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2008年6月19日 (木)

言葉と沈黙。そしてまた言葉へ。

 文藝春秋に掲載された吉本隆明さんの文章に触発されて「言葉と沈黙」(参照)というエントリを書きました。直接のきっかけではないけれど、正直言えば、あのエントリを書いた動機のひとつに、先の秋葉原の無差別殺傷事件がありました。ケータイ掲示板に投稿された孤独な言葉が報道され、ブログを眺めてみると、事件には憤りを感じるし許せないけれど、あるいは、その言葉にも共感しないけれど、身につまされるという保留のついた「共感」も多くありました。

 私は、犯人の言葉に共感をしませんし、それほど切実な言葉であるとも思いません。これは、私の倫理的な態度にすぎないかもしれません。私はマッチョではきっとないけれど、ルサンチマンを嫌悪します。ルサンチマンは誰にでもありますし、私にもあります。ニーチェにもあったでしょう。けれども、ルサンチマンからは結局は何も生まれなかったな、と少ない人生経験の中で私は思っています。だからこそ、ルサンチマンを大らかに解放することはしないと自分の中でブレーキをかけています。

 犯人の言葉は、ルサンチマンの言葉です。それについては、共感はしないし、それは、すなわち、共感はしないというよりも、共感という軸で考えていくことはしないという個人的な表明でもあるのかもしれません。心情的には「もし2ちゃんねるに書いたら大騒ぎになるので、そこまでの勇気はなくて、人通りの少ない路地裏みたいなところで声をあげて、だれかがやさしい声をかけてくれるのを待っていたんだと思う。わがままですよね」(参照)という眞鍋かをりさんに近いと思います。

 今回の事件は、今の雇用問題を含めた社会の問題でもあると思いますが、それにこの事件のすべてを還元させるのも違うのではないかと思っています。あれから、かなりの借金があったこともわかってきました。finalventさんは「極東ブログ」で「私のこの事件の印象にすぎないが、精神的な病理の影を見たいという心情は多少ある。」(参照)と書かれていました。

 それは多少あるだろうとは思うけれど、finalventさんがその直後のセンテンスで書かれていたように、「もし、それ(精神的な病理=筆者注)がない通り魔殺人というのものがあるとしたら、どこかに相応の精神的な病理のツケは社会に回るのかもしれないともなんとなく思うのだが、その印象はやや妄想に近いのかもしれない。」の「それがない通り魔殺人」というのは、頻度はごくわずかでも、あり得るのではないかと私には思えます。もちろん、どのラインで「精神的な病理」とするかの問題は依然として残るけれど。

 私は、なんとなく、それを言葉の機能、言葉の力、みたいなことで考えたいと思っていたのでした。吉本隆明さんの言う「沈黙が言葉の根幹だ」という言葉は、そんな私に妙に引っかかったのです。それは、事件が起こる前に書かれたもので、文章を読むと、わりとリラックスして若者に向けたメッセージを投げかける(それがなぜ文藝春秋なのかはわかりませんが)ような感じです。しかし、だからこそ、何か妙に引っかかるものがあったのです。

 あの「言葉と沈黙」では、久しぶりにきっちりとしたトラックバックをいただきました。余談ですが、広告トラバまみれの毎日なので、すごくうれしかったです。takupeさんの「言葉 – ももたろん(遅延補正)」(参照)というエントリです。この中で、娘さんの日常になぞらえてこうお書きになっています。

5歳の我が娘の言動は、たぶんに、両親を含む他者の影響を受けている。

まだ彼女には語るべきほどの自我はなく、本当に伝えたいこと以外の雑談においては言動はただのトライアル&エラーで、状況に当てはまると思われる言葉を発してみては相手の反応をうかがっている。

ただ大人の会話に入りたい一心でとりあえずの言葉を発したり相槌を打ったりして、その結果大きな失敗をしたりする。

 確かに、こうして人は言葉というものを獲得していくのでしょう。その反応と結果を自分の中でフィードバックする過程が、自我の確立というものだと言えるかもしれません。そして、またこうした他者とのトライアル&エラーを、ネット空間に延長し、文字を主体に仮想化したシステムが、現代におけるブログをはじめとするコミュニケーションツールなのかもしれません。

