2019年4月11日 (木)

大大阪時代について

 大阪ダブル選の結果についての言及を眺めていて、「ああ、大大阪時代と呼ばれる時代が大阪にあったということがあまり知られていないんだなあ」と思った。大阪人にとってどうかというと、そこはそこで微妙ではあるのだけど、それでも大阪の本屋さんには、大大阪時代の名建築を歩く的な散歩本が平積みされていたりもするし、関連の専門書もたくさん置いてある。それに歴史的な事実を知らなくても、大阪、特に大阪市は大大阪時代がありきで様々な文化や制度がつくられてきたので、肌感覚としては、まあ体感的に理解はしているとは言えそうな気がしないでもない。

 知識としての大大阪時代はウィキペディアに出ているし、それなりにしっかりした記述になっている。僕は僕で「大大阪と大阪都」という文章も書いたりもした。ただ、この文章は「大阪都」という名付けがかつての豊かな大大阪時代を喚起する「大阪よ甦れ」的なレトリックとして機能しているという着眼点で大阪市住民投票の結果について考察したもので、直接的には大大阪時代がテーマではない。

 詳しいことはウィキペディアや関連書に譲るとして、ここでは簡単に言えば大大阪時代とは何か、ということに触れてみたい。

 戦前の一時期、大阪市が東京市の人口を抜いて日本一の大都市となり、ニューヨーク、ロンドン、ベルリン、シカゴ、パリに次ぐ世界第6位の大都市だった頃があった。なぜそうなったのか。理由は二つ。

 一つは、1923年(大正12年)に起こった関東南部を震源地とした関東大震災の影響である。人口が密集する当時の東京市も壊滅的な被害にあった。日本第二の大都市だった大阪市は、特に経済的な領域において東京市の代替を担うことになる。何ともやりきれない気分にもなるが、東京の不幸によって大阪が豊かになった。

 もう一つは1925年(大正14年)の第二次市域拡張。関東大震災の影響で大阪市が勢いを増す絶好のタイミングで、当時の大阪市長だった関一は、周辺町村を取り込みその市勢を拡大していく。なぜ大阪府ではなく大阪市なのか。今の感覚ではわかりにくいが、国家ではなく都市を軸にしてみると市町村がその陣地を示す単位で、府県は廃藩置県で国が勝手に決めたものという意識があった。国の決めごとなにするもの、と勢いのある都市は市域を拡大していく機運も存在した。特に中央に対する反発意識が強い大阪はその傾向は強かったのだろうと思う。

 『大大阪の時代を歩く』(橋爪紳也著)からの孫引きではあるが、大阪毎日新聞に掲載された関の言葉を引用したい。

 「大阪市の町村編入も本物になって、今日からいよいよ輝かしい『大大阪』が実現されるわけである。思ってみると全く夢のような話だ。大阪市民は自彊自治の民で、これまでに出来た市の大事業は、皆いずれも根強い市民の力に成ったものばかりである。今回の町村編入も全く市民の持つ金の力と、その溢れ切った愛市精神の結晶に外ならない」

 金の力と愛市精神。まさに、この大大阪時代を象徴する言葉だと思う。関は都市経営の専門家でもあった。御堂筋をはじめとする現在の大都市としての大阪市の都市基盤の多くは、この時期に整備された。今では「市民の血税をつぎ込んで箱物行政に邁進する大阪市役所」という感じだろうが、そうとも言い切れない部分も存在する。関が言う「自彊自治の民」の言葉通り、今も大大阪時代を偲ばせる近代建築として市民や来訪者から親しまれる名橋や公共施設は、住友などの在阪大財閥や有力者による寄付事業でもあった。

 これが大大阪時代のあらましである。

 主役は大阪市役所と在阪財界人であり、言うなれば大阪の都市基盤をつくる“広域事業”はこの両者によって行われてきた。在阪財界は東京一極集中によりその伝統を失いつつあるが、住民と企業から入る税金と国からの地方交付税によって財源を保ち続ける大阪市には、まだその伝統と名門意識は根強く息づいている。大阪の“広域事業”の担い手を自負する大阪市にとって、大きすぎる自負心を揺るがす契機になったものは大阪湾岸事業と関西国際空港だろう。それは、“広域事業”の新しい担い手としての大阪府の台頭と、大阪市の狭すぎる面積から起因する限界、そして、大阪市から周辺市への大阪都市機能の拡大を意味する。

