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2007年10月の24件の記事

2007年10月31日 (水)

「たかがブログ」と書かれたコインの裏側には、「されどブログ」という言葉が書いてありました。

 かつて私は「たかがブログじゃないですか。」(参照)というエントリを書きました。そんな私が言うのも何ですが、「されどブログ」でもあるんだよなあ、と今じみじみ思うんですよね。私は、やると決めたらひつこいところがあって、どれだけ疲れていてもとりあえず何かが見えるまでは、ほぼ毎日書いていこうと考えているので、期間はまだまだ短いけれど、このエントリで約150のエントリを書き散らしているんですよね。まあ、自分で言うのも何ですが、折れない心といいますか、自分でもちょっと感心するところがあります。よく飽きずに続くもんだなあ、なんて。

 されどブログという意味では、ブログを始めて変わったなあ、と思うことも確かにあるんですよね。まずは、酒量が減った、なんてのは冗談ですが、ちょっとこの点にも言及しとくと、本業の時間を削るわけには絶対にいかないので、そうなるとお酒とかを減らすしかないんですね。お酒を飲んで愚痴を言ってる暇があったらブログを書こうという気になるんです。これ、意外だけど、本当のこと。健康にブログはおすすめ、ですよ。

 それと関連することかも知れませんが、愚痴を言わなくなったんですね。しょこたんこと中川翔子さんが「それがブログを始めて楽しいことばっかり書くようになったら、実際に楽しいことしか見えなくなって、ブログで本当に変わった部分があるんですよ。」とインタビュー(参照)で答えていましたが、そうだなあと思います。そりゃ、日常ではやなこともいっぱいありますよ。でも、それを愚痴っていても現実は何も変わらないですものね。だから私は「愚痴」という名のブログを書くようになりました。

 それに私の場合、ブログにマーケティングを入れないようにしたんですね。広告ブログっぽいタイトルですが、基本的には何でもあり。これ、広告ではやっちゃいけないことなんですよね。認知の速度が落ちますし、結局何よ、というのが見えにくくなるんです。テーマを絞る。これが基本ですよね。でも、私の場合、ブログは、基本的に書きたいことをなんでも書こうと思ったんです。商売でやってるわけではないしね。そうじゃないと続かない気がしたから。

 でも、ここで問題が。私のエントリのスタイルは、いわゆるコラム指向なんですね。特にココログの方は。それは私が広告制作を仕事にしているからだと思いますが。要するに、それ以外の書き方がわからないんです。(後から始めたはてなの方はもうちょっと日記というかメモというか、そんなスタイルですが。慣れてきたからね。)そうなると、毎日、いろいろ考えないといけなくなるわけです。広告のことだけじゃ、書けなくなるんですね。それがよかった。本当にいろいろ考えるようになった。そうなると自分の世界がぐぐっと広がるんです。あっ、そうか、こういう見方があったなあ、なんて、日常の世界が少し違って見えるようになりました。

 それと、これがいちばん大きなこと。ウェブの世界は、基本的に思考にリミッターがないんですよね。速度制限がないんです。学生の時、それなりに現代思想キッズでした。フーコーやら、マルクスやら、フロイドやら、吉本隆明やら、そんな話を安アパートで一晩中語り合うみたいな。社会に出て、そんな話が通じる人がまわりにいなくなって、基本的にはそんな話は煙たがられるから、いつしかその手の話は避けるようになったんです。でも、ウェブの世界はそんな感じではなかった。私なんかより、語って語って語りまくる人たちがいる。それは、私にとって希望に見えました。

 ちょっと勇気を出して、昔から愛読していたfinalventさんのブログにコメントをしたりしたら、真剣にコメントに向き合っていただいて、その上、新しい視点までいただいたりして、大阪人だから、感謝の気持ちを素直に述べるのは得意じゃないんですが、そういう大人というか先輩がこの世界の中にいることが、すごく驚きだったし、世の中とか人生とかも捨てたものじゃないと思ったんです。なんか生な話ですが、加工も調理もせずに日々のログとして、このことは照れずに書いておきたいと思います。この価値観は、ウェブの先輩方が長い時間をかけてつくってきた価値観だと思うんですね。その恩恵は、やっぱり計り知れないんです。ウェブの世界では当たり前のことでも、また半年くらいの新規参入組の私には、すごい驚きなんですね。(それと、ブログのコメント機能はやっぱりまだまだ敷居が高いですね。なかなか慣れないです。)

 Web2.0とかフラット化とか言いますよね。それは、良く言えば、人の思考に対する敬意なんだと思うんですね。そのフラット化は、私の日常にも影響を与えています。思考に対する敬意でもって、人に対していきたいと思うようになってきたんです。はっきり言って年齢や経歴、肩書きは関係ない。あるとすれば、その思考を規定するバックボーンとして存在するだけ。それだけのこと。梅田望夫さんみたいですが、それは本当にそうですね。簡単なことだけど、思考を重ねている人は刺激的なんです。触発されるんです。今夜、そんな刺激的な方とお会いしました。その思考への敬意の前では、基本的には人はフラットなんですよね。問われるとすれば、思考の質です。そして、真剣な思考の質から立ち現れてくるのは、格差ではなく、個性であるのだと思います。というか思いたいです。

 そのウェブがもたらした新しい価値は、ウェブだけのものではなく、日常のリアルな社会にも影響を与えているような気がします。逆説的に言えば、ウェブをリアルと隔絶した限定した世界と規定すると、フラット化とかの価値は失われるような気がしています。Web2.0批判の論拠はすべてそれですよね。ウェブが現実とは違うアナザーワールドであることと同時に、ウェブが大衆化した新しい時代においては、リアルとウェブの境目がなくなってくるのは必然であるような気がしています。

 まだウェブの現状は、その段階ではないかもしれないけれど、私にはそこへ至る過渡期であるような気がするのです。まだ答えは出せないけれど、ウェブ広告のこれからは、その認識の中にあるような気がしています。その答の道筋は、きっと、コミュニケーションの仕組みも含めた広義の表現の問題に帰結するはずです。そして、その表現のブレイクスルーは、地味な話ですが、意外にテキストバナーのようなありふれた日常のウェブ広告の表現の変化であるような気がします。その地味な変化こそが本当の変化で、その地味だけど大きな変化を規定するのは、その表現が乗る場が規定するのだと思うんですね。マルクスの言う、上部構造は下部構造が規定するというテーゼはまだ有効だと思います。ウェブをひとつの世界と見るにしても、その世界の構造は、さまざまな「場」がつながっている、網目として捉えないといけないんじゃないか、と思うんです。

 mb101boldというこのブログを書いている人は、現実の世界で、激烈な納期の前であたふたし、中小代理店の存在意義ってあるのかなあ、と悩む「ある広告人」であり、最近、お髭に白髪が目立つ冴えない生活者です。ウェブの世界の人ではありません。そのへたれなおっさんの思考を、私は、リミットをかけずに日々のログとしてウェブに残していきたいと思います。

 

●追記(08年1月18日):なんかこのエントリにアクセスがあるなあ、なんでだろうと思ったら、ニュースサイト「駄文にゅうす」のfrom Eさんが取り上げてくださっていたようです。ブログの書き手としては、過去のエントリを取り上げてくださったことは、とてもうれしく、本当にありがとうございました。で、自分でも読んでみて、そうだなあ、こんなこと考えていたんだなあ、なんて思いました。コメント欄を読んでいて、自分でもあれっ、この新しいエントリって何だろうと思いましたので、そのエントリをリンクしておきます。
→「場・表現・インタラクション」ちょっと消化しきれていない感があるエントリですが、このエントリで書いていることは、いまだに日々考え続けています。もしよろしければ、コメント欄とあわせてご覧くださいませ。

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2007年10月29日 (月)

「モーニング娘。」が私に教えてくれたこと。

 ちょっと古い話題ですが、モーニング娘。が今年で10周年だそうです。「モーニング娘。10周年記念隊」とかも企画されたりしてましたよね。確か、テレビ東京の「ASAYAN」のオーディションから生まれたユニットでしたよね。早いものですねえ。もう10年ですよ。私も、髭に白髪が生えてくるわけだ。

 このグループ、ブレイクのきっかけは『LOVEマシーン』とされているようですが、私が強烈に印象に残ってる曲は『Memory 青春の光』という曲です。FMラジオを聴いていると、突然流れてきたんですね。「えっ、このハーモニー、何?」と思いました。アイドルの曲のレベルを超えてるんです。作曲のことはよくわかりませんが、きっとめちゃめちゃ難解で複雑な和声を使ってるはずです。しかも冒頭から。「♪〜ひとりぼっちがさみしいなんて」のとこなんか、ゾクッときますよね。サビの部分なんか、CDでよく聴くと、5声くらい重なってるんじゃないでしょうか。不思議な旋律のファルセットとか、アイドルなのに、急にブレイクがあってピアノと声だけで勝負する部分をつくるとか、とにかくもう、つんく♂さん、やりたい放題ですよね。レコーディング、すごい時間をかけてると思います。メンバーも旋律覚えるだけでも大変ですよね。

 安倍なつみさんがリードですね。この頃は、なっちのためのグループっぽい印象もありました。この人の声、それほど個性があるわけではないと思います。いわゆる女の子っぽい甘ったるい鼻にかかった声。それが逆にリアルだったりするんですけど。で、私がすごいなあと思うのは、なっちの声とか歌い方にみんなが合わせる感じがあるとこなんですね。だから、和声がすごくいい感じでハモるんですよね。ひとつひとつはそれほど際立ってないけれど、それが精密に合わさることで、いままでなかった質が出現する、みたいな感じです。音楽的には、徹底的に「丁寧」に作るということなんでしょうね。これ以降のすべての曲がそういう作り方になっています。『真夏の光線』なんかも、さりげなく高度なことをやってますよね。

 私は、個人的にはこの『Memory 青春の光』によって、モーニング娘。は新しい何者かになったと思っています。ひとつひとつを丁寧に重ね合わせていって、ある閾値を超えると何か別の質が出現する、みたいなことです。このグループ自体もそうですよね。ファンの方には異論はおありでしょうが、まあ、ひとりひとりは普通にかわいい女の子たちですよね。それが一人、二人、三人と集まって、ある閾値を超えると別の質が生まれる、みたいな感じですよね。きっと、足し算じゃないんですよね。でも、掛け算でもない。というか、ある閾値を超えないと掛け算にならないという感じ。その閾値はどこにあるのか、という問題はあるのですが、ある閾値を超えると、とんでもない何かが生まれるんですよね。そうして生まれた何かによって、なっちだけでなく、例えば、市井さんとかも魅力的に変わっていく、みたいな、新しくできた場による人間の変化がありました。

 この、ある閾値を超えることで新しい別の質が生み出されること、あるいはその方法論を、私は「モーニング娘。理論」と呼んでいます。結構たくさんのプレゼンで真顔で話してきました。ある一定期間を走らせるキャンペーンの場合、一発大きく出していく方法もあるけれど、小さいものをたくさん、しかもある共通のフレームの中で、丁寧につくった数多くの表現を出していくほうがいい場合もあるような気がします。ある閾値というのがどこにあるかはケースバイケースですが、その閾値を超えたとき、思いもしない価値が生まれることがあるような気がします。特に、私が日常やっているような圧倒的な物量では戦えない場合なんかは、逆説的な言い方ですが、すごく有効な気がします。

 ていうかね、圧倒的な物量とか、圧倒的なクオリティとか、圧倒的な政治力とか、圧倒的な流通力とか、そういうスペシャルなものとか、天賦の才能とか、そういう恵まれたものを前提にできない普通の広告屋にとって、モーニング娘。というプロジェクトはすごく勇気を与えてくれるものだったんですよね。それは、きっと、モーニング娘。がアイドル市場でそうだったからでしょうけど。つまり、圧倒的に優れたタレント(才能)を持つ、持てる者に対する、普通のタレント(才能)しか持たない、持たざる者のやり方というか、戦い方というかね。だからこそ、日曜のこんな時間にまだ仕事してるわけですわ。持たざる者は、時間かけるしかないやんか。ああ、しんど。

 

追記(10月28日23時35分):
 なんか「ゴマキ、ハロプロ卒業」という話題が世間を賑わしているようですね。私、こんなエントリを書いておきながらあまりモー娘。のことを知らないもので、ココログの瞬ワード経由のリファラを見て気付きました。ある量の閾値を超えると質の変化が起こるということではあるけれど、その先にも、もうひとつの閾値があるような気が、モーニング娘。とかハロプロを見ていて思います。
 質の高い音楽エンターテイメントをつくるという目的を達成するために集まった女の子たちの集団であるモーニング娘。が、いつのまにかモーニング娘。であり続けるということが目的になる、というようないわゆる「自己目的化」みたいなこと。これを避けるのは難しい。本当はそんなことはどうでもいいことなんですけどね。広告とはかくあるべし、とか、ブログとはかくあるべし、とか、ね。まあ、ゴマキさんはタレントのある人だから、卒業の時期なのかもしれませんが。
 余談ですけど、若槻千夏さんがゴマキさんの大ファンでしたね。しょこたんさんは、松田聖子さんの大ファン。ああいう女の子が女性アイドルに憧れる感じは、なんだか好ましいですねえ。なんでそう思うのかはわかりませんが。ギザ好ましすなあ、という感じです。

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2007年10月28日 (日)

『永遠の三角形 Bill Evans Trioの音楽』ノート(10)

 ビル・エバンス・トリオの音楽を「三項関係の音楽」ととらえようとするのが本稿の狙いなのですが、ピアノトリオに限定して話をすすめると、大きく二つに分けられるのは、これまで話した通りです。つまり、リーダーであるピアニストとリズムセクションであるベース、ドラムの「二項関係」と、ピアノ、ベース、ドラムがそれぞれ対等な「三項関係」です。

