ドーナツの穴だけ残す方法。
NHKラジオを聴いていたら、懐かしの演芸を聴くみたいな番組をやっていて、春日三球・照代さんの漫才の録音が流れてきました。照代さんがお亡くなりになってから、もう20年も経つんですね。春日三球・照代さんと言えば、「地下鉄の電車はどこから入れたの?それ考えると夜も眠れなくなっちゃう。」で有名です。でも他にも名フレーズがいっぱいあります。その中のひとつで私のお気に入りなのが「ドーナツ、穴だけ残そうと思うんだけど、いつも穴が残るかなってところで全部なくなっちゃうの。」というフレーズ。
シュールですよね。穴だけ残そうと端から食べていって、いよいよ穴だけ残るってところで、穴という存在を成立させているドーナツ自体がなくなってしまう。これを三球さんが言うと、そのことが残念でたまらない感じがすごく出ていて、よいんですね。考えてみれば当たり前と言えば当たり前ですが。
私は、地下鉄のネタよりこのドーナツネタの方が好きです。地下鉄のネタは、調べると地下鉄はここから入れるという正解があるんですが、ドーナツのネタには正解はありません。あえて言うなら、ドーナツの穴はドーナツが存在している時だけ成立する概念だから、ドーナツがなくなったらドーナツの穴という概念は成立しない、といったことろでしょうか。
いわゆる漸近線的思考ですよね。限りなくAに近づくけれど、決してAにはならないという。究極も至高も終わりがない。到達した時点で、それは究極でも至高でもない、と海原雄山も言ってました。座禅を組むとき、両手を組んで左右の親指の先を合わせますよね。あれ、正式なやり方は、左右の親指の先を「付かず離れず」ということらしいです。付くでもなく、離れるでもなく、そのギリギリのところ。物理的にはあり得ませんし、その状態というのは付いているか離れているかのどちらかでしょう。でも、人間はそういう思考が好きなような気がします。漸近線の彼方に何があるのかを知りたくなってしまうんですよね。
芸術とは何かとか、文学とは何かとか、広告とは何かとか、ブログとは何か。こういう論議はわりかし抑圧的になりがちで好きではないですが、あえて言うなら、きっとその芸術とか文学とか広告とかの前に「究極的に言って」というのが略されているのでしょうね。「本質的に言って」でもいいのかもしれません。基本的にはこういう話に結論はありませんが、だからこそ、生きている限り避けては通れない話なのかもしれません。
ドーナツの穴だけ残す方法。考えてみましたが、私には無理でした。なんか高等な哲学的概念を持ち出すと、うまくいくのでしょうか。それとともに、もうひとつ疑問が出てきました。ドーナツの穴という存在は、ドーナツの内部、つまりドーナツ自身、ドーナツの一部なのか。それとも、ドーナツという存在の外部にあるまったく別のものなのか。別のものだとすると、ドーナツの穴とドーナツの関係性は何だろうか。うーん、そんなこと考えたら夜も眠れなくなっちゃう。(という安易な落ちで逃げてしまいました。すみません。)
追記:眠れなくなるといけませんので、地下鉄はどこから入れるかの正解。テレビのバラエティ番組やクイズ番組でも紹介される、よく知られた話ではありますが。
「車両の搬入については、地上に置かれた車両基地へ送る、地下の車庫の直上に搬入用の穴を設けてクレーンで下ろす、といった方法がある。車両メーカーからの車両基地への輸送方法は、乗り入れ先の地上を走る鉄道線経由で送り込む、他の鉄道路線との物理的な接続がない場合には、一般道路をトレーラによる陸送で送り込む方式が採られている。」
追記2:「ドーナツの穴だけ残す」という話題はけっこうネットで書かれているネタみたいです。春日三球・照代さんは、時代を先取りしていたんですね。2ちゃんねるでも話題になっていたみたいで、ここにその回答の系統図が出ています。
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