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2008年2月の21件の記事

2008年2月28日 (木)

新聞広告がつくりたくて、つくりたくて。

 3月31日から、朝日新聞、読売新聞など複数の新聞の文字が大きくなります。そのため、記事は15段組みから12段組みに変更になるそうです。新聞は、現在、1ページあたり文章が15段組まれた基本レイアウトになっています。だから、全面広告が全15段、センターの2ページ見開きは全30段、夕刊のテレビ欄の下が全10段という名称になっています。今回の発表があって、広告も全面広告が全12段に変わるのかなと思っていましたが、その変更はなかったようです。従来通り、全15段とのこと。

 1段あたりの単価で広告掲載料が規定されているので、それを変更するといろいろ混乱が起きるとの判断かもしれません。広告の実務では、1ヶ月間で計120段出稿、というように段で計算しています。ですので、その基準が変わることは、けっこう大きなことなんですよね。

 今回の記事の段数変更では、新しいスペースも開発されるようです。そのひとつが15段換算で全7.5段、ハーフサイズという枠。半分に折ると、全面広告に見えるサイズなので、これは人気が出るかもしれませんね。

 私は、大阪時代の駆け出しの頃はファッションや流通の仕事ばかりやっていましたので、広告は店内および駅貼りポスターばかりで、東京にやってきた時、なんとか新聞広告の仕事ができないもんだろうかと悶々としていました。あの頃、新聞広告という舞台が、すごく輝いて見えていたんですね。幸い、東京で日本橋にある老舗百貨店の仕事に就くことができ、今度は、来る日も、来る日も、新聞広告ばかりになりました。計算したことはないけれど、今まで新聞広告を100本以上作っているはずです。いや、100じゃきかないかもしれません。このブログでさえ、本エントリで234本目なんだし。

 社会に対して、企業の志を打ち出していくといった企業広告の分野では、テレビCMやネット広告にはない魅力が新聞広告にはあります。また、ネットが強くなったと言われる現在でも、新聞のリーチと訴求力は魅力です。広告制作者にとっては、新聞広告は広告の故郷みたいな存在で、広告の基本は新聞にあり、みたいな感じが私の中にはあります。もしかすると、若い制作者は、そういう感覚が薄れているかもしれませんが。

 新聞広告は、言葉が活躍できるメディアでもあります。ビジュアルとキャッチで惹き付けて、ボディコピーをじっくり読ませる、そんな落ち着きのあるどしっとした広告媒体です。今のように、情報がどんどん消費されていく環境の中で、この新聞広告の魅力は、もしかすると再び見直されるかもしれないと私は楽観的に思っているんですよね。というか、多様化する広告媒体の中で新聞広告がその存在意義を主張するためには、新聞という媒体が持つ、そんなテレビやネットにはない魅力を打ち出していく以外、生き残る道はないだろうなと思います。

 新聞広告がつくりたくて、つくりたくて、と思ってきた広告制作者として、今回の新聞紙面の改革の成り行きを注視してきたんですが、ウェブを見る限り、あまり話題になっていないようですね。なんとなく、それはさみしくもあり、複雑な気分です。まあ、愚痴を言ってもしょうがないので、チャンスを伺いながら、新しい新聞広告の魅力を作り出したていきたいと思っています。がんばれ、新聞広告。私もがんばります。

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2008年2月26日 (火)

私はなぜピアノトリオが好きなんだろう。

 というタイトルを見て、そんなもん知らんがな、と思った方もいらっしゃると思いますが、「私の興味は世界の興味」と勘違いできるところが個人メディアたるブログだと思うので、書いてみたいと思います。って、前段がくどいですね。

 MacBookのiTuneの中にもピアノトリオがたくさん入っています。ビルエバンストリオとか、ビルエバンストリオとか、ビルエバンストリオとか、ビルエバンストリオとか。でも、本当は、キースジャレットや、バドパウエル、セロニアスモンク、ハービーハンコックなど、一応一通り入っていますけどね。最新のものでは上原ひろみも入っています。

 なぜか今日は、昼飯を食べながら、歩きながら、電車に乗りながら、仕事をしながら、なぜピアノトリオが好きなのかばかり考えていました。思いつく理由としては、ベースが活躍しているから、というのがあります。私は、大学のときにベースを弾いていて、普通のコンボだと律儀に4ビートを刻んで、スィンギーなリズムをつくるのに専念するベースが、ピアノトリオだと、とたんに自由になるんですね。同じ楽器なの、というくらい生き生きとします。

 私は、ジャズにおいて、ベースをリズム楽器という呪縛から解放したのは、ピアニストであるビルエバンスではないかな、と思っていて、確かにスコットラファロはエバンストリオで自由奔放に弾いていましたが、それはリーダーであるエバンスあってのことだろうなと思うんですね。ラファロは、エバンスと出会う前は、わりとオーソドックスなランニングベースを弾くベーシストだったそうです。

 でも、この理由はいまいち違うなと思うところもあります。ベースが活躍するという意味ではポールチェンバースのリーダー作「BASS ON TOP」なんかがありますが、あのアルバムは見事だなあと思うものの、それほど大好きという感じではないのですね。

 ピアノが好きだから、という理由は少しあるかもしれません。私はピアノは挫折していますので、ちょっと複雑な気持ちを持っています。ピアノが上手に弾けるというだけで尊敬してしまうような卑屈さもあって、ああ、なんか情けないよなあ、俺、なんて思うこともあります。でも、だからといって、ピアノソロはそれほど聴く訳でもないしなあ、なんて思ったりもしました。

 でたどり着いた結論。

 やっぱり、ピアノトリオという形式には、すごく余白があるから。

 とりわけ、ビルエバンスのようなインタープレーを重んじるピアノトリオの場合は、間合いというか、音と音のあいだの空間が聴こえてくるんですね。沈黙も聴こえると言いますか、ああ、今この空間で、ピアニストとベーシストとドラマーが会話しているんだな、というのが分かるんですね。それも、3人というのがちょうどよくて、2人だと、どうしても恋愛とか尊敬とか敬愛とかが前に出過ぎて、それはそれでスリリングではあるんですが、ピアノトリオの持つあの感じとはちょっと違う何かになります。4人だと、バンドっぽくてこれもちょっと違う感じです。

 すこし前に、ある輸入車のラジオCMで、ピアノトリオにフリージャズっぽい演奏をしてもらって、それを別々のチャンネルで録音して、それを順番に流して、最後に合体させるという企画をやったことがあります。それぞれのプレイヤーには個別に部屋に入ってもらって、ヘッドホンでお互いの音を聴いてもらうという感じで録音しました。

 そのとき感じたのは、会話しているんだなあ、ということでした。あわせて聴くときちんとした音楽になっているのですが、それぞれのパートを別々に聴くと、音にところどころ沈黙があって、不思議な感じがするんです。まるで、相手の息づかいを確かめているかのような緊張感がありました。企画のときにも、それは頭の中では想像していたんですが、やはり聴いてみると沈黙の持つ迫力が違いました。

 その沈黙の美しさを聴くためには、できればいい再生機で聴く方がいいのでしょうね。普段はMacBookにBOSEのPCスピーカーをつないで聴いていますが、いつの日かこんないい音響で「Bill Evans at the Montreux Jazz Festival」を聴いてみたものだなあと思っています。

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2008年2月24日 (日)

僕の好きな言葉。

 ブログでは私を使っていますが、普段は僕です。柄にもなくチョムスキーやら、ソシュールやら、難し目の本を引っ張りだして読みふけってしまい眠れなくなってしまいましたので、普段の僕に戻って、軽めのエントリをもう1本。

 言葉関係の話が続きましたので、僕の好きな言葉なんかをご紹介。

Photo 京都に「ふちがみとふなと」というアーチストがいます。ボーカル&小物担当の渕上純子さんとベース&コーラス担当の船戸博史さんのデュオ。つまりですね、ウッドベース1本とボーカルだけのグループなんですね。いいんですよ、ふちふな。「アワフェイバリットソングス」というカバーアルバムがあるんですが、傑作です。Smoke on the waterなんかね、もう最高。

 こういうCDこそ、アフェリエイトで売りたいのに、アマゾンにはないんですよね。もちろんCD屋さんでも買えませんが、通信販売で買えます。ご購入は、こちらで。絶対、損はしないです。おすすめ。

 で、本題に戻って、僕の好きな言葉。ふちがみとふなとは公式ウェブサイトを持っていて、そのサイトは「へなweb」という名前。その中に「考えるフチガミ」というコーナーがあって、渕上さんがときどきエッセイを書いておられます。リンクがわかりにくいですが、「悪」という文字をクリックすると、僕が好きな言葉が出てきます。

 タイトルは「いじわる」。ここに書かれている言葉の雰囲気とかが大好きです。こんな感じで言葉が綴れたらなあ、と思います。引用すると全文引用になってしまうくらい短い文章なので、リンクを張っておきます。こちらです。

 では、どちらさまもよい日曜日を。

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コピーライターは言葉の専門家なのでしょうか。

 私のいる広告業界の現場でよくある風景。

 社内ミーティング。ある仕事で、クリエイティブが徹夜でつくった広告案を見た営業が、腕を組み、押し黙ってしまいました。重い沈黙。その沈黙を切り裂くように、営業が一言。

 「なんて言うか、コピーが違うと思うんだよ。」

 一通りの押し問答のあと、結局、作り直すことに決まり、それぞれが作業に。コピーライターは顔に悔しさをにじませて、ひとり作業室の中で言葉を吐き捨てます。

 「何もわかってないくせに、コピーに口だすなよ。」

 多かれ少なかれ、こういうことは多いと思いますが、そのときのコピーライターの心情は、こういうものだと思います。俺は言葉の専門家であるのに、言葉の専門家でもない人間があれこれ簡単にいいやがって。特に言葉は人を表すというように、言葉を否定されることは、その人を否定されるに等しいような感覚を持ってしまいがちです。

 コピーライターが言葉の専門家であるというのは、半分は真実であると思いますし、コピーライターという職業を選んだ以上、あらゆるタイプの言葉を一通り使いこなせるくらいのスキルはあるべきだと思いますし、文章を使うのに慣れていない人は、コピーライターにはあまり向いていないとは思います。ピアニストはピアノが弾けるのが条件、みたいなものです。

 しかし、コピーライターは言葉の専門家であるというのは、半分は間違っています。欧米の広告理論では、What to sayとHow to sayを明確に分けようとする傾向があり、クリエイティブはHow to sayの専門家みたいなことが日本では言われがちですが、欧米のクリエイターに、そんな認識を持っている人はあまりいないのが事実です。つまり、クリエイティブの半分はWhat to say=何を言うかでできています。

 先の営業は、その何を言うかが違うのではないかということを言いたかったのでしょう。言葉なんて、誰でも使えます。事実、遠い都会に住む子供を思い綴った母親の手紙の言葉が証明しています。その母親は、きっと言葉の専門家ではありません。普通に暮らす普通の人です。けれども、言いたいことがあれば、人はいい言葉を綴ることができます。

