1980年代後半の広告事情
吉本隆明さんが『TBS調査情報』いうTBSの機関誌にテレビ時評を書いていた時期があって、そのテキストは河出文庫から『状況としての画像 高度資本主義化の[テレビ]』(参照)という文庫になって出版されています。1987年から1989年にかけての約2年間連載されました。その時期は、ちょうど昭和から平成への移り目に当たり、この吉本さんのテキストにはバブル真っ盛りの華やかさはありませんが、その分、80年代から空白の90年代を経て現在に至った理由を探るためには最適なテキストではないかと思い、このエントリで取り上げてみることにします。
1988年7月に書かれた「テレビCMはいま」というテキストから引用してみます。
CMはどの表現分野よりきびしく、経済の好・不況の波形に影響される。不況に動じないとか、不況になればなるほどCMに力を注ぎ予算を傾けるといった器量をもった企業など、日本では数えるほどもない。むしろ逆にちょっと不況になると真っ先に予算を削られ、ちょっと好況になると真っ先に予算がふえる分野なのだ。CMの手法の変化の底に、いつも経済の変動を想定しなくてはならない。
私は、ちょうどその日本が不況期に転じる境目にこの世界に入りました。社会人になってはじめてもらった私の名刺には、CIプランナーと書いてありました。今、CIプランナーという肩書きで商売をしている人はいないのではないでしょうか。私は、バブルの遺産とも言える職業からドロップアウトし、広告制作の世界に入っていきました。そして、その広告の世界はポスト・バブルの冷え込んだ世界でした。
なので、この時期の吉本さんの広告についてのテキストをもう一度確認したくなったのかもしれません。吉本さんは、バブルからポスト・バブルへと移行するときの表現の変化をこのように書いています。
テレビCMのドラマや物語がこわれたということだ。川崎徹のCMがよ象徴していたように、CMを一瞬のうちに成立している映像のドラマや物語にしていた要素は、ここ一、二年のあいだにこわれてしまった。
いわゆる「物語の解体」がここで指摘されています。これは、経済の低迷だけでなく、社会全体の空気がそう変化してきたということもあるのだと思います。このあたりから、日本の社会が共有する物語が解体されてきました。紅白歌合戦が視聴率を稼げなくなり、萩本欽一さん的なお笑いの世界が成り立たなくなりました。それは、広告も同じで、ある共通の物語を共有しない相手に、物語を前提とした表現を投げかけることは、極論を言えば、英語圏の人に日本語で語りかけるようなものです。そして、広告に、コミュニケーション速度が求められるようになっていきます。
そんな時代の要請によって、広告表現は高速化していったように思います。私の世代的な感覚で言えば、ポスト・バブルの記念碑的な広告は、ラフォーレ・グランバザール、そして、そのとどめとしてのSmap!のポスターだと考えています。この一連の作品で、これも極論に過ぎるかもしれませんが、コピーライターの時代が終わりを告げます。私は、個人的には、ラフォーレやSmap!のような言語によらない、記号的な広告表現は、言語的な解釈を許さない狭さ故の速度があり、それは一方で、なんとなくファシズム的な怖さを感じてしまうのですが、けれども、確かに時代の最先端の表現であることは間違いはなかったと思います。
そして、2000年代は、そうした記号的な広告表現を共有する「場」そのものが解体しつつある時代と言えるのかもしれません。私は、共通の「場」が完全に解体することはないと思っていますが、今進行しているCGMやWeb2.0的空間は、その共通の「場」をある下方の閾値まで引き下げるような気がします。そして、この、ある未来の視点から見た「表現の進化」には可逆性はきっとない。ある懐かしさとともにある、黄金期の広告表現の姿が再現されるとすれば、それは、「古典は今読んでもいいよね」という保留付きの姿であるように思います。この変化は、もしかすると、広告を、文学に、漫画に、アニメに、音楽に言い換えても成り立つような気がします。
吉本隆明さんは、ソニーのウォークマンの「湖畔に佇む猿」のCMを指して、このように書かれています。
このていねいに情緒的雰囲気につくられた映像を、専門のテレビCMの批評家は、評価するかもしれない。だがわたしはテレビCMとしては、この映像のよさはいわばおしまいのよさだとおもう。いいかえればいちばんテレビCMがもとめるべき方向ではないのだとおもう。ドラマも物語もないし、ましてその解体もない。異化もない。ただ静止して情緒的によく練られた映像が凝集して収縮している図柄があるだけだ。
思えば、今、広告表現に携わる者としての表現者としての捻れた自負、つまり、それは、映画や文学に携わる者と同じ表現者であるという自負を、時代に徹底的に壊されてきたように思います。それは、ソニーのウォークマンのような美しい作品世界に携わることがかなわなかった不幸であるとともに、この時代の広告を考える契機を与えてもらったという意味では、すごく幸福なことだったとも思います。
これ以上よい映像を目指したら邪道なのだ。ということはテレビCM映像ではなく、その制作者はそれ以外の映像を目指しているにちがいないということだ。
そのことは、吉本さんに言われるまでもなく、広告というものと向き合ううちに、いやというほど思い知らされてきたことのような気がします。時代は、もはや、広告を広告以外の何者かでは通用させてはくれません。
映像としてのテレビと、テレビCMは、瞬間の高次映像と瞬間の現在と高速度を本質とする。それはただの映像とはちがうし、また映画の映像ともちがう。
であるならば、物語ならずも共通の場までもが解体されつつある現代において、広告の表現はどうあればいいのでしょうか。日々タイムリーに出てくるレスポンスデータを睨みながら、そんなことを考えています。
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コメント
mb101boldさん、こんにちは。
うまく言えませんが、おっしゃること(感覚)はよく分かります。例えば、天野祐吉さんの『CM天気図』を読んだときの「終わった感」というか。既に「広告について得々と語ること」の相対化(他のメディア情報との中で)された環境に気がついていない痛さ、というか。そんな状況下でも、高品質なクリエイティブをし続ける人たちへの尊敬は、むしろ高まってきているように思います。(澤本さんとかね)
投稿: tom-kuri | 2008年1月29日 (火) 12:15
tom-kuriさん、こんばんわ。
そうですね。そんな高品質なクリエイティブをし続ける人たちを見て、負けてばかりはいられないなと思います。
それにしても、牛乳に相談だ、ソフトバンク、ガスパッチョといい、すごいですね。一連の澤本さんの広告を見ると、同業のはしくれとして涙目になります(笑)
投稿: mb101bold | 2008年1月29日 (火) 19:55