 で、この「三項関係」は、力関係が対等な場合、正三角形を描くと思いますが、必ずしもビル・エバンス・トリオはそうではありません。これは、ビル・エバンスという音楽家の全生涯を俯瞰できるリスナーという特権的な立場だからこそ言えることですが、それぞれの時期で三点は様々な力関係を示していように思えます。初期と晩期ではまったく違うように私には思えます。では、やはりビル・エバンス・トリオは「二項関係」を超えるものではなかったのか。私は、そうではないと考えます。

2007y10m28d_211255421  要するに、「三項関係」を指向するということとは、三点を円周上に規定し、その三転が絶えず動き続ける「運動」なのではないかな、と思うんですね。なんとなく上手く言えていない気がしますが。図にするとこういうイメージでしょうか。理想として想定される正三角形は、「運動」におけるほんの一瞬でしかなく、もしかするとそれは、仮想される理想にすぎないのではないか、と考えます。また、「三項関係」であり続けるには、三点が絶えず互いの位置を注視しつつ動き続ける必要があり、動きを止めるとき、それは「二項関係」に収斂してしまう、そんな緊張感のある関係です。

 根本的に考えれば、三項というのは平面を構成する最小単位であり、これを私は、社会的関係を構成する最小単位でもあるのではないかと思うのですね。そして、この社会的関係(ほんとは関係と言い切ってしまいたいのですが)は、絶えず二項関係になりたがる。動きを止めたとき、すぐに平面=社会的関係ではない別の何か、それを、第三項排除理論では「暴力」なのでしょうが、そういうものに転化してしまうのではないかと思うのです。平面=社会的関係が、我々の日常であるとすれば、その平面性の破壊こそが、暴力のメカニズムであり、その暴力性というものは、ある意味権威でもあるので、見方を変えれば非常に安定感のあるものでもあるのでしょう。それは、もしかすると、いちばん居心地のいい世界であるのかもしれません。

 ジャズという芸術の過程において、ビル・エバンス・は、明らかに伝統とか権威の破壊者ではあったと思います。しかしながら、それは、所謂フリージャズムーブメントのように、モードジャズムーブメントのように、あるいはエレクトリックジャズムーブメントのように、あからさまな破壊のあり方ではありません。西洋音楽理論及びジャズ理論の延長線上にあり、しかも、その音楽は、スタンダード曲の解釈というジャズの伝統に則っています。しかし、そのビル・エバンス・トリオの目指す音楽の態度は、これまでの伝統とか権威を内部から徹底的に破壊するものであったと私は思います。

 その革命の精神は、キース・ジャレットというピアニストによって見事に継承されているような気がします。そして、正三角形への希求の強度は、私から見ると、キース・ジャレットの方が数段強く、もしかするとそれ以上は、人間の精神では限界ではないかと思うほどです。ジャック・ディジョネット、ゲーリー・ピーコックというエバンス共演者とともにするトリオが、キース・ジャレット・トリオではなく「Standards」であることからも、それは読み取ることができるような気がします。

Bill Evans Trio  Autumn Leaves
STANDARDS Autumn leaves

■『永遠の三角形 Bill Evans Trioの音楽』ノート
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2007年10月26日 (金)

『永遠の三角形 Bill Evans Trioの音楽』ノート(9)

 『永遠の三角形 Bill Evans Trioの音楽』ノートをしばらく書いていませんでした。いろいろ混乱することも多く、思い描くビジョンに迫れないでいます。簡単に言えば、ハードバップ全盛の頃は、たとえそれがピアノトリオであっても、ピアニストというリーダーを頂点とする二等辺三角形にすぎなくて、完全に三点が等価な三角形ではなかった。しかし、ビルエバンスというピアニストは、完全な三角形を目指し、自身のピアノトリオ芸術を完成させようとした。それは、しばしば、インタープレイと呼ばれるものである。で、ビル・エバンスが完全な三角形を、ジャズにおいて初めて完成させたと言いたいところなのだが、根源的に考えた場合に、そもそも完全な三角形は本当に可能なのだろうか、という問題意識とともに、ビルエバンスの生涯の芸術の詳細な記述により、ビル・エバンスの芸術の本質とともに、第三項排除という理論に見られるような、二項関係による暴力の発生メカニズムを超える、緊張感のある三項関係の新たなる評価をしてみたい、みたいなことなのですが、書いている本人もわかったようなわからないような感じで、ここ20年間もやもやしっぱなしです。

2007y10m26d_203209152_2  図にするとこんな感じですかね。バド・パウエル・トリオの場合は図1のような感じになります。天才ピアニストであるバド・パウエルについていくことができる凄腕リズムセクションという感じです。これは聴いていただくとすぐに分かると思います。YouTubeから引用しますので、聴いてみてください。
Bud Powell - Shaw Nuff
 しかし、すごい時代になりましたね。著作権上の問題はあるかと思いますが、こういう感じで文章は今まで絶対に書けなかったですから。こうして引用することがいいことがどうかはグレーですが、私はこうしたことでまたバドを知らない人がCDを買ってくれるきっかけになると信じて、引用しています。

2007y10m26d_205423994  一方、ビル・エバンス・トリオの場合は図2のようなイメージです。もっとも、これはビル・エバンスがこの図のようなことを目指したということで、それが完全な形で実現できたかどうかは神のみぞ知るという立場が、この『永遠の三角形』の立場ですが。この図のベースをエディ・ゴメスに、ドラムをジャック・ディジョネットにしたのは、私は、この三点が等価な三角形が奇跡的に成立したのが、このトリオのたった1枚だけの音源『モントルージャズフェスティバルのビルエバンス』だけだと考えているからです。残念ながら、このトリオでの映像はYouTubeにはありません。しかし、エディ・ゴメスの演奏する映像はありますので、引用します。なんとなくイメージはつかめるかと思います。
BILL EVANS TRIO LIVE IN OSLO 1966 - VERY EARLY
 この「Very Early」はエバンス作。エバンスの曲は、わりとメロディが難しい曲が多いのですが、この曲と有名な「Waltz for Debby」だけは別格で、非常に難解なコード進行でありながら、メロディが親しみやすく美しいですね。「All The Things You Are」と同じ5度下降進行で、こちらは3拍子になっています。ちなみに4度上昇進行は「Autumn Leaves=枯葉」が有名で、様々な曲に使われています。(とここまで書いて、これでよかったでしたっけ?)で、もう一曲。非常に美しいスタンダード曲です。エバンスのステラは珍しいですね。エバンスだと、マイルスのリーダーアルバムが有名ですね。
Bill Evans Trio - Oslo '66 - Stella By Starlight
 しかし、美しいですね。出だしのヴォイシングなどは、どう言ったらいいんでしょうか。ゴメスのベースも、いいですね。この頃のエバンスは、まだ穏やかなピアノソロを弾いていて、あのラファロ、モチアンの時期を彷彿させます。

 このエディ・ゴメスとの時代は、じつは、エバンスとゴメスのデュオと、ドラマーという二項関係的な傾向が強く、ゴメス時代の晩期のアルバム「モントルーⅢ」では、ついにデュオの演奏になってしまいます。その中で、今ではキース・ジャレットのStandarsで有名なジャック・ディジョネットとのトリオだけは、少し違うのです。少しでも気を緩めるとすぐに崩壊してしまいそうな緊張感の中、奇跡的に完全な三角形の「永遠」が垣間見えたような気が私にはするのです。鑑賞音楽としては、多少饒舌で、緊張感がありすぎるきらいがありますが。

 この『永遠の三角形』を読んでいただいている方には、もう耳にタコみたいな話かもしれませんが、有名なラファロ、モチアンとのトリオは、ゴメス時代とは逆に、モチアンをリーダーシップ(まとめ役)にした二項関係のような気がします。モチアンがドラム、チャック・イスラエルがベースの「Blue in Green」。すごくレアな映像です。ラファロではないですが、モチアンがまとめるトリオであることが少し分かるかもしれません。
Bill Evans Trio ( Rare ) 1962 'Blue in green'
 ドラムを中心に聴いてみると、また違った角度でエバンストリオを楽しめるかもしれません。で、今のモチアンです。彼は、自己のバンドではピアノレスなんですよね。自分の頭の中では、いつもビルのピアノが響いているから、と言っていたのを覚えています。
Paul Motian Eletric Bebop Band, Brasil 2002
 なんとなく、ビル・エバンス・トリオの匂いがしますよね。本質的な意味でのエバンスの継承者は、ポール・モチアンではないだろうか、という気もするんですね。

 最後に、エバンスの最後のトリオ。エバンスは、このマーク・ジョンソンがベース、ジョー・ラバーバラがドラムのトリオのことを、ラファロ、モチアンのトリオを超える最高のトリオであると言っていました。確かに、非常に素晴らしく感動的な演奏には違いありません。エバンスは、この時期、「The Days of Wine and Roses=酒とバラの日々」を好んで演奏していました。たぶん、自分の死期を悟っていたのでしょう。肝臓がほとんど限界だったそうです。最期の演奏では、指が腫れあがり、ほとんどピアノが弾ける状態ではなかったそうです。
 エバンスの言葉を信じるならば、彼が追い続けた「永遠の三角形」は、この映像にあるはずです。しかし、私には、若い2人と、若い演奏家を見守るジャズの巨人であるビル・エバンスの二項関係にどうしても思えるのです。第三項排除の理論を借りて言えば、エバンスを敬愛する若き演奏家が、尊敬、敬愛といった美しい人間の感情によって、エバンスを排除したというか。少し意地悪な表現ではありますが、別にネガティブな意味ではなく、そうして特別な者として愛するという行為は、それは一面ではいい意味の排除であるはずです。そういう風な排除という行為こそが、尊敬という行為の構造なのではないでしょうか。
Bill Evans Trio - The Days of Wine and Roses
 幸せそうなエバンスの表情と走るピアノのメロディ。疾走感があるんです。猛スピードで自分の死へ向かって走るエバンスを、若い二人が必死になって追いかけているかのようです。もうこの頃のエバンスは、若い頃のように、まるでピアノと同化するかのような前傾姿勢はとっていません。悟りというものがあるとすれば、悟りの後の明るさとはこのようなものではないか、と思います。そして、エバンスは、これが「永遠の三角形」であると思っている。しかし、それはもしかすると「永遠の誤解」かもしれない。私は、そこに芸術の底知れない残酷さと美しさがあると思っています。

■『永遠の三角形 Bill Evans Trioの音楽』ノート
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2007年10月24日 (水)

ところで、iPhoneはどうなんだろう。

F12ae2f81   私はW-ZERO3[es]ユーザなので、どうしてもW-ZERO3[es]をひいき目に見てしまうのですが、やっぱりiPhoneは気になります。アメリカでの販売の時は、ちょっとしたニュースになりましたよね。Apple的には久しぶりだったんじゃないでしょうか。

 まったく旬の話題ではないけど、iPhoneブームも沈静化してきたので、このあたりで感想など。デザインは、やっぱり抜群ですね。ものすごく惹かれます。あのデザインが[es]にあればなあ、と思います。やっぱり、[es]もアドエスも無骨ですよね。あれはあれでThink Pad的で嫌いではないですけどね。この部分は、[es]の完敗ですね。残念ながら。それと、すごいなあと思ったのは、横にしたら画面が横になるとか、2本の指で画面を開くようなジェスチャーをすると、画面が拡大される、みたいなギミックはキャッチーでしたね。技術的には、最新のセンサとか、これまでの技術でなんとかなりそうな技術ではあるのでしょうが、あれはインパクトがあったなあ。ああいうマーケティングセンスは、やっぱりAppleの独壇場でしょうね。

 ただ、思うに、ああいうギミックって、実際に使ってみて、本当に便利なのかどうかは微妙だなあと思います。画面を横にしたいときって、必ずしも実機を物理的に横に傾けて持つとは限りませんし、液晶画面のタッチセンサーによる指ジェスチャーにしても、せっかくの液晶が指の脂でギトギトになるんじゃないかなあ、なんて余計なことを考えてしまいます。

Wzero31_2Iphoneeatupmartha1  [es]を使ってみてわかるのですが、あの手のスマートフォンって、ボタンは多い方が使いやすいんですよね。いろいろなアプリを登録できるし、このブログでも言ってますが、[es]がいいなと思うところは、ケータイライクに片手操作でパソコンに近い機能が使えるというところなんですよね。究極、スタイラス不要みたいな。その点では、iPhoneは基本両手を使うような感じに設計されてますよね。あれは、もしかすると、見た目の進歩性とは裏腹に退化ではないかな、なんて思います。どうなんでしょう、そのへん。

 なんとなく、Appleのワンボタンマウスを思い出すんですよね。右クリックがあった方がマウスは使いやすいですよね。私はマックユーザですが、ずいぶん昔からマウスはWindows用を使っていて、右クリックにコマンドQを割り当てて使っています。スクロールリングをつけるのもAppleは遅かったし、というか、appleのは小さなチョボですが。ちょっとそういうところ、Appleは意固地なところがあるような気がしますね。デザインはいいんだけど、なんとなく人間の必要の上にデザインが君臨するみたいな感じがします。海原雄山も言ってますよね。美食が人間の上に君臨することは許されない、と。

 それとね、液晶のタッチセンサー。あれはどうなんでしょう。主流になるのでしょうか。QWERTYキーボードも結局はいまだに物理的なフィーリング重視ですよね。押すと、カチッと押した感がある、みたいなね。たまたま電子部品関係のお仕事をお手伝いしてることもあって、スイッチ類のトレンドを知っているのですが、やっぱり小型化、薄型化でも、そこで勝負になるのは、そのサイズで物理的なクリック感をどう出していくか、なんですよね。昔、カード型の電卓がありましたけど、あれがいまいち流行らなかったのは、物理的なクリック感がないと、どうしても操作感が著しく低下するからということに理由があるような。このへんは、物作りの現場の方に聞きたいところです。

