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2007年7月30日 (月)

『永遠の三角形 Bill Evans Trioの音楽』ノート(7)

■エバンス、ラファロ、モチアンのトリオ誕生まで

 マイルスグループから独立した後、ビルエバンスはピアノトリオを結成させます。いよいよ、ジミーギャリソン、ケニーデニスとのトリオで本格的にライブ活動を開始します。杉田宏樹さんの『ピアノ・トリオ固執の最大成果〜ポートレイト・イン・ジャズを読む』(ジャズ批評別冊「ビル・エヴァンス」所有)によると、ほとんど客が集まらなかったそうです。たった3週間でドラマーが4人、ベーシストが7人も変更されてしまいます。

1961_2 そんな中、ビルエバンスは当時23歳の若きベーシストであるスコットラファロと会うのです。はっきりとした資料はありませんが、たぶんオーディションだと思います。ラファロの演奏は、チェットベイカー・グループで聴いていて(エバンス自身、かつてチェットベイカーのサイドメンでした)、エバンスは喜んで彼を迎え入れたそうです。ドラムは、クラリネット奏者のトニースコットのグループや、ヴァイブ奏者のエディコスタ、ボーカル&トランペット奏者のドンエリオットなどで共演した旧友、ポールモチアン。1959年、エバンス30歳のときのことです。

 3者対等の同時進行的インプロビゼイションの手法は、このラファロとの出会い、そして、旧知の友モチアンとの再会によって始まります。私たちは、ビルエバンスの生涯の音楽を俯瞰できる、リスナーという特権的な立場で見ていますが、実際は、ビレッジバンガードライブ録音の2枚(『Waltz for Debby』(参照・試聴)『Sunday at the Village Vanguard』(参照・試聴)の雰囲気を聴いてみても、それほど注目されていたわけではないようです。

 実際、意気投合したトリオは、チェットベイカーのオーディションに再度出かけたりしてようで、ラファロ同様、エバンス自身もまだ無限の可能性を秘めた若きジャズピアニストにしかすぎなかったのでしょう。(ちなみに、このトリオでの初アルバム『PORTRAIT IN JAZZ』(参照・試聴)の2年前、ラファロは『THE LEGENDARY OF SCOTT LAFARO』という名のアルバムを録音しています。しかし、それが商業ベースで録音されたものか、彼の死後にその録音に発掘され販売されたものかは今のところ不明です。)

■スコットラファロがなぜ伝説のベーシストになったのか

 このトリオでの録音はわずか4枚しか残されていません。まずはこのトリオのファーストスタジオ録音アルバム『PORTRAIT IN JAZZ』(1959年)。2枚目のスタジオ録音アルバム、『Explorations』(1962年,参照・試聴)。そして、1961年6月25日のNYビレッジバンガードのライブ録音『Waltz for Debby』『Sunday at the Village Vanguard』です。

 そのうち、『Sunday at the Village Vanguard』は、スコットラファロの急死にともない追悼として急遽発売されたものです。ビレッジバンガードのライブが終わってわずか13日後の7月6日に、自動車事故で急死するのですね。両親が住むNY北方ジニーヴァに向かって車を走らせていたとき、途中で方向を誤り、木に激突。即死だったそうです。(参考資料『ビル・エヴァンスージャズ・ピアニストの肖像』(参照)ペーター・ペッティンガー著 相川京子訳)

 この話は、ジャズ界では有名な悲劇ですから、ここではあまり深く論じることはしません。けれども、それが運命だとすれば、あまりにも残酷だと思うのです。エバンスは、その時点で、麻薬に溺れていました。なのに、あの美しい演奏を残せたことに芸術の魔力を感じますが、その彼の唯一のよりどころであったラファロの才能を失い、彼の絶望を思うと言葉を失います。

 エバンスはその2年後、ピアノの一人多重録音による『自己との対話』でグラミー賞を獲得します。ジャズ興行界で彼を名実ともに大スターにしたのは、じつはこの奇怪なソロピアノアルバムなのです。彼が33歳のときのことです。あまりにも皮肉です。彼は、インタビューの中で、こう語っています。
 
 『あのトリオ(ラファロ、モチアンのトリオ=管理人注)の特徴は、共通した目的と可能性を感じていたことだった。われわれが演奏するにつれて音楽は発展し、実際の演奏を通じて形になっていった。信頼のおける形で結果を得るのが目的だった、もちろん、リード楽器だったので、私が演奏を整頓した形になったかもしれないが、独裁者になるつもりはなかった。もし音楽自体が応答を引き出せないのなら、それには興味がない。スコットとポールの両者に出会えたことが、私の経験に一番の影響を与えたと思う、あの日レコーディングした内容に感謝している。
 あれがスコットに会った最後で、一緒に演奏した最後でもあった。ある特定の突出したミュージシャンの演奏に依存する部分が多いコンセプトを発展させてしまったら、その人物がいなくなってしまった時はどうやってふたたび演奏し始めればいいのだろう?』(『ビル・エヴァンスージャズ・ピアニストの肖像』ペーター・ペッティンガー著 相川京子訳)
 
 ここで彼は「ある特定の突出したミュージシャンの演奏に依存する部分が多いコンセプト」と言っています。それは、「3者対等の同時進行的インプロビゼイションの手法」です。そのコンセプトは、ベーシストの突出した才能が必要だった。そこに、ビルエバンスが求め続けた「永遠の三角形」の可能性とその限界を見る鍵があると思うのです。それは、人間という生き物が持つ「関係」の可能性とその限界(ではないかもしれないけれど)を示すものだと、私は思うのです。
 
『永遠の三角形 Bill Evans Trioの音楽』ノート(8)に続きます

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