愚痴の効用と弊害について。
ブログのタイトルにあるとおり、高尚なものや複雑なものから、くだらないものまで、もしかしたらあらゆる論説が、所詮は愚痴かもね、と思うことがあります。今日は、というか、今日もいろいろあって、仕事終わりに後輩と沖縄料理屋でビールをひっかけたりしました。
もっとクールに黙々と文句を言わずにやれたらと思うんですが、だめですね。愚痴ってしまいます。すごくレベルの低い感じに。人の愚痴もよく聞きます。それで、ときどき自分までネガティブモードになったりすることもあるけど。でも、たいがいは、愚痴ったあと、妙にすっきりして、そのあとはしばらくはポジティブにいろんなことに対策を打ちながら、なんとか明るくやれたりもします。また、愚痴った人も、妙にすっきりした感じになることも多いなあ。
例えば、ニーチェなんかも、あの意地悪な論理体系そのものが、ああ、この人の壮大な愚痴なんだなあ、と思うこともあり、先日から書いているオフコース時代の小田さんの純粋で抽象的な恋愛詞なんかも、ああ愚痴の昇華なんだなあ、と思うことがあるんですね。あらゆる文化は、愚痴である。なんてことは言う勇気はないけど、ちょっとだけ本気でそう思ってます。
愚痴の効用は、このすっきり感ですね。愚痴ったことの自己嫌悪の振り戻しだろうけど、そのぶん、明日からは、建設的に生きよう、なんて思いますもの。それで、小さなことは解決することは多いです。案外、多くの悩みやトラブルは、自分の心の持ちようだったりして、ネガティブを話して洗い流すことで好転することは多いです。悩みが積み重なるばかりなら、日々生きるごとに辛くなって、しんどいですものね。適度な愚痴は、よく効く薬ですね。
逆に弊害は、愚痴は本質的な解決を回避する日々の生活の知恵なんで、問題の先送りになってしまうので、知らない間に、もう、これはどうしょうもねえな、覚悟決めないとなあ、なんてことになってしまいがちなことですね。愚痴は頭痛薬みたいなもので、プロスタグランジンは、痛みを緩和する効果があるだけで、痛みの原因を根本から取り除くことはできないでですから。
で、沖縄料理店。私と後輩の隣でひとり飲んでいるお兄ちゃんがいたんですね。私と同じくらいの年の人ですかね。その人がね、みてたら、それはもうおいしそうに泡盛のロックを飲むわけです。我々は愚痴りながら飲んでるのに、もう、その人は、幸せそうにひとり飲むわけです。でね、ラストオーダーが近かったので、我々は、珍味系の小皿をたのんだりしてね、あと一杯くらい飲もか、ってな感じだったんですが、そのお兄ちゃんは、豚骨系の白濁したスープみたいのをたのんでて、それをひとサジ口にして、ああ、うまいっ、うまいなあ、って声に出してね、ほんといい感じの顔で味わってるんですね。
後輩が、それを見て、なんかあの姿は嫉妬するくらいいいっすね、って言って、僕らもあれ頼んだらよかったな、と私が言うと、いやいや、ああいうふうに僕ら、うまそうに飲めないっすよ、と。それもそやなあ、と話してたんですが、まあなあ、もし、とんでもなくうまいものを食ったとしても、僕らの場合、それを批評したり、携帯で写真とって、ブログに上げたりするんだろうね。そうしてる時点で、あの人の幸せ感は、僕ら味わえないんだろうな、と。
ほんとそやなあ、と思い帰宅したのですが、それを思い出しながら、家に帰って、PC立ち上げて、こうしてブログに書いている時点で、ああいう人には、私はなれないんだろうな、と思います。でも、この前、会社の同僚に、私が会社帰りにひとりパチスロを打っているところを見られてたらしく、それで、へえパチスロやるんですか、意外ですねえ、私もやるんですよね、と話しかけようと思ったけど、私があまりに夢中でパチスロを打ってて、その同僚は私に話しかけられなかったそうです。これだけ楽しんでるのに邪魔しちゃ悪いなあ、って。ものすごく楽しそうにパチスロ打ってたらしいんですよねえ、私。でも、あのときは負けてたんですけどねえ。すごく楽しそうだったらしいです。なんだかなあ。
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