ね。
コピーライターが書く文章で特徴的なこと。語尾の「ね。」ですね。なぜ「ね。」を付けたがるかというと、共感をつくりたいからですね。つまり、逆のいい方をすると反感をつくりたくないからつけるということですね。しつこいですね。
という私も例に漏れず、このブログでも「ね。」を多用してしまいがちなんですが、まあ、この書き方はわりあい自分の思考の流れに近いというか、そんな感じです。あまり多用すると、共感の押し売り感が出てしまいます。お前のことだよ、と言われそうであれなんですが、そういう共感のコントロールをコピーライターが過剰に意識し出すと、だいたいはコピーが薄っぺらくなってきます。
ある程度キャリアを積んで、技術的に共感のコントロールができてくると、この壁にぶち当たります。なぜ壁になるかと言えば、共感のコントロールというのは、いわゆる文体の技術であって、コピーを構成する要素は、メッセージの内容と、それを伝えるためのストーリーだったり、文体なんかより大切なものがたくさんありますので、文体の技術に特化することで、他の構成要素を軽視してしまうからです。
つまり、少々、メッセージ内容が陳腐で、ストーリーが稚拙でも、文体の技術=共感のコントロールだけで、なんとなくコピーになってくるのです。でも、それは勘違いだけど。
共感のコントロールは、すなわち、コピーライターのスキルでもあるので、得意先からコピーにケチがつくと、コピーライターのスキルにケチがつけられるように思ってしまうので、なんとなく存在否定をされた気になって、あの得意先はわかってない、みたいなネガティブスパイラルに入っていきます。
でも、本当の問題点は、メッセージ内容だったり、それを伝えるためのストーリーだったりします。それに気づいたとき、またもうひとつの成長があるのではないかな、なんて、自分のキャリアを振り返りながら思います。
まあ、こうした広告独特の共感コントロールは、文体だけでなく、視点にもあって、それが、ああ、いかにも広告だなあという、独特の広告臭の実体ではないかと思っています。今、それが見破られている時代な気がしていて、それが、広告屋としての私のテーマだったりします。
ちょっと前までは、いかにも広告だなあ、という文体なり視点なりがリアルでした。そのリアルは、なんとなく新しい時代を開いてくれそうだ、とか、こんな生活っていいかも、とか、そんな感じでした。でも、今、そんなリアルは、誰もリアルだとは思わないのがリアルな社会の姿ではないかな、と思います。
じゃあ、何がリアルなのか。それを今、いろいろな仕事で模索中です。ひとつは、プレスリリース的な世界だったり、逆に、これまで愛されてきた、子供もご老人も、みんなが楽しめる世界だったり、仕事によってまちまち。とにかく言えるのは、あの、広告がいい時代のやり方は、もうできなくなってきてるのかもなあ。ね、あなたもそう思いませんか。
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