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2007年6月の31件の記事

2007年6月30日 (土)

ウィンドウズにするかマックにするか。

土日は家で仕事です。月曜朝までにもろもろ仕上げなくちゃいけないものがあり、地味にカチカチとキーボードを打ってます。でもまあ、今の状況だと、仕事があるだけありがたいことで、泣き言いっちゃ罰当たりますね。周りの話を聞いても、どこもまだまだしんどい状況です。こういう状況はこれからも続きそうな気もしますので、がんばらないとね。どこかの誰か知らない同業の人、同業じゃない人も、この業界に入ろうかなと思ってる学生さんなんかも、お互いがんばりましょうね。

で、題名の件。ブログをはじめるようになって、いろいろ自分のPC環境に不都合が出てきまして、どうしたもんかなあ、と。今のPC環境は、MacのPowerBookG4チタニウム 400MHzでOS9.22なんですよね。メモリが768MB。当時としては、かなりいい環境だったんですが、さすがに7年くらい経ってますからねえ。さすがに買い換えようかな、と思っています。

私の場合、広告制作でずっと飯を喰っているので、Macに親しみはあるんですよね。日本だけらしいですが、デザインも印刷会社もぜんぶMacなので、標準はMacということになってます。コピーライターの駆け出しの頃は、EZ WORDで原稿を打ってました。会社もつい最近まではOS9で、やっとOSXに移行みたいな状況です。海外はPDF入稿が進んでいるみたいで、あまりOSに依存してないみたいですが。CMもオフラインはMacが多いので、Macが多いみたいですが、じわじわWindowsが勢力を伸ばしているみたいです。

私はアートベースではなくコピーベースなので、どちらも選択できる状況にはあるのですが、新しいPCをどうするかを考え出すと、ちょっと悩むなあ、と。選択肢としては、OSX、Vista、OSXでブートキャンプでXP、中古PCでXPという感じです。ここでXPが選択肢として出てくるのが、職場の事務環境はXPで、前に買った東芝リブレット用に買ったパワポ付きOfficeのパッケージを利用できること、それに旧W-ZERO3[es]を持ってるので、それとのOutlook連携を考えてです。

W-ZERO3[es]は、Vistaだと連携がちょっときついということをよく聞きます。スケジュールの連携ができなかったり、特に連絡先のPCへのデータ移行ができなかったり、不安定だとやだな、と。

そうなると、OSXでブートキャンプでXP、あるいはパーテーションをきってマルチOS環境にするというのが合理的なんですが。それにねえ、いまはネットの仕事が多いので、Windowsで検証なんかするのは便利そうだし、Macはフォントとかレイアウトとかがきれいだけど、パワポの企画書は実務上、Windowsベースで進んでいくのも事実です。マルチOS環境は魅力的ですが、これはこれでいろいろありそうな予感が。この環境の人、使い心地いかがですか。

それにしても、本当にITはドッグイヤーですねえ。このPowerBookまだまだハードは絶好調なのに。すでにhotmailはこれではどうしようもなくなってるし、けっこうソフトにもお金かけたのになあ。

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2007年6月29日 (金)

「公園の時計」と現代デザイン

Img116_2 目覚まし時計のエントリーでも書きましたが、私は無印良品の「公園の時計」という名の腕時計を愛用しています。こういうデザインをミニマニズムといいますよね。私の場合、どうも嗜好や考え方が、ミニマニズムになってしまう傾向が強いです。

もともとCIプランナーをやってたこともあり、ミニマニズムの考え方に共感する部分があるのです。これは、無印良品の社外取締役でもあり日本デザインセンター原デザイン研究所主宰の原研哉さんの受け売りでもありますが、近代デザインというか現代デザインと言ってしまってもいいのかもしれませんが、いわゆるバウハウス以降のデザインは、基本的には合理性で考えられています。

それまでは、デザイン=意匠は、ある権威(それは権力であったり信仰であったりしますが)を人々が感受できるように装飾するということでした。それが、いわゆる市民社会の成熟とともに、近代以前の権威を具現化するための装飾としてのデザイン=意匠は、大きな意味を持たないようになってきて、デザイン=意匠は、生活の必要や、役割・機能を合理的に突き詰めてひとつのフォルムなり色なりに定着するというデザインに変わっていきました。

その中のひとつの考え方が、できる限り装飾性を取り除いて考えるミニマニズムです。この「公園の時計」は、そんなミニマニズムでつくられた腕時計です。原研哉さんが、無印良品のコンセプトを「これでいい」と定義されていますが、この腕時計はそのコンセプトがすごく表現されていると思います。

「これでいい」は、「これがいい」とは決定的に違います。多くの製品やブランドが主張するものは、大きく言えばほとんどは「これがいい」です。しかし、無印良品は「これでいい」をメッセージするわけですね。それが、アルミの名刺ケースだったり、パルプ製の収納ボックスだったり。ミニマニズムの極致だと思います。茶道や日本庭園に通じる日本の美学に通じるものを感じます。

ジャズピアニストのビルエバンスは、どのアルバムか忘れましたが、日本の書道を賛美する解説文を書いています。それは主に、自身のインタープレイという演奏手法を、書家のインスピレーションを筆を半紙に置く一瞬にこめる芸術手法と重ね合わせるものでしたが、どこかで、この無印良品的なミニマニズムと、ビルエバンスの音楽はつながっているのかもしれません。

でも「これでいい」とメッセージする腕時計も、使ってみると「これではだめ」というトホホな部分が少なからずあるんですよね。たぶん、私の買ったものだけの不良ではないと思いますが、自動巻きということもあるのか、それともないのか、時間が1日で3分くらい進んだり遅れたりするんですよね。進むだけならまだしも、遅れるだなんて、結構シビアなスケジュールで仕事してると、洒落ならんですよね。それとねえ、バンドと本体をつないでる棒あるじゃないですか。それが、ほんのちょっと力が加わっただけで取れるんです。一度、駅で取れて、コンタクトを探すように、探し回ったことがあります。無印の製品は、他の製品でも、ちょくちょくそういうことがあって、まあしゃあないかな、と思いましたけど。

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コンピュータ・アソシエイツ(5)

2007y06m29d_204052168先にご紹介したアークサーブというバックアップソフトウェアの新バージョンが出たときの広告キャンペーンです。この製品は、私は3年間ほど担当させていただきましたが、一貫して「現場でがんばっているIT担当者を支援する」という現場主義のコンセプトでいきました。

当然、ボトムアップでソフトウェアの決定がなされていくという日本の企業慣習とかを、マーケティング的に分析してコンセプト設定を行っていますが、まあ理屈はともかく、俺たちは現場を応援しようぜ、という姿勢があったんですよね。私にも、先方にも。最近はようやく変わってきましたが、ITの広告といえば、決まって摩天楼を望むオフィスの役員室の窓際に、イケメン経営者が書類持って、うーむ、みたいな顔で立っているというような広告ばかりで、あんまり面白くなかったんです。

それと、私としては「がんばれ」という言葉をもう一度復権させたかったのもありました。臨床心理学の知識が大衆化して、うつ状態の人に「がんばれ」と言い過ぎると良くない、ということが言われはじめ、「がんばれ」という言葉が、広告コピーの中でタブー化してしまっているように思ったんですね。

先の臨床心理学の話は、一般的な社会の中では、すごく落ち込んでいる人に対して、状況にもよりますが、普通にああこの人にはこの状況で「がんばれ」って言うのは意味ないな、とか、今はずっと話を聞いてあげようとか、そばにいててあげよう、とか、逆に、いつでも話せるようになったら電話してよ、とか判断できる話ですよね。

「がんばれ」という言葉には罪はないと思うんです。だから、大きな声で「がんばれ」と言おうと思ったんです。「がんばれ」という言葉に、がんばれ、コピー、読みにくいと思いますので書いておきます。

完璧にできても、誰もほめてくれない。

だけど、あなたの確実なバックアップ/リストアの仕事が、

今日も日本のビジネスを動かしている。

日本で最も多くの人に試され、鍛えられている

バックアップソフトウェアであるアークサーブは、

これからもあなたのがんばりを支え続けたい。

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コンピュータ・アソシエイツ(4)

Caconsert_1 コンピュータ・アソシエイツ(現日本CA)が協賛しているクラシックコンサートのパンフレットに出稿した広告です。自作のなかでは、個人的に好きな広告ですので、ご紹介します。

神奈川県の葉山市の私邸で行う小さなコンサートですので、当然予算もなく、これまでは現行の広告の焼き直しで済ませていたのですが、コンサートに来る人は、あまりコンピュータ・ソフトウェアと関係もない普通の音楽愛好家ばかりなんですね。だから、広告屋としてはさびしいなと思い、提案しました。

コピーの「人を幸せにするために音楽が生まれた。」というのは、レトリックとしては平凡なんですが、あえて平凡なレトリックで、当たり前のことを、当たり前のこととして、もう一度問いかけたかったんですね。

ソフトウェアだって、コンピュータだって、広告だって、ブログだって、人を幸せにするために生まれたんですよね。最近の企業の不祥事とかを見ていると、そうじゃない感じもするんです。何のためにその商品やサービスってあるの、と問いかけたくなるようなこと、多いですよね。ウィルスやスパイウェアみたいな、人を不幸にしてしまうソフトウェアもありますし。

2007y06m29d_202610182この広告とともに、小さなカードもつくりました。当時の社長もはじめ、みなさんこのメッセージを気に入っていただいて、2つ折のカードで、表紙が「人を幸せにするために音楽が生まれた。」と入っていて、開くと、左の写真にあるイラストが出てくる、というだけのシンプルなカードです。それを、ちいさなお饅頭の箱に添えてお客様にお配りしました。

ロゴの部分に見えにくいかもしれませんが「ソフトウェアも、きっと同じです。」というコピーが入っています。広告人として、いつも「広告も、きっと同じです。」といつも目線をそらさずに言える仕事をしたいな、と思っています。ときどき、目線をそらしそうになるけどね。

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芸人もブログの時代なのか。

家に帰ってテレビをつけたら、雨上がり決死隊の「アメトーク」という番組がやっていました。芸人ブログ特集でした。たくさんの芸人や有名人がブログをやっているんですね。

私は、とあるバーで、マスターとmixiの話になって、それで、mixiに紹介してもらって、入会して、ちょっと触ってみて、ネットに書き込んだりすることに免疫がついてきたな、と思ったので、じゃあブログつくろかな、という感じでブログをはじめました。

ネットは、よく利用はしますが、能動的にはすごく奥手で、2ちゃんねるなどの掲示板にも書き込んだことなかったし、ニフティサーブとかPC-VANの時代のパソ通時代のフォーラムとかのイメージがこびりついていて、どうも能動的にネットとかかわるのが苦手だったんですよね。

よく読むブログはfinalventさんの「極東ブログ」だったり、斬り込み隊長さんの「俺様キングダム」だったり、山形浩生さんのウェブページだったり、その昔は河上イチローさんの「ディア・アングリッフ」だったりしました。だから、このココログの看板ブログの真鍋かをりさんの「ここだけの話」とか、しょこたんブログの人気を見て、びっくりしました。あのような感じの、とりたてて特別なコンテンツがなく、本人がナチュラルに楽しんでいる感じのブログがすごいアクセスを稼ぎだした時、じつはこの日本のどこかで、ひっそりと新しい時代のスイッチが入ったんでしょうね。

広告業界の大先輩である糸井重里さんが「ほぼ日刊イトイ新聞」をやられてますね。その感じは、なんとなくわかるんです。著書を読むと「クリエイティブをやれる場所を自分でつくろうと思った」というような趣旨のことを言われていましたが、それはわかるんです。私がブログで書いてみようと思ったのも、同じ動機だと思います。でも、テレビで見た芸人さんたちは、そういう感じではないですよね。

そういう感じ、うらやましいなと思います。こういう鼻にツーンと来る感じ、なんとなく表現しにくいですが、例えば、まったく興味のないアーチストのコンサートに付き合いで行って、まわりは総スタンディングでキャーキャー言ってるのに、自分だけが乗り切れず、その熱狂に取り残されて、ひとりちょっと泣きそうになる、でも、なぜ泣きそうになるのか、いまいち自分ではわからない、みたいな。昔、友達につきあって、日本武道館にアーハのコンサートに行ったときのことを思い出しました。学校の卒業式もそんな気分になりますね。あと、学級会の熱い感じとかも。

あの熱狂の感じ、まあ私も大人になりましたから、お仕事だと思えば、カラオケで率先してワーワー言えますけど。でも、個人的には苦手ですね。電車が遅れて、改札口に人が集まって、駅員に集団で文句を言うような、あの集団パニックみたいな状況も苦手です。なんかね、乗れないんです、その雰囲気に。で、ちょっと泣きそうな気分になるんです。mixiとかのSNNにも、なんか似たような感じがあるような気がします。ある意味で、大人な感じが。そこで乗るのが大人でしょ、みたいな感じの。

そういう気分、綿矢りさの『蹴りたい背中』にうまく描かれていましたね。あの小説、食わず嫌いしてる人、読んだ方がいいですよ。おすすめです。『インストール』もいいですよ。でも、そのあとの短編はあまりわかりませんでした。『夢を与える』はまだ読んでないですが、どうなんでしょうか。有名スターがよく言う「夢を与えたいから」という言葉に対する違和感は、綿矢さんらしいですが。

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2007年6月28日 (木)

そして吉本隆明だけが残った。

80年代に現代思想ブームというのがありました。その頃、ちょうど大学に入ったばかりで、恥ずかしながら、私も現代思想キッズのひとりでした。訳も分からず柄谷行人の『マルクスその可能性の中心』とか『探求Ⅰ』とか読んでました。浅田彰の『構造と力』がベストセラーになったり、妙な時代でしたねえ。

世間はバブルだったんですが、私は貧乏学生で、バブルがどういう時代だったのかはあまり分からないです。ただ、東大のやつが、これからはノンバンクだとか言って、第一勧銀(今のみずほ銀行の母体のひとつ)をけって武富士に入ったことが印象に残っています。

私は、その頃は広告にはまったく興味がなく、就職活動もなんとなくな感じで、MBSやよみうりテレビをなんとなく受けたりした都合で、なんとなく大阪のベーシックデザイン会社に入りました。なにも分からず、CIプランナーなどという肩書きをもらい、企業のCIやVI(ビジュアル・アイデンティティ)、それになんちゃって都市開発なんかのプランニングをやったりしました。バブルの最後のあだ花だったんですね。

プランニングといっても、変わった企画書ばかり書いてました。また、それが許される時代でもあったんですね。今も許されるかもしれないけれど。例えば、灘の某酒造メーカーに『これからの売れ筋商品のデザインについて』というテーマで、日本たばこのたばこパッケージの変遷を調べて、マイルドセブンから、売れ筋はマイルドセブンライトになっているという事実だけで、「これからの売れ筋商品のデザインはブルーです」と断言したり、「コンビニは現代の縁日である」という今の私から見たら突っ込みどころ満載のテーゼをでっちあげて、日本酒のハレとケの持論を展開し、酒造メーカーの部長さんに、君の日本酒論は甘いと言われ、きわめて論理的に論破され、ちくしょう、とか言って阪神電車に乗って会社に戻る大らかなプランナー時代をすごさせていただきました。

でも、2週間に1度、そんなへんてこ企画書を持っていって、ほんの少しはものになったけれど、ほとんどはクズのボツプランなのに、その部長さん、いつも10万円のプレゼン代を支払ってくれたんですよね。粋ですよね。