Dp2121_2   昔も、J-PHONEで、前面液晶の液晶タッチセンサーのケータイがありましたけど、いまいち主流にはなりませんでしたしね。タブレットPCも、なかなか浸透しないし。テレビのリモコンも、いまだに物理的なボタンであるという事実は、けっこう重いような気がします。

 私がこのブログで[es]のことを書いているのは、使っているうちに、あ、こういうスマートフォンは、ケータイの操作感で多機能を実現みたいなことが本質なんだなあ、という気がしたからなんですね。日本市場では、という保留は付きますが、単に小型化というだけではないんだなあ、と。私は、なんでも本質を外したものはどれだけキャッチーで素晴らしいものでも、普及しないんじゃないかな、と思っているんですよね。それが正しければiPhoneは日本ではしんどい、という気がするんですが、どうなんでしょうね。

 ちょっとタイムマシンに乗って、それを確かめたい気がします。もしかすると、このブログで「iPhone礼賛」というエントリを書いてる私がいて、「お前さあ、前にiPhoneはしんどいって言ってたやんけ」と未来の私にツッコミを入れている私がいるかもしれませんが。どうなんでしょうね。

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2007年10月21日 (日)

「死」のイメージがどこかに隠されていると、広告はヒットする。

 まあ、これはたわごとだと思ってください。だから何、という話なので。

 ヒット広告の中には、ある種の共通性があって、そのひとつは「死」のイメージだったりするのよう気がします。前回のエントリで取り上げた東京ガスのCMにも、それがありますよね。歴史によって死を運命付けられた信長が、ガスパッチョな楽しい現代の生活と別れを告げるときに「達者でな」と言うんですよね。私、あのCMを見て、ゾクッとしました。

 フロイドの精神分析などを借りると、一応、エロス/タナトスみたいな説明はつけられると思いますけど、とりわけに日本の場合は、その死のイメージを想起させる広告が多いような気がするんですね。これは、欧米に比べ、日本が感覚的なコミュニケーションが好まれるからのような気がします。欧米は、かなり知的な説得が好まれるような気がします。これは、欧米のCMが長尺が多く、日本は30および15秒の短尺が中心であることにも起因していそうですが、それだけではない国民性による傾向があるような気がします。欧米の広告代理店のクリエイティブディレクターは、世界各国で活躍して成功を収めますが、なぜか、日本、そして韓国だけは成功できないそうです。

 ダイキンエアコン「うるうとさらら」のCMはご存知ですよね。キャラクターの「ぴちょんくん」は大人気ですね。あのキャラクターが人気になった理由は、あの愛くるしいビジュアルだけではないような気がします。デビューのときのCMで、コマソンが使われていました。その中の歌詞で「♪もとめられて~捨てられて~ああ、どうにでもして~」とあったんですが、そこに死のイメージが見え隠れするのです。ぴちょんくんがエアコンに吸い込まれて消えていく映像が使われていました。明るく楽しい音楽に、無常にも「いらないもの」とされてしまうぴちょんくん。あのCMはまず子供が反応するような気がします。死のイメージにもっとも敏感に反応するのは子供だと思います。

 CMではないけれど、元CMプランナーの佐藤雅彦さんがつくった「だんご3兄弟」もそうです。「♪串にささって団子!」とか「こんど生まれてくるときは~」とか「♪うっかりねすごし朝が来てかたくなりました」とかね。こっちは、ものすごくわかりやすい死のイメージです。最初、NHKか何かで聞いたとき、うわっ、すごく残酷な歌と思いました(だから駄目って話ではなくてね)。たぶん、そういう死のイメージが表現されているからこそ、子供が子供だましだと感じずに心の底からあの歌を愛せるんだと思うんですよね。

 その「だんご3兄弟」とよく比較される歌。子門真人さんが歌った「およげ!たいやきくん」という歌をご存知ですか。私の世代だと、みんな知っている大ヒット曲です。この歌にも、強烈に死のイメージがあります。あの曲の結末は、「♪やっぱりぼくはタイヤキさ すこしこげあるタイヤキさ おじさんつばをのみこんで ぼくをうまそにたべたのさ」なんですよね。私は、子供ながらに、なんともいえない複雑な気持ちになったりしました。だから怖い、というのではなく、なんと言えばいいのかわかりませんが、楽しいんだけれど、心に得体の知れない何かが残るというのか。

 私が日本のテレビCMで最も好きな作品のひとつ「たかの友梨ビューティークリニック」の「ココロのうさぎ」。篠原ともえがうさぎの妖精に扮して女の子を「ホントはキレイなんだから」と励ます広告です。あのうさぎの妖精も、女の子がきれいになることで消えてしまうことを運命付けられた存在ですよね。あのCMシリーズの最終話も、うさぎは消えてしまいました。もし、見る機会があれば一度ご覧になってください。いい広告だと思います。

 もちろん死のイメージが内包されていなければ広告はヒットしないか、というとそうでもないとは思うのですが、ある種のヒット作には死のイメージは確実に内包されているような気がします。私は、このようなことを考えるとき、昔体験した出来事を思い出すのですね。それは、アニメ映画「銀河鉄道の夜」を見に行ったときのこと。あの映画は非常に難解ですよね。大人が見ると、もしかすると混乱してしまうんじゃないかと思うほど。アニメだから、映画館は子供でいっぱいなんですよね。最初は、けっこうおしゃべりをしていた子供たちが、映画が進むにしたがって、館内が静かになるんですよね。そして、ちらほら子供たちの泣く声が。あの難解な映画を、子供たちはしっかりと受け止めているんです。死のイメージが隠されているとヒットする。その鍵は、子供の持つ感受性に関係があるのかもしれないな、と私は思っています。

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2007年10月20日 (土)

すごいテレビCMを見ました。

 東京ガスの「ガスパッチョ」のテレビCMシリーズで、今回は織田信長篇。いつものパターンで、歴史上の人物である織田信長が現代の部屋にやってくるという設定。
 現代の「ガスパッチョ」な生活を思い切り楽しんだ織田信長が「そろそろ本能寺に戻るよ」と。すると部屋の住民である若者が「それは、戻らないほうがよろしいかと‥」で、織田信長が微笑んで「じゃあな。これやるよ」と印籠を渡す。その印籠には若者と一緒に撮ったプリクラが貼ってある。若者はプリクラが貼られた印籠を手にして「信長さん‥」と信長を見送る。そういうストーリー。
 CMを見た後、ちょっと泣きそうになって、そのあと、同業の端くれとして激しく嫉妬。素晴らしい。あんな広告をつくれたら、と思う。ここんとこ広告の未来に悲観的になっていたけど、これで少し吹き飛んだ。時代は動く。きっとよい方向に。過去に戻って運命通り死んでいく信長に恥じないよう、がんばっていかないと。

「ピピッとコンロ・信長本能寺篇」2007y10m21d_170948550

 

 

 

 
関連エントリ
『「死」のイメージがどこかに隠されていると、広告はヒットする。』

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2007年10月18日 (木)

「インターネットは広告でできている」という仮説。

 新聞は広告である、という仮説で考えると、今の新聞、つまりジャーナリズムの状況がより分かりやすく見えてくる、ということを前に書きました。(参照:「新聞のゆくえ。広告のゆくえ。」)たぶん、それは仮説ではなくて、事実だろうと思うのですが、つまるところ、広告が効かなくなるという現象は、ジャーナリズムを支える収益構造が崩れることを意味していて、それはジャーナリズムの存立基盤を失うということを意味しているのですよね。個々人のモラルの問題がよくジャーナリズムの崩壊まわりの話題で語られるけれども、それと同じように、いやもしかするとそれ以上に重要なのが、この視点だと、私は考えます。人間なんてものは、どの時代もそう変わるものじゃないという立場で考えると、じつは個々人のモラルの問題は、たいした問題ではないともいえます。そんなに個々人ではモラルが下がりはしない。けれども、そうそう変わるものではない人間が唯一大きく変わるとすると、それは、その人間を支える基盤が変わることだと思います。そういう意味において、私は、マルクスの「上部構造は下部構造が規定する」という言葉を、すごく重い言葉だと考えています。

 テレビも同じですよね。ラジオもそう。あらゆるものがそう。私が広告屋をやっているからではないですが、今の社会を作ってきた相当に重要なドライバーが「広告による収益」というシステムだと思うのです。広告があるから、無料でテレビが見られて、ラジオが聴ける。新聞が毎日届けられる。そんな過剰なまでの文化の洪水を享受できるのは、この広告システムの発見があったからです。別に、だから広告は大切、というような価値観を話しているのではなく、事実としてそうだと思うんですね。

 で、インターネット。この「@nifty」だって「google」だって「Yahoo!」だって「2ちゃんねる」だって「はてな」だって、みんな「広告による収益」を基盤に存立しています。(と言い切っていいのかはわかりませんが)もし、「広告による収益」を考えずにサービスを存続させれば、いまのような無料もしくは少々のお金では使えなくなるはずです。

 こういう視点で見た場合、少なくとも2つの道があって、ひとつは「暮らしの手帖」型のモデル。言ってみれば、「広告による収益」に頼らない道。そして、もうひとつは、この収益構造を発展させていく道です。私は、職業として、後者の道を選ばざるを得ない立場であることは、このブログの名前を見ていただいてもお分かりだと思います。というか、まあね、やっぱり「広告による収益」でサービスやらジャーナリズムやら文化やらを成り立たせるシステムって、貨幣と同じくらい大きな発明というか、重要なことという気は、すごくしてるんですよね。今、マルクスが生きてたら、このことに触発されて、「資本論」の論旨が変わったのかもしれないなあ、とも。(でも、あらかじめ言っておきますが、あまり「資本論」のこと知らないんですけどね。論語読みの論語知らず、みたいな感じです。)

 話を戻して、インターネット。まあ、しょうがないことでもあるけれど、こういう視点って、ネットではあまり語られないなあ、なんて思ってて。けっこう本質っぽいように思えるんですが、本気で考えると暗い気持ちになるからなのかな。私がこういうことが気になるのは、私が広告屋という社会の裏方さんだからかもしれませんね。それに、この先は、ちょいと難しそうだし、私にも手に負えるかどうかわかりませんしね。でも、結構、ネット社会も含めたこれからの社会にとって重要な要素だとは思うんですよね。なんとなくそんな気がします。だって、ブログがどうのこうのも、mixi八分がどうのこうのも、はてな村がどうのこうのも、実名匿名がどうのこうのも、2ちゃんねるがどうのこうのも、みんなそういうサービスが成り立っているということが前提ですものね。

 その先の話、ちょっと今のところ思いつきません。それと、まあ、この「インターネットは広告でできている」という仮説は、あまり表立って語られていないけれど、考えてみれば、けっこう当たり前の話でもあって、何をいまさら力んで言ってるの?という突っ込みも聞こえてきそうですが。

 最後に余談です。なんだか、最近、ちょっと広告ブログっぽくなってきましたが、本人は、ぜんぜんそんな感じでもなく。ホントは、「人間のタイプをOSで言うと‥‥」みたいな感じの気軽なエントリを書きたいんですけど、ああいうのはなかなか難しいなあ。狙って書くと面白くならないし。ちなみに、あのエントリ、はてブを見ると楽しく読んでいただいたんだなあ、と感謝でいっぱいなんですが、というよりはてブのコメントの方が元エントリより面白かったりするんですが、書いたときはなんか苦し紛れだったんですよね。なるだけ毎日書こうと思ってたけど、その日は何も浮かばなくて。それで昔、飲み屋さんで話してた自分の持ちネタを書いたんですよね。そんなエントリが、私のまだ始めたばかりのブログの中で、けっこう読まれる記事になるなんて、ブログのエントリって、不思議なもんですよね。で、こういうブログも、ある程度は広告の収益で成り立ってるんですよね。ではでは。

 

追記:まあこういう「インターネットは広告でできている」とか「テレビもラジオも新聞も広告でできている」という視点で考えているから、広告がいい感じで社会に機能するように一生懸命考えているのかもしれんなあ、なんて思いました。広告はおじゃま虫だけど、おじゃま虫はおじゃま虫なりに、好かれるおじゃま虫でありたいなと思うんですよね。やっぱり、広告いらないよ、うざいし、じゃいやなんですわ。さみしすぎるんです。私は「ネット」も「テレビ」も「ラジオ」も「新聞」も大好きですから。それに、「広告」も。

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2007年10月17日 (水)

結局、いま言われている「広告の終焉」論を突き詰めると、メディアや手法の問題ではなく、表現の問題に行き着くのではないかなあ、と思うんですよね。

 日経BPオンラインに興味深い記事が出ていました。けっこう話題になった記事ですので、もうお読みの方はいらっしゃるかと思います。執筆されたのは、キシリトールという素材を世に広めたことで知られるPRマンの藤田さんです。大まかな要約で言えば、CGMなどの普及したWeb2.0時代において、もはや従来の広告手法は効かなくなっている、みたいなことですね。詳しくは、ぜひ記事をお読みください。

「楽しいテレビ広告ありがとう。でも商品は買わないよ」藤田康人

 その記事に対して、「知人という気安さから」あえて異論、というカタチで、従来の広告手法に対してブランディングという観点からの再評価についての記事を書かれたのは、日本の大手広告代理店CMプランナーからネットエージェンシーへ転進された須田さんです。

「素敵な広告をありがとう。20年間ずっと買っちゃうよ」須田伸

 私は、今、広告について最も熱心に考えている人たちがいるのが、ウェブの世界の人たちであるというような印象を持っています。良くも悪くも、事実、このウェブの分野が広告の最前線だと思うのです。このブログでは、私もそのあたりについて、ネチネチとやっていたりしますが、この最前線のお二人の論議は、さすが最前線の人たちだけあって、すごくスリリングですね。

 藤田さんの記事は、タイトルに「テレビ広告」と書かれているので、真意を見逃しがちだと思うのですが、藤田さんの問題意識は、きっと、下記の引用につきるのだと思うのですね。

 しかし、それでもそれらの広告の多くは、広告本来の最大の目的である消費者を購買に向かわせるというミッションを果たせるのでしょうか? 昨年、ある飲料ブランドがmixi(ミクシー)で、製品コミュニティーを開設し、凄いアクセスを稼ぎ出し成功事例としてマーケティングの世界では話題になりました。ところが、その製品の販売は全く増えませんでした。

 また、マス広告X企業のウェブサイトXモバゲーのインタラクティブなクロスメディア企画としてマーケティング的には話題になったプロモーションがありましたが、これも販売には影響がありませんでした。

 今の消費者は“面白い広告で楽しませてくれてありがとう。お礼に製品を買うよ!”とはならないのです。

 恐らく、それは購買行動を決める決定的な要因となる情報が、マス広告でもなくネット広告でもない別の何かに移ったということなのでしょう。そんな中でPRやCGM(コンシューマー・ジェネレーテッド・メディア)という新しいソリューションが注目されているのです。

 それらが広告と明らかに違うのは、現代の消費者の購買意志決定に非常に影響を与える事実という情報の信頼性、中立性を備えているということです。

「楽しいテレビ広告ありがとう。でも商品は買わないよ」より引用

 私は、主にマス広告を生業にしている広告制作者ですが、この問題意識、ひしひしと感じています。と言いますか、私が書く広告論のほぼすべてがこのテーマですね。もう、はっきり言えば、肌で感じるのです。この話、決して、テレビや新聞などのマス広告に対する、Web広告の優位という話ではないのですね。より発展させて、私の考えをそこに入れると、テレビや新聞のマス広告からWeb広告まで含めた、広告というもののあり方の問題なのです。私の問題意識から言い切ってしまえば、それは「表現」の問題なのです。

 須田さんは、その異論として、ブランディングとかブランドビルディングという観点で従来の広告手法に対する再評価を行っています。ルイ・ヴィトンの良質なブランド広告が決して短期的な売り上げに貢献するものではないという前提で、須田さんはこう書いています。

 では、この広告は無価値なのか? 

