「インターネットは広告でできている」という仮説。
新聞は広告である、という仮説で考えると、今の新聞、つまりジャーナリズムの状況がより分かりやすく見えてくる、ということを前に書きました。(参照:「新聞のゆくえ。広告のゆくえ。」)たぶん、それは仮説ではなくて、事実だろうと思うのですが、つまるところ、広告が効かなくなるという現象は、ジャーナリズムを支える収益構造が崩れることを意味していて、それはジャーナリズムの存立基盤を失うということを意味しているのですよね。個々人のモラルの問題がよくジャーナリズムの崩壊まわりの話題で語られるけれども、それと同じように、いやもしかするとそれ以上に重要なのが、この視点だと、私は考えます。人間なんてものは、どの時代もそう変わるものじゃないという立場で考えると、じつは個々人のモラルの問題は、たいした問題ではないともいえます。そんなに個々人ではモラルが下がりはしない。けれども、そうそう変わるものではない人間が唯一大きく変わるとすると、それは、その人間を支える基盤が変わることだと思います。そういう意味において、私は、マルクスの「上部構造は下部構造が規定する」という言葉を、すごく重い言葉だと考えています。
テレビも同じですよね。ラジオもそう。あらゆるものがそう。私が広告屋をやっているからではないですが、今の社会を作ってきた相当に重要なドライバーが「広告による収益」というシステムだと思うのです。広告があるから、無料でテレビが見られて、ラジオが聴ける。新聞が毎日届けられる。そんな過剰なまでの文化の洪水を享受できるのは、この広告システムの発見があったからです。別に、だから広告は大切、というような価値観を話しているのではなく、事実としてそうだと思うんですね。
で、インターネット。この「@nifty」だって「google」だって「Yahoo!」だって「2ちゃんねる」だって「はてな」だって、みんな「広告による収益」を基盤に存立しています。(と言い切っていいのかはわかりませんが)もし、「広告による収益」を考えずにサービスを存続させれば、いまのような無料もしくは少々のお金では使えなくなるはずです。
こういう視点で見た場合、少なくとも2つの道があって、ひとつは「暮らしの手帖」型のモデル。言ってみれば、「広告による収益」に頼らない道。そして、もうひとつは、この収益構造を発展させていく道です。私は、職業として、後者の道を選ばざるを得ない立場であることは、このブログの名前を見ていただいてもお分かりだと思います。というか、まあね、やっぱり「広告による収益」でサービスやらジャーナリズムやら文化やらを成り立たせるシステムって、貨幣と同じくらい大きな発明というか、重要なことという気は、すごくしてるんですよね。今、マルクスが生きてたら、このことに触発されて、「資本論」の論旨が変わったのかもしれないなあ、とも。(でも、あらかじめ言っておきますが、あまり「資本論」のこと知らないんですけどね。論語読みの論語知らず、みたいな感じです。)
話を戻して、インターネット。まあ、しょうがないことでもあるけれど、こういう視点って、ネットではあまり語られないなあ、なんて思ってて。けっこう本質っぽいように思えるんですが、本気で考えると暗い気持ちになるからなのかな。私がこういうことが気になるのは、私が広告屋という社会の裏方さんだからかもしれませんね。それに、この先は、ちょいと難しそうだし、私にも手に負えるかどうかわかりませんしね。でも、結構、ネット社会も含めたこれからの社会にとって重要な要素だとは思うんですよね。なんとなくそんな気がします。だって、ブログがどうのこうのも、mixi八分がどうのこうのも、はてな村がどうのこうのも、実名匿名がどうのこうのも、2ちゃんねるがどうのこうのも、みんなそういうサービスが成り立っているということが前提ですものね。
その先の話、ちょっと今のところ思いつきません。それと、まあ、この「インターネットは広告でできている」という仮説は、あまり表立って語られていないけれど、考えてみれば、けっこう当たり前の話でもあって、何をいまさら力んで言ってるの?という突っ込みも聞こえてきそうですが。
最後に余談です。なんだか、最近、ちょっと広告ブログっぽくなってきましたが、本人は、ぜんぜんそんな感じでもなく。ホントは、「人間のタイプをOSで言うと‥‥」みたいな感じの気軽なエントリを書きたいんですけど、ああいうのはなかなか難しいなあ。狙って書くと面白くならないし。ちなみに、あのエントリ、はてブを見ると楽しく読んでいただいたんだなあ、と感謝でいっぱいなんですが、というよりはてブのコメントの方が元エントリより面白かったりするんですが、書いたときはなんか苦し紛れだったんですよね。なるだけ毎日書こうと思ってたけど、その日は何も浮かばなくて。それで昔、飲み屋さんで話してた自分の持ちネタを書いたんですよね。そんなエントリが、私のまだ始めたばかりのブログの中で、けっこう読まれる記事になるなんて、ブログのエントリって、不思議なもんですよね。で、こういうブログも、ある程度は広告の収益で成り立ってるんですよね。ではでは。
追記:まあこういう「インターネットは広告でできている」とか「テレビもラジオも新聞も広告でできている」という視点で考えているから、広告がいい感じで社会に機能するように一生懸命考えているのかもしれんなあ、なんて思いました。広告はおじゃま虫だけど、おじゃま虫はおじゃま虫なりに、好かれるおじゃま虫でありたいなと思うんですよね。やっぱり、広告いらないよ、うざいし、じゃいやなんですわ。さみしすぎるんです。私は「ネット」も「テレビ」も「ラジオ」も「新聞」も大好きですから。それに、「広告」も。
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コメント
いいエントリーだーw
【極東ブログ: [書評]ウェブは資本主義を超える(池田信夫)】にもあるように(わたくしも読みましたが)
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2007/07/post_202c.html
<< つまり情報生産において、資本主義の法則が逆転し、個人の時間を効率的に配分するテクノロジーがもっとも重要になったのである。だからユーザーが情報を検索する時間を節約するグーグルが、その中心に位置することは偶然ではない。資本主義社会では、希少な物的資源を利用する権利(財産権)に価値がつく。情報社会では膨大な情報の中から希少な関心を引きつける権利(広告)に価値がつくのである。>>ですよ!
投稿: tom-kuri | 2007年10月20日 (土) 00:50
tom-kuriさま、ありがとうございます。このエントリ、あまり読まれてない気がしていたので、素直にうれしいです。
余剰価値という意味では、完全に物から情報に変わっていますよね。情報と情報の差異化によって価値が生まれる、というのはもう生活の実感レベルの現象ですね。
えっと、これ書いたあともいろいろと考えてて「貨幣という発明によって、資本主義がで発展しているけれど、その資本主義というシステムは恐慌によって破綻する」みたいなことが大雑把な理解ですが、マルクスが言っていることだと思うんですが、だとすると、この貨幣を広告に変えると「広告という発明によって、文化の大衆化したけれど、その文化の大衆化は広告の無効化=広告の終焉によって破綻する」みたいなことも言えなくもなく、ちょっと今の広告の状況と照らし合わせると、うーん、となってしまいました。
それは、もしかすると、そういう情報社会そのものを支えるシステムの破綻でもあるのですものね。
でも、マルクスが言ってる破綻は、資本主義は、高度資本主義社会の段階になって、ほぼ乗り越えていると言えなくもないし、未来は明るいと考えたいのですが。
投稿: mb101bold | 2007年10月20日 (土) 02:58