そして吉本隆明だけが残った。
80年代に現代思想ブームというのがありました。その頃、ちょうど大学に入ったばかりで、恥ずかしながら、私も現代思想キッズのひとりでした。訳も分からず柄谷行人の『マルクスその可能性の中心』とか『探求Ⅰ』とか読んでました。浅田彰の『構造と力』がベストセラーになったり、妙な時代でしたねえ。
世間はバブルだったんですが、私は貧乏学生で、バブルがどういう時代だったのかはあまり分からないです。ただ、東大のやつが、これからはノンバンクだとか言って、第一勧銀(今のみずほ銀行の母体のひとつ)をけって武富士に入ったことが印象に残っています。
私は、その頃は広告にはまったく興味がなく、就職活動もなんとなくな感じで、MBSやよみうりテレビをなんとなく受けたりした都合で、なんとなく大阪のベーシックデザイン会社に入りました。なにも分からず、CIプランナーなどという肩書きをもらい、企業のCIやVI(ビジュアル・アイデンティティ)、それになんちゃって都市開発なんかのプランニングをやったりしました。バブルの最後のあだ花だったんですね。
プランニングといっても、変わった企画書ばかり書いてました。また、それが許される時代でもあったんですね。今も許されるかもしれないけれど。例えば、灘の某酒造メーカーに『これからの売れ筋商品のデザインについて』というテーマで、日本たばこのたばこパッケージの変遷を調べて、マイルドセブンから、売れ筋はマイルドセブンライトになっているという事実だけで、「これからの売れ筋商品のデザインはブルーです」と断言したり、「コンビニは現代の縁日である」という今の私から見たら突っ込みどころ満載のテーゼをでっちあげて、日本酒のハレとケの持論を展開し、酒造メーカーの部長さんに、君の日本酒論は甘いと言われ、きわめて論理的に論破され、ちくしょう、とか言って阪神電車に乗って会社に戻る大らかなプランナー時代をすごさせていただきました。
でも、2週間に1度、そんなへんてこ企画書を持っていって、ほんの少しはものになったけれど、ほとんどはクズのボツプランなのに、その部長さん、いつも10万円のプレゼン代を支払ってくれたんですよね。粋ですよね。
時代は、浅田彰の言うとおり「戯れ」だったんですよね。でも、あれはPlayの日本語訳で、日本で流通したようなアホな響きは、実はないそうです。で、その頃読んだポストモダンのどうのこうのは、ほとんどすべて忘れてしまったけれど、吉本隆明だけは、いまだに読み返します。
吉本隆明だけは、あの現代思想ブームが去った後も、なぜかリアルだったんですよね。オウムについての発言も、『反核異論』も、吉本埴谷論争も。いい悪いはともかく。ちょっと不謹慎ですが、吉本さんが江ノ島で溺れたとき、テレビのニュース速報で「戦後思想の巨人、吉本隆明さんが重体」と出て、ああこれでひとつの時代が終わったんだな、と思ったのですが、その後、吉本さんは元気になられたんですよね。そのとき、ああ、なんか吉本隆明らしいな、と思いました。今、吉本隆明さん、いい老人の顔されてますよね。生き様が、物語的に格好良くないところが、吉本さんらしくていいな、と思います。
吉本隆明と言えば、ある時期から、日本の高度資本主義社会を肯定し始めましたよね。本物の左翼だと思いました。労働者の視点で言えば、その周辺や細部はどうであれ、マクロ的に見て、若く賃金の低い労働者が、休日におしゃれを楽しみ、収入のほんのわずかの割合で人生をそこそこ楽しめる、そうした社会を実現した、日本の資本主義は、労働者の視点で見れば、肯定する以外ないということだと思います。彼にとっては、左翼とは自分のライフスタイルでも、自意識の傾向でもなかったところが、本当にリアルだと思います。
例えば、吉本隆明は、こういうこと言いますよね。(というか言いそうですよね、かもしれませんが。)男女平等が本当に実現されたと言えるのは、大学の法学部学生の男女比率が1対1になる時だ、と。それは、いまなお実現されていませんが、その目には、形而上の論議ではなく、現実が見えている気がします。
吉本隆明の言うことで違和感があるのは、なぜ彼は「対幻想」を特別視するのか、というところですね。ちょっとロマンティックにすぎませんか、と思います。国家とか社会とかの「共同幻想」と、夫婦や恋人関係とかの「対幻想」は逆立する、と言い切るでしょ。「対幻想」的な甘い一体感と「共同幻想」的な一体感は、同じ匂いが私にはします。逆立なんかしないんじゃないかなあ、と思うんですよね。逆立するのは、じつは「幻想」と彼がいうような領域ではなく、国家や社会の公共の福祉的な利害と、個人や家族の幸せの追求が、時として逆立するにすぎないだけで、「対幻想」は「共同幻想」の最小単位にすぎないのでは、と思うんですよね。
私は、それより「対幻想=共同幻想」に収斂されない「完全な三項関係」が、つまり個人が共同幻想に収斂されない関係性、私はそれを「永遠の三角形」と呼んでいるのですが、その「永遠の三角形」があり得るとすれば、それが「共同幻想」と逆立するという感覚があるのです。で、興味があるのは、その「永遠の三角形」は現実において可能なのかどうか、です。それが、オフコースとか、ビル・エバンスを考えるときの、大きなテーマです。
私はなんとなく「永遠の三角形」と呼んできたのですが、よく考えると英語で言えば、eternal triangle、つまり「三角関係」のことなんですよね。そのことに気づいて、ちょっと思い当たるふしがあり、個人的なことはともかく、吉本隆明が苦しんだ三角関係の話が、案外、私の「永遠の三角形」なんてわけのわからない、なのに頭に張り付いてとれないこだわりの着想のもとになっているのかな、なんて思いました。たぶん、吉本は「対幻想」の絶対化を、その体験から着想したと思います。でも、その絶対化は、やっぱり違和感あるんです。
吉本隆明は「関係の絶対性」と言いますよね。その「関係」という言葉のリアリティは、じつは「対幻想」ではなく、あの三角関係だったような気がするんですよね。であるなら、ほんとはその三角関係こそが絶対性なのではないか、とも考えられますよね。なんか結論が不幸になりそうな気もするけど。でも、その三角関係は、人に死にたくなるような緊張感を与えますよね。逆に言えば、死にたくなるくらい生きているとも言えるわけでもあるんですよね。少なくとも、ビル・エバンス・トリオの音楽は、そんな極限を感じるんですね。やっぱり、それは不幸でさびしい考え方なのか、どうなんでしょう。
でもなあ、そこを避けてしまうと、すべては、結局は「浪花節」になりそうで、それも違うと思うんですよね。なんかわけわからないエントリーになりましたが、本人もよくわかってませんので。では、みなさま、おやすみなさい。また、明日。
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