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2007年7月22日 (日)

「義務と権利」VS「責任と自由」(4)

なぜこんなことを書いたかというと、「責任と自由」で語られるべき話が「義務と権利」の話にすり替えられることで、これまで私たちが大切にしつづけていた「責任と自由」という個人を拡張していく概念が、国家や組織と個人の契約の概念である「義務と権利」に取り込まれてしまいそうな危機感をぼんやりとですが、確かに感じているからです。

それほど深刻な話ではなく、身近なところでも、ごっちゃになった話が多いわけですね。戦後教育とかと関係あるのかもしれませんし、相対主義の行き過ぎの結果なのかもしれませんが。相対主義の行き着く先は、人それぞれという名の主体の消滅ですから。「責任と自由」という個人の個性を尊重し、その個性、あるいは個性ということが甘ければ、個人の差を認め合う概念が「義務と権利」に取り込まれてしまうと、個人の差は理論上なくなり、人間はすべてが等価であるということになってしまうのです。

でも、実際は、人間は等価であるはずありませんよね。生きていれば、そんなこと誰だってわかりますよね。私だって、自分の能力のなさや運のなさを嘆くこともありますし、その戦いで敗者になることもあります。人間が等価であれば、失恋とかもないはずですよね。その現実は、つらいです。でも、つらいからといって、とりあえず、粗雑に「人間は等価で平等」であるとしてしまうと、現実が必要とする差異を出していくために残るものは「利権と談合」しかなくなるのです。心の「偽りの平安」と引き換えに手に入れられるのは、「利権と談合」ですべてが決まる息苦しい世の中です。それは、何も経済だけではなく、すべての日常において。私は、そんな世の中は、醜くていやです。

糸井重里さんがかつてうまいこと言っていたのを覚えています。それは、「人類は平等、という理念は、現実は、人は平等ではないからこそ、少なくとも理不尽なこととか、本人のせいじゃないとこは、なるだけなくしていこうぜ、という人類の知恵であったはず。それを、人類は平等という理念を建前にしてしまうと、その理念が持っていたはずの目的さえ失われてしまう。」という内容でした。

小学校の運動会のかけっこでみんなが1位になるような、こっけいな状況。それと同じようなメンタリティが、「責任と自由」と「義務と権利」の混同の中に潜んでいるような気がするんです。日常のちいさな具体的な事実の重なりの中、なんとなく感覚的に感じる、としか、今はまだ言えませんが。私は、「責任と自由」という考え方を大切だと思っています。でもすべてを「義務と権利」で語ってもよいと考える人にしても、その「権利」という概念は、長い歴史をかけて、市民が勝ち取ってきた大切な概念でもあるのです。その粗雑な混同の中に、「権利」という理念が持っていた目的を失わせる力があるような気がするのです。

まだまだ粗雑な部分がある話に最後までお付き合いいただき、ありがとうございます。不完全ですが、とりあえず、現時点で考えたことを記録してみました。考えたことを整理もせずに書き綴るブログでございますので、どうか笑ってお許しくださいませ。この話はもうすこし、というか相当見聞を広げて考えなきゃな、と思っています。では。

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