結局、いま言われている「広告の終焉」論を突き詰めると、メディアや手法の問題ではなく、表現の問題に行き着くのではないかなあ、と思うんですよね。
日経BPオンラインに興味深い記事が出ていました。けっこう話題になった記事ですので、もうお読みの方はいらっしゃるかと思います。執筆されたのは、キシリトールという素材を世に広めたことで知られるPRマンの藤田さんです。大まかな要約で言えば、CGMなどの普及したWeb2.0時代において、もはや従来の広告手法は効かなくなっている、みたいなことですね。詳しくは、ぜひ記事をお読みください。
「楽しいテレビ広告ありがとう。でも商品は買わないよ」藤田康人
その記事に対して、「知人という気安さから」あえて異論、というカタチで、従来の広告手法に対してブランディングという観点からの再評価についての記事を書かれたのは、日本の大手広告代理店CMプランナーからネットエージェンシーへ転進された須田さんです。
「素敵な広告をありがとう。20年間ずっと買っちゃうよ」須田伸
私は、今、広告について最も熱心に考えている人たちがいるのが、ウェブの世界の人たちであるというような印象を持っています。良くも悪くも、事実、このウェブの分野が広告の最前線だと思うのです。このブログでは、私もそのあたりについて、ネチネチとやっていたりしますが、この最前線のお二人の論議は、さすが最前線の人たちだけあって、すごくスリリングですね。
藤田さんの記事は、タイトルに「テレビ広告」と書かれているので、真意を見逃しがちだと思うのですが、藤田さんの問題意識は、きっと、下記の引用につきるのだと思うのですね。
しかし、それでもそれらの広告の多くは、広告本来の最大の目的である消費者を購買に向かわせるというミッションを果たせるのでしょうか? 昨年、ある飲料ブランドがmixi(ミクシー)で、製品コミュニティーを開設し、凄いアクセスを稼ぎ出し成功事例としてマーケティングの世界では話題になりました。ところが、その製品の販売は全く増えませんでした。
また、マス広告X企業のウェブサイトXモバゲーのインタラクティブなクロスメディア企画としてマーケティング的には話題になったプロモーションがありましたが、これも販売には影響がありませんでした。
今の消費者は“面白い広告で楽しませてくれてありがとう。お礼に製品を買うよ!”とはならないのです。
恐らく、それは購買行動を決める決定的な要因となる情報が、マス広告でもなくネット広告でもない別の何かに移ったということなのでしょう。そんな中でPRやCGM(コンシューマー・ジェネレーテッド・メディア)という新しいソリューションが注目されているのです。
それらが広告と明らかに違うのは、現代の消費者の購買意志決定に非常に影響を与える事実という情報の信頼性、中立性を備えているということです。
私は、主にマス広告を生業にしている広告制作者ですが、この問題意識、ひしひしと感じています。と言いますか、私が書く広告論のほぼすべてがこのテーマですね。もう、はっきり言えば、肌で感じるのです。この話、決して、テレビや新聞などのマス広告に対する、Web広告の優位という話ではないのですね。より発展させて、私の考えをそこに入れると、テレビや新聞のマス広告からWeb広告まで含めた、広告というもののあり方の問題なのです。私の問題意識から言い切ってしまえば、それは「表現」の問題なのです。
須田さんは、その異論として、ブランディングとかブランドビルディングという観点で従来の広告手法に対する再評価を行っています。ルイ・ヴィトンの良質なブランド広告が決して短期的な売り上げに貢献するものではないという前提で、須田さんはこう書いています。
では、この広告は無価値なのか?
