« 知識的なこのや、年齢的なこともあるけど、まだ私にはその実感はわからないのかもしれない。 | トップページ | 僕の好きな言葉。 »

2008年2月24日 (日)

コピーライターは言葉の専門家なのでしょうか。

 私のいる広告業界の現場でよくある風景。

 社内ミーティング。ある仕事で、クリエイティブが徹夜でつくった広告案を見た営業が、腕を組み、押し黙ってしまいました。重い沈黙。その沈黙を切り裂くように、営業が一言。

 「なんて言うか、コピーが違うと思うんだよ。」

 一通りの押し問答のあと、結局、作り直すことに決まり、それぞれが作業に。コピーライターは顔に悔しさをにじませて、ひとり作業室の中で言葉を吐き捨てます。

 「何もわかってないくせに、コピーに口だすなよ。」

 多かれ少なかれ、こういうことは多いと思いますが、そのときのコピーライターの心情は、こういうものだと思います。俺は言葉の専門家であるのに、言葉の専門家でもない人間があれこれ簡単にいいやがって。特に言葉は人を表すというように、言葉を否定されることは、その人を否定されるに等しいような感覚を持ってしまいがちです。

 コピーライターが言葉の専門家であるというのは、半分は真実であると思いますし、コピーライターという職業を選んだ以上、あらゆるタイプの言葉を一通り使いこなせるくらいのスキルはあるべきだと思いますし、文章を使うのに慣れていない人は、コピーライターにはあまり向いていないとは思います。ピアニストはピアノが弾けるのが条件、みたいなものです。

 しかし、コピーライターは言葉の専門家であるというのは、半分は間違っています。欧米の広告理論では、What to sayとHow to sayを明確に分けようとする傾向があり、クリエイティブはHow to sayの専門家みたいなことが日本では言われがちですが、欧米のクリエイターに、そんな認識を持っている人はあまりいないのが事実です。つまり、クリエイティブの半分はWhat to say=何を言うかでできています。

 先の営業は、その何を言うかが違うのではないかということを言いたかったのでしょう。言葉なんて、誰でも使えます。事実、遠い都会に住む子供を思い綴った母親の手紙の言葉が証明しています。その母親は、きっと言葉の専門家ではありません。普通に暮らす普通の人です。けれども、言いたいことがあれば、人はいい言葉を綴ることができます。

 では、誰もがコピーライターになれるのか。答えは否です。コピーライターの半分の仕事は、言いたいこと、言うべきことを見つける仕事です。それは、いい手紙を書いたその母親にはできないことです。所詮は広告は他人の話。その他人が言いたいことを見つける作業ですから、それなりにノウハウがいります。そして、その言いたいことを適切な表現で日本語にするのが、残り半分の仕事。その残り半分の仕事も、じつは結構大切ではあるんですけどね。

 コピーは、極論で言えば、名詞と動詞で書けとよく言われます。犬、走る。人、話す。そんな感じ。これは、何を言い表しているかというと、何を言うかを突き詰めて考えろ、ということなんですよね。日本語の表現技術が高まってくると、日本語の持つ文化的な形態だけで文章にできるようになってきます。言いたいことが特になくても、いい文章が書けてしまうのです。

 言葉というのは不思議なもので、その形式に忠実であるだけで、何となくその言葉の体系が持つ魂みたいなものが、ある一定の意味性を与えてくれるような気がします。特に文章が巧い人なんかは、その罠にはまってしまいがちです。

 言葉の体系が持つ魂みたいなものということを突き詰めると、英語の方が論理を語るには優れる特徴があるとか、日本語は情緒的であるとかに行き着きます。チョムスキーが言う深層構造と生成文法は、言葉にする前の何か、すなわち深層構造がまずあり、人間が言葉を獲得するための持って生まれた能力、生成文法により民族言語の持つ文法構造がつくられていくという理論で、文法が思考を決定するという旧来の言語学に対する批判であったその理論は、逆説的に、言葉とは私であるという結論につながっていきます。

 しかし、名詞と動詞で書けという広告コピーでよく言われる教えは、その生成文法に抗う考えがしなくもなく、漢文が複雑な文法構造を持ってないにもかかわらず、高度な内容をきっちりと伝えられてしまっている事実に似ているような気がします。それはチョムスキーの言う、言葉に表出される前の深層構造の姿に近いような気がするし、であるならば、民族言語の持つ魂みたいなものって、いったいなんなんだろうなんて考えてしまいます。

