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2008年8月の29件の記事

2008年8月31日 (日)

汚れ

 今日は母のお見舞い。ようやく言葉を話せるようになって、ほっとしているのですが、今日はちょっとぼんやりした感じでした。病気の性質から言って、そんなに急激に回復するわけではないのはわかっているので、こんな日もあるかな、という感じで少し散歩して、少ししゃべって、そそくさと帰ってきました。

 お見舞いには父と行くのですが、父はよくお見舞いに行っているので、父が行っても、最初はすごく喜ぶものの、買って来たメロンジュースを渡して、グイグイ飲んで、10分もするとそれほどの感動もなってきて、父は自嘲気味に「ワシは、あいつにとっては今やジュース持って来てくれるおじさんやな」と話しています。私もけっこうお見舞いに行ってはいますが、入院や、その入院先から医療タクシーに乗っての転院など、母にとってはストレスのかかる要所要所で登場しているので、自分の事情がまだ飲み込めていない様子の母にとっては、私を見ると、反射的に少し構えるところがあるように思います。

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 そんな男陣ですが、唯一、なんか母の表情がほがらかになるのが妹がお見舞いに行った時。やっぱり女同士は違うのかな。その「ネックレス似合ってるな」とか「手がきれいなあ」とか、「私、あの看護婦さん好きやねん」とか「あの看護婦さん、嫌いやねん」とか、そんな感じになることが多いです。たまたま、気分がいいときにあたっただけかもしれませんが。

 母が入院して、いろいろと気付くことが多いです。ジュースおじさんと自嘲する父ですが、父と母は、やはり夫婦なんだな、みたいなことを今さらながら思います。なんか言葉にはできない絆みたいなものがあるんですよね。母にとって、父への信頼みたいなものは絶大っぽいんですよね。なんでも解決してくれるスーパーマンだと思っている感じ。これまでは、父が飲んだくれだったので、それがもとに喧嘩になることもあり、そんな関係をよく見て来たのですが、いろいろ私が知らない心のつながりみたいなものがあるんだな、なんて思いました。

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 妹は、なんか友達みたいな関係にすぐなれるんですよね。これも不思議。気さくな関係というか。こっちはこっちで、母の状態が悪くなれば泣いたり、寝込んだり、そんなやつなんで大変なんですが、母のお見舞いに行ったら、私なんかとは比べものにならないくらい打ち解けている状況があって、へえ、大したもんだな、なんて眺めてます。まあ、あいつはあいつでいろいろ考えて行動しているんでしょうけど。

 そんなこんなで、私の役どころは、母本人が嫌がるあれこれの決断を下す、みたいなことになります。「お母さん、いややろうけど、歯医者いかなあかんで」みたいな。ちょっと汚れっぽいですが、これはしばらく続きそうです。いかにも長男っぽい感じで、それはそれでいいかな、とは思いますが。

 この前も、こんなことが。母が院内にある歯科に行くのを嫌がっていたそうです。看護師さんがいくら言っても「いや」と言うだけ。私も、「歯槽膿漏が進むからいかなあかんよ」と説得したのですが、なかなかうんと言ってくれません。で、父が「じゃあ、お父さんと一緒に行こか」。そしたら、あっさり「うれしいわあ、行こ」だって。看護師さんと顔を見合わせて苦笑。参りました。

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 病院にお見舞いにこられている他のご家族なんかでも、家族の役回りが、同じようなものになっている感じが多いように思いますね。長男らしき人に、お疲れさまと声をかけたくなりますが、そのご家族もそれどころではない状況もあるので、心の中でご挨拶という感じです。

 まあ、こういう汚れみたいな役回りはいないと困るし、普遍的に家族ではその役回りは長男的な人が担うってことなんでしょうね。会社なんかでも、長男的な役回りの人、長女的な役回り的な人、父親的な人、母親的な人、いろいろいますよね。それぞれいろいろあるでしょうが、それぞれ健康的に愚痴りながら、いろいろありながらも、それぞれが持ち場をうまくこなしていくのがいちばんなんでしょうね。ちょっとやな大人っぽい意見だけど。ま、私もいいかげん大人だしね。

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 明日は、新大阪から朝一の新幹線で品川。そのままスタジオで撮影です。元気があれば、車内で書いて、静岡あたりで更新するかもです。その折はよろしくです。ではでは。

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2008年8月30日 (土)

日本の広告コピーが元気だった頃

 日本の広告コピーは、わりと独自の発展を遂げて来たような気がしています。日本には「コピー十日会」というちいさなコピーライターの集まりを母体とする、「東京コピーライターズクラブ(TCC)」というものがあります。そのTCCの前には、すでに、「大阪コピーライターズクラブ(OCC)」が大阪で発足していて、コピーライターという職能が独立して何かを考えていく機運が日本にはありました。

 一方で、欧米ではそのようなコピーライターの組織はほとんどなく、広告をつくる職能のひとつとしてのコピーライターという位置づけであるようです。広告をつくる最小単位として、アートディレクター+コピーライターというものがあり、その言葉方面の担当がコピーライターということですね。やがて、広告制作のシステムが組織化され、その双方の職能は、広告会社の組織論として、クリエイティブ・ディレクターを目指す初期的な職能として位置づけられました。実際、私の職場(外資系広告代理店)でもそうですし、欧米の広告代理店の制作現場もコピーは言葉だけ、アートは絵だけを考えるという感覚はあまりありません。

 TCCやOCCという組織がなぜ生まれたかというと、それは、コピーライターという職業の地位が低かったから、その地位向上のためだった、と聞きます。昔の笑い話で、こんな話があります。元ネタは、中島らもさんだったと思います。

 とあるアートディレクターが魚のフォルムを白い紙に書いて、コピーライターに「この魚のフォルムの中にぎっしりと文字が埋まるボディーコピーを書け」と言いました。コピーライターは字数を割り出し、長文のボディコピーを一生懸命書いてアートディレクターに渡しました。その原稿をざっと見て、アートディレクターが一言。

 「やり直し。鱗の感じが出ていない。」

 もちろん、いろいろと面白く脚色はされているでしょうが、まあ、真偽はともかく、当時のコピーライターの地位は、そんな感じだったそうです。そういうこともあって、これはちょっとまずいなということでコピーライターの組織が生まれたんですね。あれから、高度成長やらバブルやら何やらで、コピーライターブームなんかがやってきて、コピーが、広告の発展とは別の独自の文化を生み出していきました。

 その文化を今、ざっと俯瞰的に見てみると、なんとなく現代詩と少し似ているような気がします。それは、言葉の自立を目指した芸術運動のように見えます。吉本隆明さんが80年代注目した広告の言葉は、まさにそんな言葉の自立を目指した芸術運動の前衛だったのだと思います。そして、そんな多くの言葉は、ビジュアルとの相乗効果を拒む自立する言葉でした。それは、詩人の言葉ときわめて近いものであったのだろうと思います。

 今、ちょっと興味があって、80年代アイドルのデビュー時のキャッチフレーズを調べています。その時期は、ちょうどコピーライターブームと重なることもあり、そんなビジュアルの呪縛から解き放たれ自立するコピーがたくさんありました。もちろん、ビジュアルはアイドルの姿であるという制約があるので、そのような自立したコピーが多く生まれやすいという背景がありますが。

 その中で、そんな自立を目指すコピーの典型例をひとつ。大江千里さんがデビューするときにつくられたコピーです。作は、当時コピーライターだった林真理子さん。決して秀作でもないし、むしろあまりよくない例とも言えるかもしれませんが、当時、日本のコピーライターたちが目指していた方向性がよくわかるかと思います。

私の玉子様、スーパースターがコトン 大江千里

 少しかわいく、ボーイッシュだった大江千里さんの声とビジュアル。ファン層が女子大生やOLであること。そして、大学生シンガーソングライターとして、すでに人気があり、なりもの入りでデビューをするという状況。そんな与件から、このコピーが生まれました。ちなみに、玉子様、というのは誤植ではなく、わざと王に﹅を打っていて、コトンに落としているんですね。

 原稿用紙の中だけで完結する世界。言葉が広告を構成する一部であることをやめ、言葉が広告になろうとする足掻きみたいなものが、このコピーに見えます。なんとなく、うーん、と考えてしまうんですね。これが80年代のひとつの広告の姿であったことは言えるのかもしれません。こうした流れの延長線上に今の広告の状況があり、このコピーが広告としての力がある言葉とするか、そうでないとするのか。あのコピーが元気だった時代が、本当の元気と見るのか、カラ元気だったと見るのか。今、どちらにも行ける場所に私たちはいるのかもしれない、と思います。

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 ちょっと調べたので、当時のアイドルたちのキャチフレーズを書いておきます。若干、年代が古いのや新しいものも含まれていますが、まあご愛嬌ってことで。良くも悪くも言葉の時代だったな、と思います。中森明菜さんのキャッチフレーズが光ってますね。言葉だけで見ると、大沢逸美さんのものも好きです。今では、こういうキャッチフレーズは見かけなくなりましたね。

ちょっとエッチなミルキーっ娘(美新人娘) 中森明菜
一億円のシンデレラ 榊原郁恵
ドレミファソラシド、シシドルミ 宍戸留美
そよ風を運ぶエンジェル 桜田淳子
日本のサイモン&ガーファンクル 狩人
ジェームスディーンみたいな女の子 大沢逸美
一億人のクラスメイト いとうまい子
デビュー前からスーパースター 一世風靡セピア
純だね、陽子 南野陽子
ひろ子という字何度ノートに書いたっけ 薬師丸ひろ子
よかった、君がいて 森口博子
とどくかな、笑顔 松本典子
胸騒ぎ、ザワ、ザワ、ザワ 少女隊
REAL1000% 菊池桃子
フェニックスから来た少女 浅香唯
国民のおもちゃ、新発売 山瀬まみ
あなたの心の隣にいるソニーの白雪姫 天地真理
香港から来た真珠 アグネスチャン
ちょっと変な女の子 網浜直子
平成5年は私にとって演歌元年です 長山洋子
ハートはまっすぐ 荻野目洋子
15歳、ためらい、小さな決心 中山忍
抱きしめたいミスソニー 松田聖子
おキャンなレディ 酒井法子
国民的美少女 後藤久美子
つまさきでまぶしい15歳 西田ひかる
一億人の妹 大場久美子
一秒ごとのきらめき…知美 西村知美
微笑少女 小泉今日子
日本のカーペンターズ オフコース
まだ誰のものでもありません 井森美幸
まごころ弾き語り 太田裕美
宇宙一のメロンパイ 小池栄子

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2008年8月28日 (木)

お疲れ様です。

 なんていうか、今、とある仕事でいろいろあってちょっとトラブル中。脳内の危機感センサが発動中。パトライトがビュンビュン回ってます。いろんな人間関係があって、それぞれの思いがあって、それがすれ違ったり、ちいさな隙間が積み重なって、とんでもない大きさになって、ようやく気付いて、それをとりあえずパテで埋め埋めしているところ。

 でも、今までだったら、めげちゃうところが、けっこう楽しんでいる自分がいるんだなあ。不思議。なんか、こういうとき、理由がどうであろうと責任はまずクリがとる。全国のクリのみなさん、そう思うでしょ。でも、いままでの経験から、とりあえずその流れがわかってるから、今は、自分がやるべきことがわかるんですね。そのぶん、なんか危機を楽しんでいる余裕があるんだな。

 まあ、駄目なときは駄目だし、それはあがいてもしゃあないと思える分だけ、それを避けるすべを知っているし、なんか本能でさくさく動けるんですよね。で、きっと今回は、なんか少々無理をすれば乗り切れる感じがします。うん。大丈夫。たぶん、乗り切れる。

 こういうとき、大切なのは孤立しないこと。とりあえず上司に相談したり、同僚ととことん本音で話すことは大事。お得意と仲がよければ、お得意ともとことん話した方がいいです。もしあなたが逃げるタイプじゃなかったら、とかく孤立してしまいがちなんです。非がなくても、正しくても、それは関係がないんよね。孤立すると、しんどいよ。いいことないよ。ネガティブスパイラル。孤立すると、人の悪いところばかり見えるから、落ち込むしね。

 理解してくれない人には、理解してもらうまで話すこと、大事。他人の話も、拒絶せずに聞くこと、大事。拒絶してくる人は、拒絶感がなくなるまで、とことん本音トーク。それを根回しと世間は言うけど、でも、見方を変えると、コミュニケーションだからねえ。コミュニケーションのないところにチームワークなんかなくて、そんなチームワークって、日本語では馴れ合いと言うんだろうね。

 こういう立ち回りを率先してできるようになったのは、最近かな。今まではできなかった。むしろ、孤立する自分が好きだったりした。クリはそういう人、多いですよね。私は、年齢的にも、中途半端におっさんだから、このブログ読んでくれている人、若い人が多いともいます。そういう人に、そっと教えたい。ひとりはさみしいよ。いいことないよ。仲間がいると心強いよ。仲間をつくろう。そのために、きちんと話そう。誤解は解こう。

 こんなとき、楽しいと思おう。危機を楽しんで、人間模様を楽しんで、メモをして、いつかそれをネタにして広告をつくってやろう、そんな余裕で乗り切ろう。ブログっていいよね。こんなことを書けるんだもの。読んでくれているひとがひとりでもいる限り、ひとりじゃないんだもの。全国のテンパッてるみなさま、お疲れ様です。

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2008年8月26日 (火)

私、あの娘好きやねん。

 久しぶりの医療カテゴリーです。いろいろ考えているけれど、私の場合、基礎知識がなさすぎるので、なかなか書けず。なので、近況など。

 母が入院して、かれこれ3ヶ月以上経って、その間に転院とかもあり(なぜ転院したかは、ここをご参照ください)、いろいろ大変でしたが、ここのところすごく回復してきています。いままでは、言葉を話せなくなっていたのですが、今は普通に話せるようになってきました。

 看護師さんと気が合うらしいです。ほんと、なにわ娘という感じの明るくおしゃべりな女性の看護師さん。ときどき一緒に散歩に行くらしい。

 「私、あの娘好きやねん。」

 お見舞いに行くと、母がそんなことをうれしそうに言っていました。医療って、こういうことでもあるんだなあ、と思いました。現場って大事だなあ、結局は人なんだな、そんなふうに思いました。こういう現場で働く人たちがきちんと仕事ができる医療であってほしいと思います。

 我々患者側は、うまくいったことはよく言うし、悪化すると悪く言うので、医療というのは大変だと思います。そんななか、今は、現場の医療従事者の方々のブログなんかも読める時代でもあるので、ちょっとそのへんは、使いようによっては、こちらも冷静になれたりします。うちの親父なんかは、そんなブログの話をすると、なんでもかんでもネット、ネットって、と言って不機嫌になりますが。

 まあ、何事もバランスではあるんでしょうけどね。ではでは。

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2008年8月25日 (月)

広告会社はこれからどこに行くのか

 その昔、聞屋と広告屋は信用するな、なんて言われたりしていました。戦後のテレビの成長とともに広告会社は巨大化していき、バブルの頃は、もはや我々は広告会社ではない、コミュニケーション全般を扱う情報商社なのだと息巻いていました。あの頃、大学生の希望職種がクリエイティブよりもSPに集まっていました。タレントさんを引き連れて、全国キャラバン。そんな華やかな時代。

 資生堂とカネボウがキャンペーン合戦を繰り広げ、街にはキャンペーンソングが流れ、マス全盛時代に酔いしれていました。もちろん、その頃、私はただの学生さん。そして、そんな時代は長く続かず、外資系の進出と業界再編が行われました。欧米流のブランドが叫ばれ、電博のスタークリエーターたちは、巨大化し硬直化した広告会社から抜け出し、次々とクリエイティブエージェンシーを立ち上げていきました。