 無価値どころか、2年、3年、いや10年といったスパンで考えたとき、ルイ・ヴィトンというブランドにとって、最良の広告キャンペーンだと思います。
 人間が何かと深く結びついたり、好きになったり、パートナーになっていくためには、それなりの時間をかけなければ。

「素敵な広告をありがとう。20年間ずっと買っちゃうよ」より引用

 確かにその通りで、私はそこに異論はありません。けれども、私自身が思う「表現」の問題とは、ブランディングや販売促進など、あらゆる目的をすべて含めた上での広告における「表現」の問題なんですね。

 そこには、私のある確信があって、それは、CGMなどが普及するWeb2.0時代にもなお、ある種のマス広告の優位はあまり変わらないだろうなといことです。割合は変わるかもしれませんが。ブランディングだけでなく、販売促進の分野においても、きっとテレビなどのマスの有効性は変わらないだろうと思うんですね。これから先、ジリ貧になっていくマス広告であったとしても、マス広告は、ブランディング専用の高級媒体に「なり下がる」ことは決してないと思うんですね。(こういう書き方すると、ブランディング否定みたいに思われるかもしれませんが、そういう意味じゃないですからね。ただ、私は、普通の販売促進活動もブランディングの一要素であるという考えですが。)そして、マス広告の優位性は、単なる効果の問題にすぎなくて、別に必要がなければマスは使わなくていい、くらいの問題だろうと。それは、メディアの選択肢が増えたという認識です。けれども、いまの時代、これまでの時代と決定的に違うのは、マス広告、ウェブ広告などのすべてを含めた広告の「表現」が、これまでとは違うものにならなければならないだろうな、ということなのですね。

 良い悪いの判断は別にして、こういう時代になってしまったとき、もはやこれまで面白いとされてきた「表現」は、少なくとも「広告」としては面白いとはならなくなってきたのではないか、ということなのですね。急にくだけた大阪弁になりますが「まあ、マス広告とかが効かなくなってきてるっていうけど、それはマス広告が効かないというよりは、その表現が広告としてきかなくなってるっていうことちゃうのかなあ。mixiでのとある飲料のキャンペーンの話でもそうやけど、いままで効くとされてた表現がいまや広告としてリアルに感じられないというか。いままではエンターテイメントとして消費されるもんが、きちんと広告としても消費されてたけど、いまの時代、エンターテイメントとして消費されるもんが、なかなか広告としては消費されなくなってきている、みたいなことなんかもしれんなあ。」という感じですね。なぜ大阪弁で書いたかと言えば、それは今のところ勘みたいな域をまだ出ていないからなんですけどね。

 私は、わりと、そういう実務で感じる感覚的なことをベースにしてこのブログに広告論を書いてきました。じゃあ、どう表現があるべきなのか、みたいなことですが、こういう場合、強烈にすぐれた事例を出すのはあまり良くないなあ、と思う部分もありますので、普段着の広告から。今日、ウェブ(ZAKZAK)で見つけたiGoogleのウェブ広告です。

 おっ、googleの広告じゃん、という私自身の頭の働きかた自体が、今の時代の感受性っぽいですよね。巷に出ているいろいろな広告の中には、もっともっとアバンギャルドな表現もあったりするのでしょうが、この広告は、わかりやすく、今届く表現のポイントを満たしているような気がして。私の思う、いま伝わる表現の例として、わかりやすいかなと思います。

200710161618471200710161619071_2 ポイントのひとつは「ゆるさ」ですね。これまでは、広告はエンターテイメントを発信するひとつの文化装置でした。映画、テレビ、そして広告、みたいなね。今、そんな感じはないでしょ。これまでは、徹底的で完璧なエンターテイメントは広告になりえたんです。今は、それでは広告にならないんじゃないかな、なんて思います。気持ちが入り込めないんですね。今までは、賞賛や羨望という入り込み方が有効でしたけど、今はけっこうしんどいかも。賞賛と羨望のマーケティングは、すごく効きにくい時代だと思います。

 もうひとつは「ホント」です。CGで作りこまれたスペクタルより、セゾンカードのCMのような、ホントの老人がする大車輪なんですね。このiGoogleなんかも、そのへんがよくできてて、気持ちが入り込める「ゆるさ」と、手書きのイラストの「ホント」があるんですよね。こういうのは、気持ちよくて、そのうえクリック率も高いと思うんですよね。で、ブランディングにもなっている。

 まあ人の例なので、おまえはどうなのよ、というツッコミをしてしまう、おぼっちゃまくんなら「厳しか人ですねえ」と言ってしまうような人のために、私がそのへんを考えてつくったのは例えばこういうことなんじゃないかなあ、というのはこういう感じです。エントリの書き方は、ちょっとわかりにくいけど、「ゆるさ」と「ホント」をiGoogleとは別の角度から考えてみました。お暇な方はクリックしてみてください。

 ゆるゆると広告について書きながら、広告について考えてきましたが、ここらで私のブログの広告でも。私がいままで書いてきた、本エントリ関連の広告論です。

「広告がおもしろい」ことと「おもしろい広告」は、きっと違うんだろうね。
自己表現とブログ。
新聞のゆくえ、広告のゆくえ。
ここ最近の広告の仕事って。
ブログをやる人、やらない人。(1)
ブログをやる人、やらない人。(2)
広告屋という立場でCGMについて真剣に考えてみました。
「民主化」の裏側。
マスコミュニケーションが取りこぼすもの。
じゃがポックルと口コミ。
がんばれAMラジオ。
こんな時代の広告。

 まあ、飽きずに書いるもんですね。いま読み返すと、なんか肩に力が入ってるな、なんてのもあって恥ずかしいですが。いろいろ書いてますが、共通して「なんとなく今までと違うんじゃないかな」という実感がベースになっているんですね。藤田さんと須田さんの次なる論考に期待しつつ、自分は自分でより考えを深めつつ。新しいブランディングや広告、そして表現の方法論に出会えることを願って。ではまた。

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2007年10月15日 (月)

結論なんかなくたっていいんじゃないかな、という結論。

 このところ、なぜかレトリカルなタイトルを書いてしまいがちですが、マイブームということでご了承を。突然ですが、ブログは終わったという結論がある一方で、ブログはこれからだという結論も立てることもできて、そのどちらも正解だったりするし、文脈によって違うだろうな、なんて思います。私なんかは、その両方の結論の間でうだうだと考えながら、やっぱり今夜も書いています。

 どうして、ブログの話から始めたかと言えば、それは私が今、ブログも含めた今のコミュニケーションとか表現のあり方に興味があるから。これは職業柄なんでしょうか。ブログができてまだ数年ですが、私なんかは、やっぱりブログができてからの変化は相当なもんだな、なんて思います。この国にいる(英語などの外国語が読めると世界の)人たちが日々考えていることがパソコンの画面を通して可視化される時代って、今までなかったよなあ、と思います。ほんと、まったく知らない人の気持ちの時間的な移り変わりまである程度読める時代なんて、今までなかったですよね。まあ、それを面白いと思うかどうかは別にして。

 それは、ブログというツールができたから、というよりはブログの大衆化がもたらしたものだと思うんですね。そういう意味では、ブログは終わった。でも、だからこそ、ブログはこれからだとも言えるわけですね。大衆化というのは、パイの広がりを意味していますので、パイが広がることで起こるあれこれは、当然起こります。その現象を、ブログは終わったという結論と結びつけると絶望になるし、ブログはこれからだという結論と結びつけると希望になる。ブログなんてものは、はじめはやっぱりIT関係の人たちかITに詳しい人たちがまず始めますよね。新しいテクノロジーだから。でも、ブログが大衆化すると、その限られたコミュニティの雰囲気は一変します。それをノイズと見るかどうか。

 私は、新規参入組だからノイズとは思わないし、そこに希望を見ていきたいと思います。そのノイズの中に、社会の暗部がかいま見えるかもしれないけど、逆に考えると、そういう暗部を少しも映し出さないシステムは、論じるに値する閾値をまだ超えていないシステムだとも言えるし、またある程度の大きさになったシステムが理想的な鉄壁さを示していたら、私はまずそれを疑いたいと思います。

 結論なんかなくったっていいんじゃないか、というと、なんだか相対論で、結論の先延ばしで「逃げろ、逃げろ」という感じになりますが、でも、80年代と違うところは、結論はいらないけれど決断はあるということ。広告の仕事をしていると、すごくそれを感じて、巷に出ている広告なんて、あれは結論なんかじゃなくて、締め切りのためにしょうがなく出した決断にすぎないんですよね。とりあえず締め切りだから、これでいこ、みたいな。その中のわずかの広告を市場が評価して、それが結論っぽく見える。日々の考えを映すブログだってそうじゃないかな、と思います。

 それに、人間とは何か、社会とは何か、という結論に向かっていくのは文学や哲学の仕事だと思うし。そして、文学や哲学には結論はないんですよね。ニーチェというおっさんがこう考えた、マルクスというおっさんがこう考えた、ということであって、それは結論ではない。だから、今読んでも面白かったりする。その時代、時代の決断なんでしょうね、きっと。もちろん、文学者や哲学者たるもの、真理という名の結論に向かって思考するんでしょうけど、それぞれの思考そのものは結論なんかじゃない。

 いろいろとここ最近、うだうだとブログまわりのことを考えてきたけど、いちおうこれが今の時点での結論ならぬ決断にしとこかな、と思います。まあ、こっちは仕事じゃないから締め切りがないんですけどね。

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2007年10月14日 (日)

「春一番コンサート」を知っていますか。

 毎年、ゴールデンウィークに大阪の服部緑地公園野外音楽堂で4日間に渡って行われるコンサートです。私は、大阪に住むコピーライターの先輩の誘いで聴きに行って以来、毎年、お客さんとして参加しています。お客さんなのに参加って、なんか自意識過剰なんじゃねえの、とか思う人もいるかもですが、このコンサートに限っては、ほんと参加という感じなんですよね。

 どういうコンサートかをご紹介しますね。出演アーチストは、知る人ぞ知るミュージシャンばかりです。大塚まさじさん、有山じゅんじさん、石田長生さん、友部正人さん、木村充輝さんなどなど。お亡くなりになった高田渡さんや中島らもさんも出演されていました。中島さんは、午前中の出演でしたね。100人は優に超えるんじゃないでしょうか。若手のミュージシャンもたくさん出演します。私のお気に入りではふちがみとふなとさん、はじめにきよしさん、そうそう、私が押尾コータローさんをはじめて見たのも「春一番コンサート」でした。「ドラム、押尾コータロー!ベース、押尾コータロー!そして、ギター、押尾コータローでしたっ!!」とやってました。今ではお馴染みですよね。

 日本のミュージックシーンにあまり詳しくない私にとって、「春一番コンサート」は、生きていく上で知っていた方が絶対に人生が豊になる歌と出会う場所でもあります。高田渡さんの「生活の柄」とか、友部正人さんの「夕暮れ」とか、、大塚まさじさんの「男らしいってわかるかい」とか、リクオさんの「雨上がり」とかだったり。

 服部緑地野外音楽堂は椅子席の後方に芝生があって、お客さんはゴザを敷いて仲間で聴く人が多いですね。ビールを飲んだり、それぞれのお手製のおつまみをつまんだりしながら、わいわいがやがや。酔いつぶれて寝てしまう人もいたりして。出演前のミュージシャンたちもその輪に加わったり、もう、どっちがミュージシャンなんだかお客さんなんだかわからない感じになります。私が座って音楽を聴いていると、後ろから「赤ちゃんの手って、ちっちゃくてかわいいなあ」という声がして振り向くと、木村充輝さんだったり。私は私で、あの木村さんに「そうですねえ、かわいいなあ」なんて答えたりして。

 毎年、九州からやってくる熱心なお客さんもいて、毎年1回お会いしますので、もう顔なじみになってしまいました。関西のライブハウスオーナーも、ほぼ全員集合してるんじゃないかと思うほど参加されています。

