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2008年5月の22件の記事

2008年5月31日 (土)

すべてはコミュニケーションの問題なんだ、と言い切ってももいいかもしれないなあ。

 語弊はあるけど。コミュニケーションの問題と見えるものでも、本当は別の問題がある、という論議も分かるけど。私がコミュニケーションを領域とする広告屋なんて仕事をしているから言うわけじゃなくてね、ここ最近の個人的な出来事から、ああコミュニケーションが悪かったんだな、なんて思わせられる感じがあって、これ書いています。

 例えば、医師とのコミュニケーション。私の母親の具合が悪くなって、医師と話したわけですよね。かなり状態が悪かったんです。こっちとしては必死だから、今の状況を一生懸命話すわけですよね。で、その今の状況は、とりあえず解決。しばらく経つと、また次の問題が発生して、こちらとしては不安になるわけですよね。あれだけ話したのに、という思いも当然あります。

 で、どうしようもなくなって、大阪にいる私の妹が医師に電話で話したんですね。それこそ、専門家たる医師にまかせなきゃ、という考えも当然あるし、こっちは素人だし、でもそんなこと言ってられないという決死の思いです。不信感もあったと思います。でも、それを話すと、医師は、えっ、それは聞いてなかったなあ、教えてくださ、みたいな感じだったんですね。それに、積極的に聞いてほしいとも言われたそうです。

 妹は、なんかあの先生見直したわ、なんて言っていたけど、母親のケースは、患者本人が症状を説明できない状況でもあるし、まわりのものが言わない限りは先生もわからないわけですよね。積極的に聞いてほしいと医師は言っていたらしいですが、医師にしても、まわりのものが普通のコミュニケーションを行っている現状で、医療行為として、それ以上を家族に聞き出すことはしないし、たぶんできないとも思うんですね。

 要するに、言わなければ、絶対にわからないということ。その後の処方だって、緊密かつ詳細なコミュニケーションがあるのとないのでは、ずいぶん変わるだろうし。医療がどこまで進歩しても、コミュニケーションの大切さは変わらない気がするんですよね。それと、気持ちの問題もあるんですよね。インフォームド・コンセントと言われますが、それよりも前に、私たち患者と、患者家族自身が、医師にどう伝えていくかが問題になるような気がするんです。

 これは、患者側の医療リテラシーとも言えるけど、医療の側も、そういうコミュニケーションをしやすい環境をつくらないといけないと思うし、むしろ、うっとうしいくらいに医師がコミュニケーションを迫るくらいの状況ができてもいいように思います。

 広告の仕事で言えば、いい仕事ができるかどうかなんて、案外、いいオリエンがあったかどうかなんだし、制作側の思いとしては、オリエンがちゃんとしてないと、いい仕事なんてできないですよ。いい広告をつくる自信はあるけど、いい仕事ではなければ意味ないですよね。

 でも、私が言いたいのは、そんないいオリエンを私たちがするように努力するんじゃなくて、もちろん、できる努力はするけれど、私たち患者側がいいオリエンができるように環境を整える必要があるんじゃないか、それも医療の進歩なんじゃないの、と言うこと。

 どうして、医療リテラシーという言い方に抵抗があるかというと、ブログにこんなことうだうだ書く私でさえ、うまく伝えられなかったわけで、親父なんかは、先生と話してくると言うと、こんな状況でもなお先生のことを悪く言うなよ、とか、専門家なんだから先生に従うしかないんやから、素人が出しゃばったこと言うななんてこと話すわけですよ。そんな私たちに医療リテラシーを求められないでしょ。そういうことなんです。こういう問題は、普通の人を基準に置くべきです。

 確かに、こういうことの一方では、医療側の訴訟リスクなんてこともあるでしょうし、それと、コンビニ受診をはじめとする医療の疲弊もあるのは理解しています。そういう問題は、そういう問題として、個別に考えていかないといけないです。でも、同時に、これ以上、コミュニケーションの問題を劣化させる環境や空気をつくっちゃいけない、とも思うんです。ありきたりな言い方になりますが、患者側と医療側の相互理解が大切なんでしょうね。

 もっとなんかこう、ITとか利用できないもんなんでしょうかね。SNSなんかは使えるとは思うんですが、どうなんでしょう。プライバシーの問題があれば、専用端末でもいいし、ネット環境がなければ、emobileのモデムを貸し出せばいいと思うし、ファックスなんかでも、電話のもっと積極的な活用でもいいと思うし。もちろん、会って話すのがいちばんですけどね。

 ほんと実感するけど、会って話すということの情報量と言うのは馬鹿にできないです。これだけコミュニケーションツールやインフラが発達しても、会って話す、ということの優位性は変わらないです。感情の起伏や表情や話すリズムを含めて情報なんです。逆説的な言い方ですが、これだけコミュツールが発達して、コストが下がっても、対面の詐欺師は減らないじゃないですか。それだけ会って話すことの情報量はすごいってことですよね。

 広告なんてものは、所詮は紙切れ一枚であって、優秀な営業マンの代用に過ぎなくて、我々のがんばりどころというのは、その優秀な営業マンにどこまで技術で迫れるか、ということに過ぎないとも思うんですよね。会って話す。それが最強。当然、そんな非力なコミュニケーションだからこそ、誇りを持ってなんとかしようと頑張っているんですけどね。

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2008年5月30日 (金)

サザンオールスターズ活動停止に思う

 デビュー30年ですか。すごいもんだなあと思います。考えてみると、私なんか、仕事をはじめてまだ20年たってないんですよね。そりゃ、アミューズの株価も下がるわな。というか、アミューズの株が下がったのは、ちょっと驚きましたね。バンドの活動停止が企業の株価に影響する時代なんですね。というか、このニュースに対する反応が遅すぎますよね、私。

 勝手にシンドバットでデビューした頃は私は10歳くらい。小学校の4年生くらいですね。その当時は、歌謡曲とフォークというかニューミュージックというか、そんな「アーチスト」と自称する人たちの音楽が拮抗していた頃でした。ザ・ベストテンというテレビ番組が人気で、常連が沢田研二さんとか。まだ、商業音楽と俺たちは商業音楽じゃない派が対立していた感じがありまた。

 そんな環境の中で、サザンが颯爽と出て来て、デビュー当時から彼らはテレビ出演の是非にあまりこだわりがない感覚を持っていました。今から考えると想像できないかもしれませんが、それは新しい感覚だったんですよね。デビュー時からテレビにバンバン出ていたように記憶していますが、もしかすると記憶違いかも。どうなんだろう。

 私が熱心に聴いていたオフコースなんかは、絶対にテレビに出ませんでした。正確にはひょうきん族にシャレで出演したりはしましたね。それと、5人のオフコースの最後に、NHKのドキュメンタリーと、TBSの特別番組「NEXT」。あの「NEXT」はビートルズの影響なんでしょうが、私はあの映画のような番組を見て、すごくがっかりしました。オフコースファンの人、すみません。個人的意見です。

 でも、なんかねえ、どうして俳優みたいなことオフコースがやってるんだろう、どうしてあの解散騒動をあんな幼いナルシズムでまとめてしまうんだろう、なんて思って観ていました。大人の事情もあったんだろうな。まあとにかく、「NEXT」は私の中では、なかったことになっています。あの中に入っている新しい曲は、妙にいいですけどね。

 オフコースにしても、YMOにしても、テレビに対して距離を置いていた人たちは、テレビに出始めるとき、少しやぶれかぶれな感じでしたね。そんな意味では、サザンははじめから伸びやかでした。テレビに出たからといって、テレビに飲まれもしなかったし。デビュー30年でも、サウンドが変わらないし(聴き込んでいる人は音は変わっていると言う人もいるかもですが)、マイペースでした。どこかに書いてありましたが、ほんと空気のようにサザンがいたという感じなんでしょうね。

 そんな、テレビを含めたメディアとのかかわりにおいて、ミュージシャンをプロでやっている人にとっては、サザン以前、サザン以降という時代区分はありそうですね。サザンはミュージシャンをすごく自由にしたのでしょうね、きっと。それをミクロな視点で見ると、あの頃、テレビに出ているという1点で、サザンはロックじゃないみたいなことを言う人も多かったですから、今の状況を眺めながら、桑田さんなんかはいろいろ言いたいことあるんじゃないかなと思います。まあ、本人ではないので、わかりませんが。

 時代は変わらない、ということと、時代は変わる、ということはいつもコインの裏表のように等価にあって、時代を変えるのは、じつは変わらない人であるということが、なんとなくサザンを見ていると読み取れるような気がします。

 変わる変わると言い続けることが、変わらない日常での自身の優位性を確保することを意図している、なんてことはよくあることだし、あんまり自意識の発露としては品がいいものでもないよな、なんて自分の書いてきたことも含めて思うので、そんな変わらない日常の中で、昨日と今日の感情の差分をじっくり見極めていきながら、そのときどきの思いを、コツコツと積み重ねていきたいな、なんてことを考えました。

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2008年5月29日 (木)

精神医療と私たちはどう付き合っていけばいいのか

 私の世代は、教養として、フーコーやレインの反精神医学の流れに少なからぬ影響を受けてきました。今でも多くの若者が、ある時期、自分の問題として精神医学や心理学をかじったりするものだと思いますし、私の学生時代では岸田秀の唯幻論(フロイドの精神分析の社会論への援用)にはまったり、わからないまでもラカンやテレンバッハ、日本では木村敏なんかの書物を紐解いたりしました。

 そこに描かれる精神疾患は、ある意味で、ロマンティックな精神の深淵を覗かせてくれるものとして描かれています。患者さんにとっては迷惑な話ですが、そうした症状を実存の問題として読んできました。それはアカデミズムだけでなく、文学なんかでも同じだったと思います。私の読書体験で言えば、統合失調症(精神分裂病)は、とりわけ実存分析学派において、ある時期まで関係性の病として哲学的に論じられてきましたが、向精神薬の開発にあわせるように、そうした記述が急速に少なくなって来たような実感を持っています。

 精神分裂病が統合失調症という名前に変更された背景には、そうした背景による患者とその家族への偏見があったといいます。また、社会的なインフラとしてウェブが整備されるに従って、患者本人の言葉や、患者家族の手記なども読む機会が増えてきて、実体とかけ離れた偏見も少なくなってきているように思います。というか、そうなってきていると思いたい部分があります。

 うつ病も、現代を代表する精神疾患としてメディアで度々登場しますし、それに関して言えば、例のアナウンサーの件でも、もっともっと精神医療が気楽になっていて、あのアナウンサー本人がもっと知識があれば、あの哀しい出来事は防ぐことができたのに、と思ったりしました。ただ、あの報道の情報だけでは何とも言えませんが。

