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2007年8月26日 (日)

広告屋という立場でCGMについて真剣に考えてみました。

 松岡さんのブログ『すちゃらかな日常』の「CGMは集合知を発信するツールである」(参照)を読んで、CGMおよび集合知について、少しばかり真剣に考えてみたりしたことを書いてみます。まずは、「CGM=Consumer Generated Media」という用語の意味を整理してみました。以下、フリー百科事典「Wikipedia」(参照)からの引用です。

Consumer Generated Mediaとはインターネットなどを活用して消費者が内容を生成していくメディア。かつての消費者は文字通り企業から提供される商品やサービスを金銭で消費するだけの存在であったが、市場が成熟していくにつれ、消費者でも確かで肥えた目を持つ消費者が生産者並の知識を持ち始めたことに由来する。このようなオピニオンリーダー的な一部の洗練された消費者を生産消費者と呼ぶこともある。 個人の情報発信をデータベース化、メディア化したWebサイトを指す。 商品・サービスに関する情報を交換するものから、単に日常の出来事をつづったものまでさまざまなものがある。

クチコミサイト、Q&Aコミュニティ、ソーシャルネットワーキングサービス(SNS)、ブログ、BBS、COI(Community Of interest)サイト等がこれにあたる。

Viral的広がり(爆発的な口コミ)を持つ事もある。

現在インターネットにおいて口コミをマーケティングに利用する動きが盛んであるが、CGMの考え方もその一つである。この考え方が登場した背景にはブログ、SNS、BBSの爆発的な普及もあるが、企業の利害関係が生じにくい生の声による判断をする人の増加が考えられる。多くの新サービスが特定カテゴリー+口コミという形で生まれている。

 それが、いわゆる「集合知」と呼ばれるものを発信することは、まさにその通りだと思います。しかも、CGMが成り立つためには、ある一定以上の量を超えなければならないことは、自明でしょうね。じゃあ、どれだけの量であるかというと明示できませんが、それは、どちらにしても匿名というよりは、世間的には無名の人々のメッセージの可視化という条件がなければ成り立たない量と考えるのが妥当でしょう。

 例えば、口コミサイト、価格サイト、アマゾンのレビューなど、これぞCGMと言えるサービスは、みな無名の人々のメッセージの可視化、匿名(これは、厳密に言えば、ネットに表示される際に自発的に匿名を選ぶことで、完全匿名を意味してはいません)による気楽な投稿を前提としたサービスであり、その前提をなくしてしまうと、サービス自体が成り立ちません。

 実名匿名論争で小倉さんから提示されていた、実名(つまり、世間的な有名者を目指す、いわゆるアカデミズム的な「質」を求める人)による精度の高い情報の集積で、「集合知」の精度が高まるというのは、あきらかに間違い。それは、「知」の弁証法的な高まりは意味しても、今日言われている、個による「知」が集まることで生成される弁証法的な「知」とは別の「質」を持つ「集合知」にはなりません。

 だからこそ、私は、学会の活性化なり、バーチャル学会的なSNSを作るなりするのが、小倉さんの目的を解決する唯一の現実的な解であり、仮に、小倉さんが、旧来の弁証法的な「知」のためにブログを使いたいというのなら、「集合知」という価値が現実の社会ですでに経済価値を持ってしまっている世の中に対して徹底的な異議申し立てをすること以外に実現する方法はありません。それは、つまり、ネット的な価値の否定です。

 少々堅くなってしまいましたが、例え話で言えば、純文学を守るために漫画を否定する、みたいなことです。そういう意見を言う人はいてもいいと思し、匿名ゆえにこういい意見を無効化する自体はいいけれど、その意見が粗雑で間違っていることは変わりがありません。

 で、ここからが本題です。広告屋として、いちばん大きなことは、ネットによって、この「集合知」が生成されることなのです。よくマス3媒体と言いますよね。テレビ、ラジオ、新聞です。しかしこのマス3媒体のひとつであるラジオは、すでに売上高でインターネットに抜かれています。

