孤立無援の思想
ところで、その青年に対して自然の美に心を奪われるよりは政治問題について考慮すべきだと薦めうる確固たる論理が本当にあるのだろうか。 (中略) これも拒絶し、あれも拒絶し、そのあげくのはてに徒手空拳、孤立無援の自己自身が残るだけにせよ、私はその孤立無援の立場を固執する。
高橋和巳『孤立無援の思想』より
もしかすると私の世代が最後かもしれませんが、学生なら、とりあえず高橋和巳さんの『孤立無援の思想』とか、高野悦子さんの『二十歳の原点』を読んどけ、みたいな感じがありました。とは言っても、大学時代が1987年からなので、バブル期でもあったし、社会人はみな浮かれていましたし、大学でも、少なくとも私のまわりでは政治のせの字もなかったのですが、それでもなんとなく必読書のような感じになっていました。
この文章の背景には、当時の学生運動や社会運動が、その共通の目的を逸脱し、党派性の問題に擦りかえられていたということがあります。それに、当時は、学生であれば政治運動に関わることが好ましいとされた空気があったことも重要です。政治的にポリシーを持たない学生を「ノンポリ」と揶揄する環境でした。
団塊の世代やその上の世代を中心に、なにやら昔の学生運動を懐かしんだり、今の若者は戦うことを知らない腰抜けだ、みたいなことを言う人がいらっしゃいますが、私は、その時期に、こうした本が読まれたということを考えても、彼らの言説には、なにか違和感があるんですね。個を圧迫してしまう党派性の問題を捨象しているような気がしてならないんですね。なんとなく、そういう暢気なことを言う人は、この党派性の問題を見ないことにしているような気がします。少し旬を過ぎてしまったけれど、赤木智弘さんの『「丸山真男」をひったたきたい』という論文が投げかけた波紋(『けっきょく、「自己責任」ですか』)を眺めていて、あえて、反論を書かれた文化人ではなく赤木さんを支持するとすると、その部分です。
というのは、前に『「関係の絶対性」という言葉をあらためて考えてみました。』というエントリを書いた際に、コメントでいただいたのが、いま赤木さんが投げかけている「格差社会」に関連するものだったので(それは、エントリを書いた本人としては予想外でしたが)、今一度、赤木さんの本を読み直したりしたんですね。
赤木さんの根本的な問いかけに関しては、抽象的すぎてわかりません、というのが私の答えですが、面白く読めたし、赤木さんの現在の立ち位置はいい感じだなあと思えました。格差ということに関して言えば、本当に個人的な経験からしか私は言えない気がしますし、こうして広告代理店の制作マンという職を得ている時点で、何を言っても成功者から(ちんけな成功ですが)の暢気なたわごとになってしまうような気がするんですね。
私個人としては、社会人になってからの歩みを考えると、少し身につまされる部分はあって、大阪のデザイン会社を退職して東京に出てきた時、東京に職があったわけでもなかったので、次の会社がなかなか決まらなかった時は、本当に、このまま自分はどうなってしまうんだろうという不安がありました。貯金が尽きていくし、お金の部分でどんどん追い込まれていくんですよね。
新しい会社がなんとか決まって、働き出したとき、交通費を別にして、所持金が300円くらいしかなく、昼飯を抜きにしたりして給料日までなんとか耐えようとしてたときに、上司からクライアントまで届け物をもって言ってくれと言われたときのことを今も思い出します。当然、上司には交通費がないから勘弁してくださいとは言えず、行ってきます、と元気に出て行くわけです。さて、どうしようか。警察に財布を落としたと言ってお金を借りようか。そのとき、私がとった行動は、身に着けていたスウォッチを道行くサラリーマンのお兄さんに500円で売ることでした。今では笑い話ですが、当時はもう脂汗びっしょりなわけです。
具体的にアドバイスできるとしたら、やっぱり、ネガティブスパイラルから抜け出すためにも、自由になる10万円をがむしゃらに貯めてから、具体的な行動を移すことが大切なことと、借金をつくらないために、質屋さんを積極的に利用することでしょうか。思想的にというか、ごく個人的には、これくらいしか今、私からは言えないです。もし、今、経済的なネガティブスパイラルに陥っている友人がいれば、私はそうアドバイスします。それと、お金をかすかどうかは「関係の絶対性」が決めるんでしょうね。そして、私にはまだあまりにも認識が薄すぎて何もいえないですが、格差を軽減するためには、具体的な社会システムの問題として具体的に提言していくしかないのだろうなと思います。
最後に、『孤立無援の思想』が入っている旺文社文庫(今はもうないんですよね)を本棚から引っ張り出してきて読んでみた感想。学生のときより、今のほうがよくわかる気がします。なんとなくですが、大塚まさじさんの『男らしいってわかるかい』みたいな感じですね。この曲は、ボブ・ディランの『アイ・シャルビー・リリースト』を大塚さんが日本語訳(といってもほぼオリジナルな感じですが)したものです。
奴らは楽なほうをとるのさ 誰とでも手をつなぎながら
でも俺は断じて俺の 考えどおりに 生きるのさ朝日はもう昇るよ 少しずつだけどね
そのとき その日こそ 自由になるんだ男らしいってわかるかい ピエロや臆病者のことさ
俺には聴こえるんだ彼らの おびえたような泣き声が朝日はもう昇るよ 少しずつだけどね
そのとき その日こそ 自由になるんだ大塚まさじ『男らしいってわかるかい』
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コメント
この歌詞、いいですね。
「階級」という言葉からは所有の無と有が絶対的に自他を別つ語感がありますが、「格差」は、有と有のあいだの相対的な違いなので、あくまで是正が課題のように思えます。
でも、自分を含めて周囲を眺めても、有と有が乖離し続けるような寒さがつきまとっていて、このままいったらまずいとしきりに思います。
必要なのは「戦争」ではもちろんなく、新しい「革命」ともいうべきものかもしれません。『男らしいってわかるかい』には、党派性ではない、望むべき新しさを何となく感じます。
投稿: 喜山 | 2007年12月13日 (木) 07:57
『男らしいってわかるかい』の出だしは、こんな感じです。
変わっていくなんて きっとないぜ
君の世界なんて ほど遠い
でも俺をこんなに変えてくれた
昔の友がいるんだ
もし、党派性というものを超える何かがあるとすれば、この歌詞に鍵があるような気がします。言葉にすればありきたりですが、孤独がゆるく深くつながりあう「友愛」というか。
あとは具体的な格差の改善策しかないでしょうね。でも、この問題は、私はまだまだ勉強不足です。
投稿: mb101bold | 2007年12月13日 (木) 11:55