 東京では、昔だとライブアンダーザスカイ、今だと、サマーソニックとか、いろいろな野外コンサートがありますが、大阪の「春一番コンサート」は、いわゆる冠がついていません。だからかどうか分かりませんが、手作り感があって、あったかい感じがします。まあね、大阪ですから、ミュージシャンもお客さんも口が悪いわけです。有山じゅんじさんのステージでは「アリヤマー、はよ歌えっ!」「うるさいわ、もうすぐ歌うから待っとけ!!」。木村充輝さんのステージなんかでは「アホーッ!!」「アホいうな、アホ言うおまえがアホじゃ!」みたいな感じになります。そんなあったかさですけどね。

 この「春一番コンサート」は、毎年、この時期になると大阪ではそこかしこで「来年はやれへんらしいで」という噂が流れます。だから、ゴールデンウィークになってコンサートがはじまって、ああ、今年もあるなあ、よかったなあ、としみじみ思うんですね。来年はもしかすると、往年の関西ミュージックシーンの音楽が大好きな人には、すごいことが起きるかもしれません。今ここで言ってしまうと、もしかするとそれがなくなってしまうかもしれませんから、何かは言いませんが、なんとなくそんな予感がします。関西近辺以外の人も、来年のゴールデンウィークは参加されたほうがいいかも、ですよ。

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2007年10月13日 (土)

「広告がおもしろい」ことと「おもしろい広告」は、きっと違うんだろうね。

 おもしろい広告のすべてが、広告として効くとは限らないところが、広告のおもしろいところです。ちょっとレトリックっぽい書き方になってしましたが、このところ言われている「テレビCMの終焉」まわりで思うことを、つらつらと。

 クリエイティブと営業の不毛な論議とか、クライアントと広告会社のすれ違いは、きっとこういうところにあるのかな、なんて思います。広告という表現のうつわの中で、おもしろい表現がしたい、っていうのは広告クリエーターの表現欲の動機にはなっていると、自分も含めて思うんですが、これを営業とかクライアントから見ると、まあ、言葉が悪いけど、迷惑なんだろうなと。言葉が悪いけど、俺のカネでお前の表現欲を満たしてんじゃねえ、ということになりますね。

 まあ、ちょっと待ってよ、という気持ちにはなりますし、その動機を否定してしまったら、あとは枯れ野原しか残らないよねえ、とは思いますが、一面の真理でもあると思います。

 だけど、そういうクリエーターがつくりたがる「おもしろい表現」がなぜ広告に必要なのかと言えば、人は理屈じゃ動かないからなんだと思うんですね。消費者には必殺技があって、それは無視とか嫌悪なんですよね。外資系によくありがちな、理屈で追いつめていくようなCMが余り効かないのは、無視とか嫌悪とかが働くからですね。いわゆる「知的嫌悪」というやつです。人は理論で追いつめても駄目なんです。詰め将棋をやっても、消費者には将棋盤をひっくり返す権利があるんですよね。恋愛だって、人間関係だって同じでしょ。

 じゃあ、広告は好かれりゃいいのかというと、そうでもなくて。いま「テレビCMの終焉」まわりでも言われていますが、「楽しい広告をありがとう。でも、僕は買いません」みたいなことになってしまうんです。で、考え方を変えてみよう、みたいなことが私の考え方。「おもしろい広告」をつくるんじゃなくて、「広告がおもしろい」ようなことを考えましょうよ、ということなんですね。

 社会の必要として企業活動があって、その企業活動の必要として広告があるのだとしたら、企業や広告が、「おもしろい広告」をつくらなきゃいけない責任はさらさらないと思うけど、「広告がおもしろい」ようにするくらいの責任はあるんと思うんですね。これは、私に向かって問いかけているんですが、その広告行為は人にとっておもしろいのかどうか、素敵なのかどうか、みたいなことは考えて行かなくちゃいけないと思うんです。でないと世の中世知辛い。

 いままでは、「広告がおもしろい」ために「おもしろい広告」を作ってきたんだけど、単におもしろいを追求するだけでは「広告がおもしろい」というふうになるという牧歌的な時代は、ちょっと前に終わってしまったんだと思います。今の時代で「広告がおもしろい」というふうにするためには、今までのやり方ではしんどいのかな、なんて思います。そして、「広告がおもしろい」という条件は、今も昔も、広告を機能させる絶対条件だと私は思っています。

 企業が広告でコミュニケーションをしているという行為そのものが、社会からおもしろく、好ましく、共感を持って迎えられる。そんな広告をつくりたくて、私は、毎日苦戦しています。

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2007年10月11日 (木)

難しい内容を、難しい内容のままに、やさしい言葉で話す難しさ。

 確か、そんなことを糸井重里さんが書いていたような気がするのですが。

 難しい内容を、やさしい内容に変えて、やさしい言葉で話すのは、わりあい簡単です。その段階で、難しい内容が、別のやさしい内容、つまり、分かりきった内容に変わっているのですから。既知の内容へのすり替えですね。でも、これは人気がありますよね。すでに知ってることのデ・ジャビュですから気持ちがいいんです。テレビのワイドショーなんかは、きっとこういうことだと思います。

 やさしい内容を、難しい言葉で話すのは、案外、これも簡単です。人を煙に巻きたいとき効果的ですね。あと、自分を正当化したいときに、よく使いますよね。難解な言葉を使っているけど、言ってることは、俺はあいつが気に入らないっていうことだったり。

 難しい内容を、難しい言葉で話したり、やさしい内容を、やさしい言葉で話すのは、まあ普通ですよね。難しい内容を理解するためには、難しい言葉を必死で理解しなければいけないのは、しょうがないことでもあります。そして、難しい言葉というのは、じつは話をやさしくするために作られたものであって、例えば、広告で言えば「インサイト」という言葉。英語では「洞察」。広告的には、消費者の心理洞察という意味なんですね。

 例えば、「アクロン」のコマーシャルで「♪アクロンなら毛糸洗いに自信が持てます」というコマソンがありますよね。そのインサイトは、「毛糸洗いは不安だ」なんです。「エマール」は、「♪ホームクリーニング、エマール」ですね。そのインサイトは、「うちでクリーニングみたいに毛糸が洗えたらいいのに」です。こういう例を出すと、インサイトという概念は何者なのか、広告業界以外のひとにも少しわかってくるでしょ。

 でね、このインサイトという言葉のきちんとした意味を、やさしい言葉で伝えようと思うと大変なんですね。若い広告マンにインサイトというのは、こういうことなんだよ、と伝えるのは本当に大変。でも、こういう難しい言葉は、一度覚えてしまうと、その後のコミュニケーションが案外円滑になります。哲学者と哲学者の対談なんかも、見てるほうは難解だなあと思いますが、やってるほうはその難解な用語が既知であることを前提に話すので、案外円滑なんですね。

 やはり、最も難しいのが、難しい内容を、難しい内容のまま、やさしい言葉で話すことだと思うんですね。私が本当に書きたいことの多くはそういう感じだったりするんですが、なかなかうまくいきません。難しい内容の多くは、まだ自分が解決していない内容なんですよね。その難しい内容を、そのまま、できれば、難しい言葉を使わずに、やさしい言葉で語りたい。やさしい言葉が許容する、やさしい内容ではなくて。それは難しいんですよね。その言葉は、もしかすると詩に近くなってくるのではないかとは思うんですが、私としては、そういう詩的言語ではなく、やさしく書いていきたいという欲望があるのですが、これはしんどいなあ。でもね、ブログをやりはじめて思うんですけど、ブログの言葉の中に、もしかするとその答えがあるかな、なんて思います。

 ブログは日々のログですよね。日々の思いは、現在進行形の思いですよね。その思いを正確に、日々使う言葉で記述していくこと。それは、つまりまだ未解決のことがらを、未解決なままで書いていくこと。なんとなく、私は、そんな思いで、毎日楽しく言葉を綴っています。(うーん、今日のは、やぱりちょっと分かりにくいかなあ)

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2007年10月10日 (水)

プレゼンの時、声が震えて、心臓がバクバクして、汗が噴き出し、自分で何を話しているのかがわかんなくなって、会議室から逃げ出したくなることはありませんか。

 かつての私は、まさにそんな感じでした。プレゼンが大の苦手だったんですね。「プレゼンの極意」みたいなハウツー本もたくさん読みました。でも、駄目でした。クライアントのビルが見えてきたあたりから、胸が苦しくなってくるんですね。プレゼンが始まって、営業やマーケが流暢に話し、クリエイティブのパートになって、いざ話し始めると、あっ、やっぱり駄目かもしれないと気づいて、言葉に詰まって、涙が出そうになって、周辺が私の異変に気づいて、急に会議室がシーンと静まって、鉛のような重い沈黙の中で、このまま世界が消えてしまえばいいのにと何度も何度も思いました。

 大きなプレゼンだとなおさら惨めです。責任も大きいから。新人の頃、はちゃめちゃなプレゼンをして「君の言ってることはさっぱり分かりませんでしたが、広告はよく出来てるから、これで行きましょう」みたいな粋な得意先の方もいたりして、そのほほえましいエピソードを中心に笑い話にして書こうかと思いましたが、当然そんないい話だけではないし、悲惨な話もあるし、今、かつての私と同じようにプレゼンが苦手で苦手でしょうがない人たちもきっと読んでくれていると思うから、きちんと書こうと思います。こういう悩み、うまく話せる人には理解できないから、すごく孤独になってしまうんですよね。プレゼンでうまく話せない人は、そのことで、これからのキャリアを悲観的に見てしまうものだと思うし。かつての私がそうだったようにね。だから、この文章は、かつての私と、プレゼンが苦手なあなたに向かって書いています。

 今、私はプレゼンはそれほど苦手ではありません。というか、むしろ得意な方だと思います。かつての私は、自分がそんなふうになるなんて絶対に信じませんでした。先輩に「どうしたらプレゼンで話せるようになるのか」と聞いたりしました。その先輩は「慣れだよ、慣れ」と言いました。その先輩のアドバイスを聞いて、その頃の私は「絶対に慣れなんかで直らない」と思いました。でも、今こうして振り返ると、やっぱり慣れなんです。

 場数を多く踏むと、それなりにその後の展開が見えてきたりします。その数を増やすことは大切です。多くのパターンを体験すると、そこから学ぶことがあります。それは、驚くような展開などそうそう起こるものではないということなんです。ほとんどはある類型に収まります。あっ、このパターンだな、ということが読めるようになると、心に余裕が生まれます。プレゼンがうまくできないのは、自分に予期できないことが起こるんじゃないかという不安が原因です。要は、その不安の要因を取り除くことが大切なのです。簡単な理屈ですよね。でも、それには、場数しかないのです。試練だと思ってください。結構長いかもしれないけれど、いつか、うまくプレゼンが出来るようになります。あっ、今、抜けたな、と思うときが絶対に来ます。

 もうひとつ。あなたのプレゼンが下手くそだったくらいで、物事は大きく変わったりしない、ということを知ることです。世の中とかビジネスとかは、あなたのプレゼン下手くらいで変わったりするようなちんけなものではありません。それに、私もあなたも噺家ではありません。だから、話が下手でも、あがってしまってしどろもどろでも一向に構わないのです。それで、プレゼンしている企画なりのクオリティが下がるなんて、物理的には絶対にあり得ないのだから。あなたの話し方が下手くそだったために、パワーポイントのデータが変化するでしょうか。しないですよね。私たちは企画をプレゼンしているのであって、話芸をプレゼンしているのではないのです。一度、自意識過剰な自分を叱ってからプレゼンに挑んでみてください。前より、ほんのちょっとだけうまく話せる自分がそこにいるはずです。

 そして最後に。自信です。とことん考え抜いたと自分で思えるかどうかが大切なのです。プレゼンが上手にできない人は、嘘をつくのが苦手な人でしょう。嘘をつきたくても、顔に出るんじゃないか、とすぐに不安に思ってしまう人でしょう。そういうタイプの人は、相当な自信を持たないと、人前で話せないものなのです。いいかげんに考えたものでもうまく話せる。そんな才能が、あなたには欠如しているのです。あきらめて、企画を考え抜くことです。私の経験を話します。競合プレです。とことん考え抜いた案をプレゼンしました。得意先は、その案を採用しませんでした。けれども、「こういう考え方で、もう一度考えてもらえませんか。おたくに決めます」という言葉をいただいたのです。すべてがこんな美しい世界だとは思いません。けれども、とことん考え抜いたということは、それだけで、それは力なのです。

 今では、結構流暢に、得意先に自分の思いを伝えられる私ですが、いまだに、かつてのプレゼン下手の私が顔を出すことがたまにあります。そんなとき、こういうことを思い出すのです。「それは、いままでにも経験したパターンじゃないか。話が下手でも企画の質は変わらない。とことん考え抜いたんだから。」そうすると、ほんの少しだけ楽になるのです。プレゼンが苦手で、人知れず悩んでる、かつての私のようなあなたに、この言葉が届くことを願って。それでは、また。

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2007年10月 9日 (火)

なぜ、はてな界隈では「東京在住の大阪人」と「大阪出身の東京人」の微妙な違いについて、きちんとした論議が一度としてなされないのだろうか。

 それは、きっと論議しても何も生まれないからでしょうね。すみません、暇なもので。リア充がうまくできない駄目人間なので、たまの休みは何していいかわかりません。そんなわけでこんなタイトルを書いてしまいました。出来心なんです。もうしません。ちなみに、私が思わず読んでしまうエントリのタイトルって、こんな感じです。思わず何が書いてるんだろうとクリックしてしまいます。はてブ144usersという感じです。すみません。言い過ぎました。でも、こういうのブログ的な言葉使いだなあ、と思うんですがどうでしょう。

