筋とか仁義とか
仁義なき戦いじゃないけれど、すべては、筋とか仁義とかなんじゃないか。そんなことを考えた。合っているか間違っているかはわからないけれど。
気になったので、吉本隆明さんのかつての論争を読み直してみると、みごとに吉本さん、筋が通らないことを怒っている。大切な人に対して仁義を通そうと、必死になっている。それを下品だという人もいるみたいだけど。福田和也さんが、左翼のあの下品さが嫌なんだと言っていた。左翼、右翼というのはわからないけど、あの吉本さんの下品さからは、そんな筋とか仁義を守ろうとする凄みは感じる。
確かに罵倒はあるけど、そこには嘲笑はない。私は、吉本さんのそんな風情を、まるで高倉健さんのようだ、なんてことは言わない。そんなに美しいものでもないし。だけど、なぜあそこまで反論し、論駁しようとするのかは、なんとなく分かる気がする。
吉本さんの概念では、対幻想がいまいち分からなかった。国家を代表とする共同幻想と、性的な対人関係を代表とする対幻想は逆立する、と。そういうことなら、国家は十分すぎるほど対幻想的ではないか。性的な陶酔や恋着は、国家と個人の間にもあり得るし、それは時として恋愛に似ている。それに、時代状況に違いはあるにしても、国家という共同幻想は、対幻想という領域にいつも逆立し、牙を剥いているわけではない。
あえて言うなら、吉本さんが言いたかった対幻想とは、筋や仁義が支配する幻想領域のことなのかもしれない。たとえば、家族や恋人が侮辱されたとき、私は、その人を、法に背いても殴り倒すだろう。それは法が裁いたとしても、関係がない気がする。
であるならば、共同幻想は、対幻想の領域が共同化することで、逆立して成立したものと言えるかもしれない。つまり、国家という共同幻想は、逆立した対幻想という幻想領域を基盤とした、自己矛盾的な存在なのかもしれない。法が、暴力に理由を問うていることに、もしかするとその証があるのかもしれない。
世の中をうまく渡ろうと、薄ら笑い私の中で、もうひとりの私が奥歯を噛み締めながら、声にならない声で叫んでいる。優劣を問う前に、筋を問え、仁義を問え。
| 固定リンク
「吉本隆明」カテゴリの記事
- 「大衆の原像」をどこに置くか(2010.06.10)
- 過去は地続きで現在でもある(2009.10.23)
- なう(2009.09.05)
- アイデンティティって、何?(2009.09.03)
- 人生は案外無口だ。(2009.06.08)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
実は、吉本隆明、一冊も読んだことがないんですよ、たぶん。ばななはけっこう読んでるんだけど。
最初に一冊読むなら何がいいですか?図書館で借ります。
投稿: denkihanabi | 2008年8月24日 (日) 01:56
うーん、難し質問です。
とりあえず、本屋さんで雑誌「現代思想」吉本隆明特集号立ち読みでしょうか。ばななさんがお好きでしたら、ロッキング・オンから出ている「吉本隆明×吉本ばなな」という本があります。
でも、きちんとした著作では「マス・イメージ論」がおすすめでしょうか。出版されたのは80年代ですが、今でも読める、というか今、この本は再評価されてもいいかも、と思ってます。
で、一般的に言われる吉本さんの代表作は「共同幻想論」。でも、けっこう難解。
とりあえずは、このブログの後の方の検索窓で「吉本隆明」でブログ内検索してみてはいかがでしょうか。吉本さんについてはいろいろ書いてますです。
そんな感じですかねえ。
投稿: mb101bold | 2008年8月24日 (日) 03:14
「僕は、対幻想はわからない」といったのは、広松渉じゃなかったか(うろおぼえ)
とおもうのですが定かではないです。
対幻想論というのは、共同幻想と「対」になっているものではないです。
共同幻想論の核心は「自意識の欠落の補完を、個人(国家や集団ではない)に対して熱望する」ことであると私は理解しています。
なので、女性かあるいはゲイの男性は、この概念を体感として理解できるのではないか、とおもいます。
投稿: 匿名希望さん | 2008年8月26日 (火) 16:26
すみません、訂正です
「僕は、対幻想はわからない」といったのは、広松渉じゃなかったか(うろおぼえ)
とおもうのですが定かではないです。
対幻想論というのは、共同幻想と「対」になっているものではないです。
対幻想論の核心は「自意識の欠落の補完を、個人(国家や集団ではない)に対して熱望する」ことであると私は理解しています。
なので、女性かあるいはゲイの男性は、この概念を体感として理解できるのではないかと。
投稿: 匿名希望さん | 2008年8月26日 (火) 16:27
