音楽家になりたかった。
私の場合、無制限に自我を拡張させると、そんな言葉が出てくるように思います。いつもは気持ちを抑圧しているから、出てこないけど。大人だからね。絵画でもなく、言葉でもなく、やっぱり音楽。言葉は指示性がつきまとうから、どうしても対象に対して語るという構造から逃れられないような。文学であっても、言葉は大きな意味で批評なのでしょうね。
音楽。無意味なところがいい。音階の上下。その意味のない空気の振動による現象を意味づけ、体系化したのは、きっと言葉だとしても、その音楽という空気の振動で構成された芸術は、文芸みたいな個に還元されてしまうものではなく、もっと無意味で、だからこそ、文化や言語圏を超えるオープンな普遍化への道筋が含まれているように思います。なんだろう、この音楽という無意味な空気の振動が持つ共感は。
ジャズ。それは、ある意味では言葉。誰かの格好いいリズムやフレーズを共有し、模倣し、その営みの中から新しいリズムやフレーズが出てくる、言葉の運動。4ビートという言葉の体系。ブルーノートスケールという言葉の体系。そんな言葉体系、文化体系を静かに壊していく者。マイルス・デイビス。ビル・エバンス。新しい言葉を見つけるために、新しい言葉の体系を創造するために、彼らが見つけたもの。それは、西洋が近代以前に持っていた言葉の体系だった。モード理論。例えば、Dドリアンというモードで演奏されるモードジャズは、コード進行から自由に解き放たれ、旋律の覇権を宣言したように見える。新しい興奮がそこに生まれる。言葉は、その興奮が、じつはCメジャー=ドレミファソラシドという覇権文化に対するDドリアン=レミファソラシドレという旋律の違和感でしかないことを暴き立てます。
しかし、それでも、そこから生まれる音の振動は、何度も繰り返し演奏されてきた凡庸な12小節ブルース進行が持つ共感と同質の共感であること、音の絶対性の前で、すべての優れた音の振動が等価であることが、他の芸術にはない音楽の独自性のように思えます。ジョン・コルトレーンの音は、今も当時と同じ熱量で私に迫ってきます。そして、繁華街の道ばたで演奏される名前の知らない若いブルースマンの音も、そのブルースマンなりの音で迫ってきます。彼が明日奏でる音は、きっと違う。質の違いはある。けれども、所詮は空気の振動であるという等価性。音楽って何だろう。
音楽は言葉によってつくられ、音楽は言葉を超える。そして、音楽は言葉になる。それを言葉の側から見るとき、いつも音楽は憧憬として映っている。それを音楽の側から見るとき、言葉はどんなふうに見えるんだろうと、ときどき思います。音楽家になりたかった。今、私が言葉を操ることができるくらいのちっぽけな能力くらいでも、音を操る能力が私にあれば、人生は違った風景に見えるに違いないのに。音楽の神様には愛されていないと心底悟らされた私は、音楽への憧憬を抱きながら、そんなことをときどき思います。そう言えば、もしもピアノが弾けたなら、という歌がありましたね。
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コメント
実は小生も貴君と同様に音楽家に憧れたが、音楽の才能とは全く無縁で、まあ絵描きと科学者の端っくれみたいな中途半端な能力で、創造主に何とかしてよ、と思ったりもした。
JAZZの先輩にベイシーの菅原さんが居る。菅原さんの著書の最後に”すべての芸術は絶えず音楽の状態に憧れる”とウォルター・ペイターの名言で締めくくってあり、そうなんだな、と思っていたが最近は違う。さすがのウォルター・ペイターも音楽再生芸術が支配的になるなど想像もしなかったようだ。音楽は消えて無くなるし、再生装置で天と地ほどの解釈に差が出る。よって絵とか文学の状態のほうが普遍的な感動を与え続ける。
投稿: あんぷおやじ | 2007年12月24日 (月) 09:18
すべての芸術は絶えず音楽の状態に憧れる。
なんとなくその気分はわかる気がします。その一方で、音楽は消えてなくなるんですよね。なるほどなあ、と思いました。
音楽再生といえば、私は某DSP/アナログチップ会社の広告の仕事をしたのですが、アナログアンプの世界は本当に奥深いですね。
配線一つで音が変わったり、この分野だけはまだまだデジタルは追いつけないような。空気を制御するというのは、それだけ奥深いのでしょうね。
投稿: mb101bold | 2007年12月24日 (月) 16:41