「関係の絶対性」という言葉をあらためて考えてみました。
人間は、狡猾な秩序をぬってあるきながら、革命思想を信じることもできるし、貧困と不合理な立法をまもることを強いられながら、革命思想を嫌悪することも出来る。自由な意志は選択するからだ。しかし、人間の状況を決定するのは関係の絶対性だけである。ぼくたちは、この矛盾を断ちきろうとするときだけは、じぶんの発想の底をえぐり出してみる。そのとき、ぼくたちの孤独がある。孤独が自問する。革命とは何か。もし人間における矛盾を断ち切れないならばだ。
吉本隆明『マチウ書試論』
とまあ、ちょっと頭良さ気な引用から始まった今日のエントリですが、こういうことを書きたくなる日もあるってことで、付き合ってやろうという心の広い方は、気軽にお付き合いの程を。
この『マチウ書試論』を吉本隆明さんが書いたのが1952年(昭和27年)。当時は、まだ印刷インキ会社の一技術者だったそうです。吉本隆明さんと言えば、共同幻想や対幻想などの概念が有名ですが、それと同じように有名なのが、この「関係の絶対性」です。この概念の初出となった『マチウ書試論』は、副題に「反逆の倫理」とあるように、ユダヤ教に対する、「原始キリスト教の苛烈な攻撃的パトスと、陰惨なまでの心理的憎悪感を、正当化しうる」根拠として「関係の絶対性」なのだろうという吉本さんの着想なんですね。
もしある反逆に倫理があるとすれば、それは、その反逆する主体が不可避的に置かれている「関係の絶対性」によるしかない、ということですね。じつを言えば、引用の後半2行がいまだに私はいまいちよくわかっていないのですが、なんとなくこの「関係の絶対性」という言葉だけは感覚的に分かる気がします。
吉本隆明さんのこうした言葉は感覚的に分かる、というところが魅力でもありたちが悪いところでもあって、なんとなく、理屈ではなく、詩的に感覚的に了解してしまうんですね。私もその口です。その吉本さんの詩的な感性を示す言葉は、こういう初期詩集の中にたくさんあって、例えば一節を引用してみます。
もしも おれが死んだら世界は和解してくれ
もしも おれが革命といったらみんな武器をとってくれ吉本隆明『恋唄』
ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだろうという妄想によって、ぼくは廃人であるそうだ
吉本隆明『廃人の歌』
強靱な自由意志を持つ「自意識」がそこにあるような気がします。そんな、世界の真実を冷徹に見極めようとする揺るぎない「自意識」から発せられた「関係の絶対性」であるわけですから、もうこの言葉が吉本さんから発せられた段階で、それは詩的な言語なんですね。そこに、きっと私は惹かれるのだろうと思うのです。これは、詩的で個人的な言葉であるからこそ、駄目だと言われる方もいらっしゃると思いますが。
こういう詩的な言葉は、人生の折々で様々な表情を持って迫ってきます。ある一方から見ると肯定できることであっても、もうひとつの方向から見ると肯定できないことは、よくあることだと思います。そのとき、個人はどう判断すればいいのか。それは、きっと「関係の絶対性」でしかなく、最終的な決断の一歩というのは、きっと「自由意志」なんかが介在する場所などないのだろうなと思うんですね。当然、この「関係の絶対性」に至るまでには孤独な「自由意志」の葛藤が前提ではありますが。
私の場合は、こんな時代に生きて、それなりに暢気に生きていますので、革命とか反逆とか、そういう重い課題には直面してはいないですが、些細な日常の出来事からも、私の生まれる前に、吉本青年が生み出した、この「関係の絶対性」という言葉は、いまだに重くのしかかってくるんですよね。
そして、この「関係の絶対性」という概念を基点に、「共同幻想」や「対幻想」、そして「重層的な非決定」なんかの概念に発展していきます。でも、それは理論の言葉ではなく、詩的な洞察なんだろうな、と最近思うんですね。そして、こんな商売をやっているとわかるんですが、論理の言葉は案外消費されてなくなってしまうけど、詩的な言葉はいつまでも残るんだなあ、と。なんでこんなことを書こうと思ったのかというと、まあ、日常の些細な出来事もあるし、世界情勢には疎い私ですが、今日の「ベネズエラ憲法改正案否決」のニュースなんかも関係していると思うんですが。
