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2007年8月 5日 (日)

「民主化」の裏側。

 バブル経済がピークを迎えていた1980年代後半、吉本隆明と埴谷雄高との間にちょっとした論争がありました。「吉本埴谷論争」と言われているその論争は、吉本隆明が雑誌『an an』にコムデギャルソンの服を着てファッションモデルとして登場し、それを見た埴谷雄高がいちゃもんをつけたのがきっかけに起こりました。

 埴谷さんが「吉本さんよ、あんた戦後ずっと大衆の味方だと言ってきたのに、資本主義の象徴であるファッションブランドを身に包んでにやけた顔して、俺は情けないよ。あんたの着てるその服、アジアの国々の労働者が低賃金でつくってる国際的搾取の産物なんやで。」と苦言を呈し、それに対して「埴谷さんよ、あんた古いね。日本の階級的に普通の女の子がこういう雑誌を見て、ファッションを楽しむなんていう状況は、世界史的な認識で言えばええことなんちゃいまっか。君たち戦後左翼が求めてきたものって、こういうことちゃうんですか。そうじゃなけりゃ、あんたら左翼は結局スターリンと変わらんやないか。本当の意味で、大衆の解放なんて求めちゃいないじゃないか。」みたいな反論をした。もちろん、二人とも大阪弁じゃありませんが。私の頭の中での整理はこんな感じです。

 あの頃、吉本隆明は『マス・イメージ論』なんかで、広告やサブカルチャーの表現をすごく高く評価していて、日本は高度資本主義の段階にあるという認識がありました。彼の生涯の敵である、既存左翼、彼がソフトスターリニズムと呼ぶものに対する勝利を、日本のバブル経済が後押しする形であったのでしょう。

 私は、バブルの後に社会に出たので、少しばかり醒めた認識は持っていますが、基本的に吉本隆明の認識に賛同する部分があります。その後、ITの進化によって、吉本のその認識を裏付けるようになりました。例えば、PCの普及とインターネットの整備によって、普通の人の言葉が、こうしてWebを通して流通に乗るようになりました。私の業界なんかでも、デザイナーは三角定規、デバイダー、烏口、ロットリングといったデザインツールを捨て、Macにインストールされたイラストレーターとフォトショップで仕事をするようになりました。

 例えば、平行・垂直の1mm線を引くというのは、デザイナーの特権だったのです。しかし、今やPCがあれば誰もが簡単にできてしまいます。しかも、手でやるより正確にです。文字にしても、Macが普及する前は写植だったんですね。しかし、写植屋さんはほぼ絶滅してしまいました。

 これは、いいこともあれば悪いこともあって、いいことは、これまで威張っていた下手くそなデザイナーたちのゴリ押しが無力化されたことですね。デザインの専門家の俺たちがやるのだから口出しするな、という根拠のない言葉が意味を持たなくなりました。そのゴリ押しは、だったらおまえが線を引いてみろよ、という言葉が担保していたのですが、それに対しては、「じゃあ俺がやるから、おまえええよ」と言えるようになってしまったんですね。基礎的な専門性は、テクノロジーの進化によって無意味になりました。

 コピーも同じです。コピーライターには、俺は言葉の専門家だから、専門外の奴ががたがた言うなというゴリ押しがありました。でも、これだけの人が日本語でブログやってる時代です。そういう基礎的な専門性は、なんの意味もないですよね。基本的には、言葉は誰でも書けます、と言ってしまえる時代になってしまいました。

 映像も少し遅れてではありますが、近い将来、きっと同じことが起こります。ファイナルカットのようなソフトウェアがもっと普及するようになれば、CMプランナーやディレクターの持つ基礎的な専門性は、日本の大衆が手にするようになってしまいます。今でも、YouTubeなどの映像を見ても、すでにその兆候がありますしね。

 また、これだけコミュニケーションや表現が大衆化したとき、我々プロの表現も相対化されて価値が下がります。また、その大衆化によって、表現の空間が変質してしまったので、これまでの表現の方法が意味を持てなくなってしまいます。悪いことは、これかな。少々、昔に比べてやりにくくなった、というようなことですね。それに、基礎的な専門性の上の専門性は、ちょっとばかりわかりにくいということでしょうか。 

 写植の頃はよかったなあ、なんてこと、お酒を飲むと愚痴ってしまう私ですが、その前の世代では、烏口の頃は、フィルムを切って編集してた頃は、ポスターカラーを練ってた頃は、などきりがありませんしね。確かに写植で言えば、PCのフォントが少なかった頃は、キャッチと言えば、私の顕名にさせてもらっているMB101とか、明朝ではリュウミン、本文では新ゴシックや中ゴシックしか選択肢がなく、文字詰めも甘かったけど、それはほぼ解消されてしまいましたからね。ノスタルジーでしかありません。

 基本的には、これはよかったことじゃないか、と私は受け止めています。気分的には、そりゃ寂しいものがありますけど、酒で流してがんばるしかないやんか、と思いますね。この状況を是としないみたいなことで主張を展開すると、かの「実名匿名論争」みたいなことになるんでしょうね。吉本隆明が嫌悪するソフトスターリニズムですね。厳しい時代だけど、受け止めなしゃあない、みたいな感じです。

 私としては、そういう一億総表現者みたいな状況で、でも俺はプロよ、と言えるような専門性を身につけるしかないな、と思います。平行・垂直の線が引ける、言葉が書ける、みたいな、テクノロジーが進歩したり、表現行為が大衆化すれば消えてしまうような基礎的な専門性は、はじめから誰かの既得権益でもなんでもなかったんですから。

 考え方を変えれば、プロと名乗るためには、あの頃と比べて、一段レベルが上がったところでものを考えざるを得ない状況は、職業クリエーターにとっては厳しい時代だけど、それはとても幸福な時代でもあると思うのです。広告や出版、放送などにたずさわる職業クリエーターのみなさん、どう思いますか。

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