 この視点から見れば、大阪都構想とは、大阪という大都市の“広域行政”を担ってきた大阪市に、その歴史的な役割の終わりを宣告し、より広い行政区である大阪府に移行するということであり、反大阪都構想にとっては、これまで大阪を発展させてきた大阪市という大阪の“広域行政”の名門ブランドとその伝統を何としてでも守るべきだ、そして、これからも大阪にとって大阪市が大阪府と切磋琢磨し、その専門性が生かされるはずだとの主張であると言えるだろう。少なくとも大阪人でもある僕は、この課題を「大阪人はよくわからない」と言うことはできない。そして、大阪という一地方の地方政治から投げかけられた課題はこれからの地域社会運営のあるべき姿とは何かという大きな問いの一つだと考えている。

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2019年4月 8日 (月)

大阪ダブル選雑感

 2015年の大阪市住民投票後に「大大阪と大阪都」という記事を書いたこともあるので、今回の大阪府知事、大阪市長のダブル選挙の結果について僕が感じたことをこのブログに残しておきたいと思った。

 結果は大阪維新の圧勝、大阪自民、立憲民主、共産などが共闘を組んだ反維新陣営は惨敗だった。

 僕は大阪都構想については大大阪幻想を喚起する「大阪都」というレトリックを軸に、そのレトリックが大阪府民、大阪市民にどう受容されてきたかという切り口で見てきた。住民投票の際には大阪にいたので各陣営の街頭演説を回ったり、在阪民放各局の報道のされ方をチェックしたり、かなりその空気感については理解をしていたつもりではある。一方で、今回、選挙期間中はずっと東京にいて、その空気感がいまいちわからない部分があり、結果を見て、「ああなるほど、そういうことだったのだな」と事後的に理解した部分が大きい。

 「大阪都」というレトリックについては、今回のダブル選ではほぼその賞味期限が切れている状態だったと言っていいと思う。便宜上、大阪都構想という名称で語られているが、現状、大阪府が大阪都、つまり国家の承認付きの副首都を目指す構想であると理解する有権者は少ないだろう。つまり、住民投票とダブル選の大きな違いは、大阪都というレトリックの有無にある。

 今回のダブル選については大阪市を大阪府の特別区に移行させることで二重行政を解消し、都市成長のための意思決定のプロセスをシンプルにするという大阪都構想の内実が問われたと言っていい。その内実に関しては、有権者はとりあえず現段階ではGOという意思を示した。今回はレトリックが喚起する大大阪幻想ではなく、内実が問われたという意味において、この圧倒的な結果は大きな意味を持つだろうと思う。

 反都構想陣営の転機は大阪自民が辰巳琢郎氏の擁立を計画し頓挫した時だっただろうと思う。もし出馬していたなら結果は変わっていたかもしれない。その場合、未知なもの、つまりまだ何かはわからないが何か新しいものにとりあえずは賭けてみるという投票行動になったはずだ。東京の小池フィーバーのようなものであるが、このシナリオはあまり良くないものだと考えている。

 それは、「大阪都」同様、何かわからないが何か新しいものが起こるという、ありもしない幻想を生み出す「辰巳琢郎」というレトリックに大都市の命運をまかせることになってしまうからだ。辰巳琢郎氏が出馬を見合わせるという判断をしたことは、結果として大阪にとっては幸運だったと思う。

 大阪自民は市長選に柳本氏を擁立した時点で、何か新しいものを喚起する「辰巳琢郎」というレトリックの内実を急ごしらえでもなんでもとにかく固めるこということができなかった。柳本氏も在阪テレビ局も「大阪都構想の中身が府民、市民の方にまだよく知られていない」という言い方をしていたが、そんなわけないだろうと個人的には思っていた。テレビカメラを向けられたら「ようわかりませんわ」と答える人は多いだろう。これは、市場調査でよく言われるインスタントラーメンパラドクスに近いものだと思う。低カロリーを売りにした新商品ラーメンについて尋ねると多くの人は「ヘルシーでいいですね」と言うが、実際はさっぱり売れない。人は人前では良い格好をしたいものなのだ。逆説的ではあるが「ようわかりませんわ」というのは自身の知識不足を外にさらさない究極の良い格好と言える。

 大阪自民が柳本氏を擁立した時点で、柳本氏には「大阪市がなくなっていいんですか」という住民投票でアピールした賞味期限切れの煽りしか残されていなかった。これはたぶん本人も自覚していたはずだ。国政に進出しようと目論んでいたとのことだが、その進路を断って大阪自民のために出馬を決断したことについては大人として立派だと思うが、その分、今回の結果は不憫だなとも思う。会見で「政治生命が息絶えた」と述べていた。精一杯戦って敗れたという無念さとは別の意味で無念だろう。

