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2007年9月の25件の記事

2007年9月29日 (土)

吉本隆明さんの「対幻想」だけは、私には理解できないのです。

 まあ、私なんかは、どう弁明をしても吉本隆明フォロアとか吉本信者に類型される人間だと思うんですよね。そう言われるとそうじゃないと言いたくなるのも、吉本信者の特徴ですので、この際、吉本信者でいいです、ということにしておきます。というか、今や、若い人にとっては、そんなの関係ねえ、という感じかもしれませんね。吉本隆明、誰ですか、みたいなね。吉本隆明さんという人は、吉本ばななのパパで、戦後最大の思想家と言われたりしていますが、そう言われると「よせやぃ。」って言ってしまうような、日本を代表する、すごくいい感じのおじいさんです。

 吉本信者の中では、私は年齢的にはかなり若い世代に属しますが、時代を遡る形で吉本隆明さんの著作を自分なりに読み込んできました。吉本隆明さんの三大著作と言えば「共同幻想論」「心的現象論序説」「言葉にとって美とは何か」ですね。その三作は、難解で、何度読んでも分からない部分があるものの、まあ書いてあることはなんとなく概念として理解はできますし、なるほどなと納得できるのです。

 たとえば「心的現象論序説」だと原生的疎外と純粋疎外。「言語にとって美とは何か」だと指示表出と自己表出。そういう概念を持ち込むことで、世界が違う相として現れてくるのは、なんとなくですが理解できるんですね。説明しろよ、と言われると、うっと黙ってしまいますが。

 そして、この本が出版された当時、「吉本の著作の中で最も売れて最も言及されたけれど、実際は最も読まれていない著作」と言わしめた問題作「共同幻想論」。彼は、遠野物語等を紐解きながら、人間が作り出す幻想領域(私は、これを般若心経の言うところの色即是空、空即是色の空みたいなもんだと理解してます)を、個的幻想、対幻想、共同幻想の3つの領域に分けるんですね。

 個的幻想は、個人の幻想で、文学とか芸術に鋭角的に現れ、対幻想は、いわゆる恋人同士とか夫婦とかで、家族とか性に現れます。共同幻想は、これはもう、最も鋭角的に現れるのが国家ですね。角川文庫の表紙にも、「国家とは幻想である」みたいな言葉がセンセーショナルにデザインされていましたよね。この本が読まれた主たる要因は、この「国家とは幻想である」というフレーズと、その国家に対峙するものを、性的な関係性を持つ幻想領域である「対幻想」(ついげんそうと読みます)と設定したことにあると思います。有名な言葉で言えば、「共同幻想は対幻想と逆立する」という言葉ですね。めちゃめちゃ格好いいですよね。

 でも、私は、どうしても「対幻想」が理解できないのです。もちろん、対幻想という概念は理解できますよ。「共同幻想は対幻想と逆立する」と言うあの感じがどうにもわからないのです。むしろ、私には「共同幻想とは対幻想を、個人と国家という装置の二項関係に転換させたものである」という感じに思えるのですね。もう少し格好良く言えば「共同幻想は対幻想を原初として生成される」みたな感じでしょうか。こういう疑問を持つ人、学者さんとか評論家さんとかで誰かいないかな、と思って吉本批判本を読みあさってはみたものの、ほとんどないところを見ると、やはり私が吉本の著作を読み込めていないだけなのかも。

 私としては、三項関係が、共同幻想と対峙し逆立するものとしてしっくり来るのです。共同幻想としての国家が持つあの甘いロマンティズムと、恋愛の甘さと心地よさはとても似ているような気がするのです。だから逆立すると言うとすれば、それは似たもの同士というか。

 例えば、第三項排除という概念がありますよね。二項関係の安定のために、絶えず第三項を見つけだし、徹底的に第三項を排除するという暴力論の概念。要するに、三項関係は成り立ちにくいのです。けれども、だからこそ、奇跡として立ち現れる緊張感のある三項関係、あるいは二項関係の収斂へと向かって、吉本隆明さんの言葉を借りると「人生の最大の事件」であるところのあの三角関係こそ、共同幻想に逆立するものとして設定されるべきものじゃないかな、と思うんですね。それをどういう幻想と呼べばいいのか分かりませんし(三角幻想じゃネーミングとして弱いですしね)、ちょっと暗い不幸な考え方だけど。私は、そういう、三角関係の幸福な奇跡という視点でビル・エバンス論を展開しています。うまくいっていませんが。

 この疑問を解決するためには、もっといろいろなことを知らなければいけないのですが、とりあえず、えいやって書いてしまいました。一年後、このエントリを自分で読み直して、なるほどね、でもお前、なにも分かってないなと思えるのかもしれませんが、自分の中に、第15次吉本隆明ブームが到来しているので。では。

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2007年9月28日 (金)

らも。

 本棚から中島らもさんの本を出して読んでみる。文章が案外若い。生らもさんは春一番コンサートで見た。炎天下、黒いコートを着て、ストラトキャスターにディストーションをかけて、ただただかき鳴らし唸ってた。フラフラしてて、今にも倒れそうだった。午前中なのに泥酔してた。今思えば、酒のせいではなかったのかもしれない。
 大阪の進学校で落ちこぼれた私にとって、らもさんは救いだった。関西の元神童たちは、登下校の電車の中で、三島由紀夫と中島らもを読みふける。京大や阪大の赤本を詰め込んだ学生鞄から、過剰な自意識がこぼれ落ちる。
 らも。らも。らも。なぜらもなのか。無意味な問いを繰り返し、何とかなるやろ、と呟いた。らもさんがエッセイ稼業をやめ自分の物語を書き出したとき、私は何とかなる人生を歩き出し、らもさん頼みを卒業した。

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2007年9月25日 (火)

自己表現とブログ。

 広告屋さんという職業は、ひとのために書く職業です。企業になりかわって書くわけです。普通に真っ当に考えれば、そこに書き手の自我が介在する余地はありません。広告表現を極限まで持っていけば、それは企業と書き手はほぼ同一化することになります。

 少し前、東京コピーライターズクラブの年鑑のテーマに「コピーは私だ。」というものがありました。コピーライターが時代の花形職業だった頃のことです。その頃には、今のブログと同じように、コピーは、コピーライターという一個人の思いがたくさんあふれていました。仲畑さん、糸井さんといったスターコピーライターの思いが、商品を超えてそこに確かにありました。

 私はそうしたフリー全盛時代を少し過ぎ、広告は広告代理店が作るものだと言われ始めた頃に、この業界に入りました。そういう意味では、私の世代は迷える世代であると思います。そして、時が経ち、広告システムというブラックボックスが可視化される時代に。広告は文化である、と以前のようには牧歌的には語れない、身も蓋もない時代になりました。そういう時代に、私は広告の仕事をしているという自覚を持っています。

 ある時期から、従来の方法では、もはやリアルな広告をつくれないかもしれないと模索を始めました。それは、自分のしんどい状況とも符合しているので、状況次第でこんな面倒なことを考えずに広告という徒花文化を謳歌していたかもしれないという意味において、一概に時代の真実を見極めて試行したとは言えないところはありますが、でも、ある意味では時代に突き動かされた試行だったような気がします。

 私が思ったのは、出来る限り自我を消していきたいということでした。企業活動としての、ビジネスとしての広告活動そのものが、リアルに面白いという作り方をしようということです。これまでのやり方とは逆のやり方で広告の力を蘇らせる方法です。もちろん、これは私の独創ではなく、世界でも、日本でも、そのような傾向を持った広告が、最前線の広告として生まれています。私は、単にその流れの中にいるだけだとも言えると思います。

 でも誤解しないでほしいのは、私が言っていることは、理論でがちがちの広告をつくるということではないことです。そこに、クリエーターの表現が介在する余地はありすぎるほどあるのです。そして、私という個の経験や感性も含めて。そうなると何が起こるか。「うれしくもないのにうれしいCMなんか作れない。」という言葉を残してこの世を去っていったクリエーターと同じことが起こるのです。そのクリエーターは広告表現の本来の姿に忠実だったのだと思います。彼は「コピーは私だ。」などと思ったことはないはずです。幸い、私はそれほど才能にも恵まれていませんし、繊細でもないので、そうはなりませんが、それでも、程度は違えど同じような自己矛盾が自分の中に生成されます。

 そして、いつの間にか、自分のことは書けない自分ができあがるのです。他人の恋文はうまく書けても、自分の恋文は書けない。他人の身なりや話し口には批評的に分析できるけど、自分を客観的に見ることができない。自分の蓄積した経験や感性のすべてが、他人のために表現する単なるリソースにすぎないような感覚。村上春樹の小説っぽい世界ですが、現実はそんなにかっこいいものではなく、単に自分がからっぽな感じ。私はつまらないやつという自己否定感です。

 そんなとき、何の因果か、ブログを書くようになりました。最初は、正直言えば、エッセイというかそういうたぐいのものが私に書けるのかという恐怖がありました。エッセイみたいなもの、それはつまり自己表現ですね。ブログは多かれ少なかれ、自己表現だと思います。そういう表現に入っていけるのか、という恐怖でした。普通にみんながやっている自己表現としてのブログが私にとっては、もしかするとできないかもしれないというものだったのです。良エントリが書けるかというレベルじゃなくて。この感覚、もしかするとコピーライターや、アートディレクター、クリエイティブディレクターの方の中には分かる人がいるのかもしれません。

 今だにそういう感覚に襲われることがありますが、最初の頃より自然に書けるようになったかなと思います。いまのところ、広告がつくれなくなるという逆作用はないようです。(まあそうなれば食っていけないから禁ブログにしますが。)ということは、単に慣れの問題なのか。だとすると、なんとなくつまらない結論になりそうですが、自己表現があふれる世の中で、逆説的におおらかで自然な自己表現が難しくなっているという現象は、もしかすると私の状況固有の問題ではない気もしたので、未消化のまま書き連ねました。それは、浜崎あゆみやミスターチルドレンの、あの実存主義的な歌詞に感じる、苦し気な自己表現に感じる現代性でもあるのですが、それはまた別の機会に。では。

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2007年9月24日 (月)

お笑い「外資系広告代理店」入門

 暇ネタです。外資にいるといろいろあるわけで、そんな話を少しばかり。連休だしね。

 私、外資系は長くて、いまいる会社が2社目だし、その前は、2つの外資系広告代理店が合併してできたところで、そのスタッフは昔、違う外資系広告代理店にいた人たちで、なんだかんだで合計4社の外資系カルチャーに接してきています。でも、英語話せません。トホホ。

 面接の時、私は英語が話せませんよ、と正直に言いました。面接官は、そんなもの1年もすれば話せるようになるから心配いらないって。で、いま私、外資系10年目。いるだけで英語が話せるなんて、嘘ですからね。話したいあなたは、きちんと英会話学校に行きましょう。

 そんな私でも、いまやすっかり英語ばっかり話しています。単語だけだけどね。例えば、「君はこのグルインから何をラーンした?」とか「それアグリーだよね。」とか「じゃあここ大事だからサマっときますね。」とか。何を言ってるかわかります?私は、最初は「はぁ?」でした。

 最初の「グルインからラーンする」とは何か。これは「座談会式消費者調査から学ぶ」という意味です。ラーンですよ、ラーン。確かに中学生英語レベルの単語ですけど、最初聞かれたとき、ラーンするって一体なんだと思いました。名詞ではラーニングと言って、コンシューマーインサイト抽出のプロセスの大事な過程のひとつです。コンシューマーは消費者。インサイトは心理洞察。グルインは、グループインタビューのこと。これは、ドメスでも当たり前の単語ですね。あっ、ドメスって、ドメスティック、つまり国内代理店のことね。外資系では、やぼったい広告のことをドメドメと言います。そんなに洗練した広告をつくってないのに、失礼な話ですよねえ。

 アグリーは合意のこと。外資系のいいところは、基本は、アグリーかノットアグリーの世界で、セッションでアグリーしたら絶対なんです。あとでごねるのはなし。あっ、セッションというのはミーティング、つまり会議ね。なんかロックでしょ。でも、欧米人って、そんな合理性ばかりでしんどくないかな、と片言の英語でアメリカ人のCDに聞いてみたんです。すると、日本語で「まあ、みんながそう言うならええんちゃうかな」というニュアンスは、「I think I agree.」と表現するそうです。それを聞いて、なんだかホッとしました。

 サマッとく、とはサマリーしておくということ。これは、日本語訳は少し難しいけど、まとめを書いておくみたいなことですね。こういう感じです。2通りのサマリーを書いてみます。

サマリー1

●外資系では日常会話に英単語が混ざる
・グルイン=グループインタビュー。座談会式消費者調査のこと。
・ラーン=学ぶ。ここでは、グルインから重要課題を見つけだすこと。
・コンシューマー=消費者。
・インサイト=心理洞察。
・ドメスティック=国内。通常、日本の広告代理店を言う。
・ドメドメ=日本の外資系広告マンが使うスラングでやぼったい広告のこと。
・アグリー=それでいきましょう。
・ノットアグリー=それは違うだろう。
・アイシンクアイアグリー=まあみんながそう言うなら‥

サマリー2

●このブログの管理人は10年も外資系にいるのに英語ひとつ話せない。

 という感じになります。なんとなくわかりました?

