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2007年11月の23件の記事

2007年11月30日 (金)

「うわっ、すげーな、これ」と思ったので‥

Img028  W-ZERO3[es]で撮影しました。東京駅です。すごい書ですねえ。大の字なんか生きてるみたい。和の口の右下に「莫」という印があったので、たぶん榊莫山さんの書ですね。

 墨の濃い部分と滲みの部分がいい感じのグラデーションになっていて、この立体感をCGで作ったら、結構難しいんだろうなという本末転倒なことを思ってしまいました。

 私の好きなジャズピアニストのビル・エバンスも日本の書について言及をしていて、それは確かマイルスの「KIND OF BLUE」というアルバムで読めると思うけど(違うかもです)、こういう偶然の美の必然性を高めていく美の方法というのは、すごいもんだなあと思いました。写真ではそうでもないかもしれませんが、大きなポスターで見ると、うわっ、となりますよ。広告だから、印刷技術も高いと思うし、すごい迫力です。興味のある方は、東京駅にどうぞ。

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2007年11月29日 (木)

「ジャパネットたかた」でLinuxが売られる日が来るなんて‥

 深夜にテレビを見ていたら、「ジャパネットたかた」のテレビショッピングで、Turbo Linuxの「wizpy」が紹介されていました。マルチメディアプレイヤー兼USB接続モバイルOSです。ただし、単品ではなく、ノートPC、プリンタ、無線LANの親機とのセットですが。ちなみに、ネットでは単品で売ってるみたいです。

 「みなさん!OSと言えばウィンドウズとマックが有名ですが!じつは!リナックスというのもあるんです!それがこの、小さな小さなケースの中に!ぜんぶ!入ってるのです!USBで接続すると!どんなPCもほら!このように!あなたのPCとして使えるんです!」てなことを言ってました。紹介する方も力が入りすぎたのか、「騙されたと思って使ってみてください!あっ、騙されたじゃないですね、ホント!これ!便利なんです!」なんて一幕も。それにしても、こんな時代が来るなんて。

 私は、仕事ではなぜかITと縁が深く、インターネットが普及してなかった頃からITと関わってました。特にITに詳しいわけでもなかったのですが、WindowsNTで動く勘定系システムから始まって、FAXがLANに乗って電子化されるソリューションとか、秋葉原の老舗PCショップとか、インターネットプロバイダとか、某マネジメントソフトウェアとか、某パソコン用CPUとか、アナログ・DSPとか、ケータイ用OSとか、センサとか。

 もちろん、私、プログラムなんてまったくわかりません。オリエンを聞きにいって、その場ではなるほどなるほどとうなずいて、会社に帰って必死に勉強する、みたいな感じでこなしてきました。だから知識が断片的で、なんかよくわかんないことになってます。チューインガムのプレゼンをした後に、そんなオリエンを聞くと、頭の中がぐちゃぐちゃになったりしますが、まあ、作るのは広告ですから、案外、専門知識さえ覚えてしまえばなんということもないのですけどね。

 そんな感じなので、ITまわりの認識がミーハーなところが少しありまして、Linuxと聞くだけで、なんか格好いいと思ってしまうんですね。Linux関係の広告をつくりたいなあ、なんてことも思ってました。2度ほどLinux関係の広告をつくらせていただいて、そのひとつが日経BP広告賞の「日経リナックス」部門賞まで頂いたりしたときは、なんか子供のようにうれしかったなあ。ああ、Linuxの普及に関われた、なんてね。

 それにしても、ITの世界は早いですね。あっという間に、環境が一変して、どんどん新しくなっていきます。少し前は16メガのメモリで、フォトショップとイラストレーターがサクサク動いてたのに、いまやメモリもギガですものね。「ファクシミリ、LANに乗る。」とか「ファックスだって、ランランラン。」とか書いてたのが遠い昔みたいな感じがします。まだ10年くらいしか経ってないんですけどね。なんでしょうね、この速さ。今だにOS9を使ってる私が言うのもなんですが。

追記(11/30):「ジャパネットたかた」で紹介されていたMCの方は、私の見たのは塚本さんでございます。まあ、文字にすると高田社長と同じですけどね。

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2007年11月28日 (水)

広告の原体験

 中央線が止まって、神田駅で足止め。車内は満員で雑誌を読むわけにもいかず、期せずして何もない時間ができてしまったので、ぼんやりと、私の広告やデザインの原体験って何だろうと考えていました。何でそんなことを考えたのかいまいちわからないんですが。

 こういうとき、キヤノンの「ただ一度のものが、僕は好きだ。」とか、そういうことを言うと格好いいのでしょうが、でも、きっと、本当はそういう広告は原体験とは呼べないですよね。デザインで言えば、バウハウス(ドイツのデザイン研究所で、機能性を重視した現代デザインを切り開いた)とか、DDBのフォルクスワーゲンキャンペーンとかって、広告で生きていこうと思ってから勉強するものであって、確かに衝撃ではあったけど、後付けの知識なんでしょうね。

 何かな何かな、仁鶴さんの「たったの3分親子丼♪」かな、いや違うな、と考えていくと、ひとつの広告に行き当たりました。子供の頃から見ている広告というかデザインというか、かなり衝撃を受けた記憶がはっきりとあります。その広告は、デザインと言葉のメッセージが類い希なほど融合していて、なおかつシンプル。見たら決して忘れない強さを持っていて、かなりコミュニケーションとしては理想的ではないかと思います。こういうの、作ろうと思ってもなかなか作れるものではないかと思います。

Hisayadaikokudo ご存知ですよね。これです。ヒサヤ大黒堂です。大阪は北浜にある、痔瘻専門のお薬屋さんですね。私は、この「ぢ」の看板を何度も見てきました。それにしても見事ですよね。痔は「じ」なのですが、血の「ち」に飛び散る濁点をつけて赤い「ぢ」としたアイデアは、街中に堂々と掲げられる大胆さの是非はともかく、相当なものだと思います。Photo_2それに、これは優れたタイポグラフィーであるとともに、すぐれたコピーでもあるんですよね。その痛みをどんな言葉より雄弁にメッセージしてくれています。この赤いロゴを真ん中に置いただけの新聞広告を想像してみてください。 相当いい広告になるような気がします今でも、相当インパクトがあると思います。(追記:なんとなく気になったのでパワポでさくっとつくってみました。甘甘ですけど‥)

 子供心に、この「ぢ」のロゴは強烈な印象を残していて、銭湯の桶や大阪市営地下鉄駅階段の「ケロリン」とともに、心に焼き付いてしまっています。ちょっとどぎついけれど、コミュニケーションの確実さ、押しの強さ、人を選ばない幅広さ、わかりやすさは、とかく玄人受けをしがちな私たちクリエーターにとって、もしかすると迷ったら戻るべき広告・デザインの故郷なのかもしれません。

 少し話が離れますが、こういう和物のベーシックデザインって、案外いいものが多いんですよね。三越のロゴとか。隙がなくて計算され尽くしていますよね。しかも、これが作られた頃は、海外からモダンデザインが入ってきた頃に重なりますから、細部の処理やバランスの取り方なんかにその影響が感じられ、非常にデザインが豊潤なんですよね。Mitukoshi一周して機能美に回帰した現代のデザインより、デザインとしては豊かな気もしないではないです。それよりも何よりも、設計の完成度が高いから、こういうロゴは古くなりません。英語文化圏のデザイナーが見てもきっといいと言う気がしますし、アメリカ人のCDにこのロゴを見せると、彼はグレートと言っていました。

 あと、よくブランドを語るときに、ルイビトンやシャネルなどのパワーブランドを例に語りたがる傾向が、いいカッコしいの広告マンにはあるけれど、ブランドというものを形成する方法が、ぶれない信念の継続的なコミュニケーションであるとすれば、忘れてはならない例があると思うんですよね。例えば、桃屋のアニメとか。Momoya_2あの変わらなさはすごいものだと思うんですよね。あのCM、噂ではご年輩のあるクリエーターしかあの味が出せないとのことで、ずっとその方が作っているとのこと。真偽の程はわかりませんが。でも、それが本当だとすると、クリエーターとしてはこれほどの幸せはないんだろうなと思うんです。私もがんばらないと。ではでは。

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2007年11月27日 (火)

ちょっと早いけど2007年を振り返っています。

 仕事の関係で、2007年に社会で起こったことを振り返っています、というか、無理矢理振り返らされているという感じもなきにしもあらずですが。ここ数年、その年の国内ニュースを切り口にした広告を制作していて、今がその時期なんですね。去年の広告を作った感覚はちょっと前なのに、1年って早いものだなあと思います。年齢のせいかな。

 今年は、あまりいいニュースがなかったようですね。新聞の縮刷版を繰りながら、そんな感じがしました。いつもだと不幸な出来事の中で、これはいいニュースだなというものがひとつふたつあるものですが。

 小さなニュースでは、いいニュースはあるにはあるんですが、誰それがノーベル賞をとったとか、そんな国民的なおめでたいニュースはなかったような気がします。それにくらべて多いなあ、と思ったのは、ぼんやりと明日が不安になるような、やな感じのニュース。食品偽造とか。それも少し前に起きた食中毒みたいなのじゃなくて、そういう大きな出来事があった後なのに起きてしまった賞味期限偽装、みたいなぼんやり感があるニュース。

 うーん、となるんですよね。悩んでしまいます。なんとかポジティブに考えようとするんですが、今年は苦戦しそうです。どんな言葉を書けばよいのやら。まあ、広告というのは、自己表現ではなく、企業の表現なので、その課題に向き合ううちに不思議と言葉は出てくるものですが。

 先日のエントリで80年代に糸井さんが書いた言葉について書いたりしたので、ちょっとその頃のことを思ったりした一日でしたが、その頃とくらべて、ぼんやりと世の中が息苦しくなってきているのかな。80年代はスカだった、なんて総括された時代ではありましたが、あの頃にくらべて、なんとなく世の中がイライラしているみたいな。とにかく、そんな雰囲気だけはなんとかしたいなあ。来年の今頃、今年はけっこう良かったよね、とこのブログに書いてるといいんですがねえ。

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2007年11月26日 (月)

いてもいいし、いてほしいと、おもう。

 私が勝手に広告のお師匠さんと思っている人は、糸井重里さんです。糸井さんには、まだ一度もお会いしたことはないですが(ほぼ日に投稿して一度だけメールをいただいたことがあります)。糸井さんからは、いろいろ学ばせていただきましたし、今も学んでいます。若い人にとっては「ほぼ日刊イトイ新聞」のダーリンとしておなじみかもしれません。でも、私の世代にとっては憧れの広告制作者だったんですよ。広告がサブカルチャーのメインストリームにあった頃ですね。

 広告の言葉として、私が糸井さんの代表作だと思うのは、ウディ・アレンさんが出演されていた西武百貨店の広告「おいしい生活。」だと思います。ご本人もかつてそんなことをおっしゃっていましたし、「おいしい生活。」という言葉が開く未来というか、新しい価値観は、多くの人に影響を与えていきました。私はその頃、大阪に住んでいましたし、まだ学生でしたので、その広告をリアルタイムに経験はしていません。けれども、大阪で広告の仕事をはじめた頃に追体験し、おいしい生活かあ、すごいなあ、と唸ったものでした。

 そんな、糸井さんの広告の言葉の中で私がいちばん好きなのは、西武セゾングループ(当時)の1987年の広告で「いてもいいし、いてほしいと、おもう。」という言葉です。これは、「お手本は、自然界。」というシリーズ広告の中のひとつで、確か大晦日かお正月かに出た広告だったような気がします。ビジュアルは動物のナマケモノが木にぶら下がってこちらを向いているというのも。その顔が何も考えずに微笑んでいるような感じで、いいんですよね。アートディレクターは浅葉克巳さんです。

 ナマケモノという動物は、なるだけカロリーを消費しないようにずっと木にぶら下がっているだけの動物なんですね。要は役立たずで、怠け者。一生懸命やってる他の動物から見ると、ちょっとイライラする動物かもしれません。そんな動物でも、いてもいいし、いてほしい。言葉のレトリックで言うと、「いてもいいし」という部分がこの言葉の持つ眼差しをすごく上手く表現していて、「いてほしいと、おもう。」という言葉との差は明らかです。私は、広告制作者の職業的な技能というかこだわらなくちゃいけない部分を、この言葉から学びました。

 大人になると、いろいろ「いてもいいし、いてほしいと、おもう。」というだけではいかない色々が出てくるし、世の中はそういうふうには出来ていないと言えばそれまでですが、ふっと息を吐いて、ひとり考えるとき、自分も含めていろいろな人が「いてもいいし、いてほしいと、おもう。」と思える自分でありたいなと思います。そして、そういう社会であってほしいと思います。そして、同じ考えるにしても、そういう視点で、いろいろなことを考えていきたいなと思っています。キリキリせずに、イライラせずに、ゆっくりじっくり。さあ、3連休のあとの月曜日です。

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2007年11月24日 (土)

きつねとかたぬきとかきざみとかはいからとかもりとかかけとか、そんなお話です。

 なんじゃそりゃ、っていうタイトルですが、ゆっくり読むと何のことかわかるかもしれません。とかを抜くと、きつね、たぬき、きざみ、はいから、もり、かけ。そうですそうです、立ち食いうどん、立ち食いそばのお話です。

 立ち食いそば、立ち食いうどん、好きですか。私は好きです。東京で仕事をするようになって、もっぱらそばを食べていますが、大阪ではうどんです。東京では、日常会話で、立ち食いそば屋さんと言いますが、大阪では立ち食いうどんですね。大阪では「時間ないし、昼飯、立ち食いうどんにしとこか」なんて、外回りのサラリーマンが話してます。名古屋はどうなんででょうか。立ち食いきしめん、かな。

 東京は鰹出汁で濃い口醤油。大阪は昆布出汁で薄口醤油。鰹出汁は香りの強いそばに合って、昆布出汁は淡泊なうどんに合うような気がします。大阪の人は東京の悪口を言うときに、あんな真っ黒な汁喰えるかと言いますが、あれはあれで美味しいですよね。最近は昆布出汁を出すところもありますし、「はなまる」などの讃岐系は大阪の出汁に近いので、東京でも不自由はしないようになってきました。

 でも、やっぱり大阪の立ち食いうどんは時々恋しくなります。出張や帰省で大阪に行くときは、新幹線を降りたら、新大阪駅の在来線側にある「浪花うどん」に駆け込みます。あの立ち食いうどんはすごく美味しくて、私のお気に入りです。頼むのは「きざみ」。味がついていない薄揚げを刻んだものがトッピングされているうどんです。

 薄揚げを味付けしたものがトッピングされているのは、「きつね」です。東京では「きつねそば・うどん」とメニューに書いていますが、大阪は「きつね」は「きつね」だけです。というのは、大阪では味付けの薄揚げが入ったうどんのことを「きつね」と言います。味付けの薄揚げのそばは「たぬき」です。きつねがそばに化けてたぬき、みたいなことらしいです。東京では「たぬき」は、種抜き、つまり揚げ玉をトッピングしたものですね。大阪では「はいから」ですね。素うどんよりちょっとハイカラ、というのが語源らしいですが、はっきりしたことはよく知りません。

 話はちょっと脱線しますが、小学生のころ道徳の時間で(そう言えば、いまの小学校で道徳ってあるのかな)関西の人が東京のそば屋さんに入って、メニューにある「もりかけ」というのを見て、店員さんに「もりかけ」と頼むんですね。すると店員は気を利かして、相手は関西の人だから「かけうどん」を出したという話が教科書に書いてありました。その親切心をどう思いますか、というものだったんですが、どうなんでしょうね。言ってあげたほうがその人のためのような気もするし。

 食べ物関係の言い間違いは切ない話がありますよね。立松和平さんの話ですが、彼が貧乏だったときに、レストランに入って、お金がなかったのでレストランでいちばん安いメニューを頼むんですね。それがオニオンス・ライス。オニオンスというおかずとライスだと思ったそうです。当然、出てきたのはオニオンスライス。

 不思議なもので、東京でいつも頼むのは天ぷらそばなのですが、大阪ではきざみうどんか昆布うどんです。昆布うどんは、おぼろ昆布がトッピングされているものです。東京ではあまりとろろ昆布とかおぼろ昆布は食べないみたいですね。「とろろ」は昆布をとろけるくらい薄く削いだもので、「おぼろ」はちょい厚く削いだもの。汁につけてもとろけないんですね。おぼろ月夜と言いますでしょ。あのおぼろです。

 立ち食いそばは、日常の食べ物なので、冒険はあまりせず、天ぷらそばばかりになってしまいますね。変えるときも、生卵を入れて月見天ぷらにするくらいで。一度それを変えて、例えばきつねとかに変えるようにしたら、ちょっとだけ人生が変わりそうな気もしますね。案外、人生なんてそんな些細なことで変わるような気もします。

 最近はJR系の「あじさい」とか「富士そば」とか「小諸そば」とか、チェーン系が多くなって、少しさびしいですね。その駅や土地でしか味わえない立ち食いそばを私は愛します。

 好きなのは、中野駅北口を出たところにある「田舎そば かさい」。田舎そば風の平べったく太いそばと濃厚な鰹出汁。それにショウガを少々入れるんですよね。個性派です。新宿には小田急の地下にある「永坂更科」の立ち食いコーナーがお気に入り。少々高いですが、本格的です。掻き揚げが豚の角切りなんですよね。そば湯も出ます。大阪では京橋駅を出たところにある「浪花うどん」。新大阪のと同じ名前ですが、チェーンではないようです。出汁は少し甘め。いかにも庶民の味という感じ。独立系の立ち食いそば屋さんは、資本の力に負けずにぜひとも踏ん張ってほしいです。

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2007年11月23日 (金)

そういえば「たまごっち」にも死のイメージがありましたね。

 今日は、祝日なのでテレビで「今日は何の日」を見たりしています。今日は、たまごっち誕生日らしいです。世界で7200万個売れたそうです。すごいなあ、なのか、ああいう小さいものなので、案外少ないよなあなのかは微妙な数字ですが。
 前に『「死」のイメージがどこかに隠されていると、広告はヒットする。』というエントリを書きましたが、あのとききっかけになっていたのが、東京ガスのCM「信長篇」で、そこから思い出したのは、「ぴちょんくん」や「およげたいやきくん」や「だんご3兄弟」なんかでした。コメントでいただいたのが「ピクミン」。あと、私が知らないアニメかゲームなんかを連想された方もいらっしゃいました。でも、忘れてました。広告ではないですが、この「たまごっち」がありましたね。というか、これ真打ちですね。
 気に入らないキャラに育つとリセットできるっていうところが社会問題になったとのことですが、まあ私はそこの部分はそんなに気にならなくて、それよりも、あの当時の、価格設定とかの諸条件から貧弱なテクノロジしか使えないという前提で、その中でインタラクティブなゲーム性を出していくときに、ほったらかすと死ぬというところに見いだしたところに興味がわきます。
 あのゲームの肝は、小さなモノクロドット液晶の中のペットが、あたかも生きているように感じるというところだと思うんですが、それを追求する結果として、生きていることを表現するために死を設定するということに行き着いたことです。これは、社会評論なんかで既出かもしれませんが、あらためてなるほどなあ、と感心しました。
 それとともに、「生は自分の領域であるけれど、死は自分の領域ではない」という吉本隆明さんの言葉を思い出したりもしました。今日は勤労感謝の日ですが、日頃の勤労に感謝しつつ仕事です。パワポで企画書を書いてます。忙しいときの祝日って、ある意味きついんですよね。特に年末進行で動いているこの時期は。ああ、しんど。

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2007年11月22日 (木)

まあねえ、そりゃ、しゃあないわな。

同じネタで3連続で恐縮ですが、前回と前々回のエントリで、なんかいろいろ誤解をまねく書き方をしてしまったようなので。

私は「はてなブックマーク」は好きですよ。というか「はてブ」がなかったら、今のようなネット環境では私のような新参ブログは読まれにくいし、ブックマークついたら素直にうれしいし。ときどき自分でも使いますし。それに「はてな」も大好きです。

「はてな」のidをとったけど、こちらに書いてるのは、こっちのほうが書き始めが早かったから。それ以上の意味はないし、「はてダ」ではもっと気楽にPVを気にせず、気が向いたときに楽しく書いてます。「はてダ」は、はてな記法というのが使いやすくていいと思います。それと、リンクやidでつながるところも。なので「はてな」を使ってる私が「はてブ」を禁止したいということじゃないんです。

少し前のエントリを読み返すのはすこし気恥ずかしいけど、かつて、こんなエントリを書いたりもしました。
『「はてな」のこと少しわかってきた。』

で、そのエントリのブックマークページがこれ。
『はてなブックマークー「はてな」のこと少しわかってきた。』

それでもって、最初に「はてブ」っていいなあと思ったのはこのページ。
『はてなブックマークー人間のタイプをOSで言うと‥』

これは、書き手にとってうれしい例ですけど、そのコインの裏には不都合な例も当然あるだろうけど、それは、まあしゃあないわなと個人的には思ってます。個々で解決、それが基本。自分でレッテルを貼るのもなんだけど、私は等価交換論者ですから。パチスロも等価交換店しか行かないし。(すみません、くだらなかったですね)

まあねえ、エントリの書き方がねじれていて、わかりにくかったかもなあと思います。あのエントリは、ある特定の人への批判としてではなく、自前の仮説というか提案として書きたかったので、その機能ができた(もしくは誰にでも機能がわかりやすく表示された)として、その機能を利用して欲しい人は誰かを私は明示しなかったし、するつもりもなかったので、ああいう書き方になってしまったんですね。

なんでもそうだけど、何かを肯定するときには、それを否定する人の立場に出来る限り立ってみて、その人の気持ちを一度受け入れながら、できるだけお互いが歩み寄りながら、その上で、もう一度肯定するのがいいんじゃないかと個人的には思ってるんですよね。同じ肯定するにしても。それは、ある人の受け売りですが。

匿名の批判や「はてブ」が強烈にお嫌いな人に、SNSでどうぞ、とか、パーマリンクなしのサービスでどうぞじゃ前に進まないかなと個人的に思ったんですね。少し前はそれで解決と思っていたけど。前にそういうことを言って何も解決されなかった経験があって、その反省でもあります。

asami81さんからいただいたトラックバックに書かれていた問いかけで私が考えたことですが、「はてブ」に限らずソーシャルブックマークの個人ページは読み手の領域ですが、それが集合的に特定サイトに不特定多数のコメントが並ぶというのは、お嫌いな人にとっては、批判コメントがずらっと並ぶと脅威になるし、それはもしかすると読み手の領域とは言えないかもなあ、という思いもあります。これは、定説でも定義でもありませんが。私は、コメント欄のもっと敷居が低い感想コメントの可視化として、それが魅力に思えたし、読者の領域であるからスルーもありだし、気楽に楽しんでいるので、またねじれた書き方になってしまっていますが。

私は、上記のような手放しの礼賛記事を、かつて現実を何も知らずに初心者の立場で書いてきたから、あれから少し時間がたった今、あえて「はてブ」を否定する人の心情や論理を私なりに想像して、両者の接点を私なりにもう一度考えてみたんですね。

あの記事を書いた頃はブロガーとして子供だったけど、今は少しは毛が生えてきたということですね。少し毛が生えるのが早いけど、ネットの世界はドックイヤーってことで。

「はてな」という会社は個人的には好きだから、それが嫌いだと言う人がいるとかなしいというか、さみしいというか、そんな子供っぽい気持ちもあのエントリの動機でしたけど、それを感情にまかせて書きたくないというかね。基本は好きも嫌いも自由だけど、心は動揺するので、それで、なんか過剰に制御しようとするのかもしれません。残念ながら、これは性格ですね。

はてブを見ながら思ったんですが、まあ、どんなふうに書いても書き手の自由であるように、どんな読み方しても読み手の自由ですから、まあ、それはそれでしゃあないなあと思いますけどね。

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2007年11月21日 (水)

推奨してるわけでは決してなくて、お嫌な人には拒否する権利があってもいいのかな、ということなんです。

otsuneさんという方から先日のエントリにコメントをいただきました。(otsuneさん、はじめまして。コメントありがとうございます。)長くなりそうなので、エントリにさせていただきました。コメントをきっかけに、いろいろ考えたので、そのコメントに答えるかたちで書いていきたいと思います。まずはコメントを再録します。

「自分のサイトをcocologからハイパーリンクされないようにする機能があるといいですね」というのもアリなのでしょうか? もしくは「自分の本をレビューされないようする機能があるといい」とか。ソーシャルブックマークという他人の領域に書ける事を外部から制限するという発想は独特ですね。(もちろん名誉毀損・脅迫などは法的に駄目なので論外です)

まずハイパーリンク制限に関しては、それがウェブの本質である限り無理でしょうね。こういう答え方すると、私がリンク制限をしたいみたいに思われる可能性もあるかなと思いますので、慎重に書きますが、私は無断リンク禁止派でもなく、リンクするならホームにね、みたいなことを言う派でもありません。それは言っておきますね。ハイパーリンクはウェブの魅力のひとつです。

ただ、心情的にはかつてから無断リンクを主張され、今まで楽しくやっていたウェブの人たちが、ウェブの発展とともにその主張が無碍にされるのは「気の毒」だなあ、という感情は持っています。これに関しては今のウェブに慣れていただくしかないかな、なんて思っています。それは時代の流れだからしょうがないですよね。それと、私はリンク、コメント、ブ米、ご自由にと思っています。というか、ウェブですものね。当たり前です。とりたてて言うことではないですよね。(もちろん法的に駄目なのは論外ですけどね)

で、なので、コメントでの質問である上記2つはアリかナシかで言えばナシですね。レビューもブログで書くのは自由です。制限できません。じゃないとこんなブログなんか書かないですよね。等価交換。書くかわりに書かれるのも自由。

でも、アマゾンとかはてブとかに関しては、もしかするとありなのかもなと思うところはあります。アマゾンであれば、出版側が本をアマゾンの流通に乗せないことはできそうですし。(もちろん、アマゾンに乗せたらレビューはなしではあり得ません。)はてブに関しても、お嫌な人はもしかするとそこで論議されることを拒否する機能はありなのかもな、と。それは、はてブがいいところでもあり、それを問題にする人にとって、いやな機能であるのは、そのエントリ単位でコメントが羅列され集合的になる部分なのですから。(私はこの機能は好きですよ。)であれば、それはお嫌な人には拒否する権利があってもいいのかな、なんて思うわけです。それは、その機能は、個人のウェブ上のブックマークを超えた独特な機能だから。ここに関しては、それがソーシャルブックマークだろっていうツッコミも成り立ちそうですが。

もちろん、モラルの問題は別にして、ブログに関しては、批判コメントも、批判トラバも自由です。でも、そのブログにはコメント欄とトラバを閉じる機能は実装されてますよね。これは、コメントやトラバでつながることを捨てる変わりに、批判されなくても済むという等価交換ですよね。でも、ウェブ2.0的なサービスにはそれが今ないんですね。それは、なんとなくこれからのウェブの課題のように思えてきました。ウェブの専門家ではないからこれ以上は言及できないですが。

ここで誤解されないように慎重に書きますが、私はその機能が実装されたとしてもそれに乗るつもりもありませんし、その機能を使おうとも思わないです。アマゾンの例がわかりやすいかもですが、今の出版で、ネガティブレビューの可能性があるからといって、アマゾンに乗せない本はほとんどないでしょう。ロングテール理論を紐解くまでもなく、不特定のネガティブレビューが乗る可能性があるかわりに、少部数本でも売れるのですから。でもお嫌ならアマゾンに乗せない手はありますよ、ということです。それは担保されててもいいし、されてると思うのです。でも、はてブにそういう機能が実装されたとしても、実際はその機能を使う人はあまりいないんじゃないでしょうか。

私は、はてブを「新参ブロガーを支援するサービス」と書きました。私は、名もなき新参ブログを発見するこのサービスが大好きです。そして、私は「ブクマ禁止論」を書いているわけではありません。そのへんは、よく読んでいただければ理解していただけると思いますし、多くの人には理解されているように思います。

でも、そのはてブを不快に思う人がいる。これは事実ですね。(私じゃないですよ)そういう人たちも、それはウェブに書くことで期待できる不特定多数を期待してきっと書いている。だったら、はてブの機能として、自分のサイトはブックマークされない機能があれば、とりあえずはてブが集める読者からは、そのブログが期待する良質な読者も含めて疎外されてしまうかわりに不快さは消えるということですね。これは等価交換になるなと思うんですね。そういうアイデアです。でも、本当は、ブロガーとコメンターの個々人の問題として、時とともに成熟していくのがいいと思うんですけどね。

このはてブをめぐる水掛け論の究極の解決は、会員制のSNSや、会員制のサイトなんでしょうけどね。それは、やっぱりウェブ的ではないんでしょうね。それに、なんか発想として後ろ向きだし。私自身は、ほんと、繰り返しになりますが、時とともに成熟していくのがいいと思うんです。私は、ポジティブに過ぎるかもしれませんが、それを信じています。だからこそ、門外漢にもかかわらず先日のエントリをあえて書きました。

最後に、「ソーシャルブックマークという他人の領域に外部から制限する発想」というところについて。それが他人の領域であれば、そのとおり制限をかけるのは良くないですよね。そして、個々人のブックマークページは他人の領域です。そういう認識で間違いはないと思います。私は、サービスすべてが他人の領域であると思うのですが(だからスルーするという大人の態度が可能になります)、あえて見方を変えて見ると、エントリ単位でコメントが集合して見えるという部分においては、個々人の領域ではなく、公共性のあるインフラに近いという気もしないではないのです。そういう解釈は可能かもしれません。このへんは、考え出したら結構難しいですね。様々な領域に関連しますので。

あとね、なんか何度も言いたい衝動に駆られてしまうのですが、私はべつに自分のブログをブックマーク禁止にしたいわけではありませんし、推奨してるわけでもないので、そこのところはぐれぐれもよろしくお願いしますね。なんかてへへな感じですが。(うーん、絵文字って便利だなあ、絵文字使えないからなあ‥‥)

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2007年11月20日 (火)

技術的に可能かどうかはわかりませんが、もうそろそろ「はてなブックマーク」に、自分のサイトをブックマークされないようにする機能を実装してもいいのかもしれないですね。

 私はココログでブログをやっていて、サブブログとしてメモ帳代わりにはてなダイアリーを使っています。そんな私がはてなの話題をココログで書くのは、なんか生っぽいですが、こちらのブログを少しでも育てたいと思っているからです。なるだけ、公共性があったり、きちんと考えて書くものはこちらで書きたいと思っています。ブロガーなら、この気持ちわかりますよね。それは、私だけではなく、多くのブロガーがそういう感じでブログを書いているので、とりたてて珍しくもないとは思いますが。

 なぜはてなのidを取得したのかというと、それは、あるはてなのブログにどうしてもコメントをしたかったからです。はてな村という言葉があるように、ある種、はてなにはコミュニティ感があって、個人ブログながらそこに書かれていることと、そこに書き込む人たちには独特の引力があって、私もその引力に引き寄せられたと言えるかもしれません。私は、はてなの創世記はまったく知りません。なので、はてなが変わったという話もあまりピンと来ないのも事実ではあります。

 前にも書きましたが、ココログのこのブログがまったくアクセスがなく、このまま頑張っても読んでくれる人なんていないのかなと思っていたとき、あれ、なんか読まれてるという日があって、リファラを見るとb.hatenaとありました。ソーシャルブックマークなんて知らなかったし、なんだこれと思いました。私の場合、はてなブックマークのコメントは、書き手としてうれしいコメントだったりしましたし、そこで知り合った方とのちいさなコミュニケーションも生まれたりもしました。ですから、前に書いたはてなへの好印象は今も変わることがありませんし、このような私の体験も、はてなブックマークのひとつの側面ではあるでしょう。

 いつも読んでいるブログで、ときどきはてなブックマークのネガティブコメントについて語られることがあります。はてなブックマークは人の悪意の部分を誘発するシステムの欠陥があるとか、匿名で根拠なく批判するのが許せないとか。私は、そのブログを書くブロガーを人間的に信頼している部分もあるので、本音を言うと、すごく動揺する部分があるのですね。

 私自身は、はてなブックマークについてどう考えるかというと、このサービスは、愚衆化とか言われますが、やはり新参ブロガーをすごく支援してくれるサービスであると思うし、ソーシャルブックマークというサービスに、それを読んだ人の感想コメントをつけることを実装したはてなブックマークは、非常に優れたウェブサービスであると思っています。それと、ウェブになぜ書くのかということを考えると、それは、書いたものが、とりあえずは不特定多数に読まれる可能性を手に出来る点だと思うし、その意味では、そのメリットの等価交換として、不特定多数の中に含まれる不都合な部分も引き受けなければならないというのは、ウェブに能動的にはじめる時に前提としてありました。

 それは、有名人であろうと、これまでのネットでの活動によって知名度のある人であろうと、同じだと思うのですね。例えば、芸能人がウェブで書くのは、この不特定多数に届くかもしれない可能性にあるのだと思いますし、その意味では、コインの裏表であり、等価交換として引き受けなければならないデメリットの部分は同じだと思います。能力のあるなし、言論の質にかかわらず、それはウェブを利用する人に等しくあるはずです。

 そういう意味で、はてなブックマークもまた、いままで可視化されなかった読者の感想みたいなものを可視化するというメリットのコインの裏側であるデメリットは、個々人で対処しなければいけないものであると私は思うのですね。それは、そのコメントを受けると言うことではなく、idであり、ブログのコメント欄にも書かれていない感想であるからこそ、あえてスルーするという大人の対処を含むものです。基本的に、はてなブックマークのコメントはスルーするという態度表明は、それはそれでありだと思います。私は、コメントが今だに苦手だから、こういう照れ屋さんな感じがするコメントにも照れながらコミュニケーションをさせていただいていますが、仮に私のブログのブックマークコメントに不都合なコメントがあふれたとしたら、それは私はなかったことにする大人の対処をしたいと思っています。

 でも、もしかするとこれは、私がはてなブックマーク以降にウェブの世界に入ってきたからかもしれませんね。はてなブックマーク以前からウェブにいる人にとって、はてなブックマークができたことで不快に感じているならば、その不快さは当然受けなくてもよかった不快さではあるのだとは思うのです。しかしながら、はてなブックマークのコメント機能を除去するという解決策は、一方的にすぎるような気がしますし、それよりも何よりも、ウェブの進化というのは、このような書くことやコミュニケーションをすることの垣根を低くするとこに本質があったと思うのですね。私は、どうあろうとそのウェブ的な価値を肯定したいと思っています。アマゾンのレビューのように、それはウェブがもたらした新しい価値だと思うのです。

 そう考えると、解決策はひとつしかないように思います。それは、はてなブックマークに自分のサイトがブックマークされないようにする機能を実装することです。それが技術的に可能かどうかはわかりません。無断リンク禁止を主張する人が、googleやYahoo!から無断リンクをされない権利を手にできなかったように、無理なのかもしれないですが、この解決策は、ウェブのメリットとデメリットの等価交換という観点からもすっきりするような気がします。

 もうね、はてなブックマークをめぐるそれぞれの主張の応酬は不毛だと思うんですよ。エントリーとはてなブックマークのコメントという言論の立ち位置の非対称性もあるし、いつまでたってもかみ合わないですよ。それこそ、不毛だと思うなら見なければいいっていう話ですけどね。私は、こんなエントリーを書きながらも、人のモラルにまだ期待はしているんですけどね。楽観的すぎますかね。あと、こういうこと書くと誤解されそうなので言っておきますが、ブログではてなブックマークについての不快感を書くのはありだと思ってますから。私がはてなブックマークについての好感を書いたのと同じようにね。それと、私は、もしその機能が実装されても、その機能は使いませんので、そこのところをお間違いのなきよう、よろしくお願いしますね。ではでは。

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2007年11月19日 (月)

リアルの生臭さと、バーチャルの青臭さ。

 今どきリアルとバーチャルを区別して考えるのもなんだと思いますが、日常の世界の生臭さと比較して、ウェブの空間は青臭い感じがします。青臭いことが別に悪いと言ってるわけではなく、私の書いているブログも含めて、ウェブの言葉は青臭さに満ちているように思います。ブログの世界には、青臭い青年や大人がいっぱいいて、彼ら彼女らの書く瑞々しく青臭い言葉に惹かれて、私もまたブログで青臭い言葉を綴るようになったのだと思うのです。

 現実の世界は、目を覆いたくなるほどの生臭さに満ちていて、それはそれで、その中でしぶとく生きていかなければならないし、それぞれがじたばたしながら生きていくのでしょうし、その中でしか味わえない喜びや楽しさがあるように思います。やきとんとホッピーの旨さは現実にしかないし、安い居酒屋で繰り広げられるアホらしい言葉の愛しさは、やっぱり現実にしかないものだと思います。

 これからはリアルとバーチャルは、もっともっと近づいていくように思います。そのとき、現実の世界の生臭さは、ウェブの世界の青臭さによってどう変わっていくのでしょうか。ウェブの青臭さは、現実の生臭さによってどう変わっていくのでしょうか。肉体と精神のように、じつはリアルとバーチャルは不可分ではあるけれど、肉体と精神のように、決して等価にならないものとして、互いに影響しあいながら、それぞれ変化していくのでしょう。

 バーチャルの言葉の先には、PCやケータイに向かう人間がいます。つまり、ウェブがつくってきた新しい価値は、根本的に言えば、やっぱりテクノロジーではなく人間がつくってきた価値なんですよね。それは、あなたや私がつくっていく価値なんですよね。その価値は、リアルの生臭さに飲み込まれるような価値ではなく、リアルにも影響を与える価値のような気がしています。

 そしてまた、ウェブのリアルへの浸食によって、リアルの持つ成熟がウェブに持ち込まれたとき、バーチャルはどう変わっていくのでしょうか。私は、その変化を肯定したいと思います。たとえそれが自分に都合が悪いものであったとしても。

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2007年11月18日 (日)

世界の約58%は「美味しんぼ」で説明可能である。

 ドラマ「美味しんぼ2」のキャスティングに不満があるみなさま、こんばんわ。mb101boldです。うーん、なぜ、今ごろ「美味しんぼ」なんだろう。他になかったんだろうか。私の知らなかったところで「美味しんぼ」がブームになっていたのでしょうか。

 2ちゃんねるでは、パチスロ「美味しんぼ」を想像するスレが盛り上がってたのは知っているけど、それが要因か。栗田ゆうこ子さんのシャッキリポン演出出現で究極モード突入とか。山岡プロポーズ演出で成功すると、究極モードの上の継続率97%の至高モード突入とか。どれも5号機の規則では無理ですが打ってみたいです。まあ、原作者の雁屋哲さんはパチンコが嫌いだから実現の可能性はゼロですけどね。それにしても、あのドラマ、岡星さん年をとりすぎてるでしょ。二木まり子さん役の上原さくらさんはまあ許せるけどね。

 そんなことはどうでもいいんですが、世界の58%は「美味しんぼ」で説明可能です。すみません、嘘です。今回もタイトルを書いて見切り発車してしまいました。休日ですし、暇な方はこの先もどうぞ。最後まで読んでくれるやさしいあなた、大好きですよ。当方も、リア充できずに暇なので、たっぷり書きたいと思います。たっぷり読んでってくださいな。あまりためにならないけどね。

 それにしても「美味しんぼ」という漫画も長いですね。かれこれ20年くらい連載しているのではないでしょうか。山岡士郎さんも栗田さんと無事ご結婚され、今や子供が3人でしたっけ。最近読んでないのでわかりませんが。

 山岡士郎さんの生き方は、ある種、男の理想ですよね。どこが理想かというと、ぐうたらなのに東西新聞という大企業に入り、女性に積極的でもないのに、栗田さんという聡明な女性から慕われ、平社員なのになぜか社主とも親しく、親ゆずりの才能に恵まれ、しかも親と対立している。いわゆる七光り的な批判をかわすことができるし、漫画とはいえうまく設定されてますよねえ。「釣りバカ日誌」のハマちゃんと同じ類型ですが、山岡さんの方が一枚上手なような気がします。いかにも団塊の世代が描く主役っぽいです。我々の世代から言えば、そんなうまいこといくかいな、とちょっと思ったりします。

 この漫画のもう一人の主役と言えば、栗田ゆう子さんですね。この人は、すごいもんですよね。リアルで言えば、元NHKアナウンサーの久保純子さんでしょうか。おっとり才女と言いますか。独身時代はおっちょこちょいで、すこしかわいく描かれていましたし、恋敵の二木さんに嫉妬したり、すねたり、怒ったり、人間的な感じでした。でも、お子さんが生まれてから、海原雄山が認めるようになってきて、ちょっと聖母っぽく描かれるようになりました。落ち着いた見守る目の表情になってきてますね。それにともない山岡さんがどんどん丸くなってきました。

 栗田さんという女性は、ある意味で社会で働く女性の理想像でもあるんでしょうね。私はあまりフェミニズムに詳しくはありませんが、段階的には、こういう女性の社会での活躍の仕方は、ひとつの理想ではあると思います。栗田さんのように活躍したいと思う女性は多いことでしょう。でも、ある部分ではフェミニズムにとっては、栗田さんはあまり好ましくない女性なのかもしれません。男性の圧倒的な才能を支える才能として描かれていて、その意味ではメタレベル的=聖母的ではありますが、それは、フェミニズムが考える女性の最終到達点ではないのだろうな、と思います。

 で、少し脱線しますが、ある種のフェミニズムから見た女性の最終到達点のイメージとしては、やはり松田聖子さんだと思うのですね。松本隆さんの引力から突き抜けた後の松田聖子さんですね。「続・赤いスイトピー」以降。男の想像力からすれば「抱いて」という曲は、以前の松本隆引力下の松田聖子さんの楽曲と比較して、あまりピンとこない部分はあるにはあるのですが、あの「抱いて」という曲は女性にとっては重要な曲のような感じが、いろいろな女性のあの曲に対する言説を見ていて感じることがあります。松田聖子さん以降の、例えば、中森明菜さんや小泉今日子さん、今で言えばヒッキーさんなんかの生き方も、明らかに松田聖子さんがつくってきた女性の道なんだと思います。いま、しょこたんこと中川翔子さんなんかが松田聖子さんファンを自認している光景を見て、なんだかギザ好ましすなあ、と思うのは、そういう文脈があるからなのかな、と思いました。

 じつは、栗田さんの描かれ方は、非常に男性に都合がよく描かれています。その構造は、進歩的ではあるけれど、そこから先は描かれないこの作品の限界みたいなものがあるような気がします。そういう構造を隠蔽するかのように、ときどき栗田さんの発想がすべてをひっくり返す話が盛り込まれ、やっぱり栗田さんはすごいんだ、みたいな印象を読者に与えていますが、本当は、栗田さんが主役の「美味しんぼ」が書かれる状態というのがフェミニズムの到達点なんだろうなと思います。吉本隆明さんが、男女平等が達成される状態は、日本の大学の文学部以外の文系学部において、男女比率が半々になったときだ、みたいなことを言われていましたが、その意味ではまだまだ栗田さんは過渡期的ですね。

 その視点で山岡士郎の恋路を見た場合、すごいことに、山岡さんは栗田さんと結婚するまで恋人時代を経験していないのですね。山岡さんは、栗田さんを恋人として意識した時期をまったく持たずにプロポーズしてしまいます。読者には、山岡さんをめぐる三角関係が栗田さん、二木さんの感情を通して見えるようになっていますが、山岡さんは最後まで、栗田さんを自分の「彼女」として一度として意識しませんでした。性を捨象した精神性の問題としての恋愛模様が描かれ続けました。ある意味、子供の恋愛であるわけですね。それは、ある部分で、性の乱れみたいなことを言われる恋愛模様の反作用としての、恋愛の現代性をすごく表しているような気がします。

 まあ、グルメ漫画ですからそういうものは描く必要がないと思うのですが、私は、栗田さんと山岡さんの結婚が決まって、私たちはこれから一緒に暮らせるんだねと確認して、栗田さんと山岡さんがギュッと抱きしめあうシーンが突然出てきたとき、少しドキッとしたんですね。捨象されてたはずの性の問題が、突然姿を現したというか。原作者があえてそのシーンを出した意味は何なんだろうと思いました。

 山岡士郎さんの性に関するへたれぶりは、プロポーズのシーンでも存分に描かれています。山岡さんは結婚してくれと言うんですが、あの場におよんで、栗田さんの「花村さん、田畑さんが上手な断り方を教えてくれたわ」という思わせぶりな冗談を聞いて、それで「やっぱり俺みたいなやつ、だめだよなあ。元気で暮らしてくれよ」だなんてこと言うわけです。あの場におよんでですよ。精神以外の確証を得ていないんですね、山岡さんは。いい年して純愛なんだよなあ、と思いました。そこに「美味しんぼ」のもうひとつの魅力があるにはあるのですが。

 海原雄山さんは、妻に先立たれてからずっと独身を貫いています。そこに、この作品の父と息子の対立という大きなモチーフの鍵があるのですが、この軸では、今日に至るまで、フロイド的な父性の物語として「美味しんぼ」は展開されています。これを逆に見ると母性の物語でもあるんですね。海原雄山さんの妻は栗田さんと重ねられます。そういう意味では、この「美味しんぼ」はすごく古典的な物語でもあります。

 山岡さんが卵に当たって危篤状態に陥ったときに、雄山さんは病院に行くんですね。そこには栗田さんがいます。雄山さんは、会ってあげてくださいと懇願する栗田さんに対し、拒絶をしたあと、栗田さんに「私が山岡さんを治してみせます」と言われるのですが、雄山さんは「おまえは医者か」という言葉を言い放った後、立ち去っていきます。そのとき、雄山さんは栗田さんを山岡さんにとっての母性としての強さを見極める目をするのですね。おまえにまかせた、というような。そのあと、山岡さんは屁をこいて、「屁をこいてもひとりってか」というくだらない言葉をはきながら生還するんですよね。

 なるほどなあ、うまくつくられているよなあ、と思います。それとともに、男としては、山岡さんよ、おまえなんか栗田さんに振られてしまえって思うわけですよ。もうね、こいつ、ほんと駄目な男ですよね。こんな駄目男が幸せになっていく物語。どこかで読んだなあと思って考えてみると、「チッチとサリー」とか坂田靖子さんの「チューくんとハイちゃん」ですよね。男なら「貧乏生活マニュアル」ですね。

 漫画は時間が止まって動くからいまだに山岡さんは平社員のままですが、20年経っていると、当時25歳だとすると山岡さんも45歳ですよね。栗田さんは42歳。いい年だなあ、ふたりとも。ふたりともブログを立ち上げたりしているんでしょうかね。でも新聞記者だからなあ。新聞社の内規で、ブログはまずい、ということになってるんでしょうか。もしやってたとすると、ココセレブなのかな。それとも案外「はてな」でやってたりして。id:oishiroとかで、「はてブ」のネガコメ問題を論じてたりして。今の状況で言えば、メディアでは山岡さんと栗田さんの立場は逆転しているのかも。「栗田ゆう子の素敵に美味しんぼライフ」とかいって公式サイトを持っているのかも。山岡さんを脇において「情熱大陸」とかに、いま最も輝いている女性として出演したりして。

 「じゃりン子チエ」のチエちゃんとかはどうしてるんでしょうね。日本一不幸な少女は、幸せになっているんでしょうか。ヒラメちゃんは画家になれているんでしょうか。京都芸大とか出て、パリにいるのかもしれませんえ。案外、東京のどこかの広告会社でアートディレクターをやっているのかもしれませんね。だとすると、私より先輩のはず。ああ、一緒に仕事してー。

 「美味しんぼ」のメニューの中では、目玉焼き丼がピカイチでした。作ってみたら案外うまくて、びっくりでした。目玉焼きをごはんの上にのせて醤油をかけるだけですけどね。あれはうまいです。今夜ドラマでもやっていた、乾麺をつかった山岡スペシャルは、まああんなもんですね。つゆがぬるくなるのがいまいちでした。あと、おにぎりで鮭とマヨネーズは意外とあうと言っていましたが、あれ、コンビニだと定番ですがな。原作者、コンビニ行ってないなあと思いました。編集の人、言ってあげなきゃ。でもまあ。ああいう時代のズレも、この作品の楽しみどころですね。

 あと、面白いと思うのは、山岡さんが狂信的なマカーであるところとか。ウィンドウズのことあそこまで言わなんでも、と思いました。ネットでも話題になっていましたよね。あの漫画、マックだけきちんと細部まで描かれて入るんですよねえ。失業した人が、ニューギンザデパートでショッピングサイトを提案して職を得る話がありましたが、あの程度のことじゃ、あの当時でも駄目ですってば。まあねえ、そんなこんなを言いながら、コンビニで「美味しんぼ」の新刊が出ていたら買っちゃうんだものなあ。ホント、すごいもんだなあと思いますです。はい。では、よい日曜日を。

●追記(12:30)

 「山岡スペシャル」での検索でこのエントリにいらっしゃる方が多いみたいです。なので詳しく書いておきます。これは「美味しんぼ」第88集「こだわり夜食自慢大会!」に登場するメニューで、ドラマでは夜食大会で登場しましたが、原作では民心党の職員(ドラマでは議員になってましたね)に東西新聞の厨房で山岡さんが職員の「韓国巻き」のお返しとしてごちそうするというものでした。原作では「山岡スペシャル」という呼び名はついていませんでした。
 つくり方。どんぶりにネギのみじん切り、叩いた梅干し、刻んだ焼き海苔、針ショウガ、カツオ節、昆布の佃煮のみじん切り、たっぷりのすりゴマを入れ、醤油を加える。氷見うどんのような腰のある乾麺をゆでて、ざっと水で洗って、どんぶりに入れて湯を加える。かきまぜて食す。
 だし系と薬味系の味の要素は網羅されているので、間違いなく旨いです。味の足し算ですね。大阪的には昆布の佃煮のかわりに、とろろ昆布かおぼろ昆布でしょうね。でも、うどんが冷たく、だしがぬるくなるのが惜しいなあと思いました。というか、即席ものであるのに針ショウガとか叩いた梅干しとか手がこんでるのが雁屋さんらしいなと思います。でも、こういうのを入れることで味が複雑になるのでいいんでしょうけどね。チャーハンと同じです。この理屈では、お湯を入れて即席お吸い物ができます。私はこっちのほうが好き。
 あと「韓国まき」というのは、牛肉の細切りとニラを炒めたものを小麦粉と卵をまぜたものをクレープ状に焼いたやつに巻いてかぶりつくというもの。休日ですし、お試しくださいませ。うまいぞ。ってこれは違う漫画ですね。ではでは。

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2007年11月17日 (土)

広告を芸術に利用するんやない。芸術を広告に利用するんや。

 これは、元電通関西の堀井博次さんの言葉です。大阪の面白CMムーブメントの中心人物で、彼の制作チームは堀井チームと呼ばれ、金鳥や関西電気保安協会など、数々のヒットを飛ばしました。確か電通を定年退職されてから、電通テックの非常勤をされていたと思うのですが、今はどうされているのでしょうか。

 私は堀井さんと面識がありません。でも、一度だけお見受けしたことはあります。私がまだCIプランナーをしていた頃、電通関西CRのミーティングルームで某タイヤメーカーのポスターの打ち合わせで、電通関西の制作チームと揉めて、場がどんよりしていた時に、通りかかって、ポスターをのぞき込みながら「NAGIは難儀やなあ」と一言つぶやいて去っていかれました。もう17年前になるんですね。

 「広告を芸術に利用するんやない。芸術を広告に利用するんや。」

 この言葉、至言だと思います。上手いこと言うなあと思います。広告は芸術ではない、というのはよく言われることですよね。でも、この言葉、なんとなく嫌な感じがするんですよね。理屈だけでできたつまらない広告を肯定するみたいな感じがします。「俺たちは真面目に広告を作っているのに、まわりの広告制作者は自由にいいかげんに作りやがって。たとえそんな広告が物を売っているとしても、それは広告の本質から言えば邪道だよ。広告とは製品のベネフィットを伝えるものであって、エンターテイメントじゃないんだ」みたいなね。つまらない考え方ですよね。そんなの肯定できないです。つまらない広告は、やっぱりつまらない。それ以上でも以下でもないんです。

 広告は芸術じゃない、という言葉にはそういう弱点があるんですね。一見正しそうに見えても、広告は真面目でなくてはならない、という間違った認識に人を導いていくような、つまらない言い方ですよね。同じように、広告は芸術である、という言葉も駄目です。芸術ではない広告をまったく定義できないし、そもそも広告は芸術であると思いたいという個人の表明でしかありません。個人で思う分には異論はありませんが、まあ、勝手に言ってくれ、という感じです。でも、広告は芸術じゃないことは、当人がいくら力んだところで、現実がそれを証明してくれます。これは、広告関係以外の人だと、広告という言葉を、漫画とかアニメに置き換えるとわかりやすいかもしれません。あるいは、ブログは知の生成ツールである、とかね。異論がある人もいるでしょ。こういう言い方は、それ以外の定義を持っている人を排除していく機能を持っているので、それが公共に向かって強制力を意図し始めると、不毛な対立を生み出したり、困ったことになってしまうんですね。いわゆる、独我論ですね。

 私は広告制作者です。で、広告制作者の多くは、もともとは作家になりたかった人や画家になりたかった人です。作家崩れという言い方がありますよね。その言葉、私は認めてしまいます。というか、若いときにそんなことを一回も思ったことがない制作者はあまり信用できないなと思います。たまたま映像関係のエンジニアから広告制作者になって、そこで才能を発揮する堀井さんのような幸福な人もいらっしゃるでしょうけど、まあ、確率論的に言えば、たいがいは何かの崩れであるでしょう。ね、あなたもそうでしょ。

 広告が芸術じゃないとすると、かつて何かになりたかった自分がやっている表現って一体何と思ってしまうんですよね。で、改心してビジネスとして真面目にやる人もいるでしょうけど、なんかつまらないと思いませんか。そういう人は、現実においては、残酷な言い方ですが、営業や得意先から駄目CRの烙印を押されがちです。逆に、広告は芸術であるとなると、自分がやっている表現に自負心は生まれますが、今度は現実とのギャップが自分の無意識を傷つけていきます。それより何より、そういう制作者は現実においては困ったちゃんになってしまいます。

 このブログで、私は、効かなくなった広告が再び力を取り戻すために、広告という行為そのものが面白くならなければ、と言い続けてきました。かつて広告は、エンターテイメントとしての文化の中心のひとつでありました。広告はエンターテイメントの手法を積極的に取り入れて面白くなってきました。そして、いつのまにか、広告はエンターテイメントであると自ら名乗るようになってしまったのですね。そうなると、どうなるか。「楽しいCMをありがとう。でも、商品は買わないよ。」となるんですよね。それよりも何よりも、これだけエンターテイメントが多様化している今、広告ごとき、つまり、結局は商品購買という欲望を刺激する目的でつくられた、偽エンターテイメントであるところの広告ごときが純エンターテイメントとして突き抜けられるわけがないのです。

 で、ここからが本題です。じゃあ、これからは広告にはエンターテイメントなんかいらないのか。そんなわけないんです。広告はこれからもエンターテイメント的であり、芸術的であり、文学的であり、詩的であり続けるでしょう。でも、間違えちゃいけないのが、芸術でなく、芸術的であることなんですね。芸術を広告に利用するんです。それは、あくまで力強い広告であるためにであって、力強い芸術であるためではありません。そして、同様に、力強い広告であるために、エンターテイメント的であることや芸術的であることや文学的であることが必要ないのなら、容赦なく切り捨てる必要があるのですね。実際は、自意識が邪魔してなかなか、既存の「的」を排除した新しい広告表現はつくれないのだけれど。

 堀井さんのつくったCMで私がいちばん好きなのは、ベートーベンの第九のメロディを使って「♪たったの3分親子丼!ごはんにかけて親子丼!」とバッハに扮した笑福亭仁鶴さんが歌うCMです。「仁鶴ちゃん、チャイコフ好き〜」と言うんですよね。子供の頃に見たCMなのに、いまだに歌える私がいます。こんなくだらない世界、広告でしか成立しないですよね。その広告でしか成立しない表現こそ、私は、広告のパワーの源泉だと思うのです。そして、私は、広告が効かなくなったという時代に、それでも広告の力を信じて、今日も明日も、与えられた広告目的を達成するために、私が持っているすべての力を総動員して広告を作り続けていきたいと思っています。

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2007年11月15日 (木)

疲れたココロに効く音楽。

 12月立ち上がりキャンペーンの制作で、ここ最近にはないほど忙しい日々をすごしています。まあいろいろとうまくいかないものですね。制作物がどっとあって、ひとつひとつが手を抜けないものだらけで、おまけに納期まで時間がない。いやあ、参りました。いろいろ愚痴りたいこともあるけれど、やっぱりブログじゃそれは無理。タイトルに偽りあり、ですね。でもねえ、やっぱり愚痴の醍醐味はリアルですよ。やきとんをつまみながら、ホッピーで、愚痴って、愚痴って、愚痴りまくる。ナカミ(ホッピーに継ぎ足す焼酎のこと)もう一杯ね、なんて時間もないんですな、これが。

 まあ、そんなときは、お気に入りの音楽を聴くのがいちばんです。好きな音楽を聴きながら、ほけーとすると、まあ、明日もなんとかなるかな、なんて気になるから不思議です。

 この前、マイルスの言葉をタイトルにしたエントリを書いたけど、そのとき「はてブ」のコメントを見てたら、マイルスなのにビル・エバンスカテゴリーって、みたいなコメントがあって、思わず笑ってしまいました。今回のエントリも、エバンスの話じゃないけど、エバンスカテゴリーにしときます。それに、薄くですけど、エバンスに関係ありますしね(笑)。それと、これを機会に、エバンスカテゴリーのエントリでも読んでみてくださいませ。いいですよ、ビル・エバンス。

 で、疲れたココロに効く音楽。私の場合、ミッシェル・ペトルチアーニの「Looking up!」という曲なんですね。ミッシェル・ペトルチアーニというジャズピアニストは、エバンスの影響を色濃く映すフランスのピアニストで、音楽性はエバンスほどは思索的ではなく、どこか明るくカラッとした感じがありますね。日向の明るさというか。でも、ラテン的な感じでもなく、あくまでエバンス派の音です。明るいエバンスと言ったらいいんでしょうかね。1999年にお亡くなりになっています。享年36歳でした。

 この方は、先天性の障害を持っている方で、身長が1mほどしかなく、20歳くらいしか生きられないと医者からは言われていたそうです。あと、フランス人ではじめてブルーノートレーベルと契約した人でもあります。フレンチジャズというとイージーリスニングっぽいジャズが多いのですが、ペトルチアーニの場合、まったく違います。人によっては、エバンスの後継者と呼ぶ人もいます。エバンスもそうですが、やはり繊細な音を奏でるピアニストは日本では人気が高く、来日も多かったそうです。

 「Looking up!」という曲はオリジナルで、すごくやさしいメロディで誰にでも親しめる曲です。いつも私が書いているエバンス論で取り上げる難解な曲ではなく、ほんと簡単で単純。どんな人もきっと好きになると思います。なんの理屈もないし、ただただ元気になるんですね。いい曲だなあ、と思います。

 ペトルチアーニの中では、彼のメジャーなヒット曲という感じで、4ビートではなく16ビート。いわゆる、みんなが楽しみにしている十八番というとこですね。カシオペアなら「ASAYAKE」、スクエアなら「トゥルース」みたいな感じの曲ですね。ウェザーリポートなら「バードランド」。ナニワエクスプレスなら「ビリービン」。プリズムなら「カルマ」。ジョージベンソンなら「ブリージン」。渡辺香津美なら「ユニコーン」。日野皓正なら「ピラミッド」。渡辺貞夫なら「オレンジエキスプレス」。ハービーハンコックなら「ウォーターメロンマン」。チックコリアなら「スペイン」。もう、いいですか、そうですか。

 この曲、スタジオ録音バージョンは、フュージョン風で、ストリングスとかが入っています。でも、私のおすすめなのは、アコースティックのトリオバージョン。YouTubeにいい感じのライブ映像がありましたので、ご紹介しておきます。

Michel Petrucciani - Looking Up - live JazzBaltica

 ね、ほんとに親しみやすいメロディでしょ。難しいことを何にも考える必要がない。

 ああ、今日は天気がいいなあ。ほら見てみてよ、あの雲。パンみたいなカタチしてるよね。おいしそうだね。あっ、そうだ、そろそろお昼にしない。あの雲見てたら、お腹すいてきちゃった、みたいな。いいなあ、こういう理屈抜きのしあわせ感。

YouTubeのリンクについての追記:
私はYouTubeでいろいろな音楽を楽しんだり、紹介したりするかわりに、気に入ったものは、著作権者のメリットになるように、なるだけ買うようにしています。このへんのグレーゾーンって難しいですね。たぶん、これからネットは「等価交換」という概念が重要になってくるような気がします。それは、またのちほど。

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2007年11月13日 (火)

ギャル曽根さんだって食べたくない日があると思うと、なんだか泣けてくるんです。

Sone  テレビであんなに楽しそうに食べまくっているギャル曽根さんだって、食べたくない日がきっとあるはず。テレビで楽しそうに食べまくってるときだって、もしかすると、今日はちょっと食べたくないなあ、と心の中でつぶやいているのかもしれないですよね。ほんと偉いなあと思うんですよね。不機嫌な顔ひとつせずに、たいしたもんだなあって。生きてりゃ、むかつくことも、いらつくこともあるでしょう。生まれながらの大食いの人だって、胃もたれくらいするでしょうし。

 それにくらべてこの私、今日一日、すごく不機嫌でした。というか、ここんとこずっと不機嫌です。自分がピリピリすると、まわりもピリピリするし、不機嫌になっていいことなんてひとつもないんですよね。とりあえず、書ける時間があるときはブログを書こうと決めているんですが、今日は、ほんと心がささくれ立って、何も書く気にならなかったんですよね。ほんとに何も思いつかなかったんです。私の場合、こういうこと珍しいんですよね。面白い面白くないはともかくとして、書こうと思えば、まあ書けるんです。

 じゃあ、書かなきゃいいじゃん、という手もありますが、なんかね、こういう気分で書かないのは、負けな気がして。誰に負けるんだよって話ですが、とにかく負けな気が。どうしよう、どうしようと思っていると、なぜかギャル曽根さんのことを思い出して。そう言えば、あの娘、不機嫌な顔を見たことないなあって。そしたら、ちょっと泣けてきて、というのは大げさですけど、なんか俺って小させえなあって思って。なんか、こういう言い回しの時は俺と書いてしまいますね。

 別にファンではなかったけど、あの笑顔はいいなあ。これからファンになります。ギャル曽根さん、これからもいい笑顔を見せてください。応援してます。それと、お体に気をつけて。

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2007年11月12日 (月)

フラット化する時代において、プロフェッショナルであることの意味って何だろう。

 Web2.0まわりで言われているフラット化、CGM、ロングテールみたいなこと、ブログをやるまでははっきり言えば、あまり肌で感じていなかったように思います。それなりにその手の本は読んでいたし、概念ではわかっていたけれど、まあいつもの流行思想だろうな、という感じでした。そんな絵空事よりも、現実に生きている世界で私が身を置いている広告業界の構造変化と、その中での身のこなし方のほうがが差し当たっては重要で、明日のプレゼンの方が大切っていうのは、ブログを始めた今も変わらないけど、少なくとも絵空事ではないな、と思っている自分は確実にいます。

 少なくとも私は、業界批判みたいな感じでこのブログを書き始めたわけでもないし、リアルの自分とまったくかけ離れた匿名としてブログを書き始めたわけでもありません。どちらかと言えば、明日のプレゼンどうしよう、みたいな悩める業界人のへたれな日常と思考をつらつら書くタイプのブログなんでしょうね。告白とか愚痴みたいな。

 業界の構造みたいなものを批判するブログのエントリをよく見かけますが、そのブログのエントリの論理には共通するものがあるみたいで、本当は有能だけど、構造の中で割を食っている真実を体現する私、その私が構造批判、構造解消で私に脚光が当たるはず、というもので、それには正直言ってあまり納得がいかないんですね。酒の席のうだ話だよなあと思うんですね。自分をなぜ大きく考えられるのかな、こういうことはあらゆるケースとその影響と結果を考えながら、事実をベースにして、個別に精密にやらないと意味ないんじゃないかという感じがするんですよね。(こういう書き方をすると誤解されるかもしれませんが、私は今の業界の構造を肯定しているわけではないですよ。)

 で、そういう人は、必ずWeb2.0やフラット化、CGMをその反対概念として評価していますよね。もちろん告発は大事だとは思し、ルサンチマンの解消としての表現という意味ではその気持ちはわからないでもないし、それを表現できるのもブログの魅力のひとつでしょうし、ずばっと切るみたな気持ちよさもあるのですが、その論理構成はものすごく甘いような気がするのです。見たくない私をめぐる現実を、やっぱり見てない、みたいな感じがするんですね。それは、もしかすると構造のせいじゃないんじゃないかというような。それに、新しい価値観は、その旧来の構造の立つ基盤を脆弱にしているし、構造すべてがクラッシュする可能性があるんですよね。そうなると、構造変化どころかゼロになるんだし。やるなら、もっと厳密に精密にやってよという感じです。業界のプロが書くんだらさ。それは、業界人として書くときの責任だと思うんですよね。

 いま、よくブログの終わりと言われているようですが、それは、流行思想としてのフラット化の終わりでもあり、これからは流行思想ではないフラット化が始まるのであれば、そんなものはあなたや私を救ってくれるようなものではないと思うのです。もっともっと、ざらざらした世界でもあるような気がするんですね。余談ですが、私にとっては、ブログが流行ろうが終わろうが、ブログサービスさえ維持されれば関係ないし、興味もないんですけどね。こういうことを書ける場所があって、こういうことを書いている他の人のブログが読めれば、別にどうでもいいという感じです。

 フラット化というものについて、私はこれからの時代の価値観として肯定したいと思っています。私は、これからも思考にブレーキをかけないで書き続けていきたいと思いますが、それはフラット化したウェブの世界を前提にしています。正確に言えば、ウェブの世界から発信されたフラット化という価値観を共有するリアルの世界も含む、ですが。でも、このいまの価値観の反対概念としてのフラット化は、本当に構造で割を食っているプロフェッショナルたち(それは、ある部分では、中堅広告代理店の存在意義って、今どきあるのと悩む私の現実と重なるんですが)を救ってくれるものなのか。私はNOだと思います。

 フラット化とはどういうことなのか。それは、プロフェッショナルではない有能な人と、プロフェッショナルを名乗る有能な人が、等価で結ばれる世界です。それが進行するとどうなるのか。それは、普通のプロフェッショナルが、能力においてプロフェッショナルを名乗れなくなる世界だと思うのです。となるとどうなるか。もしかすると私などは、うかうかしてると、少なくともウェブの世界ではプロフェッショナルなんて恥ずかしくて名乗れない世界だったりするんですね。少なくともネットであふれる思考程度ではお金がもらえない世界でもあるんです。ネットで手に入れればいいのですから。(まあ、この話は飛躍があって、私たちは個別課題に向かって思考して形にしてお金を稼いでいるから、それはネットでは手に入らないんですけどね。)

 私が考えるこのフラット化された世界の想定は、例えば、アマチュアが広告を制作してしまうような世界ではありませんし、実際、あるブランドはCMをアマチュアにつくらせてしまうキャンペーンをやっているようですが(私は広告ってそんなもんじゃねえぜ派)、そんな流行っぽい想定ではなくて、アマチュアの高度な思考の前で、プロフェッショナルとしての自分の社会的存在がなくなってしまうような、そんな実存的な世界です。

 そして、社会に対して、思考の部分できちんとプロフェッショナルを示せなければ、お金を稼ぐ実業としての広告業界はゆっくりゆっくり終焉していきます。けれども、私は、このフラット化された世界を肯定したいし、そこで、私は少なくとも、このフラット化された世界の中で、広告関連の思考を公開する時においては、思考の質において、広告のプロフェッショナルの端くれとして存在したいと思っています。

 流行思想としてのフラット化は、あらゆる肩書きを取り去って、エントリというか、生のテキストで評価をする世界を出現させました。この世界を、私は、80年代現代思想でテキスト、テキストと叫んでいた思想家たちに見せてあげたいなと思うんですね。あなた方が対象とする高度なテキストではないけれど、いまこうして、あなたがたが叫んでいたテキストで構成される世界は、ウェブを通して、大衆が実現していますよってね。

 フラット化という世界は、すごく刺激的で、例えば、まったく違う専門分野の人たちと思考でつながることができる、いままで考えられなかったような世界でもありますし、まだ始めて間がないブログでさえそんな体験を何度もしました。そういう素晴らしい思考を栄養にして私も日常を生きていたりします。けれど、いままでのように業界にいてるからプロだなんて恥ずかしくて名乗れないざらざらした世界でもあるのですよね。それを梅田望夫さんは「けものみち」と呼んでいますが(厳密には、大企業から離れて職業人として生きろということですが、私は大企業じゃないけど、その部分は余計なお世話だと思います。こういう新しい価値観は、生活との両立において、組織人に浸透して本物だと思いますから。)なるほど上手く言ったもんだな、なんて思うんですよね。

 こんなことをうだうだ書いてしまった私ですが、「あんた、ほんとにやってけるんかいな」という弱気な自分と向き合いながら、明日もクリエイティブディレクターと書かれた名刺を、平気な顔してお得意に差し出すんですよね。なんか今日のエントリは、未消化だったなあ、何言っているかわからないなあと思いますが、未消化なまま投げ出したいと思います。ブログだしね。

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2007年11月11日 (日)

おもろうて やがて悲しき スマートフォン

 やっぱりまた歴史は繰り返すのかなあ。mixiの「W-ZERO3[es]手放しました」というトピを読みながらそんなことを思いました。Palmも、Zaurusも、Mobile Gearも、CLIEも、歴史の法則に逆らえませんでした。そうそう、Newtonというのもありましたね。

 OSは、Windows Mobile、Palm OS、Zaurus OS、Linuxなんかがありますけど、OSの処理能力にかかわらず、こうした高機能情報端末は、生まれながらにニッチを運命付けられているというか、使ってみて思うのは、何もかもが中途半端だなあという感じ。例えば、ケータイの場合、電話、メール、インターネットで考えれば、普通のケータイ端末で十分ですよね。ケータイでも十分に普通のインターネットができるようになっていますし、mixiなんかはケータイからのアクセスがPCを抜いたそうです。ココログやはてなもケータイ対応になっているし。ケータイでもOperaブラウザのやつがありますし。

 高機能スケジュラーを使うとか、PCなみのメールとかインターネットとか、PDFやOffice系ファイルの閲覧と編集を求めるとW-ZERO3[es]を始めとするスマートフォンになるのでしょうが、その機能を追求すれば、当然その機能性での不満も出てくるわけで、じゃあ軽量ノートPCにするべか、みたいなことになってしまいます。逆にケータイとしては、やっぱり機能を求める分、安定性や操作性が相当犠牲にされているので、ケータイを使い慣れてた人がW-ZERO3[es]にすると、突然フリーズしたり、不安定になったりするとおろおろしてしまうみたいです。

 mixiのトピなんかでも、フリーズの問題とか、電話やメールといったケータイの基本機能の操作性の悪さが機種変更の上位に挙げられていました。あと、意外に多かったのが、充電池の持ちの短さもありました。

 私なんかは「W-ZERO3[es]礼賛」というエントリを書くくらいですから、このW-ZERO3[es]にかなり肩入れしていますので、mixiのトピの人たちを全員集めて、なんとか思いとどまるように説得したいくらいなんですが、まあそういうわけにもいかず。なに、このおっちゃんみたいなことになるだけですからねえ。という自分も、金曜の深夜に突然W-ZERO3[es]がフリーズ。リセットボタンも効かない状態になってしまったのですが、まあ私の場合、フリーズ上等、かかってこいや、みたいな感じで使ってますので慌てず電池を外して「フルリセット」敢行。でなんとか起動したのですが、Today画面に表示していたスケジュールがなくなっています。あれっ、もしかしてスケジュールデータが消滅?なんてことが頭によぎり、ちょっとあたふたしてしまいました。

 ヘビーユーザな方ならお分かりでしょうが、単純に時計もリセットされてただけなんですけどね。でもねえ、ケータイがフリーズという状況は、ふつうのケータイユーザはかなりしんどい出来事なんでしょうね。

 あと、充電池の持ちの問題ですが、本体のアンテナと電池残量の表示ランプは通常時に切る設定にしておくとか、液晶の照度を半分に設定するとか、こまかな設定をしないと確かに短いです。あと、はっきりと圏外とわかるところで長時間いる時は、電源を切っておくとかね。電波を探すのにけっこう電力を使うんですよね。そんなこんなで、思いっきり使っても1日は十分に持つんですけどねえ。でも、ふつうの人たちはデフォルトで使うでしょうし、気に入らなかったらすぐ機種変更が当たり前だしねえ。そもそも、ユーザに気を使わせる製品って、どうなん?という気もしないでもないです。

 Windows CEの頃から使っているユーザとしては、今のOSの進化や充電池の性能向上はすごいなあと思います。けれども、OSが進化しても、充電池がもっと持つようになっても、このスマートフォンという分野は、この分野のニッチ性みたいなことが壁になるんでしょうね。こういう分野は、海外のブラックベリーみたいに法人契約みたいな感じでいくしかないのでしょうか。

 広告であれもできるこれもできるとさんざん煽って、頭の中で期待がどんどん広がって、買って使ってみて、なんじゃこりゃ。このブログだって、大きなマス空間の中では屁の突っ張りほどの影響力もないでしょうが、W-ZERO3[es]の良さをいっぱい書いているから、煽りの一部にもなってるでしょうし。この悪循環を断ち切る方法はなんかないもんかなあ。私はあいかわらず便利に楽しくW-ZERO3[es]に付き合っていますし、これからも付き合っていくつもりですが、なんとなく、休日だし、時間もあるし、この素晴らしい端末の将来のことをぼんやりと考えてしまいました。

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2007年11月 9日 (金)

「いいプレイをする奴なら、肌の色が緑色の奴でも雇うぜ」 by Miles Davis

 ビル・エバンスというピアニストの生涯を振り返ると、マイルス・デイビスというトランペッターは非常に重要な人物として登場します。エバンスとマイルスが出会わなければ、ジャズにモードというムーブメントは起きなかったかもしれません。エバンスは、マイルスからモードを吸収し、マイルスはエバンスからモードの発展の契機をもらいました。

 1959年、マイルスは若き白人ピアニスト、ビル・エバンスを起用し、名盤「カインド・オブ・ブルー」を発表します。その音楽性の高さは、またいつか論じてみたいですが、ここで触れるのは違う話題です。当時、ジャズは黒人の魂だと思われていました。とりわけ、アフリカ系アメリカ人にとっては、その気持ちは強かったのです。それは、今もそうですね。当然、若き白人ピアニストであるビル・エバンスを起用したマイルスには、激しい批判が浴びせられます。どうして、黒人の魂であるジャズに白人を起用するのか。マイルスよ、おまえは白人なのか。俺たちは、おまえを誇りに思っていたのに失望したぜ。そのとき、マイルスは毅然と言ったのです。

 「いいプレイをする奴なら、肌の色が緑色の奴でも雇うぜ」

 私は、この言葉が大好きです。もちろん、差別される側が差別するという複雑な状況におけるマイルスの毅然とした態度に対する敬意もありますが、もうひとつ、私はこの言葉からすぐれた音楽をつくるという「目的」に対する純粋な態度を読み取るのです。

 私たちは、知らないうちにある行為に対して、その行為の目的以外の目的を持ってしまうことがあります。私にとって身近な例をあげると、いい広告をつくるという目的が、いつのまにか制作者にとっていい広告「作品」をつくるという目的に変わってしまったり。かわいい些細な例では、いい仕事をする目的のために打ち合わせたり話し合ったりすることが、打ち合わせたり話し合ったりすることを楽しむことが目的になってしまっていたり。

 不愉快な状況に対する違和感は、それを分析してみると、結構、「あっ、こいつ目的が違うな」ということから起因することが多く、私自身の失敗や醜い行為の原因を探ってみると、そうかあのとき私は目的を違うのもにしていた、と気付くことが多いのです。虚栄心だったり、顕示欲だったり、取り繕いだったり。

 マイルスは、すぐれた音楽をつくるという目的を、黒人の地位向上という目的に摩り替えませんでした。そして、彼は、音楽家であるひとりの人間として黒人の地位向上に貢献したのです。エバンスがグラミー賞を獲ったとき、マイルスは怒りくるって会場を後にしたという噂話をジャーナリスト達は書き綴りました。黒人と白人という文脈で面白おかしく。そのとき、エバンスは、そのことについて尋ねたインタビュアーに対して、私とマイルスの音楽的交流を知っている人なら、そんなことがあるはずはないとわかるだろう、と答えています。

 私が好きな音楽家は、すべて音楽をつくるという目的を、音楽以外の目的にすり替えることをしなかった音楽家です。私が好きな人間も、ある行為の目的を、違う目的に頑ななまでにすり替えない人です。私は、そこまで完璧に生きている自信はありませんが、彼らのように生きたいと思います。たとえそのすり替えられた目的が正義であろうと、基本的に目的のすり替えは、駄目なことであると思うのです。明確な理由は分からないけれど、少なくとも、私には、不快で薄汚く感じるのです。目的に対して純粋であり、忠実であること。それが人間の価値を決めると私は信じています。

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2007年11月 8日 (木)

んなもん知らんがな。

 ここのところ仕事で夜が遅く、家に帰るのが深夜になってしまいます。で、帰ってきてまずすることがラジオのスイッチを押すこと。もちろんFMなんかじゃなくてAMです。知らなんがな。

 というわけで、タイトルの話題に。深夜はAMラジオを聴くのですが、水曜深夜はTBSラジオの「雨上がり決死隊のべしゃりブリンッ!」。そのコーナーでなかなか面白いのが「知らんがな」のコーナーです。たとえば、今日採用されたネタは「うわっ、俺、気づいたらアーモンドチョコばっか食べてるわ。なんでやろ、なんでやと思う?」「知らんがな!」という感じです。

 このブログは「ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)」と決める前は、「んなもん知らんがな。」にしようと思っていたこともあり、なんか「知らんがな」のコーナーに親近感がわくんですね。ちなみに「んなもん」は「そんなもの」の大阪弁で、「そんなもん」に感情を入れたときの発音を表記したもの。ちなみにエントリに「。」をつける癖は、広告屋だからですね。やっぱり、タイトルというよりキャッチコピーに近い感覚があるんですよね。んなもん知らんがな。

 ブログって、言ってみれば「んなもん知らんがな。」そのものですよね。社会派ブログとか、アニメなどの趣味ブログとかは、それなりに情報に意味というか意義があるのでしょうが、私が書いているブログなんかは、ほんと読む人にとっては「知らんがな」の連続でしょうね。これは私のブログに限らず、私が愛読している多くのブログも「知らんがな」系です。

 余談ですが、有名人ブログなんかは、ブログになると商売で書いている文章やおしゃべりとの落差で、有名じゃない人のブログよりも「知らんがな」度がきわだつ傾向にありますね。「今日は久しぶりのオフ。この頃はまっているのが焼酎。うまいんだなあ、これが。私は断然、芋派‥‥」知らんがな。

 それぞれの人が、それぞれの状況で生きていて、その生活の中で思ったことを書き綴るのがブログだとすれば、その人以外は「知らんがな」になりますよね。でも、そういうところが、ブログの魅力の魅力なんでしょうね。なんか万葉集みたいで、ギザ好ましすなあ、という感じです。読みながら、納得したり、共感したり、反発したりしながら、読み終えて、すっーと息を吸って、んなもん知らんがな、とつぶやく感じがブログだなあ、と思います。

 で、明日もまたブログを覗きに行って、あっ、元気そうだな、顔も名前も知らない人よ、みたいな感じで読みはじめて。そして、明日もまた、納得したり、共感したり、反発したりしながらつぶやくんでしょうね。んなもん知らんがな、って。と書く私のブログも、そんなふうに読まれたらうれしいなあなんて。知らんがな。

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2007年11月 7日 (水)

別にキザなことを書くつもりはないけど、いろんな意味で、広告と恋愛は似ていると思います。

 広告は愛だ。とか。広告は企業から消費者へのラブレターである。とか。そんなことを書くつもりはありません。当方のリアルな姿を知る人が見たら、何をかっこつけてんだよ、なんて言われそうだしねえ。なんか、ブログではぜんぜん違うんだね、ふふふ、ってのがありありと思い浮かぶし。

 ということで、なぜ恋愛と似てるか。まあ、結論から言えば、理屈じゃないってことですわ。例えばね、ある人を好きになって、いろいろと考えるよね。その人は何が好きなのか。その人に恋人はいるのかいないのか。自分はその人にふさわしいのかどうなのか。あらゆる状況を考え抜いて、ああ言われたらこう言う、みたいなこととか、ああしてこうしてああなって、みたいなことをシミュレーションして、でもって、告白する。でも、いくら考えたこところで、理屈とか関係なしにふられる時はふられますわな。あいつより絶対俺の方がいい、あらゆるところで秀でている、なんて叫んでみても、しょうがないわけでさ。

 でね、わりと若い人なんかは、特に考えすぎるタイプというか、文学とかを読んで頭で恋愛が分かった気になっている青年なんかは、現実の恋愛がうまくいかずに悩むんでしょうけど、それは、考えすぎるからだと思うんですね。考えを過信するんですね。かつての私なんかは、まさにそんなタイプですわ。もうね、典型的。とほほ。

 広告のコミュニケーションも、インタラクションであると『場、表現、インタラクション』というエントリで書きましたが、インタラクションって、発信側と受信側の非対称性が前提ですよね。非対称ということは、未知な部分を持った相手なわけですよね。恋愛と一緒なわけです。どう反応するかなんて分からない相手なわけですよね。それが、生きている感情を相手にするってことだと思います。

 マーケティングでターゲットを詳細に分析して、こうしたらああして、ここでエンクローズして出口ふさいで、きっとこの時はブランドに夢中だから、ここでベネフィットを教え込んで、みたいなことを一生懸命考えますよね。それはすごく大事なことだと思うし、それをやらないのは怠慢以外の何者でもないと思うけど、消費者には奥の手があるんです。将棋盤をひっくり返すという奥の手があるんです。ゲームから降りる権利を消費者は持っているんですよね。これを考慮に入れないあらゆるマーケティング理論は絶対に消費者に裏切られます。

 最近はあまり言われなくなったけど、いわゆるマーケティングでガチガチに固めて、ベネフィットを見事なアイデアでわかりやすく斬新にメッセージする広告が、マーケッターや制作マンの期待に反して、たいしたスコアを取れない原因を「知的嫌悪」というワードで表現したりします。知的嫌悪というのは、理屈はわかった、ベネフィットも理解した、つまり、知的には了解したという上で、これは嫌いだ、ということを表す言葉。つまり、積極的に嫌いという意味ですね。そして、嫌いという心理は、やがて無視という行動につながっていきます。

 糸井重里さんが「ほぼ日」の「今日のダーリン」で、飽きるということを飽きずに考えてきた、とダジャレ半分で書いていました。以下、一部引用します。

ってことは、ふつうにしてたら「飽きる」
ということなんですよね、人は。
ふつうにしてたら、人の興味は「飽きる」に向かう。
そのほうが自然なのだとしたら、
その自然について、もっと理解していたいです。
でもね、「飽きない」が自然で
「飽きる」が不自然だというふうに、習ってこなかった?
だから、「飽きる」を軸にした思考が育たなかったんだ。
などということを、ぼくは何十年も‥‥
(もうオチ、わかったよね?)
飽きずに考えてきたんです~~っ!
「飽きたってやる」もあり「飽きずにやめる」もありうる。

ほぼ日刊イトイ新聞』11月05日「今日のダーリン」より

 ほんとそうだと思います。人間は飽きる生き物だし、嫌う生き物なんですね。で、飽きるも、嫌うも、理性ではなくて感覚なんですね。当然、はまるも、好きも、感覚ですけど、こちらはポジティブな心の動きだから理論化が簡単。でも、その逆作用である、飽きるも、嫌うも、理論化は困難で、それは、好きになるという心理プロセスを精緻化した理論を、いとも簡単に裏切るんです。

 よくね、若いコピーライターの人が感銘を受ける言葉に、前段に書いた「コピー(広告)とは企業から消費者へのラブレターである」というのがありますよね。こう書くと、コピーライターは、すごくいい気分になるんです。でもね、あえてネガティブなことを言いますが、そうして一生懸命に書いたラブレターが「このラブレターきもい」って簡単に言われちゃうのも広告コピーであるんです。残酷だけど、それが広告の現実です。糸井さんが書いていた飽きるということに関して言っても、面白すぎるものは、すぐ飽きる、というのも現実であって、特に長く運営していくキャンペーンなんかでは、じつは、この設計というか頃合いがいちばん難しいと思っています。

 じゃあ、どないせえっちゅうねん。その答は、ケースバイケースなんでしょうね。きもい、うざいと言われないために、そのときそのときで考えていかないといけないし、考えすぎて、こちらの考えを過信しすぎてもいけないし。私なんかは、何年経っても、いまだに、どないせえっちゅうねんの連続です。ほんと広告って難しいなあと思います。

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2007年11月 5日 (月)

コミュニケーションという観点から見た、小沢民主党代表辞任表明

 先の参院選の時も小沢民主党党首の行動は、これまでのイメージ形成の方法論の定石を逸脱していたと思います。なぜ、参院選の最中にほどんどメディア露出をしなかったのか、その理由がいまいち掴みきれずにいました(参照)。結果として、民主大勝となったけれど、小泉フィーバーの時、あれだけ広告戦略、つまりイメージ戦略の勝利が語られたにもかかわらず、先の民主大勝の際は、少なくともブログシーンでは、それがほとんど語られませんでした。

 私は、政治や国際情勢については知識もあまりなく、そういう意味では、この分野についての積極的な発言や表明は私がやってもあまり意味がないような気がしています。それは、今回も変わりません。しかしながら、私が専門とするコミュニケーションの分野において、やはり、今回の一連の動きは、非常に不可解であり、これはどういうことなんだろうか、ということが頭を離れません。

 政治的な駆け引きや情勢についての分析や意見は他のブログに譲るとして、今回の小沢代表の辞任表明について、コミュニケーションという観点からの戦略を考えてみたいと思います。私は、自分の職業的興味や生活者としての実感から、この辞任表明のコミュニケーション上の影響について書かれたタイムリーなテキストを読みたいと思っています。それは、今、ウェブにはほとんどないように思います。であるならば、力不足ながら、まずは私がやる意味はあるのではないかな、と思っています。

 こういう行動に出ることで、予想される反応はどういうものであるのか。それは、まず大ざっぱに言えば、小沢代表は二大政党制を否定するのか、翼賛と一緒じゃないか、といった世論ができるでしょうし、密室政治との批判も免れないとも思います。小泉元首相が、これは郵政民営化是か非かを決める選挙であると言ったときは、コミュニケーションという観点から見れば、二元論へと還元するそのやり方に批判はあるにしても、非常に戦略的でわかりやすかったんですね。改革を止めるな、というキャッチフレーズも見事でした。けれども、前回参院選の行動も、今回の行動も、私から見て、どういう意図をもっているのか、まったくもってわからないんですね。というか、私の想像力を超えているんです。これはなんだろうという困惑だけが残るんです。政治のことは書かないでおこうと思っても、思わす書いてしまう不可解さを持っているのです。

 もしかすると小沢代表の政治的信念や経験知が、この行動の唯一の動機であるのかもしれません。であるならば、私には分析する知識も能力もありませんが、きっと、そうではないでしょう。上記の予想される反応など織り込み済みに違いありません。政治家なんですから。だとしたら、どういうことなんでしょうか。小沢党首は、以下のようなコメントを残しています。

 このようなマスメディアのあり方は明らかに報道機関の役割を逸脱しており、民主主義の危機であると思う。報道機関が政府・与党の宣伝機関と化したときの恐ろしさは、亡国の戦争へと突き進んだ昭和前半の歴史を見れば明らかだ。また自己の権力維持等のために、報道機関に対し、私や民主党に対する誹謗中傷の情報を流し続けている人たちは、良心に恥ずるべきところがないか、自分自身によくよく問うてみていただきたい。各種報道機関が1日も早く冷静で公正な報道に戻られるよう切望する。以上だ。

 これは、この報道があってからの小沢代表及び民主党に対する事実無根の中傷報道に抗議する、という文脈で語られたコメントです。このコメントから感じられるトーンは、自民党の古参議員から発せられるマスコミ批判とは全く異なるトーンであると思います。そこにあるザラザラしたものは、一体何なのだろうかと考えるのです。ウェットなところがまったくないのです。小泉元首相からは、そういうザラザラしたものは感じられません。彼は、広告の力というものを信じているし、そういう意味では、アメリカ大統領選や、サッチャー政権樹立の際に広告会社が果たした役割を十分理解した上での、その延長線上にいると思います。しかし、小沢代表にはそれがまったくないのです。なんだろう、これは、と困惑ばかりが残ります。

 小沢代表が、このような行動に出た背景として語られている、安全保障の問題や、民主党の公約実現のための現実的対応、そして民主党自身の政権担当能力も問題にしても、上記のようなコミュニケーション上のデメリットが当然想定できるという前提に立てば、同じ結果を得るのであれば、当然、今回の行動はまずは避けなければならない行動であったように思えるし、そういう結果になることをある程度分かっていることは、この早い辞任の意志表明でもある程度は証明されているように思います。

 そう考えると、小沢代表がこういう行動に出たことは、別の意図があったと読むのが筋のような気がします。であるならば、それは何なのだろうか。参院選の時にも書いたけれど、小沢代表という人は、やはりマスコミュニケーションといったものをまったく信じていないのだろうなという思いだけが残ります。ネットの力も信じていないし、あるのはやはり自身の政治的信念だけのような気がします。その純粋な政治の力をかたくなに信じている。それを古風と言うには、あまりにラディカルに過ぎるような気がします。それが、なぜか今、逆説的にコミュニケーションとしてリアルに迫ってくるのです。

 私は参院選の時、「本当はね、票を動かしてるのは、マスコミュニケーションがつくる雰囲気じゃないんだよ。そんなとこに、本当のニーズもシーズもないんだよ。」と彼が言っているように思える、と書きました。それは、やはり今回も同じです。なぜこういう彼の行動にこだわるのか。それは、なんとなく、今のコミュニケーションを取り巻く環境を批判的に、かつ、リアルに見据えているからだと感じるからです。小泉フィーバーの時も、安倍元首相辞任の時も、福田新総裁誕生の時も、まあこういうことなのだろうな、と余裕を持って眺めてられたのですが、今回の小沢代表の行動はやはり不可解なのです。

 今回の行動が、いまマスコミが考える結果とは違う結果をもたらすとすれば、それはマスコミュニケーションのある部分の終焉を意味すると思うし、想像の範囲内であるとすれば、いつもの小沢代表の欠点として片づけられるのでしょう。当然、私は前者の思いが強く、だからこそある種の興味を喚起されるのだろうと思います。コミュニケーションの観点からも、今後の動向を注意深く見守りたいと思います。

追記(07.11.08)
 現時点では、小沢代表が辞意撤回。雑誌や新聞、テレビ、ブログなど、様々なところでその背景についての憶測が出ています。普通に考えれば、昔も今も政治とはそんなものという言い方も可能ですが、やはりその後のストーリーを見ると、ほとんどコミュニケーション上の計算ということは考慮されず進んでいるように感じますね。この展開を予想できた人はほとんどいなかったようだし。11月6日のasahi.comから引用します。

 これに対し小沢氏は「本当に恥をさらすようだが、みなさんの意向を受けてぜひ、もう一度がんばりたい」と応じた。鳩山氏が会談後、記者団に説明した。撤回にあたり、双方とも条件はつけず、辞職願はその場で小沢氏に返却したという。

 恥をさらすようだが、という言葉をそのまま真に受けていいのかどうか、みたいなことを感じます。どちらかと言うと、恥をさらしてでもこういう行動をすることがこれからはあり得るということを示したかったのではないか、というふうに感じます。逆説になるけれど、これがコミュニケーション戦略でとらえると、こういう突破的な行動によって、新しいパーセプションが形成されるわけで、そのことに彼は意味を見出していたのではないかというふうにも読み取れるのです。しかし、不可解です。

追記(07.11.12)

 ブログでもいろいろ解説されていたけど、どこも私にとってはいまいち納得できませんでしたが、ひとつだけ納得できる解説というか仮説。TBSラジオの「11/7(水)コラムの花道」勝谷誠彦さん。なんか、少し納得できる説明でした。勝谷さんは人物はちょっと苦手だけど、今回の件の説明ではいちばんキレイに整理されているような。うーん、なるほどねえ。

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2007年11月 3日 (土)

「場、表現、インタラクション」

 このタイトル、なんか格好いいですね。柄谷行人さんみたい。書くことは生きることだ、なんてね。まあ、そんな元現代思想キッズのミーハーな話はおいといて、本題に。

 前々回のエントリで、ウェブ広告についていろいろ思いつくことを書きました。未整理な部分も多く、なんとなく悪い意味で文学な感じのあいまいな文章になったなあと思います。それと、あのエントリはそのちょっと前に、とあるウェブサービス会社の方と話していた続きみたいなこともありました。あらためて読むと、基本は、その当事者以外には意味不明な部分もあったりして、その不明瞭な部分についてコメントというかご質問をいただきました。で、このエントリは、そのコメントのやりとりの中で考えたことをもう一度まとめなおして書いています。

 詳しくは、『「たかがブログ」と書かれたコインの裏側には、「されどブログ」という言葉が書いてありました。』というエントリをお読みくださいませ。まあ、読まなくても分かるように書こうと思っておりますが。

 まずはウェブ広告に関する話をします。私のいるマスコミ系の広告会社がウェブ広告に関わりだしたのは、ここ最近です。ちょっと前までは、ウェブ広告ははっきり言えば軽視されていたのですね。で、広告費でネットがラジオを抜いた頃から、これではいかんと各社ネットに力を入れはじめました。その時に出来た部署の名前が「インタラクティブ局」だったりするんです。これまでのテレビやラジオ、新聞、雑誌などとネットの違いは、やはり双方向性、つまりインタラクションなんですね。

 それは、簡単な違いです。テレビも新聞も、見ている人が参加できません。でも、ネットはクリックすると絵が動くとか、音が出るとか、リンク先に行けるとか、参加できるテクノロジーが内包されているんですね。なので、各社、インタラクティブな広告を競って開発していきました。カンヌ広告賞にインタラクティブ部門ができたりしましたし、話題のネット広告がたくさん出てきました。

 けれども、その多くが自社サーバに置かれたスペシャルサイトだったんですね。で、そこにアクセスをするためにテレビCMや新聞広告、ウェブのバナー広告を使っていたんですね。簡単に言えば、広告を見せるために広告をするみたいなこと。これって、広告表現としては、新しい手法を使ってはいるけれども、あのエントリの見えにくかった主題であるウェブ広告全般の本質的な話にはなりにくいのではないかな、と。

 でも、これはスペシャルサイト的な広告の否定とか、地味な広告の支持とかの話ではなくて、あくまでこれからのウェブ広告を語るというコンテクストにおける限定的な話です。もちろん、私も広告屋さんなので、スペシャルサイト的な広告は大いに可能性を感じていますし肯定的です。それと同じように、広告のために広告するっていうことじゃなく、イベントを含め、メディアを立体的に使うやり方とか、コミュニケーションを立体的に考える手法は、ホリスティック・ソリューションという名で、今、広告ではホットな手法でそれについても肯定的です。(ただ、ちょっと最近、流行りすぎて、しんどくなってきたような気がするけどね。)

 ウェブ広告の未来、つまりウェブという場所の成熟を考えるとき、じつはこのスペシャルサイト的な部分を語るのではなく、普段見ているバナー広告やテキストバナーみたいな普通のウェブ広告の成熟をきっちり語らないといけないんじゃないかな、ということなんですね。これからの社会を語るときに、まずなんでもない住宅地を語る、みたいなことです。

 私たち広告会社は、そういう普通のウェブ広告は、めんどうだし金にならないからあまり語りたがらないし、語ったとしても、プッシュ型のレスポンス広告の文脈だったりするんですよね。これだけの刺激を与えて、これだけの量を打つと、これだけのレスポンスがありますよ、みたいなね。はっきり言えば、ちょっと馬鹿にしてたところがあったと思う。ウェブ広告の人たちは、オールド陣営の広告会社に対してのそういう部分での不信感はあると思うんです。

 だから、ウェブ広告の方からは、表現は反応によって自在に変えるべきだ、とか、高名なクリエーターはうるさいから使いづらいとかいう意見も出るんです。もちろん、そういう即効性メインの広告は手法としてありなんですが、そればかりが目立つウェブの場っていうのは、どうしてもウェブの場としては、付加価値が低くなりがちなんですよね。それは、ウェブに限った話ではないんじゃないかな。

 私としては、ウェブ広告は違うから、迅速な変更に応えられるクリエーターしか使えないとか、そういう話って、過渡期的な話かな、と。こういう時代なんだし、高名なクリエーターだってその速度に耐えられないと駄目ですってば。それと同時に、ある信念を持ったメッセージは、反応がどうであろうと変えちゃ駄目ってこともありますけどね。この話は、ウェブに限らないし、今、実際にレスポンスを目的のキャンペーンを作っているけど、自分のものはそうじゃないと自負しています。実例を示せないのが、ブログの限界だなあと思うけど。

 じつは、こういう普通のウェブ広告の価値を上げていくのが、本当にウェブ広告のこれからを考えていくということではないのかな、と私は思うんですね。そのためには、まず必要なことは「場」をつくること。そして、マルクスの上部構造は下部構造が決定するという言葉にあるように、その「場」にあった質の高い広告「表現」が成立するはずだよ、と。質の高い表現は何のためにやっているかというと、それは質の高い広告効果のためですよね。だから、マスコミ広告でも表現の質を高めるんですよね。それは、きっと近い将来、リアルもバーチャルも変わらないようになりますって、というのが私の考えです。

 まあ、ここまでなら、前々回のエントリのコメント欄に書いたとおりなんですが、ここで「インタラクションっていうのはやはりあらゆるメディアにとって重要な方向性なのでしょうか。」というコメントを、hirosさんという「没入型コミュニケーション」や「Mixed Reality」といった領域を大学で研究されている学生さんからいただいたんですね。ちょっとコメント欄に書いたこととは軸が違うけど、なぜかドキッとしたんです。あっ、そうか、この微妙なズレが「インタラクション」なんだなと直感的に思ったんです。

 私は、ある時期から、これまでの広告表現のあり方は、もはや効かなくなってきたんじゃないか、ということをこのブログで言い続けてきました。その時、いつも言うキーワードは「リアル」なんですね。リアルに思えるという現象の中身は、もしかすると「インタラクション」なのではないか、と思ったんですね。

 例えば、会話という体験って、インタラクションですよね。会話の何が面白いかというと、自分が予想していない反応があったり、微妙に話がずれて、そのずれから話が広がったりすることですよね。だから、会話というのは、相当にリッチな情報体験なわけです。本来は、テキストというものも、読むという体験が持つ、どうしようもないずれによって、その人固有の体験になるという意味において、インタラクションを内包しています。双方向的というのは、常に、双方が相似ではないという前提が含まれているはずです。主体と客体の非対称性が前提になっているはずです。

 ここで考えられる仮説は、体験の本質はインタラクションである、ということです。

 hirosさんが研究をされている領域は、仮想空間において豊かな情報体験を成立させるための工学的及び心理学的なテクノロジーだと思うんですが、その研究において、その仮想空間における豊かな情報体験を実現させるための手法が「インタラクション」であると思うんですね。なぜ仮想空間の体験を実現のために「インタラクション」という手法を使うのかと言えば、仮説に従って言えば、体験の本質は「インタラクション」だからです。で、コメントの答えです。あらゆるメディアにとって重要な方向性、というか、本質的な要素は、きっと「インタラクション」です。

 現実の空間は、退屈なように見えて、じつは、それを解析していくと、仮想空間では作りにくい、複雑で豊潤なインタラクションに満ちています。

 その体験を、大ざっぱかもしれませんが、コミュニケーションと言い換えるとどうなるか。コミュニケーションの本質はインタラクションである、というふうになりますよね。広告を、hirosさんの領域をなぞらえて定義すれば、広告もやはり「仮想空間におけるリアルなコミュニケーションの創出」となりますよね。この場合の仮想空間は、ウェブだけじゃなく、従来からあるテレビ受像器や新聞紙も含みます。じつはね、ここで忘れがちですが、テレビだって印刷だって、本来はバーチャルなんです。であるならば、その仮想空間でのコミュニケーションを実現するために「インタラクション」という手法が必要ですよね。仮説が正しければ。

 インタラクティブメディア以外のメディアにおいてそれを担うのは、映像であり、画像であり、言葉です。例えば、リアルな言葉。それはきっと言葉そのものに「インタラクション」性がある言葉なのでしょう。私は、よく「すきま」とか「ゆるさ」といったキーワードでリアルな言葉の成立要件を表現するのですが、「インタラクション」という軸を真ん中に置くと、発信側のメッセージに、受信側が入っていける余裕、つまり、インタラクティブな=双方向的な関係を成立させるための必須要件としての「ゆるさ」や「すきま」だったのではないかとあらためて気づいたんですね。これは、私にとって発見でした。

 きっと、「インタラクション」なしでは、コミュニケーションなんて無理なんでしょうね。で、今の時代、今までの「広告の言葉」がもはや「インタラクション」を持てなくなったということなんでしょうね。

 で、話をググッと元に戻すと、どこにでもある普通のウェブ広告であるテキストバナーは、テキストだけで構成された広告の最小形態です。私は、そこでこそ、「言葉」が持つ「インタラクション」が試される場なのではないかな、と思うんですね。で、テクノロジーに頼れないその場こそ、ウェブ広告の主戦場で、これから、これらがある普通のウェブの場が、高い価値を持った場にならなければ、ウェブ広告ってのは変わらないだろうな、と思ったりするのです。でも、これは、もうひとつの要素として、ウェブサービスを支える基盤は広告収入であるということと、私が、言葉の力を信じる言葉の職人さんだから思うことかもしれません。なので、一般論にはなりにくい限定的な話かもしれません。

 それとね、余談ですけど、クロスメディアソリューションというのが飽きられれきてるかな、という印象を持っているんですね。なんかね、広告ごときが、次から次へと、各媒体をまたがってコミュニケーションを強いるって、ちょっとしんどいなあという気もするんですよね。続きはウェブで、っていうCMを見ると、なんでテレビCMで面白く完結しないの、って思うんですよね。

 ネットワークでつながれた無限の空間であるウェブを泳ぐことの反動で、「半径1クリック」という言葉が出てきましたし。hirosさんがコメントで書かれていたmixiの成功は、いまで見えなかったコミュニティの可視化という部分と、もうひとつ、あえて世界を閉じてみようというところにもあるような気もするんですよね。生活者って、じつはそんなに暇じゃないし。だから、私は、広告屋の本能として、最小単位の最小工程の、言葉が持つ「インタラクション」にこだわるんですね。そのシンプルなひとつの広告だけで結果を出せたら、それがいちばん費用が安くて強くて効果的だものね。

 いやあ、久々に考えたなあ。またまたちょっとまとまりにかけるし、ちょっと疲れたけど、なんか楽しかったです。まあ、たまにはこういうエントリもいいかな。hirosさん、コメントをどうもありがとう。ちょっとエントリを書くのが遅くなって、入れ違いになっちゃったけど、まあ、これもインタラクションの醍醐味ってことで。きっと、違う領域という非対称性があるから、楽しいんだろうね。お互いの領域を広げていけたらいいですね。これからもよろしくです。

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2007年11月 2日 (金)

「ギター塗り絵」は売れるだろうか。

 SPA!を読んでいたら、気になる広告が。キャッチコピーは「憧れのギターが塗り絵に!自分だけの1本を描き上げよう。」と明朝体で。リットーミュージックの書籍『ギター塗り絵 ロックの時代を彩った名器8本を塗る』とあります。定価は998円。広告ビジュアルは、金色の額に縁取られた、ストラトキャスターの「塗り絵」の完成図。色鉛筆か水彩絵具で彩色されています。
 この本を買う人を考えてみました。ギター好きでロック好き。そして、塗り絵好き。うーん、塗り絵好き。マンションの一室で、クラプトンを聴きながら、バーボンをかたむけ、じっくり色を重ねていく。そんな感じでしょうか。というか、そんな感じ、あるのだろうか。ちなみに、この本には色鉛筆や水彩絵具は付属してないらしい。色鉛筆か水彩絵具の所有が購入の前提。
 通常、このようなニッチ商品がSPA!のようなメジャー誌に掲載されるのは、水面下でブームになっている時です。メジャーに打って出ようという時です。ということは、知らないのは私だけか。なんだ、今頃こんなエントリを書いて、遅れてるー、と私は女子高に馬鹿にされてしまうのだろうか。そもそも、このブログは女子高生に読まれているのだろうか。うーん、どういうことなんだろう。

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