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2008年1月 9日 (水)

僕が見た1981年の公立中学校の風景

 橋本治さんの新書『日本の行く道』がすごく面白い。『「わからない」という方法』『上司は思いつきでものを言う』『乱世を生きる 市場原理は嘘かもしれない』と続く橋本さんの新書シリーズの決定版とも言えるものだと思います。まだ途中ですので、書評みたいなことは書けませんが、その本に関連して、私が中学校の頃のことを書き記しておこうと思いました。タイトルが僕になっているのは、私は、子供の頃から普段は僕と言うのでそのほうがいいかなと。僕が見た風景を私が書くという感じです。

 私は大阪の公立中学校に通っていました。1981年と言えば、私が中学2年生ですね。なぜ中学2年のことを書くかと言えば、それは、いわゆる「校内暴力」が始まった年だからです。今思えば、小学校時代には「校内暴力」はまだ中学校になかったはずです。現に、中学校に入ったときは、先生が生徒を教育的に殴るというのは普通に行われていました。アントニオ猪木のびんたみたいなやつです。

 個性の差がある私という人間から見た風景を残しておこうと思うので、いちおう私がどんな中学生だったかを書いておきます。普通の優等生です。勉強はある程度できました。ただ、学内で一番とかではなかった。大阪と言えども大都市なので、生徒は多く、中には秀才だなあと思う生徒はいて、その人たちとはわかりにくいけど明確な差はありました。運動はできるものとできないものがはっきりしている感じでした。走りは早いが、逆上がりができない。野球では打撃は上手いけど、フライが捕れない。そんな生徒です。

 中学1年生の頃、中学校はまだ規律があったような気がします。前述の通り、先生が生徒を殴るのは当たり前だったし、いわゆる「不良」と呼ばれる生徒も当然いました。やんちゃな生徒ですね。当時は、長い学ランが流行っていて、学ランの内側には虎や龍の刺繍があるのが格好いいとされていました。それとボンタンズボンですね。タックが何本も入っているやつ。幻の5タックとか言っていましたね。新大阪の繊維シティで売っていて、それを買いに行ったりするのが格好いい。そんな感じです。

 私は、通学路が同じだったこともあり、そういう5タックなやんちゃな生徒のひとりと仲良しでした。私自身は、フォーク少年でしたし、その部分では気の合うところもあった。当時、私は学級委員長をやっていて、そのやんちゃな友達が喧嘩をするとよく仲裁をしたりもしていました。仲裁に行くのは本人はすごく勇気のいることでしたが(私は腕力に自信がありません)、子供心に仲裁に行く私はなんとなく誇らしかったし、仲裁に行くと、そのやんちゃな友達が言うことを聞いてくれるのもうれしかったような記憶があります。

 そういう、中学校の風景が変わるのが、中学2年の頃からでした。学校の雰囲気が変わってきたんですね。なんとなく殺伐としてきたのです。決定的だったのが、隣の中学校で日本で初めての「校内暴力」として新聞に報道されたことです。伝染するように教室で授業をする女性の先生がターゲットになりました。私は止めにいきましたが、その時は、私の制止など無力でした。明らかに、殴る生徒の目には何かしらの怒りがあったような気がします。そして、私にはどうしようもない敗北感と、その後の出来事を傍観するしかない自分への嫌悪感が残りました。

 それをきっかけに、暴力は校内全体に広がりました。扉は壊され、硝子が割られ、止めに入った男性の先生は、髪をつかまれ、直径5センチほどの髪の毛がちぎられました。髪をつかまれちぎれるほどですから、尋常な力ではなかったと思います。結局、数時間の暴動の末、警察が出動し、その騒ぎは収まりました。記憶では、それからしばらくは新聞報道はされませんでした。その後、1ヶ月してから報道されたところから見ると、学校側と新聞側の協議みたいなものがあったのでしょうね。

 そこからは、中学校はいわゆるちいさな「校内暴力」がひんぱんに起こる環境になりました。その環境が続くのは、その後1年くらいだったような気がします。そして、「校内暴力」は沈静化していき、中学校は内向化していったように思います。「校内暴力」から、時代は「いじめ」へと向い、今、中学校では「学級崩壊」が進んでいるといいます。

 あれから、そのやんちゃな友達がどういう人生を歩んでいるのか、私にはわかりません。彼が私のその後の人生をよく知らないように。でも、それが大人になるということなのかな、とも思います。とある地元の飲み屋でやんちゃな仲間だった女性友達と出くわしたことがありました。ありきたりの昔話をしながら、その彼女は、私よりずっとずっと大人びた印象がしました。その頃に私がもしブログをやっていたとしたら、彼女に同じ風景をブログに書いて欲しいなんて言ったかもしれません。きっと、その風景は少し違った風景に見えているはずだから。

 よく「いじめ」は昔からあったと言います。しかし、それはなかば正解ではあるけれど、半分は間違いです。私が中学生の頃は、「いじめ」はなかったとはいいませんが、「いじめ」より明らかに「校内暴力」だったし、その暴力性は「学校」という制度に向けられていました。こうして考えると、人間どうしがおこすさまざまな出来事を、人間という普遍性から読み解いていくことがいかに無力かがわかります。こういう出来事のひとつひとつが、社会というシステムと複雑に絡み合って形成されていくのですから。上部構造は下部構造に規定される。その言葉は、今なお重く響いてきます。橋本治さんは、その出来事が起こる背景を執拗に追求する方法で『日本の行く道』を書かれています。

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