 あとね、なんだか寂しい気持ちになるのは、社内やエレベータなんかで同僚と会うでしょ。すると「こんにちは!」って挨拶されるんですよね。昨日今日会った仲じゃないじゃない、なんか冷たいじゃない、って思うんですよね。いまだになんか慣れないです。外国人がハローって言うのはわかるんです。でも、日本人の社員ですよ。日本人なら「お疲れッス」だろうが、っていつも思います。でも気が弱いから「こんにちは」って返しますけど。

 英語が堪能な営業。そいつは日本語じゃ、あまり話さず自信なさげなのに、英語になると途端に饒舌になって、身振り手振り交えて自信たっぷりになるのは、あれ何なんでしょうね。

 外人の社長。朝早く出社してひとりで仕事してたら、社長も出社。なんか英語でうれしそうに話してくる。で、とりあえずイエス、イエスと適当に返していたら、突然、握手して抱きしめられました。どういう会話の展開になったのかいまだにわからず。あれは、何だったんだろう。

 英語は、アメリカ英語よりイギリス英語の方が日本人には分かりやすいです。thatとかをきちんと使ってくれるし、単語と単語の間が明瞭。英語だけのミーティングもあって、そんなときの疎外感ったらそれはもう。へらへらした笑顔になるしかなくて、ああこれがジャパニーズスマイルなんだろうな、とすごく情けない気分になります。

 それと、もっと寂しいのは、今まで親が私の会社の正式名称を覚えてくれたことがありません。長いんですよね、社名が。それと、社名が漫才コンビっぽいんですよね。いちおう匿名で書いているので、ひとつ前の会社を例にとります。サーチ&サーチ・ベイツ・読広。電話で「はい、サーチ&サーチ・ベイツ・読広です」。舌噛みそうですよね。だからSSBYと略したり、サーチ&ベイツと略されたり。某お得意先の受付で手続きをすると、きれいな受付のお姉さんが「サーチ&ベイツさん、お見えです」って。思わず「サーチでーす!」「ベイツでーす!」「二人あわせてサーチ&ベイツでーす!」って言いたくなりました。

 とまあ、いろいろ書きましたが、外資系広告代理店はいいところですよ。こんな私でも元気に働いてますしね。

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2007年9月23日 (日)

落ち込んでいる人に「がんばれ」って言ったらいけないの?

 朝昇龍さんの問題でも、安倍首相辞任の問題でも、なんか違和感があることがひとつあって、気になるので少し考えてみたいと思います。最近に始まったことではないけれど、なんでもかんでも精神医学や心理学での原因づけを安易に行うでしょう。あれ、本当にそれでいいのかなと思います。

 鬱とか抑鬱状態とかノイローゼとか心理性胃腸障害とか。テレビに心理学者や精神科医が出て、それなりな感じで話しますよね。一般的な症例の解説を交えて。あんたねえ、臨床してないのに、その人がテレビに出ているのを見て本当にわかるの、って思うんですよね。

 臨床した先生も、病名を発表するでしょう。たぶん、そういう病名を求められるからそうするんでしょうけどね。でもねえ、風邪は、病名は急性上気道炎なわけですよ。それで風邪薬を処方されるでしょ。風邪薬は胃に悪いから胃薬を処方しなけりゃならない。で、急性胃炎もプラスされて、風邪をひくと、急性上気道炎+急性胃炎になるわけですよ。単なる風邪がかなり重症な感じになります。そうなるのは、症状と病名の概念の違いという理由はありますが、それにしても、ああいうふうに仰々しく病名を語る意味はあるのかなあ。その影響とか考えたことあるのかなあ。

 朝昇龍さんも、安倍首相も、もしかすると精神的に相当深刻なのかも知れない。でも、その一方で、深刻じゃない可能性も残している状態でしょ。単に落ち込んでいる状態の可能性は大いにあるわけでしょ。そういう状態の人をやれ鬱やらノイローゼやら。今日もテレビ見てたら、政治家が安倍さんはノイローゼで、と言うと、司会者がそのノイローゼは差別発言になるから、ノイローゼではなくてなんとかかんとかだから、みたいなやりとりがあって、なんだかなあと思ってしまいました。

 いろいろあって、落ち込んで、体の調子が悪くなった、ということじゃ駄目なんですかね。私にだってそういうことよくあるし、誰にだってそういうことあるでしょ。最近、落ち込んでる人を励ましちゃいけない、みたいなことを言う人が多くなりましたよね。がんばれ、なんて言うのはもってのほかだと。でもさあ、落ち込んでる人を見たら、普通はがんばれって言うでしょ。

 落ち込んでいる人を励ましちゃいけないというのは、安易な気持ちで、とか、面白がって、ということですよね。それはねえ、生活の経験でみんな知ってることですよね。山本直樹の『ありがとう』という漫画の中で、主人公の貴ちゃんの友達のよっちゃんが貴ちゃんのことを心配してるときに、貴ちゃんが「こいつ‥楽しんでる‥」と心の中で思うシーンがありますが、そういうことですよね。生活の知恵として、そういう空虚な「がんばれ」という言葉はみんな知ってるわけですよね。でも「がんばれ」という言葉には罪はない。実際に自分が落ち込んでいるときに、「まあそれはしゃあないなあ、でもまあ、がんばるしかないやん」と親友に言われた「がんばれ」という言葉に何度も救われたことあるし。

 落ち込んでいる人を励ましちゃいけない、という知識は、精神医学で言うところの躁鬱病とその境界例を含む症状を示している人が鬱状態になっているときに、それを親身にアドバイスしたとしても、その言葉の持つ本当の感情を読む判断力を失っているから言葉がその人の感情を離れて記号的に心に迫ってくるし、その言葉=記号がその人を強迫的に追いつめてしまうから、逆効果になる、みたいなことであって、それは一般人にはその人がいまどういう状態かは読みとりにくいにしても、誰にでも適応されるものではないと思います。

 広告のコピーなんかでも、「がんばれ」という言葉は、もはや禁句みたいな感じになっていて、なぜそれが禁句になるかといえば、躁鬱病における躁状態の人に対する専門的な対処の知識が抑圧しているんです。コピーの中の「がんばれ」っていう言葉を。でも、その知識、本当の意味を知ったうえで言ってますか、という気がします。そういうふうに「がんばれ」という言葉を抑圧してくる人って、いつも得意気で、ああまたか、と思うんです。

 「人間っていうのはさあ、落ち込んでるときに、人からがんばれって言われたくないもんだよね。君、人間の心理わかってないね。そういう不用意な言葉が、人を自殺に追い込んだりすることもあるんだよ。」

 あのねえ、人間って、いつからそんなに品がなくなったわけ?広告なんてものは、ほぼすべてが企業から消費者への何らかの「がんばれ」っていうメッセージですよ。お掃除つらいけど、がんばろうよ、私たちもがんばってこんな掃除機つくったからさとか。毎日つらいけどがんばろうよ、がんばってこんなドリンクつくりました。みたいなことですよ。

 要は、俺はおまえに「がんばれ」って言われたくないっていう生活の実感でしょ。要は、「がんばれ」って言葉を、誰がどういう気持ちで言うかという当たり前の話でしょ。そんなふつうのことを、心理学を交えてさも普遍の真理みたいに言うから、世の中が世知辛くなるんです。

 これは、たぶん80年代のポストモダニズム思想ブームの負の遺産だったりするんでしょうけど、レインの一連の思想によって、本当に精神医学が必要な人が思想家のおもちゃにされたように(ちょっと言い過ぎたかも)、精神医学や心理学の安易な一般化は、その意図とは逆のベクトルで作用してしまう気がするんです。それこそ、私のような一般人でも、ちょっとでもフロイト、ユング、フロム、ラカン、テレンバッハみたいな精神医学系の本をかじった人なら、心理学の流派によって諸説あって、解釈でいかようにもなることは分かるわけで、アメリカ精神医学学会の基準はあるけど、あれは臨床医が基準に使うものですよね。臨床しないで知識で使うのは危険ですってば。

 まあ、自民党総裁選の生中継を見ながらこんなことを考えたわけですが、これを読んでくれたみなさまに、一言。いろいろあるけど、お互いがんばっていきましょうね。ではまた。

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2007年9月22日 (土)

『TAKE ME HOME, COUNTRY ROADS』の翻訳をめぐって。

 前に、「なぜ日本人は『カントリーロード』を聴くと切なくなるのか」(参照)というエントリーの中で、ジョンデンバーの『TAKE ME HOME, COUNTRY ROADS』というカントリーソングをわりあい原詩に忠実に訳してみたことがあるのですが、コメントをいただいたり、他のサイトで私の訳が紹介されていて(参照)、ここは違うんじゃないか、というコメントがついていたりしたのを見たりして、少々の論点が整理されてきたので、それをまとめてブログに記しておきたいと思います。

 こういう感じで書くと、ネットで「カントリーロード日本語訳」論争っぽい感じになりますが、論点というのは、私の頭の中の、こうかな、いやこうだよ、という論争の論点で、盛り上がっているのは私ひとり。まあ、それでも読んでやろうという心の広い方は、お付き合いくださいませ。

 しかしまあ、この歌、やさしそうに見えて、なかなか歌詞は難解なんですよねえ。しかも、日本語訳の完全版がなくて、多くはかなりはしょって訳してあったり。まずは、前に私が自力で訳したものを採録してみます。


TAKE ME HOME, COUNTRY ROADS
作詞:B. Danoff, T. Nivert, J. Denver


Almost heaven, West Virginia
Blue Ridge Mountains, Shenandoah River
Life is old there, older than the trees
Younger than the mountains, growin' like a breeze

天国のような ウェストバージニア
ブルーリッジ山  シェナンドー川
木々より長く 山々より若く
そよ風のように 人々は暮らしている

Country roads, take me home
To the place I belon
West Virginia, mountain momma
Take me home, country roads

カントリーロード 僕を連れていってよ
僕が育ったあの場所へ
ウェストバージニアの 母なる山々へ
僕を連れていってよ カントリーロード

All my mem'ries gather' round her
Miner's lady, stranger to blue water
Dark and dusty, painted on the sky
Misty taste the moonshine, teardrop in my eye

思い出すのは あの娘のことばかり
あの青い水をたたえた故郷から いま遠くはなれて
目ににじんだ涙は 大空を暗く塗りこめ
月明かりを かすませる

Country roads, take me home
To the place I belon
West Virginia, mountain momma
Take me home, country roads

カントリーロード 僕を連れていってよ
僕が育ったあの場所へ
ウェストバージニアの 母なる山々へ
僕を連れていってよ カントリーロード

I hear her voice, in the mornin' hour she calls me
The radio reminds me of my home far away
And drivin' down the road I get a feelin'
That I should have been home yesterday, yesterday

その朝 僕には聴こえたんだ あの娘が僕を呼ぶ声が
ラジオから聴こえる音は 僕の心を あの場所まで運んでくれる
はやる気持ちで 車で飛ばしながら 僕は思った
ああ なぜ僕は いままで帰ろうとしなかったんだろう

Country roads, take me home
To the place I belon
West Virginia, mountain momma
Take me home, country roads

カントリーロード 僕を連れていってよ
僕が育ったあの場所へ
ウェストバージニアの 母なる山々へ
僕を連れていってよ カントリーロード

 

 この英語の詩で重要なのは、West Virginia, mountain mommaとあるように、コメントをいただいたMackieさんのご指摘どおり、ウェストバージニアが女性名詞やladyで表現されていて、私が思うに(というかほぼ正解だと思うのですが)それが故郷に残した恋人とダブルミーニングで描かれているということ、あるいは、喩えられているということ。で、私は、ポピュラーソングであることと、エントリーの主題が「切なくなる」という感情だったこともあって、基本的にダブルミーニングの一方である恋人への気持ちを第一義に日本語訳をしました。

 それと、他のサイト(参照)で指摘されていたMiner's lady, stranger to blue waterの日本語訳の件は、私はblue waterをシェナンドー川のことと考えたので、strangerというのは「僕」と解釈したんですね。Mackieさんも書かれてたようにblue waterが海のことだとすると、strangerMiner's ladyであり、私の訳は誤訳ということになりそうですね。ただ、「All my memories gather round her Miner's lady,」で一度切れて、 「stranger to blue water / Dark and dusty, painted on the sky Misty taste the moonshine, teardrop in my eye」というふうになるような感じに聴こえるんですが、やっぱり違うのかなあ。

 それと、Mackieさんのコメントで私自身、えっ、そうなんだ、と思ったのが、moonshineが密造酒であるということです。このことは、先のサイトでも触れられていないことで、そのためかそうか、バーの店名に「moonshine」が多いのはそのせいなんだ、と思いました。でも、やはりひとつの疑問として消えないのは、やはりただ単に、「思い出すのは、海のない鉱山の故郷のことばかり。あの暗く汚い故郷の空よ。密造酒(地酒)のあの味よ。ああ、目に涙があふれてくる。」という訳(これがMackieさんのコメントで分かった正解の訳だと思います)が、故郷と遠くは離れて暮らす男の生活と重なって聴こえるような気がどうしてもするのです。もしかすると、それこそが、身をもって「なぜ日本人は『カントリーロード』を聴くと切なくなるのか」を実証しているのかもしれませんが。