 では、誰もがコピーライターになれるのか。答えは否です。コピーライターの半分の仕事は、言いたいこと、言うべきことを見つける仕事です。それは、いい手紙を書いたその母親にはできないことです。所詮は広告は他人の話。その他人が言いたいことを見つける作業ですから、それなりにノウハウがいります。そして、その言いたいことを適切な表現で日本語にするのが、残り半分の仕事。その残り半分の仕事も、じつは結構大切ではあるんですけどね。

 コピーは、極論で言えば、名詞と動詞で書けとよく言われます。犬、走る。人、話す。そんな感じ。これは、何を言い表しているかというと、何を言うかを突き詰めて考えろ、ということなんですよね。日本語の表現技術が高まってくると、日本語の持つ文化的な形態だけで文章にできるようになってきます。言いたいことが特になくても、いい文章が書けてしまうのです。

 言葉というのは不思議なもので、その形式に忠実であるだけで、何となくその言葉の体系が持つ魂みたいなものが、ある一定の意味性を与えてくれるような気がします。特に文章が巧い人なんかは、その罠にはまってしまいがちです。

 言葉の体系が持つ魂みたいなものということを突き詰めると、英語の方が論理を語るには優れる特徴があるとか、日本語は情緒的であるとかに行き着きます。チョムスキーが言う深層構造と生成文法は、言葉にする前の何か、すなわち深層構造がまずあり、人間が言葉を獲得するための持って生まれた能力、生成文法により民族言語の持つ文法構造がつくられていくという理論で、文法が思考を決定するという旧来の言語学に対する批判であったその理論は、逆説的に、言葉とは私であるという結論につながっていきます。

 しかし、名詞と動詞で書けという広告コピーでよく言われる教えは、その生成文法に抗う考えがしなくもなく、漢文が複雑な文法構造を持ってないにもかかわらず、高度な内容をきっちりと伝えられてしまっている事実に似ているような気がします。それはチョムスキーの言う、言葉に表出される前の深層構造の姿に近いような気がするし、であるならば、民族言語の持つ魂みたいなものって、いったいなんなんだろうなんて考えてしまいます。

 一般的には、英語などの外国語に訳しやすいコピーがいいコピーとされていて、私などは、外資系企業でのプレゼンで、翻訳の人に、君のコピーは訳しやすいですね、と言われるとうれしかったりしますが、それはコピーが商業文だからなのかもしれません。しかし、多くのコピーへの共感は、文章が持つリズムや雰囲気に依存していることもまた事実で、このあたりの話は、私にとっては興味が尽きないです。

 ちょっと前は、こういう広告屋の表現論の論議に出てくるのは、ソシュールのシニフィアン、シニフィエだったような気がするのですが、時代が変わったということなんでしょうか。でも、まあ正直言うと、シニフィアン、シニフィエも、生成文法もよくわからないところがあるんですが。ぼちぼち読み直していこうかな、なんて思っています。

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2008年2月23日 (土)

知識的なこのや、年齢的なこともあるけど、まだ私にはその実感はわからないのかもしれない。

 小林秀雄が真正面から本居宣長を語り、山本七平が小林を語るときに、本居論にあえて踏み込まず、橋本治はたくみに迂回し、吉本隆明は忌避した。語り、踏み込まず、迂回し、忌避するにしても、日本語という言語で何かを語るとき、その中心には本居がいる。その関係性について、極東ブログ「[書評]小林秀雄の恵み(橋本治)」でfinalventさんは書かれています。それは、極東ブログ「[書評]反哲学入門(木田元)」の後段の後期ハイデガーと本居についてのつながりについての続編として、私は読みました。

 後期ハイデガー問題は、私の理解だと、ゲルマン民族のアイデンティティと哲学のかかわりの中での悲劇でしょうし、小林の本居論は、finalventさん曰く「戦後の世界のなかで、昭和という悲劇が殺傷せしめた日本人の鎮魂と再生の祈念」として書かれたものなのでしょう。ハイデガーは、仏教などの東洋哲学の影響が言われていたりします。そして、小林の本居論のそのつきない魅力は、「一種の宗教のような何か」なのでしょう。

 橋本治が本居の本質を歌人とする感覚は私にはよくわかります。そして、それを取り上げ論じる小林も、橋本の論とは逆に歌人感覚(詩人感覚)がある気もするし、小林の言葉は、文学的な何かなのだろうと思います。というより、それは私がそのように了解したいということかもしれません。吉本が共同幻想論でも喝破したように、「およそ民族国家というのは宗教によっている」のであるとすると、それを延長線上にあるものとして、本居宣長というのは、やはり今なお魔力を持つんだろうと思います。

 ここまで言えば、そういうお前は小林教を信じるのかと問われているに等しい。
 私はそれを信じていない。そもそも古事記というのは偽書だと言うにはばからない私である。古事記は道教だぜとも言う。ではなぜ、私が、小林に惹かれ、宣長に惹かれるのかと言えば、私の人生が日本人の、日本語の情というものによって成り立っている根底的な限界の意味を受容する他はありうべくもないからだ。

極東ブログ「[書評]小林秀雄の恵み(橋本治)

 親鸞論から親鸞伝説をあっさり捨象してしまう吉本は、その共同幻想に逆立するものとして対幻想という概念を作り上げました。そのなんとなくセンチメンタルでロマンチックな個を根本に据えるところが、吉本が当時多くの若者を魅了した部分であるとも思うのですが、それは、親鸞論でもわかるように、吉本は、歴史を捨象し、あるべき仮想された未来から今を読み解く気質があるような気がして、それが彼に本居は関係ないぜ、と言わせてしまうのだろうと思います。

 うーん、この「極東ブログ」のエントリを読んだりして、ますますわからなくなってきたなあ。私の中には、本居的な何かも、対幻想も、どちらも感覚的にはよくわかっていないところがあるんですね。本居的な何かは、日本語をうまく話すようになった外国人が日本人のようなオーラをまとってしまう(厳密には目つきが日本人っぽくなる)あの感じくらいには納得はするけど、やっぱりあまりよくわからない。対幻想は、確かに恋愛のあの感覚は、共同幻想に逆立ちする何かのような気もするし、国家権力と個人が逆立するのも理解できるけれど、対幻想の甘い感覚は、宗教によっている国家の持つ甘い感覚と同質なんじゃないかとも思うんですね。

 これは、比較的年齢の若い吉本フォロアー(世代的には最後の吉本フォロアーなのかも)としての私の中にある吉本への小さな違和感です。

 むしろ、私の死はその限界を超えるものであってもよいに違いないのに。

極東ブログ「[書評]小林秀雄の恵み(橋本治)

 私をひるませるのが、この感じなんですよね。それは、私が年齢を重ねるにしたがって体感できるようになる感覚なんだろうか。それとも、私にそのような感受性がそなわっていないのか。でもまあひるむ感覚があるということは、根本的にはそれが忌避になっている証拠でもあるわけで、なんだかうだうだと考えてしまいました。それにしても、できない学生が先生に質問するかのような文章になってしまいましたが、こういうこと書けるのもブログのよいところかもと思います。トラックバックを送られるほうはご迷惑かもしれませんが、一市井のブロガーがエントリを一生懸命読みましたということの証だと思って今回もお許しくださいませ。ではでは。

関連エントリー:吉本隆明さんの「対幻想」だけは、私には理解できないのです。

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2008年2月22日 (金)

存在が先か、言葉が先か。

 人間は、そうそうわかりあえるものではない。そんな、ちょっと悲観的な前提に立ってものごとを考えると、コミュニケーションというものの本質が見えてくるように思います。私と君は同じだね、という共感ではなく、これだけ共感をわかちあいつつ、やっぱり私と君は違うという、お互いが非対称な関係であるという冷徹な認識のほうが、人間というものの本質を正直に言い表しているように思います。存在の本質は、その非対称性にある。そんなテーゼは、さみしいテーゼだけれど、なぜ人間はコミュニケートするのかという答えを導きだすには不可欠なもののように思います。

 前回のエントリ(参照)でも最後のほうに書いたけれど、そんなコミュニケーションの不可能性を前提にしながら、なお命懸けでもってコミュニケートしようとする人間というものの不可思議さと滑稽さは、コミュニケーションを生半可にかかげ、生業にしている私にそのまま跳ね返ってくるように思います。そんなことを考えると、私のような広告屋ごときがコミュニケーションとはと語るとき、命懸けで負け戦に挑んできた幾多もの人々のコミュニケーションの蓄積を前にして、笑わせんじゃねえよ、という死者の声がこだまするような気になってきます。

 コミュニケーションの主たる手段が言葉であるとすると、言葉は人間そのものかもしれない。そんなことをぼんやりと考えていると、finalventさんの「極東ブログ」にこんなエントリ。その中の重要な言葉を引用します。

とてもではないが、これは「分別」などと訳せるような概念ではない。そしてこの木田の解説からうっすらチョムスキーが見えてくる不気味さをなんと言っていいのかわからない。もちろん、チョム先生は「神」なんてことは言わないのだが、彼が説く人間の尊厳の根拠性としての創造力というのはほぼユダヤ教的な「神」に等しく、またその理性が進化論的な説明を拒絶しているのは往年のピアジェをコケにした議論からも理解できたものだった。
[書評]反哲学入門(木田元)- 極東ブログ

 もちろん、木田元さんの「反哲学入門」についての書評だから、その中ではハイデガーとの相似性についてのチョムスキーについての言及なのですが、チョムスキーが人間尾尊厳の根拠性としての創造性と呼ぶものは、ハイデガーにとっては、言葉です。木田さんは、存在より言葉が先にあるというハイデガーの視点を、後の構造主義や反ヒューマニズム哲学の萌芽と見るのですが、私にとっては、この木田さんの見方に反する、finalventさんの着眼のほうが興味深かったです。後期ハイデガーについて、こう書かれています。

むしろ民族言語という経験=歴史の、人(現存在)への優位という奇っ怪なイデーが存在したのだろう。つまり〈存在の生起〉は民族言語として意識化された言語の内部から発生する。
 そこにある意味でファイナルな問題が存在する。それは小林秀雄の『本居宣長』(参照)のテーマである。後期ハイデガーと本居宣長の奇妙な連携のようなものも見えてくる。
[書評]反哲学入門(木田元)- 極東ブログ

 これを読んで、本居とハイデガーが突然つながったような不思議な感覚を持ちました。人間とは言葉である仮定とすると、人間とは何かという問いは、結局、言葉とは何かという問いにつながり、その言葉は、当然、民族言語であるので、本居になり、ハイデガーになり、そして、チョムスキーになるわけですね。それは、ある種の必然のように感じました。