時代は、浅田彰の言うとおり「戯れ」だったんですよね。でも、あれはPlayの日本語訳で、日本で流通したようなアホな響きは、実はないそうです。で、その頃読んだポストモダンのどうのこうのは、ほとんどすべて忘れてしまったけれど、吉本隆明だけは、いまだに読み返します。

吉本隆明だけは、あの現代思想ブームが去った後も、なぜかリアルだったんですよね。オウムについての発言も、『反核異論』も、吉本埴谷論争も。いい悪いはともかく。ちょっと不謹慎ですが、吉本さんが江ノ島で溺れたとき、テレビのニュース速報で「戦後思想の巨人、吉本隆明さんが重体」と出て、ああこれでひとつの時代が終わったんだな、と思ったのですが、その後、吉本さんは元気になられたんですよね。そのとき、ああ、なんか吉本隆明らしいな、と思いました。今、吉本隆明さん、いい老人の顔されてますよね。生き様が、物語的に格好良くないところが、吉本さんらしくていいな、と思います。

吉本隆明と言えば、ある時期から、日本の高度資本主義社会を肯定し始めましたよね。本物の左翼だと思いました。労働者の視点で言えば、その周辺や細部はどうであれ、マクロ的に見て、若く賃金の低い労働者が、休日におしゃれを楽しみ、収入のほんのわずかの割合で人生をそこそこ楽しめる、そうした社会を実現した、日本の資本主義は、労働者の視点で見れば、肯定する以外ないということだと思います。彼にとっては、左翼とは自分のライフスタイルでも、自意識の傾向でもなかったところが、本当にリアルだと思います。

例えば、吉本隆明は、こういうこと言いますよね。(というか言いそうですよね、かもしれませんが。)男女平等が本当に実現されたと言えるのは、大学の法学部学生の男女比率が1対1になる時だ、と。それは、いまなお実現されていませんが、その目には、形而上の論議ではなく、現実が見えている気がします。

吉本隆明の言うことで違和感があるのは、なぜ彼は「対幻想」を特別視するのか、というところですね。ちょっとロマンティックにすぎませんか、と思います。国家とか社会とかの「共同幻想」と、夫婦や恋人関係とかの「対幻想」は逆立する、と言い切るでしょ。「対幻想」的な甘い一体感と「共同幻想」的な一体感は、同じ匂いが私にはします。逆立なんかしないんじゃないかなあ、と思うんですよね。逆立するのは、じつは「幻想」と彼がいうような領域ではなく、国家や社会の公共の福祉的な利害と、個人や家族の幸せの追求が、時として逆立するにすぎないだけで、「対幻想」は「共同幻想」の最小単位にすぎないのでは、と思うんですよね。

私は、それより「対幻想=共同幻想」に収斂されない「完全な三項関係」が、つまり個人が共同幻想に収斂されない関係性、私はそれを「永遠の三角形」と呼んでいるのですが、その「永遠の三角形」があり得るとすれば、それが「共同幻想」と逆立するという感覚があるのです。で、興味があるのは、その「永遠の三角形」は現実において可能なのかどうか、です。それが、オフコースとか、ビル・エバンスを考えるときの、大きなテーマです。

私はなんとなく「永遠の三角形」と呼んできたのですが、よく考えると英語で言えば、eternal triangle、つまり「三角関係」のことなんですよね。そのことに気づいて、ちょっと思い当たるふしがあり、個人的なことはともかく、吉本隆明が苦しんだ三角関係の話が、案外、私の「永遠の三角形」なんてわけのわからない、なのに頭に張り付いてとれないこだわりの着想のもとになっているのかな、なんて思いました。たぶん、吉本は「対幻想」の絶対化を、その体験から着想したと思います。でも、その絶対化は、やっぱり違和感あるんです。

吉本隆明は「関係の絶対性」と言いますよね。その「関係」という言葉のリアリティは、じつは「対幻想」ではなく、あの三角関係だったような気がするんですよね。であるなら、ほんとはその三角関係こそが絶対性なのではないか、とも考えられますよね。なんか結論が不幸になりそうな気もするけど。でも、その三角関係は、人に死にたくなるような緊張感を与えますよね。逆に言えば、死にたくなるくらい生きているとも言えるわけでもあるんですよね。少なくとも、ビル・エバンス・トリオの音楽は、そんな極限を感じるんですね。やっぱり、それは不幸でさびしい考え方なのか、どうなんでしょう。

でもなあ、そこを避けてしまうと、すべては、結局は「浪花節」になりそうで、それも違うと思うんですよね。なんかわけわからないエントリーになりましたが、本人もよくわかってませんので。では、みなさま、おやすみなさい。また、明日。

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2007年6月27日 (水)

労働党は働いていない。

_799084_saatchi3001_1 Saatchi & Saatchiが1971年につくった、英国保守党のポスターです。日本語で訳すと「労働者はまだ働いていない。」となりますし、Labourという言葉は、Labour's Party、すなわち労働党を表しますので、ダブルミーニングで「労働党は働いていない。」ともなります。この広告は世界中で名作だと言われていて、Saatchi & Saatchiはこの広告キャンペーンで一躍有名広告会社になりました。欧米の広告業界は、こういう一発の成功で、業界地図が一気に変わるんですよね。いいですね、こういう感じ。日本は、基本的には、広告代理店という名前が示すとおり、メディア扱い代理店として業界がつくられていった歴史があるので、なかなかそういうことは難しいですね。

海外広告のお手本として有名なのは、DDBがつくったフォルクスワーゲンの一連の広告ですが、私の場合は、この広告にすごく影響を受けました。この広告のベースになっている考え方として、SMP=Single Minded Propositionというものがあります。簡単に言えば、ある状況があって、その状況を変えたい、つまり、ある目的を果たしたいというときに、広告は究極どんなメッセージを投げかければいいのか、それをとことん追い詰めていこうじゃないか、という考え方なのですね。

この広告の場合、状況としては、労働党政権下で英国経済がボロボロになったということがあります。で、保守党は何を言えばいいのか。それが、この「労働党は、働く政党という名前なのに、名前倒れで、何も働いていないじゃないか。」というものだったのです。DDBのフォルクスワーゲンから脈々と流れるベネフィットをいかにすぐれたアイデアで表現するか、という伝統的な表現手法から自由になって、ベネフィットとかブランドコンセプトではなく、そこから自由になって、もう一度、本当に何を言えばいいのかを考える、という態度が、当時、私が仕事で直面していた問題を解決する鍵を与えてくれたんです。

ビジュアルもいいですよね。当時の英国の状況そのものを、「労働者は働いていない。」というコピーとともに見せてしまったんですね。労働党は労働者のためというけれど、違うじゃないか、と。英国の人たちは、この広告を見て、そうか、その通りだと、目を覚ましたんですね。そして、保守党は大勝利するのです。

Forpeace左の写真は、たぶんSaatchiがつくったと思うのですが、その広告のパロディです。「労働者は働いていない。」というコピーに、同じ構図のミサイル。そして、左隅に「平和のために。」というコピーがレイアウトされています。いわゆる反戦広告です。これを見ても、あの保守党の広告キャンペーンが、英国の人たちの脳裏に焼きついているかが分かりますよね。

SMPという考え方は、私の広告表現作法のひとつのバックボーンになっています。What to sayとHow to say。その中のWhat to sayを追い詰めて、追い詰めて、追い詰めることで、How to sayに辿り着く。そんな感覚でしょうか。要するに、この状況で究極、何を言えばいいの?とりあえずは、ベネフィットとかコンセプトとか、そういう広告の定石を、一度置いておいて、自由に考えたとき、何があるの?そう考えていくと、もしかすると、それは何でもない平凡な一言かもしれない。競合性も差別性もない、平凡な一言が、世界を大きく変えてしまうかもしれない。

Photo自分なりに、そういう考えでつくった広告を2つばかり。またまたコンピュータ・アソシエイツですが、「マネジメントを変えよう。」です。赤字で「ソフトウェアを」とあります。日経新聞やビジネス誌に出稿しました。また、こういう企業にしては珍しく、地下鉄の車内ステッカーも出したりもしました。マネジメントというのは経営者という意味もありますよね。そんなに時間が経っていないので、状況は変わっていないと思いますが、リストラ、リストラで、業績が悪いといえば、現場でがんばっている人が犠牲になってしまう、いやな世の中ですよね。だからこそ、現場からの声として、「経営者を変えちまおうぜ。」と言おう。それが、ビジネスの様々な領域の業務を支援するマネジメント・ソフトウェアをつくっている会社のメッセージではないか。そんなふうに考えました。

Photo_2続いては、Windows Server 2003がデビューした日に掲載した広告です。プロポジションは「CAのソフトウェアは、Windows Server 2003での動作テストをすべてクリアしています。」というものです。このタイミングでは、これ以上でも以下でもない。そう考えました。そこにどのような形容も、修飾も、基本的には必要がない。このメッセージが、伝わればいい、そう考えたとき、そのメッセージを伝えるツールは「言葉」ではなかったのです。それは、動作テスト済みを表すステッカーだったのです。この広告は、人によっては、USP=Unipue Salling PropositionとかSalling Pointと見るかもしれませんね。SMPは、私の解釈だと、USPも含む、もっと大きな考え方で、ただひとつのメッセージがUSPだったとしても、それはそれでいいじゃない、みたいな自由な精神がいいなと思っています。もちろん、ベネフィットでも、ブランドコンセプトでもいいわけです。そんな自由な感じ、好きですね。

でも、べつに私、SMP信者ってわけでもなく、SMPも万能ではないと思っています。大雑把には、世界の広告には、その時々の流行思想があって、ちょっと前までは、Brand Attitudeが流行っていましたよね。ブランド特有の態度の表明みたいなことですね。SMPの前は、Benefitの時代でしたし、DDBなんかはDifferent Pointとでも言うのでしょうか。日本の広告マンは、ことあるごとに、コピーもアートもCMプランナーも差別化、差別化っていいますよね。これは、DDBの広告作法が、日本人にすごく浸透している証拠でもありますね。でも、これについては矛盾もありますよね。日本人は差別性のない共感も好きだったりしますから。まあ、私の態度としては、何でもありで、ケースバイケースということで、お願いしたいな、という感じです。

追記:じつは英国保守党のポスター「Labours don't work.」というコピーで記憶していたのですが、ネットには画像の「Labour isn't working.」もしくは「Labour still isn't working.」しかありませんでした。もしかすると、あの画像は、最近、昔の保守党のポスターがリメイクされて出たものである可能性もあるな、なんて思いました。真相がわかり次第、あらためてご報告します。

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2007年6月26日 (火)

伊集院光のラジオを聴きながらうだうだ考えました。

いまTBSラジオの『ジャンク・伊集院光 深夜の馬鹿力』を聴きながらこれを書いています。この番組、大阪ではやってないんですよね。東京の受験生たちは、このラジオを聴きながら受験勉強をしているのでしょうね。大阪の受験生はそうじゃなくて、いま大阪のラジオの状況はあまり詳しくないけれど、誰かのラジオを聴いてるんでしょうね。それとも、いまの受験生はラジオは聴いていないのかも。

でも、この東京ローカルと言えてしまうローカル性がAMラジオの魅力でもあるんでしょうね。大阪のやつは、伊集院光はラジオでこそ光る人だ、ということをきっと知らないと思います。大阪の人よ、あんたは知らんかもしれんけど、あんたがが思ってるより、伊集院光は面白いんやで。東京はおもろないと言うのはちがうんやで。と、大阪環状線で隣に座った高校生に、小さな声でつぶやきたい気持ちになります。

また、東京の人には、北野誠は、あなたが思ってるような知性派便利タレントとちがうんですよ。もっともっと過激な人なんですよ、と山手線で隣に座った高校生に、小さな声でつぶやきたい気持ちです。インターネットによってグローバル化する情報に逆行するように、ローカルに固執しつづけるAMラジオっていいと思いませんか。

名古屋の人なら、ゆき姉(兵藤ゆき)とか、つボイノリオとか、そうそう鶴瓶も東海ラジオの『ミッドナイト東海』から火がついたんですよね。基本的には、フリートークは、がちんこ勝負だと思うので、人気とか知名度とか関係なしに実力勝負ができるのがいいですねえ。私は、KBS京都の『ハイヤング京都』でつボイノリオを聴いてたから、つボイノリオのラジオのすごさはよくわかります。彼の曲の『名古屋はええよ、やっとかめ』で「名古屋を馬鹿にすると新幹線止めるでよ」という歌詞が脳裏にこびりついて、いまも取れません。すごい歌詞でしょ。

ああ、大阪やなあ、という人で言えば浜村淳ですね。MBSで『サタデーバチョン』という番組をやってらっしゃいました。これは若者向けの番組なんですよね。ヤンタンとかの下品な感じについていけないよい子の若者に大人気の番組でした。その頃にすでに、昼(それとも朝だったっけ)の帯番組でおっちゃん、おばちゃんターゲットに『ありがとう浜村淳です』をやっていましたから(それともまだやってるのかしら)、すごいもんですね。私は、あまり熱心には聴きませんでしたが。

離れてみると、大阪、あらためて面白いですよ。夜の街を歩くと、大阪って、ソウルとブルースばかりなんですよ。もうね、街が黒いんです。真っ黒なんです。ファンキー&グルービーなんです。リズムが3連なんです。ギターはワウワウなんです。3コードなんです。後乗りなんです。ついでにスロットはいまだに5.5枚交換なんです。地域の差って、これだけ情報が均一化された今でも、まだまだありますねえ。ああ、きざみうどん、喰いたなってきたなあ。

今日は、伊集院光が、ビリーズブートキャンプについて話してますね。そうですよね。私もブートキャンプっていう言葉をはじめて聴いたとき、へえ、みんなマックでウィンドウズ使いたがってるんだ、と思いました。伊集院光とは年齢がタメなんですよね。ayuのこと大好きだ、みたいなこと今、話してますね。でも、レーティングの時期に、伊集院光の月曜日に、いつもayuのオールナイトニッポンをぶつけられるんですよね。伊集院光はかつてニッポン放送を出入り禁止になったそうで、そういうことで、いつもかぶせられるらしいです。噂ですけど。

で、そのときは、TBSラジオは、深夜1時になるとオールナイトニッポンのテーマが流れた後に、「偽浜崎あゆみのオールナイトニッポン」ってやるんですよね。15分くらい。なんか負け試合のやけくそ感、いいですねえ。それとね、つい最近まで、伊集院光は元オペラ歌手と本気で信じてたんですよね。何かで聴いたのですが、つい最近、それが伊集院光の嘘だと知りました。この番組で。もう、ほんとに。その話、酒の場で、何回、小ネタで得意げに話したことか。笑いの帝国を自負する大阪の人よ、東京には伊集院がいるんだぜ。

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2007年6月25日 (月)

『鶴瓶・新野のぬかるみの世界』が残したもの。

Img110私が高校の頃ですから、もう20年以上前になりますが、日曜日の深夜にいつも聴いていたラジオ番組がありました。『鶴瓶・新野のぬかるみの世界』です。当時、大阪の西梅田のサンケイビルにあったOBCラジオ大阪から放送されていました。今は、OBCは弁天町ですね。鶴瓶というのは、笑福亭鶴瓶。新野というのは、大阪の放送作家の新野新。私と同じ世代で大阪で過ごしていた人なら、新野先生はご存知だと思いますが、大阪以外の人はあまりご存知ないかもしれませんね。