 可能性のひとつとしては、単に英語の慣用として、故郷を女性に喩えるというくらいの意味しかなく、本当に、淡々と故郷に帰りたいということだけを歌っているのかもしれませんが、やはりポピュラーソングですし、恋人への思いや、男の境遇も重ねて歌っていると思うんですが、本当のところはどうなんでしょう。どなたか、知りませんか。

追記:検索エンジンから来られたみなさま。コメント欄にて、様々な解釈をいただきました。そちらもぜひご覧ください。

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2007年9月21日 (金)

人間は変わらないのに、時代は変わっていく。

 人間は変わらないのに、時代は変わっていく。なんとなく、すべてはそこにあるんだなと思いました。古典文学がいまだに面白いのは、人間って、そうそう変わるもんじゃねえぞ、っていう証拠だと思います。だけど、そんな人間をとりまく時代は確実に変わっていくんですよね。当たり前のことだけど。

 よく時代が変わると人間が変わる、みたいなことを人は言いたがるけど、なんとなくそれは違うような気がします。人間は時代なんかで変われるような柔軟性は、本当は持ち合わせてなくて、だけど、時代はそんなことおかまいなしに変わるから、そこに時代ならではの人生の悲喜劇があるんだな、と思うんですね。

 時代を読むっていう行為は、私は、なんとなく時代に合わせて自分を変えていこうという感じがして、じつはあまり好きではありません。だけど、それでも、いま確実にある変化の意味ってなんだろうと、どうしようもなく考えてしまうのは、時代なんかじゃ変われない人間が、時代の変化に翻弄されずに、つまり時代に潰されてしまわないように、出来る限り時代を正しく把握しておきたい、ということなのかな、とも思うようになってきました。うまく言葉にできないけれど。

 それとも、時代の変化なんかに俺様を変えられてたまるか、という自意識なのでしょうか。人間は考える葦と言いますが、考えることだけが、時代が変わっても変えることができない人間の、ただひとつ許された屁の突っ張りのような気がします。たいした知識も見識もなく、自分の周りのことからしか考えられない私であっても、やっぱり、考え続けるしかないのかな、と思います。

 そして、それぞれの人たちの考え続けるという孤独な行為が、ブログというツールにとって目に見える形になって、距離や時間や世代を超えて、ほんの少しだけ触発されたり、連帯できたり、共感したり、反発したり、反応したりできる今という時代は、考えるという一点をとってみれば、私たちは幸せな時代に生きているんだなと、撮影を開始して、まもなく24時間目を迎えようとしている東映撮影所にて、ぼんやりと考えています。

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2007年9月19日 (水)

あなたは「広告の」神様を信じますか。

 と言っても、私の神様は糸井重里さんですとか、タグボートの岡さんですとか、仲畑貴志さんですとか、秋山晶さんですとか、浅葉克巳さんですとかじゃなくて。お笑いの世界だと、横山やすしさんですとか、笑福亭松鶴さんですとか、藤山寛美さんですとか、チャップリンさんですとかじゃなくて。経営の世界だと、松下幸之助さんですとか、ビル・ゲイツさんですとか、スティーブ・ジョブスさんですとかじゃなくて。プログラミングの世界だと、小飼弾さんですとかじゃなくて。プログラミングの世界はあまり知らないから、弾さんくらいしか出てこないけど。

 そういういわゆる生身の人間というか、カリスマな人のことではなく、八百万の神のひとつとしての、広告の神様だったり、プログラミングの神様だったり、マーケティングの神様だったり、営業の神様だったり、経営の神様だったり、つまり人間じゃない神様のことです。

 私は信じています。というか、信じないとやってられないというか。まあ、いろいろあるわけですねえ、どんな世界も。納得いかないなあとか、それは汚いよとか、それはないんやないですかとか、あまりにひどいよ、とか、いろいろと。いや、別に今日そんなことがあったってわけではないですけどね。

 そんなことがあって頭来てるとき、ぼわーんと広告の神様がやってきて、「怒りなさんな。怒りなさんな。わしはあんたのこと見てるからね。」みたいなことを私に言うわけです。で私は思うわけですね。「こういうこと、世間は許しても、広告の神様はきっとお許しにならないはずだ。」と。そう思うとちょっとだけ気持ちが楽になります。でときには「広告の神様、今回はすみません。次がんばります。」とかもあったり。そんなふうにして、ふて腐れたりせずに、いままでなんとか楽しくお仕事をしてきました。まあ、ここ最近は、どういうわけか広告の神様はさぼり気味だけど。

 でもまあね、広告の神様はいつも、私の倫理観とか価値観とか広告の考え方とかにぴったりな、自分に都合のいい神様だったりするんですけどね。たぶん、広告の神様は、ひとそれぞれなんでしょうけどね。それと、わりあい広告の神様どうし仲良かったりもするし、まあそのへんはいいかげんなものかもしれませんが。

 でも、ときどきこの人には神様いないんだろうなという、ザラッとした肌触りを持った人にも出会ったりして。そんな人に、個人の倫理観とか価値観で対抗しても勝てないからねえ。それはそれで近代的個人の理想ではあるんだろうけど、やっぱり理想と現実は違うからねえ。神頼みになるわけです。

 受験の神様とか、商売の神様とか、世間にはいろいろな神様がいらっしゃいますが、なんとなくそんな都合のいい神様をたくさんつくった庶民気持ち、かわかる気がするなあ。とともに、いろいろな神様がいるのも悪くないもんだなあとも思ったりします。

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2007年9月18日 (火)

新しいPCを買う前に今までの総投資額を計算してみました。

 はじめて買ったのはPCではなくワープロ専用機。大学のときです。東芝のルポ。7行表示。7万くらいだったんじゃないでしょうか。あれでレジュメやレポートを書いたりしてました。レジュメと言えば、当時、中大には「デイドリーム」という雑誌があって、あれすごく面白かったですね。学生ライターさんにレジュメ正一という人がいて、ねじめ正一のパロディですが、非常に中大感あふれるマイナーな文章を書いていて、密かなファンでした。

 社会人になって買ったのが、シャープの書院。確か12万。ルポに慣れてたから、最初は操作に戸惑いました。これは趣味で絵本の原作をよく書いてました。仕事場はまだ原稿用紙。マックは導入されてましたが、企業ロゴのデータを入れたフロッピーを鍵付きの金庫に入れてたりしましたね。マックの研修があって、フォルダーを無限に作ることができる、とか教わって、だからどうしたの、と思った記憶があります。あと、ELネットという新聞データベースにアクセスするために、MS-DOSを使ったりもしました。専用線のイントラですね。ペラペラのフロッピーを入れて、コマンドを打ったりすると、ファックスから新聞の切り抜きがジジジと。そんな時代。

 シャープの書院は個人的にけっこう長く使いましたが、次の会社では、コピーライターは東芝ルポを使うことになっていました。コピーライター15人に対して、ルポが5台。奪い合いになってました。その頃は、もうデザインはマックでやる時代。ルポで打ったコピーをテキストデータに変換しなければならないんですが、それが、フロッピーを何度も入れたり、タグを手作業で消したり、結構めんどうで、それをデザイナーがやるか、コピーがやるかで口論になりました。デザイナー曰く、コピー関係の作業だからコピーの仕事でしょ。コピーライター曰く、俺たちは別に原稿用紙で書いてもいいんだぜ、文句言うんだったら写植打ってくれよ、みたいな。

 あの頃は、書体があまりなかったんです。キャッチフレーズに新ゴシックを使う若いデザイナーも多く、写植時代からやっているクリエーターにはいやな時代でした。新ゴシックは、ゴナとかと同じ系統で、雑誌などの編集ものの本文やタイトルのために作られた書体で、広告のキャッチフレーズにはあまり適さないんですよね。あえて使うというのはありだけど。で、コピーライターとしては、やっぱりモリサワのmb101boldでビシッといきたいわけです。私のmb101boldという顕名は、そんな由来です。

 その頃書いたコピーが、沖電気の「OKI on Windows NT.」勘定系のシステムがWindows NTで走ってしまうということが売りだったんですね。それに、三菱の「LAN FAX」という商品もやりました。あの後すぐに、3メガもするPDFをメールでやりとりする時代が来るなんて、誰も想像しなかったでしょうね。

 そんなこんなで、いよいよコピーライターにもマックが支給され、ワープロ専用機からワープロソフトでコピーを書く時代に。でも、あの頃は「ワード」ではなく「EZワード」が主流でしたね。それと、「クラリスワークス」。日本語ソフトも「EZブリッジ」。その頃、中古のPowerBookを5万円で譲ってもらったりしました。黒くてものすごく重いやつ。バッテリーが左右に2つ入っていました。256色表示です。今も家にあります。

 そのうちにモバイルしたくなってきて、わけもわからず富士通のInterTop310というWindowsCEノートを購入。10万。激しく後悔しました。あの手のCEマシンは、母艦Windowsマシンがなければ役に立たない代物で、NECのSimplemというおしゃれPCを購入。OSはWindows98。25万。でも、本体にはUSBしか付いていないので、InterTopがつなげないことが購入後発覚し、シリアルUSB変換器なるものを秋葉原で購入。1万。そのうち、InterTopが見事に壊れ、しばらくはモバイルノートを持たない生活。

 家ではウィンドウズでしたが、職場ではマックで、いろいろ不都合が出てきたので、マック購入を決意。世間はすでにOSXでしたが、業界ではOS9が標準でしたから、世間に逆行して、OS9を走らせることができるPowerBookG4を購入を決意。ソフマップで中古の美品を探して、それが25万。いま使ってるやつです。そのあいだに、やっぱりモバイルPCが欲しくて東芝リブレットを購入。OSはWindows Me。15万円。そのあと、Windows XP Professionalにアップデートしたりしながら、H"でつないで、喫茶店などで仕事したりしていたのですが、バッテリーが駄目になった頃には、クルーソー搭載機だったので非力になってしまい、バッテリーを交換することもなく、そのまま使わなくなりました。

 で、計算してみると約20年で110万ですね。なんか微妙な結果に。ソフトウェアを含めても、120万くらいか。うーん、多いのか、少ないのか。それにしても、私は節操がないですね。それと、こうして書いてみると、マイクロソフトやアップルコンピュータの戦略に振り回されて右往左往する、かわいそうな一消費者という感じがしなくもないですね。まあとにかく、新しいの買わないと、いろいろもう駄目ですね。やっぱり次はiMacかなあ。

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2007年9月16日 (日)

「はてな」のこと少しわかってきた。

 正直言って、「はてな」というサービスがよくわかりませんでした。昔からよく名前は聞くから存在くらいは知っていたし、自発的にブログを書き始めたのは最近だけど、ネットは昔から見てはいたので、「はてな」イコール「人力検索」と「はてなダイアリー」のイメージですね。

 インターフェイスが少々複雑そうだし、「はてなダイアリー」は最近はそうでもないけど、昔は読んでいくと文中にリンクばっかりで、ふとしたことでリンクをクリックしてしまって、「いま読んででるとこなのに、もうっ!」って感じになって、ちょっとイライラするなあ、という印象。それに、ブログが出る前からあったから、レンタル日記のイメージもあったし。

 当然、「はてな」という会社がいわゆる「へんな会社」というキャッチコピーのもと、たいへん面白い会社なんだということは知っていて、でも、そのサービスはいまいち不明。そんな感じがあったんですね。

 私が「はてな」を意識し始めたのは、面白いブログがいっぱいあったことと、最近、やけに「はてな」からアクセスが来るなあ、なんてアクセス解析を見て思ったから。b.hatenaってなんだろう、みたいな。a.hatenaというのも気になるし。で、入会してみたんです。でも、やっぱり使い方がいまいちわからなかった。それは、たぶんに私のOSがまだMac OSのOS9である、ということがあるけどね。

 最近、アクセスが急激に増えたことは以前書きましたが、その中で、『人間のタイプをOSにたとえると‥‥』というエントリーにブックマークをしてくれた人が多くて、もうただただ「すごくうれしいです、ありがとうございます、ありがとうございます、ありがとうございます」みたいな感じでもあるんですが(すみません、まだ慣れてないんです)、そのブックマークを見ると、一言コメントをつけている人たちがいて、そのコメントが、当の元エントリーより面白かったり、センスがよかったりして。そこで、なるほどなあ、そういうことなんだ、と「はてな」のことが少しわかったような気がしたんです。

 なるほどなあ。そういうことね。なんとなくわかりました。「はてな」というサービスのコンセプトはきっと「親切」なんだなあ。「便利」っていうのは、ふつうにあるけど、すべて「親切」という軸でサービスをつくっていくと「はてな」になるんだなあ、なんて思いました。

