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2008年1月15日 (火)

梅田望夫と福澤諭吉

 福澤諭吉は、『学問のすゝめ』の中で「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云えり。」と書いています。教科書で学びました。ここから先は、社会学者の小熊英二さんの『日本という国』の受け売りだから、読んだ方は展開がおわかりでしょうが、このつづきは「……されども今広く此人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、其有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや。」なんですね。

 つまり、「人間は平等。学問は大切。」ではなくて、「人間は平等ということになっているけど、現実はそうじゃない。だから、勉強をしなさいね。」という趣旨の本なんですよね。福澤さんは、人間平等を説いたとよく誤解されていますが、福沢さんは希代のリアリストだったんですね。この『学問ののすゝめ』が書かれたのは明治初期。小熊さんによれば、それは交通・通信技術の大発達の時代でした。

 なんとなく、ウェブをとりまく今の状況と似ていなくもない、と私は思います。

 梅田望夫さんは『ウェブ時代をゆく』の中で、福澤さんの言葉を取り上げています。例えば、こんな感じです。

 福沢諭吉は『文明論之概略』緒言の中で、幕末から明治への変化について「恰も一身にして二生を経るが如く、一人にして両身あるが如し」と表現した。福澤は、その六十六年の生涯の「最初の半分」(三十三年)を封建制度の江戸時代に、「あと半分(三十三年)を明治維新の時代に、まさに「一身にして二生を」生きた。

 梅田さんは、この福澤さんの人生と自身の人生を重ね合わせます。明治維新、それは、梅田さんにとっては「ウェブ時代」ということです。そして、この本の中で、自身の「ウェブ時代」以前から「ウェブ時代」へと至るまでの人生が語られていきます。この本の魅力は、この赤裸々な自分語りの部分ででょう。私は最初反発し、二回目に少し共感し、そして、今、この文章を「ブログ」に書いている。しかも、それは自発的にではなく、ブログを通したコミュニケーションに即されて。そして、この拙い文章はウェブを通して公開される。これが、今、私がいるウェブ時代というものだと思います。

 多かれ少なかれ、ブログというめんどくさいものを書かざる得ない、もしくは、読まざるを得ない人は、この本の引力圏内にあるということだと思います。それは、私事であるけれど、新しいパソコンを購入し、通信速度も速くなって(これまでは今どき64K)みると非常によくわかります。YouTubeはあるし、ネットには娯楽が溢れています。ブログを読むという行為も娯楽ですが、それはやはり文章を追っていくという行為そのものはある程度知的な娯楽なんだろうな、と思います。言葉はそのもの自体が対象となりにくいメタレベルにある表現手段でしょうから。そういう環境の中で、あえて24時間しかない時間をブログを書く/読むに費やしているということは、ある程度、自発的にそれを選択しているということでしょうし。

 ウェブによる、そういった知的な交流みたいなものが切り開く時代環境をポジティブに生きる処世を書いたものが、もしかすると『ウェブ時代をゆく』というものかもしれません。『ウェブ進化論』から対談2作を挟んで『ウェブ時代をゆく』に至までの変化でわかりやすいところは、著者のmixiなどのSNSへの評価と利用の仕方だろうなと思います。些細な変化ですが、これは重要な変化のような気がしていて、はじめは不特定多数というものを重視していましたが、最新の著作では、その不特定多数をある種の知的層に限定しているような気がします。だから、その層が集うツールとしてSNSが出てきたのだろうと思うんですね。『ウェブ進化論』におけるmixi=Web1.0という定義の仕方(『ウェブ進化論』では、ビジネスモデルの文脈ですけどね)とは明らかに異なります。

 梅田本の魅力のひとつとして、不特定多数というものの無限の信頼がありました。梅田さんと対談する多くの人はそこに怯んだり恐れたりする感じがあり、その不特定多数というものに怯まない梅田さん=新しい人という印象を与え、それが梅田オプティミズムの新しさでもあったように思います。

 しかし、今回の本では、読者が相当限定されている(もしくは、著者が届けたい層がしぼられている)ためか、不特定多数とは、著者曰く「経済のゲーム」終焉後の「知と情報のゲーム」の参加者のとこであるように感じました。そこが、いい意味でも悪い意味でもリアルなんですね。まるで『学問のすゝめ』を書いた福澤諭吉のように。

 ちょっと意地悪な視点で、このリアリズムを裏から見ると、ザルの目が粗すぎるなあ、なんて思ったりも。つまり、対象を取りこぼしすぎ。私が引っかかったのはその部分だったのかもしれません。(前回のエントリ喜山さんが躓いたと仰られたのは、きっとそこなのではないでしょうか)ただ、私なんかが引っかかるコインの表では、その著書を自分へのエールとして受け止める人たちがいるということなのだと思います。そして、著者自身も、かつての著者自身に向けてこの本を書いているのだなあ、と思います。

 そして、こうした自己実現のための知性がある一方で、ザルの目を細かくして、自己認識=世界認識を深めていこうとする知性もあると思うし、世界認識として『ウェブ進化論』を読んだ私たちは、そういう私たちの『ウェブ時代をゆく』を自らつくっていかなければならないんでしょう。

 最後に、あとがきより引用します。

 福澤諭吉の『西洋事情』と『学問のすゝめ』が対になった「その時代に生まれる新しい生き方の可能性」をテーマとした本を、いま時をおかずしに書かなければと思ったのだ。

 その通りでしょうね。この本は、まさに現代の『学問のすゝめ』です。「五百枚入る名刺ホルダー」の入れ替え戦を日々やりつつ、この新しい時代をサバイバルするための学問とは何かを書いた本なのだろうと思います。それは、甘ちゃんの私から見れば身も蓋もないリアリズムだなあ、とは思うのですが、そのくらいのリアリズムを正視できなければ「けものみち」は歩けないのかもなあ、なんてぼんやりと考えています。

