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2007年11月 5日 (月)

コミュニケーションという観点から見た、小沢民主党代表辞任表明

 先の参院選の時も小沢民主党党首の行動は、これまでのイメージ形成の方法論の定石を逸脱していたと思います。なぜ、参院選の最中にほどんどメディア露出をしなかったのか、その理由がいまいち掴みきれずにいました(参照)。結果として、民主大勝となったけれど、小泉フィーバーの時、あれだけ広告戦略、つまりイメージ戦略の勝利が語られたにもかかわらず、先の民主大勝の際は、少なくともブログシーンでは、それがほとんど語られませんでした。

 私は、政治や国際情勢については知識もあまりなく、そういう意味では、この分野についての積極的な発言や表明は私がやってもあまり意味がないような気がしています。それは、今回も変わりません。しかしながら、私が専門とするコミュニケーションの分野において、やはり、今回の一連の動きは、非常に不可解であり、これはどういうことなんだろうか、ということが頭を離れません。

 政治的な駆け引きや情勢についての分析や意見は他のブログに譲るとして、今回の小沢代表の辞任表明について、コミュニケーションという観点からの戦略を考えてみたいと思います。私は、自分の職業的興味や生活者としての実感から、この辞任表明のコミュニケーション上の影響について書かれたタイムリーなテキストを読みたいと思っています。それは、今、ウェブにはほとんどないように思います。であるならば、力不足ながら、まずは私がやる意味はあるのではないかな、と思っています。

 こういう行動に出ることで、予想される反応はどういうものであるのか。それは、まず大ざっぱに言えば、小沢代表は二大政党制を否定するのか、翼賛と一緒じゃないか、といった世論ができるでしょうし、密室政治との批判も免れないとも思います。小泉元首相が、これは郵政民営化是か非かを決める選挙であると言ったときは、コミュニケーションという観点から見れば、二元論へと還元するそのやり方に批判はあるにしても、非常に戦略的でわかりやすかったんですね。改革を止めるな、というキャッチフレーズも見事でした。けれども、前回参院選の行動も、今回の行動も、私から見て、どういう意図をもっているのか、まったくもってわからないんですね。というか、私の想像力を超えているんです。これはなんだろうという困惑だけが残るんです。政治のことは書かないでおこうと思っても、思わす書いてしまう不可解さを持っているのです。

 もしかすると小沢代表の政治的信念や経験知が、この行動の唯一の動機であるのかもしれません。であるならば、私には分析する知識も能力もありませんが、きっと、そうではないでしょう。上記の予想される反応など織り込み済みに違いありません。政治家なんですから。だとしたら、どういうことなんでしょうか。小沢党首は、以下のようなコメントを残しています。

 このようなマスメディアのあり方は明らかに報道機関の役割を逸脱しており、民主主義の危機であると思う。報道機関が政府・与党の宣伝機関と化したときの恐ろしさは、亡国の戦争へと突き進んだ昭和前半の歴史を見れば明らかだ。また自己の権力維持等のために、報道機関に対し、私や民主党に対する誹謗中傷の情報を流し続けている人たちは、良心に恥ずるべきところがないか、自分自身によくよく問うてみていただきたい。各種報道機関が1日も早く冷静で公正な報道に戻られるよう切望する。以上だ。

 これは、この報道があってからの小沢代表及び民主党に対する事実無根の中傷報道に抗議する、という文脈で語られたコメントです。このコメントから感じられるトーンは、自民党の古参議員から発せられるマスコミ批判とは全く異なるトーンであると思います。そこにあるザラザラしたものは、一体何なのだろうかと考えるのです。ウェットなところがまったくないのです。小泉元首相からは、そういうザラザラしたものは感じられません。彼は、広告の力というものを信じているし、そういう意味では、アメリカ大統領選や、サッチャー政権樹立の際に広告会社が果たした役割を十分理解した上での、その延長線上にいると思います。しかし、小沢代表にはそれがまったくないのです。なんだろう、これは、と困惑ばかりが残ります。

