祝日は世間を知る日。
午後6時のテレビ。ニュース番組を見ていたら、石原良純さんが天気を伝えていました。そう言えば、石原良純さんは天気予報士の資格を持っていることは知っていたけど、天気を伝える姿を見るのは初めてかもしれません。
灯台下暗しとはよく言ったもので、テレビに関わる人は、あまりオンタイムではテレビは見ていないというケースは多いと思います。私などもその口で、見るテレビと言えば深夜ばかり。それに、個人的にはAMラジオをよく聴くからなおさらです。
普段の月曜日は、朝のニュースをちょこっと見て、夜の11時頃に帰宅して、夜のニュースを見て、テレビ東京の「きらきらアフロ」を見た後、ラジオで「伊集院光のJUNK」を聴いたりしています。つまり、それ以外の時間帯はテレビをまったく見ていないんですよね。
今日はめずらしくテレビをつけっぱなしにしているので、いろいろ発見があります。そうか、ネプチューンって人気があるんだなあ、とか、ホリケンさんって変わらないなあ、とか、大食いタレントは、ギャル曽根さんだけじゃないんだなあ、とか、華があって元気なタレントさんたちに囲まれて、局の女子アナウンサーっていうのは絶妙な立ち位置にいるんだなあ、とか。どうでもいい発見ですけどね。
今日は建国記念日だそうです。そんなテレビの喧噪の中、NHKでは各地で集会が開かれたことをニュースで伝えていました。建国記念日にあらためて、その意義を考えるのもひとつの世間だし、それぞれの人がそれぞれの生活で得たそれぞれの世間が集まってひとつの世間と言われるものを形作っているのでしょうから、世間というものは案外複雑でくせ者なのかもしれません。
吉本隆明さんが大衆の原像ということをしきりにおっしゃっています。大雑把に言うならば、それは知性が覆いきれない世界の隙間みたいなもの、自分の中の知だけではどうにも充足できない何か、その自分の中の割り切れない何かが大衆の原像というもののようです。
それは、それが語られた文脈で言えば、政党と啓蒙すべき大衆という構図に対する批判でもあるのですが、そういう構図が薄まってきた現在においても、大衆の原像はこの世の中に息づいているような気がします。それが、下町で買い物カゴを下げてうわさ話をするおばちゃんみたいなことは言えないけれど、それは多様化しただけで、原像としての大衆というのは、やっぱりある気はするんですね。それは、私の中の割り切れない何かでもあるし、それを言語化するのは難しいけれど、なにかしらつかめるような実体としてあるような気がします。
この前、ひとつのテレビCMを作ったんですが、そのCMが流れると、わんわん泣いている赤ちゃんがへへへと笑うそうで、へえ、なるほどなあと思いました。なんとなく、それが吉本さんの言っている大衆の原像なんじゃないかな、と思ったりしました。それは、もしかすると誤解かもしれないけれど。それに、赤ちゃんのへへへじゃうまく言語化できないですし。まあ、言語化できてもそんな、赤ちゃんがへへへと笑う表現が大量生産できるわけじゃないんだけれど。
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コメント
いいCMを作られたんですね。泣く子が笑うなんて最高です。
わたしは、ぼーっと呆けて、大衆の原像そのものな休日でした。(^^;)
投稿: 喜山 | 2008年2月11日 (月) 23:13
いえいえ、すごくベタな歌い込みCMです。
でもまあいい感じに受け入れられたみたいで、その中のひとつが泣く子が笑うというものでして、「あはは」じゃくなて「へへへ」と書いてあって、なんとなくそれがおかしかったです。
レスポンスが問われるCMだったので、結果が出て、ああ来期もアカウントがつながったかな、なんて、ただただホッとしているところでございます。(^^;)
投稿: mb101bold | 2008年2月11日 (月) 23:46