言葉と沈黙
文藝春秋7月号に掲載されている吉本隆明『「蟹工船」と新貧困社会』より。吉本さんは、ネットや携帯を使っていくらコミュニケーションをとっても本物の言葉をつかまえたという実感が持てないのではないか、その苦しさが、若者を中心とした人たちを『蟹工船』に向かわせているのではないか、としたうえで、こう書いています。
僕は言葉の本質について、こう考えます。言葉はコミュニケーションの手段や機能ではない。それは枝葉の問題であって、根幹は沈黙だよ、と。
沈黙とは、内心の言葉を主体とし、自己が自己と問答することです。自分が心の中で自分に言葉を発し、問いかけることが、まず根底にあるんです。
(中略)
本質は沈黙にあるということ、そのことを徹底的に考えること。僕が若い人に言えるとしたら、それしかありません。
感覚的にはわかる。すごくわかる。けれども。
私は、正直、今の時代と照らし合わせて、どのように考えていっていいのかがわからない。沈黙が言葉の根幹だ、と言葉で追認する矛盾。その追認をブログで書く欺瞞。それは、きっと、沈黙が言葉の根幹である、と雑誌に言葉を寄稿する吉本さんにも跳ね返るはずです。「そのことを徹底的に考え」てきたことが、吉本さんの業績を見ればわかるにしても、その矛盾からは誰も逃れられないはずです。
だからといって、沈黙しろとも、沈黙するな、とにかく書け、書き続けろ、とも言えない自分がいます。この年になると、何気ない言葉が、時折、深い意味を持つことも、沈黙のとてつもない饒舌さもそれなりに知っているし、言葉というものは、その人の真実を映すことも、必ずしもその人の心の底を映すものではないことも知っている。私自身の吐く言葉も、多分にそうなのかもしれないし、そこには演出もあれば、嘘もあるかもしれない。
一度、虚空に吐かれた言葉が、逆照射して、自分をがんじがらめに規定していくこともあるでしょうし、許されざる行為を正当化するために機能することもあるでしょう。それは今に始まったことではないと思います。それはあらゆる社会状況下で起こり得ることだと思います。それが孤独な言葉であろうと、コミュニケーションの言葉であろうと、それは言葉が本来的に持っている負の力だから。
そのとき、人は、沈黙する力が、言葉を止める力が試されるのかもしれないけれど、その価値を認めない他者に対しては、こうした言葉もまた、これからも無力であり続けるのでしょう。そういう意味で、私は、言葉は無力であると思うし、少し極論にすぎるかもしれないけれど、言葉は、本質的な他者には届かないものであるとも思います。沈黙を考えることは、言葉の無力さを考えることなのかもしれません。
書くか沈黙するかは迷ったし、書くほどの明快な意見もないし、結論もなにもでませんでしたが、この迷いをそのまま書き記しておこうと思いました。言葉の根幹は沈黙である、のその先は何か。それを私は知りたいし、言葉を過剰に書く生活をしているひとりの人間として、考えていきたいと思います。
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コメント
おはようございます。たぶん、です。思いつきですが。
「沈黙の果実は祈りである 祈りの果実は信仰である 信仰の果実は愛である 愛の果実は奉仕である 奉仕の果実は平和である」(マザーテレサ)
沈黙が先ずあって、最後が平和ですよね。しかし、沈黙というのは「思考停止」ではないはず。「ぺラペラ喋る前にしっかり考えろ」と吉本翁はおっしゃっておられるのではないかと。あまり考えずに、原文にも当たらずに、思いつきで書いていますが。(以下沈黙^^)
投稿: tom-kuri | 2008年6月13日 (金) 09:53
おはようございます。
沈黙が先ずあって、最後が平和である、というのは確かにそうかもしれないです。
表出と非表出。その間にあって表出されてしまうものと表出されずに閉ざされるもの。なんか、言い方が難しいですけど、言葉にされる前にも確かにある(と思える)意識みたいなものって、何だろう、というような。
私のこのエントリも吉本翁の原文からずいぶん離れているのですが、なんかよくわかんなくなってきました。難しいですね。
投稿: mb101bold | 2008年6月13日 (金) 11:44
mb101boldさん、どもどもです。(^^)
かっこよく、誰もが、「ああ、そっか」っておもうような、そんな言い回しができなくてもどかしいけど、そういう言葉に洗脳されそうになるのも嫌だから、なんか自分の言葉を確認してみようとして空回り気味な私が来ましたよ。(^0^)
うーんと、
言葉の中に「沈黙」があるということでしょうか。沈黙の中にも「言葉」があるように。
吉本さんは、ほぼ日の対談「いまどきのコドモ」で、(コミュニケーションの訓練には)コミュニケーションに邪魔なものをおくといい。例えば芸術なんかはそれに当たるんじゃないかと思う。というようなことをおっしゃっていましたが、芸術ってわかんないですよね。でも、なんかいいとおもって、そのわけを考えたりする。そういうのって自分にしかわからない感覚だから、自分との対話ですよね。そういうものが、普段接している言葉の中にもある。ということと、むきあってみてはどうかということなのではと思います。
つまり、ことばをどんなに尽くしても、違う気がするみたいなのを、逆から肯定するものなのではないかと。
受け取る側からしたら、そういう、「なんか違う」ものしか受け取れないわけだけど、「なんかわかった」りするし、それって、特殊能力?ちがうよね。みたいな。
そういうの、「小さい声」じゃないかとおもうんですよね。で、やたらと声がデカくて、そういうのないように見えるひともいるんですけど、そういう人は、たいてい、というかかならずなにか隠してるようなきがします。私のROM経験でいうと。隠していると言っても悪い意味じゃなくて、そうしないと生きていけないなにかみたいなことなんですけどね。
投稿: ggg123 | 2008年6月13日 (金) 11:56
ggg123さん、どもですどもです。(^^)
なんか、今日はみなさんに学ぶ生徒さんみたいな気分です。
>つまり、ことばをどんなに尽くしても、違う気がするみたいなのを、逆から肯定するものなのではないかと。
なるほどです。先のtom-kuriさんのマザーテレサの言葉にもあるように、それは信仰、吉本さんの言葉を借りれば「信」に近いものなのかも。沈黙を聴くことは「信」なのかも。難しいです。
投稿: mb101bold | 2008年6月13日 (金) 13:24
業務連絡ですよよよ。
私のコメント「いまどきのコドモ」→×
「日本のこども」→○
でした。ごめんなさい。。(;;)
投稿: ggg123 | 2008年6月13日 (金) 17:03
了解です。
http://www.1101.com/nihonnokodomo/index.html
ですね。
投稿: mb101bold | 2008年6月13日 (金) 17:06
こんにちは。
長くなってしまったのでトラックバックさせていただきました。
(慣れていないのでうまくいっているか自信なし(笑))
今の、すべてにおいて拙速な雰囲気を危惧しています。
投稿: takupe | 2008年6月16日 (月) 18:03
takupeさん、コメントとトラックバックをありがとうございます。
私もこのエントリに関しては、なんとなくぼんやりした気付きを書いてみた感じです。きっかけは、やっぱり秋葉原の事件かもです。トラバの先にも書いていらっしゃいましたが、ここで言う他者というのは、話が通じない他者ですね。柄谷行人さんの言う他者。
エントリに関しては、もう一度じっくり読んでみたいと思います。私も、もう一度書いてみようかなと思います。なんか、このへん本質的なことだと思うし。
トラックバックはうまくいっておりましたよ (笑)。こういうとき、トラックバックっていい機能だな、と思います。ではでは。
投稿: mb101bold | 2008年6月16日 (月) 21:13