 これからはネットだ、と広告会社にはネット専門の部署が設立され、我こそはネットの先導者であるとの自負のもと、様々なプロジェクトが実施されました。ネット広告費がラジオを抜き、ネットは、売り上げの面でも無視できない存在になりました。

 広告会社が考えるネットは、新聞や雑誌、テレビ受像機の延長線で、かつそこに双方向性を具えたコミュニケーション装置としてのネットでした。消費者が参加できる広告。単純化すれば、クリックすれば動く、そんなこと。その頃、私のPCは性能が悪く、業界誌で話題になった広告会社のスペシャルサイトの多くは、見たくても閲覧できませんでした。

 私の実務にもネットはやってきて、スペシャルサイト全盛の流れに私は背を向けて、ひたすら軽いサイトをつくり、Yahoo!などの検索サイトのバナー広告をつくり続けました。Yahoo!のトップページの小さなバナーに、旧型のPCでも閲覧できる、極限の軽さにシェイプアップしたCM動画を載せて(Yahoo!のバナーは相手のPC環境を自動認識して、貧弱な環境では静止画およびGifアニメバージョンに切り替えるようになっています)、当時のナンバーワンアクセスをとったことがあります。でも、そのとき、そのことに注目したのは、Yahoo!などネット媒体側だけでした。

 セカンドライフにパビリオンをつくり、続きはウェブでCMを乱発している間に、広告会社はネットから取り残されようとしている気がします。日本の広告会社の歴史から見たとき(参照)、広告会社がやるべきことは、スペシャルサイトや、ウェブ上で短編映画を何億もかけてつくることではなかったような気が私はします。きっと、ウェブにみんなが集える場所を開発することだったのではないか、その場所を豊かにすることだったのではないか、と。これまで、ラジオやテレビそのものを局とともに開発してきたように。

 2008年という今を象徴する出来事がありました。不動産広告を得意とする老舗広告会社である創芸が、11月1日に商号を変更するとのこと。価格.comやTravel.jp、Technorati Japanを擁するデジタルガレージグループ(参照)の中核コミュニケーション会社として、DGコミュニケーションズという会社になるとのことです。このデジタルガレージによる創芸の買収は、いろいろと話題になりました。しかし、今回のことは、その意味合いとは少し違うインパクトを持っているように思います。

 ネット企業が多角経営のひとつとして広告会社を持つのではなく、ネット企業がその一部門として広告会社の機能を持つという意味合い。小さな動きではあるし、たかだか社名変更にすぎないのではないかという見方もあるにはあるけれど、その意味合いは、これまでのネット系広告会社とも、広告会社のネット事業の展開とも違う意味を持っているような気がします。

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2008年8月24日 (日)

仕事の文章とブログの文章

 パソコンを新しくしてからはずいぶん少なくなってきたけれど、ワードやらで文章を書いていてフリーズやら何やらで、跡形もなく消えてしまうことがよくあります。私は、ワードプロセッサを使うのがかなり早かったので、文章は万年筆に原稿用紙に限るみたいなこだわりはありませんが、こんなときだけは、ああ紙って素晴らしいなと思います。

 よくやるのは、ファイルに上書き作業していて、やっと完成して「保存しない」をクリックしてしまう失敗。あっ、と思ったときには、何時間もかけて書いた文章が跡形もなく消えてしまいます。これをやってしまうと、自動保存も関係がなくなるので、ほぼ復旧が不可能。図形を多く使うパワポなんかは、ほんと落ち込みます。

 でも、仕事の文章は不思議と完全再現できるんですね。しかも、一度書いているから、二回目はサクサク書けてしまいます。サクサク書ける自分に腹は立つけど。仕事の文章は、頭の中に設計図があるような感じです。

 もちろん、広告コピーなんかは設計図をもとに組み立てるわけではなく、感情にまかせて書きだしてはいます。でも、これでいこうというコピーが出来上がる頃には、頭の中に設計図ができている状態になっていて、もしその文章が物理的に消えたとしても、単語というパーツを頭の中の設計図通りに組み立てることで、細かいレトリックまで、ほぼ完全再現可能。

 けれども、ここに書いている文章なんかは、なかなかそうはいかないです。これは、私のブログの書き方によるのでしょうが、設計図は頭の中に残っていないんですよね。この文章も、きっと消えたら同じものは書けそうもない気がします。それは、自分でも不思議です。

 この感覚は、かつてやっていた児童文学とか絵本の原作なんかに似てるかもです。まあ、このへんはものになんなかったので、偉そうなことは言えませんが、物語が勝手に動いて、こちらは書かされている感覚があるので、それが一度失われると駄目な感じ。要は、文章がライブなんですよね。

 書いていて、ああそうか、と気付きましたが、これ、音楽のライブに似ていますね。例えば、私の敬愛するビル・エバンスなんかも、同じ曲を何度も何度も演奏しています。でも、ひとつとして同じものがないんです。もちろん、あ、エバンスだね、っていう個性はどれも共通してありますが、たとえそれが2日間しか違わない録音でも、確実に違いますよね。例えば、エバンスが生涯にわたって弾き倒したNardisという曲。1965年のこれと1966年のこれ。たった1年の違いですが、微妙に違いますよね。ちなみに、エバンスの初出は1961年のこれ。もともとはこんなスローテンポでした。(エバンスは年を経るごとにテンポが速くなる傾向があるようです。)

 そういう意味では、仕事の文章というのは作曲に近いんでしょうね。楽譜のようなものは実際に書かないにしても、頭の中では楽譜にしている感じ。推敲は、編曲みたいな感じで、こういうブログの文章は、生演奏に近いのかも。じゃあ、そのもとになっている作曲された曲はなんだろうと考えてみると、まあブルース(Straight no chaserのコード進行)とか循環コード(Oleoのコード進行)みたいな定番進行や、誰もが知っているスタンダードみたいなものなんでしょうね。毎日書いているブログはジャムセッションみたいな感じでしょうか。今日は、なんかいい感じに落ちたなあ。

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2008年8月23日 (土)

オリンピック雑感

 いろいろ安いよね。靴とかも売ってたりするし。私は高円寺店をよく利用しています。というのはオリンピック違い。北京オリンピックのことです。星野ジャパン、負けてしまいましたね。私は仕事の関係で、帰宅時間が不規則なこともあって、あまり熱心に見ていませんです。テレビのニュースで結果を知ることが多いです。

 正直言えば、オリンピックってちょっと苦手。勝負事だけど、勝った負けたの期待が大きすぎる気がして。そういう意味では、サッカーも苦手。私も仕事で、大規模な競合プレだとか、勝った負けたを日常的にやっていますが、今しがたの星野ジャパンの敗戦を見ていて、なんだか胸が苦しくなってきました。一度でも大きな勝負事で負けたことがある人は、星野ジャパンを見て、なんとも複雑な気分になってしまうんじゃないでしょうか。でも週刊誌とか読んでると、そうでもないのかな、とも。うーん。

 仕事の話で恐縮ですが、大規模なプレゼン前は、いろんな人がいろいろ意見してきます。それも、過大な皮算用をしながら。PRBという名のミーティングがプレ本番前に行われるんですね。ボードメンバーに向けての、プレゼンの予行演習ね。

 思い出すだけで、ああ、やだやだ。ここはこうしたほうがいい、とか、このコンテ、ここをこうしたほうがいい、とか。私はプレ本番より、これが苦手。本番前に、選手を萎縮させてどないすんねん。なんのトクがあるんでしょうか。

 絶対勝つ、なんてことは当事者だけが言えることであってね。こんな俺だけど、あたたかく見守ってほしいなあ、とリーゼント&革ジャンで歌いたくなりますね。イザヤ・ベンダサンじゃないけど、プールサイダーががたがたうるせえんだよ、って言いたくなりますが、怖いので言いません。嗚呼、会社員。

 でもって、オリンピック。勝った人も、負けた人も、お疲れ。たくさんの夢をありがとう。って言っても、そんなに熱心に見てないけど。勝った人は奢ることなく、負けた人はそれを糧にして、これからも頑張って。言われなくても頑張るでしょうけどね。私も頑張ります。

 それにしても、愚痴芸、私はあまり上手じゃないな。これが仕事だったら、愚痴の醍醐味がまったく出ていない、愚痴っていうのは、もっともっと豊かな世界なんだよ、そもそも愚痴の本質はうんぬんかんぬん、ね、わかった、没、やり直し、月曜朝にもう一度見せて、なんて言っているところです。

 てな感じで、今日は、東京地方は天候がすぐれないけど、ま、涼しくていいやね。今年は暑かったから。では、引き続き、楽しい休日をお過ごしくださいませませ。

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筋とか仁義とか

 仁義なき戦いじゃないけれど、すべては、筋とか仁義とかなんじゃないか。そんなことを考えた。合っているか間違っているかはわからないけれど。

 気になったので、吉本隆明さんのかつての論争を読み直してみると、みごとに吉本さん、筋が通らないことを怒っている。大切な人に対して仁義を通そうと、必死になっている。それを下品だという人もいるみたいだけど。福田和也さんが、左翼のあの下品さが嫌なんだと言っていた。左翼、右翼というのはわからないけど、あの吉本さんの下品さからは、そんな筋とか仁義を守ろうとする凄みは感じる。

 確かに罵倒はあるけど、そこには嘲笑はない。私は、吉本さんのそんな風情を、まるで高倉健さんのようだ、なんてことは言わない。そんなに美しいものでもないし。だけど、なぜあそこまで反論し、論駁しようとするのかは、なんとなく分かる気がする。

 吉本さんの概念では、対幻想がいまいち分からなかった。国家を代表とする共同幻想と、性的な対人関係を代表とする対幻想は逆立する、と。そういうことなら、国家は十分すぎるほど対幻想的ではないか。性的な陶酔や恋着は、国家と個人の間にもあり得るし、それは時として恋愛に似ている。それに、時代状況に違いはあるにしても、国家という共同幻想は、対幻想という領域にいつも逆立し、牙を剥いているわけではない。

 あえて言うなら、吉本さんが言いたかった対幻想とは、筋や仁義が支配する幻想領域のことなのかもしれない。たとえば、家族や恋人が侮辱されたとき、私は、その人を、法に背いても殴り倒すだろう。それは法が裁いたとしても、関係がない気がする。

 であるならば、共同幻想は、対幻想の領域が共同化することで、逆立して成立したものと言えるかもしれない。つまり、国家という共同幻想は、逆立した対幻想という幻想領域を基盤とした、自己矛盾的な存在なのかもしれない。法が、暴力に理由を問うていることに、もしかするとその証があるのかもしれない。

 世の中をうまく渡ろうと、薄ら笑い私の中で、もうひとりの私が奥歯を噛み締めながら、声にならない声で叫んでいる。優劣を問う前に、筋を問え、仁義を問え。

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2008年8月21日 (木)

現代思想「吉本隆明 肯定の思想」がすごく面白いです。

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 冒頭の67ページにわたるロング・インタビュー(聞き手:高橋順一)だけでも読む価値があると思います。私は吉本フォロアですので、たいがいの新刊本は買って読むのですが、基本的には同じことの繰り返しだったりします。それが悪いかと言えば、吉本さんの場合そうではなくて、この人は大切なことは何度でも言うタイプなので、それはそれで面白いのですが、今回のインタビューは違います。

 なんか、生々しいんですよね。全学連の同伴者知識人として「一兵卒」として安保闘争に関わっていた頃のこと、丸山眞男、花田清輝、埴谷雄高といった進歩主義的知識人のこと、なぜ吉本さんが「転向論」を書いたのか、そんなこんなが、今だから言いますが的な言葉で語られていきます。

 有名な論争に、80年代の吉本・埴谷論争というものがあります。吉本さんが、川久保玲さんのファッションブランド「コム・デ・ギャルソン」のモデルになって、ファッション雑誌に登場し、それを見た埴谷さんがイチャモンをつけました。吉本、お前は、資本主義に身を売るのか、と。民衆の味方だとか言っていて、高級ブランドの服着て、かっこつけるんじゃない、と。それに対して、ファッション誌を見て消費を楽しむ大衆が存在するのは、左翼が求めていた革命の達成そのものじゃないか、現在は高度資本主義という段階にうんぬんかんぬん、という感じの論争でした。

 それは、建前としては、埴谷さんを代表とする進歩主義的インテリゲンチャの歴史認識と、吉本さんの消費主体という新しい資本主義段階(高度資本主義)に日本が入っているという歴史認識についての論争でした。で、この論争について振り返る吉本さんの言葉はこんな感じ。

僕は庶民だから、庶民が何をしてもどこが悪いんだ、ということです。僕なりの理屈で人には通用しないかもしれないのですけど、コム・デ・ギャルソンの川久保玲さんというのはすごくいい人なんですね。(中略)だいたいモデルになると着た着物に関してはくれるって言うのだけど、コム・デ・ギャルソンはくれなかったですよ(笑)。最後までそういうのは貫徹していましたね。大した人だなと思いました。ですから埴谷さんに言われてもあんまり堪えなかったですね。

 おお、そういう思いだったんだ。ちょっと感動してしまいました。もちろん、このインタビュー、今だから話せる的なものだけでなく、吉本さんの思考の軌跡をすごくわかりやすく伝える、ある意味、すぐれた吉本隆明入門にもなっていて、吉本隆明さんという名前は知っているけれど、いまいち何をした人かはわからないという感じの人にもおすすめの内容になっています。

 ただ、読むときには、日本の進歩思想は、ソ連共産党および、それに随伴する日本共産党(及び社会党)の影響が絶大であったという思想状況をふまえて読むとわかりやすいかと思います。日本共産党の発行する雑誌「前衛」の名が示すように、知識人は大衆の前衛だったわけです。党員であることが前衛の証であり、日本の進歩思想の証だったのです。今は想像しにくいけど、相当なものだったようです。その強烈な批判者として、吉本隆明は論壇に登場しました。

 そういう文脈さえ理解できれば、なぜ吉本さんがスターリニズムを嫌悪するのか、なぜ共同幻想という方向で国家を解明してきたのか、なぜ大衆の原像という概念を提示したのかが分かると思います。そんな吉本さんが、現在をどう見ているのか。

病気のこと(産業革命の頃に顕在化した肺結核のように、現在の社会ではそれが精神疾患として顕在化していると吉本さんは指摘:筆者注)と、拡大する産業規模をどこで止めるのか、止められるか、あるいは他に抜け道があるのかということを考えるのが今の課題だと思います。これは他の国がやれるという気は全くしません。(中略)こうした問題に対して、何か新しい、いいやり方を生み出せる格好の位置にあるのは、日本だけであると思います。そこは考えどころだと思います。

 医療をひとつとってみても、いま日本はいろんなやり方を指向できる位置にあるような気がします。たぶん、西欧先進国が陥ってしまっている問題、例えば、アメリカにおける医療の現状、と同じ問題を日本に現れていることを、吉本さんは「第二の敗戦」と呼んでいて、ここ数年の「敗戦期」の選択如何によって、いろいろなことが変わってくるのだろうな、という感じがしています。個人的なたわごとだけど、私が最も知っている分野は広告だし、私の広告の考察(参照)とかは、そういう社会論のアナロジーとしての意味あいもあるにはあるんですけどね。

 まあ、そんなことはともかくとして、ほんとにおすすめ。今なら本屋さんにも平積みされているから、試しに立ち読みでもしてくださいな。冒頭のロングインタビューは、かなりおもしろいですよ。ではでは。

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2008年8月19日 (火)