当時はテレビの深夜放送もそれほどなく、ラジオもさすがの日曜深夜はどこも放送しておらず、街中がひっそりと静まりかえっていました。そんな中、ラジオをつけると、この鶴瓶と新野先生の声だけが聞こえてきて、もしかするとこの放送を聴いているのは私だけじゃないか、と錯覚してしまうような、妙な気持ちで聴いていました。最初の頃は、民放なのにCMがなかったんですよね。12時開始で、終わるのは2時とか3時とかでした。というのは、気分によって終わりがまちまちだったんです。今では考えられませんよね。

この番組、要するに鶴瓶と新野先生のフリートークが延々と続くだけの番組なんです。コーナーもありません。話題は、成り行きまかせ。「おにぎり談義」というのもありました。素手で握ったおにぎり、誰のだったら食べられるか、という話です。西城秀樹のは食べられるか。八代亜紀はどうか。そんな感じの話です。まあ、食べられるんでしょうが、生理的なニュアンスをおにぎりを食べるというのでさぐっていくんですね。鬼畜な話です。この鬼畜というのも、ぬかるみ用語で、あの映画の「鬼畜」から来ている言葉です。その話、人間的にちょっとどうなの、みたいなニュアンスの言葉です。

他にも、人間の類型を表現する言葉で「おじん」「おばん」「おじんの皮かぶり」「おばんの皮かぶり」というのがあって、それは性別を表す言葉ではなくて、「おじん」は寡黙でクールな人、「おばん」はおしゃべりで社交的な人。「皮かぶり」はいわゆるあれですね。つまり、「おじんの皮かぶり」は本当は「おばん」なのに人前では「おじん」を気取っている人。逆だったかもしれませんが。「おじん」の代表格が高倉健。「おばん」の代表格がつんくとかかな。

鶴瓶は、本当の意味でフリートークの元祖みたいな人で、ジャズにおけるフリー革命みたいな感じのことをお笑い界でやった人だと思います。テレビ東京の『やりすぎコージー』という番組で、今田耕二が「東京もんに負けてたまるか!俺らにはなあ、なにもなくてもまわせるフリートークちゅうのがあんねん!俺らは子供の時に鶴瓶に教えてもうたんや、フリートークというものをな!」みたいなことを言っていましたが(ちょっと違うかもしれませんが)、あの感覚よく分かります。自分の世代を何というのか、というとき、鶴瓶世代っていう言葉がしっくりきますもの。

この「ぬかるみ」をテレビに持ってきたのが、よみうりテレビの『上岡・鶴瓶のパペポTV』ですね。余談ですが、この前、ノックさんのお葬式で上岡龍太郎さんがテレビに出てましたねえ。なんか涙が出そうになりました。この「パペポ」というのは「ぬかるみ」の中の言葉なんです。いわゆる女性器を表す大阪弁をラジオではこう言ってたんです。「ビメコ」「ブメコ」という言葉もありました。これは、解説しません。興味のある方は、調べてみてください。

今で言うと、テレビ大阪の『きらきらアフロ』ですね。この番組で、オセロの松嶋尚美の魅力が世の中に一気に知れ渡りましたよね。鶴瓶という人は、いろんなところで実験的なことを精力的にやっているそうで、名古屋では『スジナシ』という番組をやってます(それとも、やってました?)。これは、毎回ゲストを呼んで、筋なしでドラマを即興でやるという番組です。これは、きっと桂ざこばとやっていた『落語のご』の発展系なんでしょうね。

そういう鶴瓶という人の共通するテーマは、きっと「リアルであること」だと思います。そういう意味では、分野はまったく違いますが、私なんかも鶴瓶の子供なのかもしれません。この辺のお話は、また別の機会にします。写真は、その『ぬかるみの世界』が有料ネットラジオで復活したときの会員証です。新野先生バージョンです。「倍倍ゲームなのよ!」と書いてありますが、会員数は倍倍ゲームとはいかず、新野先生のお体の不調ですぐに終わってしまいました。それはそれで、リアルな話ではありますね。

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2007年6月24日 (日)

がんばれAMラジオ。

Img114ほんのちょっと前まで、広告代理店にはラテ局という部署がありました。ラジオ・テレビ局の略です。ラジオとテレビの媒体を取り扱う局のことです。ラジオが先でテレビが後。考えてみると当たり前の話ですが、はじめにラジオ局ができて、テレビが後なので、ラテなのですね。

数年前に、日本のインターネット広告の売り上げが、ラジオ広告の売り上げを超えました。もう、この順位は変わりそうにありませんね。私の場合も、ラジオCMより、スペシャルサイトやバナーの制作のほうが多くなっていますし、レスポンスをとるにしても、ターゲットセグメントをするにしても、インターネットのほうが断然有利です。

広告の業界でも、ラジオCMが話題になるのは、ACCとか電通賞の発表があるときくらいです。私のまわりにも、ラジオを聴いている人はほとんどいません。ましてやAMなんて皆無です。ちょっと寂しいです。なにせ、私は、AMラジオを聴いて育ったのですから。

私は大阪でしたので、MBS毎日放送ラジオなら「ヤングタウン」。OBCラジオ大阪なら「鶴瓶・新野のぬかるみの世界」。KBS京都ラジオなら「ハイヤング京都」。笑福亭鶴瓶やつボイノリオ、チンペイ(谷村新司のことです。なぜチンペイなのかは忘れましたが)のラジオを聴いて育ったんですね。

古き良きラジオの時代を語るつもりではありません。私は、ノスタルジーのお話は好きですが、でも、あまり積極的に話すことでもないと思うので。AMラジオ、面白いと思うんですよね。今もほぼ毎日聴きます。東京では、深夜放送と言えば、昔はニッポン放送の「オールナイトニッポン」全盛でしたが、今はTBSラジオの「ジャンク」の時代ですね。月曜日は伊集院光。火曜は爆笑問題。水曜日は雨上がり決死隊。この3つの番組は特によく聴きいています。特に伊集院光のジャンクは素晴らしい。レーティング調査のあるスペシャルウィークの特集は、特にすごいんです。

だいぶ前ですが、スペシャルウィークの時に、東海道線サッカーという企画をやっていて、東海道線の浜松駅に自転車を置いて、1週間の間に、2つのチームに分かれて、それぞれ東京駅と名古屋駅をゴールにして戦うのですが、自転車に乗れるのは日の出から日の入りまでというルールがあるのです。例えば、Aチームが浜松から熱海まで自転車を移動できたら、Bチームが熱海から名古屋に向けて戻すのです。それをただ実況するだけの企画ですが、これがすごく面白いのです。

もちろん、映像もなく、録音機材は伊集院光の手持ちです。ただ一人で、録音スタッフもなく、ただただ自転車を漕ぐ。そして、伊集院光の泣き言やらをただただ実況するだけ。それが、すごく面白いのですよね。2時間、もうね、夢中になるんです。もちろん伊集院光の話術もあると思いますが、あれ、AMラジオのメディアの力だと思うんです。

私の造語なのですが、AMラジオは「チープメディア」だと思うんですね。テレビは「リッチメディア」です。テレビは、メディアそのものの特性が、そもそもお金やら豪華な企画を必要とするんですね。ネットも、このところ「リッチメディア」になりつつありますね。その点、絵もなく、FMと比較して音質的にも圧倒的に劣るAMラジオはチープメディアの最たるものだと思います。でも、そこにAMラジオの圧倒的な優位性があると思うんですね。

伊集院光にしても、爆笑問題にしても、ラジオの時は生のフリートークなんですね。それは、すなわちテレビだとコンテンツにならない話題も含む、ということなんです。でも、そういう「うだ話」にこそ面白みがあるんですね。人がにじみ出るのは、企画会議でつくられた面白トークではなく、どうにもならないようなフリートークにあるんです。それを活かせるのは、いまAMラジオしかないような気がします。でも、そういう番組、少なくなりましたが。

大阪などは、その点では、もう悲惨なもので、深夜は声優のアニメ番組。番組の編成をターゲットセグメント論でつくると、そうなるのでしょうね。まあ、声優の番組はラジオ的と言えなくはないですが。唯一気を吐いているのは、老舗番組になってしまいましたが、ABCラジオの「北野誠のサイキック青年団」くらいですね。

ラジオCMは、広告制作者にとっては、低予算でアイデアとクオリティを作り出せる、クリエイティブのいい素材なのですが、いま私は、そういう完成度の高いラジオCMではなくて、そういうチープメディアとしてのAMラジオの特性を活かしたラジオCMを作れないかな、と思っています。

なんかね、テレビつくって、交通、雑誌からめて、ネットへ、みたいなクロスメディア的アプローチ、新しいとは思うけど、ちょっと疲れたりしませんか。あらゆるメディアで、消費者が夢中になるような、立体的コミュニケーションもいいですが、その一方で、消費者ってそんなに暇じゃないと思うんですよね。

新聞広告には新聞広告の、テレビCMにはテレビCMの、AMラジオにはAMラジオの、そのメディアに最適な表現ってあると思うんですよね。だったら、新聞やテレビで完結した面白さや楽しさ、美しさを見せてくれよ、と。他のメディアにひっぱる、みたいな、思わせぶりな感じやめてくれる、ってちょっとだけ思うんです。テレビはテレビで、新聞は新聞で、しっかり世界つくれやって、ね。こんなこと言うとWeb2.0時代のクリエーターとして失格かもしれませんが。

AMはエリアが広くて金額も安いから、そのぶん可能性もあると思うし、広告ができる企業の幅も広いと思うし、AMラジオならではの魅力が活かせる番組とCMが増えてくれば、メディアとしてのAMラジオも今よりもっと価値が上がると思うんですが。AMラジオ好きとしては、ほんと、がんばれAMラジオです。私も微力ながらがんばろうと思います。

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2007年6月23日 (土)

W-ZERO3[es]礼賛(5.1)

Img105例の[es]の新作アドエス(Advanced W-ZERO3 [es])のバナー広告が出始めました。キャッチフレーズは「The Smart Phone.」。スマートフォンという言葉は、欧米ではもう定着した言葉ですが、日本の市場でどのように理解され浸透していくのか、見ものです。EM・ONEとの差別化もあるのかな。

[es]は「仕事しろ。」というメッセージでした。私は、あの広告は好きでした。なるほど、仕事しろ、か。いいなあ、と思いました。よし、仕事するぜっ、って思いました。まあ、私がグッと来るということは、マスで大ブームはないだろうな、とは思いましたが(笑)。個人的には、アドエス、売れるといいな、と思っています。それと、EM・ONEも。EM・ONEは、品川庄司の品川がガリベンなんとかというクイズ番組で愛用してましたね。

あいかわらず、[es]は便利に使っています。もう半年くらいになりますね。初めの頃は、いろいろソフト入れては試行錯誤をしたりしていましたが、ここ最近はようやく自分のデフォルトになってきました。わりかし安定もしていますし。アドエスも、EM・ONEも、ある程度互換性があると思いますので(実機を使ったことがないのでわかりませんが)、ご参考に。

まずは電話です。デフォルトのままでは、電話帳がすごく使いにくいです。ウィンドウズモバイル純正の電話帳ソフト『連絡先』は、ケータイスタイルで「あかさたなはまやらわ1A」のタブの切り替えがはできません。これ、電話番号が増えると使いにくいことこの上ないのです。スタイラスのタッチでは切り替えができるのですが、電話するときに、スタイラス出したくないでしょ。うっとおしいですよね。それに名前と電話番号が二行表示で、一度にたくさんの番号が表示できないのですね。小さなことですが、実際に画面に表示される電話番号候補が半分になるわけですから。

そこで、ぜひ入れたいのはGzhさん作の『QDz』です。 (参照)

このソフトは、上記の「あかさたな」が全面十字キーでタブ操作できます。このソフトの導入で、ケータイそのものの使い心地になります。個人的には、まずはこのソフトがあるかないかで、[es]の使い心地に天と地の開きが出てくると思います。私は、このソフトのショートカットをToday画面(ソフトを開いていないときの画面)の下段バーの右に「電話帳」という名前を付けて割り当てています。『QDz』を立ち上げるときには、全面キーの一段目の右ボタンを押します。あとは、十字キーで番号を選んでセンター丸ボタンで選択するだけです。これで、ケータイとほぼ同じ使い心地になります。アスキーの「ウィルコムファン」 (参照)というサイトに詳しく出ていますので、詳細はそこを参考になさってみてください。

次にご紹介するのは、もう定番中の定番、picardさん作のTCPMP (参照)です。

我々日本ユーザのために日本語化したパックをaviさんが配布してくださっています。 (参照)aviさんという方は、[es]を使っている人ならウェブで何度も何度も目にする方です。[es]だけでなく、PDA全般について幅広い知識と愛を惜しみなく公開してくださっている人で、これぞ「知の共有」なんでしょうね。ほんと感謝です。

TCPMPはなぜ必要かと言えば、はっきり言って、デフォルトのWMPがヘボだから。デフォルトのメディアプレーヤは、ウィンドウズの動画形式であるWMVしか再生できず、しかも、全画面表示はできません。解像度の低い動画(私は広告屋さんなので、解像度の低い、つまり軽めのCM作品をたくさんミニディスクに入れています)は、その解像度のまま、小さな画面での表示しかできないのですね。TCPMPは、mpgをはじめ、実用的にはほぼすべての動画ファイルを開けて、しかも、解像度の低い動画でもきちんと拡大表示してくれるのです。それに、プラグインを入れたりすると、工夫次第で、ほぼソフトキーだけで操作できるんです。これもアスキーの「ウィルコムファン」 (参照)を参考になさってください。

では、本日の最後のご紹介です。

ヨシヲさん作の、ランチャー&タスクマネージャソフト『YTaskMgr』 (参照)です。

もう、私は、このソフトウェアの大ファンです。この[es]をはじめ、ウィンドウズモバイル(ウィンドウズCE)は限られたハードの機能を活かすために、ランチャーソフトはたくさんあって、それこそ大傑作がたくさんありますが、このYTaskMgrは[es]にとっては、別格です。個人的には、まずデザインがすばらしい。シンプルで、機能的で、カラーリングのセンスも抜群です。設計思想も、アイデアも、感心するばかりです。あらゆることが素晴らしく使いやすくなります。ここまで書いてきた「W-ZERO3[es]礼賛。」も、このソフトがあったから書いてきたといってもいいくらいです。

このソフトは、[es]の右側面の上段2つめにある、デフォルトでは「縦横画面切り替えキー」に割り当てて使うように設計されています。他のキーにも割り当てられますし、私もいろんなキーに割り当ててみましたが、やはり側面キーに割り当てるのがベストです。

このソフトでできることは6つあります。1)ソフトランチャー、2)タスクマネージャ、3)ボリュームコントロール、4)画面照度コントロール、5)電源オフ・画面オフ・リセット、6)画面縦横切り替え。このほぼ[es]の基本操作が、側面キーと十字キーだけでできてしまうのです。おまけ機能としては、メモリの残量によってランチャーの色が変わるという機能もあります。使い方も簡単です。ケータイを使っている人なら、混乱することはまずないでしょう。

あっ、これ使うためには、あらかじめgsgetfile.dllを導入しておいてください。ホーミンさん(この方も、この分野では知らない人はいないという方です。慣れてくると、これはなくちゃいけないというよなプラグインを数多く提供してくださっています。感謝です。)のWindowsCE FreeWare"PROVING GROUND OF MAD PROGRAMMER" (参照)から入手できます。ちょっと怖いかもしれませんが、windowsフォルダにgsgetfile.dllをコピーすれば、『YTaskMgr』からすべてのファイルにアクセスできるようになって、ランチャーのソフト登録ができるようになります。デフォルトでは、ランチャー等のソフトから深い階層のファイルにはアクセスできないような仕様になっているんですね。