 けれども、例えば、通常のうつ状態とうつ病の症状の決定的な違いや、うつ病と躁うつ病(双極性障害)との違いは、ほとんどの人が理解していないと思います。もちろん、日常でその違いを積極的に理解する必要があるのかどうかはわかりませんが、少なくとも、うつ状態とうつ病と躁うつ病は違うことがわかっているだけでも、すいぶん社会的な状況は変わってくるだろうな、という思いはあります。

 そんなことを考える私でも、実際にわからないことが多く、老齢になるとそこに認知症の疑いがからんできて、実際にとまどい混乱してしまう現実をあたふたと生きています。双極性障害の場合、脳内神経伝達物質を介した神経伝達機構の障害であると考えられていますから、基本的には、生涯にわたる継続的な薬物治療が主になります。その重要性でさえ、私はあまり自覚していませんでした。そのことをもっと知っていれば良かったと思います。

 しかしながら、ここで私がわからなくなってしまうのは、その症状が、正確に言えばその症状の発現なり悪化なりが、本当に脳内神経物質に起因するだけのものであるのかどうかということです(生活での出来事が大きなきっかけになることは理解していますが)。これに関しては、私の知識では不明な部分でもあり、もっと知識を得ればクリアになる部分かもしれません。でも、その疑問は、人生をふりかえると容易に実存の物語として完結させることも可能なような気がしますし、まわりの家族を苦しめる原因になる一方で、その心の歴史なんかが原因であるとすれば、救われる部分でもあるのも事実です。

 そして、実際には症状の悪化によって、薬物治療自体にも疑問をもってしまうこともあり、安易な反精神医学的な流れには、実際問題として、個人的には憤りに近いものを感じてしまうものの、そうした気分がもたげてくるときもあるにはあります。

 症状が悪化して、その症状は認知症に起因するものである可能性が大きいという医師からの告知によって、私を含めた家族は大きく動揺しました。今後の対応なんかも本気で考えなければいけない状況になり、どうしていいのかわからない不安が襲いました。しかし、その不安は我々側の誤解があったことも事実です。大規模な総合病院でも、専門的な医療体制は専門医療機関には劣る部分があり(それは目的の違いから来るものです)、そういう意味で今後の対応を早めに考えなければならず、担当医は、そういう意図での助言でした。現在の症状の悪化は、認知症の急激な進行ではない可能性が大きいということでした。

 また、専門の医療機関に対しての偏見もありました。ウェブとこれだけ親しんでいるにもかかわらず、私は一度として、専門の医療機関についての情報を摂取しようとしませんでした。また、私たち家族は、今から思えば、家族のあいだでは大きな感情のうねりがあったものの、そのことを医師に伝えようとしていなかったんですね。医師を信頼すると言っても、信頼される医師にしても、神ではないので、言わなければ不安な部分がわからないもの。それを伝えたとき、はじめてものごとが一歩前進する実感が持てました。

 そんなここ最近の出来事を通じて、私たちがどう精神医療と付き合っていけばいいのかを問われたような気がします。過剰な期待と、遠慮。そして偏見、無知。それを実感しています。まだ渦中にあるので、結論は書くことができませんが、問題意識のひとつのあり方として、このブログに書き起こしておこうと思いました。きわめて個人的なことでもありますので、このまま個人的なこととして書かない選択もできましたが、こういう問題意識は社会に開くほうがいいという考えに至りました。書くことと書かないことをその都度判断しながら、出来る限り開いていきたいと考えています。

 多くの同じ問題で悩む人のために、社会的な記録として残す意図がありますので、このエントリに限り、コメント欄とトラッバック機能は停止しています。ご了承ください。また、事実誤認の指摘などは、メールにてお知らせいただけるとうれしいです。

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2008年5月27日 (火)

豆ごはん

豆ごはんは、いいなあ。
あのなにげないとこ。
まぜごはんもうまいけど、あれは味の調和が見事すぎる。
鶏と昆布と醤油とお揚げと人参とこんにゃくとごはん。
そいつらが協力しあって、いい感じすぎる。
お茶なんかをかけると、それがよくわかる。
うまみがお茶に溶けだして、
なるほどなあ、料理というのはこういうことなんだ、
そんな感じがときどき鼻につく。
白いごはんもうまいけど、愚直なところがたまにきず。
ありのままの自分を認めてほしいっす。
そんな若さがときどき恥ずかしくなる。
磯じまんを塗りたくって、いじめたくなる。
豆ごはんのつくり方。
えんどう豆をむいて、お塩とお酒と昆布一切れ。
お米とまぜて、あとは炊くだけ。
えんどう豆のもの足りないうまみ。
辛いのか甘いのかわからないごはんの塩加減。
五穀米みたいヘルシーを主張するでもなく、
かといって炊きたてだね、とか炊き方がいいねとか、
言われたがっているわけでもなく、
それでいて、なんかいいなあ、と思わせてしまう。
あの感じが、好き。
あっ、今日は豆ごはんなんだ。
それ以上の言葉がいらない感じの
なにげないところが、いい。
ほめなくてもいいですよ。
そんなたたずまいが、えらいよなあ。
それにくらべると、まだまだだなよあ。
この年になっても、ほめられたいもんな。
豆ごはんは、いいなあ。

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2008年5月25日 (日)

このブログは私です。

 ちょっと理想論にすぎるかもしれないけれど、ブログというものが、このブログは私です、というふうに進化していけたらいいのに、と思います。ブログをはじめてもうすぐ1年になりますが、私にとってはブログというものは思ったよりもいいものであるな、という実感があります。このブログを始めてから知り合った人たち。その中には、私よりも前にブログをやっていたり、はじめたりした人もいます。その人たちのブログは、その人の実際を見て、そのブログを読んでも、それほど印象は変わりませんし、そのブログはその人自身であるように感じられます。

 また、実際にお会いしたことのない人、お名前を知らない人でも、ブログは、ツールというかメディアの特性として、ひとりでいるときの思考を書き記すものであるので、実際に顔をあわせているときにわかる表情の変化や、不特定多数に届けられるブログには書けない様々な個人的な事情は知り得ないにしても、その分、その人の孤独な思考なんかでつながっている部分が多く、ああ、この社会でその人が生きていると思うだけで、なんとなく孤独の連帯みたいなことを感じさせてくれることがあります。もちろん、身の回りにいる大切な人より、その人のことをわかっているとはまったく言えないけれど、そうしたあっさりとした関係であるにしても、その連帯の意識みたいなものは、わりと確かな感覚です。

 ブログブームみたいなある種の熱狂がひとまずやんで、ブログにまつわる過剰な期待なんかもなくなってきたようです。それとともに、周期的に起こってくる話題ではありますが、匿名とか実名とかの話も少し飽きられてきている感もあるような気がします。なんとなく思うのは、コミュニケーションという観点で言えば、このブログは私です、という同一性がある程度保たれていさえすれば、コミュニケーション上は、私のようなハンドルネームでの運営でも、さして不都合はないように思えてきました。まあ、ある一定の異論反論がある論議には現実社会との同一性も厳しく問われてくる状況はあるようには思いますが。

 そんな環境の中で、私の知り合いもブログをはじめる人が増えてきて、それはちょっとうれしいことでもあったりします。私もそうだったけど、はじめは危なっかしいな、と思いながら読んでいても、時が経つにつれて、その人ならではの話法を発見していって、自然になってくるもんですね。私は、SNSよりもブログの方が性に合っていて、きっと、ウェブで何かを表現したいと思っている人の中にも、そういう感覚の人も多いと思いますので、ブログの参入障壁がゆるやかに下がってくるような感じになればいいと思っています。

 あと、このブログは私です、というような感じでやっていると、現実の社会ではなかなかコンタクトできない、例えば年配の人や年下の人なんかの考えと接することができます。私は、書かれたものだけが根拠であり、属人的なその背後のものは関係させるべきではない、というような考え方には立ちませんが、それでも、孤独な思考だからこそ、そうした年齢や所属の壁を超えられるところもあるのでしょうね。それは、何と言うか得難い経験です。ある意味で、日本の社会が村的なコミュニティ性を失いはじめて、それをブログが代替している部分もあるのでしょうね。例えば、ここはひとつ長老に聞いてみよう、あの先輩に聞いてみよう、とか、そこの若いの、どう思う、みたいな。

 このブログは私です、というテーマをめぐって、つらつらと言葉を重ねてきましたが、その中で、いろいろ別のことも思いついたりしました。そのことは、またあらためてネタ的にエントリを起こそうかな、なんて思っています。そろそろ、サザエさんが始まって、ああまた新しい週が始まるなあ、といううんざり気分の時間ですが、よい日曜日をお過ごしください。ではでは。

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2008年5月24日 (土)

人生は物語なのか

 極東ブログ「[書評]もういちど二人で走りたい(浅井えり子)」を読みました。マラソンランナーの浅井えり子さんも監督の佐々木功さんも存じ上げませんでしたし、二人の関係や、その関係にまつわる話題も知りませんでした。でも、こうした書評を読むだけでも、人生というものは、なるほど物語のようでもあるな、と十分に感じさせられます。

 厚労省は単なる慢性病、しかも遺伝的影響の強い慢性病を「生活習慣病」と言い換えて健康を自己責任化に見せつつ、国民の身体管理を始める時代になった。が、病というのは、人生の物語に仕組まれているものではない。
極東ブログ「[書評]もういちど二人で走りたい(浅井えり子)

 私は、いま、人生は物語なのかもしれないという呪縛の渦中にいて、人生は、決して、あらかじめ物語として仕組まれるものではないとわかってはいても、その物語であるかもしれないこと、いろいろな断片を組み合わせると哀しすぎる物語になることに、ちょっと耐えられなくなってきています。まあ、いろいろな人の人生を俯瞰して見れば、私の置かれている状況は、よくある話です。

 私は、哀しすぎる物語を軽々と破壊する、内なる生命力に期待をしていて、でも、それはつまるところ、本人の生命力みたいなものに期待するしかなく、家族であろうと根本的には何のコミットもできないことに、ちょっと自分勝手な言い方ですが、少し苛立を感じています。病と闘っているのは本人である、ということは理屈ではわかっていても、しょうがなくそう思います。いざと言うとき、人間なんて弱いもんだな、と思います。