 もちろん、ソーシャルブックマークは人気ランキングみたいな側面はありますけど、ブックマークをソーシャルにして、コメントとかタグをつけて残して去っていく。で、次に見る人の足しにしていく。すごくあっさりしたコミュニケーションですけど、そのなんとなくそのあっさり感が日本人っぽいですね。なんか登山っぽいですね。この先、お花きれいですよ、とか、ちょっと歩きにくいですからね、じゃあ、みたいな。

 いまとある会社のパンフレットをリニューアルするお仕事をしていまして、連休明けに提案なんですが、頭の中で、ああ「親切」かあ、「親切」なんだよなあ、とこだましています。どうも、やらなくちゃいけないことがあると、それから逃げるようにブログを書きたくなりますね。受験生がプラモデルをつくりたくなったり、北斗の拳を一気読みしたくなったりするのと同じですね。では、仕事に戻ります。

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W-ZERO3[es]礼賛(7)

 新型のAdvenced W-ZERO3[es]が出てずいぶん経ちましたが、私はまだ初代[es]ユーザーです。アドエスは黒はちょっと格好いいなと思いましたが、売れ行きはどうなんでしょう。電車の中とかでも、まだ私は一度も見かけたことはありませんし、CMで売れてますという時は、まああれなんで、ちょっと心配。

C3_image_11Img_20070116t2026283481   個人的な意見ですが、新型を出すなら、がんばってワンセグを実装すべきだったのになあ、なんて思います。この手のニッチ製品は、あらゆる点で最新のケータイ端末より機能が上でないといけないのに、ケータイでワンセグの時代に、ワンセグが別売りなのは非常に残念。その1点で、やっぱり所詮はPHS端末のイメージがついてしまうかも。私は、旧[es]のワンセグチューナー(参照)を持っていますが、あれは大きすぎるし、感度が悪くてもうひとつでした。

 さて、しばらく更新が滞っていた『W-ZERO3[es]礼賛』ですが、再開です。今回は、スケジュラー(予定表ソフト)についてです。私が使っているスケジュラーは、Offisnailさん作の『OffisnailDate』。私がスケジュラーに求めるほぼすべてが『OffisnailDate』は持っていて、何かと重宝しています。
 このスケジュラーという分野は、PalmやZaurus、WindowsCE(WindowsMobile)では、中心的なソフトウェアで、それこそ様々なソフトウェアが作られていますよね。それぞれ、ソフト作者さんたちの考え方が盛り込まれてどれも個性的。だから、どれがいちばんなんて本当は言えないのです。それこそ、ユーザーがスケジュラーに何を求めるかによって評価が違ってきます。
 でも、ただひとつ言えることは、WindowsMobile純正のスケジュラー(Pocket Outlook)は駄目。あれは、何なんでしょう。好意的に考えれば、Microsoftがあえてしょぼく作って、フリーソフト文化を育てようみたいな上から目線の配慮かもしれませんが、本気ならちょっとなあ。Outlookとの同期以外は、しょぼすぎます。これを使い続けると、ストレスがたまるだけ。絶対に慣れることはありません。なので、[es]を買った人は、ぜひスケジュラーソフトの導入をおすすめします。
 
■私が予定表に求めるもの、それはシンプル

 スケジュラーソフトのうんぬんを語る前に、まず紙の予定表について。いわゆる「手帳」のことですね。年末になると文具屋さんや本屋さんに手帳が並びますよね。システム手帳用もあったり、いろいろ選べます。だけど、なかなかこれが、私にとっていい感じの手帳がないのです。
 私は「週間スケジュールがぱっと見てすぐわかる」ということがいちばん大事だと思っています。それは、私が1日のスケジュールを分刻みでこなすみたいなエグゼクティブでもないし、長期にわたるソフトウェア開発など様々なメンバーの進捗を複合的に管理する必要もないからかも知れません。複雑な機能性は求めないのです。
2007y09m18d_145824955  ですから、1週間が見開きで見渡せるタイプがベストで、ほとんどがビジネス用途なので、土日は平日とは同じ面積である必要はありません。結局、左ページに(月)(火)(水)。右ページに(木)(金)(土・日)。そういうレイアウトが必然的にベストになるのです。左の図のような感じですね。これが簡単に見えて、なかなかないんです。
 1週間分を見開き2ページにレイアウトする際に、割り切れずに余った空間に新しい機能を盛り込んでしまうんです。いわゆる差別化というやつですね。ToDoチェックリストやら、豆知識やら、月カレンダーとかね。紙の手帳でさえ、ベーシックなものがなかなか見つからないんです。

Honohiyori  また、このビジネス用とはまったく逆の手帳もあります。ご存知『ほぼ日手帳』です。(写真は「ほぼ日」より)1日1ページたっぷり書けて、土日も平等。これはもう予定表ではなく「日記帳」ですよね。私も2年前に使いましたが、左の写真にあるようなコンセプト通りの理想的な使い方はできませんでした。話のネタにはずいぶんさせてもらいましたが。
 リア充という言葉が流行っているみたいですが、リア充できないつまんない自分をこの手帳に思い知らされて、私には向きませんでした。それに、ビジネスでは見開き一週間がメインになってたほうが使いいい。ちなみに、2008年版は週間予定がまさに前述のように変化してて、そのへんの進化の仕方はさすが「ほぼ日」だと思いました。

 そんなことを手帳に求める私ですので、[es]というモバイルギアに入れたい手帳も、そういうリアル手帳に近いものなんですね。多くのスケジューラーを試してみると、だいたい2通りに分類できるような気がします。ひとつは、リアル手帳をデジタル化したもの。そして、もうひとつはデジタルから発想したもの。デジタルの特性から発想したスケジュラーは、名作も多いのですが、私にはどうも向きませんでした。進捗管理をメイン機能にしたものが多くて、いまひとつその便利さを実感できませんでした。

■手帳と同じ感覚で、手帳より便利な『OffisnailDate』

Photo で、いよいよ『OffisnailDate』です。これは、もう私の不満を一気に解消してくれたみたいなスケジューラーでして、感心しきりです。まずは、週間予定画面。ね、完璧でしょ。色づかいもいいですよね。こういう毎日使うソフトは、小さな工夫が決め手になるような気がします。まずは[es]の小さな画面を最大限に使っていますよね。余白を排して、広く表示しています。罫線も細く、シャドウや立体処理もなく、非常にシンプル。また、この画面はほぼ手書きの紙手帳と同じ感覚です。そこがすごく私にとってはいいのです。
 基本となる週間予定画面がこれだけきちんと作り込まれていれば、そこから先は、もうデジタルスケジュラーの独壇場です。右ソフトキーをポチッと押すだけで、日画面、月画面、年画面へと変化します。これは、紙の予定表にはないデジタルの良さです。紙だと、もう一度書き直さないといけないですからね。

Photo_2Photo_3Photo_4 日画面もシンプルです。写真でもわかるとおり、20時間分が表示されていますので、少し後の予定でもにスクロールせずに見ることができます。これは、こういうモバイルギアでは非常に重要なことだと思います。これは、[es]本体の基本操作でも言えることですが、1つ操作が増えるだけで、一気に使いにくくなってしまいます。
 月画面も、わかりやすいです。週画面では土日は平日の半分の面積ですが、ここでは同じです。これもいいんです。月画面の主な役割は、予定日と予定日のあいだに何日あるかの確認です。プレゼンまでもう3日しかない、やばい、という感じですね。だから、ここは土日は平日と同じであってほしいんです。年画面もきれいに整理されています。字間の取り方も絶妙です。
 
■私は『OffisnailDate』で手帳がいらなくなりました

 私は、モバイルノートPCを持ち歩いていた時期があって、一時期、スケジュールをPCで管理しようとしたことがあったのですが、すぐに紙に戻ってしまいました。でも、この『OffisnailDate』を使い出してから、紙の手帳がいらなくなってしまったんですね。詳しくは、他のレビュー記事を参照していただくとして、予定の入力も簡単で、ほとんどストレスは感じません。
 また、このソフトはスタンドアローンなスケジュラーではなく、Pocket Outlookと完全連動していますので、OSに組み込まれたPocket Outlookの機能がほぼ使えて、PCとの同期も完全にできるのです。それに、そのことが影響しているのでしょうが、非常に軽いのです。メモリもあまり食わないし、操作感もサクサクという形容がぴったりな感じです。
 プログラミングのことはまったくわからないのですが、これだけのソフトをこれだけ軽快につくるのって難しいと思うんです。Offisnailさんおご努力は大変なものだったと思います。私はβ版から使っていたのですが、試用して小さな不具合やバグ等を報告されていた人たちとの気持ちのいいやりとりは、見ていてうらやましかったくらいです。私はあまりソフトのこととか詳しくないので、その情報を参考にすることしかできなかったのですが。

 少し前に、W-ZERO3のソフトウェアコンテストがありましたが、その部門賞を、Offisnailさんの『OffisnailDate』が見事受賞したとき(参照)、PCの前で、なぜか自分のことのようにうれしかったことを覚えています。このソフトを使っている人は、みんなそんな気持ちだったんじゃないかな、と思います。派手さはないけど、使うほどに、じわじわその良さを実感できるソフトなんですよね。なんか書いているうちに私が作ったソフトのような気持ちになってきましたが、ぜひ、みなさんもよかったら使ってみてください。

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2007年9月15日 (土)

25時間目の言葉。

 少し前に書いた『ブログのさみしさ。』(参照)は、私のしがないブログの中ではたくさんの人に読んでいただけたようで、本当に感謝です。ありがとうござます。さみしいブログを書いている本人としては、すこしばかりさみしさが癒されるみたいな気持ちになりました。

 ちょっとどうでもいい話になりますが、ここ数日、なんの変化があったのか、急激にアクセスが増えてきまして、びっくりしています。こういうアクセスの話、管理人にしかわからない話なので、別に言わなくてもいいのでしょうが、だからといって、アクセスが増えてうれしいのにそれがなかったかのように、その変化を隠して平常心で書くのもなんだと思うし、そうなったら本当の意味での平常心ではないしね。

 日本人って謙遜が好きですが、私は謙遜というのは、その瞬間のコミュニケーションを円滑にする以外は何の意味もないと思う人間なので、アクセスが増えた、うれしいなあ、というのは素直に書いていこうと思いました。こういうこと書けるのは、ブログ初心者の特権だしね。まあ、読んでいる方には関係ない話かもしれないですが。

 でも、いろいろなブログを読んでいると、一時的にこういうことはよくあるとのことで、なるほどなあと思ったりしました。実際、徐々にアクセスは下がって、普段通りに下がって来つつあります。それはそれで、なんだかなあ。まあ、アクセスに関わらず、ときにははしゃいだり、落ち込んだりしながら、こつこつ書いていきたいと思っています。

 仕事柄、ネットとかのデータはよく目にする立場にあるのですが、こうして実際やってみると、それが身を持ってリアルにわかるというか、一般に広告屋たちが言うネットの概要とはまったく違うこともあって、やっぱり机上の理論というのは弱いなあと実感しています。

 吉本隆明さんの言葉に「25時間目」というのがあります。なんでも一人前になりたいと思ったら、10年間はやり続けたら、才能があろうがなかろうが、それなりのものになるんだよ、日常のいろいろが終わった自分だけの時間を1時間だけ持って10年間やり続けなさいよ、という話で、その日常以外の自分の時間を、吉本さんは「25時間目」と呼んでいました。よく考えると早稲田予備校と同じような感じですね。どっちが先なんでしょうね。吉本さんが先なんでしょうが、逆だったら、なんか微笑ましいんだけど、やっぱり初出を考えると吉本さんが先なんだろうなあ。

 私は、この言葉、ブログだけじゃなく仕事でも何でも、なるほどそうだなあと思います。ただ、あの『ブログのさみしさ。』を書いてから、この「25時間目」という言葉が、自分の中で別の意味を持ち始めてきています。「25時間目」というのは、仕事やら学校やら遊びやら子育てやらデートやら、そんな日常の時間にはまりきらない自分というのが人にはどうしてもあって、その自分だけの孤独な時間を彼は「25時間目」と言ってるんじゃないかな、なんて思ってきています。無理矢理作るだぐいのものではなくて。

 その「25時間目」の受け皿は、人によってはブログだったりするんでしょうね。あのあと、そんなブログの言葉を探していて、素晴らしい文章とも出会ったりもしました。『真性引き篭もり』hankakueisuuさんの「足跡依存症から抜け出した僕は、一生mixiなんてしないと堅く心に誓ったのでした。」(参照)でした。正直、同じ書き手として、ちょっと嫉妬心が先に出てしまうくらいです。なんとか否定していまい、といった邪悪な心が出るくらいいい文章です。

 「真性引き篭もり」というブログタイトルも、ブログというツールの本質をつかみきっているような気がします。要するに、ブログの本質は「25時間目」なのだなあと思わされました。それは、リアルとバーチャルの二項対立のバーチャル優位とか、リア充とかいうこととはまた別の、「25時間目の言葉」の本質なのだなあ、と思います。私は「25時間目の言葉」を書いていく、という強い決意なんじゃないのかなあ、なんて。(hankakueisuuさん、想像で勝手なこと言ってすみませんです。)