では、次回に続きます。次回は『YTaskMgr』礼賛特集でいきます。よろしくです。

W-ZERO3[es]礼賛(6)に続きます

W-ZERO3[es]礼賛 (1) (2) (3) (4) (5) (5.1)  (6) (7)

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2007年6月22日 (金)

『永遠の三角形 Bill Evans Trioの音楽』ノート(1)

Billevansビルエバンスというジャズピアニストをご存知ですか。私は、彼の音楽が大好きです。好きな音楽は、と聞かれたら、迷わず、オフコースとビル・エバンス!というくらい聴き込みました。はじめて聴いたのは、大学の時でした。

私は、高校の頃から、下手くそながら、ギターとピアノを我流でやっておりまして、やがて当時流行っていたフュージョンにはまりまして、カシオペアやら、スクエアやら、ナニワエクスプレスやら、プリズムやらに夢中になって、小学校時代からの友人と、多重録音でオリジナル曲つくったりしてたんですね。

ちなみに、多重録音と言っても、いまと違って、ダブルカセットで音を聞きながらダビングを重ねていく方法でした。まずは、調律の変えられないキーボードとリズムマシン、そしてベースを、二人で同時録音。リズムマシンも足の指でスイッチオンしてました。で、その録音テープを流しながら、それにあわせてギターなどを録音する、という流れなんです。カセットテープなので、音が微妙に狂うので、ラジカセから流れてくるキーボードのA音にあわせてギターを調律し、エレキギターとアコースティックギターを重ねていくというとんでもなく原始的な方法でした。時代ですね。

そんな内弁慶のアマチュアミュージシャンの私が、やがて中央大学に入学して、大学でも音楽やりたいなあ、と思い、中大モダンジャズ研究会に入ったのです。その頃は、まったくジャズなんか聴いたこともなければ、興味もなかったのですが、なんとなく波長があったのか、まあ成り行きでした。(中大ジャズ研のみなさん、お元気ですか。なにわです。私も、なんとか元気にやってます。)

入ってみて、ジャズを聴いてみたんです。良さがまったく分からないわけですよ。困ったなあ、と思いました。特に中大のモダンジャズ研究会はハードバップ一辺倒の雰囲気があり、ロリンズやら、バドパウエルやら、クール時代のマイルスやら、モンクやら、そんな感じだったんですね。モードとかフリーでさえ、だめ、みたいな感じで、ジャズ愛がなかった私は、なんか場違いなとこに来ちゃったなあ、と。

あの頃、バップ漬けの環境で、私の耳には、なんとなくバップというかジャズの中には、独特のコード(和音という意味ではなく文化的な共通ルールみたいな意味の)がある気がしたんですね。その言語が好きで、理解もできる人には心地良くても、その言語を理解できなかったり、とっつけなかったりする人にとっては、強烈な疎外感を感じさせる要因になるんです。落語や相撲などの伝統芸能の、とっつきにくさに似た感じです。つまり、閉鎖的な感じがしたんです。今はそんなでもないし、ロリンズも好きですが、当時はすっごく閉鎖的な感じがしました。

そんな中、あっ、これ分かる、すごく好き、と思えたのが、ビルエバンストリオの『ワルツ・フォー・デビー』というアルバムでした。ビル・エバンス(1929-1980)は、プロデビューはじめの頃は、かなりバドパウエルの影響が色濃く感じられる、ハードバップ色の強い演奏でしたが、あの有名なベースのスコット・ラファロ、ドラムのポール・モチアンとのピアノトリオを結成し頃から、バドの引力から抜け出すんですね。

このアルバムは、NYのビレッジバンガードのライブなのですが、エバンス、ラファロ、モチアンのトリオの最後のアルバムでもあります。それから数日後、スコット・ラファロが交通事故で亡くなるのです。

このアルバムの彼らの演奏は、今までのジャズとは決定的に違うことがあります。それは「インタープレイ」です。これまでのジャズは、ドラム、ベース、場合によってはギターというリズムセクションが「スィング」と呼ばれるジャズのグルーブを作りだし、ソリストであるサックスやトランペット、あるいはピアノトリオの場合はピアノが、自在にアドリブの創造性を発揮するというものでした。リズム隊とリードがはっきりと分かれていたんですね。

それに対して、このインタープレイは、この明確な区分けを無効化しました。ピアノトリオを例にとると、ピアノ、ベース、ドラムが三者対等で、そのそれぞれがそれぞれの音を聞きながら、直観によってひとつのサウンドを作り上げようとする考え方で、そのプレイの呼応の仕方は、これまでのハードバップにおける「コール&レスポンス」とは全く違う考え方でした。

コール&レスポンスが「ああしたから、こう返す」という反射神経的なコミュニケーションであるのに対し、インタープレイは「あうんの呼吸」的な直観的なコミュニケーションなのです。この手の禅問答的な話になると、大阪人の私は、でもほんまかいな、ちょっとさあ、そのインタープレイって考え方、胡散臭いなあ、と思ってしまうんですが。でもね、このアルバムの音は、本当に、三者が、とくにベースとピアノが自由なんですね。4ビートのランニングベースを弾かないラファロと、逆に、ベースの音を縫うようにからみあうピアノの音、そんな自由かつ緊張感のある、あるいは、少しあやうく危なっかしい対話を、やさしく包んでひとつのビルエバンストリオのサウンドに仕立て上げているのです。

つまり、もうサウンドが、インタープレイなんです。ピアノトリオのそれぞれの点を三角形のそれぞれの点に準えて考えると、通常、バンドというものは、どれかの一点を頂点とする、二等辺三角形を形づくります。ロックのスリーピースバンドは分かりやすいですが、ギター&ボーカルが頂点の二等辺三角形ですね。バド・パウエルも、セロニアス・モンクも、ピアノを頂点とする二等辺三角形です。

でも、エバンス・トリオは、少なくともトリオとして、どの点も頂点にならない三角形を目指しているように、私には思えるのです。

点と直線で形づくられる面の最小単位である三角形は、非常に不安定です。椅子の足を考えても、三脚は不安定ですよね。昔、オート3輪という小型トラックがありましたが、よく転倒したそうです。要するに、すぐに線、つまり二項関係になりたがるのですね。これを逆の観点から、第三項排除という概念を援用して言えば、すべての三角形は、二項関係の硬直から第三項をつくりだすという、二等辺三角形であるとも言い切れるかもしれません。その見方では、正三角形は、仮想の円の中の三点が動いて形づくられる様々な二等辺三角形における、その一瞬の過程であると言えます。

例えば、いじめなどの社会的暴力の関係(これは国家的暴力も同じ構造だと思いますが)においては、頂点の一点は、二項関係の暴力的対立回避のために作り出された、あるいは排除した第三項と言うことができます。その逆位相では、ほんといやな意地悪なものの見方ではありますが、通常のピアノトリオは、ベースとドラムというリズムセクションという自由な音楽の創造性を禁じるとことでスィングというグルーブを生み出すことに特化された二項関係、つまり、ルサンチマンが無意識的にとけ込んだ職人的自意識の二項関係が排除した、第三項という見方もできます。

ビル・エバンスの頭の中に、三角形のイメージがあったかどうかはわかりません。けれども、彼の中には、これまでのジャズの伝統や形式である、ソリストとリズム隊の区別を壊さなければ、彼にとっては自身の芸術の次が見えない、という意識があったことは間違いがないと思います。

二等辺三角形、つまり、二項関係と排除された第三項という関係を拒絶するには、仮想の円を動く三点は、絶えず動き続けなければなりません。けれども、そこのことは可能なのか。それよりも何よりも、完全に対等な三角関係、つまり、私はこれを「永遠の三角形」は可能なのか。そして、ビル・エバンスは、その「永遠の三角形」をカタチにしたのか、それとも、やはりそれは不可能だったのか。

そんなうっとしいことを、エバンスの音楽を聴いて以来、考え続けてきました。あまり整理していないけど、見切り発車でノートというカタチにして書いていきます。急がず、じっくり、うだうだと書いていきますが、よろしくお願いします。

『永遠の三角形 Bill Evans Trioの音楽』ノート(2)に続きます

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2007年6月21日 (木)

愚痴の効用と弊害について。

ブログのタイトルにあるとおり、高尚なものや複雑なものから、くだらないものまで、もしかしたらあらゆる論説が、所詮は愚痴かもね、と思うことがあります。今日は、というか、今日もいろいろあって、仕事終わりに後輩と沖縄料理屋でビールをひっかけたりしました。

もっとクールに黙々と文句を言わずにやれたらと思うんですが、だめですね。愚痴ってしまいます。すごくレベルの低い感じに。人の愚痴もよく聞きます。それで、ときどき自分までネガティブモードになったりすることもあるけど。でも、たいがいは、愚痴ったあと、妙にすっきりして、そのあとはしばらくはポジティブにいろんなことに対策を打ちながら、なんとか明るくやれたりもします。また、愚痴った人も、妙にすっきりした感じになることも多いなあ。

例えば、ニーチェなんかも、あの意地悪な論理体系そのものが、ああ、この人の壮大な愚痴なんだなあ、と思うこともあり、先日から書いているオフコース時代の小田さんの純粋で抽象的な恋愛詞なんかも、ああ愚痴の昇華なんだなあ、と思うことがあるんですね。あらゆる文化は、愚痴である。なんてことは言う勇気はないけど、ちょっとだけ本気でそう思ってます。

愚痴の効用は、このすっきり感ですね。愚痴ったことの自己嫌悪の振り戻しだろうけど、そのぶん、明日からは、建設的に生きよう、なんて思いますもの。それで、小さなことは解決することは多いです。案外、多くの悩みやトラブルは、自分の心の持ちようだったりして、ネガティブを話して洗い流すことで好転することは多いです。悩みが積み重なるばかりなら、日々生きるごとに辛くなって、しんどいですものね。適度な愚痴は、よく効く薬ですね。

逆に弊害は、愚痴は本質的な解決を回避する日々の生活の知恵なんで、問題の先送りになってしまうので、知らない間に、もう、これはどうしょうもねえな、覚悟決めないとなあ、なんてことになってしまいがちなことですね。愚痴は頭痛薬みたいなもので、プロスタグランジンは、痛みを緩和する効果があるだけで、痛みの原因を根本から取り除くことはできないでですから。

で、沖縄料理店。私と後輩の隣でひとり飲んでいるお兄ちゃんがいたんですね。私と同じくらいの年の人ですかね。その人がね、みてたら、それはもうおいしそうに泡盛のロックを飲むわけです。我々は愚痴りながら飲んでるのに、もう、その人は、幸せそうにひとり飲むわけです。でね、ラストオーダーが近かったので、我々は、珍味系の小皿をたのんだりしてね、あと一杯くらい飲もか、ってな感じだったんですが、そのお兄ちゃんは、豚骨系の白濁したスープみたいのをたのんでて、それをひとサジ口にして、ああ、うまいっ、うまいなあ、って声に出してね、ほんといい感じの顔で味わってるんですね。

後輩が、それを見て、なんかあの姿は嫉妬するくらいいいっすね、って言って、僕らもあれ頼んだらよかったな、と私が言うと、いやいや、ああいうふうに僕ら、うまそうに飲めないっすよ、と。それもそやなあ、と話してたんですが、まあなあ、もし、とんでもなくうまいものを食ったとしても、僕らの場合、それを批評したり、携帯で写真とって、ブログに上げたりするんだろうね。そうしてる時点で、あの人の幸せ感は、僕ら味わえないんだろうな、と。

ほんとそやなあ、と思い帰宅したのですが、それを思い出しながら、家に帰って、PC立ち上げて、こうしてブログに書いている時点で、ああいう人には、私はなれないんだろうな、と思います。でも、この前、会社の同僚に、私が会社帰りにひとりパチスロを打っているところを見られてたらしく、それで、へえパチスロやるんですか、意外ですねえ、私もやるんですよね、と話しかけようと思ったけど、私があまりに夢中でパチスロを打ってて、その同僚は私に話しかけられなかったそうです。これだけ楽しんでるのに邪魔しちゃ悪いなあ、って。ものすごく楽しそうにパチスロ打ってたらしいんですよねえ、私。でも、あのときは負けてたんですけどねえ。すごく楽しそうだったらしいです。なんだかなあ。

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2007年6月20日 (水)

W-ZERO3[es]でブログが更新できるかやってみました。

Img104_3 [es]のオペラブラウザから直接の入力です。写真も[es]で撮影したものです。私はテンキーでの文字入力が下手なので時間がかかりましが、なんとか前面のキーのみで作業できました。ただ、メモリの問題か、ブラウザの問題か、接続速度の問題か、写真の挿入がえらくもたつきました。こういう長文は、人によればQWERTYキーボードはありがたいかも。私はそういうタイプなので、街にいる女子高生の約3倍くらい時間をかけてこれ書いてます。なんでこんなことやってるのか。それは、私が打ち合わせの時間を間違えて、1時間も前に来てしまったからでした。ではまた。

追記。写真が縦になってますね。ブログにまだなれてないし、この[es]で修正の仕方がわからないし、なんか未熟ぐあいがリアルに出てるのでそのまま送信します。

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W-ZERO3[es]礼賛(5)

いきなりですが、そういう意味では、W-ZERO3[es]や最新モデルのAdvanced W-ZERO3[es]、通称アドエスは、カスタマイズできるケータイと言うことがができます。これが、初代のW-ZERO3や、イーモバイルのEM・ONEとは決定的に違う点です。W-ZERO3は、できることはほぼ[es]と同じですが、ユーザーインターフェイスの観点では、やはり、PDAに電話とネット通信が付きましたというのが本質です。また、EM・ONEはCMが言う通り、一足お先に「ユビキタス」な情報端末なんですね。でも、[es]は違います。あくまでケータイのユーザビリティに、PDA、というか簡易パソコンの機能が付いて、そのOSのポテンシャルを使ったカスタマイズができる、という代物なのです。

そのカスタマイズを成り立たせているのが、自由なフリーウェア、シェアウェアのカルチャーなのですね。だから、W-ZERO3[es]礼賛、というのは、フリーウェア、シェアウェア作者さんたち礼賛なのです。私は、このウェブ上に、フリーウェア、シェアウェア作者さんたちのアイデアと愛情と使う人の立場に立った、きめ細やかな気配りに満ちあふれるソフトウェアがなかったら、とっくにこんな「ケータイ」機種変更しっちゃってます。

で、カスタマイズです。これはあくまで、W-ZERO3[es]のものであることを予めことわっておきます。というのは、Windows Mobileのソフトウェアは、OSのバージョンに依存するものもあるし、それより何より、CPUの種類に依存するものもあるのです。ここが、PCと違う点ですね。intelで動いて、AMDで動かないというソフトはPCではないですが、Windows Mobileではあるんです。詳しいことはわかりませんが、命令系統が違うらしいです。だから、W-ZERO3[es]で使えたソフトが、最新版のアドエスで使えるかどうかは、今のところ分かりません。

それと、この『W-ZERO3[es]礼賛』は、ソフトウェアのプログラムの書き方はもちろん分からず、PDAの熱心なユーザーでもない普通の人、つまり、私ですね、を対象にしていますので、言っておきますが、Windows VistaやXP用のソフトは動きませんからね。あっ、家にあるMicrosoft Officeが入れられる、なんて思った人は残念ですが、それはできません。でも、PCで作ったワードファイルやエクセルファイルは、簡略化されますが、読み書きできますし、パワポはPDFは閲覧できます。MP3もMPEGもソフトを入れれば再生できます。

