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2007年11月17日 (土)

広告を芸術に利用するんやない。芸術を広告に利用するんや。

 これは、元電通関西の堀井博次さんの言葉です。大阪の面白CMムーブメントの中心人物で、彼の制作チームは堀井チームと呼ばれ、金鳥や関西電気保安協会など、数々のヒットを飛ばしました。確か電通を定年退職されてから、電通テックの非常勤をされていたと思うのですが、今はどうされているのでしょうか。

 私は堀井さんと面識がありません。でも、一度だけお見受けしたことはあります。私がまだCIプランナーをしていた頃、電通関西CRのミーティングルームで某タイヤメーカーのポスターの打ち合わせで、電通関西の制作チームと揉めて、場がどんよりしていた時に、通りかかって、ポスターをのぞき込みながら「NAGIは難儀やなあ」と一言つぶやいて去っていかれました。もう17年前になるんですね。

 「広告を芸術に利用するんやない。芸術を広告に利用するんや。」

 この言葉、至言だと思います。上手いこと言うなあと思います。広告は芸術ではない、というのはよく言われることですよね。でも、この言葉、なんとなく嫌な感じがするんですよね。理屈だけでできたつまらない広告を肯定するみたいな感じがします。「俺たちは真面目に広告を作っているのに、まわりの広告制作者は自由にいいかげんに作りやがって。たとえそんな広告が物を売っているとしても、それは広告の本質から言えば邪道だよ。広告とは製品のベネフィットを伝えるものであって、エンターテイメントじゃないんだ」みたいなね。つまらない考え方ですよね。そんなの肯定できないです。つまらない広告は、やっぱりつまらない。それ以上でも以下でもないんです。

 広告は芸術じゃない、という言葉にはそういう弱点があるんですね。一見正しそうに見えても、広告は真面目でなくてはならない、という間違った認識に人を導いていくような、つまらない言い方ですよね。同じように、広告は芸術である、という言葉も駄目です。芸術ではない広告をまったく定義できないし、そもそも広告は芸術であると思いたいという個人の表明でしかありません。個人で思う分には異論はありませんが、まあ、勝手に言ってくれ、という感じです。でも、広告は芸術じゃないことは、当人がいくら力んだところで、現実がそれを証明してくれます。これは、広告関係以外の人だと、広告という言葉を、漫画とかアニメに置き換えるとわかりやすいかもしれません。あるいは、ブログは知の生成ツールである、とかね。異論がある人もいるでしょ。こういう言い方は、それ以外の定義を持っている人を排除していく機能を持っているので、それが公共に向かって強制力を意図し始めると、不毛な対立を生み出したり、困ったことになってしまうんですね。いわゆる、独我論ですね。

 私は広告制作者です。で、広告制作者の多くは、もともとは作家になりたかった人や画家になりたかった人です。作家崩れという言い方がありますよね。その言葉、私は認めてしまいます。というか、若いときにそんなことを一回も思ったことがない制作者はあまり信用できないなと思います。たまたま映像関係のエンジニアから広告制作者になって、そこで才能を発揮する堀井さんのような幸福な人もいらっしゃるでしょうけど、まあ、確率論的に言えば、たいがいは何かの崩れであるでしょう。ね、あなたもそうでしょ。

 広告が芸術じゃないとすると、かつて何かになりたかった自分がやっている表現って一体何と思ってしまうんですよね。で、改心してビジネスとして真面目にやる人もいるでしょうけど、なんかつまらないと思いませんか。そういう人は、現実においては、残酷な言い方ですが、営業や得意先から駄目CRの烙印を押されがちです。逆に、広告は芸術であるとなると、自分がやっている表現に自負心は生まれますが、今度は現実とのギャップが自分の無意識を傷つけていきます。それより何より、そういう制作者は現実においては困ったちゃんになってしまいます。

 このブログで、私は、効かなくなった広告が再び力を取り戻すために、広告という行為そのものが面白くならなければ、と言い続けてきました。かつて広告は、エンターテイメントとしての文化の中心のひとつでありました。広告はエンターテイメントの手法を積極的に取り入れて面白くなってきました。そして、いつのまにか、広告はエンターテイメントであると自ら名乗るようになってしまったのですね。そうなると、どうなるか。「楽しいCMをありがとう。でも、商品は買わないよ。」となるんですよね。それよりも何よりも、これだけエンターテイメントが多様化している今、広告ごとき、つまり、結局は商品購買という欲望を刺激する目的でつくられた、偽エンターテイメントであるところの広告ごときが純エンターテイメントとして突き抜けられるわけがないのです。

 で、ここからが本題です。じゃあ、これからは広告にはエンターテイメントなんかいらないのか。そんなわけないんです。広告はこれからもエンターテイメント的であり、芸術的であり、文学的であり、詩的であり続けるでしょう。でも、間違えちゃいけないのが、芸術でなく、芸術的であることなんですね。芸術を広告に利用するんです。それは、あくまで力強い広告であるためにであって、力強い芸術であるためではありません。そして、同様に、力強い広告であるために、エンターテイメント的であることや芸術的であることや文学的であることが必要ないのなら、容赦なく切り捨てる必要があるのですね。実際は、自意識が邪魔してなかなか、既存の「的」を排除した新しい広告表現はつくれないのだけれど。

 堀井さんのつくったCMで私がいちばん好きなのは、ベートーベンの第九のメロディを使って「♪たったの3分親子丼!ごはんにかけて親子丼!」とバッハに扮した笑福亭仁鶴さんが歌うCMです。「仁鶴ちゃん、チャイコフ好き〜」と言うんですよね。子供の頃に見たCMなのに、いまだに歌える私がいます。こんなくだらない世界、広告でしか成立しないですよね。その広告でしか成立しない表現こそ、私は、広告のパワーの源泉だと思うのです。そして、私は、広告が効かなくなったという時代に、それでも広告の力を信じて、今日も明日も、与えられた広告目的を達成するために、私が持っているすべての力を総動員して広告を作り続けていきたいと思っています。

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