帰ったら部屋が蟹くさかったです。

 昨日、蟹チャーハンをつくった話(本題はそうじゃないけど)を書きましたが、その後、食器やら殻やらをほったらかして外出。深夜に帰宅したら、すごく蟹くさかったです。経験上、蟹やふぐは、包丁とかまな板とか食器とかをすぐに洗わないと、後からすごくにおいます。お気をつけください。

 それだけ、蟹やふぐはうま味成分がぎっしりつまっている証拠だと、東西新聞の山岡(呼び捨て)が言っていましたが、半額セールで買った蟹は正直まずかったです。身がすかすかな感じ。蟹は当たり外れがありますね。

 たくさんのちいなさ仕事が重なって、月曜から、これは乗り切れるかなと不安な感じで、ついついこんな時間まで(もうすぐ4時)がんばってしまって、あと4日もあるのに大丈夫かなあという感じです。時間管理は昔から苦手です。

 テレビでは、「頑張れ日本、すごいぞ日本、頭のいい国日本」という歌が流れてます。なんだかめげますね。めざニューが始まったので、もう寝ます。ではでは。

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2008年8月18日 (月)

そうそう。料理と同じで、ノウハウとか考え方はオープンソースにすればいいと思います。

 きのうは涼しかったですね。雨が降っていたので、外に出ず、ひたすら家でぼんやりしていました。金曜日に買ってきた半額の蟹が冷蔵庫にあったので、冷えたごはんとネギと卵と蟹でチャーハンを作りました。私は、仕上げに日本酒を一振りします。そうすると、しっとりして、旨いんですよね。チャーハン道からすると邪道ですが。

 オリンピックをテレビで観ながら蟹チャーハンを食って、ちょっと思ったこと。日本人の私が、チャーハンを家で作ってるんだよな、と。そうか、料理っていうのは、オープンソースみたいなもんで(あまりこのへん詳しくないですが)、レシピみたいなものはみんなに共有されているから料理っていうのは成り立つんだよな、と思ったりしました。

 ブログを運営している人の悪いくせで、ああ「料理はオープンソースである」みたいなエントリを書けるかもなんて意気込んでいたんですが、こういうことを言っている人はきっといるだろうとネットを検索。あまりなかったけど、2ちゃんねるに「料理の世界って、オープンソースじゃね?」(参照)というスレッドがあったのと、増田さん(はてな匿名ダイアリー)が「プロになろう。楽しもう。-IT土方なんて言う前に」(参照)というエントリを書かれていました。

 この増田さんの論点は、料理はオープンソースという着眼点とはちょっとずれていて、ソフトウェア開発は料理と似ている、というものですが、料理がオープンソースであるとの前提で読むと、増田さん、すごくいいこと書かれています。すごく納得。引用します。

 プロって何だろう?
 先に書いたように、プログラミングは特別なスキルじゃないし、特別な道具もいらない。
 そういったスキルの有無や道具が専門性を隔てる時代は色んな場所でとうに終わっている。
 例えば、料理は昔からそうだったよね。誰でも作れる。今はレシピも道具も材料も普通に手に入るようになり、ますます「料理」は普通になった。
 でも、プロは消えてないよね。それどころか、一般層が料理へのスキルや知識を蓄えるにつれ、ますますプロは存在感を増したように思える。
 優れた一皿に出会ったとき、それで幸せな時間を過ごせたとき、また来たい、またこの時間を持ちたいと自然と思わない?それを提供してくれた人たちへの畏敬の念を感じない?
 それがプロフェッショナルだと思うんだ。

「プロになろう。楽しもう。-IT土方なんて言う前に」 - はてな匿名ダイアリー

 そうそう。プロの領域っていうのは、ノウハウとか考え方の先にあるものだと思います。それが証拠に、ネット環境がこれだけ発達しても、プロの世界は崩壊していないし、これは少し残念なことだけど、プロの世界が格段に向上したっていうわけでもない。だからこそ、ノウハウ、考え方、そんなものはとっとと共有したほうがいいんじゃないか、と思います。

 その先にあるものは、きっと共有し得ないもの。つまり、そのパーソナリティに依存するものだと思いますし、それは、そのパーソナリティをプロとみなすものなのでしょうね。ノウハウや考え方は、共有したほうがいいと思います。プロの立場から言えば、発信したほうがいい、という言い方になるんでしょうね。なぜ、発信したほうがいいのか。

 ノウハウや考え方って、料理のレシピみたいなものだから、そのレシピを見れば誰でもチャーハンはつくれるけど、あなたがつくるおいしいチャーハンは誰にでもつくれるわけではないから。だから、ノウハウや考え方を発信しても、あなたは案外、困ったことにはならないんですよね。

 それに、発信することでいいことがあります。発信することで、そのノウハウや考え方は、自分にとって過去として定着されるから、その先を考えるようになるし、受け手の誰かからリアクションがあるかもしれない。発信することではじめて、自分がきちんとした受け手になれるんです。

 でも、自分のノウハウや考え方がベースになって、自分がつくるより新しくていいものができてしまうかもしれないって?それは、ちょっとくやしいけど、まあ、それはそれで、つくったひとを涙目で祝福する心の大きさというか、いまの時代、そんなちいさなことより、たとえば、広告だったら、広告という場が、そんな共有の精神によって豊かになっていくほうが、これからを考えたら、その場で飯を食う自分にとってメリットがあるような気がするんですね。

 さあ、月曜日。

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2008年8月17日 (日)

吉野家で牛丼かっこんでいる41の男が考えていること

 なんか「なぜ吉野家は食券機を置いていないのか。」というエントリがはてなブックマークで数多くブックマークされて、たぶんお盆休みと重なったことでエントリが少ないこともあり、はてなブックマークのトップページからなかなか落ちず、その間に多くのサイトにも取り上げていただいたり、ココログのアクセス集中ブログのトップになったり、そんなこんなでアクセス解析が今まで見たこともない状態になっています。こんなこともあるんですね。(あ、それと、この場を借りて。はてブのタイトルと本文の吉野屋を吉野家に修正していただいた方、ありがとうございます。)

 でもまあ、アクセスがいつもより多いからといってパソコンが発熱するわけでもなく、サイレンが鳴るわけでもなく、街で女の子から声をかけられるわけでもないので、いまいち実感がありませんし、ブログというのはパーマリンクの集合体なので、エントリ単位で読まれているみたいで、新しいエントリには影響はないようです。それはそれで、さみしいもんですねえ。

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 いつもは一人称を私と書いているのですが、今回は僕でいきます。しゃべるときは僕が多いので。なんかそんな気分。このブログは、外資系の広告代理店でクリエイティブディレクターという仕事をやっている僕が、日々思うことやいろいろな論考を書いている、いわば、僕メディアみたいなものです。だから、広告の話題だけでなく、音楽や社会のこと、ここ最近気になっている医療のことなど、いろんなことを雑多に書き綴ったりしています。広告系ブログと思って来てくださる人は、少しものたりないのかもなあ、と思ったりしますが。

 でもまあ、そんな感じで節操なくやっているので、広告やマーケティング関係ではないいろいろな素敵な人たちとコミュニケーションさせていただいたりして、本人はほんと楽しくやれています。最初は、ブログタイトルは違う感じにしたらよかったかな、なんて思ったりしましたが、まあ、ブログなんてものはある程度時間が経ったら、タイトルはあまり関係ない世界になってくるので、それはそれでいいかしら、と今では思っています。

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 枕が少し長くなりましたが、僕の商売について、ちょっと本音モードで書いてみたいと思います。

 世間から見たら、広告制作という仕事は、ふわふわした商売なんだろうなと思います。うちの親父なんかも、おまえの仕事は虚業なんだから、虚業として自覚しないと駄目なんて、今だに言います。(なのに、電通株を持ってたりするんですけどね)でも、それは一部の有名クリエイターさんたちのイメージなのかもしれません。テレビなんかで紹介されるクリエイターのイメージ。私は、一部の有名クリエイターさんともときたま仕事をしますが、実際は、ふわふわしているどころか、意外と地味で、非常にしっかりとした人たちばかりなので、世間のイメージなんてあてにならないな、とも思います。でも、広告のお仕事は下火なので、そんなイメージなんてもはやないよ、という意見も聞こえてきそうですが。

 そんな僕の商売ですが、実際は時間に追われて、徹夜ばっかりだし、お金のことで始終悩むし、結果が出なければ罪悪感に苦しむし、アイデアが出ないときは自分を無能だと思うし、因果な商売だなあ、なんて思ったりします。どんな商売もそうですが、お金を稼ぐのはしんどいことですね。それに、広告が下火でしょ。とくにマス広告は。一部にある、マス広告はなくなる、みたいなことは思わないけれど、バイは確実に小さくなっていくでしょうね。やっぱりね、考えるんですよね。これから生き残っていけるのか、なんて。幸い、いまのところ、わりと調子よくやれてはいますが、この先どうなるかはわかりませんし。まあ、駄目になれば、そのときはそのときですけどね。

 広告制作の世界ですが、いままでのやり方がどんどん通じなくなってきています。広告は古典芸能ではないので、今までほめられていたやり方を固持しても、いいことはありません。周りの制作者は、昔のやり方にこだわりを持っている人も多く、上司なんかはみんなそんな感じですので、その軋轢はありますね。これじゃ勝てないです、とか、それは違います、とかわりとリアルでははっきり言う方なので、けっこうストレス抱えて日々を送っています。

 でも、また大事なのは、いままでのやり方でも普遍的によいものもあって、そのことまで捨ててしまって新しいことをはじめようとすると、結局はその新しさは時間とともに消費されるだけですから、それはそれで駄目なんですね。時代は変わっても、広告なんて、かつて絵描きになりたかった人や、もの書きになりかたかった人たちの能力を利用してつくるものであるのには変わりがなく、やっぱり普遍的なクオリティってのはあります。

 周りの最新、最新、最新の、方法論至上主義な人たちともあまりなじめず、私のようなタイプは、いま微妙な立ち位置かも。結局は絵の力であり、言葉の力です。広告なんて、それにつきます。広告関係のブロガーさんなんかでも、ああ、この人、会社の中で微妙な立ち位置なんだろうなと思う人も、ちらほら。まあ過渡期ですから、今は我慢かも。

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 それと、表現に興味があって、広告を目指す若い人へ。ふだんは夢のあることばかり聞いていると思うので、僕メディアのブログらしく、本音ではどうなのか、みたいなことを。広告は、表現の世界でいえば、公正さに欠ける世界ではあります。チャンスは、会社や制作チームを含めた、どの組織にいるかで決まるところあるし、なにも貢献しなくてもチームにさえいればつくったことにできる世界。良心の呵責さえ捨てれば、けっこう、調子のよさで渡っていけるところがあります。ピュアアートではそれはないですよね。それが、表現の世界として見た場合、この広告の世界の甘さ、駄目さでもあります。絵の書けないデザイナー、言葉の書けないコピーライターでも、とりあえずはやっていける甘さ、駄目さ。

 どの世界もそうかもしれませんが、わりとおいしい話を探しまわる下衆な雰囲気を持った人が多いのも、広告という世界の特徴。汚れ仕事から露骨に逃げる人も多いです。その一方では、実直で誠実な人も多いけど。これからデザイナーなり、コピーライターなりになろうと思っている人は、もうひとつ自分の表現世界を持っておくほうがいいと思います。それがあれば、運、不運に振り回されることもないし、その表現の世界から、客観的に広告表現の世界を見つめられるし。

 僕の場合、時代がまだよかったのかもしれないけれど、広告だけしか見えてない時期があって、昔、児童文学みたいなものを書いたりして、それで賞をもらったりしたけど、ぜんぶ捨ててしまいました。今思うと、忙しくても、そういうベースになるものは、表現に携わるものとして健全に生きるために、あったほうがよかったな、と思います。今の時代は過渡期だから、特にそう。

 今となっては、僕の場合、業界の出だしがCIプランナーという戦略立案の仕事だったことがよかったな、と思ったりしています。自分のことは棚上げですが、この業界、制作生え抜きより、営業経験者やマーケ経験者が活躍してるケースが多いです。やっぱり視野が広いんです、そういう人は。広告会社に就職して制作に配属されなくて、くさっているなら、それは駄目ですよ。とりあえず、今の仕事を一生懸命やってみたらいいです。きっと役立つし、その業種の面白さも発見できると思います。それを見つけられた上で、それでも制作やりたかったら、私みたいに会社をやめればいいんだし。

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 で、今の僕。これからは、何か新しいことをやらないと自分で面白いと思わなくなってくるんだろうと感じています。いままでは、そうじゃありませんでした。業界のクオリティの基準が、しっかりとした広告効果とほぼ同期していたから。でも、いまはそうじゃないです。私は広告の表現面の担当ですから、いまきちんと届く表現について考えるのですが、その新しさは、案外見た目は新しくないものかもしれないですが、そういういまきちんと届くこと、それ自体が本当の新しさだと思っています。

 新しさ、ということにすごく興味があって、ぶっちゃけてしまうと、ここ最近、新しさが見つかるならば、それが広告でなくてもいいのではないか、なんてことも考えます。前にも書いたことがあるけど、私は制度としての広告にはこだわりはないんですね。それよりも、機能としての広告に興味があって、それは英語で言うとアドバタイジングに興味があり、インフォメーションではありません。そのアドバタイジング的なコミュニケーションが、制度としての広告でなくてもいいし、また、人生の道のりの中で、それと同じような、自分にとっての新しさが見えてくれば、それはそれでいいし。そのための試行錯誤はしていきたいなと思いながら、うだうだ考えています。

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 今回は、あまりテーマも決めずに、なりゆきのままに書いてみましたので、よくわからない感じになってしまいました。はじめて来られる方も多いし、あらためての自己紹介ですかね。なんだかんだで、結局は広告の話というか、仕事の話ばかりですね。ああ、やになっちゃいます。自分で言うのもなんだけど、つまんないやつだなあ。とまあ、こんなことを考えながら、吉野家で牛丼かっこんでいる41の男が書いているブログでございます。今後ともよろしくお願いします。

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2008年8月16日 (土)

笑い声と母音

 前から気になっていることがあります。笑い声と母音との関係。標準的な日本語をベースに考えると、日本語には「ア」「イ」「ウ」「エ」「オ」という5つの母音があって、その母音をベースにした笑い声にはそれぞれ特徴があるようです。その特徴から、日常よく使う笑い声は何かということで、その人のキャラクターなんかがぼんやりですが見えてくるような気がしています。けれど、ネットを眺めてみるも、そのような明確な論説はないようです。

 じつは、私は前にもそういう内容のエントリを書いています。といってもポエムっぽいのですが。短いエントリなので全文紹介します。

笑い声は、あいうえお。

あはは
いひひ
うふふ
えへへ
おほほ

明るく、あはは。
ひっそり、いひひ。
恥じらって、うふふ。
照れながら、えへへ。
気高く、おほほ。

私は、あははが多いと
自分では思うけど
人から見ると違うかも。

さあ、4月。
笑っていきましょう。

2008年4月1日

 まあ、これで全部言えているって言えば言えているんですが、今回はそれをもっと掘り下げて考えてみようかな、とそんな感じで書いていきます。

 ネットを調べてみると、ひとつだけ似たような題材で研究されている方がいらっしゃいました。阪大医学部の教授(当時なので今はわかりませんが)の角辻豊さんが「笑い声と諸言語の形容詞に含まれている母音との共通性についての研究」(参照※PDFファイルをダウンロードできます)という文章を「笑い学研究」という雑誌に書いていらっしゃいます。これは、日本笑い学会という市民参加型の学会が発行しています。

