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2008年5月 4日 (日)

偽善なのだろうか

 広告は人の生活が幸せになるためにある、と考えるのは偽善なのだろうか。そんなことを最近考える。いい年こいて、いいかげんこんな思考パターンから卒業せえよ自分でも思うのだが、考えてしまうもんはしゃあないかな、とも思う。若い頃は、自分が考える善なるものを通す力もなく、自分が考える善なるもの以外の価値観で事態が動いていくことに、強い違和感を持つことがあった。けれども、今は単純に若気の至りであったのだと理解できる自分がある。
 もちろん、今だって自分が考える善なるものが通らないことはたくさんある。けれども、その善なるもの以外にも、別の善なるものの可能性があることが見えてきてからは、そういう違和感を感じることはなくなってきた。簡単に言えば、修羅場に強く、あらゆる状況に柔軟に対応できる、みたいなことなのだろう。
 この文章は、なんとなく若い広告マンが読むことを想定して書いているけれど、それは、きっと若い頃の自分に向けて書いているということとほぼ同義だと思う。だから、たまたまこの文章を読んだ人は、それぞれ、広告に当てはまる何かに言い換えてもらえれば通じると思う。若い私は、今の私を見て、いいかげんだ、日和見だ、勝手だと思うだろう。しかし、それは半分は違う。今の私は、若い頃の私より、よっぽど善なるものの呪縛が行動を支配している。大人ってどうしようもない、と若い人は思うかもしれないが、大人のほうが、若い人より想像力が遠くまで及ぶ分、善なるものの呪縛による苦悩は深いと思う。と書く私もまだ若いけど。
 もしかすると、それは偽善なのかもしれない。その思いは、自分以外の善なるものが見えてくると、より深くなる。
 けれども、人は、善なるもの以外の行動規範は持てないような気がする。盗人にも一分の理とも言うし。世の中で起こる揉め事の大半は、この正義の問題に起因しているように思う。一見、それが論理の整合性とその破綻を競っているように見えるものであっても。その揉め事を突き動かしているコアは、各人の正義であって、そこには究極自意識に還元されるような気がする。その自意識を社会的に超えようとするものが、政治と呼ばれるものである一方で、その自意識を意識として超えようとするものが宗教と呼ばれるもののようにも理解できそうな気がするが、その政治的達成が妥協であり、その宗教的達成の究極が悟りというものであれば、それはもしかすると常人には超えられないものなのかもしれないとも思う。
 そんな自意識に対峙する唯一のものが、関係であって、それを吉本隆明は関係の絶対性という言葉によって、自意識の上位概念に置いた。それは、吉本の凄まじい自意識の逆説的な現れとも言える気がする。ここで、初めて善なるものの呪縛は悪と結ばれる可能性が開けてくる。相当な関係の契機によってしか、人は悪にはなれない。しかしそのとき、人は、同時に偽善という呪縛からも人は解き放たれる。でも、それは人が恐怖すべきものなのだろうとも思う。
 偽善なのかもしれない、と思うとこ。偽善だろう、と問われること。
 それが生活と呼ばれるものなのかもしれないなと思う。ちょっと泣き言めくけれど、ここ数日、いろいろきつかった。ああ、わかりやすい関係の絶対性やなあ、なんて思った。そんな状態のときに、時間を見つけて、連休明けのプレのために企画作業。そんなもんね、善なるものの呪縛がなけりゃ、やる気にならんて。広告は人の生活を幸せにするためにあると思わないと、やってられんて。偽善なのかもしれない、とは思うけど、まあ、うるさいアホ、偽善で悪いか、という感じでがんばろうかな、と。そんな感じ。

追記:ご心配いただいた方にご報告。おかげさまで、開業医さんや大きな総合病院の先生など、何人もの先生と相談して、私なりに最善の手が打てました。ほっとしてるところです。今回は、ちょっと文体が変わってしまいました。ゴールデンウィークだしね。って理由になってないけど、こんな感じもたまにはいいのかな、なんて。でも、毎回これだと知恵熱出そうだし、ボロも出るでしょうから、次はいつもの感じで。では、みなさまよい連休後半戦を。私も楽しみます。

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コメント

mb101boldさん、こんにちわ=(^^)

いろいろ大変でしたね。でも、落ち着かれたみたいで、よかったです。

やらない善よりやる偽善って、こういうときに言うんじゃないのかな。と思いました。

経営で言うと、儲けることは偽善かもしれないけど、不正なくもうければそれは世に資することになると思うし、余計に儲けた分を還元していけるような流れの中でまた別の人が儲けるというのもありなんじゃないかと思います。

まあ、自分の家族がその道いってるから、そう思うのかもしれないんですけどね。

楽しんでストレス解消して、それから、御身たいせつに。

ではでは~(^0^)/


投稿: ggg123 | 2008年5月 6日 (火) 14:58

ggg123さん、まいどです(^0^)/

って大阪風味のごあいさつですが、まだ大阪。あすの早朝の新幹線で、そのまま出社です。結局、ぎりぎりまで大阪にいることになっちゃいました。で、妹にバトンタッチ。

そうですねえ、身内は愚痴も言うし、けっこうストレートにきついことも言うけど、それは親身に思っているから、みたいなことに似ているかもなあなんて思いました。

トラバいただいた方のエントリでもお書きになってらっしゃいますが、前に進むしかない、みたいな感じですね。儲けることは、簡単じゃないし、がんばるしかないやん、みたいな。

明日は東京です。ではでは〜(^^)

投稿: mb101bold | 2008年5月 6日 (火) 17:30

お元気ですか。どこか大変なように見受けられるというのに、こんな書き出しで失礼します。久しぶりにコメントを寄せさせていただきます。

私も、広告に限らず自分の仕事(もっと抽象的に言えば自分の行動)が偽善かどうか考えることがあります。いつもその答えは、偽善かどうかという回答ではありません。私個人の意思を持ちながら働いていることを良しとして、自分に言い聞かせることが一定の結論になっています。自分の仕事を、社会や企業の歯車として見るのは、どうしても抵抗があります。事実上、歯車として決められた枠組みの中で活動をしているとしても、どうにか自分の意思を持っていたい。それが人間的でありたいと思う根源だと思っています。偽善かどうかは、その意思の持ち方、内容によるのではないでしょうか。

さて、こっそりブログを毎日更新することが目標だったのですが、いろいろありまして更新が途絶えてしまいました。ついにというか、やっとというか、です。「ぼちぼち更新」に路線変更しながら、こうやっていろいろコメントを書いていくように「外に出て行こう」かと思っています。書かれておられる内容が私の思考パターンに近いと感じていますので、またいろいろコメントに来ます。それでは。

投稿: そうちゃん | 2008年5月 8日 (木) 01:45

お久しぶりです。

お元気ですか。いろいろお気遣いありがとうでうです。そうですね、私なんかは、偽善かもしれんけど、しゃあないやんかと最近思います。偽善かどうかを自分に問いかけること、それが人間的であることなんてことも思ったりします。もし、私の言うことが自分で完全に善だと感じ始めたとき、私は人間であることを逸脱しは始めたときだ、と思うようにしています。

そうちゃんのブログは、こっそりときどき見ています。本当を言うと、このブログも毎日更新のつもりだったんですよ。でも、そうちゃんなんかよりもっと早く挫折しちゃいました。外に出て行こう、という感じはいいですね。外に出て、戻って、ぼちぼち書いて、また外に出る。そんな感じがいいんじゃないかと思います。これからもよろしくです。

投稿: mb101bold | 2008年5月 8日 (木) 09:09

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