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2008年8月11日 (月)

なぜ理屈っぽい広告は嫌われてしまうのか。

 長年、外資系広告会社で仕事をしていると、外資系広告会社や外資系広告主が陥りがちな罠もよく見えてきます。外資系(とそれに親和性を持つ日系企業)は、概ねデータ、調査、戦略が好き。要するに理屈っぽいんですね。いい言葉にすれば、論理的とも言えますが、その論理的思考にはひとつのパターンがあって、今回は、新幹線移動中につき、時間がたっぷりあるので、そんな理屈っぽい広告が陥りやすい思考パターンについて「論理的」にねちねちと考えてみたいと思います。

■それは文学少年の初恋における思考パターンと同じ

 子どものときから恋愛小説をよく読んでいて、頭の中では恋愛のいろはをすべて理解している少年がいるとします。その少年が、生まれてはじめてひとりの女性を好きになりました。彼は、考えます。どうしたらうまくいくのか。自分のいいところをアピールしようとします。僕は読書が大好きで、ピアノが上手とか。彼は、自分が他の男性とどのように違って、その女性にふさわしい男性であるかをアピールしていきます。

 ちょっとお近づきになれて、デートをしたりします。でも、毎日のことなので、その女性がご機嫌斜めのときもあります。他の男性に目移りすることだってあるかもしれません。そんなとき、彼は、これまで読んできた世界の恋愛小説の知識を総動員して、あの手この手を使って、自分にとって不都合な彼女の行動や思考を封じていこうとします。

 で、どうなるか。その女性は、少年をふるでしょう。当たり前ですよね。うざいですもの。でも、これ、データ大好き、調査大好き外資系の陥りがちな負けパターンと同じです。要は、すべての行動原理が「説得」なんです。目的を「説得」に置く限り、デートのおしゃべりはすべて「説明」になります。原宿でお手てつないで「説明」なんて、いやですものね。少年の名誉のために言っておきますが、少年が魅力がないのではないんです。その魅力の出し方が、下手くそだっただけなんです。

■うざいからふる。そんな行動を「知的嫌悪」と言います。

 消費者が持っている必殺技。それは、「無視」です。論理的には正しくても、それが「説得」というかたちをとっている限り、やっぱり人間はあまり人から説得なんかされたくない生き物ですから、そんな広告は無視ということになるのですね。日本で比較広告が根付かないのは、いろいろな要因があるかとは思いますが、ひとつは、そんな「説得」の極致である比較という方法論を「品がない」と感じてしまうからだと思います。

 比較広告の是非についてはまた別の機会にしますが、消費者は、説得を聞いたうえで、知的にはその製品の優位性を理解したけれど、その優位性があるという結論とその結論が導き出された方法そのものを「嫌悪」し、受け入れないという行動をとることがあります。それを「知的嫌悪」と呼んでいます。

 この知的嫌悪、かつてはよく言われていたのですが、Googleを調べるとあまり出てこないですね。私がこの言葉を知ったのも、15年くらい前なので、今はあまり流行らないのかもしれません。洗剤のマーケティングまわりで、CMでデモンストレーションを展開していた「全温度チアー」という製品が、なぜ製品優位性がありながら日本で根付かなかったのか、というトピックでしきりに語られていました。

 この「全温度チアー」という製品のCMは、マジシャンがカクテルシェーカーに氷とインクのついたハンカチを入れてシェイクしてきれいになるというデモをやっていました。それなりに楽しいつくりでしたが、好感度は低かったんです。その低さを心理学的に定義したのが、この「知的嫌悪」だったように覚えています。

■ウェブマーケティング時代の「知的嫌悪」

 行動ターゲティングとか、リスティングとか、生活者の消費行動や嗜好をセグメントして情報が届けられるようになってきました。広告を出す側にとっては、都合のよい世の中になってきたとも言えますが、消費者にとってみれば、これは、自分の趣味や嗜好からの自由な行動により、より「説得」の雨嵐を受ける世の中になってきたとも言えると思います。

 それに、説得型広告だけでなく、広告というシステム自体が見破られている時代でもあり、一頃のブランデッド・エンターテイメント手法(様々なコンテンツの中に広告を折り込む手法)など、広告が効かない世の中を前提として、巧妙な手法が開発されてきています。

 いま、この行動ターゲティングやブランデッド・エンターテイメントがわりと無邪気に語られていることが多いですが、この方向で進むと、きっと消費者の「知的嫌悪」を呼び込んでしまうだろうなと感じています。ホリスティックソリューションやクロスメディア戦略なんかでも、消費者の日常行動にそって、広告が待ち構えるという仕組みですし、これまで表現手法だったものが、3次元的にメディアにも援用されただけとも言えます。

 そんなこんなで、私、ちょっとそういう最新の広告手法に食傷気味なんです。オールドタイプと言えばそれまでですが、どちらかと言えば、こんな時代でも愛され受け入れられる広告というかマーケティング活動というのは何だろうな、ということに関心が移ってきています。できれば長い間、ずっとずっと愛される広告というのを作りたいな、と思っています。愛されるために、ホリスティックに、あえて手を出さないメディアを考えるとか。それはなかなか難しいけれど、愛される、みたいなこと、今の時代、すごく大切なことになってきているのではないかなと思うのですが、どうでしょう。

あとがき

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