 この中で、角辻さんは、14種類の言語で48の形容詞をベースに検証し、次のように結論付けています。

 「」は非特異的な母音であり、最も多く使用され、笑い声のプロトタイプとしての「アッハッハッ」と矛盾しなかった。
 「」は「卑近、密接、卑小、鋭利、緊張」の意味が使用されている形容詞から推測されたが、「イッヒッヒッ」の笑いが含む意味と合致しているように感じられた。
 「」は「冷静、沈着、やや鋭利、やや緊張」が同様に推測されたが、「ウッフッフッ」と言う笑い声との連想はやはり合致していた。
 「」は口の形からの「狭い」が自然に理解されたが、「エッヘッヘッ」の笑い声から連想される、功利性や現実主義の感じは、形容詞の研究からは証明できなかったが共通項として「弛緩性」が推測された。
 「」の「憧れ、尊敬、非卑近」は「オッホッホッ」の笑いの持つ意味と良く一致した。

 形容詞との比較で、笑い声の意味は自明にされているので、私の興味の部分からは少しずれるように思いますが、エントリの参考に。で、私の興味はどこかと言うと、日常会話なんかの軽いコミュニケーションで人はよく笑いますが、その笑い方というのは人それぞれだなあ、ということ。で、それは母音で分類されるなあ、ということです。

 例えば、相槌程度の軽い笑いのとき「あはは」という人、「ひひ」という人、「うふふ」という人、「えへへ」という人、「おっほっほっ」という人に分かれるような気がするんですね。「ア」が一番多いですが、「オ」や「ウ」の人もたくさんいて、「イ」はときたま見かける程度ですが、それはその人のふだんの行動から来る雰囲気と一致しているような気がするんですね。

 まとめてみると、こんな感じでしょうか。

●「ア」系な人=自己開放 例)あはは。わはは。
いちばんナチュラルで普通な感じ。たいていの人はこのタイプでしょうね。緊張からの開放を素直に意味していて、笑いによってリラックスした雰囲気になります。いわゆる他者との円滑なコミュニケーション手段としての笑いですね。

●「イ」系な人=自己隠蔽 例)ひひひ。いひひ。
実際の日常会話では無音になることが多いような。ひきつり笑い。あいそ笑い。含み笑い。ああ、この人、心を開いていないな、と思うと同時に、心開かれても、音ありの「ひひひ」や「きひひ」を聞くことになりそうなので、ちょっと距離を置こうかなと思ってしまいます。

●「ウ」系な人=自己抑制 例)ふふ。うふ。うふふ。
恥じらいや控えめな感じがします。この感じの笑いの人は、わりと好き。あっ、あの人が笑ってくれた、と芸人みたいなよろこびを感じます。普段は笑い声は少ない人も多く、心の開放があまり苦手な感じがありますね。類型としては、ナチュラルな私、みたいな。(逆説的だけどね)

●「エ」系な人=自己肯定 例)えへっ。へへへ。
前述の論文では功利的と解釈していましたが、日常のシーンでは、いい意味での自己愛の強さを感じます。こんな私、かわいいでしょ、とか、私って駄目だよね、みたいな感じ。この手の人は、日常では人の話にはあまり反応しないような気も。その人を、話の中心にしてあげると吉かも。

●「オ」系な人=自己誇示 例)おほほ。おほっ。
もともと、こんなことを考えるようになったのは、このタイプの人が実際にいたから。「おほっ」って笑うんですよね。姉御肌の女性でした。ちょっと我が強めな感じなので、敵視されるとちょっと大変。そうならなければ、カラッとしてていいんですけどね。

 とまあ、自分を世界の基準にしているので、異論反論オブジェクションでしょうけど。しかし「笑い」というのは、哲学的なテーマとしても、生理学的、生物学的なテーマとしても、けっこう難解みたいですね。笑いは、情動なのか認識なのかという論争もあるようですし、言語学的にも、「言語は単なる記号」であり、普遍的に見れば母音と意味との関連はないという論が一般的みたいですし。

 それと、ちょっと余談ですが、こういう分類をしていてひとつ気付いたこと。さんまさん、「くわーっ!」と笑いますよね。「く」は、「ウ」系です。「くくく」という押し殺すような笑い方に代表されているように、抑制系ですよね。恥じらい、控えめというのも、自分の抑制がベースになっているような気がします。そして「わーっ」は「ア」系。瞬間、グッとためて一気に開放。だからこそ、あんな強い笑いの開放が生まれるのかも、なんて思いました。なるほど、さんまさんの笑い声よく出来ているなあ、と。

 まあ、このエントリの考察は、日本語限定での文化的考察ですから、解釈論ということで済みますが、普遍的な母音の意味論に踏み込むと、樹海に入ってしまうんでしょうね。オカルトに近いものになってきますし。

 音楽で言えば、調性格論争みたいなものでしょうか。CメジャーとDメジャーは同じ曲でも性格が違うよね、というもの。私はジャズをやっていたので、確かにBフラットよりFの曲の方が明るい気もするし、その次はCで、いちばん明るいのはDのような気がしました。でも、調性というのはないという意見が一般的。それに対する反論としては、十二平均律以外の調律であれば調性格が出るのは当たり前じゃないか、とか。

 このあたりの話題は、ネットでいろいろ探っていけば、一日暇がつぶせそうなくらい様々な検証がありますね。MIDIで聴き比べとか。お暇な方は、いかがでしょうか。私は、今から牛丼でも食べにいきます。今日は生卵もつけようかな。ではでは。

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2008年8月15日 (金)

パナソニックの白ものCM第一号は電球

 10月1日のパナソニックへの社名変更、ブランド統合に先駆けて「パルックボールプレミア」のCMがパナソニックブランドで放映されていました。パナソニックブランド白ものCM第一号は電球から、というのは「二股ソケット」の松下さんらしいです。

松下電器産業 - Wikipedia

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なぜ吉野家は食券機を置いていないのか。

 有名な話ですのでご存知の方も多いかと思いますが、吉野家に食券機が置いていなくて、代金後払いなのは、食べ終わって店を出るお客様に「ありがとうございました。」の挨拶をする機会を店員さんが逃さないようにするためなんですね。

 食券制や料金前払い制は効率がいいのですが、店員さんが用事をしている間にお客さんが店を出ると、挨拶する機会を逃してしまいます。ラーメン屋さんなんかで店を出るとき無言なことってよくありますよね。まあそんなもんかなと思うので、あまり不愉快にはなりませんが、客としては「ありがとうございました。またどうぞ。」なんて言われるほうが気分はいいですものね。

 バブルの頃、さかんにCI=Corporate Identityが重要だと言われました。CIは、大きくVI=Visual Identity(視覚的なアイデンティティ:ロゴとかシステムデザインとか)とBI=Behavior Identity(行動や態度のアイデンティティ:ミッションとか行動規範とか)で構成されますが、そのBIをこういうシステムで吉野屋は作り上げているのですよね。私は、牛丼をよく食べますので、他店と吉野家の差は歴然としているように思います。なんか気持ちがいいんです。

 吉野家は、その歴史の中でいろんな失敗や不運からいろいろなことを学んできた企業です。一度、破綻していますし、牛肉問題で主力の牛丼が販売できない時期もありました。それに、過酷な価格競争の先頭をきって走っていた時期もありました。そのときの失敗はNHKのドキュメンタリーにもなりましたよね。吉野家ホールディングス代表取締役社長の安部修仁さんはアルバイト出身ですから、企業文化も独特なものがあります。

 吉野家ウェブサイトの中にある「吉野家文化とは」というページがなかなか面白いです。特徴的なのは、数値や論理を重んじるというところですね。冒頭の部分を引用します。

吉野家には独特の企業文化があります。目に見えない吉野家文化の一つ「客観的、論理的な思考」。抽象的な表現を嫌い、客観的データや論理的思考をコミュニケーションの手段として使っています。一般的に、数字や客観的なものさしによる基準がないと、物事を感覚的に評価してしまいます。感覚的な基準では正しい判断ができなくなり、皆がそれぞれ自分のエゴを主張するようになってしまうため、吉野家は、実に様々な場面で数字や論理的思考によるコミュニケーション手法が体の一部として身に付いているのです。

 食券機を置かないというのも、このへんの哲学から来ているのでしょう。挨拶をなからずしよう、と精神論で言うのではなく、自然に挨拶ができるような環境に店舗を設計してしまう。そんなところは、いろいろ学ぶところが多いと思います。私も、このブログなんかでときどき会社でうまくいかないことの愚痴を書いてしまいますが、もしかすると、私がそういう愚痴が出るような状況にしてしまっているのかもしれないな、と反省されられます。

 人間の精神というのは、状況が決定する部分も多いと思いますし、いくら心構えをきちんとしても、状況がそれを許さなかったら心構えなんて飛んでいってないに等しい状態になってしまうのは、すこしでも日常を顧みれば分かることです。坂口安吾が「堕落論」で言っていたのは、戦後のどさくさの状況で、むしろその状況に即して堕落せよ、その堕落の中にこそ、さらに言えば、その堕落の中だけにしか希望なんてないんだよ、と言っていたんじゃないかと今さらながら思いました。なんか話が飛躍しすぎで分かりにくいかもしれませんが。

 精神論をまくしたてるよりは、そういう精神になるように状況をつくっていく、という考え方は、そんな安吾の「堕落論」と通じる考え方ではあるなあと思ったりしました。ベクトルが逆ですけどね。それに、絶対的な精神論を状況が裏切るような矛盾した状況にあるとき、人間は狂うしかないですし、そんなダブルバインドな状況をつくらないためにも、このへんの考え方は大事かもなあと思ったりします。それにしても、ダブルバインドって言葉、最近聞かなくなったのはなぜなんでしょうね。

*     *     *     *

 追記:

 ダブルバインドという言葉が使われなくなってきたのには理由がありました。もともとこの言葉はベイトソンが提唱した説で、メッセージとメタメッセージが矛盾する状況のことを言います。例えば、常にAをしろと言い、Aをすると常に殴られる、みたいな二重に拘束されてどうにもならない状況。当時、ダブルバインドは統合失調症とかなり強く結びつけられて考えられていました。私も、この概念を統合失調症(当時は精神分裂病と呼ばれていました)と関連づける精神医学や現代思想の本で知りました。

 しかし、脳生理学の発達や新薬の開発、遺伝的な原因の解明などにより、短絡的にダブルバインドと統合失調症を結びつけるのは問題があるというようになってきて、この言葉の流通が少なくなってきたようです。自閉症、統合失調症、躁鬱病などは、ここ10年ほどでかなり解明されてきて、比喩的な言い方ですが文学的な言説は少なくなってきました。

 


青空文庫:坂口安吾(安吾の主要作品が読めます)

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2008年8月13日 (水)

赤塚不二夫さんのちょっといい話

 爆笑問題のラジオを聴いていたら、リスナーのお葉書でこんな話。

 その方、若い頃、いろいろあって落ち込んでいたそうな。で、赤塚不二夫さんに「先生、私をバカ田大学に入学させてください。」とお手紙を書いたんですって。そしたら、赤塚不二夫さんから色紙が送られて来て、そこにはバカボンのパパが色鮮やかに描かれていて、直筆でこんな言葉が。

バカ田大学の卒業証書なのだ

 すばらしい話ですね。明日のいいともで絶対話そうと田中さんがおっしゃっていましたが、思わずブログに書いてしまいました。まあ、ラジオで放送されたことだし、読んでいる人も限られているし。これでいいのだ。

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「なぜ理屈っぽい広告は嫌われてしまうのか。」あとがき

 なんか、私のエントリの中ではこの「なぜ理屈っぽい広告は嫌われてしまうのか。」(参照)というエントリは、比較的多くの人に読まれたようで、その中でもいろんな意見が「はてなブックマーク」(参照)に書かれていて、書いた本人も楽しく読ませていただきました。それをきっかけにいろいろ考えることもありましたので、あとがきにかえてコメントに答えてみたいと思います。(新しいネタが思いつかない言い訳だったりしますが)

デルとかのマーケティングはすさまじく上手いと思うけどなあ・・・。

 そうですね。デルはうまいと思います。新聞と雑誌で集中出稿。ショップを経由させず、そこでレスポンスでPCを売ってしまう直販というビジネスモデルを大手で最初にはじめたのはデルですものね。デルという会社は、PCは完全にコモディティ化しているという認識っぽいですね。それはある意味当たりかも。
 で、デルの広告は理屈っぽいか。私はそういうふうに思わないです。わりとスペックが淡々と説明されていて、説得調独特の嫌みは感じられません。あのエントリは、カタログ的広告批判っぽく読める部分はありますが、意図はそうではなくて、消費者を理屈で鐘楼攻めにして、自社の製品の必要性を訴えるタイプの広告で、極端なことを言えばワンビジュアルでノンコピーの広告にも、それは当てはまります。(昔のカンヌ入賞作やドイツの広告業界誌であるアーカイブに掲載されている広告もそういうの多いです)
 デルの廉価なパソコンを題材に即席でつくってみますね。昔のアップルのQuadraみたいな高額パソコンがディスプレイが真っ黒なままただ空間に置いてあるというのがビジュアルで、「パソコンも3年経てばただの箱になってしまうから。」みたいなヘッドラインをつけて、「だからデル」みたいに落とす広告とか。そんな感じ。ちょっと例がへたくそかもですが。

かくして適当な根拠と細工されたグラフを基にした扇情的マーケティングが横行するのでありますことよ。 / どうせなら←の方を「なぜ」視してほしかったかもなぁ。

 広告は理屈じゃないのよ、みたいに理解すると、まあ、そういう傾向はあるでしょうね。でも、そういう基礎データねつ造系は、結果でないし、それがバレると何かとめんどうなことになりがちですから、ここ最近は経済も不調だし、実際はあまりないのではと思います。私はバブル崩壊後に業界に入りましたので、広告業界華やかなりし頃はあったかもですが。
 扇情的マーケティングが簡単には効かなくなってきた、つまり、今までのお手軽イメージ広告が効かなくなってきたというのは、当ブログの別エントリにたくさん書いています。私はわりと予算の少ない中堅企業を担当することが多いので、メディア量で圧倒することもできず、余計に扇情的マーケティングには疑問を持ってしまいます。そのへんは、またまとまり次第エントリにしたいと思います。

全温度チアーに関しては嫌悪感にさえも行きつかず、「だからどうした?」だったから好感度も低かったんだと思うけど。また、「理屈っぽい」という点を戦犯にして思考停止になることも多いと思う。

 でもまあ、全温度チアーはそこそこ売れたんですよ。でも、花王やライオンに勝てなかった。その頃だと真珠のネックレスがときどき入っているニュービーズでしょうか。海外では通用するのに、日本では駄目という事実もあって、そのへんは文化環境を考えていかないといけないなあと思っています。思考停止については、同意です。私の場合は、企画書はけっこうねちっこく理屈で固めます。

この人の、文学少年の見方も面白い。
文学少年のたとえが意味不明

 すみません。文学少年(中途半端なっていう言葉はいるかもですね)って、そんなイメージを持ってました。というか、私が若い頃は、こういう感じの思考をしておりまして、それでもってある女性を好きになって、お近づきになれて、それでもって(以下省略)

理屈っぽくてもOKな場合の成立要件ってあるのかな

 これは難しい問題です。このエントリ、じつは最初「なぜ外資系の広告は嫌われてしまうのか。」にしていたのですが、ちょっと誤解もあるし、釣りっぽいので「理屈っぽい」にしたのですが、今度は「なぜ理屈っぽい広告は嫌われるのか」それは「理屈っぽいからです」というようにトートロジーになってしまうかな、と心配になっていたんですよね。理屈っぽい広告がOKな場合は、その理屈がおもしろかったらOKではないかな、なんて思います。へえ、そんな見方があったのか、みたいな。読んでいて息苦しくならないような感じの。まあ、面白かったら、その段階で「理屈っぽい」とは言わないのかもしれませんが。

筆者が言う「知的嫌悪」と認知科学で言われる「知覚的防衛」の差異がよくわからなかった。人間の認知能力なんて高が知れているのだから、閾下単純呈示効果を発すれば済むじゃんと思った。

 ほぼ同じかもしれません。ただ、知的嫌悪の場合は、知的には了解したけど好きじゃないという「知的」で自発的な了解が含まれるかもです。ただ、この「知的嫌悪」という概念は私のオリジナルではないので、そのへんはよく分かりません。閾下単純呈示効果というのは、私はサブリミナル効果というふうに理解したのですが、そうだとすると圧倒的な媒体投下を前提にしていてお金がかかるので、ここでは考えませんでした。それに、嫌われるけど記憶に残すというのは効率が悪いように思います。

知的嫌悪ってバカだからじゃね?商品サービスの説明は納得いくまで欲しいぜ

 まあ、消費者が置かれている状況によりけりですね。消費者が製品に興味がある段階では説明は納得いくまでしたほうがいいと思います。カタログとかの領域ですね。ただ、広告というのは、消費者への興味喚起が目的なので、あまりに多い情報はコンフリクトを起こしてしまいますので、賢明な方法とはいえなさそうです。

う~ん、このような嫌悪は感じたことが無いなあ。

 少なくなったのかもしれませんが、ここでは嫌悪による行動は無視というふうに考えていますので、ノイズとして認知のフィルターをすり抜けているのかも。

これから欲望を喚起しようって段階だったらそうなんだろうけど、すでに欲望は生じていて具体的にどの商品にするかという段階だったらどうだろう。リスティング等は後者では?