 犯人の愚行を止めるためには何をすればいいのか、ということをぼんやりと考えていて、例えば、沈黙は言葉の根幹である、ということをブログで書いたとしても、伝わらないのだろうな、という思いが、先の私のエントリ「言葉と沈黙」(参照)の最後の部分です。引用します。

 そのとき、人は、沈黙する力が、言葉を止める力が試されるのかもしれないけれど、その価値を認めない他者に対しては、こうした言葉もまた、これからも無力であり続けるのでしょう。そういう意味で、私は、言葉は無力であると思うし、少し極論にすぎるかもしれないけれど、言葉は、本質的な他者には届かないものであるとも思います。沈黙を考えることは、言葉の無力さを考えることなのかもしれません。

 きっと、takupeさんは、この部分に対して、最後の部分を書かれたと思います。

考えても仕方ないんじゃないかな。

ただ、誰でも視野が狭くなっていたり、近くにあるものに気づかなかったり、遠くに行く元気がないときがあるから、その時もしそばにいたら「そこにあるよ」と声をかければいいんじゃないかと思う。

 その通りでもあると思うし、それが個人のとしての私たちの限界なのかもしれません。しかし、もうすこし先を考えると、こういう「そこにあるよ」という声さえ拒む孤独な言葉の場合、本人がそれでもなお発信を止めなかった場合、その発信された言葉は、次第に思いもかけず本人を規定し、行動を促す場合もあるんじゃないかな、それくらい言葉と言うものは力があるのではないかな、と私は思うのです。

 それは「精神の病理」とは違う領域で、言葉が精神を追いつめてしまうこともあるのではないかな、と思うのです。今回の場合は、公開されているけれども誰も読まない(厳密には少数の人たちがコミュニケーションを図ったけれど、それを本人が拒んだ)ケータイ掲示板が、その役割を果たしてしまった。そんなふうに私には思えるのです。

 takupeさんがコメント欄に書かれていた、「今の、すべてにおいて拙速な雰囲気を危惧しています。」という言葉は、きちんと受け止めました。私は、あのエントリは、コミュニケーションツールの否定を意図したものでもありませんし、吉本隆明さんの論文もそう意図したものでもありません。

 吉本隆明さんは、コミュニケーションツールでの言葉のやりとりでもなお渇望する言葉への飢えを言っていて、その渇望が「蟹工船」に向かわせているというものでした。その文章を読んで、私は、公開されているけれど、誰も読まない、言葉化された思いは、自分を規定していくのではないかと考えました。犯人の甘ったれたルサンチマンの言葉が、次第に自己を規定していって、誰にも反応されずに増幅し、許されざる行為に向かわせた、そんなふうに読み取ったのです。

 その誰も読まない孤独な言葉を止めるもの。沈黙をもたらすもの。それは、今のところ、たぶんありません。もしかすると、サイトの管理者責任としてのチェックがそれを果たすのかもしれませんし、多くの模倣者の摘発が、現実には、そう機能しているのかもしれません。

 私は、それが「精神の病理」であったとしても、個人な事情であっても、こうした無差別殺傷の原因としては、あまりにも希薄すぎるような気がしていて、どちらの結論であったとしても、やるせなさと絶望的な気分は残るなあ、と思います。takupeさんがお書きになっていた「すべてにおいて拙速な雰囲気」ということで言えば、週刊誌を中心にさっそくそういう論説が出て来たようですね。

 評論家の小谷野敦さんが「マスコミよ – 猫を償うに猫をもってせよ」(参照)でこう書かれています。

 『週刊朝日』の見出しはひどいなあ。「若者に気をつけろ」だって。実は私にも取材申し込みがあったのだが、通り魔無差別殺傷事件のようなものは五年、十年に一度くらい、社会的に不遇な者によって起こされているもので、当人の「彼女ができない」といった言に過剰に意味づけするのは間違いである、マスコミはこういう事件に意味づけしすぎる、と電話で言ったが、どうやら採用されなかったようだ。この手の事件に若者も中年もないのである。調子に乗るのもいい加減にしてほしいものだ。