 誤解はされたくないので言いますが、私は、mixiとの比較でブログの優位論を書こうとしてるわけじゃなく、mixiのような空間の中にも、気心がある程度しれた限られた人に向けられた素晴らしい言葉があって、それはブログにはない価値であると思います。それを実証するのは可能なのですが、mixiは、本質的に、無制限のネット空間への公開を意図していないと思いますので、紹介とリンクはやめておきますが。

 それと、こういう紹介の仕方をするとhankakueisuuさんがmixi否定論者だと思われる可能性もあると思いますので、書いておきますが、あの前のエントリー、誰も僕をmixiに招待してくれない、なんてお茶目なことを書かれていて、その展開の物語ですので、そういう誤解はなされないようにお願いしますです。ブログがいいとか、mixiがいいとか、そういう話とは違いますので。ブロガーという言葉に意味を見いだす人にとっては、mixiのあったか感、本当にうらやましいですものねえ。

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2007年9月14日 (金)

人間のタイプをOSで言うと‥‥

 暇ネタです。あらかじめ断っておきますが、私、コンピュータとかOSとか、それほど詳しくありません。なので、一般人の飲み話程度で読んでくださいませ。ハッカーのみなさま、きついツッコミはなしでよろしくお願いします。しかも、この話、けっこう昔のOSを基準にしてます。

 Palm型 立ち上がりが早くて、すぐにサクサク対応できるけど、処理能力はいまいち。「あれやっといて」って言うと、すぐに「はいっ!」って元気に答えるけど、3分くらい経って「あの、これ、どうやるんすか」とか聞いてくるみたいな。できないことも多いけど、「あれ買ってきて」みたいに、なにかと便利には使えるし、愛嬌があって憎めない。けれど、徹夜で仕事してるときに、隣見たら居眠りしてる。「起きろっ!」って怒鳴ると、すぐ起きて、おやつ喰ったら、すぐ元気に働き出す。

 Windows型 なかなかバランスがあって、みんなができることは一通りこなせる。だけど、少々難しい課題を与えると、すぐにフリーズ。でも、なんでこんなことで混乱するかなあ、と思いながら、じっくり時間をかけて話を整理してあげると、なんとかまた復活して働いてくれる。徹夜は一徹まではなんとかこなせるけど、それを超えるとリソースがなくなって、効率が大幅ダウン。「僕、今日は帰っていいすか。」「しょうがねえなあ、あとはやっとくから」みたいな。

 Mac OS型 かなりの個性派でおしゃれさん。自分の考えを持っていて、それはそれでいいんだけど、見た目の柔らかさのわりには、ちょっと柔軟性にかける。複数の仕事をこなさないといけないときは、はじめに「最優先はこれで、その次はこれ、最後の仕事はできなくてもいいから」と釘を差しておかないと大変なことになる。好きなことばかりやるから。で、フリーズすると、素人には手がつけられない。3時間くらいああだこうだとしていると、そうか、あのとき言った指示が原因だったのか、とわかる。で「あの指示はなしでいいから」というとまた元気に働き出す。

 UNIX型 実力はあるけれど、やる気にさせるまでが結構めんどくさい。ツボにはまると、ものすごいパフォーマンスを発揮するし、三徹四徹かまわずに働いてくれる。逆に、やればやるほど頭がさえてきて、ハイになって、こっちが心配になってくる。かなり困難な課題も解決するし、表面的にはわかりにくいけど、よく聞いてみると「へえ、おまえそんなこと考えてたの、それはすごいなあ、早く言ってよ、よし、それでいこう」という感じ。でも、こいつの場合、深夜に「よしできた、明日朝10時プレゼンだからね」と言って、帰宅して、翌朝10時。ほぼプレゼンに来ない。落ちたら最後、自力での復旧は困難。夕方4時に電話。「すみません、寝坊してしまいました」ってあんた、今、夕方よ。

 とまあ、こんな感じです。もしかすると、ネットの世界では、激しく既出なのかも。どうなんでしょ。昔のOSって、それぞれに得手不得手があって人間っぽかったですよね。今は、どのPCも性能が上がってきたから、こんな比喩はなりたちにくいのかもね。

 で、私の場合は、うーん、MacOS型かな、それともUNIX型かな。案外、Palm型なのかも。ちなみに最後のエピソードは、私の実話です。目覚めたら4時。朝であってくれ、とテレビをつけたらテレビ東京の『レディス4』が。その頃は、若手だったからプレゼンに行っても行かなくても変わりがなかったんですが、ホント、凍ったなあ。ああ、これで人生終わったと思いました。

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2007年9月13日 (木)

上岡さん、ブログを始めませんか。

 めずらしく提案です。ネットの可能性を信じて、ネットを日々楽しむみなさんにメッセージします。上岡さんのブログ、読みたいと思いませんか。芸能界から姿を消し、引き際という意味では、日本の歴史で最も美しかった、あの上岡さんです。芸は一流、ギャラ三流の上岡さんです。関西人の方は、わかりますよね、上岡さん。笑福亭鶴瓶さんを唯一、手のひらで操ることができる芸人の上岡さんです。そうです、上岡龍太郎さんです。

 上岡龍太郎さんは、私と同じ世代の関西人なら、上岡さんの売れていないときから売れ出してスターになるまでのすべてをテレビで見ていると思います。上岡龍太郎さんと言えば、よみうりテレビの『パペポTV』ではなく、やっぱり関西テレビの『ノックは無用』であり、朝日放送ラジオの『ポップ対歌謡曲』ですよね。小学校のときは、上岡さんが嫌いだったなあ。この人、ぜんぜんおもろないやん、っていつも思ってました。なんか難しいことばかり言うし、屁理屈ばかり言いやがってからに、と思っていました。でもね、結局、いま、上岡龍太郎さんみたいな大人になっちゃったな、と思うんですね。ぜんぜんまだまだ、彼の領域には行けてないですけどね、いつしか上岡さん的な生き方をしたいなあ、なんて思っている自分がいます。

 きっと、彼が日々の愚痴とか提言とか、いろいろ書いたブログはおもしろいんだろうなあ、なんて思うんですよね。こんな時代だからこそ、上岡さんの思ってることを読みたいなあ、と思うんですよ。めずらしく同意を得たい気持ちになってしまうんですが、みなさんもそう思いませんか。

 NHKで日曜の朝早くやっている『日本の話芸』という落語、講談などを放送している番組があるんですが、その番組で上岡龍太郎さんの漫談というか、スタンディングトークというか、そんな感じのものをやっていたんですね。ちゃんと小さな劇場だったか、スタジオだったかで、マイクだけで。それ、ものすごいんですわ。YouTubeを検索してもなかったけど、もうそのストーリーは忘れてしまいましたが、すごいなあ、というのははっきりと思えています。

 随分前の話ですが。ノックさんのお別れ会で、久しぶりに上岡さんを見ました。お元気そうでしたよね。お嫌なら、芸能界に戻らなくていいんです。せめて、上岡さん、ブログを始めてもらえませんか。あなたの話や考えることを読ませてもらえませんか。匿名でもいいです。きっと、人気ブログになるでしょうから。もし、人気が出なくても私は見つけだして絶対読みますから。天国のノックさんも、きっと賛成してくれると思うんですよ。上岡さん、このブログどこかで読んだら、ぜひ考えてみてください。

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2007年9月11日 (火)

ここ最近の広告の仕事って。

 あきらかに単価が下がっていると思いませんか。少し前は、写植ひとつ発注するのでも、結構なお金がかかっていましたし、リサイズも台紙に罫を引きなおしたりして、手間もかかっていた分、コストもかかっていました。今は、わりとリサイズも文字直しも簡単にできますよね。そのぶん、こなす数も増えたなあ。ああ、しんど。

 テレビなんかでも、ビデオがよくなったおかげで、コストが随分下がったような気がします。少々のCGなら、編集室でできるし、それよりも何よりも、今どきCGで非現実的な映像をつくっても、誰も驚かないしね。セゾンカードの老人が鉄棒で大車輪をしているCMがありましたが、あのあたりから「リアル」であることが求められるようになってきたのだと思うんですね。本物の老人が、本当に大車輪をやる。そこが今の時代は大事なような気がします。そんな時代だから、逆説的にタレントCMが流行るんですよね。だって、タレントが出ているということは、それ自体が「リアル」なことだから。

 コピーなんかもそうで、これまでのような、いかにも広告コピーだなあというコピーは効かなくなっているような気がします。昔だと、それはそれで「見事だなあ」と、エンターテイメントとしてしっかり機能していたんだろうけど、今は難しいですね。そういう、プロのコピーライターが書きました的なレトリックは、「リアル」じゃないような感じになってきているような。そのコピーを評価するのは業界だけ、みたいな。そんな感じ、しませんか。

 その感じ、やっぱり、同時代的な傾向だな、と思います。「チープ革命」そして、「フラット化」。映像としては、YouTubeの素人投稿映像と1億かけたCM映像は、語弊はあるけど、ある意味で等価なんですよね。その感じは、プロフェッショナルとして長年食ってきた身にとっちゃ、正直つらい。でも、その一方で、どこの誰かも知らない人がつくったチープな映像が、おもろいなあ、と思っている自分もいるわけで。なんだろうなあ、と愚痴っぽくなっているのは、今、会社で仕事をしているから。現在、午前5時。フロアには私ひとりでございます。そろそろ、始発が走るから、帰ります。ではでは。

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2007年9月10日 (月)

ブログのさみしさ。

 2ちゃんねるのような掲示板とかmixiのようなSNSと比べると、圧倒的にブログはさみしい感じがするんですね。なんでだろうな、と考えると、やはりツールの機能から来るものがあるのでしょうね。基本的に、ブログはパーソナルなツールですよね。自前でやってる人なら持ち家、私みたいな@niftyのココログを借りている人は借家ですが、自宅には変わりがないわけで。その点、2ちゃんねるもmixiもコミュニティーですよね。パソコン通信の頃は、ニフティフォーラムなんかもありました。

 ココログでもフォーラムみたいなコミュニティ感を出すように、@niftyさん、一生懸命やっているようですが、ココログで書いている人は、ほとんどココログで書いているというこだわりはないんじゃないかな。gooであろうと、livedoorであろうと、あんまり関係ないというか。でも、なんとなく「はてな」はちょっと違うかもしれません。あそこは、個がつながる機能がいろいろあるし、「はてな」村という言葉も聞いたことがあります。まだ私は、「はてな」のことはよくわかっていないところがあるのですが。

 mixiなんかは、mixiに入るという感じで、2ちゃんねるに至っては「住人」という言葉もありますよね。みんなが住む場所、それは「寮」とか「下宿」みたいな感じでしょうか。だけど、基本、ブログは自宅の書斎という感じ。書くときも、私の場合なんかだと、PCはオフライン。仕事をしたり、飲みに行ったり、パチスロ打ったり、本を読んだり、音楽を聴いたり、そんな日常のあと、吉本隆明さんの言葉を借りれば「25時間目」に書く、みたいな感じでブログのエントリーを書いています。

 その「25時間目」に書く言葉を誰に伝えたいのか、というと、これは「不特定多数」としか言いようがない人たちに対してなんですね。実名匿名論争がらみのエントリーでも、何度か言ったことがありますが、この「不特定多数」というところがSNSにはないブログの魅力でもあって、だから、芸能人なんかもブログを始めるのですよね。

 この「個人」が「不特定多数」に言葉を伝える、というのがブログのさみしさの原因でもあって、そのさみしさが魅力であるんだろうなと思うんですよね。1日160万PVもある『しょこたんブログ』だって、そこに中川翔子さんとファンがつながりあうという感じではありませんよね。私のようなおっさんから見たら、あのブログに中川さんの孤独みたいなもの感じるし。あの人は、きっと頭のいい人でしょうから、ああいう「しょこたん語」とかブログのコスプレとか、そういう全部が、自分の孤独に打ち勝つための自己表現のような気がするんですね。なんかうまく言えないけど。

 顔も知らない人のブログでも、読んでると、優秀さ、未熟さを含めて、その人自身が見えてしまうのがブログなんですよね。そういう意味では、私もそう見えている可能性もあるけどね。で、そんな中で、継続的に読んでいるブログが突然更新がなくなったり、休止したりすると、読んでるこっちがなんか心配になったりして。だからといって、コメントとかしないですけど。PCの向こう側から、日常生活で楽しくやってくれているのを密かに祈るくらいしかしませんけど。

 毎日、何億もの言葉がブログを通してネットをただよって、これだけブログが普及してしまったいま、その消費スピードは強烈なものがあるし、その中には誰にも読まれない言葉もあるだろうし、届かない孤独もあるでしょうけど、とりあえずは、そんなさみしさと引き換えに、ひとつの孤独を不特定多数にとりあえず届けることができるかもしれない可能性を手に入れたんだろうな、と思うのですね。『ウェブ進化論』の梅田さんのように、それをポジティブな言葉だけでは語れない自分がいるけれども、私たちの孤独が手に入れた可能性は、そのさみしさも含めて、きっと、いいものであるのだろう、とは思うんですよね。

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2007年9月 9日 (日)

ブログって、ちょっとさみしいところがいいのかも。

まあ、特に落ちもないのですが、なんとなく。

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2007年9月 8日 (土)

