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2007年11月12日 (月)

フラット化する時代において、プロフェッショナルであることの意味って何だろう。

 Web2.0まわりで言われているフラット化、CGM、ロングテールみたいなこと、ブログをやるまでははっきり言えば、あまり肌で感じていなかったように思います。それなりにその手の本は読んでいたし、概念ではわかっていたけれど、まあいつもの流行思想だろうな、という感じでした。そんな絵空事よりも、現実に生きている世界で私が身を置いている広告業界の構造変化と、その中での身のこなし方のほうがが差し当たっては重要で、明日のプレゼンの方が大切っていうのは、ブログを始めた今も変わらないけど、少なくとも絵空事ではないな、と思っている自分は確実にいます。

 少なくとも私は、業界批判みたいな感じでこのブログを書き始めたわけでもないし、リアルの自分とまったくかけ離れた匿名としてブログを書き始めたわけでもありません。どちらかと言えば、明日のプレゼンどうしよう、みたいな悩める業界人のへたれな日常と思考をつらつら書くタイプのブログなんでしょうね。告白とか愚痴みたいな。

 業界の構造みたいなものを批判するブログのエントリをよく見かけますが、そのブログのエントリの論理には共通するものがあるみたいで、本当は有能だけど、構造の中で割を食っている真実を体現する私、その私が構造批判、構造解消で私に脚光が当たるはず、というもので、それには正直言ってあまり納得がいかないんですね。酒の席のうだ話だよなあと思うんですね。自分をなぜ大きく考えられるのかな、こういうことはあらゆるケースとその影響と結果を考えながら、事実をベースにして、個別に精密にやらないと意味ないんじゃないかという感じがするんですよね。(こういう書き方をすると誤解されるかもしれませんが、私は今の業界の構造を肯定しているわけではないですよ。)

 で、そういう人は、必ずWeb2.0やフラット化、CGMをその反対概念として評価していますよね。もちろん告発は大事だとは思し、ルサンチマンの解消としての表現という意味ではその気持ちはわからないでもないし、それを表現できるのもブログの魅力のひとつでしょうし、ずばっと切るみたな気持ちよさもあるのですが、その論理構成はものすごく甘いような気がするのです。見たくない私をめぐる現実を、やっぱり見てない、みたいな感じがするんですね。それは、もしかすると構造のせいじゃないんじゃないかというような。それに、新しい価値観は、その旧来の構造の立つ基盤を脆弱にしているし、構造すべてがクラッシュする可能性があるんですよね。そうなると、構造変化どころかゼロになるんだし。やるなら、もっと厳密に精密にやってよという感じです。業界のプロが書くんだらさ。それは、業界人として書くときの責任だと思うんですよね。

 いま、よくブログの終わりと言われているようですが、それは、流行思想としてのフラット化の終わりでもあり、これからは流行思想ではないフラット化が始まるのであれば、そんなものはあなたや私を救ってくれるようなものではないと思うのです。もっともっと、ざらざらした世界でもあるような気がするんですね。余談ですが、私にとっては、ブログが流行ろうが終わろうが、ブログサービスさえ維持されれば関係ないし、興味もないんですけどね。こういうことを書ける場所があって、こういうことを書いている他の人のブログが読めれば、別にどうでもいいという感じです。

 フラット化というものについて、私はこれからの時代の価値観として肯定したいと思っています。私は、これからも思考にブレーキをかけないで書き続けていきたいと思いますが、それはフラット化したウェブの世界を前提にしています。正確に言えば、ウェブの世界から発信されたフラット化という価値観を共有するリアルの世界も含む、ですが。でも、このいまの価値観の反対概念としてのフラット化は、本当に構造で割を食っているプロフェッショナルたち(それは、ある部分では、中堅広告代理店の存在意義って、今どきあるのと悩む私の現実と重なるんですが)を救ってくれるものなのか。私はNOだと思います。

 フラット化とはどういうことなのか。それは、プロフェッショナルではない有能な人と、プロフェッショナルを名乗る有能な人が、等価で結ばれる世界です。それが進行するとどうなるのか。それは、普通のプロフェッショナルが、能力においてプロフェッショナルを名乗れなくなる世界だと思うのです。となるとどうなるか。もしかすると私などは、うかうかしてると、少なくともウェブの世界ではプロフェッショナルなんて恥ずかしくて名乗れない世界だったりするんですね。少なくともネットであふれる思考程度ではお金がもらえない世界でもあるんです。ネットで手に入れればいいのですから。(まあ、この話は飛躍があって、私たちは個別課題に向かって思考して形にしてお金を稼いでいるから、それはネットでは手に入らないんですけどね。)

 私が考えるこのフラット化された世界の想定は、例えば、アマチュアが広告を制作してしまうような世界ではありませんし、実際、あるブランドはCMをアマチュアにつくらせてしまうキャンペーンをやっているようですが(私は広告ってそんなもんじゃねえぜ派)、そんな流行っぽい想定ではなくて、アマチュアの高度な思考の前で、プロフェッショナルとしての自分の社会的存在がなくなってしまうような、そんな実存的な世界です。