と書いている途中で、眠くなってきましたので、本日はここまでにします。どこが具体的なんだよ、とお怒りの方、すみません。ホントは、私の[es]に入っているソフトの使い心地を詳しく書くところまでいきたかたっんです。本日は、私が便利に使わせていただいたソフトWikiページのリンクでかんぺんしてください。

W-ZERO3 Wikiです。このWikiはホントに詳しく、わかりやすくまとまっていて、重宝しています。管理人さん、ありがとうございます。

では、みなさま、おやすみなさい。例の帯状疱疹はだいぶよくなってきました。今日は、ゆっくり眠れそうです。

W-ZERO3[es]礼賛(5.1)に続きます

W-ZERO3[es]礼賛 (1) (2) (3) (4) (5) (5.1)  (6) (7)

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2007年6月19日 (火)

NHK若い広場「オフコースの世界」を久しぶりに見てみました。

Offcourseオフコースについてのエントリーを書いたこともあって、久しぶりにVHSテープに録画してあるNHK若い広場「オフコースの世界」を見直してみました。小田さん、鈴木さんも若いですねえ。清水さん、松尾さん、大間さんなんて、20代なんじゃないかな。いや、清水さんは30代か。そうなんですよね。みんな今の私より年下なんですよね。

今の自分と比べて、ほんと、やになるなあ、なんて定番の落ちではなく、小田ヤスが30代後半ということを考えると、このときの精神状態を想像するに、壮絶なものがあったんだなあ、とあらためて思います。

この「オフコースの世界」というのは、当時、オフコースが「さよなら」でヒットを飛ばし、武道館などで開催されるコンサートは即日完売で、「Yes No」が流行し、アルバム「We are」が売れに売れ、今だと考えられないですが、そんなに人気のグループが一切テレビに出ず、そのためか、オフコースが神格化してたころ、NHKが、アルバム「over」の制作現場に密着し、彼らの真実に迫る、みたいな番組でした。何度も何度も再放送されていますし、DVDもたしか発売されているから、ご覧になっている方も多いのではないでしょうか。

小田さんも、鈴木さんも、インタビューを見てみると、年相応の幼さが見えますね。まあ、当時は、食い入るように見ていて、そんな実年齢と相応のニュアンスなど読みとることができませんでしたが。

あの頃の鈴木康博は、なんか一手にオフコースの男の部分、ロックな部分を引き受けさせられていて、なんとなく痛々しく感じます。これは、歴史を俯瞰する目で見てるからかもしれませんが。私は、当時から、あの「over」や「We are」の、鈴木作のロックチューンはなんか苦手でした。「一億の夜を超えて」とか「メインストリートを突っ走れ」とか無理ありますよね。コンサートでは盛り上がりましたが。

そうそう、あの伝説の武道館コンサート、小田さんが最後に泣いたので有名な「over」ツアー、大阪堂島のフェスティバルホールで体験しているんですよね。「心はなれて」のストリングスが流れた後、突如、ステージが真っ白な光に満ちて、「愛の中へ」のツインギターが響き渡る、そのオープニングが脳裏に焼き付いています。

私が好きな鈴木康博の曲は、たとえばアルバム「FAIR WAY」の中にある小曲「夢」だったり、母親について歌った、オフコースでは珍しいモチーフの佳作「ロンド」だったり、アルバム「SONG IS LOVE」の中のワルツ「恋はさりげなく」だったり、ゆるい雰囲気が気持ちいい「ひとりよがり」だったりします。ああいう、普通の人の普通の日常の切れ間に思う感情を表現した曲、ヤスさんらしくっていいですね。ちょっと優等生的ですが、優等生だって、いろいろ思うわけでさ。

あと、小田ヤス共作だろうと思うけど、「SONG IS LOVE」の最初と「JUNKTION」の最初に入ってる、「時の流れを止めたいわ。退屈な日々。ささやくあなたの耳元で。」というごく短い曲が入っているのですが、あの曲、大好きです。ほんとセンスいいですよねえ。あの感じが、私にとってのザッツ・オフコースなんです。

そんな鈴木康博さんが、ちょっと前に、「ForWard」というオフコース時代のリメイクアルバムを出しましたが、その中の「いくつもの星の下で」という初出が「We are」のバラード、あれはあれでいいんですが、やはりね、あの頃のオフコースファンとしては、小田さんのピアノの前奏があって、ヤスさんがギターのボディに手を当てて、歌い始める、みたいなのが、あの「いくつもの星の下で」なんですよね。もうね、ヤスの声を聴きながらピアノ弾く小田さん、一生見ることないんでしょうね。切ないですね。

それと同じような感じでは、「汐風の中に」もありますね。シングル「さよなら」のB面です。今風に言えばカップリングです。あれも、ピアノの伴奏でヤスのボーカルなんです。あの曲、コンサートでは小田さんが「ヤスがつくった美しい曲です。聴いてください。」と言って、ピアノ弾き始めるんですね。

最近、ヤスさん、コンサートで「さよなら」を歌うそうですね。賛否両論ありそうですが、なんとなくわかるんですよね、その気持ち。たぶん、「愛を止めないで」から「さよなら」、そして、かろうじて「Yes No」くらいまで、ヤスさんにとって、自分の曲でも、小田さんの曲でも、オフコースの曲だったんでしょうね。アレンジが、ギター発想な感じがするんです。それこそ、ヤスさんは、コンサートで、それらの曲のギターソロ、何百回と弾き倒したでしょうし。

なんか長くなってしまいましたから、昨日と同じ、歌詞落ちで終わりにします。この曲は、5人のオフコースの最後のアルバム「I LOVE YOU」に入っている小田さんの曲です。このアルバムは、小田さんの曲はヤスが参加せず、ヤスさんの曲には小田さんが参加していないという曰く付きのアルバムですが、唯一この小田さんの曲だけはヤスさんがギターを弾いているそうです。当初は小田さんが自分で弾こうと思っていたそうです。でも、自分の思った音ではないと思い、ヤスさんにお願いしたそうですね。わりと有名な話ですが。

昨日のことは誰も聞かない
変わっていくのは心も同じ
走り続けて振り返れば
何もない今は誰もいない今は
僕はここにいて何も飾り気のない
明日を待っている
始まることと終わることは
きっと同じだね
きっと同じだね

『きっと同じ』小田和正作詞・作曲 
アルバム『I LOVE YOU』所有

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2007年6月18日 (月)

クリエイティブディレクター論の名を借りたオフコース論(2)

小田和正という音楽家と、鈴木康博という音楽家が出会って、オフコースという音楽が生まれました。やがて、小田の音楽、鈴木の音楽を超えて、それぞれの音楽は、オフコースという音楽を構成する一部になりました。少なくとも『僕の贈りもの』から『FAIRWAY』までは、そういう感覚だったのだと思います。彼らにとって、音楽とは、つまりオフコースのことだったのです。

もう20年以上経ってしまいましたが、あの頃、私が夢中になったオフコースには、他の音楽を拒絶するような純粋性がありました。オフコースのファンは、傾向として、オフコースから他の音楽に興味を持って、音楽の多様性を楽しむ大らかさがあまり見られなかったような気がします。自分も含めて、そのように感じられます。オフコースを聴くことは、音楽を聴くことではなく、オフコースを聴くことだったのです。

なんか、書いているうちに抽象的になってきましたが、自己表現を超越するもの、と言うよりも、自己表現というものが小さなもの、つまらないものに思えてくる、唯一の抽象的な第三項がオフコースだったのだと思います。あの頃の彼らには、きっとそれぞれがソロ活動をするというような考えは、まったく思い描かなかったはずです。なぜなら、彼らは音楽をやっていたのではなく、オフコースをやっていたのだから。

第三項排除という理論があります。暴力論のひとつです。人が構成する社会は、決定的な対立を回避するために、第三項を設定する、という理論です。第三項を設定して、その排除にエネルギーをついやすのです。国家暴力や、身近なところではいじめなどにもよく援用される理論ですが、その排除という言葉が持つネガティブな印象を取り払えば、小田と鈴木は、オフコースという第三項へすべてのエネルギーを注ぎ込んだと言えるかもしれません。

ある種の抽象性を持った美しさは、こうした抽象的な第三項を設定しなければ生まれないのではないかな、と思うことがあります。ジャズで言えば、ビルエバンストリオ。この場合は、小田と鈴木のオフコースとは違い、生身の3人の人間が、三角形を構成しつつ、第三項排除という現実を超える精神の純粋性という感じでしょうか。現実にはあり得ないかもしれない「永遠の三角形」を目指すという、ビルエバンスというピアニストの精神の運動の美しさです。

でも、こういうある抽象概念に対して懸命になるという関係は、奇跡に近いことだと思うのです。話をクリエイティブディレクター論に戻すと、アートディレクターとコピーライターは、広告という抽象概念のもとでは対等であるべきですが、現実は、本当の意味の対等というのは奇跡に近いことです。

広告は、基本要素としては、言葉と絵でできていますので、必要なのはコピーとアートです。でも、現実は対等ではない。実際は、どちらかが主導権を握るのです。そこには、きれいごとではない、ザラザラした現実があります。たぶん、その主導権を持つ者を、広告ではクリエイティブディレクターと言うのだろうと思います。つまらない結論ですが。

いま、広告会社では、クリエイティブディレクターが重視されています。私の会社のクリエイティブ局長も「広告は、基本的なストーリーはクリエイティブディレクターがつくる。そして表現に対する全責任を負う。」と言います。私は、彼のクリエイティブディレクター論に賛成です。そして、世界の広告会社の潮流もクリエイティブディレクター主義だと思います。

でも、それは、人間の対等という理想に敗北した多くの失敗の上につくられた、ひとつの人間の知恵なのでしょうね。チーム主義の理想と、現実の失敗。ならば、その責任は個人が負うべきだという、ある種の潔さでもありますが、それは、言い方を変えれば、吉本隆明の用語を使えば、対幻想の敗北である、とも言えるのです。

Over_1やがて、オフコースは、「愛を止めないで」のヒット、「さよなら」の大ヒットを境に、急速に小田のオフコースになっていきます。東芝EMIやプロデューサーの意向もあったのだと思います。『We are』と『over』、武道館コンサート10days。そして、鈴木康博の脱退。もうこのあたりのことは語られすぎなほど、多くのところで語られていますので、ここでは詳しくは触れません。けれども、ただひとつ言えることは、小田にとっては、身が切られるほどの敗北感があったはずです。小田にとって、武道館が終わるその瞬間まで、音楽とはオフコースだったのだから。

鈴木康博は、そういう奇跡の綻びに、小田よりも早く気づいたのだと思います。その点、小田は無邪気だった。鈴木康博脱退からほどなく、小田は「なによりもオフコースというブランドを守らないといけないと思った」という趣旨の発言をしています。当時、もうオフコースに興味が失せていたのもありましたが、その小田の発言がなぜだか薄っぺらく感じました。

けれども、今、小田さんの真意が痛いほど分かります。彼が、オフコースという「ブランド」を守ろうと思った気持ちを。たぶん、小田さんは、オフコースを、他人の力でなく、自分で終わらせたかったんだと思います。自分で、この理想の終わりを見なければ、先へは進めない。そう思ったのだと思うのです。

ゆっくり漕ぎ出したね
ちいさな舟だった
僕らはこの舟を
止めようとしている

もうやり直せない
二度とは戻れない
生きてゆくこと
悲しいね

ああ いつ頃から
急ぎ始めたのだろう
いくつもあった
分かれ道

『愛のゆくえ』鈴木康博作詞・作曲
アルバム『I LOVE YOU』所有

ふたりで追いかけた 
青い日々がこぼれていく
やがてひとり 
窓の外は冬

心はなれて 
あなたのこと 
見えなくなる
もうここから 
先へは行けないね

『心はなれて』小田和正作詞・作曲 
アルバム『over』所有

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2007年6月17日 (日)

W-ZERO3[es]礼賛(4)

私は、このW-ZERO3[es]を使い始めてから、非常に気分がいいのです。それは、使い心地もありますが、この[es]というハードウェアをとりまくカルチャーがとても気持ちいいんですよね。ほとんど何の見返りも期待せずに、このハードウェアを使いやすく、先進的な情報端末にしようと、日夜、アイデアあふれるソフトウェアを開発しているソフトウェアクリエーターさんがたくさんいらっしゃって、それを使う私のような、プログラムを書けない普通のユーザーも、そんなある意味で顔の見えるソフト作者さんたちの善意に包まれながら、便利に気持ちよく使わせていただいて、とりあえずは、まずは人は善であるという前提で動いてるカルチャーが、ほんとにいいんですよね。

あまり詳しくはないですが、リナックスとかのオープンソースの運動の中にも、そんな人はまず善であるというところから始めよう、みたいな気持ちよさがあるような気がします。

私は、仕事が広告作りなので、本業ではなかなかそうはいかないのです。たとえば、きちんとしたアイデアには、きちんと報酬をいただきたいですし、もし、私が、この仕事は広告の未来にとって有意義なものだから無償でいい、みたいな判断をしたくなったとしても、そういうお金の問題が出てくるお得意は、そもそもお金の払いが悪いお得意であって、やはり、無償が大好きなメンタリティを持つお得意に対して、無償でやるという判断は、絶対にしちゃだめなんですよね。アイデアにきちんと対価を支払ってくれているお得意に示しがつきませんし、自分たちの存在理由を否定することになりますから。

この時点で、人はまず悪である、という前提に立っているんですよね。人は、できるだけいいものを、気持ちの悪い状況になったとしても、タダに近いお金で手に入れたい、そう思っている連中がたくさんいて、という前提で動いているんです。まあ、大げさに書きすぎましたが、あらゆる経済活動は、こういう原則ですよね。

でも、こういう関係は、ヒリヒリするんですよね。疲れるんです。自由ではないんです。経済原則ではない、もうひとつの価値観を持ちたいと思うんです。この[es]のソフトウェアをつくっているクリエーターさんたちも、日常ではプロのソフトウェアやITのプロだと思います。あるいは、学生さんとかもいるのかもしれません。その人たちが、もうひとつの価値観として、そういう気持ちのいい善意で動いてくれている。そんな雰囲気が、[es]のまわりにあるんですね。

Iphoneちょっと、話がそれてしまうんですが、最近、私はウィンドウズを見直しています。マックは自由ってイメージありますよね。でも、実際は、ソフトウェアの分野でも、ハードウェアの分野でも、人の自由な創造力を活かせているのは、ウィンドウズですよね。海の向こうで、iPhoneが出たそうですが、OSXのコンパクト版を乗せて、インターフェイスもアップルがつくって、ハードウェアもアップルがつくるんでしょ。使う方としては、アップルを信頼する以外ないやり方なんです。

iPhoneがいいも悪いもアップル頼みで、ユーザーが介在する余地がほとんどなく、きっとアップルがつくるんだから、使い心地もいいでしょうし、クールな端末であるんだろうと思いますし、触ってみてー、と思いますが、アップルもいつまでもそんな感じじゃ、しんどいと思います。アップルのユーザーでも、東芝のリブレットや松下のレッツノートみたいなノートブックが欲しい人いると思うんです。でも、アップルは、ハードウェアの製造を独占してしまうから、待てど暮らせど、ああいう軽量ノート出ないですよね。

