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2007年6月 4日 (月)

こんな時代の広告。

そんなに遠くない昔。広告は確かに時代を映していました。

「モーレツからビューティフルへ。」
「なぜ年齢を聞くの?」
「やがて女の記録は男を抜くかもしれない。」
「不思議、大好き。」
「おいしい生活。」
「ハッピーエンド、はじまる」

そして、

「ほしいものが、ほしいわ。」

たぶん、「ほしいものが、ほしいわ。」というコピーがついた西武百貨店の広告が出たときが、分岐点だったような気がします。たしか吉本隆明が「マスイメージ論」だったと思いますが、日本が高度資本主義という段階に入って、ないから欲しい、必要だから欲しい、というカタチをとっていた欲望が、ほしいものがほしい、という新しい段階に入った、というようなことを、欲望論をからめて言っていたような気がするけれど、広告が時代を映す鏡であるとすれば、「ほしいものがほしい」というメッセージを発した段階で、もう、その先がなくなってしまったんですね。時代を映しながら、時代の感性の少し前を行くメッセージを発することが、広告的な力を確実に持ちうる幸せな時代が、ここで終わったんだと思うんです。このコピーをつくった糸井重里さんは、きっとそのことに自覚的だったんだと思います。広告=クリエイティブと無邪気に信じられる時代の終わりに。糸井さんと西武百貨店のほぼ最後の仕事は、「商品の包み方の一番じょうずな百貨店になります。」という、悪い言い方をすれば、身も蓋もない、いい言い方をすれば、広告の原点に戻ったような、きちんとした実のある広告でした。そういう広告をつくる糸井さんは、ある時代が終わったことに、きっと自覚的だったんだと、インターネットをはじめ、様々な分野でクリエイティブな仕事を続けてられている今、あらためて思います。

その頃、私は、日本橋三越本店という保守本流の百貨店で、「百貨店をつづけます。」や「安くは、ありません。」というライバル代理店のつくった素晴らしいブランド広告を横目で見ながら、そして、少しばかり憧れながら、日本橋三越本店の第二番手の広告代理店の三越チームのプロダクションコピーライターとして、あくまで泥臭く「あす10時スタート。」というゴルフバーゲンのコピーを書き、三越前にサラリーマンの長蛇の列をつくったりしていました。流通広告が華やかだった最後の時代ですね。

あの頃、素晴らしいブランド広告をつくる立場にないやっかみ半分かもしれませんが、よく百貨店の広告なんだから、たとえば百貨店のゴルフの広告は、ゴルフの世界を描いたりするんじゃなくて、三越のゴルフバーゲンに来てください、というメッセージをクリエイティブしなきゃだめだ、北海道展なら、北海道をクリエイティブするんじゃない、北海道展をやる三越に来てくださいをクリエイティブするんだ、ということを年上のアートディレクターに言って、口論になったりしていました。

あのあと、西武流通グループ=セゾングループは、 「実感するだけ。」という哲学めいた広告を出します。 ビジュアルは「!」だけの。 だいぶん後ですが、パルコの「NO MORE IMAGE」というのもありましたね。もう、そこまでいったら終わりなんですよね。かっこよかったけど、そこから先はもう何もないんです。いままでのやりかたじゃ、絶対に、その先はない。あの頃、流通広告がこれからもリアルでいられる可能性は、前述の身も蓋もない泥臭さ=リアルさにしかないと思っていました。そして、そのリアルさを見事にクリエイティブに昇華し、体現していたほぼ唯一の例は、大貫卓也さんのラフォーレグランバザールの仕事だけだと思います。

あのあと、流通広告は時代から取り残され、広告は急速に産業になっていきました。広告は文化じゃないよ、というなんの面白みもない正論が、なんの違和感もなく語られるようになり、広告表現も資本の論理を色濃く反映するようになりました。それは、カンヌの受賞作とかを見ていると、日本だけの現象かもしれないし、景気の問題かもしれないけど。でも、少なくとも、日本の私たちが享受していた文化としての、最先端のカウンターカルチャーとしての、そして、時代の宣言者、予言者としての広告が、メディアから消えてしまったのは、事実だろうと思います。

だいぶ前ですが、auの広告で 「広告がつまんない会社は、ほぼつまんない。」みたいな 広告がでましたよね。あれ、私の中ではいい意味でも 悪い意味でもすごくひっかかりがあったんですが、いまの広告の状況をすごく表している気がするんです。つまりは、広告は資本を反映する表現である。よって、広告の表現の質も、資本によって規定される。日本の広告には、なぜあれだけタレント広告が多いのか。それは、資本に規定される広告の指標として、広告としていい表現、イコール、いいタレントが出ているというのがすごくわかりやすくリアルだからです。いい感じのタレントが、いくらかかるか、 そして、そのタレントがその企業の広告に登場することを 承諾するか、というプロセスを含めて、そのブランドの価値が社会的に決定されていくという。