 理性的に考えれば、佐々木の52歳というにはなんら物語的な理由はない。ただ、時代から残されてしまえば物語のように見えるし、物語であることで、「愛」という言葉に再定義を迫る、人の経験というものを残す。
極東ブログ「[書評]もういちど二人で走りたい(浅井えり子)

 それは要するに、今ある苛立は、物語を先取りして、必然の物語から遡行して、得体の知れない何者かに「愛」を問われてしまう苛立かもしれないな、と思いました。人生は物語なのか、という問い自体が、物語としての人生から自分を疎外してしまうように機能し、それがいけないのかもしれないですね。こうした言葉を書き綴ることで心が落ち着いてくる、という自分の特性みたいなものは、あまりよいものではないと思うのですが、まあしゃあないですね。

 今は、みんな元気でお正月が迎えられればいいな、なんてことをひたすら考えていて、そうできたとき、なんか物語の呪縛から勝利できるような気がしていて、物語に負けてたまるかと意気込むものの、やはり何もできず、その向こう側に医療というものが厳然とあって、そうした医療は、人生という物語に、そのメタな価値性として君臨して、個々の人生を断罪すべきではないと思います。そこが、生活習慣病や健康増進法なんかの違和感です。単純に、なんかやな感じって思ってしまいます。

 でも、健康増進法自体はいいことという前提性が強く、こうした違和感は説明が難しいので、こうした息苦しさはしばらく、社会の流れとして続くのでしょうね。今の社会って、この手のことが多いような気がします。

 なんか書いているうちに、よくわからなくなってきましたし、人生が物語かどうかなんて、どうでもよくなってきました。こういう文章って、慰みっていうんでしょうね。まあ、こんな文章を書くということ自体が目的みたいな文章を公開するのも気が引けますが、こんな感じもブログというものでしょうから。

 今回、オチはありません。読んでいただいた方、なんかすみませんね。恐縮です。(追記:なんか読み返すと、よくわかんない妙な感じが行間のそこかしこにただよっていますね。結論で言うと、人生は人生で、物語ではなく、その人生を解釈することで物語になる、ということなので、その人の解釈次第ということなんでしょうね。それとともに、人生とは解釈の積み重ねとも言えるのではないか、なんて考えています。では、よい日曜日を。)

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2008年5月22日 (木)

開いていくことはいいことなんだ

 私は吉本隆明さんの本をたくさん読んできました。その中で何度も何度も出てくる言葉に「開いていくことはいいことなんだ」という言葉があります。それこそ、吉本さんがデビューした頃からずっとずっと出てくる言葉です。その頃は、ネットというものも当然ありませんでした。

 この「開いていくことはいいことなんだ」という言葉は決め台詞で、いろいろな持論が展開されたときの根拠として出てきます。とにかく、開いていくことはいいことなんだ。そう言われると、そうか、開いていくことはいいことなんだな、なんて思ったりしましたが、それがどんなことなのかは、いまいちピンと来ませんでした。

 逆に、世間的に良しとされていることでも、閉じていく方向性を持っているから駄目なんだというふうに主張する時もあります。文学者や知識人による反核運動(「文学者」による反核声明)が起きたときにも、吉本隆明さんだけは、その運動の閉じていく方向性を批判していました。『「反核」異論』という書物も出版されました。

 あれから随分と時が経ちました。ネットという通信インフラが整い、ブログができて、ウィキペディアができて、YouTubeができて、今、開いていくことはいいことなんだ、という意見はそれほど特別な意見ではありませんよね。そんなことを言われなくても、みんな開いているし、そこから新しい文化も生まれています。細部を見ればいろいろありますが、国家も、経済も、文化もみんな開く方向性で進んでいます。

 吉本隆明という人は、この一点だけをとってみても、すごい人だと思うんですね。私は、仕事のやり方で、いままでとひとつだけ昔と違うやり方をしていることがあります。それは、この開くことはいいことなんだ、ということを実践するということです。出来る限り自分の持っている情報や思考を、相手に開いていく。そんな感じで仕事をしています。

 自分が開くことで、相手も開いてくれる。そう信じられないこともたくさんあるけれど、とにかく開いていこう。そんな感じです。今、生活まわりでいろいろあることも、隠すのではなく、なるだけ開く、つまり話してみることで、世の中には自分と同じようなことを考え悩んでいる人が案外多くいることを知りました。知見が足りないと言われればそれまでだけど、それは、今の私にとって少し救いになっています。

 もちろん、すべてを開くということではないし、自分をすべて開ききるということも幻想だとは思います。こういう楽観的なことを無責任に垂れ流すのは好きではないので、あえて書きますが、開いていくためには、開いていいのかという判断は厳しく問われると思いますし、この相手には開いてはいけないということも問われてくるのだと思うのですね。

 例えば、一時期話題になった山岸利男さんの『信頼の構造』にある「正直は最大の戦略」と導き出されるゲームのルールは、一度だましたり裏切ったりしたプレイヤーとはゲームを二度としないというものだったはず。こういう時代だからこそ、この視点がない楽観論は、むしろ有害なのではないかと個人的に思ったりします。

 けれども、それでも、とにかく、開いていくとはいいことなんだ。吉本隆明さんが言い続けてきた言葉が、こんな時代になって、なんとなくですが、やっと身にしみてわかってきたような。それにしても、なんか恐るべき先見性ですね。あの爺さんには一生かなわないな。もちろん、はなから私がかなうわけないんですが、不遜にもそう思ってしまう、今日この頃です。

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2008年5月21日 (水)

 文体のことを考えていたら、こんなエントリ。(知人というか先輩のブログですけどね)

そんな例のひとつが、「世界で一番短い手紙」。有名な話ですよね。
それは、1862年、ヴィクトル・ユーゴーと出版社の間で交わされた手紙。
ユーゴーは、出版された「レ・ミゼラブル」の売れ行きが気になっていた。
そこで、手紙にたった一文字「?」、と書いて送った。
それを見た出版社は、「!」と一文字だけ書いて、返事を出した。

短い手紙。:コピーライターの頭の中

 なるほどなあ。いい話。文体を考えることは、伝える相手のことを考えることでもあるのかな。引用したユーゴと出版社、そして、その後に書かれている、南極越冬隊で働く夫とその妻の手紙。そんな深い絆で結ばれた相手に届けるための言葉。文体の究極って、こんな短い言葉だったり、あるいは、もっといけば、それは沈黙だったりするのかもしれません。なんか考えさせられます。

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2008年5月20日 (火)

ですますで書くか、だであるで書くか。あなたはどっち?

 まあブログなんだし、好きなように書けばいいんじゃないかと思うけど、個人的には「だである」調は苦手ですね(書くのは、という意味です。読むのは、どっちも好き、というか、文章と内容によりますね)。どうしてかというと、私が広告屋さんだからですね。この理由はちょっと説明がいるかもです。

 広告関係の年鑑を時系列で見ると分かるかもしれませんが、広告の文章は「だである」調と「ですます」調が半々くらいだったのですが、ある時期を境にして、めっきり「だである」調が少なくなってしまいました。ある時期というのは、きっとバブル崩壊あたり。ここから先は私の仮説ですから、そのつもりで読んでくださいませ。

 要するに、ものが売れなくなって、相対的に消費者が強くなったんですね。そうなると、広告が商品の物語やイメージを描いて、消費者に読め、見ろ、というふうにいかなくなったんです。今までの広告は、情報発信。いかに優れた情報発信をするかが勝負所でした。でも、消費者が強くなると、消費者の声を聞くことが大事になってきて、そうなると、発信側のしゃべり方も丁寧になりますよね。だから「ですます」調が増えた、と。

 共感を軸に考えると、憧れから、いい人、やな人、というような等身大の共感に変わったということです。広告は、というよりブランドは、基本的には羨望と尊敬を構成要素としていると思います。その強烈なアンチテーゼとして、ブランドを、ああアホやなあ、でも、おもろいやっちゃな、という、ちょっと下から目線な親しみを要素に構成したのが大阪面白CM。

 で、海外の有名ブランド的な羨望と尊敬と、大阪面白CMを代表とするアホなやっちゃな、でもお前のこと好きやで的な広告のあいだにあるたくさんの広告では「ですます」調が主流になっていったわけです。私は、「だである」調から「ですます」調への移行をはっきりと覚えています。ファッションの仕事が多かったので、ファッションについて語ることが多かったのですが、ある時期、はっきりと「だである」調では伝わらないなと思ったときがありました。これじゃ、伝わらない、と思ったんですね。

 それからというもの、日夜、「ですます」調。最初の頃は、「だである」調で書いたものをわざわざ「ですます」調に直したりしていました。今では「ですます」調がすっかり染み付いてしまって、気づくと「だである」調が苦手になってしまっていたんですね。というか、今書いているような感じは「ですます」調というよりも、会話とかおしゃべりみたいな書き方かもしれません。

 そんな感じで書いているのですが、ときどき「だである」調で書くこともあります。その日の気分です。昨日のエントリなんかもそうですね。そのへんは、書いているときはあまりこだわりなくやっています。でも、客観的に読むと、なんとなくぎこちないかもですね。日々書く、という意味では、私の場合、今のところは、こういうおしゃべり調が圧倒的に書きやすいです。いわゆる散文なんでしょうね。凝縮させるのではなく、いろんなことが散っている感じ。

 あと、余談。「だである」調とは言いますが、このところの傾向として「である」はあまり使われなくなっているような気が。昨日の私のエントリでも、「表現の場としては頂点であったようだ」と「なんとも本末転倒な話ではあるが」というのがありましたが、「である」はありませんでした。なんでだろう。

 もうひとつ余談。「だ」という言葉は、関西弁では「や」になります。「だね」は「やね」ですね。哀しい色やね、のやねです。「だ」という書き方にいまいちしっくりこないのは、私が関西言葉系列の人間だからかもしれません。関西人が「だ」で文章を書くのは、物書きになるという意識のジャンプが必要なのかも。中島らもさんの本を読んでいて、そう思いました。私にはその意識のジャンプはあまりないかも。

 しかし、文体って何でしょうね。

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2008年5月19日 (月)

かつてテレビは軽蔑される存在だった。

 TBSのドキュメンタリー番組「あのとき…村木良彦氏とTV私論 是枝裕和」を観た。テレビ黎明期の話。放送局ではラジオがメディアとして偉く、ラジオ制作部は駄目な人、使えない人を新しくできたテレビ制作部に出したとのこと。もちろん映像メディアが軽く見られていた訳ではなく、映画は、表現の場としては頂点であったようだ。一方、テレビは紙芝居と揶揄された。テレビ黎明期の武勇伝はよく聞くけれど、そうした現実のリアルな話はあまり聞かない。けれども、よく考えれば、そんな感じであることは容易に想像できる。