 見切り発車ですけど、大阪ネタなど書いてみます。なんだよ、と思わなかったやさしいみなさん、しばらくお付き合いを。私、東京で20年、大阪で20年。ちょうど半分ずつ2つの都市で暮らしてます。自分でも大阪人か東京人かがようわからんようになるんですね。話す 言葉は東京言葉。でも、イントネーションは関西。話すと初対面の人でも、「あっ関西ですか」なんて言われる感じ。タクシーの中で話すと、百発百中です。そんでもって「東京は真ん中に皇居があるから道が複雑ですねえ、大阪はわりと碁盤の目でね、運転手さんも大変でしょ」みたいな話題。百回以上してるなあ。

 「さのさあ、そこの部分はさあ、そうじゃなくてさあ、前も言ったじゃん。覚えてるよねえ」という言葉を関西イントネーションで話すと、私になります。こうしてあらためて書いてみると、けっこうやな奴ですね。ボイスレコーダーで聞く自分の声、ものすごくいや。大阪の人から電話がかかってきて、普段の調子で話すと「なんやお前、きしょいなあ。東京に身売りしやがって。」みたいに罵倒されてしまいます。でもって、大阪弁で話し始めると、こんどは会社の人たちの耳がダンボに。

 大阪の友達が東京に来て、コンビニで弁当を買ったときの話。大阪の友達が「これ、ぬくめてもらえますか」。コンビニの店員がきょとんとしてました。大阪では「あたためる」は「ぬくめる」と言います。「あたたかい」は「ぬくい」です。だから「ぬくいコーヒー」は「ぬるいコーヒー」ではありません。その友達と喫茶店に行ったとき、「すみませんレスカひとつ」。ウェイトレスがきょとんとしてました。「レスカ」は「レモンスカッシュ」ですね。「アイスコーヒー」は「レイコー」です。

 大阪の喫茶店にて。「おねえちゃん、フレッシュある?」と客。なんだと思いますか。コーヒーのミルクのことですね。これは、もしかすると大阪だけじゃないかも。ちなみに、このフレッシュ、アメリカでは使っちゃ駄目ですからね。freshは、俗語で精子を意味します。ついでに、もうひとつ。大阪ネタじゃないけど。スジャータって商品ありますよね。あれの名前の由来。お釈迦さん、つまりブッダが断食修行をしていて、もう空腹で死にそうだった時、乳粥をブッダに差し出した心優しい娘さんがいたんですね。それがスジャタさん。そんなわけで、キャッチコピーが褐色の恋人。

 大阪の人は、けっこう気軽に他人に話しかけます。私が天満橋の蓬莱で定食をひとりで食べていたら、となりのおばちゃんが話かけてきて、「にいちゃんな、これ半分食べてんか。おばちゃんこんなに食べられへんわ。若いし、体でかいから、な、な」。食べる私も私ですけどね。

 大阪名物串カツ屋の話。立ち飲み形式のね。混んできたら、店のおばちゃんが「ちょとお兄ちゃん、ダークダックスしてんか」。体を斜めにするんですね。ダークダックスみたいに。そしたら、お客さんが入れるでしょ。これは、ずいぶん前に糸井さんとこにメールで投稿したネタですね。知ってる人はいるかも。まだアーカイブ、残ってるのかな。あれ、私です。

 大阪の人は東京をライバル視しますけど、東京の人はそれほどでもないですね。他の地方の人は、そんな大阪人を冷ややかに見ているようですね。仙台で営業の仕事をしていた大阪の友達は、大阪弁をなくすのに大変だったそうです。彼曰く、大阪人は詐欺師というイメージが現地にはあるそうですわ。しょぼーん、ですね。

 この手の大阪もの、中島らもさんが圧倒的に面白かったなあ。『西方冗土 カンサイ帝国の栄光と衰退』(参照)とか、むさぼるように読んだもの。大阪には中島らもがいる、と誇らしげに言う大阪人、多かったし。私は、中島さんが本当に書きたかった小説や演劇はあまり読んだり見たりしない、中島さんにとってはあまりありがたくない読者でしたけど、もう大阪にはらもさんはいないと思うと、さみしい気分になります。そういう意味では、やっぱり私、「東京在住の大阪人」なのかもね。

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2007年10月 8日 (月)

ウェブも静かなこんな日に。

3連休の最後の日ですね。昨日はちょいと仕事をしたり、やぼ用をやったりして、今日はなんにもすることがない静かな日になりそうです。こんな日には、クッキーを焼いて、ハーブティーでも入れましょうか、なんてね。実際は、ネスカフェ入れて、ブログ書いてます。OS9で(涙)。

ウェブも休日は静かなんですね。これは、自分でブログをやりはじめて気づいたことです。リアルでの人の営みが、ウェブのトラフィックにもしっかりリンクしているのは、まあ当たり前ですが、ちょっと感動。広告トラバも今日は静か。お前らも、休日休むのかよっ。さみしいじゃん。

ブログをはじめたばかりのとき、最初に何だろというのが、このトラバですよね。トラバまわりはいろいろ考え方があるようです。素人には、仕組みがいまいちよくわからないんですね。私も最初はさっぱりわかりませんでした。トラバまわりはいろいろな文化や考え方があるようですね。

ちなみに、トラックバックは「あなたの記事を読んで私もこんなことを考えました、あなたにお知らせしときますね」という機能とのこと。ブログツールをつくった人は、きっとこの機能が目玉だと思って作ったんでしょうね。そこが、今までの紙の出版と決定的に違うとこですからね。

でも、このトラバ。送る方にしかメリットがないのがなんとなく品がない気がして。だから、相手のリンクをつけるようにしてるんです。言及リンクですね。でも実際は、私はよほどのことがないとトラバは使っていないですね。あとトラバは広告トラバがわんさか来るのがしんどくて。

トラバのイメージが私の中ではあまり良くないんです。今や、ブログ名が意味なくなってきてますが、始めたばかりの頃、ある広告ブログがトラバを送ってくれたんです。で、見ると、エントリに関係もない広告の話題で、最後に高額の教材を売るみたいな。さみしい気分になりました。

当然、ざくっと消しましたが、またトラバ。今度は、タイトルが「私、会社辞めました」。気になるので見ると、嘘。もうね、こういうのいちばんさみしい。この業界、厳しくなってるからよくあるわけですよ。自分だってすごく厳しい。だから心配じゃないですか。同じ業界人としてね。

すべてがそうじゃないけれど、ウェブまわりの広告論やマーケティング論の多くは、こういう感じが新しい理論のバックボーンになっていて、あまり好きにはなれないんですよね。まあ、こういうのが広告の本質かもしれんけど。でも、こういうのが本質だとしたら、私は広告は嫌いです。

3連休の最後の休日だけど、東京は雨が降っています。日本の中には晴れてるところもあるんでしょうね。いいなあ。イギリスで読んでるリアルな知り合いがいるんですが、そっちはどうよ。たまにはコメントでもくださいな。但し、くれぐれも、ペンネームでね(笑)。ほんじゃ、また。

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2007年10月 6日 (土)

ある写植屋さんのこと。

 今や完全に広告制作はコンピュータ化されています。新聞や雑誌などの平面媒体は、マッキントッシュにインストールされたイラストレーターやフォトショップで、写真もすべてデジタルデータで作業します。テレビCMは、専用のワークステーションで。映像素材はすべてデジタル処理されています。撮影のときはフィルムを使ったりしますが、編集段階ではすべてデジタル化するんですね。

 ほんのちょっと前は、それはすべて手作業だったんですよね。平面媒体だと、ロットリングという金属の管で出来た線が正確に引ける特別なペンや三角定規、コンパス、デバイダーを使って線を引いたりして、文字は写植屋さんに打ってもらって、それをペーパーセメントという糊で貼り付けたりしていました。色もペンで指定を入れるだけ。色チップをつけて。写真は、プリントをして、そのプリント(反射原稿と言います)を、色とか写真の位置とかの指定が書かれた版下と一緒に持っていて、印刷所であわせて、それでやっと広告ができあがるのです。

 そんな感じですから、広告の制作チームには、お世話になっている写植屋さんがいました。写植屋さんは版下屋さんも兼ねていることが多く、我々がラフに書いた版下の元になるスケッチ(指定原稿と言います)を正確な版下にしてくれるんですね。広告の現場は急な直しとかも多く、写植屋さんには深夜早朝かかわらずご迷惑をかけっぱなしでした。私がある百貨店の仕事をしているときにお付き合いしていた写植屋さんは「エニータイム」という名前でした。と言ってもお一人でやられている事務所でしたが。

 エニータイムという名前を名乗るだけあって、我々が困り果てていても、いつも笑顔で対応していただいて、現場にとってはすごく心強い人でした。経験で言えば、現場のスタッフよりずっと長く、いろいろと教わることも多かったのです。

 広告制作の現場が次第にマック化されていって、エニータイムさんに頼る場面も少なくなっていきました。どうしても使いたい写植を打ってもらうだけになったりしました。あるとき、エニータイムさんがお見えになり「廃業することになりました。写植機も売ろうと思うんですよね。でも売れなくてね」とおっしゃいました。その頃、写植屋さんは、どんどんマックに切り替えていったのですが、エニータイムさんは、その道を選ばれませんでした。

 それから半年ぐらいたってから、私の住んでいる街の商店街で、ばったりとエニータイムさんと出会いました。お久しぶりです、どうしてこんなとこに、と私が聞くと、「ええ、ここにいい鍼灸の人がいましてね。この機会に体の悪いとこをなおそうと思いまして」とおっしゃいました。そうですか、じゃあお元気で、みたいなことを言って、それっきりお会いすることもなくなりましたが、もしこの文章をエニータイムさんが読まれたらなあ、と思うのですが。エニータイムさん、お久しぶりです、お元気ですか。

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2007年10月 5日 (金)

たまには「ココログ」の話題でも。

2007y10m05d_225333401  ココログで書いているのに、「はてな」の話ばかりなのは何なので、たまにはココログの話でも。ココログと言えば、@niftyですね。で、@niftyの前身はNIFTY SERVEで、富士通系のパソコン通信最大手ですよね。NEC系がPC-VANで、いまのBIGLOBEということくらいしか知りませんが、ニフティフォーラムという名前はネットの話題でもよく目にするし、ある種、今で言う「はてな村」っぽいコミュニティ感があったんだろうな、と思います。私はまったく利用したことも、目にしたこともありませんが。
 でも、ニフティフォーラムがWEBへと移行した後は、利用者が激減したそうで、いまは、その一部のフォーラムがflomyという名前で存続しているだけなんだそうです。ちなみに、flomyは@niftyと無関係とのこと。ニフティフォーラムが完全に終了したのが、2007年3月31日なので、ほんの前までは実在したブランドなんですね。ウェブ上には、フォーラム全盛期のことを懐かしむ声がいっぱいあふれていて、それを読んでいると、フォーラムの実態がわからない私でも、なんとなくセンチメンタルな気持ちになってきます。
 ココログのサービスを見ていると、そんなフォーラムの雰囲気をなんとかつくりだそうとしているのが見え隠れして、ちょっと複雑な気分。「トラックバック野郎」というコーナーで、コメントとトラックバックの啓蒙なんかもすごく熱心な様子だし、なんとかユーザをつなげようとする努力はされているようですが、なんせ、日本で最もベーシックなブログサービスっぽい最大手ブログサービスなので、そういうフォーラム的なコミュニティ感をつくりだすのは厳しいよなあと思います。「ブログのさみしさ。」というエントリでも書きましたが、基本的にブログって孤独なツールだと思うんですね。サービスの本質とちょっと逆行気味かな。
 それでもやっぱりココログは、「眞鍋かをりのここだけの話」「極東ブログ」「きっこのブログ」なんかの有名ブログがあるし、人にどこのブログがいいと聞かれると、ココログじゃないかな、と答えるんですけどね。私の場合は、エッセイというかコラムというか、そういう感じのエントリを書くタイプですので、いちおう「はてな」でもメモっぽいものを書いているんですが、本番はやはりココログという感じになります。なんとなく、「はてな」はコミュニティーで、ココログはマス(マス媒体のマスです。お間違いなきように。前に本番という言葉も出てきますしね。)という感じがします。
2007y10m05d_222147970  まあ、そんなココログブロガーの私ですが、ココログさんにご紹介いただきまして、ココログさんにはこの場を借りて御礼を申し上げます。ありがとうございました。「心を掴むクリエイティブ術」というキャッチコピーをいただき、恐縮でございます。クリエイティブなお仕事についている方は必読のエッセイだそうです。書いてる本人が、これは読まなきゃ、と思ってしまいました、なんてね。
 なんとなく気恥ずかしい気分ですが、こういうのはブランドを消費者とつなぎとめるためには重要なんでしょうね。でも、こういう紹介はココログらしいな、と思います。つまりね、やっぱりココログはマス的なんですよね。ポータルに採用されることが誇らしいこと、というような感じで。惜しかったのは、せめてメールで事前通知が来たらなあ、と思いました。マス的な視点で言えば、メールで載せますってココログからメールが来たら、ブロガーは、俄然ココログファンになると思うんです。そういうのって、すごく心がときめくのが人間ってもんですよねえ。ほんと、惜しいなあ、と思いました。「えっ、私が何で選ばれたんだろう、えっ、えっ」となって、「でも私もがんばったからなあ、ココログに認められたんだ」となり、よしこれからもココログで書こうってなると思うのに。
 でもそんなことを書く私はというと、どっちかといえば、まあウェブだから勝手に紹介したりリンクしたりしてちょうだいな、という考え方なんで、そういうほうが心地よかったりするんですけどね。そんなこんなで、結論としては、私はココログと「はてな」を行ったり来たりなバランスが気持ちいいなあということですね。では、よい3連休をお過ごしくださいませ。

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笑福亭鶴瓶は、フリージャズである。

 TBSが鶴瓶さんのトーク番組を延々と放送していますね。ドラマの番宣がらみで、さんまさんやら、長澤まさみさんやら、泉ピン子さんやら、武田鉄也さんやらが登場して、フリートークをするといった内容。トークの技能的には、鶴瓶さんは芸能人の中では下手な部類に入る人でしょうね。まあ、たどたどしく、いつまでたっても上手くならない人だなあ、と思いながら観ています。