 そこで、柄谷さんは「命懸けの飛躍」とか「他者」という概念にこだわること、つまり、そこにコミュニケーションという軸を置くことで、一般的にハイデガー問題と言われる必然を乗り越えようとしたのかもしれません。そういえば、柄谷さんは小林秀雄にも本居にもこだわっていたなと思い出しました。あまり詳しくないけれど、ポストモダン思想というのは、そうした民族言語といわれるようなオリジンに対して、その上の構造を見る営為だったような気がします。

 言葉によって、すべてを了解していこうという態度の医学的な試みが、実存分析だったのでしょう。その、存在の根源である民族言語をベースにする科学的な物語を終わらせるという情熱が、もしかすると脳科学の急速な発展を即したのかもしれないと思いました。そして、精神分析という物語はゆっくり終わっていくのかもしれません。

 物語の終焉ということが言われてずいぶん経ちますが、その大きな物語の終焉後によみがえっているような気がする、奇妙な物語が少し気になります。それは、もしかすると後期ハイデガー的な、本居的な物語の現代的な形なのかもしれません。期せずして、人間とは言葉かもしれない、と書いた私も、その現象のひとつの現れかもしれません。

 なんとなくですが、こういう広告みたいな商売をしている実感として、コミュニケーション学という科学が解析するコミュニケーションの法則みたいなものの進化が一方であり、その思想が支配的な環境でいる中で、実感として、でも、コミュニケーションというのは個人的な表現如何によってどうにでもなるという実際の経験則の中で、やはりなお解けない言葉というか心の問題みたいなものが、ちいさな声として気になり続けるというか、そんな感じがあります。(その感覚が、そういえば、実存分析のその後はどうなっているんだろうという興味につながりました。)

 そうした問題意識を突き詰めていくと、きっと、日本語という民族言語に行き着くだろうけれど、そうではなくて、たとえば、同じコードである日本語でのコミュニケーションにおいてもなお不可能性を見せる、コミュニケーション=交通というものを主軸と置いた場合の、手段としての言葉を捨象したときに残る存在が、その存在の前提である非対称性を担保しているのもまた、日本語という民族言語であるという堂々巡りは、やっぱり人間には感覚的に耐えられない感じがあるんだろうなと。それが哲学というものなんだろうけど。

 そして、こういう問題に対しての突き抜けた思考で、あちら側に行くことを寸止めで踏みとどまるためには、詩人というスタンスしかあり得ないのではないかと思いました。このところ、ああ吉本隆明さんは詩人なんだな、という思いとどこかでつながるような気がします。そして、フーコーも詩人だったような気もします。なんとなく感覚的な言葉だけど。やっぱり基礎がないから、なんかわけわかんないエントリになりました。慰みっぽいけど、まあいいや。好きでやってるブログだしね。ではでは。

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2008年2月20日 (水)

アダプテーションの難しさ。

 外資系広告代理店のクリエイティブが避けては通れない仕事。それは、海外広告の日本版制作。アダプテーションと言います。Adaptationは適用という意味の英語ですが、改作や脚色という意味もあり、その改作、脚色から来ているのでしょうね。アダプテと略して呼ぶことが多いです。使用例は、こんな感じ。

 「またアダプテかよ、かんべんしてよぉ。もぅ。」

 そうなんです。ここだけの話ですが(って、ネットなので公開されていますが)、アダプテはクリエイターにとってはできれば避けて通りたい仕事なんですよね。だって、海の向こうのクリエーターさんがつくった広告を翻訳するだけなんですよね。クリエーターなら、もとからつくりたいじゃないですか。

 クリエーターも人間だから、できればアイデアも自分で考えたいし、撮影もしたい。つまり、オリジナルをつくりたい。それは、得意先のブランドマネージャーも気持ちは同じで、オリジナルつくりましょうよ、なんて話しあったりたりしますが、グローバル企業の場合、そうもいかないことも多いですね。それに、世界ブランドの場合、日本だけ違う広告というのは許されませんし、ブランド的には同じであるべき。所謂、グローバリゼーションというやつですね。

 やるからにはいいものをつくらなくちゃいけないんですが、これがまた、案外難しいのです。難しいのは、特にコピーというか、ほぼコピーの日本語化です。アダプテは、コピーライターが苦労するんですね。Think differentみたいな、日本人にもわかるコピーの場合はそのままでもいいのですが、わりと英語の言葉遊びとか、英語圏の文化を背景にしたコピーが多く、日本人にとってはちんぷんかんぷんなコピーもままあるわけです。

 私の仕事ではありませんが、インテルの「Intel inside.」というコピー。このコピーは英語のままでも、もしかすると伝わるかもしれませんが。でも、これは、うまく日本語化ましたよね。「インテル、はいってる。」ですものね。かなりすぐれたアダプテーションです。拍手喝采ものです。このコピーが世の中に出たとき、うわっ、見事なもんだなあ、と感心しました。

 オリジナルのアイデアは海の向こうのクリエーターさんなので、こんなに見事な仕事をしても、日本でアダプテしているクリエーターさんは、まわりからあまりほめられないんですよね。まあねえ、ほめられるために仕事をしているわけではないけれど、なんかアダプテは苦労のわりに報われない仕事と言うかね。もちろん、それが広告として日本市場で役割をきちんと果たすことが目的だから、そんな甘いこと言ってはいられないんですけどね。

 私の仕事で言えば、少し前の仕事ですが、某マネジメント・ソフトウェア・ベンダー企業のブランド広告。そのコピーが「The Software  Manages e-Business.」というもの。訳すと、「私たちのソフトウェアはeビジネスをマネージしています。」というふうになりそうですが、そうではなくて、英語的にはtheが重要なんですね。つまり、「本当の意味でのeビジネスをマネージしているのは、私たちのソフトウェアだけです。」みたいな意味になるのです。うーん、困りました。あまりいいコピーでもないし。

 私はどうしたかというと、意味を汲んで別のコピーを書きました。「さあ、次のeビジネスへ。」というコピーです。レトリック自体は、まあたいしたことはないですが、本社へ説明するための企画書を書くのがたいへんでした。こういう場合、直訳で勝負するより、意訳のほうがうまくいきます。インテルみたいにうまくいくケースばかりではないですから。

 ボディコピーやナレーションなんかも、直訳ではうまくいかない場合が多いです。特に広告はレトリックを多めに使って、華麗な文章を書きますから。その際は、まずは意味を理解して、それを頭に叩き込んで、その書いた海の向こうのコピーライターが日本語を使うとしたらこう書く、というふうに書きます。原文をアダプテするのではなくて、書いた人の意識をアダプテするんです。憑依ですね。

 この仕事は、けっこう苦労しましたが、それをきっかけに日本市場でのオリジナルのキャンペーンをいくつも作らせていただいて、広告賞もたくさんいただいたりして、私のキャリアにとってはかけがえのない仕事のひとつになりました。外資系広告会社のクリエーターのみなさん、アダプテがんばりましょうね。こういうこともありますし、特に若い人はアダプテで鍛えられますから。それに、こういうのを確実にやるのは、プロっぽくて好ましい感じですしね。

 広告でも翻訳がこんなに難しいのに、文学なんかはでは、きっと母国語の持つ微妙なニュアンスはなかなか伝えられないんだろうなと思います。原文で文学を読んだことはないので本当のところはわかりませんが。

 昔、柄谷行人さんが日本語で書いたテキストを英語に訳して、その英語を日本語に訳し直し、2つの日本語のテキストを比較するというめんどくさいことをしていましたが、かなり違ってくるんですよね。コミュニケーションの不可能性を実証するために、この実験をされていたように記憶していますが、じつは簡単に見える異文化のコミュニケーションが、こんな一例でもいかに難しいかがわかります。柄谷さん曰く、「コミュニケーション(交通)は、命懸けの飛躍」というやつですね。

 そんなことから考えると、人間というものは、そうそう簡単にわかりあえるものではないからこそ、わかりあおうとするんだろうなと思うんですね。インタラクションとは何か、みたいなことを考えていて、その暫定的な結論として、人間の非対称性に起因する不可能性からくるズレみたいなもの、というふうに考えたのですが、固有の人間の人生とか環境とかが持つ異文化が交流するといいうのがコミュニケーションの本質だとすると、その主たる手段である言葉は、人間そのものかもしれません。

 ちょっと禅問答モードに入ってきそうなので、本日はこのへんで。この先を続けると、知恵熱出そうだしね。ではでは。

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2008年2月19日 (火)

写研フォントが好きな人って、まだまだいるんだなあ。うれしい。

 まあ、私のニックネームはmb101boldなので、あれですが(わかる人にはわかりますよね)。何を隠そう、私も写研のフォントが大好きです。前回のエントリ「写研フォントを使わなくなって、もうずいぶんたちます。」のはてなブックマークを眺めていて(参照)、世の中には写研が好きな人がまだまだいるもんだなあ、とちょっと感動。いいですよね、写研。

 こんな機会でもなければ、写研についてまとめたりしないし、せっかくなんで、 今回は、はてなブックマークのコメントで気になったところについて書きながら、写研についてまとめてみたいと思います。

 

>あ、まだ写研さんフォントデジタルで使わせてくれないんだ。

 そうなんですよね。写研はまだデジタルフォント化していません。噂も聞きませんので、これからもしばらくはなさそうです。その昔、アドビは、DTPソフトに写研の書体を入れたくて写研に打診したそうですが、断られたそうです。で、モリサワのフォントを起用。そんなこともあって、一頃は、広告コピーのフォントがmb101とか、新ゴとか、リュウミンばかりになりました。今でこそ、多くの選択肢がありますが、当時は、マック標準のゴシックであるOsakaと、標準の明朝であるKyotoと合わせて、日本語は5種類しかなかったんですね。新ゴもリュウミンも使い方次第で活きる書体ですが、いかんせん独特の癖がありました。新ゴは明るすぎて、リュウミンははらいが鋭すぎる。マックの日本語OSが漢字Talkと呼ばれていた頃です。

 有名な話ですが、新ゴは、写研のゴナに似ているということで裁判になりました。でも、結局は写研の主張は認められなかったようです。ゴナと新ゴは、似ているけど違いますものね。方向性によって善し悪しがありますが、ゴナの方が上品。広告ではあまり使いませんが、私は個人的にはゴナの方が好きです。書体としての完成度も高いですし。モリサワのツデイもなかなかいいのですが、なぜだか新ゴは苦手です。

参考:写研 - Wikipedia
参考:コラムDTPと写研フォント – desining.info

 ちなみに、私のニックネームで使わせていただいているmb101boldは、石井太ゴシック(BGAKL)などの対抗馬としてモリサワが出した見出し用ゴシックで、非常にモダンで力強いゴシックフォントです。当時から大人気でした。写植時代は、わざわざ石井太ゴではなく、あえてこのmb101boldを発注するデザイナーも多かったですね。この書体の唯一の欠点は、駄目なコピーでもmb101boldで打つといいコピーに見えてしまうこと。ほんと、広告っぽいいい書体です。

 