 大阪維新については、本来は批判されがちな知事・市長入れ替えという奇策が、逆に、大阪都構想の内実の一つである二重行政の解消という戦略と強く結びついているために、奇抜な行為そのものが二重行政解消に賭ける強固な意志を示すメッセージとして機能した。

 最後に、このあたりの話は大阪に関係がない他の都道府県の人には理解しにくいだろうと思う。どうしても国政の構図を反映させたミニチュア国政として理解しがちだし、その政治党派の構図で理解しがちだろうと思う。実際、東京はイメージや内実ともに日本の第二政府的な展開になりがちではあるし。でも、大阪も他の都道府県もそうではない。そこには、その土地に住む人だけが感じる別の構図が存在している。そこがウェブでどこにいても情報は手に入れられる時代になってもなお残る難しさだと思う。

 東京にいながら在阪テレビ局の選挙特番(朝日放送+朝日新聞大阪本社「徹底解説! 大阪ダブル選~開票ライブやりまっせ!」)の生放送をネットで観ていて、その思いをより強くした。ノーカット版がYouTubeにある。大阪ダブル選に興味のある方は視聴をお薦めする。

追記:重要なキーワードになる大大阪について書きました。「大大阪について

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2018年1月 4日 (木)

『世界一のクリスマスツリーPROJECT』について僕が考えていたこと

 僕がこのイベントを知ったのは少し遅くて、Twitterのリツイートで流れてきた例の「冷笑」ツイートを見て、なんか嫌な感じのことをつぶやいているなあ、何があった、と少し不可解かつ不愉快な気持ちになって、それから2、3日後のことでした。リツイートでおぼろげながら例のツイートの理由みたいなものが分かってきて、少し時を遡って調べてみると、通常のしくじりや、Twitterで起こりがちな派手で面白そうなものごとに対する異論反論、嫌儲をベースとした批判等とは違う問題の複雑さが次第に浮かび上がってくるように僕には感じられました。

 僕が調べ始めた時には既に所謂「炎上」になっていて、大勢の方々がそれぞれの思いで批判の言葉を投げかけていました。マスコミ等で今も引用され、イベント運営側が批判に対する反論として使われる「木がかわいそう」という言葉は、この初期のツイートを指しているのだと思います。この言葉は「生活のために木の命を消費しながら木がかわいそうと思うのは」という文脈で動物や植物の命を消費することで成り立つ生活者の欺瞞を指摘するキーワードとして使われているようです。しかし、その指摘は間違っていると思います。「木がかわいそう」という感情は、このイベントのシナリオから考えると人の初期反応としては当然であり、そう思うように仕組まれた物語に対する正常な反応に過ぎず、何ら責められるものではありません。

 このイベントの主催者と共感する人たちの心の中には「木がかわいそう」という感情を憎む気持ちがあるように思います。そういう感情を抱く多くの大衆の心を変えたいという意図を強く抱いていると同時に、大衆をそういう誤った感情を抱く劣った存在として設定していて、その大衆を目覚めさせること、つまり主催者の言葉を借りれば「世界を変える」ことがこのイベントの主題の一つでもありました。

 なぜ憎むのか。いくつかの理由は考えられるでしょう。希少植物を植物の生い立ちを含む物語を付随させた高付加価値商材として成り立たせるためには、ともに生きていくという前提を長い時間をかけて獲得してきた愛玩動物と違い、どうしても商材として生まれ変わるための必然として起きる植物の死を欺瞞として退ける必要があったのかもしれません。既存の盆栽や生花は、生命を消費するという原罪を引き受けた、あるいは前提とした文化ですが、生い立ちを含めた物語を付随させることでその前提は崩れてしまいます。よって「木がかわいそう」という感情を欺瞞とし、木は商材となっても消費者の心のなかで生き続けるものとしなければなりません。

 その彼らの動機が象徴的であったのは、批判により中止となったアクセサリー『継ぐ実(つぐみ)』でしょう。このイベントにまつわる広告コピーワークは概ね稚拙なものでしたが、この『継ぐ実』というネーミングだけは秀逸でした。このイベントの真のコンセプトを正確かつ印象的に表現しています。いくら批判者側が本質は「木がかわいそう」ではないと否定しようとも、反論はそこに引き戻され決してその枠から出ることはないのだろうと思います。