 今や死語かもしれないが、広告代理店にはラテ局という部署があった。テラではなくラテ。ラジオ、テレビ。それは、できた順番というだけではない何かが表現されていたのだろう。テレビは、映画の模倣から始まったとドキュメンタリーは語る。けれども、落ちこぼれのテレビマンたちは、映画に近づくことをあきらめる。カットが多く、緻密にモンタージュされた構成を放棄し、カットが少なく長まわしする手法を選んだ。そのために、長まわしに耐えられる素材を探し始める。なんとも本末転倒な話ではあるが、時代を根本的に変えてしまうことは、そういうご都合話から生まれるのだろうな、と思った。

 しかしまあ、テレビ黎明期を支えた人たちのすごいこと。構成、寺山修司。音楽、山本直純。もちろん、このドキュメンタリーの主役である萩元晴彦、村木良彦。笑福亭鶴瓶がよくラジオで嘆く話がある。昔のラジオは挑戦があった、自由があった。そこにマーケティングが入って来て、ターゲットをセグメントした。斜陽のラジオ局だから、広告を取るためには仕方がないことかもしれない。結果、深夜はアニメ番組と、アイドルが出演する全国ネットの30分番組ばかりになった。大阪のラジオは終わった。鶴瓶はそう嘆きながら、大阪のラジオ番組に今も出演し続ける。自身を育ててくれたラジオを蘇らせるために。

 逆に見れば、ラジオは終わったと嘆くことで、鶴瓶にとって、ラジオは今も黎明期であるとも言うことができる。テレビは終わった、新聞は終わった、広告は終わった。そう認めることで、黎明期を生きることができるのかもしれない。自分の領域で言えば、黎明期を生きるということは、広告とは何かと問い続け、ひとつひとつ形にしていくことなのだろう。広告とは何かと考えることは、その答えを形にしていくことがなければ、ただの問答に過ぎない。いろいろ考えさせられた。月曜日が始まる。

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2008年5月18日 (日)

ちゃうで、ちゃうで、そういう意味ちゃうで、と言いながらしゃべるのってめんどくさいやんか。

 ダウンタウン松本さんの深夜ラジオにて。話題になっていたから、今回のラジオを聴いた方も多いと思いますが、大まかに言えば、全体を見ずに一部の言葉だけ抜かれて批判されても答えようがないし、という感じでしたね。ことの発端は、こちら

 私は、前回のラジオを何となく他のことをやりながら聴いていましたが、印象としては、まあなんということもないおしゃべりでした。大筋は、こと人の生き死にに関係することでもあるし、加熱報道でブームがつくられて模倣者が出るのだから、センセーショナルに報道するのはいかがなものかというものだったし。これだけ見ると、当たり前というか、芸人らしからぬ常識的な意見です。なので、あとでこんなに話題になったのは意外でした。それとともに、でもそういうこともあるだろうな、とも思いました。

 ということを書きながら、私は別に「アホが死んだら別に俺はええねん」という考え方に同意しているわけではないですが、と書かないといけないかな、なんて思っている私もいて、それが今回のラジオの松本さんの「ちゃうで、ちゃうで、そういう意味ちゃうで、と言いながらしゃべるのってめんどくさいやんか。」という発言が、ちょっと心に引っかかりました。

 まあ、失言なんでしょう。きっと、この言葉の後ろには無言の「ええことないわ」というツッコミが含まれているのだと思うんですよね。隣に浜田さんがいれば、松本さんの頭をどつきながら、「ええことないわ、ボケっ」と怒鳴るところでしょう。この番組の相方の高須さんは、松本さんシンパ的な役割をしていて、そこがこの番組の弱さでもあるし、ある意味では魅力というか狙いとも言える部分で、それは、テレビの「ガキの使い」とは違う松本さんを出したかった松本さんと高須さんの意向もあったのでしょう。

 この「放送室」というラジオは、二人でしゃべっていても、松本人志というパーソナリティのモノローグだと思います。私は、今回の騒動をモノローグ的なものの弱さなんだろうな、と思いました。ブログなんかも、基本モノローグで、そのへんの弱さは持っていたりします。そういう意味で、「ちゃうで、ちゃうで、そういう意味ちゃうで、と言いながらしゃべるのってめんどくさいやんか。」という部分に、そうだなあ、という思いと、でもモノローグって、めんどくさいもんだよな、という思いが入り交じった妙な気持ちになりました。

 ダイアローグ的なおしゃべりなら、相方がその言葉尻をあえて捉えてみせて、「松本さん、そんなこと考えているの?鬼畜やなあ」なんて言って「俺、そんなこと言うてへんやん」とおどけてみせて「いやいや、言うたがな」なんて展開になるんだろうな、と思います。でも、そうなったとしても、同じ状況が起こってしまいそうな時代の空気は、ちょっとなあ、と思うところもあるんですけどね。でも、これはいずれ成熟していくでしょう。というか思いたい。

 漫才とか落語とかが、毒がありつつ面白いのは、それがダイアローグ的だからなのかな、と思いました。小説なんかも、例外はいっぱいあるけど、大まかに言えばその構造はダイアローグだと思うし。モノローグは、基本は評論で、突き詰めると、きっと詩や歌になるのでしょうね。で、モノローグは、自意識の拡張を目指し、ダイアローグは、それぞれの自意識に変化を迫るものなのだろうと思います。どっちがいいか、ということではなくてね。

 松本さんのラジオでの発言を巡る今回の騒動については、いろいろ考えることはあったけど、その文脈に入っていくと、Yes or Noの世界に入っていきそうなので、それについては華麗にスルーという感じですが、ちょっと脇にずれながら、こんなことを考えました。

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2008年5月17日 (土)

ネタ切れ中

 いやあ、面白いほど何も思い浮かびません。ということをブログに書くのは、ちょっとどうなんだろうなとは思うけど、土曜日だし、なんか書いてみようかななんて思ってみたものの、なんだろう、この根深いネタ切れ感。忙しいからかもしれないけど、ブログに書くことがないというのは、なんか物足りない感じはしますね。わりあい毎日各タイプのブロガーのみなさんはどうなんでしょう。どうですか?

 なるだけ毎日書くタイプのブログの面白さは、読み手の立場から見ると、あ、このごろ落ち込み気味だなあ、とか、おお、このところ絶好調ですね、とか、そんな日常の連続性の中で書き手の心が動いていく様子がわかるところかな。他人の生活を覗き見しているみたいな。まあ趣味が悪いって言えば悪いんだけど、人と付き合うってことは、そういうことだと思うし、なるだけ毎日書くことで、強いところも弱いところも見えてくるっていうのは、隙を見せるっていう人間的な感じがあって私は好きですね。これも、あえて隙を見せることの隙のなさみたいに考えることもできるけどね。

 実家のもろもろのことは、いろいろ大阪東京間を電話で連絡を取り合って、いろいろとあることはあるんですが、まあ、距離の問題があって何もできないのがもどかしいと言えばもどかしいですね。このへんはあまりブログでは公言してないので、愚痴って言えば愚痴なんだろうな。思うところもあるから、あらためて何か書くかもですが、ちょっといろいろ考えて書かないとなと思っています。

 ゴールデンウィークが終わってからは、少し忙しいです。みんなキリがいいのか、なんとか5月中にという感じになっているので、最終週のスケジュールはプレゼンだらけ。会議、会議、会議。いろいろ新しい人との出会いも増えています。この人と仕事がしたいなあ、と言う思いを実践しはじめています。気持ちのいい人たちと仕事がしたいという思いが強くなってきました。同じ仕事をするなら楽しくしたいし。このことをポジティブに言えば、こうなるけど、これ、逆に言うと、もうやな人、もっと言えば、いい仕事をできない人とはなるだけ仕事をしたくないという残酷なことを言っているわけで、そういう残酷さと、その残酷さの逆噴射を自覚しつつ、なるだけいい人と仕事をしていきたいです。

 昨日は、あるカメラマンさんとお会いしました。けっこう長く話し込んでしまいました。私が年下ということもあって、なんか自分の思いをぶつけすぎたかもしれないなあ、なんてちょっと反省。楽しかったです。私としては、私を通じて仕事を得たいというのではなく、私と仕事をしたいということを言われたのが、うれしかったし新鮮だった。このご時世だから、迷惑をかけるかもしれないから、いい仕事にならないかもしれないから、仕事をしたい人とあえて仕事をしない、という選択をしてしまうけど、迷惑をかけるかもしれないけれど、いい仕事にならないかもしれないけど、いい仕事にしたいから、あなたと仕事をしたいという選択をしないといけないんだなと思った。強さがほしいです。逃げない強さというか、あきらめない強さというか、そんな強さ。

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2008年5月13日 (火)

ええコピーやなあ

 自分のことは棚に置いて、私がええコピーやなあなんて思った他人がつくった広告コピーの話など。うちの会社の若手クリエーターには批評はするな、批評される人になれ、なんてかっこいいことを言っているんですが、このブログを見たら、言ってること違うじゃないですか、なんて言われそうですが、たまには私も息抜き、息抜き。あまり有名ではないやつをセレクトしました。では、始めます。

 

たくさんの、Helloと出会える。

 某航空会社の留学プランの広告コピー。いいですよね。なんか、いい感じの光景が目に浮かんできます。留学したくなりますね。たくさんの人たちとのいい出会いが待っていそうです。

 

理由が分かれば、人は動く。

 某コーヒー会社のインスタントコーヒーの広告コピー。テレビCMが流れていましたので、知っている人も多いのではないでしょうか。アルピニストの野口さんが子供たちに「山では生ゴミも凍って残ってしまうんだ。だから捨てちゃいけないんだ。」と教えていました。このコピー、広告コピーを超えて、私の大好きな言葉になりました。ほんと、その通りだと思います。

 

そんな人おらんて。

 某絵具屋さんの企業広告のコピー。ビジュアルは、完璧な女性の肖像。こうあるべき、こうあるべき、を重ねていくと、完璧な人物は描けるけど、実際はそんな人おらんて。まあ、少々不満でも、自分らしい自分を認めてぼちぼちやっていくしかないなあ、なんて思います。

 

爆発しなくても芸術でございます。

 これは、たしかカルチャーセンターの広告だったような。おばあさんが絵筆を持っているのがビジュアル。ブログも、楽しんで書くのがいちばんですね。

 