 純粋にターゲットセグメント論ではそういうことになります。リスティング等は、リアルで言えば店頭で自発的にカタログを手にしたり店員さんに聞いたりするシチュエーションには近いので、説得というのは有効ではあると思います。けれども、厳密に考えれば、ジャンルとしての興味はすでにあっても、それでもなお製品そのものには欲望は生じていない段階であるとも考えられます。
 このコメントは、いま考えている領域に重なる部分があって、すごく考えさせられました。話に飛躍があるかもしれませんが、ターゲットセグメント論で言えば、旧メディアでは専門誌広告のあり方なんかに似ているのかもしれませんね。ちょっとずれるかもしれませんが、私なりのやり方ではこんな感じです(参照)。
 私は、純粋ターゲットセグメント論で消費者が情報だけを欲しがっている段階であると思い込みすぎると、最終的にはリスティングという手法の嫌悪につながる可能性はあるかもしれないな、という思いもあって、これからの広告はテキストバナーの表現のあり方みたいなところで問われてくるのではないかと思っています。リスティングという広告空間を豊穣にしていくことも必要なのかなという思いもあります。少し暢気な話ですが。
 はてなブックマークのテキストバナー、リクルートが買い切っていた頃はすごく面白く、ああいうやり方があるのだなと思って見ていました。あれは効果はどうだったんでしょうね。あの広告は本サイトを充実させて、そこを切り口にしたテキストでサイト誘因というかたちでしたね。そのへんの事例を参考にしながら、個別の状況を見極めて、説得成分をどう配分していくのかというのは実務ではいちばんの悩みどころです。

イメージ広告が最強な理由。

 微妙ですが、そうとも断言はできません。事実、イメージ広告の効力はどんどん落ちているように思いますし、イメージ広告って、みんなが共通の話題なり夢なり希望なりを持っていることが条件だったりするので、これからはイメージ広告の効力はますます低下するでしょうね。

「しまったー!  99,800円のパソコンなんてどう考えても安くしすぎた! うっかり、してました」 を思い出した。あのCM面白かったなー

 面白かったですね。私も大好きな広告です。小霜さんでしたっけ。前述の私が創作した悪い例と比べると一目瞭然ですね。

これの例外になる業種もけっこうある。健康食品あたりが典型だろう。
一日中ジャパネットたかたを見るといいと思う。

 はい。ケースバイケースです。通販なんかは、そのへんの説得が嫌悪にならない空間がすでにできていて、この知的嫌悪は当てはまらないのかもしれません。QVCやSHOP JAPANなんかも、嫌悪にならない空間作りがまずあるように思います。だから、通販「番組」なんですよね。ジャパネットは、説得が芸になっているところがほかの通販番組とはちょっと違いますね。あの説得は、けっこう時代を突いているし、意外と客観的。

知的嫌悪:消費者がアホやからという責任転嫁、あるいは(業界的に美味しい)イメージCMや好感度タレント起用CMをプッシュする口実。ちぃ覚えた。/それにしても、GDPに占める広告費の割合はどうやったら下がるんだろう。

 うーん、私は外資畑の人間ですので、そのへんわかりませんです。広告費の割合は、これからどんどん下がるでしょう。だからこそ、1発の効果を高めないといけない。そんなふうに、GDPの割合が下がると困る広告屋は思ってます。

外資が理屈っぽいのは「トーン&マナー」にこだわるからで、こんな言葉を国内代理店の制作から聞いたことは一回もない。CMに限れば、15secという特殊な状況にあってはそれは邪魔でしかない。

 トンマナにこだわるのは、外資もドメスティックも同じような。でもまあ外資の方が、説得型は多いような気はします。外資はクライアントもデータとか理論武装は強力だし、いつのまにか自己都合だけで広告をつくってしまいがち。それは、外資の弱点ですね。それと、短尺でも根が自己都合的な説得というのはありますし、一見楽しそうなストーリーでも企業の勝手な空想だなあと白けてしまうCMは外資に限らずよくあります。それに、制作会社時代、大手二社の制作と仕事をたくさんしましたけど、これに似たような話はみんなしてましたよ。

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 お盆の時期でもあるし、新しいブログエントリも少なめではあるでしょうから。他にもたくさんコメントをいただきましたが、ぜんぶフォローしきれませんでした。すみません。それと、納得されていたり、ちょっと褒められたりしているのに答えるのはちょっと照れくさいので、割愛させていただきました。励みになります。ありがとうございます。このエントリがそれこそ「知的嫌悪」の対象にならないといいなあ。ではでは。

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8月14日追記:

 PRマンのinsiderさんからトラックバックをいただきました。3度くらい読んで、いちおう趣旨はわかりました。私の書いたエントリに対する違和感としては、場の理論に起因するものが多いような気がします。リスティング広告という場、PRという場、それぞれにコミュニケーションの場があって、それぞれでコミュニケーションに求められる機能は違うので一方的に「説得」は嫌われがちよね、と書くと、それは違うんじゃないかというふうになるようですね。まあ、それはしょうがないかな。自分の立ち位置を、すべてのエントリで書けるわけでもないので。
 私が主戦場にしている場は、テレビCMとか新聞広告とか、そういうオールドメディアの所謂「純広」です。しかも、説得大好き外資系。その立場から、その場の理論の範囲内での、ちょいと自己批判風味が加わった論考なので、まあそういう違和感は仕方がないかもしれません。私は、過激に、広告いらね、広告おわた、みたいな論者ではありませんし、きっとこれまでのような広告はなくならないとも思っています。そうした視線で、リスティングやブランデッド・エンターテイメントといった新しい広告手法を見ています。insiderさんとは、エントリを読むところ本人はそう意図されてないかもしれませんが、ほぼ同じことを考えているようには思えたけれど、ただひとつ決定的に違うことがあります。

だから僕は東京ワンダーホテル的な番組の作り方が好きです。 わざわざ15分(なり数ページ)に一回視聴者を正気に戻すようなことをせずにコンテンツの中に入れ込んでいけばいいのに、と思います。 受け手が求めてるものと送り手が送りたいものは別枠にしちゃったらそりゃ受け取るほうはどうにかしてほしい所だけ取ろうとするでしょ。そんなもん溶かして一緒にしちゃえばいいじゃないですか。

 ここは私の考えとは違う部分ですね。東京ワンダーホテル的なブランデッド・エンターテイメント手法は有効な場合はあるし、増えるだろうけど、これが主流になることはないだろうという見方です。この考え方をつきつめると、すべての民放のテレビコンテンツやウェブコンテンツになんらかのブランドメッセージが織り込まれることになってしまいます。送り手が送りたいもの、受けてが受けたいものは、じつは、番組というエンターテイメントであって、番組は本質的には広告媒体ではないし(この番組はそれを溶かしてみましたという試みだけどね)、それを成り立たせてはいけない番組もありますよね。広告は、本来、テレビ番組とは関係がないんですよ。広告はおじゃま虫。いつの時代でもね。
 この東京ワンダーホテルは、広告したいという立場に立てば究極でしょうが、その事実を知った視聴者としてはいつかは興ざめということになる気がします。だから、ブランデッド・エンターテイメントは、特別な存在であることが存立の条件みたいなものだし、興ざめ閾値はかなり低いのではというのが私の見立てです。あっ、それと誤解しないでほしいのは、私はブランデッド・エンターテイメントは駄目って言っているわけではないですよ。そういう誤読はかんべんね。
 それと、エントリの最後の部分はちょっと余計かもね。かなりの誤読もあるし。まあ、自分への戒めとしてもあるけど、自意識を制御しないで文章を読んでしまうと、そうなることは多いです。私を含めた広告代理店マンは、そんな小さな気持で日々仕事はしていないですよ。それに必要悪だとも思っていないですし。社会に対してやましい思いもないです。それは、あたなだってそうでしょ。あと、比較広告は欧米を中心とした世界では、有名無名を含めて今も当たり前にあります。訴訟も多いけどね。
 まあ、これに懲りずにまたトラバを送ってくださいませ。これからもよろしくです。ではでは。

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2008年8月12日 (火)

残暑お見舞い申し上げます

Odawara_3

 しかしまあ、毎日暑いですね。土日は大阪に帰っていました。母のお見舞い。転院してから、急に状態がよくなってきて、少しうれしいです。転院して治療方針が変わって、それがよかったみたいです。担当の看護師さんが、じゃりン子チエに出てくるような陽気でおしゃべりなおねえさんで、その人を母が気に入ってくれたようです。それも、よかったみたいです。プロだなあと思いました。あの陽気さは、なかなか真似できないです。

 月曜日、小田原でプレゼンがあり、新大阪からひかりに乗って小田原へ。プレゼンまで時間があったので、小田原城を通って、御幸の浜まで足を運んでみました。それが、上の写真。海水浴場もあったけど、そちらにケータイを向けるとへんなおじさんになってしまいますので、人気のない浜をパチリ。なんか涼しげでしょ。でも、実際はもう汗だくでした。プレゼンということもあり、長袖に黒のジャケットだったので、プレゼンが終わって帰社した頃には塩が吹いていました。夏は黒、だめですね。

 小田原は、個人的には大好きな街です。鎌倉みたいな気取りもなくて、こじんまりしてて、緑が多くて、少し歩くと海で、いい感じ。私は、大阪市の真ん中で育ちましたので、ああいう街はすごくうらやましいです。今週の金曜日(8月15日)は、御幸の浜で花火大会があるそうです。小田原駅から歩いて20分くらいです。小田原城から見てもきれいじゃないかな。東京からも近いですし、足を運んでみてはいかがでしょうか。ではでは。

御幸の浜 海上花火大会

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2008年8月11日 (月)

なぜ理屈っぽい広告は嫌われてしまうのか。

 長年、外資系広告会社で仕事をしていると、外資系広告会社や外資系広告主が陥りがちな罠もよく見えてきます。外資系(とそれに親和性を持つ日系企業)は、概ねデータ、調査、戦略が好き。要するに理屈っぽいんですね。いい言葉にすれば、論理的とも言えますが、その論理的思考にはひとつのパターンがあって、今回は、新幹線移動中につき、時間がたっぷりあるので、そんな理屈っぽい広告が陥りやすい思考パターンについて「論理的」にねちねちと考えてみたいと思います。

■それは文学少年の初恋における思考パターンと同じ

 子どものときから恋愛小説をよく読んでいて、頭の中では恋愛のいろはをすべて理解している少年がいるとします。その少年が、生まれてはじめてひとりの女性を好きになりました。彼は、考えます。どうしたらうまくいくのか。自分のいいところをアピールしようとします。僕は読書が大好きで、ピアノが上手とか。彼は、自分が他の男性とどのように違って、その女性にふさわしい男性であるかをアピールしていきます。

 ちょっとお近づきになれて、デートをしたりします。でも、毎日のことなので、その女性がご機嫌斜めのときもあります。他の男性に目移りすることだってあるかもしれません。そんなとき、彼は、これまで読んできた世界の恋愛小説の知識を総動員して、あの手この手を使って、自分にとって不都合な彼女の行動や思考を封じていこうとします。

 で、どうなるか。その女性は、少年をふるでしょう。当たり前ですよね。うざいですもの。でも、これ、データ大好き、調査大好き外資系の陥りがちな負けパターンと同じです。要は、すべての行動原理が「説得」なんです。目的を「説得」に置く限り、デートのおしゃべりはすべて「説明」になります。原宿でお手てつないで「説明」なんて、いやですものね。少年の名誉のために言っておきますが、少年が魅力がないのではないんです。その魅力の出し方が、下手くそだっただけなんです。

■うざいからふる。そんな行動を「知的嫌悪」と言います。

 消費者が持っている必殺技。それは、「無視」です。論理的には正しくても、それが「説得」というかたちをとっている限り、やっぱり人間はあまり人から説得なんかされたくない生き物ですから、そんな広告は無視ということになるのですね。日本で比較広告が根付かないのは、いろいろな要因があるかとは思いますが、ひとつは、そんな「説得」の極致である比較という方法論を「品がない」と感じてしまうからだと思います。

 比較広告の是非についてはまた別の機会にしますが、消費者は、説得を聞いたうえで、知的にはその製品の優位性を理解したけれど、その優位性があるという結論とその結論が導き出された方法そのものを「嫌悪」し、受け入れないという行動をとることがあります。それを「知的嫌悪」と呼んでいます。

 この知的嫌悪、かつてはよく言われていたのですが、Googleを調べるとあまり出てこないですね。私がこの言葉を知ったのも、15年くらい前なので、今はあまり流行らないのかもしれません。洗剤のマーケティングまわりで、CMでデモンストレーションを展開していた「全温度チアー」という製品が、なぜ製品優位性がありながら日本で根付かなかったのか、というトピックでしきりに語られていました。

 この「全温度チアー」という製品のCMは、マジシャンがカクテルシェーカーに氷とインクのついたハンカチを入れてシェイクしてきれいになるというデモをやっていました。それなりに楽しいつくりでしたが、好感度は低かったんです。その低さを心理学的に定義したのが、この「知的嫌悪」だったように覚えています。

■ウェブマーケティング時代の「知的嫌悪」

 行動ターゲティングとか、リスティングとか、生活者の消費行動や嗜好をセグメントして情報が届けられるようになってきました。広告を出す側にとっては、都合のよい世の中になってきたとも言えますが、消費者にとってみれば、これは、自分の趣味や嗜好からの自由な行動により、より「説得」の雨嵐を受ける世の中になってきたとも言えると思います。

 それに、説得型広告だけでなく、広告というシステム自体が見破られている時代でもあり、一頃のブランデッド・エンターテイメント手法(様々なコンテンツの中に広告を折り込む手法)など、広告が効かない世の中を前提として、巧妙な手法が開発されてきています。