  僕はTwitterではこの件に触れませんでした。その理由は、多くの本質的な批判の言葉がTwitterに溢れていて僕がオンタイムで語る必然はないだろうと思ったこと、そして、既に槇原敬之さんのコンサートが始まっていて、神戸の大きなクリスマスツリーを素朴な気持ちで楽しみにしている人たちがいるということがあります。比較的ウェブに親和性がある僕でさえ、この物語ブランディングのシナリオの欺瞞を数日間知り得なかったわけで、多くの人たちが単なる賑やかなイベントとして消費するのは当たり前のことです。一般論として発信者側が知らせないことの罪はありますが、受け手である消費者が深く知ろうとしないことに罪はありません。

 同時に、多くの批判によって主催者側の狙いを達成することはできない状態になっていました。つまり、契機は完全に失われていて、あくまで僕の判断ですが、批判をするならばイベント終了後に、あの時点においては、マスコミを巻き込んだ集客力の高いこのイベントをツメの甘い素人イベントとして事故なく終了させることが課題であると考えました。

 それは多分に東京糸井重里事務所(現ほぼ日)の元社員でもある僕の個人的な事情も含まれていたと思います。多く人たちが沈黙し静観していたのと同じように、僕もまた沈黙、静観していました。強い批判を展開している田中康夫さんの元に主催者側の弁護士から警告文が届けられたとのことですが、あまり面倒なことに巻き込まれたくないなあという思いも正直ありました。その態度が卑怯であるという批判は受け入れます。

 今回のイベントに対する批判では、被災地神戸という場所で行われたことに焦点が当てられています。当然のことです。これを鎮魂と言われると、被災された方がその傷を逆なでされる気持ちになる。それが人と言うものでしょう。このイベントに対して鎮魂という軸で不快感を表明することは正当であり、そこに疑問の余地はありません。ただ、遅れてきた批判者として、そこにこだわると批判の論点がブレてしまうのではないか、というのがこの原稿を書いている僕の考え方でもあります。

  今回のイベントが被災地神戸ではない場所で行われていなければ問題がなかったのか。そうではないと僕は思います。富山県氷見の山火事を逃れたとする奇跡の木を“いのちの樹”と名付け、遠方への輸送を“生命の大輸送”と呼び、期間中に木を持たせるための植木を“植樹”と言い換えただけで、エンディングで用意されている死の物語に向けて準備されるセットアップとしては物語構成上、必要十分であるからです。つまり、今回の物語ブランディングにとっては震災の鎮魂は補強としてしか機能していません。また、“落ちこぼれのアスナロが神戸で輝く樹になる”という意味付けも物語の補強であり、その本質ではありません。

 その悪趣味な補強こそ、批判者の感情の起点であるというのは間違いではないのですが、その批判に対しては「そんなに深い意味はないですよ」や「うまく感情移入してもらってうれしい」「震災の鎮魂は自分にもやる権利がある」といった反論で堂々巡りに追い込まれてしまいがちです。昨年の12月半ばに僕が書いた批判(月刊経済情報誌『ZAITEN』2月号に掲載)においても、そこは意識していますが、イベントが終了した今、その思いは強くなっています。遅れてきた批判者としては、その策に乗せられることでこの問題を矮小化もしくは風化させるわけにはいかないと思います。

 第一には、このイベントの問題点は「物語ブランディング」と呼ばれる広告手法によってつくられた広告にあると僕は考えています。個人が資金を持ち出し、神戸市という地方公共団体や様々な企業が支援するという有志のボランディアっぽい雰囲気を装っていますが、純粋にその衣を剥ぎ取り、ひとつの広告として見た場合、もはや虚偽広告と言っていいくらい嘘ばかり、嘘という表現が強すぎるならば、真偽が確かではない情報を元に広告がつくられています。批判が大きく、かつ広範囲に広がり過ぎたためこのことを些細なこととして見られていますが、社会に対する広告の信用を考えるとき、決して小さな問題であるとは言えないでしょう。これを大目に見ることは広告の破壊行為であると僕は思っています。

 この物語ブランディングは、構成として、まず初めに崇高な生の物語を示し、木の生命に過剰な意味付けを与え、十分に感情移入させた後、その筋書きを反転させるようにして死の物語が示されます。つまり、死の物語に相当なカタルシスを持たせたドラマタイズがされています。その物語に対して「アスナロを殺さないで」という感情反応がウェブで示されたわけですが、その反応に対しては「そう思った人は、その植物を思う気持ちを大切に生きていってほしい」という答えが用意されています。