月曜の朝が好きですか。

 これは、私の大阪時代の先輩のコピー。某大規模店舗街の広告コピー。身内褒めっぽいから、書いた人はヒミツです。ところで、月曜の朝は好きですか。私は、うーん、どうでしょうか。好きなときと嫌いなときがあるなあ。

 

男のメンツ。女のプライド。

 またまた、身内褒めシリーズ。先輩作。これ何の広告だと思いますか。ちょっと考えてみてください。答え。某大規模店舗街が発行するクレジットカード。言えてますよね。カードって、こういうこと。特に、女のプライド、というのがいいですよね。いえ、今日は私が払うから、なんて光景が目に浮かびます。バブルが終わりかけの頃ですね。

 

マナーから、ルールへ。そして、マナーへ。

 これは東京都中央区のタバコのマナー広告のコピー。最初は、マナーからルールへ、というコピーでした。言いたいことは分かるけど、あまりいい印象がありませんでした。当初は、反発する人も多かったです。そういうこともあってかどうかはわかりませんが、こないだ、喫煙所で看板を見たら、そして、マナーへ、という言葉が足されていました。なるほどねえ、と思いました。

 

今日は帝劇 明日は三越

 最後のこれは、百貨店の三越のキャッチフレーズ。ずいぶん昔のもの。私が三越をやっているとき、担当は、みんなこの名コピーを意識しながら仕事をしていたんですよね。「カステラ一番、電話は二番、三時のおやつは文明堂。」とか、「当たり前田のクラッカー。」とか、こういうみんなが口ずさむコピーって、幸せ者だよなあ、と思います。

 広告って何だ、というのは教科書を読めば読むほどわからなくなるけど、こうしたコピーを見ると、ああ、広告ってこういうことか、ってわかるような気がしませんか。こうして並べてみると、短い言葉だけど、その言葉で、今までわからなかったことが、頭の中で気持ちよくパッと開けてくる、というか、そんなコミュニケーションの力が、広告の力だと思うんですよね。

 最近、いろいろしんどいけど、がんばらないとなあ。ではでは。

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2008年5月12日 (月)

551蓬萊の豚まん

 大阪に帰ったら必ず食べます。関西では、百貨店や主要駅には551蓬萊の売店があって、いつも列ができています。4個入り640円。1個あたり160円ですね。コンビニで売っている肉まんよりちょいと高いですが、かなりのボリュームがあります。そう言えば、関西では肉まんという言葉、使わないですね。関西では肉と言えば牛肉のとこを言うようです。

 公式ウェブサイトによると、1日14万個売れるそうです。餃子の王将も、ヒグチ薬局もそうですが、関西人はなぜか個数や店舗数を誇る傾向がありますね。ところで、この豚まん、井村屋なんかの肉まんを想像するときっと裏切られます。井村屋のは、皮がほんわかしていますが、蓬萊はもっちりもちもち。てっぺんにねじりが入っています。1日14万個も売っているのに、ひとつひとつ手作りです。たいしたもんですね。

 この蓬萊の豚まんは、アウトドアでは食べないですね。たいてい家に持って帰ります。小袋入りのからしが入っていて、それをつけて食べます。その小袋、からしが足らないというく苦情が多いのかはわかりませんが、箱に10個ぐらい入っているときがあります。冷蔵庫には蓬萊のからしの小袋が必ずありました。私は、豚まんにはウスターソースです。子供の頃からそうでした。関西では普通ですが、他の地方ではあまりしないみたいですね。えっ、肉まんにソース?気持ち悪るー、と言われます。

 関西人にとって、豚まんはファーストフードではなく、お食事なんですね。公式ホームページの中にあるミニレシピを見ると、それがわかります。揚げまんのみぞれがけなんかは旨そうですね。ちょっと作るのはめんどくさそうですが。

 大阪に出張する東京のビジネスマンの中にもファンが多いようです。家族に頼まれて買って帰る人、多いみたいですね。仕事が終わって、帰りの新幹線の中でビールと一緒に食べる人もいるようです。でも、蓬萊の豚まんって、新幹線の車内中に匂いが充満するんですね。おっ、豚まん食べている人がいるな、とすぐわかってしまいます。買ってくればよかったな、といつも出張帰りに思います。

 東の崎陽軒、西の蓬萊。どちらも全国展開していないところもいいですね。出張なんかで東京と新大阪を新幹線で往復する方は、東西味比べなんていかがですか。

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2008年5月11日 (日)

続・リテラシー考

 リテラシーについて考えるとき、ひとつの出来事を思い出します。職場にて。私の席の隣に座っている、年配のクリエイティブ・ディレクター。彼は仕事で調べものがあったらしく、私に、ちょっとこの言葉の意味、ネットで調べてくれないかな、と言いました。私はちょっとめんどうだなと思うものの、Googleを使ってその言葉の意味を調べ、彼に教えました。すると、彼は、私に次から次へと依頼をするようになってしまいました。

 何回か、そうしたやりとりが続いたとき、少し先輩のアートディレクターが、かなり思い詰めた口調で、その年配のクリエイティブ・ディレクターに言いました。

 「それくらい自分で調べたらどうですか。迷惑なんですよ。」

 私はそのとき、確か、いえいえ、こんなの簡単だから別にかまわないです、とか言って、その場を繕ったりした覚えがありますが、今も脳裏に焼き付いているのは、その年配クリエイティブ・ディレクターの寂しそうな顔です。穿った見方をすれば、確かに彼の一連の行動は、先輩風を吹かすといった感じの部分も見受けられたし、そういう心の底にある動機を見透かされたとこによる図星の感情が、寂しそうな表情の原因であったとは思います。でも、なぜかそれだけではない何かをその表情から感じたのです。

 それは、かつての写植屋さんが廃業するときに私に見せた顔に似ているなと思いました。多くの写植屋さんは、デジタルデザインやウェブの技術を覚えていきましたが、どうしてもその流れに乗れなかった人もたくさんいらっしゃいました。そうした流れに乗れなかった人は、きっとそれぞれの人生で新しい道を見つけていることだと思います。私の知っている方は、いままで酷使した体を治して、田舎で仕事を見つけると言っていました。

 その年配のクリエイティブ・ディレクターは、早期退職制度を使って退職されました。こういう出来事をセンチメンタルに語ることもできますし、Googleの検索の仕方さえ覚えない人は駄目だよね、と切り捨てることもできます。それに、この手の話は、いつの時代にも起こってきたことだとも思います。それに、このことをああだこうだ言ったところで、所詮は人の人生、自分は自分で、この仕事に対する向上心がある限り、新しいリテラシーをどんどん身につけていくと思うし、その余剰の時間やスキルを彼のような人に与えようとは、本音を言えばまったく思わないですしね。

 ここのところ、「コンビニ受診」を原因とする救急医療のことをぼんやりと考えていました。ウェブを通して、緊急医療を崩壊させないために、市民として正しい医療の受け方を啓蒙する活動をしている方からコメントをいただきました。「コンビニ受診」というのは、軽症者の夜間受診のことで、その負担が医師の疲弊を招き、夜間診療の医師不足を引き起こしています。

 その方は、自身のウェブサイトのバナーをいろいろなブログに貼ってもらうことで運動の広がり、つまり市民の医療リテラシーの啓蒙によって救急医療崩壊を防ぎたいと考えていらっしゃいました。しかし、なかなかうまく行かないとおっしゃっていました。私は、その方にアドバイスをしましたが、私はそのバナーをブログには貼りませんでした。

 私は、基礎になる能力を超えるリテラシーを要求する言説は、自身の向上心や利便性、つまりより豊かになるといった利己的な領域に限定的に使われるべきものなのではないかと思っています。その領域を超えて、ある種の公共性に類するものにリテラシーが適応されるとき、それは抑圧につながるのではないかという思いが私にはあります。

 話を先の年配クリエイティブ・ディレクターの話に戻します。彼の行動には、そうしたリテラシーを問うまわりの言説に対する苛立ちがあったのだと思います。もし、Googleで調べものができないということが、業務に対して重大な障害になるのであれば、それをリテラシーという言葉で問うより先に、なすべきことがあったはずです。会社側が研修などをさせて身につけさせるか、それでも身につかなかった場合は退職させるか、異動させるか、です。

 つまりは、教育の領域なのだろうなと思うんですね。そして、教育の問題であるならば、教育を誰がするのかという主体が問われてくるのだと思うのです。「コンビニ受診」を原因とした救急医療の崩壊は、確かに差し迫った問題になっているようです。しかしながら、市民の意識を高めて、市民自らが「コンビニ受診」をしないように啓蒙するウェブサイトがあることの意義は認めるけれども、私が自らのブログで主張をしようとは思わないのです。それは、私がこの問題を他人事であると思っているからではありません。

 この「コンビニ受診」の問題が社会問題であるならば、もはや教育の問題なのだろうと思います。教育は、その根拠のひとつに権威と処罰があるように思います。その場合、保険制度の厳格適応等の方策しかないだろうと思うのですね。緊急性のない軽症者の夜間診療10割負担といった。あとあるとすれば、その保険制度の厳格適応を根拠とした、国や行政、医療機関といった主体による教育です。

 後者は、モラルに訴えるという手法とも言えますが、そのモラルを問う主体は、やはり患者ではなく、前述のとおり国や行政、医療機関であるべきだと思うんですね。教育は、先生と生徒の非対称性によってはじめて成り立ちますから。患者のモラルを問う、患者側、つまり市民側からの取り組みは、やはり患者側への抑圧につながるのではないかと思います。しかも、その言説は、当の「コンビニ受診」常習者には届かない。あえて届くシチュエーションを想像してみると、それは、普通の患者、つまり市民がそうしたコンセンサスを得て、そうした「コンビニ受診」常習者を社会的不適合者として排除する空気によって届けられることだろうと思います。

 それは、パノプティコンの相互監視に似ています。その根本が絶対的な善意によってなされているという部分も。そして、その監視されない中央の塔には、我々には見えないけれど、絶対に誰かがいます。私は、そういう状況を何よりも恐れます。具体的に言えば、このゴールデンウィーク中の平日に、夜間診療ではないけれど、緊急性があるという自分の判断で、街の診療所ではなく、地域の高度医療の役割を担う医療センターに急患として母を見てもらった。その医療センターには連休明けに再診の予約がありましたが、こうした突発的な行為が、「コンビニ受診」と疑われる状況を自らつくりたくない。それもまたひとつの自分の問題です。ちょっと大げさかもしれないけれど。

