『永遠の三角形 Bill Evans Trioの音楽』ノート(1)
ビルエバンスというジャズピアニストをご存知ですか。私は、彼の音楽が大好きです。好きな音楽は、と聞かれたら、迷わず、オフコースとビル・エバンス!というくらい聴き込みました。はじめて聴いたのは、大学の時でした。
私は、高校の頃から、下手くそながら、ギターとピアノを我流でやっておりまして、やがて当時流行っていたフュージョンにはまりまして、カシオペアやら、スクエアやら、ナニワエクスプレスやら、プリズムやらに夢中になって、小学校時代からの友人と、多重録音でオリジナル曲つくったりしてたんですね。
ちなみに、多重録音と言っても、いまと違って、ダブルカセットで音を聞きながらダビングを重ねていく方法でした。まずは、調律の変えられないキーボードとリズムマシン、そしてベースを、二人で同時録音。リズムマシンも足の指でスイッチオンしてました。で、その録音テープを流しながら、それにあわせてギターなどを録音する、という流れなんです。カセットテープなので、音が微妙に狂うので、ラジカセから流れてくるキーボードのA音にあわせてギターを調律し、エレキギターとアコースティックギターを重ねていくというとんでもなく原始的な方法でした。時代ですね。
そんな内弁慶のアマチュアミュージシャンの私が、やがて中央大学に入学して、大学でも音楽やりたいなあ、と思い、中大モダンジャズ研究会に入ったのです。その頃は、まったくジャズなんか聴いたこともなければ、興味もなかったのですが、なんとなく波長があったのか、まあ成り行きでした。(中大ジャズ研のみなさん、お元気ですか。なにわです。私も、なんとか元気にやってます。)
入ってみて、ジャズを聴いてみたんです。良さがまったく分からないわけですよ。困ったなあ、と思いました。特に中大のモダンジャズ研究会はハードバップ一辺倒の雰囲気があり、ロリンズやら、バドパウエルやら、クール時代のマイルスやら、モンクやら、そんな感じだったんですね。モードとかフリーでさえ、だめ、みたいな感じで、ジャズ愛がなかった私は、なんか場違いなとこに来ちゃったなあ、と。
あの頃、バップ漬けの環境で、私の耳には、なんとなくバップというかジャズの中には、独特のコード(和音という意味ではなく文化的な共通ルールみたいな意味の)がある気がしたんですね。その言語が好きで、理解もできる人には心地良くても、その言語を理解できなかったり、とっつけなかったりする人にとっては、強烈な疎外感を感じさせる要因になるんです。落語や相撲などの伝統芸能の、とっつきにくさに似た感じです。つまり、閉鎖的な感じがしたんです。今はそんなでもないし、ロリンズも好きですが、当時はすっごく閉鎖的な感じがしました。
そんな中、あっ、これ分かる、すごく好き、と思えたのが、ビルエバンストリオの『ワルツ・フォー・デビー』というアルバムでした。ビル・エバンス(1929-1980)は、プロデビューはじめの頃は、かなりバドパウエルの影響が色濃く感じられる、ハードバップ色の強い演奏でしたが、あの有名なベースのスコット・ラファロ、ドラムのポール・モチアンとのピアノトリオを結成し頃から、バドの引力から抜け出すんですね。
このアルバムは、NYのビレッジバンガードのライブなのですが、エバンス、ラファロ、モチアンのトリオの最後のアルバムでもあります。それから数日後、スコット・ラファロが交通事故で亡くなるのです。
このアルバムの彼らの演奏は、今までのジャズとは決定的に違うことがあります。それは「インタープレイ」です。これまでのジャズは、ドラム、ベース、場合によってはギターというリズムセクションが「スィング」と呼ばれるジャズのグルーブを作りだし、ソリストであるサックスやトランペット、あるいはピアノトリオの場合はピアノが、自在にアドリブの創造性を発揮するというものでした。リズム隊とリードがはっきりと分かれていたんですね。
