存在が先か、言葉が先か。
人間は、そうそうわかりあえるものではない。そんな、ちょっと悲観的な前提に立ってものごとを考えると、コミュニケーションというものの本質が見えてくるように思います。私と君は同じだね、という共感ではなく、これだけ共感をわかちあいつつ、やっぱり私と君は違うという、お互いが非対称な関係であるという冷徹な認識のほうが、人間というものの本質を正直に言い表しているように思います。存在の本質は、その非対称性にある。そんなテーゼは、さみしいテーゼだけれど、なぜ人間はコミュニケートするのかという答えを導きだすには不可欠なもののように思います。
前回のエントリ(参照)でも最後のほうに書いたけれど、そんなコミュニケーションの不可能性を前提にしながら、なお命懸けでもってコミュニケートしようとする人間というものの不可思議さと滑稽さは、コミュニケーションを生半可にかかげ、生業にしている私にそのまま跳ね返ってくるように思います。そんなことを考えると、私のような広告屋ごときがコミュニケーションとはと語るとき、命懸けで負け戦に挑んできた幾多もの人々のコミュニケーションの蓄積を前にして、笑わせんじゃねえよ、という死者の声がこだまするような気になってきます。
コミュニケーションの主たる手段が言葉であるとすると、言葉は人間そのものかもしれない。そんなことをぼんやりと考えていると、finalventさんの「極東ブログ」にこんなエントリ。その中の重要な言葉を引用します。
とてもではないが、これは「分別」などと訳せるような概念ではない。そしてこの木田の解説からうっすらチョムスキーが見えてくる不気味さをなんと言っていいのかわからない。もちろん、チョム先生は「神」なんてことは言わないのだが、彼が説く人間の尊厳の根拠性としての創造力というのはほぼユダヤ教的な「神」に等しく、またその理性が進化論的な説明を拒絶しているのは往年のピアジェをコケにした議論からも理解できたものだった。
[書評]反哲学入門(木田元)- 極東ブログ
もちろん、木田元さんの「反哲学入門」についての書評だから、その中ではハイデガーとの相似性についてのチョムスキーについての言及なのですが、チョムスキーが人間尾尊厳の根拠性としての創造性と呼ぶものは、ハイデガーにとっては、言葉です。木田さんは、存在より言葉が先にあるというハイデガーの視点を、後の構造主義や反ヒューマニズム哲学の萌芽と見るのですが、私にとっては、この木田さんの見方に反する、finalventさんの着眼のほうが興味深かったです。後期ハイデガーについて、こう書かれています。
むしろ民族言語という経験=歴史の、人(現存在)への優位という奇っ怪なイデーが存在したのだろう。つまり〈存在の生起〉は民族言語として意識化された言語の内部から発生する。
そこにある意味でファイナルな問題が存在する。それは小林秀雄の『本居宣長』(参照)のテーマである。後期ハイデガーと本居宣長の奇妙な連携のようなものも見えてくる。
[書評]反哲学入門(木田元)- 極東ブログ
これを読んで、本居とハイデガーが突然つながったような不思議な感覚を持ちました。人間とは言葉である仮定とすると、人間とは何かという問いは、結局、言葉とは何かという問いにつながり、その言葉は、当然、民族言語であるので、本居になり、ハイデガーになり、そして、チョムスキーになるわけですね。それは、ある種の必然のように感じました。
そこで、柄谷さんは「命懸けの飛躍」とか「他者」という概念にこだわること、つまり、そこにコミュニケーションという軸を置くことで、一般的にハイデガー問題と言われる必然を乗り越えようとしたのかもしれません。そういえば、柄谷さんは小林秀雄にも本居にもこだわっていたなと思い出しました。あまり詳しくないけれど、ポストモダン思想というのは、そうした民族言語といわれるようなオリジンに対して、その上の構造を見る営為だったような気がします。
言葉によって、すべてを了解していこうという態度の医学的な試みが、実存分析だったのでしょう。その、存在の根源である民族言語をベースにする科学的な物語を終わらせるという情熱が、もしかすると脳科学の急速な発展を即したのかもしれないと思いました。そして、精神分析という物語はゆっくり終わっていくのかもしれません。
物語の終焉ということが言われてずいぶん経ちますが、その大きな物語の終焉後によみがえっているような気がする、奇妙な物語が少し気になります。それは、もしかすると後期ハイデガー的な、本居的な物語の現代的な形なのかもしれません。期せずして、人間とは言葉かもしれない、と書いた私も、その現象のひとつの現れかもしれません。
