落ち込んでいる人に「がんばれ」って言ったらいけないの?
朝昇龍さんの問題でも、安倍首相辞任の問題でも、なんか違和感があることがひとつあって、気になるので少し考えてみたいと思います。最近に始まったことではないけれど、なんでもかんでも精神医学や心理学での原因づけを安易に行うでしょう。あれ、本当にそれでいいのかなと思います。
鬱とか抑鬱状態とかノイローゼとか心理性胃腸障害とか。テレビに心理学者や精神科医が出て、それなりな感じで話しますよね。一般的な症例の解説を交えて。あんたねえ、臨床してないのに、その人がテレビに出ているのを見て本当にわかるの、って思うんですよね。
臨床した先生も、病名を発表するでしょう。たぶん、そういう病名を求められるからそうするんでしょうけどね。でもねえ、風邪は、病名は急性上気道炎なわけですよ。それで風邪薬を処方されるでしょ。風邪薬は胃に悪いから胃薬を処方しなけりゃならない。で、急性胃炎もプラスされて、風邪をひくと、急性上気道炎+急性胃炎になるわけですよ。単なる風邪がかなり重症な感じになります。そうなるのは、症状と病名の概念の違いという理由はありますが、それにしても、ああいうふうに仰々しく病名を語る意味はあるのかなあ。その影響とか考えたことあるのかなあ。
朝昇龍さんも、安倍首相も、もしかすると精神的に相当深刻なのかも知れない。でも、その一方で、深刻じゃない可能性も残している状態でしょ。単に落ち込んでいる状態の可能性は大いにあるわけでしょ。そういう状態の人をやれ鬱やらノイローゼやら。今日もテレビ見てたら、政治家が安倍さんはノイローゼで、と言うと、司会者がそのノイローゼは差別発言になるから、ノイローゼではなくてなんとかかんとかだから、みたいなやりとりがあって、なんだかなあと思ってしまいました。
いろいろあって、落ち込んで、体の調子が悪くなった、ということじゃ駄目なんですかね。私にだってそういうことよくあるし、誰にだってそういうことあるでしょ。最近、落ち込んでる人を励ましちゃいけない、みたいなことを言う人が多くなりましたよね。がんばれ、なんて言うのはもってのほかだと。でもさあ、落ち込んでる人を見たら、普通はがんばれって言うでしょ。
落ち込んでいる人を励ましちゃいけないというのは、安易な気持ちで、とか、面白がって、ということですよね。それはねえ、生活の経験でみんな知ってることですよね。山本直樹の『ありがとう』という漫画の中で、主人公の貴ちゃんの友達のよっちゃんが貴ちゃんのことを心配してるときに、貴ちゃんが「こいつ‥楽しんでる‥」と心の中で思うシーンがありますが、そういうことですよね。生活の知恵として、そういう空虚な「がんばれ」という言葉はみんな知ってるわけですよね。でも「がんばれ」という言葉には罪はない。実際に自分が落ち込んでいるときに、「まあそれはしゃあないなあ、でもまあ、がんばるしかないやん」と親友に言われた「がんばれ」という言葉に何度も救われたことあるし。
落ち込んでいる人を励ましちゃいけない、という知識は、精神医学で言うところの躁鬱病とその境界例を含む症状を示している人が鬱状態になっているときに、それを親身にアドバイスしたとしても、その言葉の持つ本当の感情を読む判断力を失っているから言葉がその人の感情を離れて記号的に心に迫ってくるし、その言葉=記号がその人を強迫的に追いつめてしまうから、逆効果になる、みたいなことであって、それは一般人にはその人がいまどういう状態かは読みとりにくいにしても、誰にでも適応されるものではないと思います。
広告のコピーなんかでも、「がんばれ」という言葉は、もはや禁句みたいな感じになっていて、なぜそれが禁句になるかといえば、躁鬱病における躁状態の人に対する専門的な対処の知識が抑圧しているんです。コピーの中の「がんばれ」っていう言葉を。でも、その知識、本当の意味を知ったうえで言ってますか、という気がします。そういうふうに「がんばれ」という言葉を抑圧してくる人って、いつも得意気で、ああまたか、と思うんです。
「人間っていうのはさあ、落ち込んでるときに、人からがんばれって言われたくないもんだよね。君、人間の心理わかってないね。そういう不用意な言葉が、人を自殺に追い込んだりすることもあるんだよ。」