 一般的には、英語などの外国語に訳しやすいコピーがいいコピーとされていて、私などは、外資系企業でのプレゼンで、翻訳の人に、君のコピーは訳しやすいですね、と言われるとうれしかったりしますが、それはコピーが商業文だからなのかもしれません。しかし、多くのコピーへの共感は、文章が持つリズムや雰囲気に依存していることもまた事実で、このあたりの話は、私にとっては興味が尽きないです。

 ちょっと前は、こういう広告屋の表現論の論議に出てくるのは、ソシュールのシニフィアン、シニフィエだったような気がするのですが、時代が変わったということなんでしょうか。でも、まあ正直言うと、シニフィアン、シニフィエも、生成文法もよくわからないところがあるんですが。ぼちぼち読み直していこうかな、なんて思っています。

|

« 知識的なこのや、年齢的なこともあるけど、まだ私にはその実感はわからないのかもしれない。 | トップページ | 僕の好きな言葉。 »

広告の話」カテゴリの記事

自作の紹介」カテゴリの記事

コメント

わたしは翻訳本の編集をしているので、帯のネームを自分で書きます。また翻訳チェックもします。英語―日本語の話、主語+動詞の話もな~るほどと思いました。さいきんよく考えるのは「あなた」の使いかたです。ときどき印象的かも? でも日本だと「わたし」に変えたりぼかしたりすることが多いです。帯の場合は、広告よりも少し対象になじみぎみにやわらかく、でもひっかかりはきっちり、というのがいい気がします。

投稿: goriko | 2008年2月24日 (日) 19:35

あなたの使い方は、日本語では難しいですよね。入れると文章がきつくなるときがありますし。私の場合は、入れるときは狙いがあるときです。日本語は主語、述語を省いても成り立ちますから、あくまで自然な日本語を心がけるようにしています。
英語が人称をはっきりさせるのは、前提に神があるからという話もありますし、そういう空気の中での英語ですから、英語をネイティブで話す人も人称に対しては習慣化していて意識は低いかなあという判断ですね。
帯はそうかもしれません。広告より、少し対象が絞られてますから、少しパーソナルな感じにしたほうがいいんでしょうね。

投稿: mb101bold | 2008年2月24日 (日) 22:19

とても興味深く、読ませて頂きました。
ありがとうございます。


投稿: エスプレッソ | 2010年7月29日 (木) 06:05

こちらこそ、ありがとうございます。今後ともよろしくお願いします。

投稿: mb101bold | 2010年7月29日 (木) 23:20

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: コピーライターは言葉の専門家なのでしょうか。:

» 「漢文の文法構造は複雑ではない、に端を発して」を興味深く読みました。 [mb101boldの日記(というかメモかもね)]
 私はココログで「ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)」というブログを運営していますが、その「コピーライターは言葉の専門家なのでしょうか。」というエントリの中で、「漢文が複雑な文法構造を持ってないにもかかわらず」という部分に関して、はてブコメントでid:y... [続きを読む]

受信: 2008年2月26日 (火) 10:16

» [学問][言葉](漢文の)文法構造の複雑さについて雑感 [思索の海]
 発端はmb101boldさんのこのエントリ↓ ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね): コピーライターは言葉の専門家なのでしょうか。 にyumizouさんと僕が↓のブクマコメントを付けたこと。 はてなブックマーク - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね): コピーライターは言... [続きを読む]

受信: 2008年2月26日 (火) 19:50

» 「(漢文の)文法構造の複雑さについての雑感」を興味深く読みました。 [mb101boldの日記(というかメモかもね)]
 私のココログのブログエントリの中の「漢文が複雑な文法構造を持ってないにもかかわらず」との表現について、yumizouさんとdlitさんからはてブでコメントをいただきました。それに対して、私がその補足エントリを書き、そのお返事をyumizouさんからいただき、そのお返事を... [続きを読む]

受信: 2008年2月27日 (水) 02:02

» What to sayの手前のWhy to sayを考え尽くす [PASSION HACK 情熱でマーケティングに差をつけろ!]
営業がHow to say、コピーライターがHow to sayだとしたら、広告 [続きを読む]

受信: 2008年2月28日 (木) 01:34

« 知識的なこのや、年齢的なこともあるけど、まだ私にはその実感はわからないのかもしれない。 | トップページ | 僕の好きな言葉。 »