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2008年4月15日 (火)

「広告批評」休刊が象徴するもの

 前回のエントリ「広告の終わりのはじまり」を書きながら気になっていたのは、この「広告批評休刊」というニュースを、さとなおさんはどう思ったのだろうということでした。ネットを眺めてみると、広告批評休刊について語るブログは多いものの、あのニュースを聞いて、私が心の中でざらっとしたものを感じたのとは、正直言えばコンテクストが違うというか。こんなこと思うの、私だけ?というもやもやした気持ちでいました。

 まあそれは、広告業界では私は大きなニュースであると思っていた広告批評休刊という出来事が、それほど大きなものではないという証拠であるようにも思えるし、職場でもそのことを大きなこととして話すこともなかったし。時代認識としては、悲しいけれど、広告業界にさえ、もはや広告批評にそれほどの意義がなくなっているという意味では、正しいとも言えるし、そう考えればなおさら心の中のざらっとしたものが増幅されるような、そんな感じでした。

 そんなこんなのもやっとした気持ちでいると、さとなおさんの個人サイトであるwww.さとなお.comから「広告批評、休刊」というエントリが。なるほど、なるほど。随分率直かつ辛口。それに比べると、私の「広告の終わりのはじまり」はぐっと甘口。長いあいだ読んできた雑誌だし(とは言っても楽しみは橋本治さんの連載だったりする)、80年代のマス広告黄金期は学生で、社会に出てからはバブル崩壊という、割の合わないキャリアを重ねてきた私としては、なんとなく複雑な気持ちもあり、そんなひとつの時代の終わりへのセンチメンタリズムが、甘さになっているのかなとも感じたり。

 とはいいつつ、「明日の広告」の先頭を走るさとなおさんにも、「いいことなのだろうな。」という、すこしとまどい気味の言葉に、そんなセンチメンタリズムみたいなことは感じるけれど。

中の人たちはまだまだ少し前の「マス広告栄光の時代」の殻を引きずっている人が多いし、変わらないといけないとわかっている人たちも、日常の作業に追われてなかなか変われないままに日々を過ごしている。この「広告批評」の休刊は、まさに「顕在化された明日」である。志望者減少も「顕在化された明日」である。スルーせず重く受け止めるべきだと思うし、もう猶予はない。

広告批評、休刊 – www.さとなお.com

 中堅広告会社の中の人である私としては、この「顕在化された明日」をどうカタチにしていくかだと思います。こうして、気になるなと思う人の言葉をリアルタイムで読めるよろこびを噛み締めつつ、私は私で、さとなおさんが描くものとは違う「明日」をつくっていかなければ。そうでなければ、こうして今言葉を書いている意味がないと思うし。

 そんな言葉と同時に、今日は、広告の黄金期にメインストリームで活躍し、いちはやくネットというフィールドでのクリエイティブに活躍の場を移した糸井重里さんの言葉を読む機会を得ました。西武流通グループの企業広告の仕事をされていた時の失敗談。いいコラムなので、まだ読んでいない方はぜひぜひ。

ぼくは、あの時代の西武の広告をやっていたせいで、
「広告」が「経営」の重要な一部分であることを知ったし、
最も責任のある人が「広告」を考えることが、
どれだけ力強い効果をもたらすかも学んだ。

ある没になったコピーの思い出 – ほぼ日刊イトイ新聞

 ウェブ2.0やCGMなどに象徴される新しい時代の中で、広告はどう変わればいいのか。私はこのブログでも、ああだこうだと書いて来たけれど、この「広告が経営の重要な一部分である」ということは、これからも変わらないような気がしています。企業広告に限らず、商品広告でもそれは同じ。意思や想いを伝える手段としての広告は、きっと変わらない。けれども、ひとつ言えることは、その「経営」の想いを伝える「表現」の仕方が変わったということ。

 私は中堅広告会社に所属していますから、広告予算も中規模なものが多いです。そのために、どちらかと言えば、ひとつの広告原稿が届くか届かないかを考え続けてきているところがあり、例えば、掲載機会が新聞広告1発しかない場合、その新聞広告が届かなければ、1,000万円を超えるお金が無駄になる、ということを意識しながらやってきたところがありました。つまり、効かなくなってしまったマス広告を効くようにするにはどうしたらいいんだ、みたいなことが現実的な課題として突きつけられてきたんですね。

 そうした視点で見たとき、私の問題意識から言えば、きっと「文体」の問題があるのではないかな、というふうに思っています。つまり、時代が変わり、今までの広告の「文体」(それは言葉に限らず)が通用しないんじゃないか、という危機感です。広告批評休刊が象徴するものは、そうした広告文体がもはや終わりに近づいた証拠でもあるのではないか、という気がするんですね。効かなくなってしまった広告。それは、簡単に言えば、ああ、これ、コピーライターさんが書いたのね、デザイナーさんがデザインしたのね、というような広告。