あのねえ、人間って、いつからそんなに品がなくなったわけ?広告なんてものは、ほぼすべてが企業から消費者への何らかの「がんばれ」っていうメッセージですよ。お掃除つらいけど、がんばろうよ、私たちもがんばってこんな掃除機つくったからさとか。毎日つらいけどがんばろうよ、がんばってこんなドリンクつくりました。みたいなことですよ。
要は、俺はおまえに「がんばれ」って言われたくないっていう生活の実感でしょ。要は、「がんばれ」って言葉を、誰がどういう気持ちで言うかという当たり前の話でしょ。そんなふつうのことを、心理学を交えてさも普遍の真理みたいに言うから、世の中が世知辛くなるんです。
これは、たぶん80年代のポストモダニズム思想ブームの負の遺産だったりするんでしょうけど、レインの一連の思想によって、本当に精神医学が必要な人が思想家のおもちゃにされたように(ちょっと言い過ぎたかも)、精神医学や心理学の安易な一般化は、その意図とは逆のベクトルで作用してしまう気がするんです。それこそ、私のような一般人でも、ちょっとでもフロイト、ユング、フロム、ラカン、テレンバッハみたいな精神医学系の本をかじった人なら、心理学の流派によって諸説あって、解釈でいかようにもなることは分かるわけで、アメリカ精神医学学会の基準はあるけど、あれは臨床医が基準に使うものですよね。臨床しないで知識で使うのは危険ですってば。
まあ、自民党総裁選の生中継を見ながらこんなことを考えたわけですが、これを読んでくれたみなさまに、一言。いろいろあるけど、お互いがんばっていきましょうね。ではまた。
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コメント
一障害者としては、健常者ってこう考えるんだな、と思います。
がんばれが禁句、というのは別に双極性障害の躁状態に限りませんよね。そこで対象を限定するのは、どうなんでしょうか。
個人的な話をするならば、がんばれという言葉は素直にうれしいです。また、がんばれといわれても、その言葉に左右されないようにもなりました。
最近きついのは、
>私にだってそういうことよくあるし、
という生半可な理解ですね。人間、自分に近づけて考えるのが常ではありますが、「気のせいだよ」「誰だってそういうことあるよ」で病気が治れば世話ないです。障害者なんてやっていません。
同じ広告を作る人でも色々いるのは理解できますが、「広告人」としての一般見解が上記のようなものならば大変残念です。別に言葉狩りをしたい気ではありませんので、念のため。
不躾なコメント、失礼いたしました。
投稿: 一障害者としては | 2007年9月28日 (金) 01:21
丁寧なコメントを有難うございました。
私の書き方が言葉足らずでしたが、「私だってそういうことがよくあるし」というのは、安倍さん、朝昇龍さんの状態のことを指しています。「そういうこと」はつらい状況があって落ち込んでいる状態を指しています。また、改めてここで書いておこうと思いましたが、このブログは「広告人」の一般見解ではありません。ある広告人のひとりとしての管理人がこう考えるということでご了承ください。
私としては、「がんばれ」という言葉を発する側の気持ちとか理解が問われる問題であって、例えば、障害者の方に対して「がんばれ」という言葉を発する人間の判断力というか人間性の問題だと思うのです。要するに、そういうことを言う人はやはり人間として理解が浅く駄目であるという問題であり、「がんばれ」という言葉自体を問題に摩り替えてしまうと、本当に考えなければならない問題を結果として隠してしまう結果になるのではないかと考えるのです。そこまでの論考は、このエントリには含まれていませんので、誤解される可能性があるのはしょうがないのかもしれません。
こういうことを匿名のブログで書くのは勇気がいりますが、いろいろな状況とか過去の出来事とかが重なってうちの母親が一時錯乱状態に陥ったことがありました。それは、いつもとはまったく違う状況です。結果、入院したのですが、そのとき親戚やら知人やらに言われたことは、「がんばれ」というな、とかの知識やきれいごと披露で、その裏側では、そういう状況の母親に対しての恐ろしいほどの偏見や無理解が見え隠れしたのです。じつは、この出来事がこのエントリを書く動機になっています。でも、私はブログではこれ以上は書きませんが、その部分を一般化したことで誤解を生んだのは、このエントリで書いた危険性そのものかもしれませんね。
