ちいさなことで、へこんだり。生活者って、そんな感じ。
喜山さんのマーケティングブログ「生の声マーケティング」のエントリ「消費者は生活者になかなかなれなくて」を読みながら、消費者って何だろう、生活者って何だろう、とぼんやり考えました。喜山さんは、消費者と生活者を隔てる基準をこう置いています。
こういうとき、ぼくは生活者を、必需的に使わなければならない消費より、可処分できる消費の方が大きい存在を生活者と見做しています。
(消費者) = (選択的消費支出) / (全消費支出) < 50%
(生活者) = (選択的消費支出) / (全消費支出) ≧ 50%そしてこの定義に照らしてみると、バブル崩壊以降、消費者は生活者になりきれないでいるのではないかと思ってきました。去年、調べてみたことがあるのですが、生活者度とでもいうようなこの値、2001年で43%、2006年で46%でした。実際、80年代の後半に生活者になるかにみえた消費者は、その手前で足踏みして消費者に停滞してきたように見えます。
つまり、全消費から自分の好みで消費する支出が半分を超えるあたりから、人は経済活動においても生活者になるということです。ちなみに、選択的消費支出(選択的支出)とは、総務省統計局の定義では、一般外食、設備修繕・維持(台所、浴槽等の修理や庭の手入れ等)、家具・家事用品、被服及び履物、交通・通信(交通については統計上は一般支出に含み、選択支出からは除く)、補修学習(学習塾の月謝等)、教養・娯楽の合計とのこと。
この喜山さんの基準は、私にはわかりやすく、生活者という漠然とした概念がおぼろげなら見えてきたような。かつて、吉本隆明さんが、社会における男女平等のひとつの指標として、大学の法学部の学生数が半々になったときで、それを達成したとき、ある意味で社会が男女平等に関して過渡期を脱したと見なしていい、みたいなことを言っていたのを思い出しました。
消費者調査が生活者調査に名前が変わろうと、やっていることは、あいかわらず似たようなことで、むしろ、その調査が生活者のライフスタイルまで踏み込む分、より個人の領域に土足で踏み込む感が強いような気がして、なんとなく生活者を監視し管理しコントロールしたいという本音を隠すために、生活者という言葉を使ってみる、みたいな感じを生活者という言葉に感じていました。正直言えば、いままで生活者という言葉が使われる文脈に素直に入り込めずにいました。
消費者という言葉も、私はそれほど意味を込めて使ってきませんでした。消費者という言葉の裏側には、生産者という言葉があって、生産者という立場をなくして消費者という言葉は本体成り立たないはずで、その意味において、本来、消費者という言葉は、生産者の生産した商品を売るためのコミュニケーションを作る側から見て、その対象が、生産者と対としての消費者であるということに過ぎないように思うんですね。
その生活者が消費をする局面で言えば、インターネットの出現により、確かに消費者はものを言う消費者になりました。それは、Agency of the yearのTHE CUSTOMERが示す通り、消費者の発言が、生活者の消費に影響を与えるようになったということでしょう。でも、それは生活者の消費者的側面での出来事のような気がします。
ConsumerからCustomerへという文脈が、日本では、消費者から生活者へという文脈で流通してしまったことが、この妙なねじれを生んでいるかもしれません。本当は、消費領域では、消費者から顧客へということですよね。
べたっとした言葉に訳すと、Consumer=消費者といった相手を単なる対象と見る時代から、Customer=顧客、つまり、人格のある一人のお客様と見る時代に変わりましたよ、ということなんじゃないかなと思います。それは、お客様の声が可視化されるようになったからかもしれません。つまり、消費者は、いつ何時でも顧客と呼ばなければいけないほど、強くなったということなのだろうと思います。
よく考えてみると、私は生活者ではなく消費者です、という人は世の中にはいないですよね。みんな生活者です。生活という時間の中で消費があるだけです。日経オンラインに出ていた「SNSの広告にはもううんざり?」という記事が話題になっていたけれど、それは、「生活者」の美名のもとに、消費者に仕立て上げられる不快さなのではないかな、と思います。
今の消費者から生活者へ、という文脈は、生活者を、その一部である消費者とイコールで結んでしまう危険があるのではないか、と思いました。なんとなく、パノプティコンの理念とそれが生み出した結果との乖離に似ているような気がします。消費者という言葉を、その人間のすべてだと思ってしまった失敗をまた繰り返してしまうんじゃないかな、と思います。それはますます息苦しい空気をつくってしまうような気がするんですね。
生活者になりきれない消費者が“不況”を感じるなら、それを不況と呼びます。だから生活者になりきれない消費者が不況を脱したとき、はじめて不況ではなくなったと言えます。そのとき、消費者は晴れて生活者になるのかもしれませんね。
生活者が、晴れて生活者であることを、必需的な消費に圧迫されることなく楽しめるときこそ、広告のコミュニケーション力が試されるときかもしれません。生活者の生活に寄り添いながら、うんざりされず、見透かされもしない、そんな広告。でも、それは、かつての文化の華だったあの頃の広告の表現ではない何かであるんでしょうけど。
私にとっての生活者。
それは、Agency of the yearに選ばれた、オールキャップで表記されるTHE CUSTOMERのように強い存在ではなく、あいかわらず、ほんのちいさなことでへこんだり、くよくよしたり、後悔したり、そんな弱い存在です。いま、生活者は消費という局面で、生活者にはなれないでいますが、その生活者は、経済的に生活者になれたとしても、独我論的になってしまうけれど、自分に基準を置けば、そんなに強い存在ではないような気がします。
ブログというツールを手にしても、生活者としての私は、あいかわらずへこんだり、後悔したり、そんな毎日ですし、そういう私のような生活者に対して、きちんとコミュニケーションできるかどうかが、広告には問われている気がするんですね。これは、ちょっと時代と逆行しているかもしれないですが。
なんか、途中から喜山さんの投げかけから遠く離れて、まとまらなくなりました。まあ、いつものことだし、そのまとまらなさかげんも私かな、と思っておりますが。
それにしても、いま私たち生活者をとりまくこの「不況感」から脱することはできるんでしょうか。なんとなく、息苦しいこの感じは、このままずっと続くような気もしないでもないです。明日、急にこの「不況感」がなくなるわけでもないから、しばらくはがまんでしょうね。
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コメント
これも吉本さんからの孫引きですが、マルクスが、人間の宗教的解放は政治的解放なしにもなしうる。政治的解放は人間の人間的解放を何ら意味しないからと言ったのを思い出しました。
消費者の生活者的解放は、何ら消費者の人間的解放を意味しない。最大限に見積もって、必要条件に過ぎない、なんて。
「息苦しいこの感じ」は、ある意味、脱不況後に本格化するのかもしれないですね。
「かつての文化の華だったあの頃の広告の表現ではない何か」。これを見たい知りたいです。
記事を取り上げてくださり、ありがとうございます。
投稿: 喜山 | 2008年3月 4日 (火) 07:46
生活者については、いままであまり考えてこなかったので、喜山さんから考えるきっかけを与えてもらったような気がします。
>「息苦しいこの感じ」は、ある意味、脱不況後に本格化するのかもしれないですね。
そのときに、もう一度広告やマーケティングも問われるのだろうなと思います。いまは不況によって延命しているとの言えるかもしれないので。
そういう予感がするから、あえて、いまの最前線の文脈からは離れたところにいようとしているのかもしれません。
こちらこそ、刺激的なエントリをありがとうございます。
投稿: mb101bold | 2008年3月 4日 (火) 08:59