 この悪趣味な物語構成に対しては、様々な角度からいくらでも批評できそうな気がしますが、記述が難解になればなるほど現実的には為の論議になりがちですので、ここは例え話で論をすすめます。

 この物語の類型としては、小学校や中学校などでも稀に行われている「いのちの授業」に当てはまります。生徒に後に食用とすると伝えずに鶏を育てさせて、育った後にシメて食べさせるというような教育です。これは現状では教育者が生徒の心を注意深くケアすることでかろうじて許容される教育法ではあるでしょう。このイベントを全面的に応援するとして特集を組んでいた『ほぼ日刊イトイ新聞』は“みなさんがこのツリーを見て、なにを考え、なにを思うか、それこそが清順さんの本当のねらい”と表現し、ウェブで起きた中止運動から神戸市に出された質問に対してイベント終了後に提出された回答でも、主催者の言葉を引用するように“学校では教えてくれないような植物のことを感じてもらう”と示されていました。

 ここで「いのちの授業」が許容されるのであれば、このイベントの物語ブランディングも許されるのではないか、批判者は過剰反応なのではないかという疑問が生まれるでしょう。僕は許されないと考えています。「いのちの授業」が成り立つ条件は、その場が教育の場であることです。教育の場とは、先生と生徒、教える側と教わる側という非対称な関係が成り立つ場です。被災地神戸のクリスマスという高度に公共的な祝祭空間に、その関係が成り立つでしょうか。答えは否です。やるなら、教祖と信者という非対称関係が明確な宗教行事に類するものとして閉じる形でやればよい、そして、公共空間にその関係を成り立たせようとする試みに僕は市民として抵抗を示したいと考えています。

 たぶん、これだけ批判が高まった今なお、主催者とその支援者は、そういう非対称な関係が公共で成り立つと考えているのだろうと思います。今回はしくじったけれども次はうまくいくはずだとも考えているような気さえします。その動機を支えるものは、我々前衛、つまりより深く物事を考え、知り、未来を見据えている者が、愚かなる大衆を導くべきであるという信念であるのでしょう。この信念に対する批判は、かつて吉本隆明が前衛党派、前衛知識人批判の文脈で行った大衆の原像についての論考を振り返れば足りるでしょう。あなた方は大衆の原像を見誤っている。大衆の原像を見誤った思想は、大衆によって唾棄される。僕が言いたいことは、それ以上はありません。

 ここまで論考をすすめてもなお残ることがあります。それは、批判者の心に残り拭い去ることができない、グロテスクなものを見てしまったという忌避感です。この核心に迫るには、日本の社会思想史をたどる必要が出てくるだろうと僕は思っています。少なくとも僕には、この象徴化された死をモチーフとした物語に、死による魂の救済という思想の片鱗が見えます。それは宮沢賢治の『よだかの星』等にも見られるものですが、読むための自発性が求められる小説として書かれた物語に対して、実際のモノや人が動くコト消費として公共空間で示したことに、現代性を見ることができます。主催者の「嫌なら見るな」は反論としては成り立ちません。

 ここ十数年の思想的な流れを見ると、「新しい公共」論が隆盛し、その後、東日本大震災が起きました。表面的には政府が機能不全になり、ある種の人々に無政府状態のような高揚感が生まれました。本来は公共が担うはずのことも個人が担う、担えるという空気が生まれました。それは、あの危機に対して一定の貢献はあったとは思います。しかし、それは危機で生まれた欠乏を緊急避難的に埋め合わせるものであって、あのときに際立った個人の力はある時点で公共に還元されなければなりません。あの頃の空気が永続的なもの、つまり、未来のあるべき形ではないと僕は考えています。

 熊本の震災では、東日本大震災の経験を生かしてボランティアの仕組みが徐々に整備され、所謂「野良ボラ」が減り、スピリチュアリズムや自己啓発、自分探しをベースとした個人の信条が暴力的に公共に持ち込まれることが少なくなりました。危機に瀕した人が公共あるいは社会の使命として、その助けを受けるのに、あなたが信じるのは俺かあいつか、と属人的に問いただされ、地域社会が分断される状況をいつまでも続けるわけにはいきません。経験を生かして次の時代へとつなげていく。歩みは遅くとも、一歩ずつ前に進んでいく。それが未来というものの実相だと思います。今回のイベントに批判が集まり、その物語ブランディングが無化されたのも、その経験を経た社会の成熟であるだろうと僕は考えています。

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