 この文章を書いていて、少し補足しておきたいこと。コメントをいただいたある方を批判しているわけではないのです。その方は、「コンビニ受診」という言葉が抑圧につながることに気づき、自身のウェブサイトではその言葉を使っていませんし、そうした抑圧に自覚的です。そして、私自身はそのウェブサイトがあること、ブロガーが自発的にそのバナーを貼ることについては素晴らしいことだと思っています。でも、貼らない人がいても、それは他人事だからではないのです。

 私は、その方から、どうすればいいのか意見をくださいと言われました。あれからぼんやりと考え続けて、現時点での答えがこれです。私はその方の行動が素晴らしいと思うし、その方が今持っているジレンマにできる限り応えたいと思うから、出来る限りためらいとか、気兼ねとかを排除して書きました。

 では、私はこれからどうしていくのか。それがきっと問われてくるだろうと思います。それは、このブログで折を見て書いていきたいと思っています。この問題を深く考えるきっかけをいただいたその方に感謝しています。それはその方の意図したこととは違うかもしれませんが、こうした広がりこそ、大切だと思うのです。あのウェブサイトをご紹介いただけなければ、私はこの問題をこんなにも考えなかったかもしれません。それは、誇っていい、大きな成果ではないでしょうか。

 あと、いろいろな情報を見てみたけれど、この問題、行政や医療制度、今の国家財政の問題などが複雑にからむので、難しいです。それと、全国規模で言えば、個人的には制度が「コンビニ受診」を抑制できていないことが問題だと思っています。それと地域に目を向けると、「県立柏原病院の小児科を守る会」のような「柏原病院」であり「小児科」であるという具体性のある取り組みは重要だと思います。この限定的な文脈だと、「コンビニ受診」という言葉は抑圧にはならない気がします。

 ただ、こうした市民の善意にいつまでも負っている段階ではないような気もします。守る会のウェブサイトにある言葉を引用します。

『医師は戦わない。ただ、黙って立ち去るのみ!』 

一般的にはそう言われています。
しかし、柏原病院小児科は違いました。

「もうすぐ無くなるかも知れない」というサインを出されました。

私たち「守る会」は新聞を通じてこのサインを知り、
そして活動を始めることが出来ました。

 柏原病院小児科はサインを出した。それに市民がリテラシー、つまり、市民意識の向上によって応えた。その市民の取り組みは、つまり、この国の医療に対するサインではないのかと思います。今度はこの国や、この国の医療行政が応える段階だろうなと思います。医療を大切だと思う市民にこれ以上のリテラシーを求めることで、国単位の問題の解決をはかるのは、やっぱり違うと思います。医療リテラシーは、自身が今以上の医療サービスを受けるためにあるのであって、医療を救うためには本来ないのだから。

関連エントリー:
「コンビニ受診」という言葉を知って、あれこれ考えてしまいました。
リテラシー考

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2008年5月 7日 (水)

遅ればせながら「ちりとてちん」を観ました。

 今回のゴールデンウィークは、ずっと実家。朝早く起きて、朝飯を作ったり、買い物に行ったり、そんな感じでした。両親とずっといたので、テレビのチャンネル権もなく、自分が選択してたら絶対に見ない番組もたくさん観ました。

 なかでも面白かったのは、NHKの「ちりとてちん」総集編。いいですね。めちゃくちゃよかった。なんか遅ればせながら、ですが。連続テレビ小説は、私は大阪制作の方が好きです。喜代美(若狭)の母親、糸子役の和久井映見さんが特にいいですね。女優ってすごいもんです。

 「私、お母さんみたいになりたくないんや。」

2008y05m08d_1644597842008y05m08d_164427667 と、喜代美が言ったときの糸子の表情。ああいう表情の前では、言葉って無力ですよね。2日にわたって放送された総集編を一気にぜんぶ見た私は、糸子が大好きな五木ひろしさんの「ふるさと」を口ずさんでしまいます。

 「ああ、誰にもふるさとがある。ふるさとがある。」

 まあ、私の場合は、大阪市の真ん中ですからふるさとという感じはしませんが、いい歌ですね。最近は、1周回って、こういう歌が見直されていますよね。いいものは、いい。いろいろと世知辛い時代ですが、それは、今の時代のよさではあるなあと思います。

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2008年5月 6日 (火)

広告的、ウェブ的

 これはいろいろと誤解を招きやすい概念だと思うので、この広告的、ウェブ的という概念を思いつくきっかけから書きたいと思います。それと、あらかじめ言っておきますが、長いです。でも、ひとつ読んでやるか、という方は、少々のお時間おつきあい願います。では、始めますね。

 私が広告を制作する際に重視することのひとつにメディアがあります。テレビ、新聞、パンフレット、ウェブ。その他にも多種多様なメディアがありますよね。そのメディアを大きく分けると、大雑把に2つに分けることができます。

 それは、受動メディアと能動メディアです。受動メディアはテレビ、ラジオ、新聞、雑誌、交通、ウェブのバナーなど。つまり、人が他のことを考えていても目や耳に受動的に情報が入ってくるタイプのメディアのこと。能動メディアは、パンフレットやDM、企業ウェブサイト(スペシャルサイト)など。つまり、人が能動的にならなければ目や耳に情報が入ってこないタイプのメディアのことです。

  受動メディア=受け手が情報を受動的に摂取するメディア
  能動メディア=受け手が情報を能動的に摂取するメディア

 これまでは、情報の発信側の視点から、ATL(Above the line=川上)、BTL(Below the line=川下)という区別をしたり、メディアバイイングやターゲットの母数の視点からマス、SPと区別したりしていました。しかし、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌という4マスという考え方が、交通広告やウェブ広告の登場で、もはや意味がなさなかったり、旧来のメディア区分は、実質意味がないのではと個人的には思っています。

 そこで、私は、上記の受動メディア、能動メディアという区別をしているのです。この分け方は、それぞれのメディアでの表現のあり方を考えるときに利点があります。受動メディアにおいては、人はその情報にまったく興味がないことを前提に表現をつくっていかなければならず、逆に、能動メディアにおいては、人はその情報を欲しがっている、深めたがっているということを前提に表現をつくっていかなければならない、ということが分かるのですね。

 この話は、当たり前と言えば当たり前の話ですが、私にとっては、実務上の必要から生まれた概念でもありました。広告制作者の多くは、テレビCMや新聞広告のような受動メディアの方法論に慣れ親しんでいます。そうした広告制作者は、能動メディアのときでも受動メディアにおいて良いとされている方法論で表現をつくることになります。しかし、そうした方法論で作っても、その能動メディアにおいては理想的とは言えません。つまり、効きません。

 具体的に言えば、新聞広告でよいとされている表現をDMに流用しても、最良の解であるとは言えないわけです。逆も同じです。いま、このメディアはブログですので、ウェブ上の個人メディアを例にとって説明します。ブログの場合、基本的には相手はウェブの全領域です。ですから、より多くの人に伝えるためには、つまりSBMなどにキャッチされるには、タイトルの付け方がキャッチーである必要性が出てきますよね。それが行き過ぎると、「釣り」とか呼ばれたりしますよね。けれども、あらかじめ読み手を知り合いなどに限定したmixiなどのSNSの場合、それはいりません。むしろ、そういう人たちにきちんと言いたいことを伝えるためには、タイトルが過度にキャッチーであってはいけないのです。眺めてみても、普段着の言葉が多いですよね。

  ブログ(受動メディア)=タイトルはキャッチーに
  SNS(能動メディア)=タイトルは普段着感覚で

 本文については、ブログは誰にでもわかるような書き方をするほうがよいですよね。異なる感覚や文化圏の人にも、発信者が何を信じ、どういう文化圏に属するかを匂わせるほうがベターでしょうね。しかし、SNSの場合は、それはあまり必要ないですよね。だって、読み手は書き手のことをある程度知っているのですから。

  ブログ(受動メディア)=本文は誰にでもわかるように書く
  SNS(能動メディア)=本文はわかっている人に向けて書く

 もちろん、SNSでも公開の度合いによっては受動メディア的な要素も必要でしょうし、ブログでも常連読者が多いと、能動メディア的な度合いが大きくなっていきますので、一概には言えませんが。それと、これは私が広告制作者だからこう分析しているだけで、ブログはこう書け、SNSはこう書けといった話ではないことをあらかじめ断っておきますね。

 これまで、メディアの区別に関しては、受動、能動という分け方をしてきました。それを表現の側から見るとどういうことになるのかな、と考えたのですね。そうすると、受動メディアに関しては、広告的というワードが出てきました。そして、能動メディアに関しては、ウェブ的というワードが頭に浮かびました。これ、誤解が多いかもしれません。世の中には、ウェブ広告という言葉や、DM広告という言葉があるからです。ここで言う広告とは、一般的にオールドメディアと言われているフィールドでの表現の方法論のことです。それは、これまでの広告文化の中で培われ高度化したものだから、私は広告と呼んでいます。また、ここで言うウェブとは、一般的にウェブ文化の中で発展して来ている表現の方法論のことです。

 こうして考えると、面白い結論が導きだせたりします。ウェブを例にとります。テキストバナーを含めたバナー広告は、広告的な表現であり、その情報の伝達も広告的。一見華やかに見えるスペシャルサイトは、ウェブ的な表現であり、その情報の伝達もウェブ的。ですから、バナー広告は、これまでのマスメディアの方法論が適用できます。しかし、スペシャルサイトを同じ方法論で作ると失敗してしまいます。口コミサイトもそうですね。広告的アプローチでは失敗します。

 この広告的、ウェブ的という概念を、もっとセンセーショナルに言うこともできますよね。例えば、表現1.0、表現2.0。でも私はそういう文脈には乗りたくなかったんですよね。私は、広告的、ウェブ的という2つは等価だと思うんです。ブログとSNSの比較でもそうですが、じつはWeb2.0と言われる環境の中でも、広告的、ウェブ的があり、その双方が得意なところは違う。そんなふうに考えた方が、現状に近いのではないかなと思ったりします。

  広告的=受動メディア的な表現及び情報発信
  ウェブ的=能動メディア的な表現及び情報発信

 なぜ広告的の対義語としてウェブ的にしたかの説明をします。Web2.0とかCGMとか言われますよね。でも、私には、このブログは旧来メディアの延長線上に見えたんですね。ウェブテクノロジーの進化によって、個人メディア、たとえば自費出版とか同人誌とかが手軽になった感覚。だから、書かれるものは、日記文学と言われるものとそう変わらない。しかし、決定的に違うところもあるんですね。それは、トラックバックをするときに書く内容。これは、書かれる表現として今までにない表現のように思えました。こう言えるかもしれません。