 いま、この行動ターゲティングやブランデッド・エンターテイメントがわりと無邪気に語られていることが多いですが、この方向で進むと、きっと消費者の「知的嫌悪」を呼び込んでしまうだろうなと感じています。ホリスティックソリューションやクロスメディア戦略なんかでも、消費者の日常行動にそって、広告が待ち構えるという仕組みですし、これまで表現手法だったものが、3次元的にメディアにも援用されただけとも言えます。

 そんなこんなで、私、ちょっとそういう最新の広告手法に食傷気味なんです。オールドタイプと言えばそれまでですが、どちらかと言えば、こんな時代でも愛され受け入れられる広告というかマーケティング活動というのは何だろうな、ということに関心が移ってきています。できれば長い間、ずっとずっと愛される広告というのを作りたいな、と思っています。愛されるために、ホリスティックに、あえて手を出さないメディアを考えるとか。それはなかなか難しいけれど、愛される、みたいなこと、今の時代、すごく大切なことになってきているのではないかなと思うのですが、どうでしょう。

あとがき

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2008年8月10日 (日)

ブランドって何だろう(3)

 ブランドで最も大切なのは、ブランドが信じる固有の価値を、持続的、継続敵にコミュニケーションしていくことです。これは、実務では非常に難しいことでもあります。企業も、そして私たち広告会社も変えたがる生き物だからです。少し売り上げが下がったりすると、今まで言ってことが間違いではないかと思うのが人情だし、経営的な環境が変えないことを許さないかもしれません。

 こう変えるべきだ、という提案は容易ですが、変えるべきでないという提案は勇気がいるものです。また、変えてはいけないと頑になることは、信念の硬直化を生み出してしまいます。これは、人間でも同じですね。陳腐化するし、硬直化した思考は、現実との距離を大きくしてしまいます。

■変えてはいけないものをどこに置くか

 だからこそ、変えてはいけないものが何であるのかを認識することは重要なのだと思います。私の場合、変えてはいけないことを明文化します。例えば「ちいさなことをコツコツ積み重ねることはいいことだ」と信じる、というふうに。これを絶対なものにします。このステートメントは、明確な違いを表明できて、かつ、時代の変化では価値が変動しない普遍性を持ち合わせることが重要な気がします。

 広告表現においては、明確な差別性が最も重要と言われますが、このブランドの核は、ある普遍性が求められます。そして、この絶対変えてはいけないステートメント以外は、柔軟に変えてしまっていいと考えます。もちろん、変えることが第一義になってはいけないとは思いますが、例えば、デザインフォーマットや色なんかは、陳腐化を感じれば、変えてもいいと考えるのです。

 これには異論があるでしょう。ビジュアルの継続性もブランディングの重要な要素であることも事実です。しかし、そのために、ブランドが完全に陳腐化するよりは動いていくほうがよいような気が私はしています。人になぞらえるなら、髪型や服装は変えてもいいんじゃないか、という考え方です。わかりやすく言えば、大切なものが変わらなければ、髪型や服なんて小さなことではないか、そんなふうに思うのです。

■広告は人である、というふうになればそれが理想

 私は、ここ最近、商品広告があって、企業広告があって、ブランド広告がある、というふうに分けて考えることをしないようになりました。例えば、テレビCM。テレビを見る人にとって、企業側の役割の区別は知ったこっちゃないからです。どれも等価の15秒。テレビCMのブランドCMではかっこいいことを言って、売りの現場に近いSPやネットでは売りに徹する、そんな考え方はあまり意味がないように思うようになりました。

 いままでは、ブランド広告では、広告で人を表現すべきであると考えがちでした。でも、これは逆なのではないでしょうか。消費者にとっては、ブランドが人を表現するためにあるのが広告という器という見え方はしていないはずです。広告がブランドであり、ブランドが人であるとすれば、つまり、広告は人なのです。

 レスポンスを求める広告。実際の商売に直接寄与する広告。昔は、ハードセルと言われました。ハードセルばかりやるとブランド感が損なわれるから、定期的にブランド広告を打つ。そんな定石は、今の時代、あまり意味がないかな、と思うんです。広告が税金対策だった時代はそれでもよかったんでしょうが。

 こんな時代に、大切なのは、現実に機能する広告です。この場合、レスポンスを求める広告です。であるならば、レスポンスを求めるという行為自体が、そのブランド、つまり、その人を表現するようにしなければならないように感じるのですね。セールストーク。そこは、きれいごとを言うシチュエーションよりもより人間性を表すものです。この現実に寄与する広告こそ、本当はブランディングの主戦場とも言えると思うのです。

■ブランド感を損なうから電話番号を小さくレイアウト、の駄目さ

 もう、こういう考え方、クリエイティブからなくなったらいいのに、と思うんですね。電話番号を大きく入れることは、ブランドを損なう行為ではありません。逆に電話番号を小さくすることで、気軽さ、敷居の低さというブランド感を損なうことだってあります。

 例えば、小さな文字で電話番号を入れる行為は、目の悪い方やお年寄りに配慮しないというメタメッセージを投げかけてしまうのです。それが問題にならないブランドの場合は、特に小さくてもいいとは思いますが、誰にでも気軽に、というブランドがあったとして、その小さな電話番号ひとつで、そのブランドの信念が嘘になってしまうのです。

 あらゆるコミュニケーションがブランドの総体であるならば、ブランド広告だけがブランドをつくっているのではないのならば、そうしたひとつひとつのコミュニケーションに等価に考えるべきです。ハードセル広告が必要であるならば、ハードセルという行為そのものが、その人を表現するようにつくらなければいけないということです。そして、それは可能です。

■尊敬と憧憬のブランディングの終わり

 私は、人々がブランドに尊敬と憧憬を持って接する時代は、そろそろ終わるのではないかと考えています。尊敬と憧憬でものが売れた時代が確かにありました。高度成長期です。憧れの生活。夢の商品をようやく手に入れる幸せ。けれども、それはもうノスタルジーですよね。

 海外高級ブランドのブランディング手法の劣化コピーではものが売れなくなってきているのは、マス広告の終焉以前に、こうした時代の変化があるはずです。いま、マス広告の終焉と言われるものの大半は、表現の問題なのではないかというのが私の思いであり、このブログの広告関連エントリに貫かれているものなのだろうと、なんとなく書いてて思います。

 なんかまとまりがなくなってしまいましたが、お気軽個人メディアゆえ、なにとぞご了承を。北京オリンピックのテレビ観戦で忙しいときに、こんな空気を読めないエントリを読んでいただいたみなさま、ありがとうございます。谷亮子選手、負けてしまいましたね。でも、負けてもしっかり話す谷さんは、いいなと思いました。ああいう態度、ブランディングの見本だと思いました。ではでは。


ブランドって何だろう()(

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2008年8月 9日 (土)

ブランドって何だろう(2)

 ブランドという言葉は、牛の焼印を語源に持ち、商品あるいは企業を識別するロゴマークを意味していき、それが拡張されて、商品あるいは企業を差別化するコミュニケーション総体を表すようになりました。そして、その差別性=超過収益力の極限として、シャネルやヴィトンのような海外高級ブランドの世界があります。つまり、そのブランドである、ということで、普通のバッグの何百倍という価格で売れるということです。

■ブランディングを人に置き換えて考えてみる

 ここから、ひとつのねじれが起こります。海外有名ブランド的なブランドづくりの手法の絶対化です。でも、この商品あるいは企業を人に置き換えてみると、それが間違いであることがわかります。誰もがセレブのようなブランディング手法をとればいいのか。そうではありませんね。例えば私がセレブのような服装をし、言動も厳しく律していったとしても、逆に私というブランドを損なうだけです。信用を損なってしまいます。あるいは、ルネッサーンス!みたいなことになりますよね。まあ、それはそれで面白いからありかな、とは思いますが。

 私という人間のブランディングを考えた場合、別の方法をとることになるでしょう。それは、セレブのようなブランディングとはまったく別の手法だと思います。餃子の王将が好きで、駅そばをかっこむ私が、華麗なる世界のグルメや、繊細かつ優美な日本料理を語り出しても、「ああ、あいつも変わったよな。昔はそんなやつじゃなかったのにな。けっ。」と思われるのが関の山です。

■アサヒ「スーパードライ」のブランディング

 この話は、もしかすると広告業界に限定されるかもしれません。アサヒ「スーパードライ」というビールがありますよね。昔、村上龍とかが出て来て、なんかのプロジェクトを成功させて、みんなで乾杯、グビーッ、みたいな爽快なCMと、生産と物流の速度を速めて新鮮さを維持しているという企業広告的なCMを交互に流し続けました。

 あの「スーパードライ」のCMは、広告業界ではさんざんな言われ方でした。あんなCMだけは作りたくないとか、ブランドなんか考えずにいいたいことを言いっぱなしだとか。グラフィック広告も、水滴のついたビール缶がどアップで、太いゴシックで大きく「キレ味、爽快。Asahi SUPER DYR 品質のアサヒビールです。」みたいな感じで、駄目だよ、あんな広告、とほとんどの人が言っていたんです。

 でもね、大衆はこれを支持しました。今まで不動のナンバーワンだったキリンラガーを抜いてトップになりました。もちろん味の問題もあったでしょう。しかし、広告の貢献も無視できません。あの頃、広告業界のクリエーターが言っていた論に従うならば、それを支持した大衆は民度が低いのか。そうではありません。

 アサヒ「スーパードライ」にはブランドがあったからだと思います。スーパードライには信じるものがあるんですね。それは、「がむしゃらに努力して勝ち取る成功は尊い」という考え方です。世間のハイセンスな人たちがそれをダサいと言おうと、絶対に信じるという強度がありました。それに、決してブレない。同じことを時間をかけて何度も何度も繰り返し言う。あのストレートな企業広告的なCMも、そんな信念に貫かれています。

 私は、アサヒ「スーパードライ」の一連のコミュニケーションを高く評価しない人のブランド論を信じません。なぜなら、あれこそがブランディングなのですから。ブランドとは何か。それは、ある信念を持ち、決してブレずに、何度も何度も繰り返し言うことです。そして、それを持続、継続していく力です。それ以外の要素は、ブランディングの個別の戦術にすぎないと私は思っています。

■持続可能性から見るブランディング

 私は、ブランディング設計において最も重要なのは、初期段階のコンセプト設計における持続可能性の計算だと思っています。これから長期にわたって言い続けていくことができるだけの強度がそのコンセプトにあるかを考えることが最も重要です。時代はどんどん変わります。そんな予測不可能な時代の流れにも影響を受けずに言っていく自信が持てるかどうかが、ブランディングの鍵だと考えます。

 この持続可能性という軸で見たとき、日本にはブランディングのいいお手本がたくさんあります。桃屋、リポビタン、文明堂、オロナミン。それに、ヨドバシカメラだって、小林製薬だって、コーワだって、立派なブランドのお手本です。変えないことの信頼がブランドをつくり、製品の支持をつくっています。

 最近、ソニーが不調です。ソニーが不調なのは、製品の問題もあるでしょうが、広告戦略の問題も多大だったと思います。ソニーというブランドは、一頃まで、「私たちはプロダクト総体の品質で勝負します」というブランドであったはずです。一方の松下は「お客様ニーズを汲み取った機能をお届けします」というブランド。それが、DVDビデオの「スゴ録」という機能を売りにした松下的手法で大成功をおさめてしまいました。それは、ソニーらしくなかったんですね。ソニーの迷いは、そこからなのだと思います。

追記(8月10日):

PS3に関連して、『「映画とゲームを融合させた全く新しい映像を提示したい」と言い続けることですね』というコメントをはてなブックマーク(参照)でいただきましたが、それは違います。

ブランドとは何かという話のいい例になるかと思いますので続けますが、PS(プレイステーション)というブランドは、いままでずっと「つねに最先端かつ本流のゲームを提供しつづける(プラットフォーム)」というブランドであったはずで、映画とゲームの融合とか、新しい映像というのは、最先端かつ本流のゲームを形成する一要素にすぎません。

なので、PS3発表時に記者発表でああいうことを言ったというところにもソニーの不調の要因のひとつになっているというのが私の理解。本論で「言い続ける」と言っているものは、ブランドのコアの部分。また、仮にPS3を映画とゲームを融合させた新しい映像をつくるものとしてブランディングしたいとするならば、それはブランドのコアの設計が間違っているということでしょう。もし、ソニーがPS3誕生のときに製品のポジショニングを変えたかったのだとしたら、その変え方は、あまりにもPSというブランドを逸脱しすぎていたのだと思います。

私は、その後の、PSの広告のラグライン「これが、ゲームだ。」がブランディング的に正しいと思っています。あくまで、映像の処理能力は、本物のゲームをつくるためのスペックとしてメッセージすべきでした。あの発言は、その後のPS3の広告戦略を見ると、あの時点では、不用意でPSというブランドを阻害するものだったと思います。


■変えないこと。変わり続けること。

 変えないことは簡単ではありません。常に変えることの誘惑があります。変えたことでの成功体験が、ますます変えないことを難しくしてしまいます。変えることは、担当者の名声や、業界にとっては広告需要を生み出します。実際に、コンペの多い日本の広告環境でブランドをつくるのは難しいのも現実です。

 そして、変わらないために最も重要なことは、たえず変化をしていくことでもあります。逆説的ですが、たえず動いているということが、根本を変えないための必要条件なのです。自己同一性は、時間の流れの中での自分の連続性の中で確認されていくからです。

ブランドって何だろう(3)
に続きます
ブランドって何だろう(1)

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ブランドって何だろう(1)

 ブランドという言葉はマジックワード化しています。とくに制作現場では。「そんなふざけたことじゃなくて、ブランドをきちんと語らなければいけないよ。」とか、「もっとブランドが感じられる高級感のある表現じゃないと駄目でしょ。」とか。

 ブランドがある、ない、というのは、人それぞれで、ある人はシャネルやヴィトンなどの海外高級ブランド的な世界をブランドと呼んだり、ある人はかつての西武やサントリーみたいに人の心を語るあったかい世界をブランドと呼んだり。間違っちゃいない。でも、それはブランドのひとつとしか言えない。そんなふうに思います。


■そもそもブランドの語源は

 よく知られた話ではあるけれど、Wikipediaのこの文章がわかりやすいので、引用してみます。

ブランドとは「焼印をつけること」を意味する brander という古ノルド語から派生したものであるといわれている。古くから放牧している家畜に自らの所有物であることを示すために自製の焼印を押した。現在でも brand という言葉には、商品や家畜に押す「焼印」という意味がある。これから派生して「識別するためのしるし」という意味を持つようになった。「真新しい」という意味の英語 brand-new も「焼印を押したばかりの」という形容が原義である。

ブランド – Wikipedia

 ほかの商品と区別するための印ってことですね。狭義にはシンボルマークってことになりますが、マーケティング的には、当然、ブランドマークと同等の機能をする諸表現の総体のことであり、目に見える代表的なもので言えば、テレビCMや新聞広告などのマス広告からPR、SP、現場での社員の立ち振る舞いなど様々なものが含まれます。

 たとえば「巨人軍は常に紳士たれ」というのも巨人という球団を他の球団と区別するためのブランドを区別するひとつの要素にはなっています。ああいう行動指針が好きな人、嫌いな人を含めて、巨人ってこんな球団だよね、ということを示す重要な事柄ではありますよね。

 この「紳士たれ」という行動指針ですが、たとえば阪神が明日から「阪神は常に紳士たれ」と言い出したら、この言葉が阪神のブランドになるのかというと、否です。そもそも、阪神は紳士ではなかったし、その言葉を今後守れそうにない感じがプンプンします(私はファンですけど)。つまりブランドは、継続性、持続性が大切になってきます。ブランド、一日にしてならず、なんですね。