 そういうことなのかもしれないな、とも思います。でもまあ、それでも絶望感は残りますけれど。またまたぼんやりとしたエントリになってしまいました。個人のブログだしいいかとも思いますが。それと、これはまた別の話ですが、「言葉の根幹は沈黙である、のその先は何か」ということは、個人的テーマとしてこれからも勉強しながら考えていきたいと思っています。

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コメント

mb101boldさん、おっはー(^^)

今度は間違えないようにちゃんと確認してきましたよん。

http://www.1101.com/shinran/2007-10-16.html

↑ほぼ日の吉本さんと糸井さんの対談「親鸞」です。

ここに、マルクス主義とはなんだったのかというような内容の話の流れの中で、吉本さんが同じようなことをおっしゃってます。

孤独な言葉を掲示板に書き続けるというような精神のあり方は、「そういうふうになっちゃうよ。」ってことなのかもしれないです。実際私も最近日記を書き始めて、そう思うことがあります。なんか、そういうふうに硬くなっていく頑なになっていく感じです。でも、最終的にはそんな自分の凡庸さや醜悪さが本当に嫌になってしまう。そういう流れの中で、あの青年はもういいやっておもってしまったんでしょうね。


投稿: ggg123 | 2008年6月19日 (木) 10:12

ggg123さん、おはようございまーす(^^)

おおー、吉本さん、ほんとちゃんと言っていますね。

>それは、人間が何かを言ったり書いたり主張したりするとそういう人に、自分のほうもなっちゃうんだ、ということです。

妙な考え方ですが、あの某巨大掲示板は、その巨大さ故のリアクションが抑止になっているのかもしれないですね。

同調圧力とは言うけれど、最後の一線では、それだけの重要な契機がなければ人は同調できないものですから。

それとブログなんかも、外へ出て行く指向性みたいなのが大切なんでしょうね。私も書いていると自家中毒的になる感覚はありますね。

開いていく指向というか。これも吉本さんになるけど。

投稿: mb101bold | 2008年6月19日 (木) 10:44

下記コメントは「大阪よ、世界を語れ。」(http://mb101bold.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_94b4.html)からの転載です。

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こんばんは。

トラックバックをいただき、また私の稚拙な文章を的確に捉えていただきとても嬉しいです。恐縮です。

前半の「共感という軸で考えていくことをしない」や「精神的病理のない通り魔殺人の可能性」について、私も全く同感です。
mb101boldさんの最初のエントリーがコミュニケーションツールの否定でないことも理解しているつもりです。

私も、言葉には強い力があると感じます。自己催眠的に自己を強く規定していき、何かの「役割」を課すこともあると思います。

秋葉原の彼に本当に必要だったのは、目の前で動き泣いたり笑ったり声を発する人間そのものだったのではないでしょうか。
しかし彼にはそれを得るために(技術的に)使える道具が言葉しかなかった、
言葉は彼にとって最後の砦だったのではないか、
そしてそれをすら上手に使うことはできなかった。
そう思えるのです。

そして、おっしゃる通り、誰も読まない孤独な言葉を止めるものは思いつきません。
でもそれは言葉ではなかったと思うのです。

…長くなりそうなので、いつか自分のところに書きます。

私は、伝わるという「実感」にこだわっています。
沈黙の、その先を私も考えていきたいと思っています。
言葉は、本当はとても難しいツールです。

(takupeさんのコメント:2008.06.20)

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takupeさん、こんばんわ。

「言葉が最後の砦」というのは、なるほどそうかもな、と思います。私も彼が自分を表現する唯一のものがケータイのテンキーで打たれた言葉だったと思います。でも、それは、そうだとすると、すごく重いです。

>でもそれは言葉ではなかったと思うのです。

そうかもしれないですね。例えば、目の表情をひとつとっても、すごくその人の精神のあり方を饒舌に物語るわけですよね。体温もそうだし、手を握ったときの筋肉の微小な動きでさえ、受け入れたり拒絶したりする精神の動きを物語りますものね。

こちらこそ、ありがとうございます。今後ともよろしくお願いします。

(mb101boldのコメント:2008.06.20)

投稿: mb101bold | 2008年6月20日 (金) 11:22

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