>個人的にはゴシック4550が鉄道駅から消えていくことに悲しさを感じる。

 ゴシック4550は、営団地下鉄大手町駅のサイン計画のために開発された書体だそうですね。昔、MS office4.1〜4.3にバンドルされていたそうですが、今は入手が困難とのことです。首都高や阪神高速では写研のゴナが現役ですね。NEXCO系は道路公団標準文字(通称:公団フォント)と言われるもので、違うそうです。あと、街の標識がどんどん新ゴや他の書体に変わってきていますね。ちょっとさみしいです。

参考:さよなら「ゴシック4550」 - Peanuts Butter Sea

 

>私が写植打ってた会社はモリサワのしかなくて、写研は憧れでした。

 私はキャリアを大阪で始めましたので、モリサワ王国でした。けれども、私がはじめにいた会社はロゴマークやタイポグラフィを制作するベーシックデザイン会社だったので、写研の写植機がありました。暗室もあったし、アロマテック(カラーカンプを作るための色のシート。熱で圧着すると黒い部分だけシールになる)もありました。懐かしいですね。私は当時はCIプランナーでしたが、アロマテックが妙に得意でした。

 

>いい話をするなぁ。と思えるのは自分とはまったく縁のない世界だからだろうな。

 私も、写研のことを書いても誰も読まないだろうなと思っていました。そんでもって、いつもこの手のデザイン業界昔話を書いてもあまり読まれなくてさみしいのですが、今回は違いました。さすが写研ですね。今見ても写研の書体は美しいと思います。古くならないのが不思議。

 

>blogを拝見するとCSSにfont-family: "MS Pゴシック", "Osaka", "ヒラギノ角ゴ Pro W3", arial, helvetica, san-serif;とあるので、私の環境ではMS Pゴシックで表示されています。

 私のココログはベーシックプランなので、CSSを書き直せないのですね。先のブラウザによる違いは、ブラウザの基本書体の選択による違いのようです。最近のディスプレイは解像度が高いので文字が小さいですね。OS9のPowerBookからMacBookに変えた当初は、文字ちっちゃっ、と思いました。でも、最近は慣れてきましたが。

 

>アウトライン化するサービスって写研がやってるの?

 いえ、書体アウトラインサービス業者さんが運営されています。ひと文字いくらで販売していますので、広告で使う場合は、文字数が多くなるのでけっこう高額になってしまいます。たったこれだけのことでも、広告の現場では、よほどの必然がなければ写研のフォントは使いにくい状況になってしまいます。悲しいけれど、それが現実です。写研はウェブサイトもありませんし、いまやネットでは情報は得にくいですね。

 フォントの商用利用については、写植と同様、印刷所や写植屋さんが使用許諾を持っていますので、写植を購入することで使用することができます。アウトラインサービスは、これまでの写植プラス、アウトライン化(画像化)のサービスですので同様です。話はそれますが、フリーのデジタルフォントの場合でも、商用利用は許諾されていないものがありますので、その際は別途契約をしなければいけません。ポスプロでもこのへんはかなり周知徹底されています。

 今や、完全に文字のサイズはポイントですが、昔はQ数でした。マックが出だしの頃は、Q数を計算機でポイント換算して入力していました。ちなみに歯送りはHです。そういえば、書体の見本帳って、今のデザイナーさんは持っているんでしょうか。あと、下敷きみたいな透明シートでできたQ数表とか、ロットリングとか、デバイダーとか。

参考:Google「写研 アウトライン」で検索

 

 それにしても、写研のことなんか意識したの、何年ぶりだろう。ひさしぶりに広告に写研のフォントを使ってみようかな。でも、若いデザイナーに写研って何ですか、なんて言われそうですね。そういえば、写研の広告は、浅葉克己さんが制作されていますよね。あの広告シリーズ、けっこう好きでした。俺が出て、俺が書き、俺がデザインする、みたいな。あっ、話が脱線してしまいましたね。ではでは。

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2008年2月17日 (日)

写研フォントを使わなくなって、もうずいぶんたちます。

Safari_3Fairefox

Opera_3

 新しいパソコン(MacBookの黒)を買って、気づいたことがあります。お粗末な気づきでここに書くのもか っこわるい話なんですが、ブログのフォントは見る側のブラウザやパソコンにある程度依存するんですよね。たとえば、当ブログだと、Safari(左)とFireFox(中)とOpera(右)では違います。微妙な違いですが、クリックすると拡大画面が出ますので比較してみてください。閲覧する方が設定を変えることで好きなフォントで表示させることも可能ですが、発信側ではコントロールできにくいようです。

 広告について言えば、広告デザインの基本は文字組であると言っても過言ではないくらい、フォントをコントロールする傾向があって、例えば、フォントの選択、字間、行間の設定から始まって、ひと文字ひと文字のプロポーションを考えて、精密に組んでいきます。

 昔だと、写植を打って、それをひと文字ずつカッターナイフで切ってバラして、それを台紙にもう一度貼り直して、三角定規やピンセットを使って微調整をしたりしていました。今は、Illustratorのカーニング機能を使って調整します。一頃前は、文字を詰めるデザインが流行していましたが、今は字間も行間も緩くとるのが流行していますね。時代なんでしょうね。

 文字のデザインセンスがあるアートディレクターは、いいですよね。信用できます。いまのアートディレクターは写植時代を体験していないので文字組は下手になる、なんて思っていましたが、最近はそうでもないようです。それは、テクノロジーが進化して、アートディレクターの深いこだわりにハード、ソフトが応えられるようになったからなのでしょうね。

 写植時代、よく使ったフォントは写研のものでした。明朝だと、「石井中明朝オールドタイプ」とか。我々は、MM-A-OKLとコードネームで呼んでいました(タショニムコードと呼ばれるものです)。非常に上品で美しい明朝体で、広告では人気があった書体です。その対抗馬としては、モリサワのA1という明朝体があり、写植機はモリサワのものが多かったこともあって、こちらを代用とすることも多かったようです。

 一頃、広告ポスターのキャッチフレーズは、どれを見ても「A1・太らせ・あま焼き・字間あけ」だったような感じでした。A1を写植のレンズで太らせて、すこしピントをぼかして甘く印字してもらい、それを字間をあけ気味に組むという意味です。モリサワの書体は、写研に比べると現代的で押し出しが強いので、それもA1が一世風靡した要因であるかもしれません。

 そして、時代はデジタルへ。マックがデザイン業界に普及し始めた頃、写研は、広告業界のデジタル化に抗ったんですよね。写植業者さんを守るという使命から、デジタルフォント化を拒んだというふうに聞きます。皮肉にも、それをきっかけにして、写研はシェアを急速に失っていきます。

 未だに、雑誌なんかでは写研フォントを見かけたりしますが、やっぱり美しいなあと思います。特にひらがな。手動で組むとこを前提に作られていますから、「し」とか「と」はほぼ半角分くらいの幅しかないんですね。ひらがな本来のプロポーションをデザイン化しているので、見た目が自然なんですね。ゴシックも同様のプロポーションで設計されていて、きれいです。

 DTPでは、当時、こうした処理は難しく、等幅もしくは等幅に近いフォントでなければいけなかったんですね。今や、これだけテクノロジーが進んだわけだし、写研のフォントがデジタルで使えればいいのですが。需要はあると思うんですよね。どうなんでしょうね。そういう計画はあるのでしょうか。今は、どうしても写研を使いたい場合は、アウトライン化して届けてくれるサービスを利用しています。

 写研についていろいろなサイトを見てみると、こんなブログに出会いました。sugiyaさんという方が運営されている「Walk in Osaka」です。『モリサワの「A1明朝」と写研の「石井中明朝体オールドスタイル」』というエントリーを懐かしく読みました。当時のMM-A-OKLの書体見本も掲載されています。

 sugiyaさんは「モダン・ジャズの日々/ビバップからハード・バップへ」というジャズブログも運営されています。写植屋さん出身のWeb制作者さんだけあって、美しくて読みやすいブログです。興味がある方はご覧になってください。

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2008年2月16日 (土)

「格好悪いけど正しい判断ができるのは、えらいことだよ」

 シリコンバレーがどんなところなのかはわからないけれど、そうか、そんな側面もあるのかと思いました。はてなの社外取締役でもある梅田望夫さんは、ブログ「My Life Between Silicon Valley and Japan」の中でこうお書きになっています。

以前も書いたように、近藤はこの地で本当に一生懸命生きた。しかもとてもユニークなやり方で。それを目の当たりにしていた僕も大いに刺激を受けた。むろんまだ彼はその成果を成功に結びつけることができていない。でも何かをつかんだのだろうと僕は信じる。

 そして、はてなの近藤さんは「自ら陣頭指揮して京都でものづくりに専心する」(参照)と決心されます。広告屋の私に知り得ない意味が、シリコンバレーに進出するという行為にはあったんだと思うし、それは、梅田さんが近藤さんにかけた言葉「格好悪いけど正しい判断ができるのは、えらいことだよ」という言葉に表現されています。

 こういう個人のドラマは、それを想像してメタレベル的にエントリに起こして書くのは野暮だとも思うけど、この言葉は、野暮になっても、私の個人のドラマにも関わってくるような気がしたので、どうしても書きたくなりました。

 広告屋にとって、今の時代は夢のない時代だと思います。とりわけ、旧来型のコミッションビジネスをしている私のような広告屋にとっては。そんな中でも、ときおりこれは「格好いい」かもと思えるようなトレンドもあったりしました。それは、クリエイティブ・エージェンシーとかホットショップとか言われるトレンドですね。

 クリエイティブやプランニング、つまり広告を制作する側が中心になって、小規模の広告会社を持つというスタイルで、媒体コミッションではなく、フィーを中心とした収益モデルで食っていくという流れです。アメリカでは、そんなクリエイティブ・エージェンシーができて、大手の巨大広告会社のアカウントを次々と奪っていきました。それは極東の私から見ると、憧れそのものでした。

 私は、そういう流れに乗ろうかなと思える機会が何回かありました。しかし、私は結果としてその流れに乗りませんでした。それは、今思うと、自分のキャリアとか力量とか今の仕事の責任とか、そんなこんなのタイミングが合わなかったからかもしれません。それに、私の中の、日本の広告業界の構造と欧米の広告業界の構造の違いを分析しての大人の判断もあったと思います。

 こういうことを書くと、あるパターンのようなものが読めるんじゃないかと思うんですね。クリエイティブ・エージェンシーってまだまだ日本じゃ無理。だって、日本じゃフィーは根付いていないしね。いまの多くのクリエイティブ・エージェンシーは成功してないしさ。でも、そういう感じは私は苦手で嫌い。だから、心のどこかでそれに乗らなかった自分を情けなく思い続けているんですね。

 「格好悪いけど正しい判断ができるのは、えらいことだよ」

 私の場合は、そのときは、それが正しい判断であるということころまで突き詰めてはいなかったけれど、私も、この言葉にすごく勇気づけられるような気がしました。今自分ができること、やるべきことをきちんとやっていこうと思いました。そう思うと、いまやらなくちゃいけないことはたくさんある。そうした中で、判断をしないといけないときが来れば、格好いいとか、格好悪いとかに関係なく、正しい判断をして、駒を進めようと思います。