■なぜブランドが一元的な語られ方をするようになったのか

 それは、きっと、この他商品と区別することで生み出される超過収益力(他社より高く売ることができるブランドの力)を基軸に、その軸の中の頂点に位置するのがシャネルやヴィトンのような海外高級ブランドであるからなんでしょうね。確かに、この超過収益力で考えると、海外ブランドのようなハイファッションなトップモデルの世界というのは、ひとつの頂点であり、そういった方法論の援用である、普通の人々の心情を語るあったか世界という方法も、その方法論の下方延長線上にあるのは確か。でも、これ、方法論の話で、ブランドをつくり方のひとつでしかありません。

 このエントリを書いている動機を明らかにしておいたほうがいいのかもしれませんね。私はCMや平面広告をつくる制作者ですが、ことあるごとに、そんなブランド論にうんざりなんですね。例えば、気軽な商品があるとします。みんなに使ってほしい、敷居の低い商品。こちらとしては、おじいさんにも、おばあさんにも、子どもたちにも、あかちゃんにも好まれる広告をつくろうとしますよね。そんなブランドの設計をします。

 というときに、必ず出てくるんですよね。ブランド感がない、という人。ああまたか、と思います。で聞いてみると、必ず外人の男性や女性が出て来て、なんか素敵なことが起こるというようなことをイメージしていて、海外有名ブランドの方法論の劣化コピーなわけです。で、もう一人、気持ちが描けていない派が登場。その気持ちっていうのは、愛が、恋が、ひとのやさしさが、どうたらこうたら。

■マジックワード化し本質から乖離するブランドの定義

 その人たちが持論の根拠にしているものが、ブランドだったりするんですよね。ブランドって、本当にマジックワードだと思います。都合良く持論の補強ができるワード。でも、ぜんぶ違うんです。間違っています。それに、ここには決定的な駄目なところがあって、いわゆる普通に生活をしている、本来、この商品をいちばん手にしてほしい人を啓蒙しようとする指向性があって、そんなダサイものではなく、カッコいい、あるいは繊細な感情に気付いてくださいっていう、制作者のおごりみたいなものがあることです。

 で、こんどはこちらの論を擁護してくれる人が登場。これ、値段の安い売らんかなの商品でしょ、ここにブランドいらないんじゃない、だから、こういう広告でいいんじゃないの。失礼な。擁護してくれる気持ちだけ受け取っておきますけどね。

 でもね、ちゃんとブランドはありますってば。じいさん、ばあさん、子どもたち。あなたがたは、そんな人たちに興味ないかもしれませんが、でも、そういうメディアの先鋭的な指標にならない人たちが重要で、その人たちが主流だからこそ(というか、これからはもっともっと主流になります)、日本ではタレント広告が主流(参考:タレント広告はなぜなくならないのかになるんです。タレント広告否定派でブランド広告肯定派の人も、その理由をきちんと考えたほうがいいと思います。そんなこと言っているから、今の時代に、広告は取り残されてしまうんです。浮世離れしてしまうんです。


ブランドって何だろう(2)に続きます

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2008年8月 7日 (木)

できません。

 ということを言ったことが、あまりないです。仕事に関してですが。これは、特に偉いわけでもなんでもなく、クリエイーターという人種に特有の倫理観。とりわけ年配の人に顕著に見られます。まわりも、そんな人ばっかりだし。

 あまり勝ち目のないコンペ作業。ことの成り行きで、制作担当の役員と一緒に作業。急な仕事でもあり、若いコピーやアートのスタッフは、次々脱落。できません。作業があるので、できないかもしれません。見てると、まあ確かに忙しそう。

 そういうの、正直、ちょっとわからない部分はあるんです。自分の中にそういう考えがないから。できるやろ、と。役員でさえ、受けたからには老体にむち打ちやってるやろ、と。おっちゃんかて、忙しいんやで、と。まあ、言いたいことは、いろいろあるかもしれんけど。受けたからには、やる。やる前提の融通はいくらでもきくけど、途中でできないっていうのはね。

 大人は怒ったりはしないから、ニコニコやってるけどさ、心の中では、とまあ、愚痴ってみるも、考え方を変えると、できません、を言わない私のようなタイプは、けっこういいかげんなのかも。いい言い方をすると、融通がきくタイプ。悪いいい方をすると、わがまま。

 その年配の役員なんかは典型だけど、打ち合わせの時間もぜんぶ自分の都合。それがわかっているから、第一優先の都合を考慮しつつ、あるときは無視しつつ、こっちも自分の都合でどんどん動く。そんな感じでやってるから、「その時間都合悪いんです」「まあ、いいよ。」みたいな感じで、わりとおおらかに危機を乗り切れる。

 で、そんな工程表無視のふるまいで、唯一見ていること。それはケツ。締め切り。そこだけ見て、やらなきゃいけないという危機感のセンサだけ同期させておく。たいがいは、それでうまくいく。

 てな話を、プレゼン前の空き時間にルノワールでこれ書いている私なんかは、すげーいいかげんに見えるんだろうな。余裕あるやんか、と。まったく余裕ないんですけどね。でも、そういういいかげんさで見えなくなっているもの、たくさんあるんでしょうね。でも、反省はしないですけどね。

 追記。

 考えてみると、愚痴っていうのは、ケツを割らない人にだけ許された、つかのまの息抜きなんでしょうね。暮らしの知恵っていうか、仕事の知恵っていうか。家族についての愚痴っていうのは、家族の絆みたいなものの信頼の上でしか成り立ちそうにないし。うちの嫁、あれなんですわ、っていうのは、嫁さんへの信頼が前提。そんな感じです。

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2008年8月 6日 (水)

広告会社の再編で何が変わって何が変わらなかったのか

 広告会社の再編をアサツーDK(旭通信社、第一企画の2社の合併。現ADK)が発足した平成11年(1999年)頃からだとすれば、あれから10年弱経ったことになります。それは、私が広告代理店に在籍してきた歴史にも重なりますので、少々の資料とともに、広告会社の再編によって、何が変わって何が変わらなかったのかを、ごく私的に考察してみたいと思います。

■外資の再参入とともにあった日本の広告会社の再編

 その合併のあと、様々な再編が行われました。I&SがBBDOと合併し、I&SBBDOになり、日産のハウスエージェンシーであった日放は、TBWA/JAPAN(注:/は逆向き)になり、現在はTBWA/HAKUHODO(注:/は逆向き)になっています。また、東急エージェンシーの海外広告部門であった東急エージェンシーインターナショナルは、ソニー子会社になりインタービジョンへ、そして、電通資本が入ってフロンテッジと社名を変えました。そして、大阪の老舗広告代理店である萬年社は、今はもうありません。

 これは、余談ですが、大阪では、その昔、「電通、大広、萬年」と言われていました。要するに、ナンバースリーだったんですね。萬年社は日本の広告代理店では、廣告社に次いで古く、そんな老舗広告代理店の倒産は、関西出身の広告人にとってはかなりのインパクトがありました。時代が変わったことを思い知らされた出来事だったのです。

 広告会社の再編は、欧米の広告会社が日本市場に注目した時期と重なっています。これまで外資系は、日系の広告会社と提携を結び日本で活動することが多かったようです。マッキャンエリクソン博報堂(かなり前に博報堂と提携を解消)、電通ヤング・アンド・ルビカム、レオ・バーネット協同、グレイ大広、サーチ&サーチ・ベイツ・読広。そんな中、オグルビー&メイザーが日本再参入し、レオ・バーネットは電通とDMB&Bと三社でビーコン・コミュニケーションズを設立。TBWAやBBDOといったメガエージェンシーも日本の中堅広告会社を買収するかたちで日本に進出してきました。

 その頃は、グローバルスタンダードの旗印のもと、欧米資本の広告会社が積極的に参入してきた時期でした。バブルが崩壊し、日本の国力が低下していって、参入がしやすくなったのも要因のひとつであったようです。これまでのようにウィンウィンの関係での提携は難しくなり、業界界隈でも、これからは外資の時代だ、なんて言われていました。私も、外資系にいる人間として、ある主の高揚感は確実にあったように思います。

 しかしながら、日本の経済の低迷が長期化し、そんな外資系の思惑通りには進まなかったのが今ではないかと思っています。フィー主体の収益構造を持ち、媒体の扱いを持たない外資は経営が苦しくなり、新規参入してきた外資も撤退が相次ぎました。また、そんな外資の進出に刺激されたのかどうかはわかりませんが、欧米の広告会社グループに対抗するかたちで日系広告会社の経営統合も相次ぎ、この外資系広告代理店ブームが、結果として、媒体提案力での競争という日本市場独特の特徴を強化してしまったように思えます。

■売り上げランキングから見るこの10年

 たまたま「比較日本の会社98 広告会社」という本があって、98年の広告代理店売り上げランキングが掲載されていましたので、07年と比較してみたいと思います。私と同じ世代の広告人なら、ああ、時代変わったよなあ、って思いますよ。なんだか、この表を見ながら、あの頃、ああだったよねえ、なんて昔話を肴にして、ホッピー3杯いけそうですね。

 

1998年

  1. 電通
  2. 博報堂
  3. 東急エージェンシー
  4. 大広
  5. 旭通信社
  6. 読売広告社
  7. 第一企画
  8. I&S
  9. ジェイアール東日本企画
10. マッキャンエリクソン
11. 朝日広告社
12. 創芸
13. オリコム
14. 日本経済社
15. J.W.トンプソン・ジャパン
16. 中央宣興
17. 電通ヤング・アンド・ルビカム
18. 日放
19. 協同広告
20. 日本経済広告社


2007年

  1. 電通
  2. 博報堂
  3. ADK
  4. 大広
  5. 東急エージェンシー
  6. ジェイアール東日本企画
  7. 読売広告社
  8. デルフィス
  9. 朝日広告社
10. 日本経済社
11. 日本経済広告社
12. フロンテッジ
13. オリコム
14. 電通ヤング・アンド・ルビカム
15. JR西日本コミュニケーションズ
16. 電通九州
17. JIC
18. 中央宣興
19. NTT東京電話帳
20. 新通

 

 ちなみに、07年には売り上げ非公開である外資系広告会社は含まれていませんので、純粋な比較にはならないことをお断りしておきます。

 単純に思ったことは、広告会社ブランドの多様性は減ったなあ、ということですね。旭通信社も第一企画もI&Sも今はありませんし。それと、そうそう、この頃は「電通、博報堂、東急」だったんですよね。その前は長い間「電通、博報堂、大広」の時代がありました。大阪は今も「電通、博報堂、大広」ですね。

 あの頃、上位10社くらいなら、名物クリエイティブディレクターがかならず1人はいて、ISならあの人、一企はあの人、マッキャンはあの人、YRはあの人、という感じで、互いに競い合っていた感じだったのですが、今や上位2社の戦いみたいな感じになっていますね。コマフォトを見ても、ブレーンを見ても、電通、電通、電通、博報堂、電通みたいな。ちょっと愚痴っぽくなってきましたので、個人的な感想はこのへんにします。

 ここで注目は、ジェイアール東日本企画、JR西日本コミュニケーションズのJR系広告会社と、トヨタ系のデルフィスの躍進です。また、98年当時23位だった東急エージェンシー・インターナショナルが母体のフロンテッッジが12位に。これは、東急インターがインタービジョンに変わるときの低迷を知っている者としては、大躍進と言えるのでしょうね。

 特徴的なのは、「系」が強いということなのでしょうね。JRなどの媒体系は、媒体提案力、広告主企業系は仕事の安定的供給というところでしょうか。07年には、I&SBBDOなどの外資は含まれていませんが、現実は大躍進というわけではありません。かつて話していた、「電通、博報堂、BBDO」という冗談は、どうやら冗談で終わりそうです。それに、クリエイティブで目立ったところが大躍進というニュースも皆無ですしね。それに、中堅は当たり前のように苦しいですが、上位も苦しいのが現状ですね。

■なんかつらくなってきました

 とここまで書いてきて、なんかお気軽個人メディアであるブログだから言っちゃいますが、どんどんつまらなくなってきました。というか、書くのがつらくなってきました。じゃあ書くなよってな話でもありますけどね。

 ここまでは基礎資料と、当時の業界内の印象だけですので、もう少し資料にあたって、もう少し深く考えると何かが見えてくるかもしれませんが。それに、ネット系も視野に入れないといけないんだろうなと思いますが、ネット系もそれほど好調ではないし、いまのところ群雄割拠で、規模も小さいですし。

 つらくなるのは、私が広告人だからだろうな、と思います。経済評論家とか、株のアナリストなら、もう少し客観的で冴えた考察ができそうですが、やっぱり広告人だから、なんか複雑。まあ、儲けりゃいいてもんでもないけれど、儲けないと明日はないからなあ。

 結論、過渡期。なんてことにはさすがにいかないので、とりあえず今日はここまでにしておきます。そのうち、何か希望みたいなものが思いつくかもしれません。思いつくといいなあ。きっと思いつくよね。さ、仕事仕事。続きは、少し先になるかもしれません。すびばせんねえ。(これ、最近よく聴いている桂枝雀さんの決めセリフ。エントリと関係ないですが、枝雀さん、いいですよ。一度聴いてみてくださいませ。おすすめです。ではでは。)

関連:広告代理店って何を代理しているのだろう(1)(2)(3)

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2008年8月 5日 (火)

Agree or not agree.