あのアップルのCM、日本ではラーメンズを使ってアダプテしてますが、全体にクールな演出をほどこされていますが、ちょっと、どうなんですか、アップルさん、と思ってしまいます。ウィルスが少ないから、って、あんたそれはシェアがないからでしょ、PCはフリーズするって、あんたのも実際はけっこうフリーズするんですけど、マックはクールなデザインだから仕事じゃなくても使いたくなるって、自分のことクールだとか言ってる時点で、クールじゃないんですけど、って最近突っ込みたくなるんですよね。

えーっと、私は、制作系なんで、ずっとマックユーザーなんで、MS派ではなく、どっちかというと、というか、これまでのお金のかけ方から言えば、かなりのマカーなんですけど。家では、OS9のパワーブックG4を現役で使ってますし。でも、そんなマカーも近頃、そういうふうに思いだしてる人いるんじゃないかな。

このエントリーを読んで、新しい[es]、アドエスというんでしたっけ、あの携帯端末に食指が動いた人、一度使ってみてはいかがでしょうか。気持ちいいですよ。でも、インストールとかめんどうだし、カスタマイズもじゃまくさい、っていう人は、やめたほうがいいです。期待するほどじゃないです。次のエントリーでは、じゃあ、具体的に、どんなソフトがあって、どんなカスタマイズができるの、ということを、ふつうのユーザーの立場で書いてみたいと思います。

W-ZERO3[es]礼賛(5)に続きます

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クリエイティブディレクター論の名を借りたオフコース論(1)

当ブログのサブタイトルにも書いている「クリエイティブディレクター」という言葉。あえて、コピーライターやCMプランナーと書かずにクリエイティブディレクターと書いたのは、ある程度、ブログと言えども立ち位置をはっきりさせておこうとの意図からです。

おまえ誰なんや、という問いに対しては、最低限の自己紹介としては、私の場合、広告会社のクリエイティブディレクターというものでした。まあ、そんなに厳密に考える必要もないかな、という気もしないでもないですが、これからのクリエイティブを考えたとき、クリエイティブディレクターというものをもう一度、きっちりと考えておく必要があるかな、とも思います。

少し前まで、まだまだ広告がおおらかだった頃、広告制作者は、コピーライターかアートディレクター、もしくはデザイナーと言えばなんとかなったんですね。その頃にも、クリエイティブディレクターというものはありましたが、大ざっぱには、会社の偉い人くらいの意味でした。つまり、現場の第一線からは退いて、相談役に回るといった感じですね。

かつての西武百貨店の広告。誰がつくったかと言えば、コピーライターの糸井さんと、アートディレクターの浅葉さんですよね。そこに、クリエイティブディレクターという役割は必要がありませんでした。

オフコースという日本のバンド知ってますよね。小田和正さんがかつてやっていたバンドです。と、書いて、ちょっと待てよ、とつっこみを入れたくなる人、ディープなオフコースファンですね。そうですよね、オフコースは小田さんのバンドじゃなくて、小田とYASSのバンドなんです。あっ、YASSっていうのは鈴木康博さんのことね。

オフコースというグループは、詳しいことはウィキペディアとかにまかせるとして、もともと小田と鈴木の二人の音楽ユニットだったんです。PPMに影響を受け、和声やコード進行が複雑な曲を繊細なアレンジで演奏する、日本ではかなり音楽性が高いと言われ続け、それ故に、長い間ヒットに恵まれなかった、そんな音楽ユニットでした。

その頃のアルバムは、それこそ、原則的に、小田作詞作曲と鈴木作詞作曲が半々。で、そのすべての曲に、多重録音による精緻きわまるアレンジが施されていて、それこそオフコース脱退後の鈴木の「俺の曲であっても、小田の曲であってもね、それはつまりオフコースの曲だったんだよ」という発言そのものでした。

Toct25638アルバムで言えば『FAIRWAY』というアルバムまでは、確実にオフコースは小田と鈴木のオフコースでした。といっても、いわゆるフォークデュオとは一線を画すサウンドで、音は、当時流行のクロスオーバーそのもののバンドサウンドだったんですね。小田と鈴木が対等でひとつのものを作り出していく。そんなグループだったのです。

私見ですが、小田和正という人は、天性のメロディ感覚を持つ作曲家であり、過ぎ去った時間へ切なさに執着した優れた詞を創作する作詞家のという感じで、鈴木康博は、ギターという楽器への造詣の深さをバックボーンにした精緻なアレンジ能力を持つ編曲家であり、頭の中の音楽のイメージを表出することができる優れたギターテクニックを持つギタリストという感じです。

「たぶんYASSは、ギターを弾きながら歌う日本のミュージシャンの中では、最も上手な人」であると小田さんが評していますが、私もある意味そう思います。ギターが上手いという意味合いはいろいろあると思いますが、CHARや石田長正、有山じゅんじ、いろいろスーパーギタリストはいますが、そういう上手さではなくて、いい意味でも、悪い意味でも、知的というか、器用というか、そういう感じの上手さだと思います。

つまり、ロックとか、ブルースとか、ジャズとか、そういう音楽ジャンルが持つ最高のグルーブなり、恍惚感なりを演奏できる、ということではなく、いまここにある作品という課題に対して、どのような仮説を持ってくれば、その課題の最高の質にたどり着けるのかについて、様々な可能性を提出できる、すなわち音として表出できる、ということだと思います。オフコースの鈴木康博は、そういう音楽家だったと思います。

そういう鈴木康博という音楽家を、オフコースの小田和正は、ほとんど自分の一部のような感覚であったのだと思うのです。小田和正が後に語る「YASSが辞めるということは、すなわち俺が音楽を辞めるということと同じだった。YASSのいないオフコースは考えられなかった」という発言は、そうした感覚から来るものだったのだと思います。その頃の小田和正にとって、音楽はオフコースのことで、オフコースとは、小田のものではなく、小田にとっては、オフコースとは小田と鈴木のものだったのだと思います。5人のオフコースになった時でも、推測でしかありませんが、きっと、小田にとっては、オフコースは小田と鈴木のオフコースの発展形にすぎなかったのではないでしょうか。

クリエイティブディレクター論の名を借りたオフコース論(2)に続きます

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2007年6月16日 (土)

期間限定の頭痛持ちになってみて。

2007y06m16d_024137520 帯状疱疹になって、一時的に頭痛持ちになってしまったのですが、いろいろと分かったことがありました。私、頭痛薬の広告をこさえたりしておりまして、いろいろと頭痛持ちの人にインタビューとかをしていて、頭ではわかったつもりになっていたのですが、一時的ではありますが、頭痛持ちになってみて、あらためて思いますが、頭痛って本当につらいですね。痛みにも種類があると思うんですが、この頭痛の痛みは、神経の痛みなので、すごく不快な感じです。ズッキン、ズッキン、という感じで、ときどき、キーンという痛みもあったりして、それが日常的に続いていくのはけっこうしんどいです。私の場合、疲れてきたりすると、リンパが腫れたり、蕁麻疹が出たりという種類の人間なので、腫れて肉が痛い痛みや、痒みの苦しみはわかっていたのですが、神経から来る痛みは、やはり不快の質が違いますね。

もちろん、虫歯は、神経の痛みではありますが、あれは、もう治療するしかない痛みで、こっちは、一日中付き合っていかないといけない痛みなので、そうか、頭痛の人のあの言葉って、こういうことだったんだな、と今さらながら実感しています。広告制作者としては、いちおうは、どこまでも想像で、いろんな人のホントの気持ちに近づける気ではいるんですが、やはり、体験したかどうかの一線は確かにあります。当たり前のことですが。

会社の後輩に猛烈な生理通持ちがいて、仕事に生かせればといろいろ聞いたりしたのですが、その人の、「頭がズキズキで、おなかの底の方がドーンと『重痛い(おもいたい)』んですよ」と言っていたのが印象的でした。重痛い。うーん、どんな痛みなのか。

それと、もうひとつ気づいたこと。それは、体ってやはりつながってますね。例えば、こうしてパソコンに向かっていると、頭の後ろの神経がしっかりと疼いてくるんですよね。それと、お腹がすいてくると、頭がズキズキしてきて、何かを食べると、幾分かましになります。これは血液の流れですね。それが、体でわかるんですよね。

このエントリーとかも、前のエントリーとかも、きっと「頭痛」とか「後頭部」とかで出てくるんでしょうが、もし、この症状は何だろうと思ってネットで調べているんだったら、好奇心を満たすくらいにして、早い目に病院にいったほうがいいですよ。私も、てっきり筋緊張性頭痛だと思っていたら、帯状疱疹と言われてびっくりでした。

午前2時までガッツリ仕事して、これ書いてる私に言われたきゃねえよとは思いますが、無理してがんばってお仕事している皆様、体あってのものだね、ですからね。無理しないで休みましょうね。では、よい週末を。

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2007年6月15日 (金)

W-ZERO3[es]礼賛(3)

Ytaskmgr欧米ではスマートフォンというジャンルが確立されています。ウィルコムのW-ZERO3とW-ZERO3[es]は、日本におけるスマートフォンの初めての、かつ、唯一の成功例と言われています。しかし、その言い方にちょっと違和感があるのは、日本の携帯電話市場と、欧米の携帯電話市場の違いが考慮されていない点です。世界でいちばん売れている携帯電話の端末は、モトローラのレーザーなんですね。そうです。ベッカムがCMやってたやつです。日本向けには、ある程度は日本向けカスタマイズをされていましたが、でも、使ったことある人はわかるでしょうが、日本の最先端の高機能携帯端末にくらべると、まああれなんですね。基本的には、欧米の場合は、あまり高機能でない、あるいは、機能性の追求なんて必要ないでしょ的な多くの携帯端末と、機能性の追求とカスタマイズウェルカムな無骨なスマートフォンの二分化された市場なのです。

しかし、日本は違いますよね。日本の携帯電話端末会社が世界で商売できないのは、日本の携帯端末の特殊性にあるのです。たとえば、ドコモが仕様をバージョンアップさせるたびに、どんどん高機能やデザインを売り物にした新型を出さざるを得なくて、しかも、消費者も低価格でどんどん機種変更していく、という世界でも特殊な市場のために、日本の携帯端末とそれを成立させるその他テクノロジーや電子部品関係が、最先端の特殊な成長をしている反面、同時代的な観点では、日本という空間に閉じこめられて、なかなか世界性が持てないんですね。でも、ここでは、その是非は問いませんし、私にその是非を問う知識もありませんが。

要するに、日本は、なかばスマートフォンと言ってもいいくらいの高機能携帯電話端末しかない特殊な市場なのです。事実上。そして、もうひとつは、じつは日本独自規格のPHSの生き残りであるウィルコムという構図です。そのウィルコムは、まずは、ネット接続の優位性でがんばってきた。エアエッジですね。そして、ネット定額をバックボーンとした、京ぽんなどのフルブラウザ端末。そして、W-ZERO3。その流れの中の[es]なのです。ですから、携帯電話の高機能端末と、PHSネット端末という構図なのですね。本当は。

で、デフォルトのままだとW-ZERO3[es]はとっても困ったちゃん、という話です。日本の携帯ユーザーは、日本の最先端高機能携帯端末を使ってるんですね。メールにしても、携帯ブラウザにしても、音楽を聴くにしても、ワンセグを見るにしても、もうそれこそ、抜群に使いやすく作ってあるわけです。それ以上の機能はないし、カスタマイズもできないようになっていますけど。それに比べて、[es]ですよ。デフォルトのままの使いにくさったら、もう、びっくりなんです。電話ひとつかけるのに、何工程やらせるつもりやねん、という感じです。欧米だと、まあ、それがスマートフォンだからさ、そのかわり便利じゃない、高機能じゃない、みたいなことでスルーなのが、日本じゃ、まあ許されないですよね。

携帯電話、フリーズしたことありますか。[es]は、フリーズします。予定表を使うっていったって、デフォルトのままのポケットアウトルックは、そりゃもうあっさりしたもんです。携帯の予定表のほうが、百倍便利です。なにせ、週間の予定なんて、青いバーだけの表示で、その予定が一見なにかわからない。で、スタイラス出して、バーをクリックすると文字が上に出るという感じなんですね。

ですから、これから[es]でレッツモバイラー、という夢を描いて使い始めると、なんじゃこりゃ、ってことになります。よく携帯ライクな使い心地という言葉がでますが、それはデフォルトのままでは、望むべくもありません。

じゃあ、やっぱ駄目じゃん、と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、そこでフリーソフト、シェアウェアソフトの登場です。もうね、このだめ端末をなんとか使いやすく、最高の端末にしようと日夜努力をされているソフトウェアクリエーターの方々が、日本のネット界にはいっぱいいるのですよ。そして、世界にも。ウィンドウズモバイルベースですから。電話帳ソフトも、スケジュラーも、ランチャーも、ネット関係も。すばらしいアイデアにあふれた、もう感嘆するしかないような使いやすくてクールなソフトが、驚くほどあるのです。プラグインみたいな、ちょっとこれ改善できないかな、というような縁の下の力持ち的なソフトもいっぱいありますし。で、その方々の努力の成果を使わせていただき、[es]をカスタマイズしてみると、あら不思議、もう二度と手放せないような、すばらしい情報端末ができあがるのです。

そのソフトクリエーターの方々の中には、やはり[es]の特長である、携帯ライクな操作感、すなわち表面のソフトキーで何でもやってしまえ的なことを目指してソフトを開発されている方々もいっぱいおられまして、そういうソフトの使い心地たるや、まさに神、なのですよ。OSのできることの限界を目指して、様々なことにチャレンジされている方もいらっしゃいますし、それを使わせていただくことで、ドコモやau、ソフトバンクの最新携帯にも負けない、というかまったく別物の情報端末になってくるんですね。もうね、冗談抜きで、私は、この[es]を使い出してから、手帳を持たなくなりましたから。意地を張って、無理に使わないようにっていうのではなく、本当の意味で、手帳必要なくなりましたから。

W-ZERO3[es]礼賛(4)に続きます

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2007年6月14日 (木)

病院に行ってきました。

Img101 とりあえず内科かな、ということで自宅の近くの内科医院に行ってきました。熱を測られ、ちょい微熱ぎみということで、とりあえず、頭がいたくて、頭の後ろがはれてるんですよ、と言ってみて、お医者さんがどれどれ、と見たところ、うーん、これ、うちじゃわからんね、近くに皮膚科があるので、そっちに行った方がいいよ、と言われ、初診料をサービスしてもらい、ありがとうございます、という感じで、500メートルくらい先の皮膚科に行ってみました。

すると、玄関に、本日休診。まいったなあ、頭が痛いし、不安だし、ということなんで、自宅に戻り、会社に行く用意をし、会社近くのビルに入っている皮膚科に行ってみました。、おっ、西川史子が少し年をとって落ち着いた感じだな、という印象の赤いメガネの女医さんが担当でした。で、後頭部にゴリゴリがあって、頭痛いっす、と言って、患部を見せると、すぐに、あっ、これ帯状疱疹だわ、と。たいじょうほうしん?何それ?という感じだったんですが、聞いてみると、子供のときに一度はなる水ぼうそうのウィルスが、じつはカラダにずっと潜伏してて、疲れたり、ストレスが重なったりで、体の抵抗力が落ちてきたときに、カラダのある特定の神経だけを狙って、暴れだす、と。で、私の場合は、後頭部の右側に走る神経だったらしく、その神経のある場所に、帯状に疱疹ができるということらし。ちなみに、右に出る人は、左には絶対に出ないらしいんです。私の場合も、ドンピシャ、そんな感じです。