無価値どころか、2年、3年、いや10年といったスパンで考えたとき、ルイ・ヴィトンというブランドにとって、最良の広告キャンペーンだと思います。
人間が何かと深く結びついたり、好きになったり、パートナーになっていくためには、それなりの時間をかけなければ。
確かにその通りで、私はそこに異論はありません。けれども、私自身が思う「表現」の問題とは、ブランディングや販売促進など、あらゆる目的をすべて含めた上での広告における「表現」の問題なんですね。
そこには、私のある確信があって、それは、CGMなどが普及するWeb2.0時代にもなお、ある種のマス広告の優位はあまり変わらないだろうなといことです。割合は変わるかもしれませんが。ブランディングだけでなく、販売促進の分野においても、きっとテレビなどのマスの有効性は変わらないだろうと思うんですね。これから先、ジリ貧になっていくマス広告であったとしても、マス広告は、ブランディング専用の高級媒体に「なり下がる」ことは決してないと思うんですね。(こういう書き方すると、ブランディング否定みたいに思われるかもしれませんが、そういう意味じゃないですからね。ただ、私は、普通の販売促進活動もブランディングの一要素であるという考えですが。)そして、マス広告の優位性は、単なる効果の問題にすぎなくて、別に必要がなければマスは使わなくていい、くらいの問題だろうと。それは、メディアの選択肢が増えたという認識です。けれども、いまの時代、これまでの時代と決定的に違うのは、マス広告、ウェブ広告などのすべてを含めた広告の「表現」が、これまでとは違うものにならなければならないだろうな、ということなのですね。
良い悪いの判断は別にして、こういう時代になってしまったとき、もはやこれまで面白いとされてきた「表現」は、少なくとも「広告」としては面白いとはならなくなってきたのではないか、ということなのですね。急にくだけた大阪弁になりますが「まあ、マス広告とかが効かなくなってきてるっていうけど、それはマス広告が効かないというよりは、その表現が広告としてきかなくなってるっていうことちゃうのかなあ。mixiでのとある飲料のキャンペーンの話でもそうやけど、いままで効くとされてた表現がいまや広告としてリアルに感じられないというか。いままではエンターテイメントとして消費されるもんが、きちんと広告としても消費されてたけど、いまの時代、エンターテイメントとして消費されるもんが、なかなか広告としては消費されなくなってきている、みたいなことなんかもしれんなあ。」という感じですね。なぜ大阪弁で書いたかと言えば、それは今のところ勘みたいな域をまだ出ていないからなんですけどね。
私は、わりと、そういう実務で感じる感覚的なことをベースにしてこのブログに広告論を書いてきました。じゃあ、どう表現があるべきなのか、みたいなことですが、こういう場合、強烈にすぐれた事例を出すのはあまり良くないなあ、と思う部分もありますので、普段着の広告から。今日、ウェブ(ZAKZAK)で見つけたiGoogleのウェブ広告です。
おっ、googleの広告じゃん、という私自身の頭の働きかた自体が、今の時代の感受性っぽいですよね。巷に出ているいろいろな広告の中には、もっともっとアバンギャルドな表現もあったりするのでしょうが、この広告は、わかりやすく、今届く表現のポイントを満たしているような気がして。私の思う、いま伝わる表現の例として、わかりやすいかなと思います。
ポイントのひとつは「ゆるさ」ですね。これまでは、広告はエンターテイメントを発信するひとつの文化装置でした。映画、テレビ、そして広告、みたいなね。今、そんな感じはないでしょ。これまでは、徹底的で完璧なエンターテイメントは広告になりえたんです。今は、それでは広告にならないんじゃないかな、なんて思います。気持ちが入り込めないんですね。今までは、賞賛や羨望という入り込み方が有効でしたけど、今はけっこうしんどいかも。賞賛と羨望のマーケティングは、すごく効きにくい時代だと思います。
もうひとつは「ホント」です。CGで作りこまれたスペクタルより、セゾンカードのCMのような、ホントの老人がする大車輪なんですね。このiGoogleなんかも、そのへんがよくできてて、気持ちが入り込める「ゆるさ」と、手書きのイラストの「ホント」があるんですよね。こういうのは、気持ちよくて、そのうえクリック率も高いと思うんですよね。で、ブランディングにもなっている。
まあ人の例なので、おまえはどうなのよ、というツッコミをしてしまう、おぼっちゃまくんなら「厳しか人ですねえ」と言ってしまうような人のために、私がそのへんを考えてつくったのは例えばこういうことなんじゃないかなあ、というのはこういう感じです。エントリの書き方は、ちょっとわかりにくいけど、「ゆるさ」と「ホント」をiGoogleとは別の角度から考えてみました。お暇な方はクリックしてみてください。
ゆるゆると広告について書きながら、広告について考えてきましたが、ここらで私のブログの広告でも。私がいままで書いてきた、本エントリ関連の広告論です。
「広告がおもしろい」ことと「おもしろい広告」は、きっと違うんだろうね。
自己表現とブログ。
新聞のゆくえ、広告のゆくえ。
ここ最近の広告の仕事って。
ブログをやる人、やらない人。(1)
ブログをやる人、やらない人。(2)
広告屋という立場でCGMについて真剣に考えてみました。
「民主化」の裏側。
マスコミュニケーションが取りこぼすもの。
じゃがポックルと口コミ。
がんばれAMラジオ。
こんな時代の広告。
まあ、飽きずに書いるもんですね。いま読み返すと、なんか肩に力が入ってるな、なんてのもあって恥ずかしいですが。いろいろ書いてますが、共通して「なんとなく今までと違うんじゃないかな」という実感がベースになっているんですね。藤田さんと須田さんの次なる論考に期待しつつ、自分は自分でより考えを深めつつ。新しいブランディングや広告、そして表現の方法論に出会えることを願って。ではまた。
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