大阪よ、世界を語れ。
大阪にいます。お昼に、大阪の読売テレビ制作の社会派バラエティ番組「たかじんのそこまで言って委員会」を観ました。大人気だそうです。たいしたもんだなと思います。やしきたかじんさんは、「たかじんのバー」の時代は好きだったけど、一頃、口に出すことと言えば、芸能人のゴシップばかりで、当分の間、あまり好きではなかったけれど、この番組は、すごいもんです。
今日は、橋下大阪府知事と横田ご夫妻がゲスト。かなり突っ込んだ論議をしています。この番組、視聴率を持っているので、東京のキー局がかなり欲しがっているらしいですが、たかじんさんは、東京進出時に辛い思いをしたらしく絶対に東京キー局には渡さないそうです。噂ですけどね。
私は、大阪で育って、東京で暮らしていますので、大阪を捨てたお前が言うなと、ってなもんですが、この番組を見ていると、これからの大阪の生きる道が見えてくるような気がします。それは、中央との距離感です。まあ、リターントゥベーシックな考え方ですが、新聞をはじめとする報道機関は大阪発祥が多く、それは、中央との距離を置くために大阪に本拠を置くということが理由であったとも聞きます。
これまで、こういうことを言う人は、大阪ナショナリズムっぽい感じがしていました。東京、東京って言うけど、最初はみんな大阪やん。みたいな。松下電器も大阪だし、サントリーも、日清も、サンヨーも、シャープも、みんな大阪。東京や他の地方の人から見たら、何を言ってるの、そんなの昔の話でしょ、てなもんですが、もはやそういうことを言える余裕もなくなりました。
大阪で暮らす私の先輩がしみじみ言っていました。今や大阪はただの地方都市やから。でも、もうそれは東京を意識する必要もなく、東京と張り合う必要もなくなったことを意味するのではないかな、と思います。だったら、中央から距離のある最大都市としてできることが見えてくるような気がします。それは、距離のある者しかできない語り方で、世界を語ること。
不動のナンバーワンの巨人を追う、永遠のナンバーツーだったタイガースは今は昔。昔のタイガースを知る者からは考えられない快進撃を続けています。逆説的な例えですが、時代は変わったんだと思います。ナンバーツーであることは、絶妙なポジションだったとは思いますが、もうそれに甘んじるわけにはいかないんです。
だったら、大阪というポジションでしか見えない世界を語ればいいじゃないか、と。それを実践しているのが、やしきたかじんさんの番組だったような気がしました。なんか、観ていて、すごく勇気をもらいました。単なる大阪という地域の問題ではなくて、自分の問題として。
そう言えば、かつてこんなエントリも書いていました。
「トップを走っている者には見えない景色は、走ることをあきらめた者にも、同じように見えない。」
今読むと、気負いすぎているし、話がいろいろ飛んでいて、ちょっとわかりにくいですけど、なんとなくそんなことが言いたかったのかも、と今思います。ご参考まで。
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コメント
mb101boldさん、やっほー(^0^)
お疲れ様です。
つまんないコメントなんですけど、
「なんか元気でた。ありがとう。」
ではでは~(^^)
投稿: ggg123 | 2008年6月16日 (月) 14:23
大阪から、やっほー(^0^)/
とにかく元気がでたのはよかったです。
ではでは〜(^^)
投稿: mb101bold | 2008年6月16日 (月) 14:59
こんばんは。
トラックバックをいただき、また私の稚拙な文章を的確に捉えていただきとても嬉しいです。恐縮です。
前半の「共感という軸で考えていくことをしない」や「精神的病理のない通り魔殺人の可能性」について、私も全く同感です。
mb101boldさんの最初のエントリーがコミュニケーションツールの否定でないことも理解しているつもりです。
私も、言葉には強い力があると感じます。自己催眠的に自己を強く規定していき、何かの「役割」を課すこともあると思います。
秋葉原の彼に本当に必要だったのは、目の前で動き泣いたり笑ったり声を発する人間そのものだったのではないでしょうか。
しかし彼にはそれを得るために(技術的に)使える道具が言葉しかなかった、
言葉は彼にとって最後の砦だったのではないか、
そしてそれをすら上手に使うことはできなかった。
そう思えるのです。
そして、おっしゃる通り、誰も読まない孤独な言葉を止めるものは思いつきません。
でもそれは言葉ではなかったと思うのです。
…長くなりそうなので、いつか自分のところに書きます。
私は、伝わるという「実感」にこだわっています。
沈黙の、その先を私も考えていきたいと思っています。
言葉は、本当はとても難しいツールです。
投稿: takupe | 2008年6月20日 (金) 01:22
takupeさん、こんばんわ。
「言葉が最後の砦」というのは、なるほどそうかもな、と思います。私も彼が自分を表現する唯一のものがケータイのテンキーで打たれた言葉だったと思います。でも、それは、そうだとすると、すごく重いです。
>でもそれは言葉ではなかったと思うのです。
そうかもしれないですね。例えば、目の表情をひとつとっても、すごくその人の精神のあり方を饒舌に物語るわけですよね。体温もそうだし、手を握ったときの筋肉の微小な動きでさえ、受け入れたり拒絶したりする精神の動きを物語りますものね。
こちらこそ、ありがとうございます。今後ともよろしくお願いします。
※このエントリをお読みになった方へ。
このコメントは、以下のエントリに関連しています。
「言葉と沈黙、。そしてまた、言葉へ。」
http://mb101bold.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_ea7b.html
投稿: mb101bold | 2008年6月20日 (金) 01:52
おはようございます。
場所を間違えました!!
すみません、失礼しました。
投稿: takupe | 2008年6月20日 (金) 07:09
了解です。
コピーしておきますね。
投稿: mb101bold | 2008年6月20日 (金) 11:04