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2007年10月 1日 (月)

トップを走っている者には見えない景色は、走ることをあきらめた者にも、同じように見えない。

 こんなブログにも一片の存在意義があるとすれば、トップを走っている者には見えない景色を精密に書いていくことくらいだと思います。出版ではなく、ブログに意味があるとすれば、それは、商業流通に乗らない言葉を書き綴ることくらいなのだと思うのです。構造の変化は、頂点にいる者には決して見えません。それは、昨今マスコミで盛んに語られる、新聞の崩壊論議を見ていても、広告の危機論議を見ていても、勘としてなんとなく思うことです。なぜなら、構造の変化で真っ先に影響を受けるのは、私たち頂点にいない者たちだからです。まあ、肌で感じる危機感が違いますよね。

 そんな私たちには、罠が待ちかまえているような気がします。甘く、心地よく、安易な共感を生んでしまう、ルサンチマンの言葉。大手はいいよな。有名じゃないから。こそから発した建設的な提言は、それがいかに建設的であったとしても、じゃあおまえがやれよ、で話が終わってしまうと思うんですね。トップを走っている者に見えない景色は、走ることをあきらめた者にも、同じように見えないと思います。だから、走ることを続けていきたいと思います。後続組から見える景色を、トップを走る者を見据えつつ、しっかりと見ていきたいと思います。

 あらゆる構造は、8割の普通の人たちが支えています。それはどんな世界も、どんな業界も同じです。広告を支えているのは、私のような実名でブログを書くことにメリットを見いだせない広告人たちです。新聞を支えているのは、地味な現場で取材をしているジャーナリストたちです。

 有名じゃなくても、いろいろ考えてるんだぜ。とブログを始めるとき私は書きました。それは照れ隠しでも、僻み根性も何でもなく、結構本気。だから、自戒を込めて書いておきたいと思うのです。有名じゃなくても、というのは、だからこそ見える景色があるということ。ある種の自負心です。私はそれをこのブログで書いていきたいと思います。

 小さなライブハウスでニューオリンズジャズを聴きました。関西で活躍するトランペッターのMITCHさんのバンド。音楽を支えているのは、言葉は悪いけれど、今どき、こんな時代にニューオリンズジャズに魅せられ、かたくなにそのスタイルを守り通している、MITCHさんのような素晴らしい音楽家と、演奏の場所を提供する箱、そして、踊りながら音楽を心底楽しむ若いお客さんたちです。

 お笑い業界の例をとれば、これだけの厚い層が今存在しているのは、テレビの影響だけではないと思うのです。それは、吉本興業、松竹芸能といった芸能大手が箱を止めなかったから。収益性はそう高くはない箱を、お笑い業界は維持し続けました。音楽業界でも、六本木ピットインはもうないけれど、小さな箱が、収益性ぎりぎりのところでかろうじて維持されています。そのぎりぎりの収益性が閾値を超えたとき、音楽は崩壊するのでしょう。素晴らしいニューオリンズジャズを聴きながら、そんなことを考えました。その音楽の危機は、きっと、トップを走る者には見えないことだと思います。

 私は広告も、徒花的ではありますが、ひとつの文化だと思っています。けれども、あらゆる文化は、志だけでは動きません。衣食足りて礼節を知るでも、上部構造は下部構造が規定するでも何でもいいけれど、あらゆることは収益性を考慮に入れなければいけない気がします。それは案外ピュアアートでも一緒かな。いままで、私は表現という側面から広告をとりまく構造の変化を考えてきました。それはそれでやっていきたいですが、もう少し大きな構造の中で考えていかなければいけないかな、とここ最近考えています。それは、もしかすると私の能力を超えた話かもしれませんが。まあ、自分のペースで、ぼちぼちとね。

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