それに対して、このインタープレイは、この明確な区分けを無効化しました。ピアノトリオを例にとると、ピアノ、ベース、ドラムが三者対等で、そのそれぞれがそれぞれの音を聞きながら、直観によってひとつのサウンドを作り上げようとする考え方で、そのプレイの呼応の仕方は、これまでのハードバップにおける「コール&レスポンス」とは全く違う考え方でした。
コール&レスポンスが「ああしたから、こう返す」という反射神経的なコミュニケーションであるのに対し、インタープレイは「あうんの呼吸」的な直観的なコミュニケーションなのです。この手の禅問答的な話になると、大阪人の私は、でもほんまかいな、ちょっとさあ、そのインタープレイって考え方、胡散臭いなあ、と思ってしまうんですが。でもね、このアルバムの音は、本当に、三者が、とくにベースとピアノが自由なんですね。4ビートのランニングベースを弾かないラファロと、逆に、ベースの音を縫うようにからみあうピアノの音、そんな自由かつ緊張感のある、あるいは、少しあやうく危なっかしい対話を、やさしく包んでひとつのビルエバンストリオのサウンドに仕立て上げているのです。
つまり、もうサウンドが、インタープレイなんです。ピアノトリオのそれぞれの点を三角形のそれぞれの点に準えて考えると、通常、バンドというものは、どれかの一点を頂点とする、二等辺三角形を形づくります。ロックのスリーピースバンドは分かりやすいですが、ギター&ボーカルが頂点の二等辺三角形ですね。バド・パウエルも、セロニアス・モンクも、ピアノを頂点とする二等辺三角形です。
でも、エバンス・トリオは、少なくともトリオとして、どの点も頂点にならない三角形を目指しているように、私には思えるのです。
点と直線で形づくられる面の最小単位である三角形は、非常に不安定です。椅子の足を考えても、三脚は不安定ですよね。昔、オート3輪という小型トラックがありましたが、よく転倒したそうです。要するに、すぐに線、つまり二項関係になりたがるのですね。これを逆の観点から、第三項排除という概念を援用して言えば、すべての三角形は、二項関係の硬直から第三項をつくりだすという、二等辺三角形であるとも言い切れるかもしれません。その見方では、正三角形は、仮想の円の中の三点が動いて形づくられる様々な二等辺三角形における、その一瞬の過程であると言えます。
例えば、いじめなどの社会的暴力の関係(これは国家的暴力も同じ構造だと思いますが)においては、頂点の一点は、二項関係の暴力的対立回避のために作り出された、あるいは排除した第三項と言うことができます。その逆位相では、ほんといやな意地悪なものの見方ではありますが、通常のピアノトリオは、ベースとドラムというリズムセクションという自由な音楽の創造性を禁じるとことでスィングというグルーブを生み出すことに特化された二項関係、つまり、ルサンチマンが無意識的にとけ込んだ職人的自意識の二項関係が排除した、第三項という見方もできます。
ビル・エバンスの頭の中に、三角形のイメージがあったかどうかはわかりません。けれども、彼の中には、これまでのジャズの伝統や形式である、ソリストとリズム隊の区別を壊さなければ、彼にとっては自身の芸術の次が見えない、という意識があったことは間違いがないと思います。
二等辺三角形、つまり、二項関係と排除された第三項という関係を拒絶するには、仮想の円を動く三点は、絶えず動き続けなければなりません。けれども、そこのことは可能なのか。それよりも何よりも、完全に対等な三角関係、つまり、私はこれを「永遠の三角形」は可能なのか。そして、ビル・エバンスは、その「永遠の三角形」をカタチにしたのか、それとも、やはりそれは不可能だったのか。
そんなうっとしいことを、エバンスの音楽を聴いて以来、考え続けてきました。あまり整理していないけど、見切り発車でノートというカタチにして書いていきます。急がず、じっくり、うだうだと書いていきますが、よろしくお願いします。
『永遠の三角形 Bill Evans Trioの音楽』ノート(2)に続きます
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