結論を言うと、ある広告屋が2007年12月4日の深夜に、わけのわかんないことを思った、そのどうでもいい思考の記録というか、こんな未整理な感じの言葉を書くのも、ブログというパーソナルパブリッシングツールは適してるよなあ、と思った次第であります。
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コメント
相対化の嵐が吹きすさぶ時代になって久しいですね。「どんだけぇ」も「でもそんなの関係ねぇ」も、強調とノン・コミットで、相対化を旗印にしていることに変わりはない感じです。
でも、「どんだけぇ」も「でもそんなの関係ねぇ」も、味わってみると、関係の絶対性への希求があるのかもしれませんね。
今回もとても触発されました。ありがとうございます。
投稿: 喜山 | 2007年12月 4日 (火) 08:19
おはようございます。言われてみれば確かにそうですね。あの流行語のカタルシスは、関係の絶対性からのちょっとした開放にあって、それは、関係の絶対性への希求というか意識化が言わせているのかもしれないなと思いました。こちらこそ、ありがとうございます。
投稿: mb101bold | 2007年12月 4日 (火) 10:11
mb101boldさん、こにゃにゃちわ(^^)
>>もしある反逆に倫理があるとすれば、それは、その反逆する主体が不可避的に置かれている「関係の絶対性」によるしかない、ということですね
私は、ここ読んで、「希望は、戦争。」の人たちを思い出しました。
あの人たちが(若い人なのがせつない。いや年がいった人だったらもっと問題なんだけど。)戦争と引き換えにしている希望のちっちゃさが、「関係の絶対性」なるものを暗示しているのだとすれば、日本は何かに決定的に失敗してしまったのかもしれない。
でももしかすると、そういうものが可視化されてきていることは、よいことなのか。
少なくとも、見えないよりは、対処がしやすいという意味で。
それとも、そんな風に考えること自体が、なにも「わかっていない」のか。
ちょっと考えてしまいました。(^^;
柄にもなく。
ということで、mb101boldさんには、広告でちょっとだけでも、希望を。ね?
投稿: ggg123 | 2007年12月 6日 (木) 10:55
ggg123さん、どもども(^^)
なるほど、確かに「希望は、戦争。」の人たちは、関係の絶対性から来る発言なのでしょうね。あの人たちは、自由意志ではたぶん戦争を嫌悪しているはず。
ここで吉本さんの話に戻りますが、関係の絶対性のあと、親鸞になるんですよね。悪人正機とか。親鸞は、じゃあ今、俺を殺してみろというわけですね。人間は契機がなければ自由意志で人は殺せない、と。
そういう意味でその契機はないかもなというのはあるんですが、あの話でなるほどうまく言ったなと思ったのは、丸山眞男をひっぱたきたいというほうで、丸山さんのインテリにありがちな逆ルサンチマン的な発言を使って見事に気分を語ったなあ、という部分です。そこは本当に見事です。
そして、その言葉もまた、ものすごい勢いで消費していくのが日本で、私はそこが気になります。で、リアルな戦争を肯定する契機は別だと思うのですが、そこはまだ私にはよくわかっていない部分です。そして理論的にその絶望的な行為を否定できない関係の絶対性という概念は、そこに限界がありそうな気もしないではないです。
うーん、話がわかりにくくなってしまいましたが、ひとつひとつ考えていきたいです。しかし、このまわりの話はいろいろむずかしいですねえ。
投稿: mb101bold | 2007年12月 6日 (木) 16:24
mb101boldさん、おっはー(^^)
>>このまわりの話はいろいろむずかしいですねえ。
(^^;そうですね。私なんかが考えてもろくでもない話しかでてこない悪寒。
ただ、「契機」のところはなるほどと思いました。それでいくと、戦争にむかう契機というのは、今の日本の普通の一般人にはほとんどないと言ってよいかと。
戦争というのはほとんどの人にとって、「巻き込まれる」ものだろうから。
多分あの若者たちにとっては戦争というより、「革命」がぴったりくるはずで。