ここまで書いて、分かりましたが、うちの母親は結局一時的なもので、双極性障害とは診断されませんでしたので、双極性障害に限定しているように読める文章を書いたのは、少し理解が浅かったかもしれません。もちろん、私は「一障害者としては」さん(ブログのコメントをいただいた方の呼び名はむずかしいですね)のコメントは、いわゆる言葉狩りとは思っておりませんし、「一障害者としては」さんが不快な思いをされたことがこのコメントで解消されたかどうかもわかりませんが、私が思うことを書いてみました。
今後ともよろしくお願いします。
投稿: mb101bold | 2007年9月28日 (金) 18:57
丁寧な長文でのコメント、ありがとうございます。読み返してみると、かなり感情的な文章になっており、恥ずかしいことしきりです。
>私としては、「がんばれ」という言葉を発する側の気持ちとか理解が問われる問題であって
との認識は、まさに私が思っている認識です。「頑張れない時に頑張れという笑顔に追い詰められる」ということは、無いではないです。でも、声をかけた方に悪意があるわけでもない・純粋なエールであることは知っているし、通じます。ですからその応援していただく気持ちだけいただいて、プレッシャーに感じることとは切り離して考えるようにしています。
広告という面でかんがみると、私たちは不特定多数に対してメッセージを投げかけていることを、意外に忘れてしまいがちです。ともすると想定ターゲットのことしか見えなくなってしまうことが多々あります。私もそうでした。それ以外の「社会的な視点」、公的な視点も頭のどこかで考える必要もあります。ここのさじ加減は難しいと痛切に感じます。
もう一度「がんばれ」に話を戻しますと、「がんばれ」という言葉は90%はポジティブな認識です。でも、1%程度、それをネガティブな認識を持っているヒトがいる。
広告の言葉は基本的に一方通行で、何度も自分の真意を説明する機会はあまり無いです。解釈を受け手に丸投げすることも多いです。そのなかで、広告の勢いをとめずにどのような表現をするか、メッセージを作るか。
精神障害者に一律マニュアルのように「がんばれというな」のもどうかとは思います。でも、それも善意からならばうれしいです。素直な善意から「がんばれよ」と声をかけてくれるのもうれしいです。善意のatmosphereを感じられる、そんな言葉のトーン、メッセージであれば。100%のヒトが不愉快な気持ちにならない広告を作るのは、実際には難しいことも多いですね。しかし、頭のどこかにおいておくべき問題であると感じます。
取り留めの無い長文になり、申し訳ありません。mb101boldさんのブログ、今後も楽しみにしております。
投稿: 一障害者としては | 2007年9月29日 (土) 00:13
こちらこそありがとうございます。
私としては、がんばれと言うことがプレッシャーになることは知っておくべきだと思うし、その想像力は自分ももっと持つべきだと改めて思います。
また、それはプレッシャーなんだと反発できるだけの理解のある世の中になればいいと思っています。がんばれという言葉が負担になるという感情も肯定すべきだし、もっと私たちも知るべきだと思います。がんばれという言葉をタブーにしないのと同じように。
広告に関して言えば、細心の注意を払っても難しいところがありますね。できる限り想像力を働かせていきたいです。
話は変わりますが、あのエントリの話のネタになった広告は、バックアップソフトの広告で、キャッチコピーは「がんばれ、日本のバックアップ。」です。あの広告は企業のシステム担当者に向けた広告で、激務をこなして日本を支える人たちへのエールのつもりでそれなりの反響もあったのですが、それを見た何の関係もない先輩制作マンが私の陰で言った言葉なんですよね。心の中では、私への反感とかがあっての発言でしょうけどね。
なんだか結果的に、私の不出来なエントリを補完していただく結果になってしまって、何と申し上げてよいのやら。本当にありがとうございます。
投稿: mb101bold | 2007年9月29日 (土) 01:19