 さあ、がんばらなくちゃね。

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2008年2月15日 (金)

はてなが本社機能を京都に戻すとのこと。がんばれ、はてな。

 はてなのkawasakiさんのブログ「kawasakiのはてなダイアリー」で知りました。本社機能、開発拠点を京都に置き、営業拠点はこれまでどおり東京にオフィスを置くとのこと。私はなんとなくですが、はてなが成功するかどうかが、この国の何かを決定づけるような気がしていて(ちょっと偉そうかつ大げさですが)、そういう意味で、今回の決定を、そうか、はてならしい決定だなあと受け止めています。

 はてなには、ブログをすこし深めに運営している多くの人が、ちょっとひとこと言ってみたいと思わせる何かがあって、それは礼賛だったり、批判だったり、いろいろですが、そんなふうに思わせるウェブサービスは他にはありまりないような気がします。つまり、はてなはいい意味でも悪い意味でも、今のウェブの可能性を体現しているのだと思います。

 私は熱心なはてなユーザではないし、そんな私が書くことなど底が知れているとも思いますが、そんなあっさり目線で見たはてなも少しは意義はあるかなと思うので書いてみます。私がはてなを知ったのは最近です。もちろん、「へんな会社」として知ってはいましたが、それは一般常識程度でした。その頃は、ソーシャルブックマークというものもあまりよくわからず、いつの日だったか、ココログのアクセス解析を見るとb.hatenaというのが多い日があり、これは何だろうなんて思ったのがきっかけでした。

 で、そのリンクを辿っていくと、私のエントリの記事に対しての感想が書き込まれているページがあって、そのページにはすごくあっさりしたコミットメントだけれど、そうであるがゆえに今までのコメント欄や掲示板とは違う質のコミュニケーションが成立していました。私にとっては、それがすごく新鮮で楽しく、こんなエントリを書いたりしました。

●ブログのさみしさ。

●「はてな」のこと少しわかってきた。

●それでも「はてな」はいいと思うんだけど。

 それから、私も私なりにウェブのいろいろを見たりして、こんなエントリを書いたりもしました。今、思うに、このエントリを書いたことで、エントリに対しての様々な反応というものを知ることができたし、コミュニケーションの難しさも実感しました。あえて本音を書くと、しばらくの間、このエントリは自分で見るのも嫌な時期があったし、正直、この一連のエントリの時期は恐怖感も感じました。

●技術的に可能かどうかはわかりませんが、もうそろそろ「はてなブックマーク」に、自分のサイトをブックマークされないようにする機能を実装してもいいのかもしれないですね。

●推奨しているわけでは決してなくて、お嫌な人には拒否する権利はあってもいいのかな、ということなんです。

●そりゃまあ、しゃあないわな。

 私は広告屋さんなので、わりと論議には慣れている方だと思うし(現実のもめている会議はもっとひどい)、自分でも図太いところがあると思うし、他の人からもそう見られているでしょうから、あえて本音を書いてみました。たった、39usersやそこらで、と言われるかもしれませんし、そんなにたいしたことじゃないじゃないと思われるかもしれませんが、これくらいのことでも初心者にとっては十分きついと思います。でも、そうした中で、自分が本当は何が言いたかったのかも整理されたし、私の言いたいことを理解してくださる人もいて、批判された人の言葉によって、私の中のあいまいな部分を気付かせてくれたりもしました。

 これからブログを始めようと思っている人がこれを読んだとしたら、なるだけこういうことをポジティブに考えてほしいんです。きっと恐怖心はあると思うんです。でも、それは、みんなあるんです。あなただけではないんです。私は、ブログをやる人すべてが、批判上等という倫理を身につけるべきとは考えません。ウェブが大衆化しているのだから、倫理も多様であっていいんじゃないか、と思います。

 でも、これだけは言えるかもです。自分が間違ってると思ったら、素直に間違っていることを認めればいいし、そう思わないのであれば、私はこう思うと言えばいいんです。そして、みんな瞬間、怖いと思ってしまう。それは当たり前だということを知っていてください。人間だから。それだけでずいぶん見えてくる景色が違うから。それは、これからブログに参入してくる人に言いたかったです。

 いまもWeb2.0的なサービスが、それ自身の成長の中で、抑制的な機能を身につけていくことがWeb2.0の成熟であるという思いはあります。私は、技術者ではないので、社会論とのアナロジーとしてしか言えませんが。

 かなり話が脱線してしまいましたが、はてなは、そんなWeb2.0のいろんな部分を、小さいながらも持っていて、そこが私は、今もなお新しいと思うんですね。この人たちは、いったいどんなことを考えているのだろうと興味を持ってしまうんですね。リアルで、そんなお話をお聞きする機会もあって、いちおうニックネームで運営していますので、詳しくは書きませんが、そのときも私にとってはとても刺激的でした。生活の必需品のようなサービスの開発、期待しています。

 ネットという距離を超えるシステムを手に入れたにもかかわらず、世の中がどんどん東京一極集中化している今、あえて京都に戻るはてなは格好いいなと思います。何よりはてならしいですよね。そして、関西人としては、はてなの外見をあまり気にしない、いい意味の「だささ」も信じられるんですよね。インターフェイスがいつまでも垢抜けない感じ。それは、一周回っていけてたりするんですよね。関西気質を感じます。

 はてなというウェブサービスについて考えるとき、いつも、これからの収益システムのことに思いが向かうんですよね。私もいちおう広告屋なので、ついつい広告モデルを考えてしまうし、現実は、やはり広告モデルに多くを依存する現実もあるでしょうが、なにかまったく新しい収益モデルを生み出すのかもしれないな、という期待もあるんです。広告屋なのに、そんなこと言っていいのかどうかは微妙ですが。

 そして、また同時に、広告屋としては、はてなを舞台に何かまったく新しい広告コミュニケーションを生み出したいなとも思うんです。でも、はてなのロイヤルユーザさんたち、厳しい人も多いからなあ。よっぽどのものでないと納得してくれないんだろうなとも思います。ま、そのうちひっそりと何かやるかもしれません。その折には、kawasakiさん、よろしくお願いしますね。

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2008年2月14日 (木)

「しょこたん☆ぶろぐ」のココが好き。

 しょこたんこと中川翔子さんのブログが、累計10億アクセス突破とのことで。おめでとうございまっくす♪あっ、これはブログ違い。そんなとこはどうでもいいとして、いつから始めたのかなあ、なんて思って調べてみると、2003年10月26日が初エントリ。どんなこと書いてるのかな、と見てみると、

きねんすべき第一発目

これから成田をとびたちまーす。詳細はのちほど

「しょこたん☆ぶろぐ」2003年10月26日

 短かっ。

 しょこたんさんは、私の中ではとっても気になるタレントさんの一人で、このブログでも何度か言及してきました。といっても本格的な言及ではないけれどね。一番下に暴想さん作のブログ内検索窓「ココログ最強検索」を置いていますので、気になる方は検索してくださいな。

 しょこたんさんのブログは、私もちょくちょく見ています。なんというか文章のノリがいいんですよね。しょこたん言葉という特徴はありますが、それを除いても、着眼点や発想がすこやかな感じが私にはするんですよね。読んでいて気持ちいいんです。しょこたんさん、今日もすこやかすなあ、なんて思いながら読んでいます。

 私がしょこたんさんのブログの書き方で好きなところがひとつあって、それはこんなところ。

よく小さいころから行ってたから小さいころはみちこちゃんと鬼ごっこしたり吐いたりしてた…懐かしい

伊勢丹いこーメグロックちゃん(^ω^)

〓しょうこ〓

「しょこたん☆ぶろぐ」2008年2月13日

 この引用の中の「〓しょうこ〓」の部分。しょこたんと書かないところが、いいんですよね。この「〓しょうこ〓」で、このブログがすごくいい感じになっていると思います。「しょこたん」と言われるアイドルが「しょこたん☆ぶろぐ」を書いているのではなく、「しょこたん」と言われるアイドルの「中の人」が「しょこたん☆ぶろぐ」に書いている感じが出ているんです。

 この人はけっこう頭のいい人のような気がします。NHKの「BSマンガ夜話」や「ケータイ大喜利」に出演されているときのコメントでもそうですが、きちんと自分を客観視した上で、しょこたんを自然に演じていて、しかもそのしょこたんというキャラクターと素の自分とのバランスをうまくとっている。だから、しょこたん言葉を使っても破れかぶれな感じがしないんですよね。

 しょこたんさんは、もう少し年をとったら深夜ラジオのパーソナリティーに挑戦してほしいな、なんて思います。深夜1時の枠。TBSのJUNKとか、ニッポン放送のオールナイトニッポンとか。いいと思うんですよね。けっこういいラジオ番組ができると思うんですよね。中島みゆきみたいな感じになるのかなあ、なんて勝手に想像してみたり。きっと、松田聖子さんの曲ばっかりかけるんでしょうね。

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2008年2月13日 (水)

やらなくてもわかることはあるけれど、やってみないとわからないこともありますね。

 やってみないとわからないことばかりだと、広告屋という商売なんてしんどくてできません。高級外車は持ってないけど、高級外車の広告を作ってきましたし、超高層マンションに住んでいなくても、超高層マンションの広告は作れます。人間には想像力という便利なものがありますから。

 でも、やってみないとわからないこともあるにはあります。

 3年ほど前のこと。何の気の迷いか、髪の毛を肩まで伸ばしていたことがありました。ゴムで束ねて、ちょっと前の笑い飯西田さんのような感じ。だいぶ前だと越前屋俵太さんのような感じです。

 長い髪で、お風呂に入りますよね。髪の毛を洗いますよね。ものすごくしんどいんです。やたらめったら面倒なんです。でも、激しくすると髪を傷めてしまいますから、両の手のひらを合わせて、髪をもみもみやんですね。やさしくやさしく、もみもみもみ。

 私、どちらかというと、男たるもの石鹸で洗うべし、みたいな感じでした。リンス?それ何のために使うわけ、みたいなこと思ってました。でも、髪が長いと、リンスの有り難みが痛いほどわかるんです。リンスなしではどうしようもないわけです。シャンプーだけだと、髪がガビガビ。クシが通らないんですね。

 いままで理屈では、女性のヘアケアの気持ちとかこだわりをわかったつもりでいたけれど、そのとき、へえ、こんな感じなんだなあ、とすごく実感。なるほどなあ、やってみないとわからないことも確かにあるんだよなあ、なんて思った次第です。

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2008年2月11日 (月)

祝日は世間を知る日。

 午後6時のテレビ。ニュース番組を見ていたら、石原良純さんが天気を伝えていました。そう言えば、石原良純さんは天気予報士の資格を持っていることは知っていたけど、天気を伝える姿を見るのは初めてかもしれません。