 私は外資系企業の文化の中で、これがいちばん好き。だって、わかりやすいから。合意したことがいちばん上位にあって、合意したかぎりは、じつは本音は合意してないんだよね、というのはなし。そんなこと後から言うのなら、なぜあのとき反論しなかったの、という文化。

 ミーティングは、ひとつの合意をつくるために存在して、みんなどんな合意をつくろうかと論議します。そこに上も下もなくて、みんな等価。でも、よくここで間違えるのは、その等価っていうのは、スキルとか責任とかが考慮された等価ってこと。優れたアイデアも、凡庸なアイデアもみな等価ってわけじゃないし、スキルの低い人は置いてけぼりだし、責任の少ない人の言葉は軽くなる。ミーティングはブレストじゃないから。

 だから、たとえ上司だろうと、違うと思ったら反論するし、対案を出す。どうしても自分の考えを説得できないときは、自分が合意できる妥協線をさがす。こういうことなら私は合意できるという新しい考えをさがす。英語で言えば、I think I agree.(まあ、それならいいんじゃないかな)という感じ。

 でも、一度合意したら、あとはその合意された目的に向かって全力で挑む。よけいなことは考えない。ひたすら目的が達成できるやり方を考える。それが嫌なら、合意しなければいい。合意する、つまり、agreeっていう言葉は、かなり重い。上司といえども、ちゃぶ台返しは御法度です。

 まあ、現実はそうきれいにはいかないし、ちゃぶ台返しもままあるし、成功したら俺の手柄で、失敗したら、あのとき俺は違うと思っていたなんてこともあります。でも、建前としてのAgree or not agree.という外資系の企業文化は性に合います。なんか陰気な感じが苦手です。

 それに、たぶん性格なんでしょうけど、陰気な政治ではいつも損する側に回ってしまって、孤立無援になったり、意地悪されるタイプなようで、なるだけそういう状況を本能的に避けてしまいがち。もっと、この文化が普通になればいいのに、と思います。

 外資系のこの文化(まあ建前でしょうが)を知らない上司と仕事をすると、はじめはすごく生意気に思われるみたいです。なんでもかんでも突っかかってくる、みたいな感じ。それに、上司であろうと、ねちっこく論理的に反論するし。で、agreeしたら、今度はどうしてこんなに従順なのかとびっくりするみたい。でも、こちらとしては、そういう決まり事でお仕事をしてるだけなんですね。

 私は、語弊はあるけど、たかが仕事と思ってます。たかが仕事だからこそ、仕事のあいだは日常生活のルールを持ち込むのやめましょうよ、仕事のルールでいきましょうよ、と思うんです。こういうのドライって言うんだろうけど、日常は日常でわければいいじゃない。仕事で人生をかけてもしょうがないじゃない。仕事は、プロのプライドをかけましょうよ。

 でもまあ、これって、やっぱり建前だよなあ。外資系企業は、上司の権限が強いし、本国では、上司のホームパーティーは絶対出席らしいし、not agreeの一言でクビになったって話もよく聞くし。考え方を変えると、私みたいな若造がnot agreeって言えるのは、日本のよさでもあるのかもしれないなあ、なんて。以上、外資系広告代理店10年超選手、mb101boldのつぶやきでした。

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2008年8月 4日 (月)

他人のブログはよく見える

 ここ、読みやすいですか。なんか気になるんですよね。私自身も、タイトル上の「TITLE:」と本文上の「CONTENTS:」はいらないな、とか思ってますけど、テンプレートを利用していますので消すわけにもいかず。基本的には、シンプルイズベストという考え方で、このテンプレートを選んだのですが、その部分は、まあ気に入っています。モノクロで色気がないところも、私にとってはいい感じ。

 他人のブログでいいなあ、と思うのは、極東ブログとか、内田樹の研究室みたいな、白を基調としたベースのシンプルなもの。ああ、読みやすいな、うらやましいな、と思います。私のは、黒に囲まれている分だけ、本文がちょっとだけ窮屈そうな感じがします。

 であれば、CSSをいじっていちから作ればいいのですが、私はベーシックプランだし、あまりそのへん知識がないので、どうしてもテンプレートを使ってしまいます。ココログが用意しているテンプレートは色や書体、行間などを自分で指定できるのですが、これを使うとどうしても、ああココログね、という感じから抜けられず、それにタイトル周りも単純なレイアウトになってしまうので、リッチテンプレートと呼ばれる出来合いのテンプレートを利用するようになってしまいます。

 以前よりPCディスプレーの表示範囲が増えて、Yahoo! Japanなんかも横幅が広くなりましたし、以前のPC環境にあわせてつくられているブログのテンプレートは横幅が狭く感じられるようにもなってきました。少し横幅が広めにつくられている3カラムのテンプレートは、本文の1行のストロークが短めで、好みで言えば、ちょっと採用しにくいなあ、という感じです。例えば、こんな感じです。

1

4

 上が現在のバージョンで、下が同じリッチテンプレートの3カラムバージョンです。本文の1行ストロークが短いですよね。で、Yahoo! Japanとかと同じ横幅で、3カラム、かつデザインがシンプルなものはないかな、ということでさがしてみると、ありました。

3

 白を基調にした涼しげな印象で、少し気に入ったりしましたので、昨日の夕方から夜にかけて、このテンプレートで公開していたのですが、なんか読み込みが遅くて、左右のパーツが目に入りすぎて、すこし本文が読みにくいなあ、と思い出し、結局もとにもどしてしまいました。本当は、デザイン変わりました、なんてエントリにしようと思っていたのですが、まあ、こんなブログでも1年もやれば愛着も出てくるし、デザインを変えるのは、なかなかむずかしいものですね。

 それにしても、どうして他人のブログはみんなよく見えるんでしょうね。で、自分がマネするとなんか違う。不思議なもんです。しばらくは、このままのデザインで書いていくことになりそうです。あらためて、どうぞ、よろしくです。

(ちなみに、プロフィールのページは上記テンプレートを使っています。このテンプレートでは、プロフィールだけはなぜか行間が0になり、読みにくいのです。)

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2008年8月 3日 (日)

問題は「後期高齢者医療制度」ではなくて

■イメージの戦いにしてはいけない

 自分の体験もあって、いろいろ医療制度について考えてきたけど、どうも釈然としないことがひとつ。後期高齢者医療制度のこと。この制度のあらましは、こう。

1)国民健康保険、被用者保険がこのままでは維持できない
2)主要因は高齢者の医療費増大(約33兆円のうち高齢者分が約11兆円)
3)だから高齢者の医療制度は独立させて別建ての制度にし、財政を健全化
4)医療費は5割公費、4割医療保険、1割後期高齢者(現役並み所得者は3割)
5)医療に頼っていた軽度の疾患・障害を介護保険制度に移行させる

 要するに、約3分の1の後期高齢者(75歳以上と65歳以上の高度障害者)を別建てにし財政を健全化させること自体に制度設計として問題はありません。ここでまたヒステリックな言葉狩りが出て来て、「後期高齢者」という言葉がバッシングを受けました。確かにデリカシーがない言葉ではありますが、高齢者を65歳以上とする認識のもとで75歳以上を後期と呼ぶことについては、さしたる問題があるようには思えません。

 話は少し逸れますが、障害者にしても、一部で「障がい者」と呼ぶ動きがありますが、害を、社会に害があるとの誤解を与えるからひらがなにするという発想が、よくわかりません。この場合、障害物競走の障害であって、視力障害、聴力障害など、本人にとって生活の障害になる疾患を持つ者という意味であることは自明であって、障害を障がいとすることは、障害者が生活で支障があるという厳しい現実を隠してしまいます。

 後期高齢者医療制度の通称を「長寿医療制度」としましたが、この手の固有のことやものを示す言葉について、後付けの思想を盛り込むべきではないと私は考えます。「長寿医療制度」や「コンビニ受診」、「姥捨て山制度」など、この医療制度の問題をイメージの戦いにしてはいけないと思います。

■診療報酬制度の問題

 いま問題になっている高齢者医療の問題は、後期高齢者医療制度とは別の制度からでてきています。診療報酬制度の改定です。後期高齢者が一般病棟に入院して90日を超えると、極端に医療報酬が減る(医療機関がつけられる保険点数が減る)というものです。これは、健康保険制度下の65歳以上の高齢者もほぼ同様の減点措置がとられています。

 これが私は高齢者医療の最大の問題だと思っています。要するに、「病院側が90日を超えて入院させても、患者側が90日以上入院しても、制度的にはまったく問題はありませんよ。でも、病院の経営は苦しくなるようにしましたから。赤字覚悟なら、別に入院をさせてもいいし、国は別に入院させるなって言いません。あとは病院がどうするかよく考えてね。」ということなんですね。医療費の抑制を、国は手を汚さずに、現場の医師にやらせようとしているんですね。

 すごいことを考えるものだな、と思います。かつての高齢者医療制度で、社会的入院(本来自宅ケアできる高齢者が気軽に入院すること。いやな言葉です。)でさんざん医療費を使われてきたことからくる大衆への悪意が、きっとその設計思想の根元にはあるんでしょうね。そうでなきゃ、こんな巧妙なやり方、思いつかないです。運用上不可能になるものは、堂々と国が禁止すればいいんです。

■どこに問題があるのか

 私の母は、現在も入院していますが、90日はあっという間でした。入院当初から3ヶ月が限度だと言われ、最後のほうの転院促進のプレッシャーは相当なものでした。でも、それもしかたがないな、とも思うんですね。病院側を責める気にはなりませんでした。

 問題なのは、後期高齢者医療制度にあるのではなく、90日ルールをはじめとする、後期高齢者医療費削減政策に付随する個別の運用制度にあります。

 例えば、90日ルールで言えば、転院すれば、また保険点数が戻るのならば、病院と患者にプレッシャーをかけるという目的以外には、その転院は本来必要がないはず。その次に待ち構える180日ルールにおいては、本来的意味では入院の長期化は、疾患の長期化であるはずで、それが社会的入院に悪用された過去はあったとしても、医療制度の設計思想としては、長期化によって、負担が劇的に増加したり、入院そのものが不可能になったりするその制度のありかたは、根本的な欠陥ではないか。

 私は、この問題が消費税導入時のような騒動に引き下げられて語られる感じが、どうも釈然としないのです。高齢者の負担増とか、負担減とか、確かにそこはわかりやすい部分ではありますし、反応もしやすいですが、問題の本質はそこではありません。仮に、後期高齢者医療制度を廃止しても、問題はまったく変わりません。

■大きな問題になる前に

 この問題を報道しているのが、私の知る限りNNNドキュメントと中日新聞(東京新聞)くらいで、多くは、低所得者ほど医療負担増の悪制度である、みたいなキャンペーンでした。なんだかなあ、いまだブルジョア対プロレタリアートみたいな構図で考えるんだなあ。その構図を批判する側も、旧来の構図を批判すればよしみたいな気楽さがあるし。騒いでいるけど、そんなに問題ないでしょ、みたいな。

 なんか愚痴っぽくなってしまいましたが、この問題は、ブログを通して、多くの医師のあいだでは切実な問題として理解されているのがわかったのが、なによりの救いです。ブログがなければ、なかなかこういう問題はわからなかった、ということを考えると、時代が複雑になってきたのでしょうね。とにかく、後期高齢者医療制度の騒動が終わっても、この問題は終わりません。大きな問題が続出する前に、なんとか解決できないものか、と思います。

■追記(8月4日):

 フジテレビの「サキヨミ」というニュースショーでも、後期高齢者医療制度の医療費年金天引きを問題にしていました。和歌山毒入りカレーの問題に隠れて、知らないあいだに成立したという文脈で語られていました。医療費天引きってわかりやすいし、問題ではないとは言わないけど、問題はそこじゃない気がします。

 天引きが駄目なら他の徴収方法を考えればいいだけだし、徴収自体が駄目だという話であれば、正解は高齢者の負担ゼロを選ぶしかなくなり、つまりは問題を見なかったことにしたいだけになってしまいます。財源は、どんな方法であろうと、どちらにしろ考えないといけないというのが私の立場です。

 ほんと、何度も言いたくなるけど、今、医療で問題になっているのは、そこじゃないです。例えば脳卒中の後遺症で長期入院が必要な高齢者が、90日を過ぎるとどこも受け入れなくなることや、受け入れるとしたら、病院側の良心、つまり無償のサービスに頼ることになります。当然、医療の訴訟も増えるでしょう。

 つまり、医療費削減の方法として、そういう医療機関と患者の代理戦争で解決する方法ををやめよ、ということです。

■追記2(8月4日):

 読売新聞より。後期高齢者の90日ルール(後期高齢者特定入院基本料)が見直しになる公算が高まってきました。後期高齢者医療制度とともに除外対象から外れた脳卒中、認知症について「退院に向けリハビリに努力している患者について、医師が退院の見込みがあるなどと判断した場合は、入院91日目以降もそれ以前と同額の診療報酬を医療機関に払うように運用を見直す」とのことです。とりあえず、朗報。一歩前進。

 後期高齢者、「入院90日超」の診療報酬見直し - YOMIURI ONLINE

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いつのまに…

Photo

 ノザキのニューコンビーフが、ニューコンミートに変わっています。ネットで調べてみると、昨年の6月かららしいですね。こういうときはウィキペディアということで、調べてみると、こんな記述が。

2005年6月に農林物資の規格化及び品質表示の適正化に関する法律(JAS法)が改正され、日本農林規格(JAS)における缶詰の表示を定めた「畜産物缶詰及び畜産物瓶詰品質表示基準」も改正された。これによってコンビーフの名称は牛肉100%の物のみに使用できることとなり、馬肉など他の肉が使われている物はコーンドミートと表記するように定められた。またコーンドミートの内、馬肉と牛肉が使われており、そのうちの牛肉重量が20%以上の物はニューコーンドミートもしくはニューコンミートと表記することが許可された。2006年3月の法律施行にあわせ、「ノザキのニューコンビーフ」は「ノザキのニューコンミート」と商品名が変更された。

コンビーフ - Wikipedia

 やっぱり値段が安いので、コンビーフではなく、馬肉入りのニューコンビーフじゃなくてニューコンミートのほうを買ってしまいます。というか、味の違いがあまりわかりません。このニューコンビーフとマヨネーズをまぜてパンではさむとおいしいですよね。野菜炒めもいい感じです。そのまま食べても、まあいけます。

 学生のとき、形が似てるから、焼いたらハンバーグみたいになるかなと思って焼いてみたら、やわらかくなって崩れてしまいました。カップヌードルに入れると、脂分と塩味がより加わって、ほんのちょっとリッチな気分になれました。ていうか、脂と塩のとりすぎです。ちなみに、シーチキンを入れるバージョンもなかなかいけます。学生さん、お試しあれ。

Photo_2 ちなみに、ノザキのコンビーフは変更なしです。当たり前ですね。なんとなく、コンビーフも買ってしまいました。こっちは、デザインが牛なんですね。 あまり気にしてませんでしたが、なんかあらためてへえな気分です。

 それにしても、どっちもいいデザインですね。タイポグラフィーも、手作り感があってよいですね。烏口で線を引いて、版下つくって色指定している、手間ひまかけた感覚がデザインにいきていて。特に、背景のグリーン。こんな深いグリーンは、なかなか今は見かけなくなりました。美しいですよね。こういうデザイン、もうできないかもしれませんね。

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2008年8月 2日 (土)

CMは勝手につくっちゃまずいよなあ。

 asahi.comに8月2日の深夜1時7分に配信されたこのニュース。

実在する佐賀県内の仏具会社のテレビCMを無断で作って長崎県内で放映させ、勤務していた広告会社にCM制作費など約115万円の損害を与えた疑い。「営業成績を伸ばして給料を多くもらいたかった」と容疑を認めているという。

企業CM、勝手に制作 元広告マン「成績上げたくて」 - asahi.com

 営業成績を上げるためにCMまで作っちゃうんだ、ってところがなんだか不可解な事件ですねえ。それに放映までしているし。放映したらすぐばれるのにね。それと、放映費、CM制作費を含めて、115万円って、いくらなんでも、ちょっと安すぎ。

 記事には「仏具会社との契約書類を偽造し、長崎市内のプロダクションに制作を発注。できあがったCMは15秒と30秒で3種類あり、祖母と孫役の4人が登場するという。民放で9回放映された。」とあるけど、いくら地方と言えども、4人出演で、3種類つくって115万って、どうなんでしょ。

 動機が「営業成績を伸ばして給料を多くもらいたかった」ということは、ノルマみたいなことがあったのか。それとも、出来高払いなのか。なんか不可解。まあどうでもいい事件だから、それ以上知りたいとも思いませんが。

 なんとなく感じるのは、本当は、広告賞に応募したかったんじゃないかな、みたいなこと。3種類ってところとか、制作費が格安なところとか、わざわざ放映の実績をつくっているところとか。某広告賞でも、自主制作とか、自主制作に限りなく近いものでの出品が問題になっていたし、わりと当たり前にその手のことは行われているから、気分としては、それもあり得るかな。

 でもまあ、仮にそうだとすると、クライアントや会社に無断というのは最悪だったですね。血迷ったのかな。私は、賞とり原稿とかそういう感じ、あまり好きではないので、クライアントや会社に許可でも、なんとなくやだけどね。賞は、きちんと、まっとうな仕事でとりましょうね。

 このニュース、きちんとオチがあって。それは、こんなの。

CMを作られた仏具会社は署員に対し「知らなかったので驚いた。売り上げは上向かなかった」と話したという。

 あはは。売り上げ上がりませんでしたか。すみません、ってなんで私が謝ってるのかわからないけど、そんな気分。いい広告をきちんとつくって、メディアプランをきちんとすれば、売り上げは上がるんですよ。本当です。本当なんです。本当なんですってば。

 てなことで、みなさまよい休日を。

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