匿名希望さん、こんばんわ。
ええ。確かに対になっているのではなく、個人と個人の対の意味ですね。ただ、吉本さん曰く、共同幻想は対幻想と逆立する、と。廣松さんの共同主観性は、私もうる覚えですが、そこに個人と個人の(家族のような、恋人関係のような)共同主観性の領域は含まれていなくて、それは岸田さんの共同幻想に近いものだったような気がします。
>対幻想論の核心は「自意識の欠落の補完を、個人(国家や集団ではない)に対して熱望する」ことであると私は理解しています。
うん。対幻想論が投げかけた課題はそのような気もします。とあるブログの言葉を借りると、「汝、正義を語る前に女を抱け」みたいな。ただ、私の疑問は、そうであるとすると、もし国家と個人という区別をしないとすれば、その情熱みたいなのは国家=共同幻想も同様の感じがあるのではないかと。
その対幻想論が投げかける課題を体感できるのが女性かゲイの男性、というのは確かにそうかもしれません。男性と言うのは、共同幻想的な規範を社会に担わせられてきたから。
で、そうであるとすれば、時折見せる国家の熱狂みたいなもののコアは、じつは対幻想的であるのではないかというのが私の疑問なのです。そして、この熱狂のようなものを共同幻想と呼ぶとすると、それはきわめて対幻想的ではないかということなんですね。
でも、このへんは、フーコーの言っているようなことに絡んでくるのかな。うーん、どうなんでしょう。そんな感じの疑問です。
コメントどうもありがとうございます。なんか、この疑問への反応がはじめてあって、すごくうれしいです。
投稿: mb101bold | 2008年8月27日 (水) 00:57
「汝、正義を語る前に女を抱け」
これはすごくわかりやすいです
もうひとつ、私が今になってようやくわかってきた点は
「国家とはいったい何のためにあるのか」
という非常に根本的な疑問を吉本は問いかけていたのではないかな、と。
ドイツ・日本(イタリアなんかも)偶然なのか旧枢軸国の
「国家」の概念は、「個人は国家のためにある」
という「まず国家ありき」という考え方がベースになっているような気がします。
これに対してアメリカ型の国家概念というのは、
「個人があってこその国家」言い方をかえると
「国家とは個人のためのものである」
という完全に逆転した形になっているとおもうのです。
で、ある広告人さんの指摘で、はっとおもったのが、
日本・ドイツ型の国家理念のベースは
「国家 vs 個人」
という「国家に恋する」対幻想を成立させてしまう、と。
これは、ある意味非常に危険で、「国家よ、私を救え」に直結するんですよね。
もう少し具体的に言いますと、今問題になっているネット右翼とかワープアの人たちは
自我の補完装置として「右翼」(カッコつき)へ走り、
その意味で、国に対してミもフタもなく「俺を救え」と言っている気がします。
これが何故危険かというと、これが実現してしまった場合、
「社会」(国家ではない)が、崩壊します。
対幻想は「私とあなた」という、社会を構成するための対、
もっと平たく言えば、生殖につながる家族を作り上げるために、
ある意味、欠かせない幻想だ、と私は理解しています。
コレがあるからこそ、人は恋に落ち子どもを生み、家族を作り、
それが社会につながっていくと。
私がいちばん大切、あなたは同じくらい大切、子どもは自分より大切
それが家族なのであって、
極私的な「俺がいちばん大切」という本能的な感覚が、国家へ直結し始めている
という今の状況は、私は結果的に、国を滅ぼす、と考えています。
投稿: 匿名希望さん | 2008年8月27日 (水) 05:41
ちょっと補足です。
>「汝、正義を語る前に女を抱け」
というのは、当時、共同幻想論が出版されたとき、吉本さんの論旨とは離れ、当時の学生さんからそう読まれたということで、対幻想論はそう読まれる課題が含まれていたということなんです。
なので、対幻想自体には、国家に対する個人の倫理的な態度はじつは含まれないのですね。
ただ、コメントに書かれている国家に対する心情というのは、多かれ少なかれ普遍的なもののような気がしていて、それは収入とかの下部構造が規定するものという気がします。であれば、社会システムの問題なのでしょうね。
でも、それは国家が対幻想的なものをベースにしていて、逆立的に共同幻想として成立したものなのではという感じが私にはあるということですね。でも、これは私に錯誤があるのかもしれません。もう一度読み直そうと思っています。
ちなみに、吉本さんは遠い将来、国家は自由と平等(理念としての)を保証し解体へ向かうのが歴史的必然だ、というふうに思っているようです。
投稿: mb101bold | 2008年8月27日 (水) 10:47