なぜ日本人は『カントリーロード』を聴くと切なくなるのか。(2)

 ジョンデンバーの『TAKE ME HOME, COUNTRY ROAD』とジブリ映画の主題歌『カントリーロード』の歌詞の差を論じたエントリー(参照)を書きましたが、いまテレビCMで新しいヒップホップ調の『カントリーロード』が流れてますね。「♪Country Road, way to home. 愛する場所に連れてっておくれ」とい歌詞の曲。この曲は、終わりまで聴いたわけではないですが、歌詞はおろか、メロディも全く違います。でも、この歌詞は、原曲に近いメッセージがあります。やはり世代の違いなのでしょうか。それにしても、日本人は、どうも『TAKE ME HOME, COUNTRY ROAD』をそのままやりやがらない気質がありますね。

 You Tubeで検索してみると、いろいろな『カントリーロード』があります。もちろん、本家ジョンデンバーのものもあり、小野リサさんがボサノババージョンで歌っているものもあります。これも、寂しげな感じ。小野リサさんは、『ムーンライトセレナーデ』もボサノバで歌っています。平熱な感じが、かっこいいです。

 故郷に帰るときの気分を歌った曲は、たくさんありますが、ひとつあまり有名な曲ではありませんが、ぜひご紹介したい曲があります。オフコースの『ロンド』です。この曲はシングルのA面なのですが、あまりヒットしませんでした。すごくいい曲ですが、ベストを含めてアルバム未収録で、鈴木康博さん曰く「オフコースらしくないという理由で忘れ去られた曲」。オフコースが『さよなら』でブレイクする前です。

ロンド
作詞:鈴木康博

忙しさに 身をまかせて
母の日さえ とおに忘れてた
幼い頃の私を 懐かしむ気持ちがわかる

あなたの人生には いつも私がいるのに
新しい年を迎えるたび 離れていく

母はいつまでも 子供に追いつけない

日差しが 部屋の奥まで
差し込む頃までに 会えるだろうか
いまこうして 生きてることさえ
あなたの望んだ 道じゃない

ようやく 人の世が
見える 年頃になり
いまもう立ち止まっていては
ひとときが惜しい

あなたの人生は いつも待つことばかり
それでも慰めの言葉は いらないだろう

母はいつまでも 子供に追いつけない

 私にとっては、身につまされるというか、言葉のひとつひとつが心に沁みてくるのですね。私は、大阪の某有名私立進学校に進んで、そこで落ちこぼれた口で、大学は一浪してなんとか辻褄をつけたものの、「いまこうして生きてることさえ あなたの望んだ道じゃない」というのは、すごくわかります。

 ここでも、やはり故郷へ帰ることの複雑な気持ちが表現されています。自分の道が、故郷=母が望んだ道ではない、と少しばかりの後ろめたさを持ちつつ、だけど、自分の選んだ道が、すでに母にはわからない価値、つまり「立ち止まっていては ひとときが惜しい」価値を持っていて、そして、鈴木康博さんは「母はいつまでも 子供に追いつけない」と結論づけるのですね。

 これは、自立というテーマですね。自立という概念と、個人主義、近代的自我は強く結びついているように私は思います。原曲の『TAKE ME HOME, COUNTRY ROAD』の主人公も、自立はしているけれど、故郷という自分の育ってきた場所とのバランスは個の中でうまく取れています。しかし、『ロンド』では、そのバランスがうまくとれていない、というか、まったく別の価値を持つものとして、個の中では激しい矛盾を起こすものとして捉えられています。

 いまテレビCMで流れている新しい『カントリーロード』は、そのバランスがうまく取れているような気がします。ときどき帰って、元気になってまた自分の世界に戻ってくる、みたいなことがうまくできる人として描かれているような気がするのですね。やはり、故郷というものと自分の世界が、矛盾してしまうという独特の感覚は、世代的なもので、そこにはどこかで断絶があるのでしょうか。
 
関連エントリー
なぜ日本人は『カントリーロード』を聴くと切なくなるのか。(1)

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2007年9月 7日 (金)

ユニクロは、日本の人民服である。

 私、恥ずかしながら、って恥ずかしがる必要はないんですが、ユニクロのヘビーユーザーです。「ユニばれ」という言葉があるように、本物のオシャレさんにとっては、あまり褒められたものじゃないけど、ユニクロって、便利でそこそこオシャレなんですよね。安価だし。

 ユニクロがいまこうしたブランドになった経緯は、ファーストリテイリング会長の柳井正さんの著書『一勝九敗』(参照)に書かれていますので、興味のある方は本を読んでみてください。広告業界にいるものとしては、やはり、ワンデン+ケネディのクリエイティブディレクターであるジョン・ジェイさんとの出会いが大きかったんだろうと思います。

 で、私がワイデンがつくったユニクロの広告について得意な顔して語るのは、同業のはしくれとしてはあまりにも辛すぎるので(だって、素晴らしすぎるんだもん)やめときますが、私は、なんとなく、ユニクロって、戦争が終わっていろいろ苦労した末に、日本人が、国家の力ではなく、自分たちの力でやっと手にした人民服のような気がするんですね。

 人民服というと、ちょっと聞こえが悪いかもしれませんが、人民服のいいところは、オシャレであるべきとか、個性的であるべき、とかいった競争原理から逃れられるところ、そして、安価なことです。その一方で、画一的、権力がこうあるべきという押しつけ、自由がない、結果としてオシャレじゃないといった悪いところがあります。

 こうした整理をした上で、そのデメリットの部分をなるだけ少なくするとどうなるか。ユニクロなんですよね。その先駆け的に、当時の西武流通グループ、後のセゾングループが立ち上げた無印良品だったりするのですが。

 戦争が終わって、みんな貧しくなりました。そして貧しいまま、自由が入ってきました。いままで、みな同じような服を着ていたのに、戦後、衣服に関して言えば、長い間、オシャレの自由を満喫したい人は、高価なブランドを買い求めるようになり、その一方で、オシャレの自由競争がじゃまくさい人は、スーパーマーケットの衣料品売り場で安いけどださい服を買うしかなかったのです。そして、その構図をぶっ壊したのが、ユニクロだと思うのですね。

 ユニクロに行くと、いろんな人がいてて面白いですよね。お年寄り。おっちゃん、おばちゃん。スカしたカップル。ださいカップル。さえない青年。そして、私のようなサラリーマン。私などは、そういう環境がものすごく居心地がよかったりするんですよね。これは、服に関しては、という部分はありますけど。

 ユニクロの服も、無印良品と同じように、「これがいい」ではなく「これでいい」という考え方ですよね。(ちなみに「これでいい」というのは、今の無印良品のコンセプト。)だから、オシャレの平均値であるんですね。個性はないけどね。

 そして、私のような、身につけるもので自分の個性を表現することが、邪魔くさくてしょうがない人にとって、ユニクロは、すごく好都合なんですよね。店員が話しかけてこないし。ズボン(最近のオシャレさんはパンツって言うらしいですね。)は、裾直しがいらないから、試着室に入らなくて済むし。

 人間には、二面性があって、自由競争、個性、自由を求める資本主義的な部分と、競争から逃げたい、個性から逃げたい、自由なんかいらない、っていう社会主義的な部分もあると思います。多くの人たちは、心のどこかで人民服があればいいのにな、なんてことを思う部分があるのではないでしょうか。

 もしかすると戦後の左翼が求めた社会主義的な理念を見事に達成したのは、左翼活動家や左翼政党ではなく、ダイエー、イトーヨーカドー、西武セゾン、ファーストリテーリングといった資本主義のまっただ中にいる流通業界の企業家でだったのではないかな、と思うんです。彼らの頭の中には、もしかすると、革命へのビジョンや情熱があったのかもしれません。

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2007年9月 6日 (木)

消費者金融のマス広告は是か非か。

 少しデリケートな問題だと思いますが、書いてみます。バブル崩壊後の1995年に、テレビCMのゴールデンタイム放映が解禁され、消費者金融のテレビCMは、一気に人気テレビCMに躍り出ました。しかしながら、様々な問題のため、現在では、朝の時間帯とゴールデンタイムは放送できなくなって、深夜枠も本数が制限されるようになってきました。また、ビルの大型看板などの自主規制が検討され、業界自らが「ストップ!借りすぎ」キャンペーンを実施するなど、以前のような宣伝合戦は鳴りを潜めてきているようです。大方の流れは、消費者金融のマス広告を制限していく方向になっているのは事実だと言えそうです。

 しかしながら、いわゆる銀行系のローンなど、新しい消費者金融サービスの進出で、結果としては、世の中のノイズ量ではあまり変わらないような気がします。

 私自身は、消費者金融は世の中に必要とされているものだとは思っています。警察が必要で、弁護士が必要で、パチンコ屋さんが必要で、キャバクラが必要なように、消費者金融は必要。困ったことは、あってほしくないけれど、やはり現実にある。だから、警察も弁護士も必要。パチンコだって、キャバクラだって、息抜きには必要でしょう。でも、それは、社会の表舞台で、積極的な利用を促進するような種類の必要ではないと思うのですね。

 消費者金融のマス広告は是か非か、というタイトルをつけましましたが、個人的な感情で言えば非です。しかし、現実に照らして考えた場合、今、消費者金融のテレビCMは流れている。現実として、消費者金融の仕事は、私の仕事になる可能性もある。その中で、表現屋としてどう考えていけばいいのだろうか、ということを時々考えます。

 私見ですが、かつて流れていた武富士ダンサーズのテレビCM。あれは、結局、何も言っていない広告ではあるけれど、私は、マス媒体を使って消費者金融がメッセージをする場合、比較的望ましい形であると私は思っています。あくまでCM表現の話であって、企業活動の内実の話ではありませんが。

 一方で、広告業界でも評価された、「どうする?アイフル」の犬のチワワのテレビCMは、私にとっては、どうしても抵抗感があるのです。あの広告のメッセージは、お金がないけど犬を飼いたい、どうしよう、そんなときはアイフルで、というメッセージです。いいのかな、と思うんですね。お金に困っているとき、犬を買うことは我慢すべき事柄ではないのか、というのが社会というものではないかな、と思うんですね。CMとしては、見事でたいへん面白いけど。

 それと、現在進行形でいえば、駅などで展開している、ディックの「勇気だけでは足りないから。」という広告。広告の仕組みとしては、勇気だけでは足りないから、時間よ味方になってくれ、だったりするストーリーが展開され、そこにディックというロゴがあるという、直接的なメッセージではなく暗示によるメッセージ発信の方法なのですが、それは、広告のメッセージとしては、勇気だけでは足りない、お金のバックアップが必要だ、借りてでもそのバックアップはしたほうがいい、ということですよね。アイフルも同じですが、消費者金融という企業から見た場合、犬がほしい、勇気だけでは足りない、といった、語弊はありますが、切実ではない理由で、気軽にお金を借りてもらうことが事業の拡大に繋がります。でも、それはどうしても、私にとっては抵抗があるのですね。

 広告のセオリーとしては、「お金を借りる」という、金融という商品性の本質を描ききるのが本道です。私も後輩には「商品から逃げるな」とよく言うのですが、その意味では、今流れている多くのCM「お金にもマナーを。」「人生はバランスが大切。」「ご利用は計画的に。」などは、広告としては本道ではありません。その観点から言えば、社会的な観点や倫理的な観点を除外して、純粋に広告の表現技術として見た場合、アイフル、ディックの広告は、絶対的に正しいのです。

 でも、そんなメッセージを社会に向かって発信することはいいのだろうか、と思うのですね。確かに、そのメッセージは、エンターテイメントという衣に包まれているし、人間の弱さがしっかり描けています。見た印象に不快さはありません。消費者金融は、実質、資金のバックボーンは銀行だったりしますし、金利という面が違うだけで、銀行でお金を借りるのと変わらない行為なのかもしれませんし、業界としては、そうした地位向上を目標にもしているのだろうと思います。

 角度を少し変えて考えてみると、例えば銀行がお金を簡単に貸してくれるようになったとして、銀行が「気軽にお金を借りればいいじゃない」的なメッセージをテレビCMで発したとすれば、やはり違和感はあるんですね。私にとっては。ひとつは、社会的な影響。もうひとつは、その業界の矜持の問題としてです。それは、業界の矜持として、禁じ手ではないのかな、と思うのですね。

 私の個人的心情としては、こうした考え方を持っていますが、現実に、その仕事をやらざる得ない場合、私はどうするのだろうと考えるのです。たぶん、「マネーにもマナーを。」的なコミュニケーションであれば、自分を納得させることができる。しかし、本質を描いていく、つまり、直接的にコミュニケーションの力で、敷居を下げて顧客拡大をせざる得ないとき、クリエーターとして、断れるかどうか。かつて、中島らもさんが、自分の信条にかかわらず依頼にはすべて応えるのがプロのコピーライターであると言っていましたが、それははたして正しいのだろうかと考えます。

