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2007年9月 2日 (日)

ブログをやる人、ブログをやらない人。(2)

■一億層表現者時代と言うけれど

 それは、所詮はマーケッターの企画書の言葉でしょうね。私はブログをやっているけれど、少なくとも私のまわりにブログをやってる人は、ほとんどいないし。ブログっていいもんよ、と言っても、なかなか始めそうもないですし。そういう私も、いろんな人から、ブログやってみたら、と言われたけれどやらなかったし。結局、やりはじめたきっかけはmixiをある人の紹介で始めて、これだったらブログのほうがいいかも、みたいなこと。それに、私には書きたいことがあったし。

 ブログは楽しいものではあるけれど、何かを書き続けるめんどくささが与えてくれる楽しさであるから、そんなものに一億人も参入するとは思えないんですね。生活の実感から言えば、ブログは、これくらいのユーザー比率が飽和点でしょうね。あと、ネットへの能動的な参加も。でも、携帯電話まわりでは、ここ数年はまだまだ増えるかな。

 じゃあ何をやっきになってWeb2.0という必要があるのかと言えば、そんなくらいの小さな変化が、じつは質的には大きな変化なのではないかと思うからですね。

 独我論的(私に起きた変化は、普遍的な変化であると思うような論の進め方、みたいな意味です)な感じになってしまいますが、こんな私でさえ、ネットを使い、ブログで文章を書いてしまうという変化は、小さな変化ではあるけれど、自分が実際にやってみてわかったのは、ああ、なんか世の中が本質的に変わってきたな、と感じてきたことが、なるほどねえ、こういうことだったのかも、みたいな感じがあるのですね。
 
■ブログをやらない人にとってのWeb2.0

 まわりを見てもブログをやってる人はあまりいない。けれども、そのまわりの人は、私なんかよりネットを利用してたりもします。amazonや楽天、価格.comを積極的に利用しているみたいですし、eコマースは今なお好調だと聞きますし。まあ、そのへんの人たちは、十分にWeb2.0的な空気の中で、新しい時代を生きている人と言えるわけですね。

 ネットで広告をより効率的に届けていくかという視点では、こういう大部分の人たちの行動や心理を解明することは大切です。けれども、私は、広告屋ではあるけれど、そこにはあまり興味がないんです。私が興味のある領域は、やっぱり「表現」の領域なんですね(広告屋としては失格なのかも)。じゃあ、こういうWeb2.0的な空気の中で、リアルな「表現」ってどういうものなんだろうか、というのが私の主題です。

 しかも、私が興味のある領域は、ネットという双方向的メディアでどのように面白い表現をつくっていくかということではなく、ネットを他のメディアとどのようにミックスさせていくかということでもなく、そういうWeb2.0的環境の中で「表現」のリアルはどう変わっていくのかということです。わかりやすく具体的に言えば、その環境の中で、従来からある広告の「表現」はどう変わるべきなのかということです。どういう言葉がリアルに届くのかという。

 なので、ここをもっと進めて、ブログなんて言葉も知らない、PCも使わない、うちの両親のような人たちが、このWeb2.0的な空気にどう影響されているのか、ということを考えてみたいと思います。そういう極端な設定の方がわかりやすいと思うので。
 
■結局Web2.0は世論の作られ方の話かも

 ちょっと前、納豆が空前の大ブームになったことがありましたよね。関西テレビの『発掘!あるある大事典Ⅱ』がきっかけでした。納豆でやせられるということでしたね。で、うちの母親は、大阪育ちの人間なので納豆が嫌いなはずが、毎日食べるのですね。私は、納豆が大好物なので、帰省中に毎日納豆が出ても、それはそれで都合がよかったのですが。

 しばらくして、大阪にもかかわらず、スーパーから納豆が品薄になりました。へえ、すごいもんだねと見ていると、数日後、捏造疑惑が出て、あっという間に納豆ブームは終わりました。当然、うちの母親も納豆を食べなくなりました。母親に聞いてみたんですね。「納豆はどうしたん?」すると母親はただ一言「飽きた」と。捏造疑惑のことを聞いてみても、知ってることは知ってるようでしたが、実感は飽きたということらしい。