 灯台下暗しとはよく言ったもので、テレビに関わる人は、あまりオンタイムではテレビは見ていないというケースは多いと思います。私などもその口で、見るテレビと言えば深夜ばかり。それに、個人的にはAMラジオをよく聴くからなおさらです。

 普段の月曜日は、朝のニュースをちょこっと見て、夜の11時頃に帰宅して、夜のニュースを見て、テレビ東京の「きらきらアフロ」を見た後、ラジオで「伊集院光のJUNK」を聴いたりしています。つまり、それ以外の時間帯はテレビをまったく見ていないんですよね。

 今日はめずらしくテレビをつけっぱなしにしているので、いろいろ発見があります。そうか、ネプチューンって人気があるんだなあ、とか、ホリケンさんって変わらないなあ、とか、大食いタレントは、ギャル曽根さんだけじゃないんだなあ、とか、華があって元気なタレントさんたちに囲まれて、局の女子アナウンサーっていうのは絶妙な立ち位置にいるんだなあ、とか。どうでもいい発見ですけどね。

 今日は建国記念日だそうです。そんなテレビの喧噪の中、NHKでは各地で集会が開かれたことをニュースで伝えていました。建国記念日にあらためて、その意義を考えるのもひとつの世間だし、それぞれの人がそれぞれの生活で得たそれぞれの世間が集まってひとつの世間と言われるものを形作っているのでしょうから、世間というものは案外複雑でくせ者なのかもしれません。

 吉本隆明さんが大衆の原像ということをしきりにおっしゃっています。大雑把に言うならば、それは知性が覆いきれない世界の隙間みたいなもの、自分の中の知だけではどうにも充足できない何か、その自分の中の割り切れない何かが大衆の原像というもののようです。

 それは、それが語られた文脈で言えば、政党と啓蒙すべき大衆という構図に対する批判でもあるのですが、そういう構図が薄まってきた現在においても、大衆の原像はこの世の中に息づいているような気がします。それが、下町で買い物カゴを下げてうわさ話をするおばちゃんみたいなことは言えないけれど、それは多様化しただけで、原像としての大衆というのは、やっぱりある気はするんですね。それは、私の中の割り切れない何かでもあるし、それを言語化するのは難しいけれど、なにかしらつかめるような実体としてあるような気がします。

 この前、ひとつのテレビCMを作ったんですが、そのCMが流れると、わんわん泣いている赤ちゃんがへへへと笑うそうで、へえ、なるほどなあと思いました。なんとなく、それが吉本さんの言っている大衆の原像なんじゃないかな、と思ったりしました。それは、もしかすると誤解かもしれないけれど。それに、赤ちゃんのへへへじゃうまく言語化できないですし。まあ、言語化できてもそんな、赤ちゃんがへへへと笑う表現が大量生産できるわけじゃないんだけれど。

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2008年2月10日 (日)

昨日の雪がとけはじめたし、お出かけでもしましょうかね。

 3連休の中日は晴れました。私の場合は、週末にいろいろと仕事の課題を残して連休に突入してしまいましたので、ちょっぴり気が重いのですが、晴れたことだし、ちょっとお出かけでもしようかな、なんて思っております。

 雪が降ると、大阪育ちで東京暮らしの私は、ちょっと浮き浮きしてしまいます。このまま雪が続いて、外に出られないくらい積もったら面白いのになあ、なんて子供のようなことも考えてしまいます。雪国に暮らしている方にとっては、雪が日常でしょうから、そんな気分はないのでしょうが、1年に数回しかない雪は、やっぱりちょっぴりうれしい。窓を開けると、街が真っ白になっていて、美しいなあ、なんてぼけーっと見とれてしまいます。

 そういえば、だいぶん前にマンションの警報機が鳴り続けたことがあって、ふだん顔を合わせないマンションの住民がみんな外に出て、どうしたもんですかね、火事ではないみたいですよ、なんて話したことがあって、夜中だったので迷惑でもあったんですが、みんなどことなくうれしそうでした。結局、管理会社の人が来て、2時間後には鳴り止んだのですが、あまり怒っている人はいなかったですね。

 こういう些細な出来事から、人間の本性を論じると陳腐な結論しか出ないような気がしますからやめときますが、まああれですね。コミュニティとか社会とかについて、そんなに悲観しないでもいいような気もしますね。

 このところ、ビル・エバンスのことを考え続けています。このブログでも「永遠の三角形」という文章を地味に書き続けているのですが、そこにもうひとつ視点を加えるとすれば、人間の身体とか老いとかなのかもな、と思い始めました。YouTubeなんかでもエバンスの映像が数多く見られますが、「パリコンサート」の頃のエバンス、すごく楽しそうにピアノを弾いているんですよね。音だけを聴いていたら、生き急いでいるかのような疾走感というか焦燥感を感じるのですが、映像を見ると、また違った印象があり、そうかそういうことだったのかもと気付かされる点もあります。

 晩年のエバンスは、髭をたくわえ、大柄な感じがしますが、よく見るとやせ細っているんですよね。相当、体が悪かったそうです。ベースのマーク・ジョンソンが、病院に行ってくれと懇願したそうですが、エバンスはいやいいんだ、といつも答えていたそうです。あるインタビューで、これからの音楽の展望について聞かれて、エバンスは、でも、私がそんなに生きられると思うかい、と答えたそうです。

 いま、MacBookに手持ちのCDをiTuneに入れているのですが、そんな作業の中でキース・ジャレットを聴いていると、キースの場合は、エバンス以降ということもあるんですが、ずいぶん円熟している印象がします。キースも一時期、神懸かり的な感じがあり、これ以上行くと壊れてしまうんではないかとも思ったりしましたが、ご病気をされ、復活した後は、いい意味で落ち着いた演奏になりました。身体と精神の関係を思わされます。

 音楽も、言葉も、絵画も、写真も、映像も、その瞬間の表現を切り取って永遠にする作業だから、ついつい生身の表現者も永遠のように感じてしまいます。その感じ方は間違いではないし、芸術とはそのような永遠なのでしょうが、けれどもやはり、表現者は肉体を持った永遠ではない存在でもあって、永遠を作り続ける表現者にとって、永遠ではない自身の肉体との相関というか、矛盾というか、そんな部分をぼんやりと考えています。

 難しい領域なのかもしれないけれど、「永遠の三角形」のテーマである、理想的な三角形への追求とその挫折、あるいは、その追求の運動、みたいなものは、永遠ではない肉体を持つ表現者の、絶対的な矛盾の中にあるのかもしれないな、と思います。それを記述する試みは、当たり前の話ですが、批評という固有のジャンルだけができることなのかもしれません。表現のジャンルとして批評の独自性があるとすれば、そういう試みなのでしょうね、きっと。

 てな感じで、うだうだ考える毎日ですが、みなさまよい休日を。ではでは。

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2008年2月 9日 (土)

実名とか、匿名とか、オープンIDとか。

 このところネットでは実名匿名の話題が熱くなっているようです。ブログをはじめて間もない頃(といってもまだブログ歴8ヶ月ですが)、実名匿名関連のエントリを起こしたこともあって、そこからいろいろ考えたりしたりもして、その頃とは少し考え方が変わっているし、あとオープンIDという潮流もあったりして、エントリを起こした07年の8月頃とは少し、自分の考え方同様、世の中の空気も変わっているような気がします。

 私は、ブロガーではありますが、ネットにはそれほど詳しくありませんし(かといってまったく知らないわけはないですが)、このブログを読んでいただいている人の多くも私と同じだと思いますので、まずは、オープンIDとはどういうものなのかを引用してみます。いろいろ見てみましたが、はてなの記述がわかりやすかったので、はてなの「はてなでOpen ID」というページから一部引用します。

OpenIDとは、様々なサービスで共通して使用できるURL形式のID(アカウント)です。通常、サービスごとに別々のアカウントを取得したり、ログインするために別々のIDやパスワードを入力する必要がありますが、OpenIDは様々なサービスで共通の認証の仕組みとして、同じIDでログインすることができます。

 つまりは、オープンIDという仕組みを使うと、いろいろなウェブサービスが1つのIDで横断的に利用できるわけですね。これは、はてなの場合は、他のブログサービスに「はてなスター」を付加して、はてな会員以外の人にも使ってもらうみたいなことが実現できるようになるわけですね。はてなは、IDのもとにゆるやかにつながるコミュニケーションを指向するウェブサービスだと思いますので、そのオープンIDの機能を使えば、他のIDともつながりをもてることになるので、このウェブの指向性は、はてなのようなウェブ2.0的なサービスには親和性があるように思います。今や、ユーザ囲い込み戦略みたいな時代でもないでしょうし。

 このオープンIDは、ウェブは実名であるべきだという立場にとっても、すべてのウェブサービスをひとつのIDで利用するという意味合いでは、好ましい潮流であると捉えられるのかもしれません。様々なサービスを横断的に使うという意味において、そのIDの価値は実名に近づいていくでしょうから、段階的にはありだ、という感じでしょうね。

 一方、私を含めた多くの匿名(正しくはニックネームなんでしょうが)にとっても、その潮流は現状に近く、便利になるなあ、という感じなのではないでしょうか。私の場合も、ウェブサービスによってIDを使いわけていない(共通の文字列にしている)現実があり、どちらかというと現実の利用者の使い方をテクノロジーが追認するという印象を持っています。実際のところはあまり把握していませんが、あっさりウェブユーザの私には、そんな感じがします。

 例えば、mb101boldというニックネームは、実名の私と同義ではないけど、かなり現実の私に近い内容を持つ名前ではありますし、それなりに愛着もあります。であるので、ウェブ上での振る舞いも、私の場合は現実に近いものではあるのだと思いますし、別人格というわけでもないだろうなとは思うんですね。他の方々も程度の差こそあれ、そんな感じでしょう。

 というふうに整理してみると、時折論議されている、実名か匿名か、という論議を見ていて、時々何が問題であるかが分からなくなってしまうときが正直あるんですよね。個人の同一性が、本人の同意なしには明かされないけれども、最終的にはサービス提供会社が保持する情報によって担保されている匿名(多くの人はそうでしょう)と、ウェブと現実が同一の名前の実名とは、本人のウェブとのつきあい方の嗜好以外のどこに対立点があるんだろうなと思うんですよね。匿名のデメリットとは別の話であり、そのデメリットの解決の別の仕方があるような気がします。捨てIDなら、捨てIDの話に限定したほうがいいと思うのです。

 これは、前にエントリを書いたときから変わっていないですが、これだけ多くの普通の人たちがニックネームで楽しくやっているウェブの世界で、完全に明示された実名を強いるのは、やはり現実的ではないと思うし、違和感はあります。単純にすべてが実名明記になるウェブ環境は想像しにくい。それは、日本にいるからなんじゃないのと言われそうですが。それに、私自身、人のブログを読むときに本名を知りたいとも思わないし、小説だって、評論だって、その著者の戸籍上の本名を積極的に知りたいとも思わないですし。