 別に、自民党の広告と、共産党の広告は、ひとりのクリエーターは両立できると思います。どちらの言い分も、利点も見つけられるのが、プロのクリエーターだと思うから。そのレベルでさえ、プロである限り、個人の信条は超えられると思います。どちらもできるのが、プロだと思うのですね。しかし、やはり悩ましいのが、アイフルやディックのケースです。ああいう広告を見ると、かつての問題作を思い出すのですね。自衛隊の隊員募集の広告です。

 戦争を知らない僕がいま、ファントムに乗る。

 うまいコピーです。私が若かったら、もしかするとファントムに乗りたいと思うかもしれません。書き手の理屈としては、自衛のために、という言葉が隠されているのでしょうが、それよりも何よりも、その見事なレトリックのパワーは、戦争への憧れを刺激するのです。隊員募集という目的は、きちんと果たすでしょう。しかし、それでいいのだろうか。私には、いまだ明確な答が出せないのです。

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2007年9月 5日 (水)

私のW-ZERO3[es]君は、あいかわらず元気ですよ。

Es  もう1ヶ月以上もW-ZERO3[es]ネタを書いていませんが、あいかわらず私のW-ZERO3[es]君は元気に働いてくれています。次回は、Officenailさん(参照)作のスケジュラー『OfficenailDate』参照)の素晴らしさをブログにたっぷり書きたいなあと思いつつ、なかなか忙しくて書けないのですが、しばらくお待ちくださいませって、誰もまってないか。でもねえ、この『OfficenailDate』、いいんですよ。特に、アナログ(?)の手帳を使ってた人にはすごくおすすめ。

 私は、去年の12月5日から使い始めたんですが、ネットなどで言われているほど不安定にもならず、けっこう快調に動き続けてくれています。フルリセットは一度もなしです。充電地も今のところ劣化している気配もありません。ブログを始めてからOperaを頻繁に使用するようになったのですが、それでも、ほぼ1日まるごと使えますね。

 変わったことと言えば、シャープ製の純正ソフトケースをなくしてしまったことくらいですね。いろいろソフトケースを探してみたものの、まあなくていいかな、という気になってしまい、ポケットにじかに入れてます。そのためか、太陽の下で液晶を斜めに見ると、小さな傷がたくさん付いていました。でも、普通に使用する分には、傷は分からないので問題はないんですが。液晶のハードコート、思ったより傷に強い印象ですね。

Ades  Advanced W-ZERO3[es]が出ましたが、デザイン的には旧[es]の方が私は好きです。このW-ZERO3シリーズって、アドエスを含め、あまりデザインは頑張ってないと思うんですね。主観ですけど。他の携帯って、今、プロダクトデザインとして非常に美しいですよね。携帯って、さすが時代の最先端プロダクトだけあって、デザインは群を抜いて質が高いと思うんです。だけど、このW-ZERO3シリーズは、ちょっと例外。まだまだ、デザインが機能に負けてますよね。

 そういう意味では、この手のジャンルとして歴史が浅い製品にはデザインはまだ期待しCase_3ていないんですね。旧[es]はそんな中でも、なんとなくエレクトリックギターのハードケース(左の写真)みたいで好きなんですね。それは、使い込むほどそう思うようになりました。なんとなく、昔のIBM ThinkPadに似た愛着を持ってしまいます。

 それと、前と言ってることが違うじゃんか、と言われるかもしれませんが、ブログをやるようになってから、QWERTYキーボードをよく使うようになりました。自宅のPCでは、OS9ということもあって、自分のブログのコメントができないんです。ココログだけの現象ですけど、文字化けするんです。で、しかたがなく[es]で書き込み。慣れるとけっこうサクサクいけます。そのときは、星羽さん(参照)作の『ChgSuisoku』(参照)というATOKの切り替えをしてくれるユーティリティソフトが必須です。キーボードで文字入力をしているときに、推測変換の候補が出ないようにできるんですね。これがないとすごく鬱陶しいです。

 ソフトウェアはいろいろ入れているけど、最近、使うものが決まってきましたね。そういうこともあって、私の[es]は安定しているのかもしれません。でも、たまに固まることはあるけどね。こういう困った面もあるから、フリーズしても、それはしゃあないなあ、という大きな心で許せてしまう人じゃないと、やっぱりこのW-ZERO3[es]は使えないですね。そんな携帯電話、今どきほとんどないからねえ。

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2007年9月 4日 (火)

大阪人の体の半分はメリケン粉でできている。

 大阪人はメリケン粉が大好きです。うどん、お好み焼き、たこ焼き、イカ焼き、ネギ焼き、みーんなメリケン粉。ちなみに、大阪では小麦粉のことをメリケン粉って言います。アメリカからやってきた粉だからメリケン粉という説と、メリケン波止場から荷揚げされる粉だからメリケン粉という説がありますが、まあ、どちらにしてもアメリカがらみ。アメリカ人のこと、ちょっとお年寄りの人はメリケンさんと言いますし。

 いまでこそ東京でも当たり前になりましたが、サラリーマンの昼食と言えば、うどん定食。うどんにごはん。お好み焼き定食もあります。お好み焼きにごはん、そして味噌汁。たこ焼き定食というのも、近頃はあるようです。たこ焼きにごはん、そして味噌汁。炭水化物ばっかり。

 おじやうどん、知ってますか。鍋焼きうどんの中にごはんが入ってるやつ。うどんすすりながら、レンゲで汁と一緒にごばんを食べるんです。案外うまいんですけどね。ちなみに、おじやというのは、東京で言うところの雑炊ですね。でも、大阪ではおじやと雑炊は、てっちりの時には区分けされて、おじやは卵とごはんと出汁が渾然一体となったもので、まあ、あれです、イタリア料理のごはんとチーズがぐちゃっとなったやつ、あれなんて言うんでしたっけ。で、雑炊は、ごはんと出汁とかき玉がわかれてる、いわゆる東京の雑炊。

 知ってると思うけど、一応注釈。てっちりというのは、ふぐ鍋のこと。ふぐは当たると死ぬので鉄砲。鉄砲のちり鍋だからてっちり。ふぐ、おいしいよね。脂がないのに、なぜあんなにおいしいんでしょうね。普通、美味しい魚って、鯛でもなんでも脂が乗ってるのに。ふぐは素晴らしいなあ。

 炊き込みごはんのこと、大阪では混ぜごはんって言います。あの中に入ってる細かいこんにゃくは意味あるのかな。薄揚げは意味あると思うけど。たこ焼きにもこんにゃくが入っていることがあるけど、あれは、たこの節約でしょうね。子供の時って、あまり小遣いは持ってないですよね。大阪のたこ焼き屋さんは、子供たちのために、エビせんべいを二つに割って、たこ焼きを2つをはさんだものを売ってくれるんですね。たこせんと言います。

 イカ焼きは、イカの丸焼きとは違います。メリケン粉を溶いたものを鉄板にクレープ状にひいて、イカの下足をその上に置いて、上から、もう一つの鉄板でプレスするんです。出来たものにソースをつけてイカ焼きの出来上がり。とりあえず、なんでもソース。イカリソースをペタペタしたら、どんなものでもけっこうおいしくいただけます。

 社会人になって、東京に出て、しばらく経ってからのこと。大阪に帰ったとき、うちの母親がね、しみじみ言うんですね。あんたら子供の時、お好み焼き好きやったから、助かったわあ。つまりね、お好み焼きは、エコノミー焼きだということですな。しょうもないダジャレですみませんが、まあ、安いってことです。キャベツと豚コマと卵でできるから。豚がなかったら、ソーセージでもちくわでもいいし。だだし、魚肉ソーセージはちょっと無理。それと、ぜいたくに卵を入れすぎると、堅くなってだめ。

 そんなメリケン粉大好き大阪人も、大人になったら、お酒も飲むようになるから、つまみも食べます。肉すい。肉うどんのうどん抜き。粋なもんですよ。東京でもありますよね、天ぷらそばのそば抜き。あれと同じです。大阪では、肉というのは、牛肉のことです。だから、大阪では、肉まんとは言わないんですね。豚肉だから、豚まんです。大阪名物の551蓬莱の豚まん。あれを新幹線で食べる人多いけど、けっこう匂います。気をつけましょう。

 東京でよくある光景が、大阪からやってきた人が、東京の人と居酒屋に入って、肉じゃがを頼んだら、これ、肉じゃがちゃうやん、豚じゃがやん。そんな大阪人を見たら、そっとしておいてあげましょう。言いたかっただけですから。

■ご参考

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 イカ焼き
大阪梅田の阪神百貨店地下のスナックパーク内のイートインが有名。タマゴ入りがデラバンという名前です。デラックス版の略らしい。お買い物帰りにおみやげで買って帰ったりしました。

jppapin2001さん「大和は国のまほろば 別館」 松葉屋本舗おじやうどん
私がよく食べていたのは、こんな豪華なやつではなかったなあ。「力餅食堂」で食べたおじやうどんは、普通の鍋焼き風です。

「まいにちをおいしくたのしくblog」さん 千とせの肉すい
うまそうな写真が載っています。牛皿みたいに濃いしょうゆ味ではなく、あっさりしてて、関西らしくていい感じです。

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2007年9月 3日 (月)

CGMを軸にしてみた、広告のこれからと表現のこれから。

 立て続けにCGMとかWeb2.0とか言われるものについて考え続けています。しかも、なんとなくちょっとそのテーマに絡め取られて、思考が止まらなくなってしまっています。そんなときは、書くに限るかな、ということでもうひとエントリー、CGM関連で。

 ここ最近、『広告屋という立場でCGMについて真剣に考えてみました。』(参照)とか『ブログをやる人、ブログをやらない人。(1) (2) 』というエントリーを書いてみたり、2ちゃんねる管理人のひろゆきさんが出した新書『2ちゃんねるはなぜ潰れないのか?』(参照)を読んだり、『次世代広告テクノロジー』(参照)という広告関連本を読んだり、めずらしくテーマを絞った読書などもしてみました。

 『2ちゃんねるはなぜ潰れないのか?』という新書は、ある種のWeb2.0批判本でもあるのですが、逆説的に、CGMとかWeb2.0とか言われる現象のリアルな実情が非常によくわかり、私にとっては興味深く読むことができました。たぶん、ひろゆきさんには、リアル/バーチャルという二項対立的な概念が頭の中にあって、その二項は別の世界であるほうがいいという思いもあるような気がします。そのバーチャルというのは、Web2.0的なものなのでしょう。それを突き詰めると「スーパーフラット」な場である「2ちゃんねる」になるのでしょうね。それは、すごく納得する部分でもあります。

 実際、2ちゃんねるは「中野区のパチスロ店」や「PVが100以下の人のためのブログアクセスアップ」みたいなニッチな情報がカバーされているし、それは、今のところ、googleで検索してもなかなかたどり着けない情報だし、その中では、結構フラットにコミュニケーションがされている印象。まったりというのかな。

 2ちゃんねるでは、すごく好きなスレッドがあって、それはパチスロ機種ジャンルの中の『ジャグラーのピエロだけど何か質問ある?』というもので、最初誰かが立てたあと、その本人は立ち逃げしちゃったときに、ある人が「ジャグラーのピエロ」に名乗りを上げたんですよね。それが結構キャラ的にいい感じで、人気が出たんです。「小生」という語り口と、ちょっぴりハードボイルドな感じで。ジャグラーというのは、ピエロがキャラクターの人気パチスロ台なんですが、あの人畜無害なビジュアルとのギャップがすごく楽しくて。今も続いてるかな。

 『次世代広告テクノロジー』という本は、いろいろ示唆されるものがあるものの、私の興味の中心になっている「表現」の話はあまりなく、新しいメディア環境の中「広告」はいかにあるべきか論です。そう言う意味では、この本は、広告業界の最前線を走っている感があります。大ざっぱすぎる要約ですが、この本は、ターゲットセグメント論と効率論の最前線の本です。いま広告業界の話題の中心は、例えば「BURGER KING」の「サブサービエントチキン」キャンペーンのようなBuzz生成型なので、その手法に興味がある広告マンは必読です、なんてことも言えるのでしょうね。

 私は、というと、それも面白いけど、その劣化輸入である「続きはWebで」みたいな広告が、どれだけIT環境が進化しても、一生活者としては、一日24時間しかないわけで、しんどいなあと思うし、生活者もそれほど能動的に広告につきあってくれるとも思っていません。その辺は、これからもあまり変わらないのではないかなあ、なんて思っていますが、楽観的(悲観的?)すぎるでしょうか。

 私は、そんな環境の中でリアルに思える「言葉」って何だろう、みたいなことで、それは別にテレビCMだって、新聞広告だって、雑誌広告だって、ウェブバナーだって、パンフレットだって何でもいいんですよね。でも、その中にあるメッセージは、変わらざるえないんだろうな、時代が変わってるんやしなあ、なんていうぼやきなんですよね。で、数少ないその意識を持って取り組んだ制作物の中で、いくつかのものは、いまの時代でもわりと届いたんじゃないかなっていう少しの自負心もあり、そのへんの愚痴とも希望とも言えるような、ぼんやりとした闇の中でいろいろ考えています。

