知識的なこのや、年齢的なこともあるけど、まだ私にはその実感はわからないのかもしれない。
小林秀雄が真正面から本居宣長を語り、山本七平が小林を語るときに、本居論にあえて踏み込まず、橋本治はたくみに迂回し、吉本隆明は忌避した。語り、踏み込まず、迂回し、忌避するにしても、日本語という言語で何かを語るとき、その中心には本居がいる。その関係性について、極東ブログ「[書評]小林秀雄の恵み(橋本治)」でfinalventさんは書かれています。それは、極東ブログ「[書評]反哲学入門(木田元)」の後段の後期ハイデガーと本居についてのつながりについての続編として、私は読みました。
後期ハイデガー問題は、私の理解だと、ゲルマン民族のアイデンティティと哲学のかかわりの中での悲劇でしょうし、小林の本居論は、finalventさん曰く「戦後の世界のなかで、昭和という悲劇が殺傷せしめた日本人の鎮魂と再生の祈念」として書かれたものなのでしょう。ハイデガーは、仏教などの東洋哲学の影響が言われていたりします。そして、小林の本居論のそのつきない魅力は、「一種の宗教のような何か」なのでしょう。
橋本治が本居の本質を歌人とする感覚は私にはよくわかります。そして、それを取り上げ論じる小林も、橋本の論とは逆に歌人感覚(詩人感覚)がある気もするし、小林の言葉は、文学的な何かなのだろうと思います。というより、それは私がそのように了解したいということかもしれません。吉本が共同幻想論でも喝破したように、「およそ民族国家というのは宗教によっている」のであるとすると、それを延長線上にあるものとして、本居宣長というのは、やはり今なお魔力を持つんだろうと思います。
ここまで言えば、そういうお前は小林教を信じるのかと問われているに等しい。
私はそれを信じていない。そもそも古事記というのは偽書だと言うにはばからない私である。古事記は道教だぜとも言う。ではなぜ、私が、小林に惹かれ、宣長に惹かれるのかと言えば、私の人生が日本人の、日本語の情というものによって成り立っている根底的な限界の意味を受容する他はありうべくもないからだ。極東ブログ「[書評]小林秀雄の恵み(橋本治)」
親鸞論から親鸞伝説をあっさり捨象してしまう吉本は、その共同幻想に逆立するものとして対幻想という概念を作り上げました。そのなんとなくセンチメンタルでロマンチックな個を根本に据えるところが、吉本が当時多くの若者を魅了した部分であるとも思うのですが、それは、親鸞論でもわかるように、吉本は、歴史を捨象し、あるべき仮想された未来から今を読み解く気質があるような気がして、それが彼に本居は関係ないぜ、と言わせてしまうのだろうと思います。
うーん、この「極東ブログ」のエントリを読んだりして、ますますわからなくなってきたなあ。私の中には、本居的な何かも、対幻想も、どちらも感覚的にはよくわかっていないところがあるんですね。本居的な何かは、日本語をうまく話すようになった外国人が日本人のようなオーラをまとってしまう(厳密には目つきが日本人っぽくなる)あの感じくらいには納得はするけど、やっぱりあまりよくわからない。対幻想は、確かに恋愛のあの感覚は、共同幻想に逆立ちする何かのような気もするし、国家権力と個人が逆立するのも理解できるけれど、対幻想の甘い感覚は、宗教によっている国家の持つ甘い感覚と同質なんじゃないかとも思うんですね。
これは、比較的年齢の若い吉本フォロアー(世代的には最後の吉本フォロアーなのかも)としての私の中にある吉本への小さな違和感です。
むしろ、私の死はその限界を超えるものであってもよいに違いないのに。
極東ブログ「[書評]小林秀雄の恵み(橋本治)」
私をひるませるのが、この感じなんですよね。それは、私が年齢を重ねるにしたがって体感できるようになる感覚なんだろうか。それとも、私にそのような感受性がそなわっていないのか。でもまあひるむ感覚があるということは、根本的にはそれが忌避になっている証拠でもあるわけで、なんだかうだうだと考えてしまいました。それにしても、できない学生が先生に質問するかのような文章になってしまいましたが、こういうこと書けるのもブログのよいところかもと思います。トラックバックを送られるほうはご迷惑かもしれませんが、一市井のブロガーがエントリを一生懸命読みましたということの証だと思って今回もお許しくださいませ。ではでは。
関連エントリー:吉本隆明さんの「対幻想」だけは、私には理解できないのです。
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