 広告批評などに代表される広告雑誌をかつてほど熱心に読まなくなったひとつに、こういう私の気分があることも事実です。もちろん、以前ほど業界に対する名誉みたいなことにガツガツしなくなっているというのもあるけど。最近は、私がつくった広告が運良く掲載された号でさえ、スルーすることが多くなりました。かつてはそんなとこはありえなかったのに。出たらすぐに本屋さんに買いにいっていたのに。そんな自分が不思議でもありました。掲載されている広告も、昨今では、ピンとこないことも正直多く、前回のエントリでいただいたコメントであったような業界の閉鎖性を感じたりもしました。(中の人である私にもその閉鎖性はあるんでしょうね。)

 きっと、それは、広告が文化になり、その文化としての広告が鑑賞され、批評されていくうちに、文化としての広告が文化そのものになったことに原因があるような気がします。それは、文化であっても広告ではないので、もはや広告としての力を持ちようがないのは、論理的には正しいような気がするし。であるならば、もはややることはひとつ。広告を広告に戻してやること。広告が文化であるのは、広告が広告だからだと思うし、今、そんなふうに感じています。

 とまあ、ちょっと真面目に論じてはみたけれど、要するに、ブログやら何やらで、経営者、職業人、学生、消費者、生活者、おっちゃん、おばちゃん、にいちゃん、ねえちゃんの生の言葉が行き交う時代。そんな時代に、あいかわらず、古き良きマスメディア/大衆という構図の中での文化としての広告は、まあそういう感じも生き続けるとは思うし、そのマスな感じも甘美な感じはあるけれど、それを前提とした表現だけでは、ちょっとしんどいという感じ。それが現場としての実感です。リアルに思えないんですね。もちろん、それをメディアを軸に考えると、さとなおさんのおっしゃるメディア・ニュートラルなコミュニケーション・デザインということになるんだろうけど。

 自分まわりの生活を見ても、ひとつの問題意識で書いた前回のエントリがあり、それを書いてもやもやしているときに、まったく違う生活の流れの中でさとなおさんが書き、糸井さんが書き、それを読みながら、こんなことをうだうだ深夜に書いているという、ちっぽけだけど、考えてみると、かなりすごい生活の変化(情報摂取という意味でね)があるわけで、そうした現実の中で、そろそろ広告も広告屋も「変わらなきゃ」っていうのはあるなあ、なんとか新しい時代をつくっていかなきゃなあ、と思う今日この頃です。

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コメント

はじめまして。
いまさらの古い話題に、コメントしてみます。
広告批評休刊を聞いたとき、「そりゃそうだべ」と思いました。「マス広告=広告」という時代の終わり、とか、かしこい理由ではありません。
広告批評って、広告を批評したことなんか、ないじゃんと思っていたからです。
そば屋と看板をあげている店で、おそばがない、みたい。
人前で読んでいれば、いかにもその世界の人っぽいから、何冊かファッションで買いました。業界底辺にいたので、よけいにあこがれたのですね。でも、似合わないファッションは長続きしません。これ、身内同士の認め合いに褒め合いばっかやってる、と感じた。
たとえばトヨタのCFに対して、キムタクがカローラになんか乗るかよなんて言ったりはできない、というより、そんなことを言わない筆頭が、私は広告批評という雑誌だったと今でも思っています。
世の中にあふれていた広告をピックアップして、褒め合い・認め合いではなく、その表現や手法に、一度でも、「批評」という刃を入れたことがあったのか。
いや、広告を通して時代を批評していたのだ!なんて、そんなスタンスだったとしても、それ自体、とっくに古かった。
つたないコメント承知、肌だけで書いているかな、とも感じますが。

投稿: 志木里美 | 2011年7月24日 (日) 21:31

広告を批評という意味では、そうかもしれませんね。なんというか、こうしたサロンというかコミュニティというか、広告業界の内部の身内褒め空間というのは愛憎半ばな感じがあって、非常に言語化しにくいものがあるのですが。
広告業界を盛り上げたい、という動機はあったとは思うんですよね。バブル期、社会が広告を非常に欲していた、つまり、文化としても広告が強く機能していたときはそれでもよかったんでしょうけど、今はそうではないですからね。
キムタクがカローラに乗るかよ、の例をあげるまでもなく、これまでの広告が持っていたお約束、それは言わない約束ね、という共通のコードはもう共有できなくなっているのでしょう。
おっしゃるように、かつて共有できていたコードも、根本的には欺瞞だったのだろうと思います(でも、今もその欺瞞はある程度は有効ではあるのですが。)。それは、今、かなり明快になってきた、ということですね。
いままで通用してきた広告文体をいちどちゃらにすること。そのまっさらな地平で、もう一度、広告を考えるということが必要な気がします。
ちなみに、広告批評の名誉のために言っておきますと、後期は、海外広告や業界のトレンドを批評的に取り上げたりしていました。カンヌのリールの映像資料は当時は貴重でしたし。また、広告批評にとっては、休刊というアクションが、広告への最大の批評だったのだろうな、と思います。これ以上の批評は、たぶんないというほどの、ね。

投稿: mb101bold | 2011年7月26日 (火) 20:21

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