 そして、社会に対して、思考の部分できちんとプロフェッショナルを示せなければ、お金を稼ぐ実業としての広告業界はゆっくりゆっくり終焉していきます。けれども、私は、このフラット化された世界を肯定したいし、そこで、私は少なくとも、このフラット化された世界の中で、広告関連の思考を公開する時においては、思考の質において、広告のプロフェッショナルの端くれとして存在したいと思っています。

 流行思想としてのフラット化は、あらゆる肩書きを取り去って、エントリというか、生のテキストで評価をする世界を出現させました。この世界を、私は、80年代現代思想でテキスト、テキストと叫んでいた思想家たちに見せてあげたいなと思うんですね。あなた方が対象とする高度なテキストではないけれど、いまこうして、あなたがたが叫んでいたテキストで構成される世界は、ウェブを通して、大衆が実現していますよってね。

 フラット化という世界は、すごく刺激的で、例えば、まったく違う専門分野の人たちと思考でつながることができる、いままで考えられなかったような世界でもありますし、まだ始めて間がないブログでさえそんな体験を何度もしました。そういう素晴らしい思考を栄養にして私も日常を生きていたりします。けれど、いままでのように業界にいてるからプロだなんて恥ずかしくて名乗れないざらざらした世界でもあるのですよね。それを梅田望夫さんは「けものみち」と呼んでいますが(厳密には、大企業から離れて職業人として生きろということですが、私は大企業じゃないけど、その部分は余計なお世話だと思います。こういう新しい価値観は、生活との両立において、組織人に浸透して本物だと思いますから。)なるほど上手く言ったもんだな、なんて思うんですよね。

 こんなことをうだうだ書いてしまった私ですが、「あんた、ほんとにやってけるんかいな」という弱気な自分と向き合いながら、明日もクリエイティブディレクターと書かれた名刺を、平気な顔してお得意に差し出すんですよね。なんか今日のエントリは、未消化だったなあ、何言っているかわからないなあと思いますが、未消化なまま投げ出したいと思います。ブログだしね。

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コメント

しばらくぶりです。またコメントしちゃいます。

「チャーチルの握った寿司を食べたいと思いますか」というセリフが、私の好きな芝居に出てきます。いまや、海外で外国人が寿司を握る時代ですが、板場に立って握れば寿司職人になれてしまいます。それでも私なんかは、外国人寿司職人が握った寿司は、食べたくないなあ、なんて思っちゃいます(外国人だから腕が無いという意味ではありません)。実は外国人寿司職人の握った寿司のほうが旨いこともありえるのに。これって寿司職人のフラット化、なんて考えてもいいものなんでしょうか(笑)
寿司職人というプロフェッショナルは、寿司を握るという行為が上達すればそれでいいの?と考えると、今の自分の仕事もうまくこなせればそれでいいわけじゃないな、とか思います。でも、アルバイトさんたちで現場が成り立っているときもあるわけで。
いろいろ考えていくと、自分がお客さんに認めてもらっているかという視点に、私はいきつきました。必要とされつづけられるのがプロフェッショナルだとすれば、プロフェッショナルではない有能な人と、プロフェッショナルを名乗る有能な人が、等価で結ばれないのだと思います。どんなに優秀な学者や評論家が能力を持っていても、裏で誰が暗躍しようと、国会議員は無くならないし、選挙民に選ばれたという根本的な違いがあって、等価では結ばれないと思うんです。
そう思って、能力というより、会社にいることでなんとか仕事をもらっている私は、モチベーションを保っています。

投稿: そうちゃん | 2007年11月18日 (日) 07:49

そうちゃんさん、おひさです。

そうですねえ。現実のフラット化というのはそんな感じかもですね。私の業界なんかでも、みんな平等だよね、思ったことを口に出すのはいいことだよね、といった感じで、浅い浅い会議になってぐちゃぐちゃになることがよくありますよ。

それと逆に寿司の心がわかった外国人職人さんなら、中途半端な日本人職人さんより美味しかったりもするんでしょうね。「美味しんぼ」に出てくる鯛ふじのジェフみたいに。

他分野のプロフェッショナルがフラットにつながるためには、互いの専門領域に対する敬意みたいなものが必要なんでしょうね。だから、国会議員は日々の政治活動におけるプロフェッショナルであって、その部分に対してはやはり敬意を持つ必要があるんでしょうね。それは、政治評論家にはない部分ですから。

お客さんに自分が認めてもらっている、という視点は、プロの要件としては重要でしょうね。これがなかなか難しいですけど、私のモチベーションもかなりの部分、お客さんです。ではでは。

投稿: mb101bold | 2007年11月19日 (月) 16:43

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