 ひとつ答みたいなものが、今の私が出せるとすれば、人間というのはそないに変わるもんやおまへんで、ということで、今までだと、人間を描くのがマスで、そのほかの例えば専門性のある広告は、モノを訴求するみたいな区分けが「表現」にはあったような気がするけど、その専門性のある集団も、ミクロに見ていけば、そこにはやっぱり人間がいてね、そこにメッセージすればやはり言葉は届くなあ、と言うこと。でも、これもメディアをからめて言えば、ターゲットセグメント論の中での表現論かもね。

 と考えていくと、私は「広告」というビジネスを面白くしたいというより、やっぱり「広告」という機能の中の「表現」や「言葉」を面白くしたい、という欲望が強いんだよなあ、と思ってる部分があって、そういう人はきっとたくさんいるんだろうけど、その「表現」は広告屋の独占物ではなくなってきているのははっきりしてきた今、その独占みたいなものに安住もしてられんやろな、どうせ近い将来、壊れるんだしさ、なんとかしないとね、そのへん、どう考えますか、みたいな感じでブログにうだうだと書いてるんでしょうね。

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2007年9月 2日 (日)

ブログをやる人、ブログをやらない人。(2)

■一億層表現者時代と言うけれど

 それは、所詮はマーケッターの企画書の言葉でしょうね。私はブログをやっているけれど、少なくとも私のまわりにブログをやってる人は、ほとんどいないし。ブログっていいもんよ、と言っても、なかなか始めそうもないですし。そういう私も、いろんな人から、ブログやってみたら、と言われたけれどやらなかったし。結局、やりはじめたきっかけはmixiをある人の紹介で始めて、これだったらブログのほうがいいかも、みたいなこと。それに、私には書きたいことがあったし。

 ブログは楽しいものではあるけれど、何かを書き続けるめんどくささが与えてくれる楽しさであるから、そんなものに一億人も参入するとは思えないんですね。生活の実感から言えば、ブログは、これくらいのユーザー比率が飽和点でしょうね。あと、ネットへの能動的な参加も。でも、携帯電話まわりでは、ここ数年はまだまだ増えるかな。

 じゃあ何をやっきになってWeb2.0という必要があるのかと言えば、そんなくらいの小さな変化が、じつは質的には大きな変化なのではないかと思うからですね。

 独我論的(私に起きた変化は、普遍的な変化であると思うような論の進め方、みたいな意味です)な感じになってしまいますが、こんな私でさえ、ネットを使い、ブログで文章を書いてしまうという変化は、小さな変化ではあるけれど、自分が実際にやってみてわかったのは、ああ、なんか世の中が本質的に変わってきたな、と感じてきたことが、なるほどねえ、こういうことだったのかも、みたいな感じがあるのですね。
 
■ブログをやらない人にとってのWeb2.0

 まわりを見てもブログをやってる人はあまりいない。けれども、そのまわりの人は、私なんかよりネットを利用してたりもします。amazonや楽天、価格.comを積極的に利用しているみたいですし、eコマースは今なお好調だと聞きますし。まあ、そのへんの人たちは、十分にWeb2.0的な空気の中で、新しい時代を生きている人と言えるわけですね。

 ネットで広告をより効率的に届けていくかという視点では、こういう大部分の人たちの行動や心理を解明することは大切です。けれども、私は、広告屋ではあるけれど、そこにはあまり興味がないんです。私が興味のある領域は、やっぱり「表現」の領域なんですね(広告屋としては失格なのかも)。じゃあ、こういうWeb2.0的な空気の中で、リアルな「表現」ってどういうものなんだろうか、というのが私の主題です。

 しかも、私が興味のある領域は、ネットという双方向的メディアでどのように面白い表現をつくっていくかということではなく、ネットを他のメディアとどのようにミックスさせていくかということでもなく、そういうWeb2.0的環境の中で「表現」のリアルはどう変わっていくのかということです。わかりやすく具体的に言えば、その環境の中で、従来からある広告の「表現」はどう変わるべきなのかということです。どういう言葉がリアルに届くのかという。

 なので、ここをもっと進めて、ブログなんて言葉も知らない、PCも使わない、うちの両親のような人たちが、このWeb2.0的な空気にどう影響されているのか、ということを考えてみたいと思います。そういう極端な設定の方がわかりやすいと思うので。
 
■結局Web2.0は世論の作られ方の話かも

 ちょっと前、納豆が空前の大ブームになったことがありましたよね。関西テレビの『発掘!あるある大事典Ⅱ』がきっかけでした。納豆でやせられるということでしたね。で、うちの母親は、大阪育ちの人間なので納豆が嫌いなはずが、毎日食べるのですね。私は、納豆が大好物なので、帰省中に毎日納豆が出ても、それはそれで都合がよかったのですが。

 しばらくして、大阪にもかかわらず、スーパーから納豆が品薄になりました。へえ、すごいもんだねと見ていると、数日後、捏造疑惑が出て、あっという間に納豆ブームは終わりました。当然、うちの母親も納豆を食べなくなりました。母親に聞いてみたんですね。「納豆はどうしたん?」すると母親はただ一言「飽きた」と。捏造疑惑のことを聞いてみても、知ってることは知ってるようでしたが、実感は飽きたということらしい。

 これ、私はすごくWeb2.0的だと思うんです。捏造疑惑から、それに関連するブログやら、2ちゃんねるの書き込みが集中し、あっという間にそのニュースを消費してしまう。そのウェブ上に蓄積された情報は、正しい間違いかかわらずある種のカオスを作ってしまう。そのカオスは、これまでの時間を凝縮してしまうんですね。

 熱しやすく醒めやすいという現象をつくる一方で、ネット上には、その経緯がしっかりとログとして残る。いま私が検索しても、その時の熱狂の様子や情報がいともたやすく手に入れることができます。それは、空気としては、PCを使わない人も影響を受けるんだと思うんですね。つまり、いま世論はこういうふうにして作られる、いわば「身も蓋もない」状況なのだと思います。

 そういう状況で成り立ちにくくなるのは「物語」だと思います。少なくとも80年代は「広告」という「物語」を作り出す表現機械は、時代の中で機能していました。でも、こういう状況の中で「広告」という機械は、そもそも「物語」を作り出すものではないことが「身も蓋もなく」ばれてしまったように思うのですね。
 
■ロラン・バルトが『表徴の帝国』と呼んだ日本の今

 80年代的な記号論の文脈で言えば、「広告」が脱構築的にその役割を超えていく中で、広告のメッセージは、その役割を超えて時代の「物語」をつくっていくはずでした。ロラン・バルトは日本を『表徴の帝国』などと言う格好いい言葉で呼んだりしました。それは、別に日本だけのお家芸ではなく、世界的兆候でもあったからこそ、それが日本という極東の先進国に顕在化してたからこそ、ああいう書物を書いたのでしょう。(まあ、彼にとって、当時日本が大きな市場であったという身も蓋もない言い方も可能ですが。)

 あれから20年以上経って、ウェブというテクノロジーは、そういう「物語」を生み出すブラックボックスを木っ端みじんに、それこそ「身も蓋もなく」壊していきました。その中で、例えば、私が手にしたのは、ブログというパーソナルパブリッシングツールであったり、東京の大規模書店でなくても希少本が手に入るamazonだったり、図書館に行かずとも情報が手に入るwikipediaだったり、たくさんの店を見て回らなくても最安値でモノが買える価格.comだったりしました。

 こういう便利だけど「身も蓋もない」時代の中で、表現のリアルはどこにあるんだろうか、みたいなことが、広告クリエーターとしての大きな主題だったりするんですね。日々の仕事の中で、会社のためにお金を稼ぎつつ、その一方で、明日への希望を夢見つつ、なんとか踏ん張って新しい表現を見つけていきたい、というのが私の日常だったりします。

 で、結局、答はどうなのよ、というと、あんまりようわからんなあ、という感じだったりします。広告業界の中にも、そのへんの答を持ってる人もいないような気がします。だけど、この「身も蓋もない」時代に、確実に新しい価値はつくられている実感もあるにはあるし、私はその新しい価値は、肯定されるべき価値だと思います。でも、その価値は、もしかすると、文化としての「広告」をそれこそ「身も蓋もなく」壊していくのかもしれません。なんか「身も蓋もない」結論になってしまいましたね。(同業のみなさま、投げやりにならずに、お互い頑張りましょうね。)

(1)も読む

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2007年9月 1日 (土)

ブログをやる人、ブログをやらない人。(1)

■Web2.0がつくる時代の空気

 CGMによって、集合知的なものが生成される世の中になって、当然世の中の空気が変わってくる。だからこそ、いままで有効だった「表現」が意味をなさなくなって、そういう空気の中で「リアル」な「表現」はどのようなものだろう、というものが当ブログ管理人の広告的な主題ではあるのですが、これは、今言われているWeb2.0という潮流の中にある部分沿った形に論考ではあるわけですね。

 Web2.0というのは、私の大ざっぱな理解で言えば、梅田望夫さんが『ウェブ進化論』で書いているような内容で、チープ革命とか、ロングテールとか、フラット化とか、そんな言葉で語られる、新しいウェブ環境のことで、googleとか、amazonとか、YouTubeとか、はてなとか、そういうサービスが出てきたことで生まれた環境のことです。

 例えば、当ブログがウェブ環境で認知されるに至るには、これまでだと、Yahoo!JAPANの広告カテゴリーやらに登録したり、登録されたりする必要がありました。しかし、googleという単語中心の検索で、ページランクによって上位下位が決まる仕組みの検索システムができたおかげで(また、スパムをフィルタリングする仕組みで)、アクセスの多い少ないはともかく、とりあえずは容易に認知されるようになりました。また、ブログという、エントリー単位でURLが発行される仕組みもそれに貢献しています。
 
■私の小さなWeb2.0体験

 ここで面白いなあと思うのは、当ブログの認知みたいなことで言えば、私は、ブログをやり始めたときは、当然タイトルにもあるように、「広告人」というカテゴリーでまずは認知されるだろうな、と思っていたのですね。想定は、広告クリエーター、マーケッター、広告代理店、広告制作会社という人たちがまず読んでくれるのだろうなと思っていました。書く内容は、興味のあることを節操なく書いていこう(つまりマーケティングはしないつもり)でしたが、少なくともタイトルどうりの認知が出るはずだと思っていました。

 しかし、いまほぼ始めて3ヶ月ですが、結果はそうではありませんでした。それほどアクセスが多いとは言えないので、現状の母数で結論を出すのは早いかもしれませんが、徹底的にエントリー単位なわけです。それよりも、極論を言えば、私が広告屋であろうとなかろうと、ほとんど関係がない。エントリー単位で、フラットなわけです。逆に、エントリーの中に外資系、フィーなどがある場合には、普段は少ない広告代理店なんかからのアクセスがあって、そこも面白いですね。
 
■つまりはウェブということなのかな

 ひろゆきさんが『2ちゃんねるはなぜ潰れないのか』の中で、Web2.0はマイナスイオンと同じと書かれていました。なるほど、そういうことを言いたくなる時代の空気もあり、ウェブテクノロジー自体は、かつてとそんなに変わったところもなく進化しているのでしょうから、Web2.0と言われ始めたときに、徹底的な技術的ブレイクスルーはなかったという意味において、Web2.0ってそれほど意味はないよとも言えるのでしょう。

 でも、やはり「2ちゃんねる」というサービス自体も、ロングテール的に話題をくみ取るという意味において、先駆け的にWeb2.0だったでしょうし。と言うよりも、ウェブという情報ネットワークシステムの本質は、このWeb2.0的なものであり、それを鋭く体現しているサービスやツールが脚光を浴びる状況にようやくなってきたという理解でいいのかもしれません。

 ですから、その本質から見ると、セカンドライフで企業が大規模なエンターテイメントを仕掛けるのがブームになっていますが、それは、リアル空間の延長という意味でのウェブ空間でしかないので、本質は銀座にショールームを建設するのとさして変わりがないと思います。前に開催されていたインパクと同じです。ですから、私は、広告屋としては、セカンドライフはあまり注目していません。その後、Web3.0とか言い出す感じは、それこそ、マイナスイオンと同じで、一儲けしようと思ってやがるな感がなきにしもあらずですが。
 
■実際はブログをやってる人はそう多くない

 で、ここまで書いてきて、なんかタイトルの『ブログをやる人、ブログをやらない人。』という内容とかけ離れていきましたが、前段が以外と長くなってしまいまして、本当は、ウェブを接する人の日常はあるけれど、ウェブとあまり接しない多くの人もいるわけで、例えば、うちの両親などは、ウェブはおろかPCも使わないわけでして、職場のまわりでも、ブログをやっている人はほとんどいないわけですね。隠れブロガーはいるかもしれませんが、印象ではあまりないですね。

 一億総表現者とは言うけれど、この先も、ブログをやる人はそんなに多くはならない予感があるんですね。特に、これからは減っていく感じではないでしょうか。けれども、当然、私の広告的な主題であるWeb2.0的な空気は、そういうウェブを使わない人たちも含めているので、そこをどう考えるのかということを次は書いてみたいと思います。もちろん、いま書きたい主張があるわけでもなく、書きながら整理していくという感じではありますが。興味がある方は、次回もお付き合いください。

ブログをやる人、ブログをやらない人。(2)

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