 それに、ウェブで実名を強いてしまうと、ウェブは記録性が高いメディアだから、一度ウェブで失敗すると、その人は、もうウェブの世界に戻ってこれなくなる気がするんですね。むしろ、こちらの方が、ウェブがこれだけ大衆化した今、切実な問題だと思うんですね。

 匿名である権利の主張とか言論の自由という文脈ではなく、むしろ、ちょっとした炎上とかで止むなく閉鎖してしまうブロガーが二度とブログが書けなくなる、そんな環境にウェブがなってしまうことの懸念が私にはあります。これは、ネットを通して、いろいろな人と話をしてたどり着いた私の個人的な思いですが、何度も違う名前でやり直しながら、現実の自分とニックネームの折り合いがつくまでやり直せるシステムは、ウェブは担保しておいたほうがいいと思うんですね。

 ログとリンクで構成されているウェブの世界は、現実と近づいてきたと言えども、やはり現実とは世界が違うから。(でも、これは有名人かつ実名で、自分のブログが炎上した人はどうでもいいのかと言われそうですね。でもやっぱりこの問題も、広義の匿名に起因する問題ではなではないような気がするんです。ここでは触れませんが、匿名の問題というより、正義の問題のような気がします。)

 それと、この実名匿名の話題に触れるとき、私は個人的には、倫理の問題と環境の問題を分けて考えたいと思うんですね。言論は責任であり、責任は実名でなければならないというのは、ひとつの倫理であり、そのことは、ひとつの倫理的な態度としては、決して間違いではないと思います。また、逆に、属人論法によらずに、実名匿名関係なしに、論議は書かれた内容が問われるべきというのも、ひとつの倫理的な態度だと思います。また、書かれた内容が問われるならば、責任の主体としての実名を名乗るべきという論理も成り立つし、だからこそ、責任の主体という属人性は排除し、あくまで言論を見つめるべきという論理も成り立ちます。

 こうした倫理と倫理では、互いの倫理的態度を尊重するという倫理的態度が問われると私は個人的には思います。でも、倫理の問題は、この実名匿名の本当の問題なんだろうか、といつも思うんですね。アカデミズム的言論空間とウェブ2.0的言論空間。そのふたつの価値の優位性を競うことは、有意義ではあるとは思いますが、別の話題ではないかな、とは思うんですね。いや、違うという意見もあるかもしれませんが、私には、倫理の問題が、この実名匿名問題をわかりにくくしているような感じがします。

 実名匿名の問題というのは、本当はウェブ2.0的なサービスが提供する環境の問題のような気がするのです。アカデミズム的言論空間を目指すということであれば、ブログではある程度コントロールできるけれど、集合知的なウェブ2.0的サービスは、自分でコントロールできないんですよね。自分をターゲットにした他人の領域への嫌悪を、ひとつの倫理で笑うこともできると思いますが、でもこれを嫌悪するのはわかる気がするんです。で、それが嫌ならSNSというのは、私もかつてはそう考えていたけれど、それはひとつの倫理にすぎないんだろうなとも考えるようになりました。(でも、近い将来、嫌ならSNSということになるかもしれないとも思います。)

 ウェブ2.0が、そのいいところをもっともっと延ばしながら、そのサービスが嫌な人にも配慮した機能を自ら持つような成熟があればいいな、いろんな考えの人がニコニコできるようなウェブ環境になればいいなと私は思うんですね。論理的には破綻があるかもしれませんが、気分として少し息苦しい感じがあります。ウェブも社会であるならば、その気分は、ある一定の価値は持つとも思います。

 こうして書くと誤解されるかもしれませんが、私自身がそれほど異論反論があるような鋭角的な記事を書いていないこともあるかもしれませんし、どちらかというとウェブ2.0的価値を信じるほうなので、それほどコントロールできない領域を嫌悪しているわけではないですし、むしろ好感も感じています。それは世間というものの可視化だと思うし、そこから生まれる新しい価値もあるわけだし、バランスを取りながらいい関係でいたいなと思います。

 繰り返しになりますが、でもそれは、私の倫理的な態度にすぎないと思うんですね。それに、個人としては、いろいろな意味で、実名でもいいのではという思いもないとは言えないし、匿名ということに積極的な意味を見いだしているわけでもないし。でも、それは、所詮は私個人の問題。実名匿名問題が社会論のアナロジーだとすると、このいろいろな人が住む社会にだって、いろいろな倫理の人が生きていて、それなりの対立はあるにせよ、それなりの気遣いと棲み分けがあるわけだし、いろいろな問題を克服しながら、言葉は悪いですが、妥協的に成長しているわけだし。

 何を甘いことを、と言われるかもしれないけど、私はやっぱり、おじいさんも、おばあさんも、おにいさんも、おねえさんも、学者さんも、学生さんも、プログラマーも、マーケターも、クリエーターも、実名さんも、匿名希望さんも、gooも、はてなも、ココログも、お互いにゆるく配慮しながら、みんながそれなりに楽しくやれる環境がいいな、と思うんですよね。個別ではまだまだ問題がたくさんあるかもしれませんが、現実の社会だって、いろんな人が歩み寄って、それなりに楽しくやれているわけだし。ちょっとした会話をするのに、誰も名を名乗れと言われない現実もあるわけだし。実名匿名で提出されている課題を通して、みんなそれなりに納得できるいい知恵を、素人の私も含めてみんなで出し合える感じになればいいなと、今のところIDでブログを楽しむにとどまる普通の人の一人として思います。

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2008年2月 7日 (木)

静寂の次に美しいもの。

 The Most Beautiful Sound Next To Silence.

 マンフレート・アイヒャーが設立したジャズレーベル、ECMの広告コピー(企業スローガン)です。チック・コリアの「リターントゥフォーエバー」や、キース・ジャレットや「ケルンコンサート」などの名盤を次々と発表しました。このレーベルの特徴は、何と言ってもその音の良さです。中音域が厚く、滑らかで澄み切った音質は、ECMサウンドと言われています。

 ちなみに、直訳すると「静寂の次に最も美しい音。」というふうになるんですが、きっと日本語だと「静寂の次に美しいもの。」とするほうがいいんだろうなと思い、エントリーのタイトルは「静寂の次に美しいもの。」としました。というか、私は、このコピーを英語で見て以来、この日本語で覚えてしまったので、この訳のほうがしっくりきます。

 いいコピーですよね。芸術というものの本質がここにあるような気がします。静寂の美しさに迫るために、音を重ねていく。その逆説が、敬虔な感じがして、とても素敵です。漸近線的な芸術的追求をこれほど言い表した言葉は、なかなかないんじゃないかと思います。

 音楽にとって、本当の美とは何か。

 音楽にとって本当の美、それは静寂だよ。これは、本質を問う、あらゆる問いかけに対する最も正しい答えなんだろうなと思います。こういう答えを持っておくことは人間にとっては必要なのだろうな、そんなことを考えました。

 歴史を見ても、日常を見ても、人間って、本質を問うときに、最も傲慢に、かつ残酷になるような気がするから。


参考リンク:ECM公式ウェブサイト(英語) 、ECM@musicircus(ECMウェブサイトの日本語訳やECMについての詳しい解説があります)

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2008年2月 6日 (水)

ブログは仕事じゃないから

 書くことがなければ書かなくてもいい。というのが困ったもんで、そう思うともう二度と書けなくなってしまうんじゃないかと時々思います。生活習慣みたいなもんですから、三日坊主がいるんですね。隣で自分をじーっと見てるんですね。でも、ブログ、書けなくなると生活がちょっとさびしくなる気がするなあ。

 その点、仕事は納期があるし、お金という名の責任があるから、書くことがないとか関係なしに、書かなくちゃいけない、やらなくちゃいけない。やらないと人でなしになってしまうし、やれないとただの人になってしまうんですね。次の日、会社に行ってもただの人。仕事って、いいですよね。納期はアイデアの母です。

 自分は論理的だなんて思っていたけど、ブログをはじめて、自分は多分に情緒的なんだよなあって思います。要は気分ですね。インプットがたくさんあっても、やっぱり書けない気分のときはあるし、インプットがなくても書きたい気分のときもある。そんな自分の本性がわかるのが、ブログの良さかもしれないですね。自意識がむき出しになるというかね。まあ、論理に裏打ちされたクールで冷徹な文章にも自意識は垣間見えます。これは、文章というものが自己表出からは逃れられないからでしょうね。

 話は変わりますが、ルノワールっていいなあ。新しいノートを買ってから、よくルノワールにいきます。そこで仕事をしています。コーヒーのあとお茶が出るんですよね。今日もパソコン席が取れませんでした。電源があってパーテーションに区切られていて、すごく良さげなんですが、一度も座ったことがありません。いつか座ってみたいなあ。そんな感じの雪の日です。

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2008年2月 5日 (火)

プレゼンって何だろう。

 私は、なんだかんだでほぼ毎日プレゼンをしてるような感じで、あらためてプレゼントとは何かなんて考えたことがなかったんですが、前回のエントリでチャーリーさんからコメントをいただいて、おお、プレゼントは自分にとってはこういうことかも、と思いましたので、ちょっとそれを書いてみます。

 なんかすごくかっこ良かったので、チャーリーさんのコメントを引用しますね。

なにかをトライするよりも、なにかをしない、と決める方が生き方をクリアにすると信じてるので、小生は「プレゼンは受けません」とやせ我慢で行きます。
結構それでウマくいくものですから。

 詳しくは存じ上げないのですが、コメントから推測するに、きっとチャーリーさんは広告を出す側のお仕事をされているのだろうと思います。また、かつて広告会社にもいらっしゃったようで、双方を経験されているようです。コメントのお返事にも書きましたが、オリエンを受ける側からすると、なにかをしない、つまりうちのブランドはこうだから、こういうことはしません、みたいなオリエンはすごくありがたいのですね。ブランドなり企業なりが、何を信じて、何を大切にしているかがわかりますから。

 人間も同じですが、個性を育てるということは、無限の可能性を有限の可能性にしていくことですから、無限の可能性を求めるということは、つまり、私は個性はありませんと言うに等しく、何がしたいかだけを言うオリエンテーションでは、個性のない相手の表現をつくることになってしまい、広告制作者としては、ブランドや企業への敬意がもてないのですね。で、結果として、つくってプレゼンの反応を見て相手を知る、みたいな不毛なことになりがちなのです。これは、双方が消耗するやり方です。

 まあ、たいていの広告の実務はそんな感じかもしれませんが、そうじゃないプレゼンもあることにはありますし、そんないいプレゼンはどういうプレゼンなんだろう、ということをあらためて考えてみたんですね。

 私にとっては、プレゼンというのは、広告をつくる過程の思考プロセスをオープンにしていく行為なのかな、と思います。うまく説明できませんが、それは説得とはちょっと違って、この表現はこういう意味だからいいんです、みたいなことを説明するプレゼンはむしろ駄目なんですね。そうじゃなくて、表現はこれです。その表現をつくるにあたっては、私はこう考えました、みたいな感じです。自分の思考のストーリーを明かすというか、自分の頭の中のソースを開示するみたいな感じでしょうか。