  元エントリー=広告的
  トラバのエントリー=ウェブ的

 まあ、私の思いもかなり含まれていますが、コミュニケーションというものを最も高度化したもの、少なくとも高度化の指向性を持っていた分野は、まぎれもなく広告であると思うのですね。その高度化を別の軸から揺さぶりをかけたのが、ウェブのコミュニケーションであると思うのです。それは、少なくとも見かけ上は能動性の固まりですよね。情報に対して能動的であるという信念のもとに形作られたコミュニケーションであるように思えます。

 感覚的には、その新しさをWeb2.0と呼ぶような気がします。そのセンセーショナルな部分をきれに取り去って、表現の構造だけ見ていくと、それは広告的なコミュニケーションとはまったく違う、ウェブ的としか言えないような方法だと思うのですね。それは、言ってみれば、究極の能動性を前提にしたコミュニケーション。頭の中では、もっと明確に概念化されているような気がするのですが、あまりうまく書けなかったかもしれません。でもまあ、不完全でもとりあえず世に問うてみようというウェブ的な態度で、このエントリを公開してみます。ではでは。

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2008年5月 5日 (月)

リテラシー考

 メディアリテラシーとかネットリテラシーとか言われますが、今回は医療リテラシーについて。このゴールデンウィーク中に私が体験した話を書いてみたいと思います。母の具合が悪くなって、私が帰阪したときには、かなり状態が悪化していました。突発的なことだったので、日常生活のルーティンが少し乱れ気味で、お医者さんから処方された薬の服用もアバウトになっていました。それに、これまで通院していた近くの診療所が処方した薬と、総合病院に駆け込んで処方してもらった薬が混在している状態でした。

 前に、今回はネットに助けられたということを書きましたが、まず私がしたことは、まず薬の内容をネットで調べることでした。今、ネットで検索すると、ほとんどすべてのお薬の内容が分かります。そこで、効能が重複した薬があることが分かったりしました。とりあえずは、効能が重複する薬の一方の服用をやめさせるなどの緊急の対処ができました。

 総合病院で処方された薬の正しい服用ができない状態だったので、連休明けの再診の予定だったところを変更し、すぐに再診してもらいに行くことにしました。そのときに私がしたことは、飲んでいる薬とその量、症状や状況、家族の心情など、思いつくことすべてをメモしたことです。早朝に総合病院に予約なしに駆け込み、担当医にそのメモを見せながら話しました。

 診療という行為は、対話ですから、面と向かったときの雰囲気や状況で、伝えなければならないことも伝えられないことはよくあります。そのとき、箇条書きにしたメモが役に立つのです。お医者さんに伝えるのもコミュニケーションですから、伝える方にもスキルがいります。実際に私も、しどろもどろになってしまいましたし。そのときに、メモは役に立つのです。

 診療という行為は、きっとオリエンテーションと同じだと思います。この場合、プレゼンをする方は患者とその家族側なのです。オリエンテーションで大切なのは、必要なすべての情報を開示することです。そのために、メモは必要です。その場のノリに左右されるおしゃべりでは、情報量がノリに左右されてしまうんです。ちょっと傲慢な言い方かもしれませんが、お医者さんにいい仕事をしてもらうために、いいオリエンをする必要があるのです。

 私は、たまたま帰阪するまでに冷静に考えられる時間がありましたので、ネットで入手したこういう医療リテラシーを吸収することができました。今回、それが非常に役に立ったような気がします。急病などで気が動転することもあると思います。そのとき、ネットで検索して偶然このブログにたどり着いた方、どうか、一度冷静になってメモをとってみてください。

 しかしながら、リテラシーというのは自分の身を守るために身につけるものであるものの、リテラシー、リテラシーと言う風潮はどうなんだろうと思うところもあるのです。なんとなく、よい医療を受けるためには、医療リテラシーを身につけることが必要なのです、ぜひ、あなたも医療リテラシーを身につけましょう、という感じの言い方には抵抗があるのです。

 なんとなく感じるのは、こうした言い方には、弱者を切り捨てるような指向性を持っているような気がするのです。自己責任と声高に叫ぶ風潮とシンクロしているような、そんな感じがします。リテラシーを身につけることは、どこから見ても、決定的に正しいけれど、その正しさの中に、そんな落とし穴があるような気がします。

 こういうことは、広告的に、つまり、受動的に知らされるということが必要なのではないかな、みたいな感じがしています。リテラシーを身につける、というような自発的に情報を摂取するということでなく、みんなが当たり前のように知っている状況をつくる、ということ。これは、ウェブ2.0以前の考え方かもしれませんが、なんとなくそうあるべきなんじゃないかなと思います。このへんは、少し考えを深めてまた書くかもしれません。

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2008年5月 4日 (日)

偽善なのだろうか

 広告は人の生活が幸せになるためにある、と考えるのは偽善なのだろうか。そんなことを最近考える。いい年こいて、いいかげんこんな思考パターンから卒業せえよ自分でも思うのだが、考えてしまうもんはしゃあないかな、とも思う。若い頃は、自分が考える善なるものを通す力もなく、自分が考える善なるもの以外の価値観で事態が動いていくことに、強い違和感を持つことがあった。けれども、今は単純に若気の至りであったのだと理解できる自分がある。
 もちろん、今だって自分が考える善なるものが通らないことはたくさんある。けれども、その善なるもの以外にも、別の善なるものの可能性があることが見えてきてからは、そういう違和感を感じることはなくなってきた。簡単に言えば、修羅場に強く、あらゆる状況に柔軟に対応できる、みたいなことなのだろう。
 この文章は、なんとなく若い広告マンが読むことを想定して書いているけれど、それは、きっと若い頃の自分に向けて書いているということとほぼ同義だと思う。だから、たまたまこの文章を読んだ人は、それぞれ、広告に当てはまる何かに言い換えてもらえれば通じると思う。若い私は、今の私を見て、いいかげんだ、日和見だ、勝手だと思うだろう。しかし、それは半分は違う。今の私は、若い頃の私より、よっぽど善なるものの呪縛が行動を支配している。大人ってどうしようもない、と若い人は思うかもしれないが、大人のほうが、若い人より想像力が遠くまで及ぶ分、善なるものの呪縛による苦悩は深いと思う。と書く私もまだ若いけど。
 もしかすると、それは偽善なのかもしれない。その思いは、自分以外の善なるものが見えてくると、より深くなる。
 けれども、人は、善なるもの以外の行動規範は持てないような気がする。盗人にも一分の理とも言うし。世の中で起こる揉め事の大半は、この正義の問題に起因しているように思う。一見、それが論理の整合性とその破綻を競っているように見えるものであっても。その揉め事を突き動かしているコアは、各人の正義であって、そこには究極自意識に還元されるような気がする。その自意識を社会的に超えようとするものが、政治と呼ばれるものである一方で、その自意識を意識として超えようとするものが宗教と呼ばれるもののようにも理解できそうな気がするが、その政治的達成が妥協であり、その宗教的達成の究極が悟りというものであれば、それはもしかすると常人には超えられないものなのかもしれないとも思う。
 そんな自意識に対峙する唯一のものが、関係であって、それを吉本隆明は関係の絶対性という言葉によって、自意識の上位概念に置いた。それは、吉本の凄まじい自意識の逆説的な現れとも言える気がする。ここで、初めて善なるものの呪縛は悪と結ばれる可能性が開けてくる。相当な関係の契機によってしか、人は悪にはなれない。しかしそのとき、人は、同時に偽善という呪縛からも人は解き放たれる。でも、それは人が恐怖すべきものなのだろうとも思う。
 偽善なのかもしれない、と思うとこ。偽善だろう、と問われること。
 それが生活と呼ばれるものなのかもしれないなと思う。ちょっと泣き言めくけれど、ここ数日、いろいろきつかった。ああ、わかりやすい関係の絶対性やなあ、なんて思った。そんな状態のときに、時間を見つけて、連休明けのプレのために企画作業。そんなもんね、善なるものの呪縛がなけりゃ、やる気にならんて。広告は人の生活を幸せにするためにあると思わないと、やってられんて。偽善なのかもしれない、とは思うけど、まあ、うるさいアホ、偽善で悪いか、という感じでがんばろうかな、と。そんな感じ。

追記:ご心配いただいた方にご報告。おかげさまで、開業医さんや大きな総合病院の先生など、何人もの先生と相談して、私なりに最善の手が打てました。ほっとしてるところです。今回は、ちょっと文体が変わってしまいました。ゴールデンウィークだしね。って理由になってないけど、こんな感じもたまにはいいのかな、なんて。でも、毎回これだと知恵熱出そうだし、ボロも出るでしょうから、次はいつもの感じで。では、みなさまよい連休後半戦を。私も楽しみます。

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2008年5月 3日 (土)

阪神戦のテレビ欄が面白くなってます。

 久々の大阪。阪神タイガースが絶好調。新聞のテレビ欄のコピーも踊ってますね。対ヤクルト戦で9回裏に押し出しでサヨナラ勝利を飾った翌日の、サンテレビの阪神・ヤクルト戦のテレビ中継欄は、こんなんでした。(新聞捨てちゃったので、うる覚えですが。)

ダントツ1位で猛虎激走中。もう負ける気せえへんわ。

 もう負ける気せえへんわって。そんなこと言うてたら負けてしまうがな、と思ったら、やっぱり負けました。そやから言うたやろ、勝って兜の緒を締めなあかんねん、なあ、ワシの言うたとおりやがな、とぼやいた人も多いんでしょうね。タイガースファンは好調に慣れていないので、好調のときはどうしていいかわからないんですね。

 今日の対中日戦は、こんな感じ。

Img200

 テレビで竜退治はいかがですかって。もう勝つこと前提。大阪にも中日ファンはいるでしょうにね。大阪では他球団のファンは肩身が狭いです。私は子供の頃からタイガースファンですから、あまり偉そうなことは言えませんが。

 プロ野球球団は地域性が強いので、どこのファンになるかは親の影響が大きいですね。東京から親の転勤で大阪に来た子供は、隠れ巨人ファンが多かったです。大阪にも巨人ファンは意外にいます。でも、あまり声が大きくないので見えてこないようです。

 サンテレビという神戸UHF局のテレビ中継を観ていたら、阪神甲子園球場のテレビCMが流れていました。「ハンシンファンハ、イチバンヤー!」でおなじみのオマリーさんが出演していて、なつかしかったですね。阪神甲子園球場には駐車場がないので電車で来てね、というCMでした。現在、タイガースの在米スカウトをされているそうです。