 私は高校までずっと大阪で育ちましたので、思春期を鶴瓶さんを観たり聴いたりしながら成長した感じなんですね。私は昭和42年生まれですが、私の世代の関西人は、多かれ少なかれ鶴瓶さんに影響を受けてきた「鶴瓶世代」なんですね。ラジオで言えば、「ぬかるみの世界」や「ヤンタン」「わいのわいの90」。テレビで言えば「突然ガバチョ!」。

 それまでの大阪のスターと言えば、鶴光さんとか、三枝さんとか、ちょっと前なら仁鶴さんとか、独自の話芸を持ったオーソドックスなタイプの話家さん。でも、鶴瓶さんは、いままでとまったく違いました。なにせ、はっきり言えば、話芸なんてものがないんです。いわゆる、今で言うフリートーク。しかも、話芸としてのフリートークではなく、本物のフリートーク。めちゃくちゃです。話も「ガーっとなって、キーッとなって、キューっとなんねん。なあ、わかるやろ。」みたいな。ラジオでそんなこと言われても、わからんちゅうねん。

 でも、それが関西の若者の心をつかんでいくんですね。私もその一人で、夢中でラジオを聴いていました。話の内容も、いわゆる深夜ラジオにありがちな面白エッチ話ではなく、大阪弁でいうところの「うだ話」ですね。タクシーの運転手さんがこんなこと話してておもろかったとか、ときには真面目な政治の話とか、気の向くままにしゃべるんですね。

 それは、ジャズのフリームーブメントと同じなんですね。ジャズの理論が行くところまで行ったとき、フリージャズが誕生したんですね。これまでの理論とか伝統とかをぶっ壊すわけです。日本ではピアニストの山下洋輔さんとかサックスの坂田明さんですね。気の向くまま、思いのままにピアノを弾くわけです。サックスを吹くわけです。だけど、それは自分勝手に、というわけではなく、相手の音をものすごい集中力で感じながら。そこも、鶴瓶さんと一緒です。

 鶴瓶さんは、多くの番組で、年上の相手と組んでいます。放送作家の新野新さん、上岡龍太郎さん。それは、これまでの伝統的話芸の否定です。ジャズで言うところの、インタープレイですね。そういうある種のセッションとして会話に挑む鶴瓶さんですから、相手は相当なものを持っていなければならないんです。それが、インテリの新野先生だったり、上岡さんだったりするんでしょうね。上岡さんは、鶴瓶さんと話すときがいちばん面白いんです。他の人の時は、いつも相手が上岡さんに負けている。

 さんまさんも、ダウンタウンも、みんな、ある意味で鶴瓶の子供なんです。鶴瓶さんが切り開いたフリートークという道を走っているんです。前にも書きましたが、テレビ東京の「やりすぎコージー」で今田さんが東京の芸人を前にして「台本なかったら何もできない東京のヤツらに負けてたまるか。俺らはなあ、鶴瓶に教えてもうたんや。フリートークというやつをな。」と叫んでいましたが、まさにそれなんです。鶴瓶さんは、トークという分野で「フリー革命」をやった人だと、私は思います。

 今、鶴瓶さんは一生懸命落語に取り組んでますよね。「らくだ」を演ったり。それは、「フリージャズ」という軸で見るとよくわかるんですね。今、山下洋輔さんや坂田明さんは、ジャズの伝統に忠実な美しい演奏に回帰しています。つまり一周まわって、もう一度、基本に戻っているんですね。それは、きっと私は、ジャズ、そして、話のリアルを取り戻すためなのだろうと思うんです。それは、きっとフリージャズや、フリートークがジャンルになってしまったからだろうと私は思います。そして、自分の分野を省みると、広告というものは、すでに広告というジャンルになってしまっているんだろうなと、そんなふうに思うのですね。

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2007年10月 4日 (木)

ニューヨークでは、ジョン・スコフィールドのライブが1,000円くらいで聴けるらしい。

 もう15年以上も前の話になるけれど、バブル全盛の頃、私の所属していたジャズ研の同僚が嘆いていました。彼は、モダンジャズが大好きで、それこそ有名海外ジャズメンのライブは欠かさず見ていました。それが生き甲斐みたいな人です。今までは、例えば、渋谷公会堂とか中野サンプラザとかのホールでコンサートを行っていたのが、そういう箱ではやってくれなくなって、例えば、ブルーノート東京とかの高級ライブハウスでライブを行うようになって、今まで4,000円(当時の価格です)で聴けたのが、15,000円くらいになってしまったということでした。これはそのジャズメンが悪いのではなく、日本の当時のプロモーターの問題だったりするんだけどね。

 その人はいわゆる下戸で、当時は彼女もいなかったんですね。で、その人は、それでも有名海外ジャズメンのライブをどうしても聴きたいので、ブルーノートにひとりで行くんですね。高いチャージを払って、ワンドリンク頼んで聴くんですね。バブリーなカップルばっかりの中、貧相な格好で身をひそめて、食事も頼まずに、食い入るようにウィントン・マルサリスとかを聴くんですね。ジャズが大好きだから。バイトで稼いだお金をぜんぶ払ってね。

 一方、ニューヨークのとあるライブハウス。ファットチューズデーだったと思うんですけど。ジョンスコ(ジョン・スコフィールド=泣く子も黙る有名ジャズギタリストです)のライブが、チャージ1,000円そこそこで聴けるそうな。7年くらい前の話だから今はわからないけど。当たり前のようにジョンスコがそこにいた、と私の会社の先輩が興奮して語っていました。

 このところ、収益性の問題を個人的にねちねちと考えているんですが、まずはニューヨークのそういうジャズの状況はいいなあと思うのと同時に、ジョンスコがそういう箱でやる収益性がどうなっているんだろうなんて思うんですね。例えば、ビル・エバンスの「ワルツフォーデビー」というアルバム。ニューヨークのビレッジバンガードという有名ライブハウスの録音ですが、それを聴いてみると、客はおしゃべりしまくりで真剣には聴いていない感じなんですね。酒場のライブですね。ということは、チャージも安かったんだろうな、なんて思うわけです。日本の私から見たら、憧れのビレッジ・バンガードですけど。

 私、大塚まさじさんという音楽家が大好きなんですね。知らない方も多いでしょうから、説明しますと、あの「プカプカ」という曲を歌っている人です。「♪俺のあんこはタバコが好きで‥」という歌です。知ってるでしょ。カラオケでおやじが歌ってるでしょ。その原曲を歌ってる人です。なぜ大塚さんの音楽を知ったかというと、中学生の頃、大阪の御堂筋のお祭りで、路上ライブをやっているのをたまたま見たから。「天王寺思い出通り」という曲を歌っていて、それが妙に心に残っていて、それ以降、大塚さんの音楽を聴くようになったんですね。「♪しょんべん臭いプラットフォームの‥」という歌い出しの曲なんですねすけどね。 

 本当に偶然なんですけど、3年ほど前、大阪出張のときに、新幹線で大塚さんと席が隣になったんです。ギターを持っていらっしゃいました。で、恐る恐る「大塚さんですよね。」と聞いてみたんです。で、しばらくの間、いろいろとお話をさせていただいたんですね。で、中学校のときの御堂筋の路上ライブのとことかを尋ねてみたら、「あれはねえ、大阪市から大阪の歌ということで頼まれたんですよね。でね、歌い出しがしょんべんくさいプラットフォームでしょ、役人がまいったなあという顔してたなあ」なんて笑ってらっしゃいました。手弁当に近い感じだったそうです。

 文化って、そういうチープな部分と、リッチな部分がコインの裏表になってはじめて成り立つものなんなのだろうなと思うんですね。マーケティングは、そういう文化というコインの裏をすくい取れないかも、と思うんですね。いやいや、マーケティングというのは、そういう裏もすくい取るものなのだよ、という意見もあるでしょうけどね。なら、合理性と言ってもいいのかもしれないけど、結局、合理性だけで走ってしまうと、チープだけど重要な何かを切り捨ててしまって、文化そのものが衰退してしまうような気がするんですね。収益性を考えるときに、チープだけど大切な部分を考えていかないとえらいことになるだろうな、と思います。新聞とか広告とかのこれからを考えるとき、この視点は、大切かもなあ、と思います。テレビだと、AMラジオが駄目になったら、テレビも衰退するみたいな視点。でも、チープな部分の収益性も同時に考えないといけないけど。

 なんとなく、またまた、すっきりしない感じのわかりにくいエントリを書いてしまったな、なんて思いますが、まあ、ブログですから。なんとなくもやもやしていますが、本日はこんなとこで。ではでは。

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2007年10月 3日 (水)

それでも「はてな」はいいと思うんだけど。

 私は「はてなダイアリー市民」ではありません(って最近メモ用に開設した「はてなダイアリー」の管理画面に書いてあった。この「はてなダイアリー市民」ってなんだろう?税金を払ってないから市民になれないのかな。でも、まあ不都合がないからどうでもいいんですが。)。でも、ココログブロガーからすると、やっぱり「はてな」は他のネットコミュニティーと比べるといいなあと思います。あっさりしたIDのつながりというか、そんな感じが心地いいなと思います。他のブログサービスを利用しているブロガーが、サブブログで「はてな」を利用するの、分かる気がします。

 半月ほど前に『「はてな」のこと少しわかってきた。』というエントリを書きましたが、そのときより「はてな」のことはもう少しだけわかってきたつもりだけど、まあ、あんまりそのときの気持ちと変わっていません。ネットに自発的にかかわってから半年もたたないので、わりとニュートラルにネットのいろいろを見ることができると思うんですが、「はてなブックマーク」なんかはあいかわらず親切だよなあ、と思います。自分のためのブックマークと、他人のためのプラスアルファを残すことができるのが、とってもよいなあと思います。

 ただ、べた褒めばかりはできないところもあって、いわゆる「はてブ」的な悪意みたいなコメントの集中砲火も見受けられて、確かに、「はてなブックマーク」をはじめ、「はてな」のシステムは、悪意を誘発しやすい面をシステムとして内包してるなあ、というところもなきにしもあらずです。「はてブ」のコメントでも、「はてながいいんじゃなくて、はてなにいる人がいいのですよ。」と書いてあったりました。私はそのコメントの感覚がすごく好きですが、その人が気軽に善意=親切を表明できるシステムは、使う人によっては悪意を気軽に表明できるシステムでもあるんでしょうね。

 ああいう悪意のあるコメント(人によっては単なるネガティブコメント)って、人によってはけっこうまいるだろうし、ブログやめようかなと思うかも、と思うし、ちょっと他人事ながらさみしい気分になることもあったり。「はてブ」って、基本は、このエントリって面白いよ、というのが持ち味なのになあ。ちょっとちゃうな、と思ったらスルーすればいいと思うんですが。そうはいかないものなんですかねえ。反論とかはブログでやればいいじゃないですか。ねえ。

 でもこれは、ちょっと醒めた言い方だけど、そういう「はてな」的な親切とのコインの裏表なんだろうなと思います。もちろん、その悪意をいいとは思わないけど、メリットとリスクの等価交換なんだろうなと思うんですね。実名匿名論争関連のエントリでも書きましたが、これだけネットの人口が多くなってきたら(私のような邪魔臭がりがブログ書くような時代(参照)ですものね)、それはいろいろありますよね。それは、社会だって同じですよね。その等価交換のバランスが崩れてきたら問題でしょうけど、そのときは社会が許さない、というくらいにはネットの社会もバランス感覚は持っているのだろうと思います、というかそうであると信じたいです。そのバランスが崩れたら、まずは「はてな」がすたれます。そういう意味では、市場原理をある程度信じています。

 ブログのコメント欄やトラックバックのシステムなんかもまさにそれで、私なんかもそれこそ試行錯誤中ですが、やっぱりコメントやトラックバックの便利さや、そこでのコミュニケーションのいい部分も享受しているなら、デメリットに関しては、あんまり無理しない程度に、それぞれが、それぞれの方法で、それぞれの思う等価交換に照らしながら四苦八苦しないといけないんだろうな、と思うんですね。ごみトラバを笑うくらいがいいんじゃないでしょうか。そういう梅田望夫さん的なポジティブさでネットに関しては対していきたいなと思います。せっかくネットの世界に入ったんだから、希望の言葉を語りたいなあ、と思うんですが、ちょっと甘いでしょうか。

 じゃないと、なんかこうしてどれだけ疲れていても、ほぼ毎日エントリを書く気などしないじゃないですか。ねえ、そう思いませんか、ブロガーのみなさん。そして、新規参入組のブロガーのみなさん。お互い、明るく、強く、ゆっくり、自分のペースでやっていきましょうね。

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2007年10月 2日 (火)

W-ZERO3[es]のフォーマット方法

 私の[es]君が突如不調に。ネットにつながらなくなりました。モデムが認識しなくなってしまったのです。うーん、どうしたもんかということで、原因究明のために、とりあえず電話をかけてみる。つながる。メールを受信。やはりつながらない。ということはモデムが原因か。ということは、W-SIMの不調ではとりあえずなさそう。もしかすると何かの拍子にメールの設定を変更してしまったのかも。で、見てみるも、違ったところはなし。ということは、もう一度オンラインサインアップをすればいいのかもね、ということでポチッと押してみるも、やはりモデム認識せず。

 ということでここらへんで挫折。これはもうフォーマットで工場出荷状態に戻すしかないなあ、と思い、急いで「W03DataBackup」というW-ZERO3データ移行ツールでPIMなどのデータをバックアップ。これを忘れると、せっかく記憶した電話番号やらメールアドレスやらが消滅してしまいます。ちなみに、純正のバックアップソフトは使っているうちにバックアップもリストアもできなくなってしまいます。ネットで調べると、そういう人は多いみたい。なので、データを保護したいひとは、早めに上記ソフトに切り替えるほうがいいですよ。