当然、神経の中でウィルスが暴れてるわけなので、神経を刺激して痛むということらしいんですね。まあ、これは頭痛と同じような痛みが走ると。これが3週間から4週間つづいて、水泡が出て、かさぶたができて、というのが流らしく、その流れが終わると、ほとんどの人は、一生、帯状疱疹にはならないということらしいです。で、この帯状疱疹は、ウィルスの仕業なのですが、大人にはうつらないらしいです。というのは、大人の場合は、子供のときに水ぼうそうになっているので、抗体ができているから、だそうです。でも、子供にはうつるので、接触は避けてくださいね、ということでした。

バルトレックスという高価な抗ウィルス剤と鎮痛剤をもらい、会社へ。まだまだズキズキ痛むものの、まあ、理由がわかったのでちょっと気が楽になってます。なので、このエントリーはですます調です。教訓。カラダに変調があったら、すぐにお医者さんに行ったほうがいいですよ。ということですね。

ウィルコムの新W-ZERO3[es]のレビュー、ある程度は揃ってきましたが、まだ深いレビューはないみたいですね。私は、今回は機種変更は見合わせるつもりですが、基本的には、新規で買うつもりの人は、新W-ZERO3[es]のほうがいいと思います。でも、W-ZERO3[es]のときもそうでしたが、この手のやつは、初期ロットはいろいろ不具合があるらしく、少し待ったほうがいいかも。私は、旧W-ZERO3[es]は、だいぶ経ってから買ったので、なにもトラブルがなかったけれど、初期ロットは、謎の突然死とか頻発したらしい。まあ、これは、マックでも何でも、けっこう常識になってるかな。近々、W-ZERO3[es]礼賛の続きを書きます。では、みなさまも、お体ご自愛くださいませ。

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2007年6月13日 (水)

頭痛持ちの気持ちがわかった。

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頭が痛い。先週の日曜くらいから、後頭部の左側にコブ状のゴリゴリができて、それがズキズキと痛み始めた。頭を打った記憶もなく、それまでにひどい肩こりだったので、外傷性ではないと思うのだが、多分、リンパの炎症のような気がするのだが、医者に行った訳ではないので、わからない。月曜日にかけて、コブ状のゴリゴリが広がりはじめ、明らかに局所ではなく、頭の後ろ側が締め付けられるような痛みが走るようになった。日常の生活には支障はなく、徹夜作業もこなし、火曜には、ちょい大きめの競合プレのプレゼンターを務め、1時間弱しゃべり倒した。そんな時は、しばし痛みから解放されるのだが、終わったとたんにまた痛み始める。当方、頭痛持ちではないので、とにかくまいる。痛みの耐え方がわからない。以前、痛みからの解放された気持ちよさだけを描いた、爽やかな頭痛薬のCMを作ったことがあるが、あれが頭痛持ちのヘビーユーザーから評価が高かったのが、身に沁みてわかる。ネットを見ると、筋緊張性頭痛というのものと症状が似ている気がする。割合、疲れがピークに達し、かつ倒れられないシチュエーションの時に、脇や股のつけねや顎の脇のリンパが炎症を起こしたりする、あるいは、蕁麻疹が出る、という様な体質で、それまで細かい企画書作りを数本こなすなど、PC漬けだったので、眼精疲労であるのかもしれない。そう考えると、目を酷使してみると、後頭部の痛みが増す気もするが、気のせいかもしれない。昨晩は早めに床に着いたのだが、痛みで目が覚める。TBSラジオの爆笑問題カウボーイを聴くも、一向に痛みが止まらない。本当はPCに向かうのは避けるべきなのだが、まあ、気休めにと、このエントリーを書いてみた。で、こういうこと書くときに、ですます調は向かない、と思った。ですます調で書くと、進まない。だである調は、文芸的なレトリックが求められるので、普段の文章では使わないのだが、頭がいたのです、つらいですよねえ、とかちょっと、というより大幅に違う気がする。なんかfinalventさんの極東ブログみたいだな。写真は、ウィキペディアから。つらい。明日、病院に行こうと思う。

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2007年6月10日 (日)

W-ZERO3[es]礼賛(2)

070606_183801W-ZERO3[es]は、使いこなせば、指先一つでほとんどのことができてしまいます。そんなことが革命なの?という人もいるかと思いますが、ごもっともです。私自身も、このW-ZERO3[es]を見て、ああ、これ、ほしいな、と思ったのは、じつはQWERTYキーボードのギミックに惹かれてだったから。それに、ときたま人に、あっ、その携帯、キーボード付いてるやつだよね、とか言われて、そうそう、こうね、シャキーンと開いてね、とかやって見せると、ねえ、触らせて、触らせて、みたいなこと言われ、それが若い女の子だったりするとまんざらでもないですし、さんざん話のネタにさせてもらってW-ZERO3[es]には申し訳ないですが、やっぱりね、この端末の革命的なところは、すべてがテンキー(正しくは、テンキーが付いている面と側面部の、写真のような持ち方をしているときに指が届くすべてのボタン)でほぼすべてのことが操作できることにあるのです。

例えばね、ふつうの携帯電話。もし、あれがメールするときに、スタイラス(液晶を押すちいさなペン)を取り出さないといけないとしたら、日本の携帯文化って、あれだけ豊になったでしょうか。満員電車の中でも携帯でメールしてる人、けっこういますよね。スタイラスを使うっていう、たった1工程増えるだけで、ああいう自由な使い方を制限してしまうんですよね。だから、キーボードはおろか、スタイラスさえいらないっていうことは、けっこう重要なことなんです。

そこで、仮説が生まれます。いまのところ、携帯電話の機能は、PCに比べれば、かなり限られてきます。電話ができて、メールができて、簡単なネットが閲覧できて、カメラがあって、簡単なスケジュール管理ができる。まあ、このくらいですよね。もし、この携帯電話の革命的なユーザーインターフェイスをPCに持たせることができたら、リブレットやパームにもできなかった、欧米のスマートフォンにもない、日本独自の新しいモバイル文化が生まれる可能性があるんじゃないか。あの携帯文化みたいに。そんな仮説を、いい感じのところまで実現したのが、このW-ZERO3[es]なんですね。

W-ZERO3[es]は、携帯電話に比べると、できることが格段に広範囲です。PCにわりと近いことが簡単にできてしまいます。まずはメーラーがかなり本格的です。PDFは驚くほど、サクッと閲覧できます。スケジュールは、ソフトを探せば、かなりいいのがあります。ワードも、エクセルも使えて、パワーポイントも表示できます。画像、映像、音楽はTCPMPというソフトを入れれば、ほぼPCと同じです。おまけとしては、青空文庫も読めますし、辞書も使えます。それが指先だけで(ここ、大事なとこです)できてしまいます。

それに、私は、だいぶん前にウィンドウズCEを使っていたのですが、あの頃に比べ、驚くほどOSが高性能になっています。CPUも416MHzもあり、あの頃の、へなちょこウィンドウズもどきな感じとは今は大違いです。プログラム実行用のメモリが49.77MBしか割り当てられないのがちょっときついですが(携帯ユーザーでピンとこない人は、自分のPCのメモリを調べてみてください。その少なさがわかると思います。)、データを保存しておくためのメモリ(PCで言えばハードディスクですね)は、ミニSDで2Gまで大丈夫です。

その性能を十二分に活かす広い液晶。結局いろんなことができても、ちいさな画面じゃ、実用性はないんですね。W-ZERO3[es]は、かなり広いです。携帯電話ライクなユーザーインターフェイスを実現している分、W-ZERO3に比べ面積は狭いですが、こちらはそのぶん解像度が高いんですね。字はちいさくなるけど。その広い液晶の中で、いろいろなソフトを、指先だけで(ここ、大事なとこです)操作できるんです。

そして、このW-ZERO3[es]の重要なところは、OSがWindows Mobile 5.0だという点です。それこそ、フリーソフト、シェアウェアソフトの質と量が圧倒的に違うんですね。携帯電話用OSであるシンビアンを使って、W-ZERO3[es]のような高機能携帯を作っている機種もありますが、それとは、使えるソフトとその能力の面でかなりの差があります。そして、このW-ZERO3[es]に本当の実力を発揮させようと思うと、このフリーソフト、シェアウェアソフトがどうしても必要なのです。逆に言えば、フリーソフト、シェアウェアソフトを入れない状態では、W-ZERO3[es]はとっても困ったちゃんなやつでもあるんです。

W-ZERO3[es]礼賛(3)に続きます

W-ZERO3[es]礼賛 (1) (2) (3) (4) (5) (5.1)  (6) (7)

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2007年6月 9日 (土)

W-ZERO3[es]礼賛(1)

Wzero32_1W-ZERO3[es]の新作がついに出ましたね。そのレビューは、これから追々出てくるでしょうから、それを楽しみにしつつ、旧W-ZERO3[es]の現役ユーザーである私は、なんか良さげだけど、買おうかな、どうしようかな、という人のために、W-ZERO3[es]というウィルコム端末のいいところとさえないところをまとめておこうかな、なんて思います。パームとか、ザウルスとか、ウィンドウズCE端末とかをガンガン使ってるハードなモバイラーの人にとっては、つめの甘い記事になると思いますが、そのへんはご愛敬ってことでお願いしますね。

まずはね、W-ZERO3[es]を見て、あっ、こういう携帯端末いいな、と思った人にとって、いちばんのハードルは、これがウィルコム端末ってことなんでしょうね。これは、どうしようもないハードルですね。電話番号変わっちゃいますから、その時点で、あっ、アウトって人は多いと思います。

Img100私は、DDI Pocket時代からのユーザーで、この[es]が2台目の端末なんで、そのハードルはなかったです。ちなみに初代は、これ。これをずっと使い続けてきた人なので、みんながデザイン携帯やら、iアプリやら、携帯小説やら、これからの広告はモバイルだよねやら、大騒ぎしてるときに、携帯なんてララララララララ〜♪という感じだったんです。まえに松本人志が「携帯なんて、話せりゃええやん、電話やし」と広告で言ってましたが、まあそんな感じです。(でも、あの広告、表現はすごくいいんですが、でも携帯電話会社がそれ言っちゃあおしまいよ、という感じがなきにしもあらずで、それで、価格が3分の1くらいならそういう企業哲学はありですが、そうでもなかったし、だったら、ああいうメッセージを発した時点で、もうその企業の先はないんでしょうね。そう言って滅びの美学言いたくなるキモチ、わかりますが。余談です。そのへんの話は、また別の機会に。)

それでも、ちょっと興味ある、という人は、この[es]は、はっきり言っておすすめです。断言します。これは一つの革命っていっていいくらいに。私は、ノート型のウィンドウズCE機(NECのモバイルギアとか、そういうやつ。私のは富士通のインタートップ)をエアーエッジカードを指して使っていて、それから、東芝のリブレットを使い、しばらくはモバイルノートを使わなくなって、それでもって、この[es]を使い出したんで、そういう人なんで、そんな私にとっては、なるほど、こういう進化、ありなんや、という感じなんです。使えば使うほどそう思います。

どういうことかというと、この[es]は、モバイルPCの多機能性と、日本が生んだ独自の文化である携帯文化の見事な融合なんですわ。つまりね、この[es]ってのは、モバイルPCができることのほとんどが、指先一つでできるんです。そういう意味では、私の中では、あのQWERTYキーボードはあまり本質じゃなくて、[es]じゃないW-ZERO3がテンキーを排除したカタチでデビューしたけど、その時点では、やっぱり、ウィンドウズCE端末に電話機能と本格キーボードが付きましたっていう、ウィンドドウズCE端末から見た小さな進化にすぎなくて、テンキー付きのW-ZERO3[es]こそが、携帯電話にとっても、ウィンドウズCE端末のみならず、モバイルPC全般にとっても、ユーザーインターフェイスの革命だと思うんです。

W-ZERO3[es]礼賛(2)に続きます

W-ZERO3[es]礼賛 (1) (2) (3) (4) (5) (5.1)  (6) (7)

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2007年6月 8日 (金)

コンピュータ・アソシエイツ(2)

Arcserve2コンピュータ・アソシエイツの製品広告です。企業のIT部門に勤められている方はご存知かもしれませんが、「アークサーブ」というバックアップソフトウェアがありまして、その最新版が出たときに出稿した広告ですね。これはいわゆるB to B広告といわれる種類の広告で、簡単に言えば、業界向け広告というやつですね。日経コンピュータとか、日経リナックスとか、そういう専門家が読む雑誌に載るものです。

広告制作に携わる方だと分かるかと思いますが、この分野の広告は表現に自由度がなくて、しかも、覚えなきゃいけないことが多くて、勉強もたくさんしないといけないし、できれば避けたいなとか、僕、できないっす、と上司に言っちゃう人とか多いと思うんですね。まあ、自省も込めて告白すると、私自身もかつてはそういう制作君でもあり、いまだにそういう気もないとは言えない感じなのも事実ではあるんです。でも、B to Bと言えども、所詮は広告であって、広告である限り、広告の基本原理は同じなんです。いろいろと、そうとも言えないよね、という意見もあるでしょうが、広告はココロに響いてなんぼのもので、ココロに響かないものは、やっぱり駄目なんです。つまり、広告効果が低いんです。

で、B to B広告で、ほんとに広告効果が高い、ココロに響く広告をつくろうと思うと、どうすればいいのか。トートロジーっぽいですが、読む人のココロに響く広告をつくればいいんです。でもここで間違えちゃいけないことがあります。よくこういう人のココロに響かないものは、だめなんだよ、という人が、自分のオカンにもわかる広告をつくれと言いますよね。それは違うんです。読む人は、ITの専門用語を日常用語のように使いこなす人なんですよね。自分のオカンにわからせる必要はまったくないんです。

難解なIT用語を使っているから、難しい堅めの広告しかできないよね?いえいえ、そんなことはないでしょう。これを読んでくれてる人、広告関係が多いと思うんですが、同僚と飲みに行って愚痴ってるときの会話、思い出してみてください。結構、専門用語を使って、他の人にはわからない内容の話を、うだうだと話してたりしませんか。そのとき、堅苦しい感じですか。そうじゃないですよね。あいつの出してくるコンセプトって、あれじゃまったくワークしないんだよ、でさあ、そんな感じなのに、エクスキューションに口出してさあ、てな雰囲気で話してませんか。他人から見たら、わけわからんでしょ。だけど、本人たちは、安酒飲みながら、モロキューつまみながら、話してますよね。

この広告、オカンに見せてもよくわからないと言われ、制作の同僚に見せても、いまいちピンとこないなあ、とよく言われる広告ですが、読んでくれたIT部門の担当者からは、ホント、これわかるなあ、と言われる広告ではあったのです。ネットを見てたら、たまたま、この広告のコピーを、ていねいに日記に全文再録してくれたIT担当者の方と出くわしたり、お得意様から、某企業の若い女性IT担当者がこの広告を机に貼ってるという話を聞いたりして、ほんといろいろな人に愛された幸せな広告でした。

それまで、業界の目とかを気にして表現をつくるようなセコイ部分もあったのですが(これ読んでるあなたもあるでしょ、そんな部分)、この広告でちょっとだけ吹っ切れたような気がします。この広告は、広告業界でほめられなくたって、何の賞も取れなくたって、コマフォトやブレーンに載らなかったって、上司に製品の内容を説明しても一向に理解してくれなくたって、読んでくれた人にほめられる広告をつくれたら、それがいちばん、なんて正論を、涙目じゃなく、ぬけぬけと後輩コピーライターに語れる図太い私にしてくれました。

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2007年6月 7日 (木)