 CMと言えば、サントリーモルツの桂ざこばさん。球場で野球観戦をしていて、「川藤出さんかい!」と野次っていると、球場アナウンス。「代打川藤、背番号4。」で、ざこばさん。「ほんまに出して、どないすんねん。」ほんと、よくできてますよね。阪神ファンって、こんな感じですものねえ。川藤さんの野球解説は面白いですよね。正しい意味で野球解説と言えるかどうかはわかりませんが。あと、元阪急ブレーブスの福本さんも。まあ、ああいう解説もあってもいいのではないでしょうか。

 私は、阪神タイガースと言えば、掛布、岡田、バース。日本一にもなりました。あの年は、強かったですね。神がかり的でした。バックスクリーン3連発もありましたね。今思えば、あの快進撃は、あまりに強すぎて、なんとなくわびさびがなく、大味な感じがしないでもないですが、あのときは、阪神ファンは優勝決定の日まで、阪神優勝を信じてなかったですからね。国家を巻き込んだ壮大なドッキリなのではないかと思ってましたもん。ちょっと誇張気味ですね。さて、今日の阪神は、竜退治できるのでしょうか。

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2008年5月 2日 (金)

「コンビニ受診」という言葉を知って、あれこれ考え込んでしまいました。

 5月1日の朝日新聞大阪版社会面に『泉佐野病院救急を停止 内科・外科来月から』という記事がありました。医師不足のため、6月から内科・外科の「救急告示」を取り下げ、夜間・休日診療を当面休止にするとのことです。大阪府南部は、以前から救急医療機関が手薄とのことで、その観点では非常に深刻な事態であると言えるようです。病院としては、病院自体が崩壊しかねない状況であるとの判断で、やむを得ずそういう措置を取ったとコメントしていました。

 この記事の横にはコラムがあって、見出しに『「コンビニ受診」医師疲弊』とあります。コンビニ受診とは、軽症者の救急外来受診とのことで、それが医師の疲弊の原因となっているとのこと。消防庁調べでは、06年に救急車で搬送された約489万人に占める軽症者の割合は52%。記事は、こうした気軽な受診が救急医療を崩壊させているという論調(そうはっきりとは書いていないですけどね。最近の新聞はそういう感じが多いです。)でした。

 私は、この「コンビニ受診」という言葉を今まで知りませんでした。なんとなく下品なネーミングではあるな、とは思うものの、それはある部分では事実を示す言葉でもあるのかもしれません。私は、病院に行くのを躊躇してしまいがちなタイプですから、へえ、そんな人もいるんだなあ、でも、そういう人はいるだろうな、という感想を持ちましたが、しかし、それが社会問題として、キャッチーなネーミングとともに社会面で語られる感じには少し違和感を持ちました。

 なんとなく危惧するのは、こういうキャッチーな言葉が流行ると、医療周りの空気が息苦しくなるだろうなということです。正直、まいったなあと思いました。相当重篤な事態でしか医療に頼れない空気がつくられてしまうのが怖いです。この言葉が流行らないことを祈るばかりです。私には90歳を超える祖母がいるのですが、要介護から要支援に変わりました。医療ではなく介護の分野ですが、すでにそういう方向に社会が進みつつあります。90歳を超えているんですよね。それで、今まで要介護だったのです。それが、本人は年をとる一方なのに、要支援。

 こういう状況は、私が語るまでもなく、もっと深刻な状況に陥っている方がいらっしゃると思いますし、この社会問題については私自身あまりよくわかっていないので、これ以上の言及は差し控えますが、私は、広告屋さんのひとりとして、こうした言葉が流行って、本当に救急医療が必要な人たちが躊躇するような空気にならなければいいな、と思っています。

 この「コンビニ受診」もそうですが、「自己責任」とか「モンスターペアレント」とか、そうしたキャッチーな言葉が流行るとき、世の中は多分にウルトラ化する傾向がある気がします。そうして起こったウルトラ化によってできた空気は、本当の問題を隠してしまうような気がします。これは、広告の力に似ているところもありますが、その広告の力のコインの裏側には、こうしたことがあるのですね。キャッチコピーひとつで、売れてはいけないものもバカ売れするようなことも起きてしまいます。これは、広告屋として自戒を込めて思うことです。

 「コンビニ受診」が示すような人は、どんな社会でもどうしようもなくいると思うんですよね。それを「コンビニ受診」と名付けることで、そういう人を社会から完全に排除しようという方向に物事が動くような気がします。そうなると、どういうことが起こるか。それ、コンビニ受診じゃないの?という相互監視と、コンビニ受診という価値観の肯定の両極しかない状態になるような気がするんですね。本当の解決は、その間にあるような気が、私はしています。

 それはまあ、バランスとか妥協とかあきらめとか言われるような、かっこわるいものでしょうが、こういう問題は、ある意味、社会システムを崩壊させる閾値を超えないようにするにはどうしたらいいかが課題な気がするんです。朝日新聞の記事もそういうことを目指しているんでしょうが、現象としては、きっとそうならない。それは、言葉の悪魔的な力なんだろうなと思うんですね。なんか危ないなあ。あんまり安易にたとえたり、言い換えたり、ネーミングをしたりするのはよくないのになあ。そんなことを、考えてしまいました。

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2008年5月 1日 (木)

母の具合が悪くなって少しわかったこと

 いま大阪の実家にいます。母の具合が悪くなり、今回はそのための帰阪です。ゴールデンウィーク中ということもあって、仕事関係の諸々を最小限に抑えられたのは、ちょっと助かったなあという感じです。ゴールデンウィークは恒例の春一番コンサートを見に行くことにしているのですが、今回は見合わせることにしました。私としては、私の広告の師匠でもあるBRUCE06さんのレポートを楽しみに待とうという感じです。BRUCE06さん、コンサートのレポートよろしくお願いしますね。

 母のことをブログに書いていいのかどうかはよくわからないところがあって、いろいろ考えて、今のところは、やはり書かないほうがいいのかな、なんて思っていますので、すこしわかりにくい文章になってしまうかもしれません。ごめんなさい。

 母の具合が悪くなって、私自身、思うところがあったので、それを書きたいと思います。私は、ここのところ、ずっと家事やら母の対応やらをしていて、そういう目で社会を見てみると、いろいろと気づくことがありました。当たり前ですけど、病院も休日は休むんだなあ、とか、薬を出してもらって、それで2週間様子を見てください、って2週間もかよ、とか。まあ、これは愚痴かもしれませんが、でも、やはり医療は、相当な緊急時というものを想定してつくられているんだなあ、なんて思いました。父の愚痴は、ずっとそれ。でも、今の日本社会を考えれば、しゃあない部分はあるなあとは思いますが、いろんな日常のグラデーションの中に、けっこうきついことはたくさんありますね。

 予防医学なんてことが最近は言われていますが、それはどちらかというと、私のような元気な人を対象としていて、要は、それは健康増進という目的もあるけれど、市場原理みたいなこともあるんでしょうね。けっこう、私も父もへとへとなので、予防医学はいいから、そういう一大事の手前のグラデーションの部分のことを医療がフォローしてくれたら助かるんだけど、みたいなことを不謹慎にも感じてしまうんですが、その部分はあまり期待できない仕組みになっているな、と感じます。

 逆に、ありがたかったこと。それは、近所の人たちのやさしさとか気づかいです。私の実家はマンションですので、管理組合とか町会などもしっかり機能していて、案外コミュニティっていうのがきちんとあるんですよね。結構、長年入居している人もいらっしゃいますし。あれこれ、それこそいい感じで気づかっていただいています。それなりに情報化社会になって、いろいろなことをみんなご存知だったりします。そういう意味では、同じコミュニティでも都会的な良さもある。それは、なんだかんだ今の社会って、みたいなことは言われるけれど、私が子供の頃と比べると格段に良くなったような気がします。

 それと私事だけど、このブログのこと。母が急に具合が悪くなって、あ、ちょっといままでみたいに書けないな、なんて思ったんですよね。なんとなく。まあ、物理的な時間というのはありますけど、たぶんに気分的に。まあね、ブログなんて趣味だから、書けないと思ったら書かなくていいのですが、いつも偉そうに論をこねていることが、日常の出来事で揺らいでしまうのは、なんとなく、暇ネタとかも含めて、その書くという行為に強さがないからですよね。

 あ、この強さというのは、いわゆるマッチョとか言われるような強さってことじゃなくて、逆に、マッチョ的なものの唯一の弱さっていうのは、こういう日常の出来事のリアリズムにぜったいに勝てないってことだと思うんですね。仕事的な部分(言論的な部分と言ってもいいかも知れません)と日常的な部分を明確に分けていればいいのですが、そうでない指向性を持っている場合は、この日常のリアリズムと乖離してしまうのは駄目だと思うんです。吉本隆明さんなら、そういう知とか言論とかは、ぜんぶ駄目なんだよ、と言うところでしょうね。今回の出来事は、まあ、人生のよくある風景であるけれど、私の中のマッチョな部分になんか突き刺さりました。

 実際、私自身も、仕事に関しては、ほとんど影響なしですが、このブログに書くことは影響が出てしまう。それは、たぶん違うんだろうと思うんです。ほんとは、そのことが仕事にも影響をしないといけないし、ブログなんかでも、日常の出来事に影響されながら、これまでどおり書けなきゃいけない。そんなふうに、とりあえず私はやっていきたいと思っています。

 あと、思うのは、今のところ、詳しくは書かないことにしているけど、私がいま取り組んでいることや、そこでうまくいったことや失敗していることなんかは、けっこう、同じような状況の人たちには役立つのだろうな、と思ったりします。本当は、ブログに書くようなことではないな、と思うようなことが、ブログに書かれるべきことなんだろうな、なんてことも思いました。一生活者どうしがつながるウェブの姿は、明示的にははてブやTwitterでもあるけれど、黙示的にはこうした生活者の書いたものを読んで、単に助けられるだけの、一見コミュニケーションがないように見える、そんな沈黙のコミュニケーションなのだろうなとも思います。

 はてなの匿名ダイアリーというのは、そういう可能性を持っているのかもしれないなあ、と思ったりしました。でも、あそこはわさわさしてるコミュニケーションの場だけどね。でも、そのわさわさの時間が過ぎて、まだそのアーカイブが残されているならば、その沈黙のコミュニケーションのひとつの核になる可能性を秘めているのかもしれないです。とまあそんな感じで、まだまだ物理的な時間がない状態だけれど、ぼちぼちとね。ではでは。

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