 だから、私にとってプレゼンとは、説得の場でもなく、自己弁護の場でもなく、情報共有の場なんだと思います。すべてのプレゼンがそうとは言えない現実はありますが、いい関係の仕事におけるプレゼンはそんな感じです。双方の頭の中のソースががいい感じで共有されていると、その後のプロセスがすごくスムーズで建設的なような気がします。

 プレゼンが説得の場であるとき、案が否定されることは、説得に失敗したことを意味しますから、けっこうきついのですが、プレゼンが共有の場であれば、案が否定されたとしても、それはあまり大した出来事ではなくなるんですよね。これは、強がりで言っているわけではなくて、むしろ、相手の思考の共有からくる新たな気づきがありますから、こちらもこの案では駄目だと共感できますし、弁証法的な昇華という感じがするんです。

 かつて、プレゼンが苦手だった私がいかに苦手を克服したかということを書きましたが(参照)、それは、きっとキャリアを重ねるにつれて、そんなことに気づいたからかもしれません。もちろん、こういう共有の場としてのプレゼンは、競合コンペなんかでは通用しないかもしれませんが、それでも、今ある情報の中で、あなたのことをこう思いこう考えました、というプレゼンはできるし、そうしていきたいなとは思うんですね。説得は相手に煙たがられるかもしれませんが、あなたのことをこう思いましたと言って、嫌がる人はあまりいないんじゃないかとも思いますし。

 それをやって駄目だったら?まあ、それは、恋愛と同じであきらめるしかないでしょうね。縁がなかったという感じで。ではでは。

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2008年2月 3日 (日)

だけではありません禁止法

 これは広告コピーだけでなく、企画書の見出しなんかにも言えることかもしれませんが、ワンコピー・ワンメッセージが基本です。よく言われるたとえ話は、キャッチボールの話です。相手にひとつの球を投げると、相手はキャッチできますが、たくさんの球を投げると、相手は球を受けることができなくなってしまいます。

 とはいいつつ、広告の現実はそうもいかないことが多いですね。あれもいいたい、これもいいたい、というのが人情というもの。新しいテレビは、画面が大きく、画質が美しく、コンパクトで、デザインがいい。そんなオリエンテーションもあります。そんなとき、便利ないい回しがあります。

 それが、「だけではありません」という話法です。例えば、上記のテレビを例にコピーをつくると、こんな感じになるでしょうか。

 美しいだけではありません。
 画面が大きいだけではありません。
 小さいだけではありません。
 デザインだけではありません。

 とまあ、こんなふうに見たことあるなあ的なコピーが出来上がるわけです。これをベースに、かっこよさげなレトリックを加えると、なおよしです。

 美しいだけなら、他にもある。
 今の時代、画面が大きいだけで満足ですか。
 小さい。それだけで勝負できた時代が終わります。
 誇りたいのは、そのデザインだけではない。

 てな感じですね。結局何が言いたいの、と思わせて、ボディコピーを読ませるという作戦です。この「だけではありません」話法は便利だし、広告に関わる多くの人をそれなりに満足させてしまうので、ついつい多用しがちです。でもやっぱり、この手の、ぜんぶ言うタイプの広告はあまり効果が得られないみたいです。ぶっちゃけると商品自体もヒットしません。マーケティングでも、マルチパーパスは売れないという定石がありますよね。

 なので、私は「だけではありません」話法は禁じ手にしています。そして、その便利な話法を使わないですませるためには、早い段階でのクリエーターの参加が重要になります。コンセプトを玉虫色にしないために、広告表現の専門家の早期参加は大切なんですね。

 アップルのスティーブ・ジョブスは、広告会社のクリエーターと毎日会っているそうです。それに、ジョブス自身が希代のクリエーターです。そんな彼が製品開発から関わるのですから、そりゃうまくいきますよね。

 話題のMacBook Airの広告。コピーは「世界で最も薄いノートブック。」です。明快ですね。封筒に入ったMacBook Airのアイデアも素晴らしいですよね。マックワールドの講演のときも、ジョブスは封筒からMacBookを出していました。お披露目のマックワールドからCM放映に至るこの製品のコミュニケーションの流れを見ていると、今の時代の広告っていうのはどういうものなのかを見せつけられる思いがします。

 結局、「だけではありません」話法というのは、これで勝負するという決断を先送りにした妥協の産物なのですね。どれだけ素晴らしいレトリックで飾ったとしても、そのメッセージの中には何もありません。

 じゃあ、あなたは「だけではありません」話法を絶対に使わないんだね。というツッコミがありそうですが、私はたまに使ってしまいます。だって、理想だけでは生きていけないですもの。ね、この話法、便利でしょ。

 と小粋な落ちで締めくくると、なんとなくまとまるけど、なんかやな感じが残るでしょ。なんかメタ論法になってしまいましたが、本当の話を書きます。私は、ある時期から一切使わなくなりました。だから、玉虫色オリエンの時は、けっこうごねます。戦略を変えます。昔は、そんなことを考えずに、華麗なレトリックに酔いながら安易に使ってた自戒も込めてこのエントリを書きました。では、よい日曜日を。

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2008年2月 2日 (土)

スタンドインさん

 仕事柄、今をときめく女優さんのCM撮影にかかわることがたまにあります。

 私は、戦略と企画を専門とする広告会社のクリエイティブ・ディレクターです。だから、CM制作の流れの中では、コンテづくりまでは大活躍しますが、撮影に入ると、CMディレクター(監督さん)やカメラマンが主役になります。そんな撮影中に私は何をしているかというと、お得意の方といろいろなことをチェックしたり、それをディレクターやプロデューサーに伝えたり、まあ所謂中間管理職的な立場になってしまうんですね。

 テレビドラマなんかで、今をときめく女優さんと日常でも仲良くて、ちゃんづけで呼び合う仲みたいな感じに広告会社のプランナーやCDが描かれることがありますが、それは一部の有名クリエーターの話かもしれません(というかそんな人、ほんとにおるんかいな、と思います)。私と同じような普通のプランナーさんやCDさんは、撮影現場では、わりあいドライにビジネスライクに、お得意さんと撮影スタッフの間を行ったり来たりしながら、ちょこまかちょこまか立ち回っています。

 撮影は通常、長時間になります。早朝入りで、深夜まで続くこともままあります。ディレクターさんなどの撮影スタッフは終始大忙しですが、撮影の合間のセットの仕込みの時間などは、私は何もやることがないので、お得意の方やプロデューサーなんかとコーヒーを飲みながらおしゃべりしていることも多いです。もちろん、さぼっているわけではなく、それも仕事なんですけどね。

 いちおうプロジェクトの総責任者でもあるので、きょろきょろと周りを見守って、見た目より神経を使う仕事ではありますが、でもまあ、息抜きっぽい時間も、撮影現場ではたくさんあるんですね。そんなときは、スタンドインの女の子とミーハーな話をすることもあったりもします。

「私、あの女優さん、あこがれなんです、きれいですねえ、今日お会いできて感激です。」
「そうですか、でも、実際に見ると、やっぱりきれいですよね。」
「この前も、ドラマを見て、すごくかわいかった。私もあんなふうになりたいなあ。」
「やっぱり、ドラマとかが目標なんだ。」
「そりゃ、そうですよ。ドラマ出たいなあ。」

 みたいな感じです。

 スタンドインさんというのは、位置決めなどのカメラテストのために、女優さんのかわりに立つ人のこと。カメラテストの際の女優さんのかわりの人ですね。通常、新米のモデルさんがスタンドインになります。でも、スタンドインと言えどもモデルさんなので、十分きれいな女の子なんですね。街でいたら、すごく目立つだろうな、という感じのきれいな女の子です。私なんかは、なんか別世界の住人のような今をときめく女優さんなんかより、スタンドインさんのほうが親しみがあって、むしろかわいいなと思うくらい。

 そんなこんなのミーハー話をしてると、やがてカメラテストの時間がやってきます。スタンドインさんがセットに立ちます。カメラの位置とかを調整するためにモニターを覗き込むと、スタンドインさんと言えどもプロのモデルさんだから、いい感じに映っているわけですよね。素人とはまったくクオリティが違います。フォトジェニックという言葉がありますよね。モニターを見ながら、やっぱりフォトジェニックのプロフェッショナルは違うなあ、なんてしみじみ思うんですね。

 撮影の本番。なになにさん、入りまーす、という声がかかって、女優さんが楽屋から出てきて、セットに立ちます。で、モニターを覗き込んで、モニターに映った映像を見ると、そのスタンドインさんには申し訳ないけど、まったく違うんですね。いっきに画面に華が咲く、というか、画面に華があるんです。なんか、画面に漂うオーラがまったく違うんですよね。スタンドインさんも、ほんとにきれいなモデルさんなんですよ。でも、画面がまったく違います。

 ほんと、すごいもんだなあ、といつも思うんですよね。タレントさんや女優さんが、テレビに出始めて、時が経つにつれてどんどん垢抜けていきますよね。その垢抜けのなせるわざなのかな、とも思いますが、それだけでは説明がつかないくらいの華の咲き方です。モニターからぶわっとオーラが放射されているのが目に見えるんです。

 ジャンパーを着込み、パイプ椅子に座っているスタンドインの女の子も、モニターをうっとりと見つめながら、きれい、と一言。そんな光景を見ながら、モデルさんというか、そういう容姿を売り物にする職業って、すごく厳しい世界で生きているんだな、と思います。それは、ある意味ですごく残酷な世界なのかもしれません。そのスタンドインさんも、売れてくると、きっと、その女優さんが持っているオーラみたいなものを身につけていくのでしょうけど、今の彼女は、まだそのオーラを持っていないんですよね。

 最後のカットを撮り終わり、お疲れさまでしたー、と声がかかります。スタッフみんなが、女優さんに向けて拍手を送ります。ありがとうございます、と女優さんに挨拶をし、しばらくして、女優さんはクルマに乗って帰っていきます。スタジオでは、セットが取り壊されていきます。そんな祭りのあとのようなスタジオを眺めながら、あのスタンドインの女の子に、がんばれよ、今度は主役で会おうな、なんてことを心の中でつぶやくのですが、そんな言葉を心の中でつぶやいた後、でもそれって、甘ちゃんのセンチメンタリズムに過ぎないんだろうな、なんて思うんですよね。

 よく言われるありきたりな話ですが、一見華やかに見えるモデルさんや女優さんの世界も、中に入ると、生まれ持った容姿と器量で競い合う、厳しく、そして残酷な世界です。そして、その競争を勝ち抜く人は、ほんの一握り。努力だけでなく、運も多分にあるでしょうしね。なんか、生きることって、せつないなあと思います。テレビで流れる数多のCMを見るとき、CMには映っていない、そんなスタンドインさんのことをいつも思ってしまいます。

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