そして本来的な革命のポテンシャルが彼らにあるかというと、それはないように思えます。彼らにあるのは(あったのは)「丸山真男をひっぱたきたい」というキャッチコピーのインパクトにおける、ある種の扇動のポテンシャルだけで。でも、それだけで動いてしまう層が今確実に一定数あるということだと思います。
むしろ、「関係の絶対性」から来る重い契機を経ずに、重大な決定がなされうることのほうが大問題なのかもしれないな。と思いました。
投稿: ggg123 | 2007年12月 7日 (金) 07:30
ggg123さん、ちわっ(^^)
赤木さんの本をいま読み直してます。で、ちょっと思ったのは、じゃあ、戦争になって、赤木さんは丸山真男さんをぶったたくかというと、きっとぶったたかないだろうなあ、と。それと、文系院卒の就職難とか、今の社会はもっと複雑。
あとあの本を読んで思ったのは、面白かったけど、赤木さん個人の問題で言えば、ライター稼業的な職業を指向するなら、あの貧しさはしょがないよなと思うんですね。そこでの愚痴はなしだよなあ、と。
ああいう書き方をすると、もっとルサンチマンな感じで言えば、フリーターの人たちからは、俺たちはお前のネタじゃねえ、みたいなことだし。
それと、もうひとつはルサンチマンの言葉は人を惹きつけるし、ある一定の層からは支持を受けるけど、それだけだよ、って思いたい部分はあります。それはネットも同じですが。それに反応してしまう既存左翼論壇の世間知とのずれは感じます。でも、これは丸山真男さんの兵隊さん時代のネタを持ってきた赤木さんの完全勝利ですね。
もちろん、赤木さんの提言する社会問題をないものとみなすつもりはないですけどね。
でも、これに対しては、東京に出てくるとき、けっこうお金に苦労した個人的な経験で言えば、とりあえず手元に少なくとも余裕の10万円をがむしゃらにためて、そこから始めないとネガティブスパイラルになるよということと、借金を作らないためにも、質屋はなかなか使えるということでしょうか。
毎日を、明るく、楽しく、そして現実的に対応ということでしょうか(^^)
投稿: mb101bold | 2007年12月 7日 (金) 13:16
mb101boldさん、やはやはです。(^^)
>>そこでの愚痴はなしだよなあ、と。
うん。そうですよね。何か志があって選んだ道のはずなのだし。
>>ある一定の層からは支持を受けるけど、それだけだよ、って思いたい部分はあります
そうそう。そう思いたい。
ただこの手の言説って、形を変えてこれからも出てくるだろうし、それは止められないし、止めるべきでもないような。
社会が利益を還元するしくみみたいなのが、もっと適正化されるきっかけになるかもしれないし。
お国のお金にむらがって、ある意味「楽に」食えちゃってる層が多すぎるし、そういう層が自己変革していくしかないと思うけど。
>>けっこうお金に苦労した個人的な経験で言えば
そっか。それってバブル絶頂のころですか?
苦労人なんだぁ。(^^)それも素敵っぽいですね。
>>そして現実的に対応
赤木さんの現実的対応が、たぶんあの本だった。とはちょっと穿ちすぎというか、ひどすぎるかな。でもせっかく注目されているんだし、もっと問題を掘り下げていって、現実的な対応策を社会に提示できるようにがんばって欲しいな。
投稿: ggg123 | 2007年12月 8日 (土) 08:44
ggg123さん、休日ですね(^^)
そうですねえ。利権的な部分は個別にシステムの問題として語らないといけないなあと思いますが、そのへんは私はまだまだ不勉強ですね。
あのお金の話はバブル崩壊後の話です。私、バブルは学生さんだったからバブルを知らないんですよね。
バブルの頃を知ってる広告マンとはかなり意識の差があるみたい。我々の世代は予算を節約するのが当たり前だけど、その上の世代はこの予算じゃ無理って平気でいいますね。善し悪しはあるけど。
赤木さんは、SPA!のインタビュも読んだけど、私もあの先の部分に期待したいなと思います。ライターとしてはそこが本当の勝負かなと思います。あのインパクトが消費される前に本質論と現実的な対応策を書かないといけないでしょうね。でないと童貞連のひとみたいになっちゃうかな、なんて。
吉本さんも言ってたけど、スターリン的にならずに、彼の現実が変わってもああいう問題を書き続けていくことに期待したいです。
投稿: mb101bold | 2007年12月 8日 (土) 15:03