジオの先進性があったりもする。このあたりのことは、また別の機会に。

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 告知です。私も所属している放送批評懇談会のラジオ委員からイベントのお知らせがあります。ラジオ部門<ギャラクシー賞入賞作品を聴いて、語り合う会Vol.19>が、2015年7月26日(日)午後1時~午後5時、赤坂TBSセミナー室で行われます。今回は「花は咲けども~ある農村フォークグループの40年~」山形放送(大賞)と「風の男 BUZAEMON」南海放送(優秀賞)の2作品です。下記リンクのページにある申し込みの締め切りは過ぎていますが、事務局によると、申し込み多数で席数を増やしたのでまだ若干の余裕があるので申し込みは大丈夫とのことです。有料イベントですが、興味のある方はどうぞ。

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