関連エントリー:「ウェブ時代をゆく」をもう一度読んでみました。

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日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

mb101boldさん、こにゃにゃちわ(^^)
もっちーの本は「ウェブ人間論」しかまともに読んでいない私が来ましたよ。どもどもっ。

なぜ1冊しかまともに読んでいないかというと、梅田さんの本はあまりに人気があるせいか、みんなが読んでいて、あちこちで書評を目にするので、読んでいないのに「読んだ気になる」からなのです。

これも、ウェブ時代の知性なのでしょうかねぇ。(多分違う)

それはさておき、携帯のコンテンツもウェブに入れるとすれば、おっしゃるとおりウェブには「ある種の知的層」以外の層に属する人々のほうが、圧倒的に大勢いますよね。中学生のころから、情報のゲームにさらされている非常に若い人たちがそうだと思います。で、私はけものみちにはいる人たちって多分そういう人たちの「こういうのあるといいな」をいち早く掴むことのできるひとだろうと思うのですよね。

多分ゲームにとっくに参加していて、それに気づいていないというような世代。

そういうのの一例がケータイ小説なんかだと思います。携帯ではなく、ケータイっていうほうがしっくりくる子たち。

つまり、そういう子たちには「ウェブ時代をゆく」は必要ないんだと思います。
だから、「ある種の知的層」に読者を限定するような書き方をせざるをえなくなったのでは?と私は思いました。

投稿: ggg123 | 2008年1月15日 (火) 17:14

ggg123さん、こんばんわ(^^)

そうですね、もっちー(って呼ばれているんですね)は「不特定多数への信頼」というイメージが強かったから、その不特定多数というならばケータイユーザに代表される若い人たちがコアですね。時代は、モバゲーとか魔法のiらんどですから。で、そういう若い人たちがリアル「ウェブ時代をゆく」人たちなんでしょう。私の世代だと、やはり「ウェブ時代」というと外来思想的な感じがあるのかもしれません。だから、こういう啓蒙書が必要なんでしょう。

梅田さんがモデルにしている人たちは、Rubyのまつもとさんだったり、はてなの中の人だったりする、積極的で聡明な感じの人たちだと思います。そういう人とリアルでお話したこともありますが、その爽やかで知的な感じは、私みたいな知性がウェットな感じとは明らかに違う新しい印象がありました。でも、きっとそれは「ある種の知的層」なんだと思います。

そう言えば、時代を感じさせる出来事がありました。お正月に書いた鶴瓶のエントリ、あれ、けっこう読まれたんですよね、ケータイから。こういうパターンは初めてで、こんな長文ブログをケータイで読むんだなあ、と思ったのと、ケータイの口コミ力って、すごいもんだなあと感心しました。

そんでもって、広告屋さんとしては、もちろん、ケータイしっくり層的な感性が気になるところで、その私の言うところの広告屋さん感性って、的屋さん的感性であるので、それは吉本さんの言うところの大衆の原像というものとつながっているような気がして、過去のエントリーでも延々とそのことばかり書いているみたいです。そして、私の考えでは、そういう感性はうちの両親のようなケータイもネットも見ない人も影響を受けてるんだろうなと思うんですよね。

ここんとこ書いてないけど、そんな時代のリアルな表現って何だろうというのが私のテーマでもありますね。長くなっちゃいましたが、まあいいか。ではでは。

投稿: mb101bold | 2008年1月15日 (火) 19:32

ネットは、不特定多数ではなく、特定中数の人々との対話の場と考えると、著者が、自分の関心の志向性に照らして、対話の相手を「ある種の知的層」に見いだすのは自然なことだと感じます。

でも、それが主役のように言われると、ずっこけてしまうところがあって、主役はggg123さんのおっしゃるように、ケータイな人々だと思うからでした。

ということを今回の記事で整理できた気がします。ありがとうございます。

それにしても、一身にして二生。ネットが無くてもいまどきは本当にそうですね。二生でも足りないくらいです。

ではでは。(と、mb101boldさんに倣って。ぼくも党員になろうかな(笑))

投稿: 喜山 | 2008年1月15日 (火) 23:14

そういうケータイな人たちの中に可能性の中心がある。そんなふうに、オールドタイプの大衆であるところの私は思っています。ggg123さんの言葉にあったように、「ウェブ時代をゆく」さえ必要ないラディカリズム。そこに時代の推進力を感じます。

私は彼らに追いつけるのかなあ、なんて思うんですね。そして、そんな彼らに広告が再び支持されたとき、私は、ほら人間てそんなに変わらないでしょ、と言いたいのかもしれません。

ほんと、一身にして二生でも足りないかもしれませんね。ではでは(笑)

投稿: mb101bold | 2008年1月15日 (火) 23:37

こちらのコンテンツが刺激になって記事を書きました。
いつも素敵なブログを有難うございます m(_ _)m

ちなみに、僕は梅田先生の『ウェヴ時代をゆく』は未読でしたので・・さっそく拝読させていただきたいと思います☆

重ねて感謝…。

投稿: あしTAKU | 2012年8月24日 (金) 04:01

福沢諭吉マーケッター説、興味深く読ませていただきました。

投稿: mb101bold | 2012年8月24日 (金) 11:30

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