 よく言われるのは、広告屋はネットができないといけないみたいなことですが、それは、本当は、たいした問題ではないと私は考えます。単に、メディアがひとつ増えただけのことです。また、実務的には、ネットはほぼマス媒体と同じと考えてもいい感覚です。実際に、Yahoo! JAPANなんかは、価格的にも、影響的にも、ほぼマス媒体と同様です。表現技術的に言えば、いままでの媒体にインタラクティブ性が加わっただけで(それを活かすのは難しいのですが)、それほど本質的な問題ではないのです。

 私は、このネットから、娯楽やトレンド、気分なんかも含む広義の「集合知」が生成されてしまうことによってできた、新しい社会と生活者のほうが重要だと考えるのです。それが、マスを使って企業や製品のメッセージを発信することを指向する旧来型の広告屋にとって、重要なのです。インターネットという新しいメディアによって、マス媒体が弱くなってきていることが重要なのではなく、インターネットという新しいメディアによって生み出された、新しい社会と生活者が重要なのです。

 具体的な話をします。かつて、広告が文化の華だった時代がありました。広告コピーが時代をつくると言われたりもしました。その時代は、無名の生活者は、無口の生活者でした。実際は、彼らは生活の場では饒舌であったのですが、その言葉を可視化するテクノロジーはありませんでした。そんな環境の中で、広告は時代のメッセージを発信する語り部であったのです。

 しかし、今、それは違います。時代の語り部は、無名の生活者であり、その言葉を可視化し集められ生成された「集合知」なのです。松岡美樹さんも言われていましたが、それが間違うときもあるし、正しいときもあるけれど、しかし、その「集合知」は、本質的に社会を変えてしまうパワーを持った、新しい価値であることは、たぶん間違いがないでしょう。また、それは、歴史的な視点では、グーテンベルクが印刷技術によって情報を一般化したように、インターネットは、情報発信を一般化したという点において、革新や改革を超えて、革命と言えるものだと思うのですね。

 私は、マスメディアは、これからも残り続けると楽観的に見ています。効率において、テレビ、特に全国ネットワークのテレビは優れていますし、衰退はあるでしょうが、完全に淘汰されることはないと見ています。また、その機能は、これからも社会が必要としていくでしょう。しかし、生活者と生活者をとりまく環境が変わった以上、今までのやり方は無効になるだろうな、という感じは切実にするのです。

 なんか、私は、過去のブログのエントリーを読み直してみても、ことあるごとに「リアル」ということを言っていますが、その「リアル」は、自ら情報発信をし、広告やテレビではなく(情報という点でなくメッセージという点。情報という点では、テレビや新聞は一次情報という価値は持ち続けるでしょう)、生活者が発信した情報の集合としての「集合知」を感受する生活者にとっての「リアル」なのです。それは、きっと今までと違うはずです。そして、私が置かれている広告業界にとって不利益になろうと、それは現実であり、生活者としての私にとっては、肯定すべきことであると思うんですね。

 かつて「おいしい生活。」という言葉がリアルに感じられた時代がありました。けれど、今はそうじゃない。それは、このコピーをつくった作者自身が、私なんかよりも、もっともっと見抜いていることだと思うけど、このコピーが今、リアルに感じられないのは、時間的に時代が変わったからではありません。質的に時代が変わったからです。

 もし広告クリエーターで最も影響を受けた人は誰と問われれば、私の場合、やはり「おいしい生活。」をつくった糸井さんです。いま、糸井さんは、ご存知のように『ほぼ日刊イトイ新聞』という場所を自ら作って、広告の現場からは少し距離を置くようになりました。それを楽しみつつ、感心しつつ、嫉妬しつつ、毎日見ていて、私は思うんですね。そして、自分に自問自答するんですね。「おまえは、広告が好きなの、クリエイティブが、つまり、表現が好きなの、どっちなの。」

 うーん、どっちなんだろう、と思うんです。とりあえずは、そんな時代に「広告」がリアルであるために何をしたらいいのかを考えて、この時代に「広告」が新しい価値を持てるように変えていきたいと思うし、そこで私は踏ん張り続けたいと思いますが、本当はどっちなんだろう。ブログをやるようになって、そこらへん、今まで無理矢理に思考停止をしてきたんだなあ、とつくづく思います。ホントは、自分が新しいと思う表現が「広告」でできなければ、「広告」なんてどうでもいいなんて危険なことを思ってるのかもしれないなあ。

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