「義務と権利」VS「責任と自由」(2)
私は「責任と自由」はコインの裏表だと思っています。「責任」を果たすことができるから「自由」を手にできる。けれども、「責任」を果たすことができるから「権利」を手にできる、ではないと思うのですね。「責任」を果たせるからといって、「権利」は手にできません。「権利」というのは別の概念だと思うのです。ただ、「責任」を果たしていれば「自由」は手にできる。これは、たぶん近代的個人の概念ですね。
同じように「義務と権利」はコインの裏表。「義務」を果たしているから「権利」を手にすることができる。けれども、「義務」を果たしたからといって「自由」は手にはできない。「自由」というのは別の概念だと思うのです。
私が生業にしている広告制作という仕事になぞらえると分かりやすいかもしれません。
例えば、ある仕事があったとして、その仕事のミッションを果たすことができる広告をつくる能力がある、つまり、ある依頼が抱える課題に対して「責任」を負える人には、「自由」な裁量を与えられる。また、その「責任」を果たしさえすれば、たとえば、トイレでうんこしながらでコピーを考えて、喫茶店でお茶を飲みながら、ナプキンにボールペンでデザインをしたとしても、「責任」の名の下には、この仕事に対して、机の上で5時間以上真面目な態度で考えるといった「義務」は問われようがありません。
しかし、もしその「責任」が果たせないとすると、いくら30時間以上時間をかけたとしても、何も働いていないことと同じで、その価値はゼロです。つまり、その広告は売れないので、なかったことと同じになります。そういう人は、クリエーターとしてはいつまでたっても、どれだけ頑張ったとしても、「自由」など手にすることはできないですよね。努力をしたからといって、世間は許してはくれないですよね。がんばったから、気に入らないかもしれないけど、この広告を受け取ってくださいよ、みたいなことはあり得ないですよね。
たとえば、若いコピーライターがいたとして、頑張って真面目に時間をかけてコピーを書いてきた、と。でも、そのコピーを見ると、どれひとついいものがなかった。でも、頑張って書いたんです。この中から選んでください、という「権利」は、その若いコピーライターには絶対にないわけです。
もうひとりの若いコピーライターは、その若いコピーライターより数も少なく、しかも、内緒にしているけど、昨晩飲みに出かけていて、二日酔いで書いた。けれども、そこにはいいコピーがあった。で、これでいこか、と言う。そうすると、僕はあいつより頑張って書いたのだから、不公平じゃないですか。あいつ、この仕事あるのに飲みに行ってるんですよ、僕はデートを断って会社に残って書いたのに、といってもだめなもんはだめなんですね。彼は自分の「責任」を果たせなかったんだから、自分のアイデアが取り上げられることはもとより、その時点で、その仕事について意見する「自由」さえ、奪われてしまうんです。
もちろん、ホントは、酔っぱらってコピーが書けるほど、コピーというものは甘くないし、頑張ってできなかった奴は、まあ、今回は多めに見るということになりますが、頑張らなくてできなかった奴はその時点で、人間として最低で、コピーライター失格なんですけどね。
で「義務と権利」。頑張って書いてできなかった奴。これは、会社という組織が社員に強いる「義務」は果たしているわけだから、彼には最低限のお給料をもらう「権利」がある。しかし、あくまでクリエーターが本質的にはスペシャリスト職であるとの前提ですが(つまり、一般的に言われる労働者の権利のような普遍的で一般論に還元できない話として)、頑張らなくてできなかった奴は、その時点で失格、退場なわけです。
頑張ってできなかった奴は、数回は多めに見てくれるでしょうが、会社には彼を他の職種に異動させる「権利」があります。この場合、そのコピーライターは異を唱える「権利」は持っていますが、それは会社が定める「義務」と「権利」のバランスが決定することです。会社には、社員が最低限の「義務」を果たしている以上、最低限の「給料」を払う「義務」があるのと引き換えに、異動させる、もしくはその最低限の「義務」を果たさない社員(これは、たぶん犯罪とかそれに類するものでしょが)に対して解雇する「権利」が与えられているわけです。
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