 小沢代表が、このような行動に出た背景として語られている、安全保障の問題や、民主党の公約実現のための現実的対応、そして民主党自身の政権担当能力も問題にしても、上記のようなコミュニケーション上のデメリットが当然想定できるという前提に立てば、同じ結果を得るのであれば、当然、今回の行動はまずは避けなければならない行動であったように思えるし、そういう結果になることをある程度分かっていることは、この早い辞任の意志表明でもある程度は証明されているように思います。

 そう考えると、小沢代表がこういう行動に出たことは、別の意図があったと読むのが筋のような気がします。であるならば、それは何なのだろうか。参院選の時にも書いたけれど、小沢代表という人は、やはりマスコミュニケーションといったものをまったく信じていないのだろうなという思いだけが残ります。ネットの力も信じていないし、あるのはやはり自身の政治的信念だけのような気がします。その純粋な政治の力をかたくなに信じている。それを古風と言うには、あまりにラディカルに過ぎるような気がします。それが、なぜか今、逆説的にコミュニケーションとしてリアルに迫ってくるのです。

 私は参院選の時、「本当はね、票を動かしてるのは、マスコミュニケーションがつくる雰囲気じゃないんだよ。そんなとこに、本当のニーズもシーズもないんだよ。」と彼が言っているように思える、と書きました。それは、やはり今回も同じです。なぜこういう彼の行動にこだわるのか。それは、なんとなく、今のコミュニケーションを取り巻く環境を批判的に、かつ、リアルに見据えているからだと感じるからです。小泉フィーバーの時も、安倍元首相辞任の時も、福田新総裁誕生の時も、まあこういうことなのだろうな、と余裕を持って眺めてられたのですが、今回の小沢代表の行動はやはり不可解なのです。

 今回の行動が、いまマスコミが考える結果とは違う結果をもたらすとすれば、それはマスコミュニケーションのある部分の終焉を意味すると思うし、想像の範囲内であるとすれば、いつもの小沢代表の欠点として片づけられるのでしょう。当然、私は前者の思いが強く、だからこそある種の興味を喚起されるのだろうと思います。コミュニケーションの観点からも、今後の動向を注意深く見守りたいと思います。

追記(07.11.08)
 現時点では、小沢代表が辞意撤回。雑誌や新聞、テレビ、ブログなど、様々なところでその背景についての憶測が出ています。普通に考えれば、昔も今も政治とはそんなものという言い方も可能ですが、やはりその後のストーリーを見ると、ほとんどコミュニケーション上の計算ということは考慮されず進んでいるように感じますね。この展開を予想できた人はほとんどいなかったようだし。11月6日のasahi.comから引用します。

 これに対し小沢氏は「本当に恥をさらすようだが、みなさんの意向を受けてぜひ、もう一度がんばりたい」と応じた。鳩山氏が会談後、記者団に説明した。撤回にあたり、双方とも条件はつけず、辞職願はその場で小沢氏に返却したという。

 恥をさらすようだが、という言葉をそのまま真に受けていいのかどうか、みたいなことを感じます。どちらかと言うと、恥をさらしてでもこういう行動をすることがこれからはあり得るということを示したかったのではないか、というふうに感じます。逆説になるけれど、これがコミュニケーション戦略でとらえると、こういう突破的な行動によって、新しいパーセプションが形成されるわけで、そのことに彼は意味を見出していたのではないかというふうにも読み取れるのです。しかし、不可解です。

追記(07.11.12)

 ブログでもいろいろ解説されていたけど、どこも私にとってはいまいち納得できませんでしたが、ひとつだけ納得できる解説というか仮説。TBSラジオの「11/7(水)コラムの花道」勝谷誠彦さん。なんか、少し納得できる説明でした。勝谷さんは人物はちょっと苦手だけど、今回の件の説明ではいちばんキレイに整理されているような。うーん、なるほどねえ。

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