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2008年5月24日 (土)

人生は物語なのか

 極東ブログ「[書評]もういちど二人で走りたい(浅井えり子)」を読みました。マラソンランナーの浅井えり子さんも監督の佐々木功さんも存じ上げませんでしたし、二人の関係や、その関係にまつわる話題も知りませんでした。でも、こうした書評を読むだけでも、人生というものは、なるほど物語のようでもあるな、と十分に感じさせられます。

 厚労省は単なる慢性病、しかも遺伝的影響の強い慢性病を「生活習慣病」と言い換えて健康を自己責任化に見せつつ、国民の身体管理を始める時代になった。が、病というのは、人生の物語に仕組まれているものではない。
極東ブログ「[書評]もういちど二人で走りたい(浅井えり子)

 私は、いま、人生は物語なのかもしれないという呪縛の渦中にいて、人生は、決して、あらかじめ物語として仕組まれるものではないとわかってはいても、その物語であるかもしれないこと、いろいろな断片を組み合わせると哀しすぎる物語になることに、ちょっと耐えられなくなってきています。まあ、いろいろな人の人生を俯瞰して見れば、私の置かれている状況は、よくある話です。

 私は、哀しすぎる物語を軽々と破壊する、内なる生命力に期待をしていて、でも、それはつまるところ、本人の生命力みたいなものに期待するしかなく、家族であろうと根本的には何のコミットもできないことに、ちょっと自分勝手な言い方ですが、少し苛立を感じています。病と闘っているのは本人である、ということは理屈ではわかっていても、しょうがなくそう思います。いざと言うとき、人間なんて弱いもんだな、と思います。

 理性的に考えれば、佐々木の52歳というにはなんら物語的な理由はない。ただ、時代から残されてしまえば物語のように見えるし、物語であることで、「愛」という言葉に再定義を迫る、人の経験というものを残す。
極東ブログ「[書評]もういちど二人で走りたい(浅井えり子)

 それは要するに、今ある苛立は、物語を先取りして、必然の物語から遡行して、得体の知れない何者かに「愛」を問われてしまう苛立かもしれないな、と思いました。人生は物語なのか、という問い自体が、物語としての人生から自分を疎外してしまうように機能し、それがいけないのかもしれないですね。こうした言葉を書き綴ることで心が落ち着いてくる、という自分の特性みたいなものは、あまりよいものではないと思うのですが、まあしゃあないですね。

 今は、みんな元気でお正月が迎えられればいいな、なんてことをひたすら考えていて、そうできたとき、なんか物語の呪縛から勝利できるような気がしていて、物語に負けてたまるかと意気込むものの、やはり何もできず、その向こう側に医療というものが厳然とあって、そうした医療は、人生という物語に、そのメタな価値性として君臨して、個々の人生を断罪すべきではないと思います。そこが、生活習慣病や健康増進法なんかの違和感です。単純に、なんかやな感じって思ってしまいます。

 でも、健康増進法自体はいいことという前提性が強く、こうした違和感は説明が難しいので、こうした息苦しさはしばらく、社会の流れとして続くのでしょうね。今の社会って、この手のことが多いような気がします。

 なんか書いているうちに、よくわからなくなってきましたし、人生が物語かどうかなんて、どうでもよくなってきました。こういう文章って、慰みっていうんでしょうね。まあ、こんな文章を書くということ自体が目的みたいな文章を公開するのも気が引けますが、こんな感じもブログというものでしょうから。

 今回、オチはありません。読んでいただいた方、なんかすみませんね。恐縮です。(追記:なんか読み返すと、よくわかんない妙な感じが行間のそこかしこにただよっていますね。結論で言うと、人生は人生で、物語ではなく、その人生を解釈することで物語になる、ということなので、その人の解釈次第ということなんでしょうね。それとともに、人生とは解釈の積み重ねとも言えるのではないか、なんて考えています。では、よい日曜日を。)

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医療」カテゴリの記事

コメント

resつけさせていただこうか、どうしようかと一寸迷ったのですが、私のブログか、投稿しているサイトかに引用させて戴くかもしれないので、御挨拶かわりに・・

 人生は物語・・は、そうでしょう。それが「物語」として沢山の人に読んで貰えるか、いわゆる自分史としていま一寸下火になったような感のある自費出版で「関係者」、内輪?の方たちにみてもらえるか、大抵の場合自分の心の中に、心の奥底に沈んで誰の目にも触れないまま、やがて「千の風になって」飛び散っていってしまう・・のでしょう。

 あ、引用させていただくかもしれない・と言うのは「・・・医療というものが厳然とあって、そうした医療は人生という物語にそのメタな価値性として君臨して個個の人生を断罪すべきではない・・そこが生活習慣病や・・
・・の違和感・・・こうした息苦しさはしばらく社会の流れとして続く・・
今の社会ってこの手のことが多い・・

 「生活習慣病」って私が知っている限りでは聖路加国際病院の名誉院長?
理事長だった?の日野原重明博士が言い出し命名した病名、生活習慣の改善ですべての高齢者が健康で幸福な晩年を送れるようになる・と言うような事でしょう?私の母なんか、およそそんなこと関係ない生活で99歳まで一般的に言えば寝たきりという状態でしたけれど、でも死亡診断書は「老衰」病気と言えるようなものなにもなし・・
要介護度は5だったけれど・・
 母の一生は・京都の有名画家の一族として明治に生まれ昭和、平成を生き、その間戦争、疎開、空襲・・、敗戦で丸焼けの家に戻り・・私を含め3人の子どもたちを育て上げ・・書けばそのまま波瀾万丈の物語りにしたて上げられるでしょう。

投稿: J.I | 2008年5月25日 (日) 02:50

J.I さん、こんばんわ。今日は、私も夜更かしです。追記を書いて、コメントに気づきました。

お母様は、ご苦労をされたのですね。私の父も母も昭和生まれですので、かろうじて敗戦を幼少の頃に経験しただけです。

生活習慣病という命名については、引用した極東ブログにもありましたが、慢性病を生活習慣病と言い換えることで起こる、なんでもかんでも自己責任にされてしまう感じが怖いですね。生活習慣の改善は大切だという趣旨はわかるけど、それが医療行政で制度化されることで、たとえば、太っている人は医療負担が上がるとか、遺伝によるものも本人の責任にされるとか、そういう流れが怖いです。

実際にそういう流れが起こっているみたいですしね。社保で事業所の目標を上回ると全体の保険料が上がるとか。

私は、医療は厳然としてほしいです。科学的根拠に基づいて生活習慣を改善しなさいとだけ淡々と言ってほしいです。生活習慣がなっていないから、あなたは駄目。だからお代を割高でいただきます、なんてことは言ってほしくないです。

最近、医療のことを考え続けているので、そんなことばかり思います。

投稿: mb101bold | 2008年5月25日 (日) 03:42

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