Docomo 2.0という広告がありますよね。 私は、「そろそろ反撃してもいいですか?」というコピーとともに登場したその広告にすごく期待しました。同業のはしくれとして。あのあと、アッと驚く携帯が登場するはずだ。それこそ、いままでの携帯の文化を変えてしまうように。それが、社会に具体的な製品やサービスを根拠にしてメッセージされていく。そんな期待をしたのです。でも、違いました。あの2.0の意味は、ドコモも、auみたいにハイセンスなタレントがCMに登場するハイセンスな企業になりました、ってことだったんですよね。少なくとも広告だけ見ると。で、誤解されないようにあらためて言っておきますと、タレント広告だったから期待はずれというわけではありません。あの広告は、いわゆるタレントが唯一のアイデアになっているような広告ではなく、タレント起用やその価値に対価を支払うという企業のセンスや、そのシステム自体を価値にしている、資本を反映する広告表現の最先端だったからです。

私は、外資系広告会社のカルチャーに親しみがあるのですが、よく外資系の広告マンは、日本のタレント広告志向を「だから日本の広告はアイデアがないんだよ」とグローバルな視点から斬って捨てるけど、それだけじゃ、あのリアリティには勝てないんです。広告という伝統芸能は、それで守れるかもしれませんが、アイデアという意味では、よっぽどあのドコモの広告の方が、それを実現する力も含めてクオリティが上なのです。少なくとも、日本の国内では、その複雑で繊細でややこしいバリューは力を持っていると思います。

産業としての広告の枠組みの中では、広告表現は資本にどうしても規定されてしまいます。タレント勝負をやめて、やれ共感だ、ノンタレだ、アイデアだ、といったところで、いまの広告の枠組みの中、言い方を変えれば、広告という表現がどうつくられどう消費されていくかというシステムがばれてしまっているいまという時代では、広告があいかわらず広告の顔をしている限り、もう本当のリアリティは持ち得ないと思うんですね。自分がつくっている広告も含めてね。あるのは、広告目的に対する効果の優劣だけです。

私は、広告が、というより、表現が資本に規定されるなんてことに徹底的に抵抗していきたいと思っています。マルクスが「上部構造は下部構造に規定される」と言っているけど、それが真理だとしても、そんなものが表現にまでおよんでたまるか、と思っています。表現って、そんなものじゃないし、広告だって、これからも下部構造にある程度自由な表現であり、伸びやかな文化であり続けると思いたい。

広告が、広告の力を取り戻すためには、広告が広告という枠組みから一度出ることが必要なんじゃないかと思います。日本というフィールドの中の、システムとしての広告の枠組みの中の最高峰である、あのタレント広告に勝つには、それしか方法がないと思います。なぜなら、その枠組みは、そうした表現が勝つ枠組みなのだから。広告が表現であり、文化であることをやめたとき、広告という力、つまり広告効果も、あの見事なタレント広告ともども衰退するしかないと思うし。

最近、私は、いわゆるコピーっぽいコピーに興味がなくなっています。見事に思えてもリアルに思えないから。ビジュアルもそう。だって、そのやり方じゃ、勝てないもの。ドコモにもauにも資生堂にも。それで勝てる見込みのある人はそういう戦い方すればいいと思いますし、広告の表現ってのは資本に規定される、そういう種類の表現なんですよ、なんて言い方もできるけど、自分の状況はそうじゃないし、安くはないお金を払ってくれるお得意に負け試合を提案なんてできませんよね。そういう資本のスパイラル から抜け出す手だてが、本来は広告の、広告を成り立たせている表現の力だったはずなんです。

広告という枠組みから出ることで、広告を広告にする。

広告は、時代の予言者じゃなくてもいいし、そういう幸せな時代は過ぎた日の思い出でいいと思います。でも、広告は広告である限り、広告は、時代の中でリアルな表現であってほしい。なんども言うけれど、広告はまだ伝統芸能になっちゃいけないんです。というか、経済活動なんだから、社会が伝統芸能化を許すはずがないんです。リアルじゃない伝統芸能としての広告と、リアルな資本を反映した表現としての広告。その二つの方向の第三の道をみつけたい。メディアも、ターゲットも、分野も細分化され、それとともにどんどんやせ細り、ターゲットセグメントと差別化の名のもとに、ダイナミズムを失いつつある、今の広告業界のしんどい状況の中、そんなふうにあがきたいと思います。とにかく、昔はよかったなんて言ってるひまはないんです。あがいて、あがいて、あがきたい。そう思います。それが、たとえ悪あがきであってもね。

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