 それと、このソフトはMiniSDに置いてください。でないと、フォーマットをすると、本体のメモリにあるデータはすべて工場出荷時に戻りますので、ソフトがなくなっているのでリストアできないですから。MiniSDを挿入するとこのソフトが立ち上がる設定にしておくとよいですね。バックアップしておくのは、私はPIMとATOK、お気に入り、Opera関連ファイルだけです。マイドキュメント内のファイルは全部MiniSDに入れていましたし、プログラムファイルは保護されるのはインストーラーを使わなくていいソフトだけなので、あまり意味ないかも。それに、せっかくフォーマットするんですから、メモリをすっきりさせたいですよね。

 ※しかしながら、インストールをMiniSDにすると、今度はフォーマット後、バックアップモードにならないようで、やっぱり本体にインストールすべきなのかも。ちなみに、本体にインストールしなおすとバックアップできるようになりました。基本は、こういう使い方がこのソフトの使い道ではなく、W-ZERO3からW-ZERO3[es]へのデータを移行するためのものなので、そのへんはちょっと私にはわからないところです。上記リンクの説明には「本体exeファイルをクリックするとバックアップモードになります」と書いていました。

 で、MiniSDを外して、電池を外して、蓋を取った裏側右下のリセットボタンをスタイラスで押して、また電池をはめて、QWERTYキーボードの[Fn][F]と本体前面の電話キー=[PWR HLD]の同時長押しで、購入後初のフォーマットを決行。この時、注意することは、くれぐれもAC電源を入れておくこと。電池でやるとどうなるかはやったことがないのでわかりませんが、けっこうめんどくさいことになりそうな。後は、画面の表示に従うだけです。ああ、この画面懐かしいなあ。買ったときのことを思い出しました。

 MiniSDを入れてリストア。うーん気持ちいい。あとは、オンラインサインアップとメールの設定、必要なソフトをインストールするだけです。ソフトは使う頻度が高いソフトを厳選しました。私の場合、こうですね。

 ・OffisnailDate(予定表ソフトです。このブログでも紹介。)
 ・OffisnailNote(姉妹品の便利ノート。)
 ・TCPMP(定番のムービープレイヤー。WMPより便利で高機能。)
 ・Windows Live(Hotmailの送受信をデフォルトのメールで扱えます。)
 ・YTaskMgr(タスクマネージャ&ランチャ。このブログで紹介。)
 ・ChuSuisoku(ATOKのON/OFF。QWERTYキーボード入力で活躍。)
 ・XnView Pocket(フォトビューア。これも便利。)
 ・jsurfer calendr(Todayにカレンダーを表示。)
 ・Pocketの手(各種設定。これがあるとフォントをなめらかにできる。)
 ・NegiTodayAGENDA(Todayに予定表を表示。)
 ・kawa GSFinder(高機能ファイラー。圧縮解凍も。)
 ・MEGAPLUS(画像が荒くなるけどネットが早くなる。)
 ・Microsoft .NET CF2.0(下記ソフトを動かすのに必要。要WinPC。)
 ・PocketSkyView(青空文庫を受信して閲覧。抜群のソフト。)
 
 結構多いですが、それでも前の環境の3分の1くらいですね。ソフトを少なくすると、内蔵メモリを節約できますので、動作がキビキビします。それに不安定要因が減りますし。あとね、よく言われることですが、Today弄りもほどほどにね。結構、Today関連のトラブルは多いみたいですね。ついつい遊んじゃうんですが、まあ、使えてなんぼの[es]ですからねえ。使えなくなったら、ただの箱です。

 ちなみに、googleでヒットしやすいように、わかりやすいタイトルにしておきました。困ったとき、参考になさってください。この手順さえ踏めば、初心者の方でも、フォーマットはあまり面倒でもなく、怖くもなく、[es]もシェイプアップ&リフレッシュしていいかも、ですよ。アドエスでも同じ手順です(多分)。ではでは。

※最初、タイトルを「フルリセット」としていましたが、調べてみると、この内容は「フォーマット(ハードリセット)」と呼ぶそうです。なので修正しました。リセット方法は3種類。データが消えるのはフォーマット(ハードリセット)のみ。ちなみに、正しくは、リセットの方法は3種類ります。でも、ネットを見ると、私と同じようにフォーマットのことをフルリセットと呼んでいる人が多いみたいですね。

リセット

・QWENTYキーボードの[Fn]キー上のリセットボタンをスタイラスで押す。
・作業中のデータは失われるが、設定は保護されたまま。メモリを解放。

フルリセット

・本体背面の蓋を取り、充電池を外す。
・充電池をはずしたまま15秒以上待つ。
・蓋をはめ、電源を入れる。
・もしくは、蓋を外したとき右下にあるリセットボタンをスタイラスで押す。
・[PWR HLD]キー長押しで電源を入れる。
・時計がリセットされているので、再設定する。

フォーマット(ハードリセット)

・本体背面の蓋を取り、充電池を外す。
・充電池をはずしたまま15秒以上待つ。
・蓋をはめ、電源を入れる。
・もしくは、蓋を外したとき右下にあるリセットボタンをスタイラスで押す。
・QWERTYキーボードの[Fn][F]と[PWR HLD]長押しで電源を入れる。
・フォーマット確認の画面が出るので、「OK」で実行する。
・工場出荷状態に戻る。

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2007年10月 1日 (月)

新聞のゆくえ、広告のゆくえ。

 週刊文春『スクープ 読売・朝日・日経「3強」が販売店統合で動いた!』とか、ANYとか、毎日.jpとか、このところ新聞まわりがなにやら騒がしいですね。以前、finalventさんと、はてなの「finalventの日記」にてやりとりをさせていただいて、それが非常に私にとっては興味深かったんですね。新聞は広告であるという前提でいろいろな話ができたりして、そのひとつひとつがなるほどと思うことばかりでした。
 で、あれからもぼんやりと私のほうでも考えていましたが、なにしろfinalventさんは、私なんかより思考の速度がずっとずっと早い人で、比べると鈍行と新幹線くらいの差がありますね(なんかたとえが古いですが)。で、finalventさんの言葉の引用から始めます。

私は、収益モデルが、記者というか新聞ジャーナリズムの在り方を規定していると考え、マインドの独立性をそれほど信じないというか重視しません。

 で。

 それとちょっと矛盾するけど、新しい試みについて、繰り返すけど、どこかに抑制的な評価と希望を持つべきだと思うのですよ。

 ちょっと戻ると、「収益モデルが、記者というか新聞ジャーナリズムの在り方を規定している」だけど、新聞記者は、それで10年飯が食えた人であれば、やはりプロだと思うのです。少なくとも、自分などよりは、取材して書く技能は優れているのは当然だと、そこは、他の職業でもそうだけど、10年選手、20年選手というのは相当に技能を持っています。
 
「finalventの日記」ま、ちょっと追記みたいに より

 
 『新聞のゆくえ、広告のゆくえ。』というタイトルですが、私がこの問題を考えるスタンスは、finalventさんに近いです。新聞になぜ興味を持つかといえば、広告がその新聞の広告媒体としての価値に依存してるからです。そして、新聞も広告も、社会に必要だと思うからです。そして、まあ、これは私の個人的な思いですが、広告が好きだからですね。
 10年選手、20年選手という話もまさにそうで、私なんかは広告でいえばその当事者です。マインドの独立性で言っても、衣食足りて、みたいなことで、「食えなくても、信義を守るべきである。真実の広告マン(報道マン)たれ。」みたいな論は、私にとってはわりとどうでもいいかな、みたいな感じです。食えなくなったら、信義とか理想とかよりも、まずは他の道を探さなくちゃいけないし。信義の問題なんかは別の人がやられるだろうなと思いますし、ときどきは私もやりますけど、新聞とか広告の構造の問題を語るときは、構造として個別に語りたいし、現状の大切な価値を崩壊させる道ではなく、生き残る道を考えたいし、もしそれが不可能なときどのようなカタチになれば、同じような価値をつくることができるのか、ということを考えて生きたいと思うんですね。自分のためにも。
 昨日のエントリ(参照)は、ちょっとカッコつけすぎで、わかりにくかったなあと。広告コピーで言えば、「もっと具体的に書け!」みたいなことをCDに言われる見本かもしれませんね。ちょっと反省。若気の至りですわ。でも、あのエントリでは、例えば、音楽の業界はどうだったのか、お笑いの業界はどうだったのか、みたいな話で、であれば、新聞とか広告は、収益性の面でぎりぎりでも、何を優先順位として残さないといけないんだろう、みたいなことですね。音楽やお笑いで言うところの「箱」は何だろうということです。
 新聞を広告としてみた場合、やはり紙である「新聞」と「折込チラシ」であろううかと思います。基本的に、広告は受動メディアのほうが、より力を発揮しやすいと思っています。受動メディアは、テレビ、ラジオ、新聞、交通、雑誌ですね。マス4媒体とそれに付随する媒体。チラシ媒体は「捨てられる」という点で、見るほうの能動性に委ねられるので、能動メディアっぽい。ネットは、バナーを見るまでは受動メディアで、基本はクリックなので、かなりの部分が見るほうの能動性に委ねられている。そこは、今、Web2.0とかCGMとか言われているものの広告的特性の本質だと思います。で、「新聞折込チラシ」は新聞に封入されている点で、その新聞の権威が保障する意味において、非常にすぐれた能動メディアだと思うんですね。
 新聞を広告としてみた場合、「新聞折込チラシ」は、結構生命線だと思うんですね。その意味では、このブログでも何度も言っているけど、Web2.0だ、行動型マーケティングだ、ネットだ、というのは、本当は広告会社にとって、メインストリームではなくてね。これは、見えてる人にはなんとなく見えているような気もします。但し、表現としてのインタラクティブ性の可能性はメインストリームとして考えていかなくちゃいけないけど。
 そう考えると、ちょっと見えてくるものがあって、ANYなんかも、ネットに大型のポータルを作って新聞という能動メディアを何割かは置き換えていこうという考えなのかもしれないな、と。いつまでもYahoo! JAPANじゃないよ、と。すくなくとも広告的価値としてYahoo! JAPANに迫りたいということなのかも。
 具体的に書くと、今度はこんがらがってしまいましたが、今回はこのへんで。随時考えて生きます。よろしくです。

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トップを走っている者には見えない景色は、走ることをあきらめた者にも、同じように見えない。

 こんなブログにも一片の存在意義があるとすれば、トップを走っている者には見えない景色を精密に書いていくことくらいだと思います。出版ではなく、ブログに意味があるとすれば、それは、商業流通に乗らない言葉を書き綴ることくらいなのだと思うのです。構造の変化は、頂点にいる者には決して見えません。それは、昨今マスコミで盛んに語られる、新聞の崩壊論議を見ていても、広告の危機論議を見ていても、勘としてなんとなく思うことです。なぜなら、構造の変化で真っ先に影響を受けるのは、私たち頂点にいない者たちだからです。まあ、肌で感じる危機感が違いますよね。

 そんな私たちには、罠が待ちかまえているような気がします。甘く、心地よく、安易な共感を生んでしまう、ルサンチマンの言葉。大手はいいよな。有名じゃないから。こそから発した建設的な提言は、それがいかに建設的であったとしても、じゃあおまえがやれよ、で話が終わってしまうと思うんですね。トップを走っている者に見えない景色は、走ることをあきらめた者にも、同じように見えないと思います。だから、走ることを続けていきたいと思います。後続組から見える景色を、トップを走る者を見据えつつ、しっかりと見ていきたいと思います。

 あらゆる構造は、8割の普通の人たちが支えています。それはどんな世界も、どんな業界も同じです。広告を支えているのは、私のような実名でブログを書くことにメリットを見いだせない広告人たちです。新聞を支えているのは、地味な現場で取材をしているジャーナリストたちです。

 有名じゃなくても、いろいろ考えてるんだぜ。とブログを始めるとき私は書きました。それは照れ隠しでも、僻み根性も何でもなく、結構本気。だから、自戒を込めて書いておきたいと思うのです。有名じゃなくても、というのは、だからこそ見える景色があるということ。ある種の自負心です。私はそれをこのブログで書いていきたいと思います。

 小さなライブハウスでニューオリンズジャズを聴きました。関西で活躍するトランペッターのMITCHさんのバンド。音楽を支えているのは、言葉は悪いけれど、今どき、こんな時代にニューオリンズジャズに魅せられ、かたくなにそのスタイルを守り通している、MITCHさんのような素晴らしい音楽家と、演奏の場所を提供する箱、そして、踊りながら音楽を心底楽しむ若いお客さんたちです。

 お笑い業界の例をとれば、これだけの厚い層が今存在しているのは、テレビの影響だけではないと思うのです。それは、吉本興業、松竹芸能といった芸能大手が箱を止めなかったから。収益性はそう高くはない箱を、お笑い業界は維持し続けました。音楽業界でも、六本木ピットインはもうないけれど、小さな箱が、収益性ぎりぎりのところでかろうじて維持されています。そのぎりぎりの収益性が閾値を超えたとき、音楽は崩壊するのでしょう。素晴らしいニューオリンズジャズを聴きながら、そんなことを考えました。その音楽の危機は、きっと、トップを走る者には見えないことだと思います。

 私は広告も、徒花的ではありますが、ひとつの文化だと思っています。けれども、あらゆる文化は、志だけでは動きません。衣食足りて礼節を知るでも、上部構造は下部構造が規定するでも何でもいいけれど、あらゆることは収益性を考慮に入れなければいけない気がします。それは案外ピュアアートでも一緒かな。いままで、私は表現という側面から広告をとりまく構造の変化を考えてきました。それはそれでやっていきたいですが、もう少し大きな構造の中で考えていかなければいけないかな、とここ最近考えています。それは、もしかすると私の能力を超えた話かもしれませんが。まあ、自分のペースで、ぼちぼちとね。

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