続・最近の目覚まし時計って‥

スヌーズ機能ってのがあるんですね。あれは、いい。押しても、ちょっとしたらまた鳴って、また押して、ちょっとしたらまた鳴って、5回くらい繰り返したら、さすがに目が覚めます。それに、この新しい目覚ましは、最初はやさしい電子音で、最後に強烈なベルの音がなるんですな。なかなか芸が細かいやつです。それと、集光インキとかいうので、光を集めて暗くなっても1時間くらいはインキが発光してるんですよね。で、それが終わっても、ボタンを押すとランプがつくし。そうなると、デザインもよく見えて‥はこないなあ、やっぱり。

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最近の目覚まし時計って‥

Img099_23年くらい前に目覚まし時計が壊れてしまい、ついに本日、目覚まし時計を購入。ドンキホーテで980円也。

いままでは、シャープ製のウィルコム端末 W-ZERO3[es]のアラーム機能を 目覚ましに使っていました。 が、しかし、このW-ZERO3[es]というやつは、いちおうWindows MobileというOSが入ったコンピュータなんですね。いろいろソフトを入れたりして、 それはもう便利なヤツなんですが、ソフトを入れすぎるとコンフリクトを起こし、アラーム機能が調子悪くなるんですわ。3日に1回くらい鳴らないことがあるんです。目覚まし的にはサイテーなやつなんですわ。

で目覚まし時計を買おうとあいなったわけですが、 希望はなるだけシンプルなヤツ。 これがないんですな、探してみると。無印良品にはあることはあるのですが、 私は「公園の時計」という腕時計を持っていて 時計としては今の時計では考えられないくらい 精度がないんですね。3分くらい平気で狂うんです。まあね、腕時計なら携帯もあるし、 それくらいまあええかな(っていいことないけど) という感じですが、目覚ましですものね。 常識的な精度はほしいわけです。

それで、電気屋とかドンキホーテとかいろいろ 探してみたんですが、なんかいらんデザインをしてあるんですね。ちょっと値の張るやつは、いわゆるシンプルなやつでも、レトロフューチャーでござい、という感じだし。安いやつは安いやつで、こんなん誰がよろこぶねん、というデザインがされてるんですよねえ。

そのなかでいちばんましだったのが、 写真のやつ。でも、これもなあ、なんでプラスティックなのにメタリック塗装やねん、とか、縦のラインいらんのちゃうのん、とかつっこみどころ満載なんですが、正確そうだしまあええかな、と。

パワーブックとかiPodみたいな感じのなにもしてないけどかっこいいでしょ、みたいなデザインの目覚まし、ほしいなあ。apple、作ってくれないかなあ。

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2007年6月 4日 (月)

コンピュータ・アソシエイツ(1)

Ca1企業向け のマネジメント・ソフトウェア会社であるコンピュータ・アソシエイツ(現日本CA)の企業広告です。今ではもうすっかりなじんでしまった感がある個人情報保護法が施行されたタイミングで出稿しました。

この広告は3部作シリーズで、その中のひとつです。この広告の根拠になっているソフトウェアは「eTrust」というセキュリティソフトウェアなのですが、個人のPC向けのものではなく、ネットのウィルスから、プロジェクトの重要ファイルの管理、情報の漏洩防止まで、総合的なセキュリティを管理するソフトウェアで、世界ナンバーワンのシェアを持っています。

そんなソフトウェアを持つ会社として、そのソフトウェアの設計思想というか、哲学というか、そのセキュリティに対する独自のスタンスみたいなものを表現しよう。そう考えたとき、ビジネスという世界でいまいちばんリアルに感じられる表現はどういうものだろう、と考えた結果、行き着いた先は「企業のプレスリリース」や「企画書」の持つリアリティだったんですね。リアルであるために、既存の広告の当たり前をすべて排除すること、それがこの広告の設計テーマです。

ノンビジュアル、ノンキャッチ。必要なことをシンプルにレトリックなしに伝えるコピーを大きく組み、広告のデザインではご法度とされている強調赤文字を使う。あえて下品とされている手法から逃げずに、ビジネス分野におけるメッセージのリアリティのある伝達だけを考えました。主に日経のメディアを使いましたが、好意的に受け入れられたようです。

コンピュータ・アソシエイツは、クリエーターとしての私にとって、本当に幸せな出会いで、この企業から多くのことを学ばせてもらったように思います。

※作品写真の掲載等に問題がございましたら、プロフィール欄のメールアドレスまでご一報ください。

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コロナビール

Coronahotel_3Coronalime_3Coronawirer_4 コロナビールの「ライムがなければ、コロナは飲むな。」キャンペーンです。これは2000年頃の仕事で、コピーライターとしての参加です。コロナといえば、ライムをさして飲むビールとして有名ですが、そういうしきたりがだんだん若い人の間ですたれてきたんですね。いいかげんなバーでは、ライムのかわりにレモンをさしたりして、しかも、スピリット系の瓶入りライトアルコール飲料に押されて、人気にかげりも出てきたところでした。

そこで、若い人たちにもそのしきたりをもう一度知ってもらおうとつくったのがこの広告です。ラブホテルのやつは、ちょっと見えにくいかもしれませんが、ビンの隣にあるライム色の四角いやつは、コンドームなんですね。

CDの影響でもあるのですが、意識的に欧米の作法でつくっています。プロポジション(広告メッセージみたいなもの)を「ライム無しでコロナを飲むことは禁止されています」として、禁忌を破るサディスティックな快感じゃなくて、無根拠な規則を守らされるマゾヒスティックな快感をエンターテイメントしてみました。そこが新しかったんじゃないでしょうか。

ちょっとエッチな表現でもあるので、掲載関係に苦労しましたが、私としては、この表現はタブーでも、社会に反することでもなんでもなく、きちんと避妊をしようというメッセージであるので、なんの問題もないと思っているのですが、まあ、実際は、やっぱりいろいろ反発が多かったです。でも、事後の調査では、このポスターを見て嫌悪感を抱いた人は、嘘偽りなく皆無で、むしろ、ファッショナブルな広告だと思ったという意見が多く、社会も成熟したなあ、と思いました。私なんかにすれば、週刊誌の中刷り広告の見出しのほうがよっぽど、どうなんあれ、とか思うんですよね。古い話ですが、某野球選手が薬物をやっていて、その見出しに「○○○で全身快感セックス」という見出しが堂々と車内を飾ってるのを見て、さすがにあれはあかんやろ、と思いましたです。

※作品写真の掲載等に問題がございましたら、プロフィール欄のメールアドレスまでご一報ください。

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こんな時代の広告。

そんなに遠くない昔。広告は確かに時代を映していました。

「モーレツからビューティフルへ。」
「なぜ年齢を聞くの?」
「やがて女の記録は男を抜くかもしれない。」
「不思議、大好き。」
「おいしい生活。」
「ハッピーエンド、はじまる」

そして、

「ほしいものが、ほしいわ。」

たぶん、「ほしいものが、ほしいわ。」というコピーがついた西武百貨店の広告が出たときが、分岐点だったような気がします。たしか吉本隆明が「マスイメージ論」だったと思いますが、日本が高度資本主義という段階に入って、ないから欲しい、必要だから欲しい、というカタチをとっていた欲望が、ほしいものがほしい、という新しい段階に入った、というようなことを、欲望論をからめて言っていたような気がするけれど、広告が時代を映す鏡であるとすれば、「ほしいものがほしい」というメッセージを発した段階で、もう、その先がなくなってしまったんですね。時代を映しながら、時代の感性の少し前を行くメッセージを発することが、広告的な力を確実に持ちうる幸せな時代が、ここで終わったんだと思うんです。このコピーをつくった糸井重里さんは、きっとそのことに自覚的だったんだと思います。広告=クリエイティブと無邪気に信じられる時代の終わりに。糸井さんと西武百貨店のほぼ最後の仕事は、「商品の包み方の一番じょうずな百貨店になります。」という、悪い言い方をすれば、身も蓋もない、いい言い方をすれば、広告の原点に戻ったような、きちんとした実のある広告でした。そういう広告をつくる糸井さんは、ある時代が終わったことに、きっと自覚的だったんだと、インターネットをはじめ、様々な分野でクリエイティブな仕事を続けてられている今、あらためて思います。

その頃、私は、日本橋三越本店という保守本流の百貨店で、「百貨店をつづけます。」や「安くは、ありません。」というライバル代理店のつくった素晴らしいブランド広告を横目で見ながら、そして、少しばかり憧れながら、日本橋三越本店の第二番手の広告代理店の三越チームのプロダクションコピーライターとして、あくまで泥臭く「あす10時スタート。」というゴルフバーゲンのコピーを書き、三越前にサラリーマンの長蛇の列をつくったりしていました。流通広告が華やかだった最後の時代ですね。

あの頃、素晴らしいブランド広告をつくる立場にないやっかみ半分かもしれませんが、よく百貨店の広告なんだから、たとえば百貨店のゴルフの広告は、ゴルフの世界を描いたりするんじゃなくて、三越のゴルフバーゲンに来てください、というメッセージをクリエイティブしなきゃだめだ、北海道展なら、北海道をクリエイティブするんじゃない、北海道展をやる三越に来てくださいをクリエイティブするんだ、ということを年上のアートディレクターに言って、口論になったりしていました。

あのあと、西武流通グループ=セゾングループは、 「実感するだけ。」という哲学めいた広告を出します。 ビジュアルは「!」だけの。 だいぶん後ですが、パルコの「NO MORE IMAGE」というのもありましたね。もう、そこまでいったら終わりなんですよね。かっこよかったけど、そこから先はもう何もないんです。いままでのやりかたじゃ、絶対に、その先はない。あの頃、流通広告がこれからもリアルでいられる可能性は、前述の身も蓋もない泥臭さ=リアルさにしかないと思っていました。そして、そのリアルさを見事にクリエイティブに昇華し、体現していたほぼ唯一の例は、大貫卓也さんのラフォーレグランバザールの仕事だけだと思います。

あのあと、流通広告は時代から取り残され、広告は急速に産業になっていきました。広告は文化じゃないよ、というなんの面白みもない正論が、なんの違和感もなく語られるようになり、広告表現も資本の論理を色濃く反映するようになりました。それは、カンヌの受賞作とかを見ていると、日本だけの現象かもしれないし、景気の問題かもしれないけど。でも、少なくとも、日本の私たちが享受していた文化としての、最先端のカウンターカルチャーとしての、そして、時代の宣言者、予言者としての広告が、メディアから消えてしまったのは、事実だろうと思います。

だいぶ前ですが、auの広告で 「広告がつまんない会社は、ほぼつまんない。」みたいな 広告がでましたよね。あれ、私の中ではいい意味でも 悪い意味でもすごくひっかかりがあったんですが、いまの広告の状況をすごく表している気がするんです。つまりは、広告は資本を反映する表現である。よって、広告の表現の質も、資本によって規定される。日本の広告には、なぜあれだけタレント広告が多いのか。それは、資本に規定される広告の指標として、広告としていい表現、イコール、いいタレントが出ているというのがすごくわかりやすくリアルだからです。いい感じのタレントが、いくらかかるか、 そして、そのタレントがその企業の広告に登場することを 承諾するか、というプロセスを含めて、そのブランドの価値が社会的に決定されていくという。

Docomo 2.0という広告がありますよね。 私は、「そろそろ反撃してもいいですか?」というコピーとともに登場したその広告にすごく期待しました。同業のはしくれとして。あのあと、アッと驚く携帯が登場するはずだ。それこそ、いままでの携帯の文化を変えてしまうように。それが、社会に具体的な製品やサービスを根拠にしてメッセージされていく。そんな期待をしたのです。でも、違いました。あの2.0の意味は、ドコモも、auみたいにハイセンスなタレントがCMに登場するハイセンスな企業になりました、ってことだったんですよね。少なくとも広告だけ見ると。で、誤解されないようにあらためて言っておきますと、タレント広告だったから期待はずれというわけではありません。あの広告は、いわゆるタレントが唯一のアイデアになっているような広告ではなく、タレント起用やその価値に対価を支払うという企業のセンスや、そのシステム自体を価値にしている、資本を反映する広告表現の最先端だったからです。

私は、外資系広告会社のカルチャーに親しみがあるのですが、よく外資系の広告マンは、日本のタレント広告志向を「だから日本の広告はアイデアがないんだよ」とグローバルな視点から斬って捨てるけど、それだけじゃ、あのリアリティには勝てないんです。広告という伝統芸能は、それで守れるかもしれませんが、アイデアという意味では、よっぽどあのドコモの広告の方が、それを実現する力も含めてクオリティが上なのです。少なくとも、日本の国内では、その複雑で繊細でややこしいバリューは力を持っていると思います。

産業としての広告の枠組みの中では、広告表現は資本にどうしても規定されてしまいます。タレント勝負をやめて、やれ共感だ、ノンタレだ、アイデアだ、といったところで、いまの広告の枠組みの中、言い方を変えれば、広告という表現がどうつくられどう消費されていくかというシステムがばれてしまっているいまという時代では、広告があいかわらず広告の顔をしている限り、もう本当のリアリティは持ち得ないと思うんですね。自分がつくっている広告も含めてね。あるのは、広告目的に対する効果の優劣だけです。

私は、広告が、というより、表現が資本に規定されるなんてことに徹底的に抵抗していきたいと思っています。マルクスが「上部構造は下部構造に規定される」と言っているけど、それが真理だとしても、そんなものが表現にまでおよんでたまるか、と思っています。表現って、そんなものじゃないし、広告だって、これからも下部構造にある程度自由な表現であり、伸びやかな文化であり続けると思いたい。

広告が、広告の力を取り戻すためには、広告が広告という枠組みから一度出ることが必要なんじゃないかと思います。日本というフィールドの中の、システムとしての広告の枠組みの中の最高峰である、あのタレント広告に勝つには、それしか方法がないと思います。なぜなら、その枠組みは、そうした表現が勝つ枠組みなのだから。広告が表現であり、文化であることをやめたとき、広告という力、つまり広告効果も、あの見事なタレント広告ともども衰退するしかないと思うし。

最近、私は、いわゆるコピーっぽいコピーに興味がなくなっています。見事に思えてもリアルに思えないから。ビジュアルもそう。だって、そのやり方じゃ、勝てないもの。ドコモにもauにも資生堂にも。それで勝てる見込みのある人はそういう戦い方すればいいと思いますし、広告の表現ってのは資本に規定される、そういう種類の表現なんですよ、なんて言い方もできるけど、自分の状況はそうじゃないし、安くはないお金を払ってくれるお得意に負け試合を提案なんてできませんよね。そういう資本のスパイラル から抜け出す手だてが、本来は広告の、広告を成り立たせている表現の力だったはずなんです。

広告という枠組みから出ることで、広告を広告にする。

広告は、時代の予言者じゃなくてもいいし、そういう幸せな時代は過ぎた日の思い出でいいと思います。でも、広告は広告である限り、広告は、時代の中でリアルな表現であってほしい。なんども言うけれど、広告はまだ伝統芸能になっちゃいけないんです。というか、経済活動なんだから、社会が伝統芸能化を許すはずがないんです。リアルじゃない伝統芸能としての広告と、リアルな資本を反映した表現としての広告。その二つの方向の第三の道をみつけたい。メディアも、ターゲットも、分野も細分化され、それとともにどんどんやせ細り、ターゲットセグメントと差別化の名のもとに、ダイナミズムを失いつつある、今の広告業界のしんどい状況の中、そんなふうにあがきたいと思います。とにかく、昔はよかったなんて言ってるひまはないんです。あがいて、あがいて、あがきたい。そう思います。それが、たとえ悪あがきであってもね。

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