誤植の顛末。
ちょっと昔話です。私が東京の某百貨店の仕事をしていたときのことですから、もう15年前になります。時の流れるのは早いですね。当時は、若手コピーライターでした。大阪から東京にやってきて、とある広告プロダクションで腰を落ち着けて仕事をしていたときの話です。
その百貨店の仕事は、月2回ある日経新聞夕刊全10段をレギュラーで制作する仕事でした。大阪から貯金100万を取り崩しながら東京でチャンスを伺っていた私にとって、それは自分の実力を示すいい機会だったのです。幸い得意先の担当者にも恵まれ、そこそこのヒット作も出すことができて、順調にキャリアを重ねていたとき、その誤植は起こりました。
物産展の初日の特別ご奉仕品。乾麺の値段表記が1束ではなく3束になってしまっていたのでした。その誤植が発覚したときには、すでに新聞の輪転機が回っていたのでどうすることもできません。日曜日の夜、緊急会議が始まりました。百貨店担当者、広告代理店、そして私たち制作会社スタッフ。
まずは原因究明。現在は新聞広告はすべてデータですが、その頃は版下だったのですね。版下というのは、白い紙の台紙にロットリングで線を引き、そこに写植やらを貼り込み、写真やイラストは当たりをペンで書いたりコピーを張り込んだりしたものです。版下はすべてモノクロで、そこに個々の色の指示を入れます。写真やイラストは、プリントで別に用意し、その版下の指示どおりに製版で印刷用のフィルムをつくっていくのです。
百貨店の仕事は、送稿のぎりぎりまで商品や価格が変わります。その度ごとに修正を繰り返すのです。文字の修正は、写植の上に新しい写植を貼り込むのです。その貼り込んだ写植が何かの拍子に取れてしまったのでした。その写植の脱落を、私が文字校正で見落としてしまったのです。言い訳のしようがありません。私のミスです。
そして、初日の物産展の対応が話されました。その商品を楽しみに来られた方には、その値段で売ることが決まりました。その商品を扱う方々にはその旨をお話しし、その値段で売ってもらうことになり、それなりの補償も話し合われました。
若かった私は、この大失敗に、もう世界のどこにも自分の居場所がないように思えるくらいに落ち込みました。しかし、仕事は待ってはくれません。次の新聞広告のオリエンテーションの日が決まりました。百貨店、広告代理店とも、コピーライターは変更しないことに決まり、広告代理店からは、めげずにこれからも頑張ってくれと言われました。
百貨店の広告部を訪問し、受付でオリエンが始まるのを待っていました。私はずっと下を向きながら、身をひそめていました。百貨店の担当者が私を呼びました。
「あのね、そんな顔して来られても困るんだよ。私も、ここにいるみんなも、君にこれからも仕事をやってもらうためにいろいろと頑張ったんだ。君がそんな顔してたらね、私たちの顔を潰すことになるんだよ。君の責任の取り方。それはね、いつもと変わらない顔で、いままで以上に明るく一生懸命、仕事をすることなんだよ。わかった?じゃあ、オリエン。」
私は、この百貨店の担当者の言葉を今も忘れません。なにかトラブルが起こったとき、まずこの宣伝部の担当者を思い出します。これからも、広告の仕事を続ける限り、忘れることはないだろうと思います。
| 固定リンク
「広告の話」カテゴリの記事
- 2年前に流れていたテレビCMから「かんぽ生命不正販売」を考える(2019.09.11)
- 映画と広告と文在寅政権(2019.09.06)
- 本を書きました。『超広告批評 広告がこれからも生き延びるために』池本孝慈(財界展望新社刊・9月1日発売)(2019.08.21)
- 『世界一のクリスマスツリーPROJECT』について僕が考えていたこと(2018.01.04)
- 東京糸井重里事務所を退職しました(2012.01.26)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント