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2007年11月 3日 (土)

「場、表現、インタラクション」

 このタイトル、なんか格好いいですね。柄谷行人さんみたい。書くことは生きることだ、なんてね。まあ、そんな元現代思想キッズのミーハーな話はおいといて、本題に。

 前々回のエントリで、ウェブ広告についていろいろ思いつくことを書きました。未整理な部分も多く、なんとなく悪い意味で文学な感じのあいまいな文章になったなあと思います。それと、あのエントリはそのちょっと前に、とあるウェブサービス会社の方と話していた続きみたいなこともありました。あらためて読むと、基本は、その当事者以外には意味不明な部分もあったりして、その不明瞭な部分についてコメントというかご質問をいただきました。で、このエントリは、そのコメントのやりとりの中で考えたことをもう一度まとめなおして書いています。

 詳しくは、『「たかがブログ」と書かれたコインの裏側には、「されどブログ」という言葉が書いてありました。』というエントリをお読みくださいませ。まあ、読まなくても分かるように書こうと思っておりますが。

 まずはウェブ広告に関する話をします。私のいるマスコミ系の広告会社がウェブ広告に関わりだしたのは、ここ最近です。ちょっと前までは、ウェブ広告ははっきり言えば軽視されていたのですね。で、広告費でネットがラジオを抜いた頃から、これではいかんと各社ネットに力を入れはじめました。その時に出来た部署の名前が「インタラクティブ局」だったりするんです。これまでのテレビやラジオ、新聞、雑誌などとネットの違いは、やはり双方向性、つまりインタラクションなんですね。

 それは、簡単な違いです。テレビも新聞も、見ている人が参加できません。でも、ネットはクリックすると絵が動くとか、音が出るとか、リンク先に行けるとか、参加できるテクノロジーが内包されているんですね。なので、各社、インタラクティブな広告を競って開発していきました。カンヌ広告賞にインタラクティブ部門ができたりしましたし、話題のネット広告がたくさん出てきました。

 けれども、その多くが自社サーバに置かれたスペシャルサイトだったんですね。で、そこにアクセスをするためにテレビCMや新聞広告、ウェブのバナー広告を使っていたんですね。簡単に言えば、広告を見せるために広告をするみたいなこと。これって、広告表現としては、新しい手法を使ってはいるけれども、あのエントリの見えにくかった主題であるウェブ広告全般の本質的な話にはなりにくいのではないかな、と。

 でも、これはスペシャルサイト的な広告の否定とか、地味な広告の支持とかの話ではなくて、あくまでこれからのウェブ広告を語るというコンテクストにおける限定的な話です。もちろん、私も広告屋さんなので、スペシャルサイト的な広告は大いに可能性を感じていますし肯定的です。それと同じように、広告のために広告するっていうことじゃなく、イベントを含め、メディアを立体的に使うやり方とか、コミュニケーションを立体的に考える手法は、ホリスティック・ソリューションという名で、今、広告ではホットな手法でそれについても肯定的です。(ただ、ちょっと最近、流行りすぎて、しんどくなってきたような気がするけどね。)

 ウェブ広告の未来、つまりウェブという場所の成熟を考えるとき、じつはこのスペシャルサイト的な部分を語るのではなく、普段見ているバナー広告やテキストバナーみたいな普通のウェブ広告の成熟をきっちり語らないといけないんじゃないかな、ということなんですね。これからの社会を語るときに、まずなんでもない住宅地を語る、みたいなことです。

 私たち広告会社は、そういう普通のウェブ広告は、めんどうだし金にならないからあまり語りたがらないし、語ったとしても、プッシュ型のレスポンス広告の文脈だったりするんですよね。これだけの刺激を与えて、これだけの量を打つと、これだけのレスポンスがありますよ、みたいなね。はっきり言えば、ちょっと馬鹿にしてたところがあったと思う。ウェブ広告の人たちは、オールド陣営の広告会社に対してのそういう部分での不信感はあると思うんです。

 だから、ウェブ広告の方からは、表現は反応によって自在に変えるべきだ、とか、高名なクリエーターはうるさいから使いづらいとかいう意見も出るんです。もちろん、そういう即効性メインの広告は手法としてありなんですが、そればかりが目立つウェブの場っていうのは、どうしてもウェブの場としては、付加価値が低くなりがちなんですよね。それは、ウェブに限った話ではないんじゃないかな。

 私としては、ウェブ広告は違うから、迅速な変更に応えられるクリエーターしか使えないとか、そういう話って、過渡期的な話かな、と。こういう時代なんだし、高名なクリエーターだってその速度に耐えられないと駄目ですってば。それと同時に、ある信念を持ったメッセージは、反応がどうであろうと変えちゃ駄目ってこともありますけどね。この話は、ウェブに限らないし、今、実際にレスポンスを目的のキャンペーンを作っているけど、自分のものはそうじゃないと自負しています。実例を示せないのが、ブログの限界だなあと思うけど。

 じつは、こういう普通のウェブ広告の価値を上げていくのが、本当にウェブ広告のこれからを考えていくということではないのかな、と私は思うんですね。そのためには、まず必要なことは「場」をつくること。そして、マルクスの上部構造は下部構造が決定するという言葉にあるように、その「場」にあった質の高い広告「表現」が成立するはずだよ、と。質の高い表現は何のためにやっているかというと、それは質の高い広告効果のためですよね。だから、マスコミ広告でも表現の質を高めるんですよね。それは、きっと近い将来、リアルもバーチャルも変わらないようになりますって、というのが私の考えです。

 まあ、ここまでなら、前々回のエントリのコメント欄に書いたとおりなんですが、ここで「インタラクションっていうのはやはりあらゆるメディアにとって重要な方向性なのでしょうか。」というコメントを、hirosさんという「没入型コミュニケーション」や「Mixed Reality」といった領域を大学で研究されている学生さんからいただいたんですね。ちょっとコメント欄に書いたこととは軸が違うけど、なぜかドキッとしたんです。あっ、そうか、この微妙なズレが「インタラクション」なんだなと直感的に思ったんです。

 私は、ある時期から、これまでの広告表現のあり方は、もはや効かなくなってきたんじゃないか、ということをこのブログで言い続けてきました。その時、いつも言うキーワードは「リアル」なんですね。リアルに思えるという現象の中身は、もしかすると「インタラクション」なのではないか、と思ったんですね。

 例えば、会話という体験って、インタラクションですよね。会話の何が面白いかというと、自分が予想していない反応があったり、微妙に話がずれて、そのずれから話が広がったりすることですよね。だから、会話というのは、相当にリッチな情報体験なわけです。本来は、テキストというものも、読むという体験が持つ、どうしようもないずれによって、その人固有の体験になるという意味において、インタラクションを内包しています。双方向的というのは、常に、双方が相似ではないという前提が含まれているはずです。主体と客体の非対称性が前提になっているはずです。

 ここで考えられる仮説は、体験の本質はインタラクションである、ということです。

 hirosさんが研究をされている領域は、仮想空間において豊かな情報体験を成立させるための工学的及び心理学的なテクノロジーだと思うんですが、その研究において、その仮想空間における豊かな情報体験を実現させるための手法が「インタラクション」であると思うんですね。なぜ仮想空間の体験を実現のために「インタラクション」という手法を使うのかと言えば、仮説に従って言えば、体験の本質は「インタラクション」だからです。で、コメントの答えです。あらゆるメディアにとって重要な方向性、というか、本質的な要素は、きっと「インタラクション」です。

 現実の空間は、退屈なように見えて、じつは、それを解析していくと、仮想空間では作りにくい、複雑で豊潤なインタラクションに満ちています。

 その体験を、大ざっぱかもしれませんが、コミュニケーションと言い換えるとどうなるか。コミュニケーションの本質はインタラクションである、というふうになりますよね。広告を、hirosさんの領域をなぞらえて定義すれば、広告もやはり「仮想空間におけるリアルなコミュニケーションの創出」となりますよね。この場合の仮想空間は、ウェブだけじゃなく、従来からあるテレビ受像器や新聞紙も含みます。じつはね、ここで忘れがちですが、テレビだって印刷だって、本来はバーチャルなんです。であるならば、その仮想空間でのコミュニケーションを実現するために「インタラクション」という手法が必要ですよね。仮説が正しければ。

 インタラクティブメディア以外のメディアにおいてそれを担うのは、映像であり、画像であり、言葉です。例えば、リアルな言葉。それはきっと言葉そのものに「インタラクション」性がある言葉なのでしょう。私は、よく「すきま」とか「ゆるさ」といったキーワードでリアルな言葉の成立要件を表現するのですが、「インタラクション」という軸を真ん中に置くと、発信側のメッセージに、受信側が入っていける余裕、つまり、インタラクティブな=双方向的な関係を成立させるための必須要件としての「ゆるさ」や「すきま」だったのではないかとあらためて気づいたんですね。これは、私にとって発見でした。

 きっと、「インタラクション」なしでは、コミュニケーションなんて無理なんでしょうね。で、今の時代、今までの「広告の言葉」がもはや「インタラクション」を持てなくなったということなんでしょうね。

 で、話をググッと元に戻すと、どこにでもある普通のウェブ広告であるテキストバナーは、テキストだけで構成された広告の最小形態です。私は、そこでこそ、「言葉」が持つ「インタラクション」が試される場なのではないかな、と思うんですね。で、テクノロジーに頼れないその場こそ、ウェブ広告の主戦場で、これから、これらがある普通のウェブの場が、高い価値を持った場にならなければ、ウェブ広告ってのは変わらないだろうな、と思ったりするのです。でも、これは、もうひとつの要素として、ウェブサービスを支える基盤は広告収入であるということと、私が、言葉の力を信じる言葉の職人さんだから思うことかもしれません。なので、一般論にはなりにくい限定的な話かもしれません。

 それとね、余談ですけど、クロスメディアソリューションというのが飽きられれきてるかな、という印象を持っているんですね。なんかね、広告ごときが、次から次へと、各媒体をまたがってコミュニケーションを強いるって、ちょっとしんどいなあという気もするんですよね。続きはウェブで、っていうCMを見ると、なんでテレビCMで面白く完結しないの、って思うんですよね。

 ネットワークでつながれた無限の空間であるウェブを泳ぐことの反動で、「半径1クリック」という言葉が出てきましたし。hirosさんがコメントで書かれていたmixiの成功は、いまで見えなかったコミュニティの可視化という部分と、もうひとつ、あえて世界を閉じてみようというところにもあるような気もするんですよね。生活者って、じつはそんなに暇じゃないし。だから、私は、広告屋の本能として、最小単位の最小工程の、言葉が持つ「インタラクション」にこだわるんですね。そのシンプルなひとつの広告だけで結果を出せたら、それがいちばん費用が安くて強くて効果的だものね。

 いやあ、久々に考えたなあ。またまたちょっとまとまりにかけるし、ちょっと疲れたけど、なんか楽しかったです。まあ、たまにはこういうエントリもいいかな。hirosさん、コメントをどうもありがとう。ちょっとエントリを書くのが遅くなって、入れ違いになっちゃったけど、まあ、これもインタラクションの醍醐味ってことで。きっと、違う領域という非対称性があるから、楽しいんだろうね。お互いの領域を広げていけたらいいですね。これからもよろしくです。

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コメント

人の文章を読んでいると、文の書き方まで真似してしまいます。すいません。

再びほんの少しだけコメントさせていただきます。

>インタラクティブメディア以外のメディアにおいてそれを担うのは、映像であり、画像であり、言葉です。例えば、リアルな言葉。それはきっと言葉そのものに「インタラクション」性がある言葉なのでしょう。

このくだり、なんだかすごく面白い、核心がそこにあるような、そんな文章に感じました。インタラクション性がある、それはすなわち「共感」なのではないでしょうか。

そして、>必須要件としての「ゆるさ」や「すきま」
そう考えると、「共感」って結構人によって違いますよね。会話していて、ちょっと違う話なのに「あるある!」みたいな。でも、コミュニケーションを創造するにあたって、それが一番大事なんでしょうね。なんだか言語化しただけなのに、問題が解けたような気分です。

こちらこそ、ちょっとずれながらも、インタラクションを通して新しい価値を創造できたら幸いです。丁寧な文章、ありがとうございました。

投稿: hiros | 2007年11月 4日 (日) 00:56

そうですね。「共感」もずれがあるから新しい価値を生み出すのでしょうね。今後ともよろしくです。

投稿: mb101bold | 2007年11月 5日 (月) 00:54

このエントリと、コメント欄を読んでいて、なぜかノーベル賞受賞の素粒子理論を思い出しました。物質の最小単位である素粒子と、反素粒子と言う物質が理論上あるはずで、でも、その二つは衝突すると消えて無になってしまうはずで、でも宇宙に素粒子は存在しているから、どこかに「ずれ」があるはずだという理論です。「共感」ってすごいことだと思うけど、考える前に共感によって完全にわかってしまったらそれはみんな同じように感じると言うことで、多様性を許さない正義のようなもので、単なるファッショじゃないかと言う気がするし、「ずれ」があるということはじつは大変に重要な本質なのではないかなと、そう思うのですよね。

投稿: ggg123 | 2008年10月10日 (金) 22:34

きっと「共感」というのは、孤独がベースになっていると思うんですよね。だから、きっと完全なる「共感」というのはないんだと思います。また、共感を求める孤独というのは、非対称たる孤独への想像力が前提になっている気がするんですよね。自分の鏡としての他者ではなく、非対称としての他者を認識するというか。その非対称のきしみみたいなものが、コミュニケーションだったり、インタラクションだったり、そんな感じでしょうか。理想的にはね。でも、それは、私にもなかなかできていないことだけど。

投稿: mb101bold | 2008年10月11日 (土) 00:46

こんにちは。
ちょっとズレているかもしれませんが、沖縄の離島でお祭りを観たことがあります。
一見、本土の盆踊りとさほど変わらないのですが、踊りながら歌いながら、どうやら即興でやり取りして笑っているらしい、と気付いたとき、すごい「ライブ感」を感じたのを覚えています。
高度な情報を交換しているわけではないのですが、居合わせた僕も「共感」をおすそ分けしていただいた気がして、高潮しました。

それとは逆なんですが、大学生の頃、文献講読の授業を(間違って)履修し、平安時代だかの行政の通達文をひたすら読解する、というものでした。
内容は当時の情報伝達方法としては最高レベルのものですが、一方的通達ですので、読み解いていて「なんだかヤな感じ」がつきまといました。幸い講師が巧みだったのか、読み解いてくれまして、その瞬間の快感、鮮明に記憶しています。ようやく「インタラクティブ」にシフトしたというか。自分が入り込むスキマができたというか。

人間、どっちかというと、まだスキマがあって、どうでもいいことを共感している状態の方がシアワセに感じるのではないでしょうか。
アフリカの無文字社会のコミュニケーションの豊かさなんかを思うと、そんな気がします。

投稿: mistral | 2009年11月10日 (火) 12:00

自分が入り込むスキマというのが、インタラクションの必要絶対条件のように思います。それを私は「ゆるさ」という言葉を使っていますが、そんな「ゆるさ」を設計段階で折り込んでいくことが大切なんじゃないかなと。
それは言ってみれば、mistralさんのおっしゃる沖縄のお祭りのようなことなんでしょうね。そこに人がいると感じられること、つまり、人である限り、揺れ動く感情があるということで、それは揺れがあるからスキマが生まれますよね。だから入り込めるんですよね。

投稿: mb101bold | 2009年11月10日 (火) 22:39

たびたび失礼します。
先週の金曜日、このブログの影響を受けてか、珍しくジャズ・バーへ友達と行きました。
日頃はジャズはほとんど聴かないのですが、ジャズのいいところは、音を辿るプロセスのすきまが、僕ら聴き手を巻き込んでいくところかな、と思いました。
一緒にランダムウォークを楽しんでいるような気持ちになったり、すきまに内省してみたり。
僕はとにかくロック、ポップがいい歳して好きでなのですが、非常にインタラクションを意識させる音楽だなあと感じました。
若くない男ふたりがぼんやりうっとりしてジャズに聴きほれているのは、あまり絵になりませんが、久しぶりの再会でもあり、いい時間を過ごせました。
このブログのインタラクションかもしれないです。感謝しています。

おそらく、職場のお近くだと思います。
焼き鳥屋さんの隣のバーでした。

最近、絵を観にいったりすることもあるのですが、インタラクションを意識してみます。

投稿: mistral | 2009年11月16日 (月) 12:20

>音を辿るプロセスのすきまが、僕ら聴き手を巻き込んでいくところかな

ほんと、それがジャズの良さですよね。それと、ジャズは聴く人を含めて、すべてのパートに緊張感のあるすきまがあって、それぞれがインタラクションの空気の中で息をしている感じして、その部分がなんとも私は好きなんですよね。

こちらこそ、素敵なコメントをありがとうございました。

投稿: mb101bold | 2009年11月16日 (月) 23:05

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