 これ、私はすごくWeb2.0的だと思うんです。捏造疑惑から、それに関連するブログやら、2ちゃんねるの書き込みが集中し、あっという間にそのニュースを消費してしまう。そのウェブ上に蓄積された情報は、正しい間違いかかわらずある種のカオスを作ってしまう。そのカオスは、これまでの時間を凝縮してしまうんですね。

 熱しやすく醒めやすいという現象をつくる一方で、ネット上には、その経緯がしっかりとログとして残る。いま私が検索しても、その時の熱狂の様子や情報がいともたやすく手に入れることができます。それは、空気としては、PCを使わない人も影響を受けるんだと思うんですね。つまり、いま世論はこういうふうにして作られる、いわば「身も蓋もない」状況なのだと思います。

 そういう状況で成り立ちにくくなるのは「物語」だと思います。少なくとも80年代は「広告」という「物語」を作り出す表現機械は、時代の中で機能していました。でも、こういう状況の中で「広告」という機械は、そもそも「物語」を作り出すものではないことが「身も蓋もなく」ばれてしまったように思うのですね。
 
■ロラン・バルトが『表徴の帝国』と呼んだ日本の今

 80年代的な記号論の文脈で言えば、「広告」が脱構築的にその役割を超えていく中で、広告のメッセージは、その役割を超えて時代の「物語」をつくっていくはずでした。ロラン・バルトは日本を『表徴の帝国』などと言う格好いい言葉で呼んだりしました。それは、別に日本だけのお家芸ではなく、世界的兆候でもあったからこそ、それが日本という極東の先進国に顕在化してたからこそ、ああいう書物を書いたのでしょう。(まあ、彼にとって、当時日本が大きな市場であったという身も蓋もない言い方も可能ですが。)

 あれから20年以上経って、ウェブというテクノロジーは、そういう「物語」を生み出すブラックボックスを木っ端みじんに、それこそ「身も蓋もなく」壊していきました。その中で、例えば、私が手にしたのは、ブログというパーソナルパブリッシングツールであったり、東京の大規模書店でなくても希少本が手に入るamazonだったり、図書館に行かずとも情報が手に入るwikipediaだったり、たくさんの店を見て回らなくても最安値でモノが買える価格.comだったりしました。

 こういう便利だけど「身も蓋もない」時代の中で、表現のリアルはどこにあるんだろうか、みたいなことが、広告クリエーターとしての大きな主題だったりするんですね。日々の仕事の中で、会社のためにお金を稼ぎつつ、その一方で、明日への希望を夢見つつ、なんとか踏ん張って新しい表現を見つけていきたい、というのが私の日常だったりします。

 で、結局、答はどうなのよ、というと、あんまりようわからんなあ、という感じだったりします。広告業界の中にも、そのへんの答を持ってる人もいないような気がします。だけど、この「身も蓋もない」時代に、確実に新しい価値はつくられている実感もあるにはあるし、私はその新しい価値は、肯定されるべき価値だと思います。でも、その価値は、もしかすると、文化としての「広告」をそれこそ「身も蓋もなく」壊していくのかもしれません。なんか「身も蓋もない」結論になってしまいましたね。(同業のみなさま、投げやりにならずに、お互い頑張りましょうね。)

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コメント

はじめまして。
毎回ブログをチェックさせてもらっている者です。

「身も蓋もない」時代という表現、すごく分かります。
「ブログとかSNSが流行ってきてから、日記なんかに自分の日々の生活を書く人が増えて、昔なら自分の過去を美談にすることがきていたのにそれが出来なくなる人が増えてくる」なんてことをどこかで聞いたことがありましたが、今回のブログで書かれていた内容を読んでそのことを思い出しました。

投稿: マサキ | 2007年9月 2日 (日) 23:15

マサキさん、はじめまして。

なるほどそうかもしれませんねえ。昔だったら、時がたって素敵な思い出になっていたものが、ブログとかに書いたことで消費しきってしまうのかもしれません。それに、その時点での思いが公開ログとして残るから、あとから時が経つことで生まれるはずだった物語が、生まれにくくなるのかもしれません。忘れることとか、後から意味付けすることとかも人生にとっては大事なことなのに、それを公開ログが拒むというか。そうですね、個々の生活や人生にとっても物語がつくりにくい時代なのかもしれません。

投稿: mb101bold | 2007年9月 3日 (月) 01:01

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