なんとなくですが、こういう広告みたいな商売をしている実感として、コミュニケーション学という科学が解析するコミュニケーションの法則みたいなものの進化が一方であり、その思想が支配的な環境でいる中で、実感として、でも、コミュニケーションというのは個人的な表現如何によってどうにでもなるという実際の経験則の中で、やはりなお解けない言葉というか心の問題みたいなものが、ちいさな声として気になり続けるというか、そんな感じがあります。(その感覚が、そういえば、実存分析のその後はどうなっているんだろうという興味につながりました。)
そうした問題意識を突き詰めていくと、きっと、日本語という民族言語に行き着くだろうけれど、そうではなくて、たとえば、同じコードである日本語でのコミュニケーションにおいてもなお不可能性を見せる、コミュニケーション=交通というものを主軸と置いた場合の、手段としての言葉を捨象したときに残る存在が、その存在の前提である非対称性を担保しているのもまた、日本語という民族言語であるという堂々巡りは、やっぱり人間には感覚的に耐えられない感じがあるんだろうなと。それが哲学というものなんだろうけど。
そして、こういう問題に対しての突き抜けた思考で、あちら側に行くことを寸止めで踏みとどまるためには、詩人というスタンスしかあり得ないのではないかと思いました。このところ、ああ吉本隆明さんは詩人なんだな、という思いとどこかでつながるような気がします。そして、フーコーも詩人だったような気もします。なんとなく感覚的な言葉だけど。やっぱり基礎がないから、なんかわけわかんないエントリになりました。慰みっぽいけど、まあいいや。好きでやってるブログだしね。ではでは。
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コメント
ぼくは南の島の出身で、ここ一年ぐらい、島の言葉の語源や地名の由来を考えてみたりしています。それはそれこそ、通じる相手のいない言葉なので、非コミュニケーション的な自問自答なんですが、突然、言葉の語源が解けたり、全く関係ない地名が同じ意味を指しているのに気づいたりと、ひとりで昂奮したりしてます。(^^;)
そんな体験をすると、なんか、意外につながっているんだなという実感がやってくるんです。そんな話をmb101boldさんとしてみたくなる今日のエントリでした。
投稿: 喜山 | 2008年2月22日 (金) 10:27
そうですよね。非コミュニケーション的な自問自答が突然つながる瞬間というのが、なんとなくコミュニケーションが成立する奇跡の瞬間なのかもしれないですね。
しかもそれが過去に生きた人とのコミュニケーションだったりもするのでしょうし、歴史なんてものはあまり考えたことがなかったんですが、最近は歴史っていうのは、そういう奇跡の蓄積なんだなあと思っています。
喜山さんは、元ちとせさんの歌を奄美の無意識と「与論島クオリア」にお書きになっていましたが、そういう思いが共時的にいろいろなところで発生する不思議な感じがすごく面白いと思います。そして、その題材がそれぞれ違うところも。
投稿: mb101bold | 2008年2月22日 (金) 17:18
言葉が先か、存在が先か・・・。
以下は、一般法則論の見解。
この世界は、私たちがこの世界の中に生まれる前から存在していた。
この世界は、偶然に出鱈目に造られているのではなくて、天然自然の存在の創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きで全て造られている。
全てのヒトは、創造主である神の化身・分身の存在。
天然自然の存在の創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働き=この世界の成り立ちと仕組みを造っている原理=創造主である神の化身・分身のヒトの心の中身とその働き=この世界の成り立ちと仕組みを認識し理解する原理=ヒトの生き方の原理=引き寄せの法則の活用法。
言葉は、現地=存在=創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きで全て造られているこの世界の成り立ちと仕組みを地図化する方法。故に、言葉は存在の後。
神の存在証明は神自身にさせるし、これ以外の神の存在証明は無い。
いわゆる神の存在証明がもたらす意味について
天然自然の存在の創造主である神の存在証明をして、神が造ったこの世界の成り立ちと仕組みについて説明し、人類史のリセットと再構築を試みる。
http://blog.goo.ne.jp/i-will-get-you/
一般法則論者
投稿: 一般法則論者 | 2008年2月24日 (日) 01:41