新聞のゆくえ、広告のゆくえ。
週刊文春『スクープ 読売・朝日・日経「3強」が販売店統合で動いた!』とか、ANYとか、毎日.jpとか、このところ新聞まわりがなにやら騒がしいですね。以前、finalventさんと、はてなの「finalventの日記」にてやりとりをさせていただいて、それが非常に私にとっては興味深かったんですね。新聞は広告であるという前提でいろいろな話ができたりして、そのひとつひとつがなるほどと思うことばかりでした。
で、あれからもぼんやりと私のほうでも考えていましたが、なにしろfinalventさんは、私なんかより思考の速度がずっとずっと早い人で、比べると鈍行と新幹線くらいの差がありますね(なんかたとえが古いですが)。で、finalventさんの言葉の引用から始めます。
私は、収益モデルが、記者というか新聞ジャーナリズムの在り方を規定していると考え、マインドの独立性をそれほど信じないというか重視しません。
で。
それとちょっと矛盾するけど、新しい試みについて、繰り返すけど、どこかに抑制的な評価と希望を持つべきだと思うのですよ。
ちょっと戻ると、「収益モデルが、記者というか新聞ジャーナリズムの在り方を規定している」だけど、新聞記者は、それで10年飯が食えた人であれば、やはりプロだと思うのです。少なくとも、自分などよりは、取材して書く技能は優れているのは当然だと、そこは、他の職業でもそうだけど、10年選手、20年選手というのは相当に技能を持っています。
「finalventの日記」ま、ちょっと追記みたいに より
『新聞のゆくえ、広告のゆくえ。』というタイトルですが、私がこの問題を考えるスタンスは、finalventさんに近いです。新聞になぜ興味を持つかといえば、広告がその新聞の広告媒体としての価値に依存してるからです。そして、新聞も広告も、社会に必要だと思うからです。そして、まあ、これは私の個人的な思いですが、広告が好きだからですね。
10年選手、20年選手という話もまさにそうで、私なんかは広告でいえばその当事者です。マインドの独立性で言っても、衣食足りて、みたいなことで、「食えなくても、信義を守るべきである。真実の広告マン(報道マン)たれ。」みたいな論は、私にとってはわりとどうでもいいかな、みたいな感じです。食えなくなったら、信義とか理想とかよりも、まずは他の道を探さなくちゃいけないし。信義の問題なんかは別の人がやられるだろうなと思いますし、ときどきは私もやりますけど、新聞とか広告の構造の問題を語るときは、構造として個別に語りたいし、現状の大切な価値を崩壊させる道ではなく、生き残る道を考えたいし、もしそれが不可能なときどのようなカタチになれば、同じような価値をつくることができるのか、ということを考えて生きたいと思うんですね。自分のためにも。
昨日のエントリ(参照)は、ちょっとカッコつけすぎで、わかりにくかったなあと。広告コピーで言えば、「もっと具体的に書け!」みたいなことをCDに言われる見本かもしれませんね。ちょっと反省。若気の至りですわ。でも、あのエントリでは、例えば、音楽の業界はどうだったのか、お笑いの業界はどうだったのか、みたいな話で、であれば、新聞とか広告は、収益性の面でぎりぎりでも、何を優先順位として残さないといけないんだろう、みたいなことですね。音楽やお笑いで言うところの「箱」は何だろうということです。
新聞を広告としてみた場合、やはり紙である「新聞」と「折込チラシ」であろううかと思います。基本的に、広告は受動メディアのほうが、より力を発揮しやすいと思っています。受動メディアは、テレビ、ラジオ、新聞、交通、雑誌ですね。マス4媒体とそれに付随する媒体。チラシ媒体は「捨てられる」という点で、見るほうの能動性に委ねられるので、能動メディアっぽい。ネットは、バナーを見るまでは受動メディアで、基本はクリックなので、かなりの部分が見るほうの能動性に委ねられている。そこは、今、Web2.0とかCGMとか言われているものの広告的特性の本質だと思います。で、「新聞折込チラシ」は新聞に封入されている点で、その新聞の権威が保障する意味において、非常にすぐれた能動メディアだと思うんですね。
新聞を広告としてみた場合、「新聞折込チラシ」は、結構生命線だと思うんですね。その意味では、このブログでも何度も言っているけど、Web2.0だ、行動型マーケティングだ、ネットだ、というのは、本当は広告会社にとって、メインストリームではなくてね。これは、見えてる人にはなんとなく見えているような気もします。但し、表現としてのインタラクティブ性の可能性はメインストリームとして考えていかなくちゃいけないけど。
そう考えると、ちょっと見えてくるものがあって、ANYなんかも、ネットに大型のポータルを作って新聞という能動メディアを何割かは置き換えていこうという考えなのかもしれないな、と。いつまでもYahoo! JAPANじゃないよ、と。すくなくとも広告的価値としてYahoo! JAPANに迫りたいということなのかも。
具体的に書くと、今度はこんがらがってしまいましたが、今回はこのへんで。随時考えて生きます。よろしくです。
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